鹿児島城築城(1601)
慶長6年、関ヶ原で敗れた島津家は鹿児島城を築城。武備恭順の外交で本領安堵を勝ち取り、天守なき城は外城制の中枢として機能。父子の築城観対立を乗り越え、薩摩独自の統治体制を確立し、幕末の原動力となった。
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鹿児島城築城(1601年):関ヶ原の敗戦から薩摩藩統治体制の確立へ至る軌跡
序章:慶長の黎明、存亡を賭した礎
慶長6年(1601年)、薩摩国にその礎が置かれた鹿児島城の築城は、単なる一介の居城建設事業として歴史に刻まれているわけではない。それは、前年に勃発した天下分け目の関ヶ原の戦いにおいて西軍に与し、敗北という存亡の危機に瀕した島津家が、その存続と再生の全てを賭けて打った一大事業であった。この築城は、徳川家康という新時代の覇者に対し、恭順の意を示しつつも、薩摩隼人の気概と独自の統治体制を堅持するという、島津家の高度にして二律背反的な政治戦略の物理的発露に他ならない。本報告書は、この鹿児島城築城という事象を、関ヶ原の劫火の中から立ち上がる島津家の壮絶な撤退戦に始まり、徳川幕府との息詰まる外交戦、そして「人をもって城と成す」という独自の思想に貫かれた統治システム「外城制」の確立へと至る、壮大な歴史的物語として解き明かすものである。
第一章:関ヶ原の劫火と「島津の退き口」— 築城の血塗られた序曲
鹿児島城築城の歴史的意義を理解するためには、まずその直接的な引き金となった、島津家が直面した絶体絶命の状況から説き起こさねばならない。それは、関ヶ原の戦場における、血塗られた序曲であった。
慶長5年(1600年)9月15日午後:戦場での孤立
慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の地で東西両軍が激突した。しかし、小早川秀秋の裏切りを契機として、西軍は瞬く間に総崩れとなる 1 。巳の刻(午前10時頃)に開戦してから、わずか半日で勝敗は決してしまった 3 。この混乱の中、石田三成隊の後方に布陣していた島津義弘率いる約1,500の兵は、戦場の中央に孤立無援の状態で取り残されることとなった 2 。戦況を静観し、三成からの再三の援軍要請にも応じなかった(あるいは応じられなかった)島津隊は 4 、友軍が敗走していく中で、退路を完全に東軍に遮断されていた。
死の覚悟と生への転換
四面楚歌の状況下で、老将・島津義弘は死を覚悟した。徳川家康の本陣に決死の突撃を敢行し、将として潔く討ち死にしようとしたのである 1 。しかし、この壮絶な覚悟を翻させたのは、甥の島津豊久であった。「生きて薩摩へ帰り着くことこそが、島津家の未来にとって肝要である」との進言は、義弘に個人の武勇よりも組織の存続という大局を優先させる決断を促した 1 。この極限状況における冷静な戦略的判断こそが、後に語り継がれる伝説の始まりであった。
前代未聞の「敵中突破」
帰国を決断したものの、後方の伊吹山地方面への退路は、敗走する味方と追撃する敵で混乱を極めていた。ここで義弘は、常人には思いもよらない決断を下す。家臣に「敵は何方(いずかた)が猛勢か」と問い、家臣が「東よりの敵が以(もっ)ての外の猛勢でござる」と答えるや、「では、その猛勢の中へ掛かり入れよ」と命じたのである 3 。後方へ逃げるのではなく、前方の、しかも敵軍の中核である徳川家康の本陣が構える方向へと、正面から突き進むという前代未聞の撤退戦、世に言う「島津の退き口」の敢行であった 1 。
壮絶なる「捨て奸(すてがまり)」戦術
島津隊が前進を開始すると、徳川軍の精鋭が猛然と追撃してきた。中でも井伊直政と松平忠吉の部隊は執拗であった 1 。これに対し、島津軍は「捨て奸(すてがまり)」または「座禅陣」と呼ばれる、他に類を見ない壮絶な戦術で応戦する 1 。これは、本隊を逃がすため、殿(しんがり)部隊が数十人単位でその場に留まり、追撃してくる敵部隊を文字通り死ぬまで足止めするという、命を捨て駒とする非情の戦法であった 7 。
まず、撤退の先鋒から殿へと転じた島津豊久が、烏頭坂(うとうざか)で追撃軍を迎え撃った 1 。奮戦の末、豊久は深手を負い、この地で討死、あるいは自刃したと伝えられる。享年30であった 8 。次に、義弘の家老であった長寿院盛淳が殿を務めた。盛淳は義弘から下賜された陣羽織を身にまとい、主君の影武者となって敵を引きつけ、従士18名と共に壮絶な討死を遂げた 1 。主君が十分に遠のいたことを知った盛淳は、「めでたい」と喜んで敵陣に突入したという 7 。
この捨て奸による決死の抵抗は、追撃の将にも甚大な被害を与えた。井伊直政は、勝地峠付近で柏木源藤に狙撃されて落馬、負傷する 1 。この時の鉄砲傷が、一年半後に彼の命を奪う遠因となった 8 。また、家康の四男・松平忠吉もこの追撃戦で負傷している 1 。
薩摩への十九日間の苦難の道
幾多の犠牲の末に追撃を振り切った義弘の本隊は、伊勢街道を南下し、同じく敗走中であった長宗我部盛親や長束正家の部隊と遭遇する 1 。交渉の末、島津隊が先行することとなり、養老山地を駒野峠、五僧峠と越えて近江国へと抜けた。この五僧峠は、後に「島津越え」と呼ばれるようになる 1 。その後、大坂を経由し、摂津住吉で待っていた妻を救出した後、海路にて故郷薩摩を目指した 11 。
慶長5年10月3日、義弘は兄・島津義久が待つ大隅国富隈城に到着した 3 。関ヶ原を出立してから19日間に及ぶ、長く苦難に満ちた撤退行であった。当初1,500名を数えた兵は、薩摩の地を再び踏むことができたのは、わずか数十名であったと伝えられている 11 。
この「島津の退き口」は、単なる軍事的成功譚ではない。それは、徳川方に対し、「島津を武力で制圧しようとすれば、これほどの抵抗に遭い、計り知れない損害を覚悟せねばならない」という強烈なメッセージを叩きつける、高度な政治的・心理的デモンストレーションであった。徳川四天王の筆頭格である井伊直政を事実上討ち取ったことは、その象徴的な出来事と言える。関ヶ原での「戦術的敗北」と引き換えに、後の「戦略的勝利」の布石を打ったこの軍事行動こそ、後の戦後交渉において島津家が強気の姿勢を貫くための、最大の外交カードとなったのである。
第二章:武備恭順という名の外交戦— 本領安堵への二年間の神経戦
関ヶ原の戦場を生き延びた島津家であったが、西軍に与した「敗軍の将」として、次なる存亡の危機に直面した。それは、徳川家康による戦後処理という、武力によらない、しかしより苛烈な外交戦であった。
交渉体制の確立:三殿体制の妙
薩摩に帰還した島津義弘は、敗戦の責任を取る形で桜島に蟄居(謹慎)した 5 。これは、直接の当事者である義弘を表舞台から隠すことで、徳川方の面子を保たせ、交渉のテーブルに着かせるための巧みな演出であった。
実際の対徳川交渉の矢面に立ったのは、島津家当主である兄・島津義久と、義弘の嫡男であり次期当主の島津忠恒(後の家久)であった 12 。一方の徳川方では、井伊直政や本多正信といった家康の腹心が交渉窓口となった 11 。こうして、義久、義弘、忠恒による「三殿体制」が、この未曾有の国難に当たることとなったのである 5 。
「武備恭順」戦略の展開
徳川方は、義久に対し、謝罪と恭順の意を示すための上洛を再三にわたり要求した。しかし、義久はこれを断固として拒絶し続けた 12 。その背景には、先んじて上洛した西軍の将・長宗我部盛親が、恭順の意を示したにもかかわらず改易(領地没収)されたという冷徹な事実があった 12 。安易な譲歩が身の破滅に繋がることを、島津家は深く理解していた。
その一方で、島津家は領国経営の手を緩めることなく、国境の守りを固め、領内全域に臨戦態勢を敷いた 2 。これが、後に薩摩藩の基本姿勢となる「武備恭順」—言葉の上では恭順の意を示しつつも、軍事的には一歩も引かず、いつでも一戦交える覚悟があることを示す—という、恫喝と懐柔を織り交ぜた高度な外交戦略であった 12 。
二年間の駆け引きと家康の決断
交渉は慶長5年(1600年)末から慶長7年(1602年)に至るまで、約二年間もの間、一進一退の膠着状態に陥った 14 。家康は一度は島津討伐軍の派遣を具体的に検討したとされるが、最終的には武力行使を断念する 12 。その決断の裏には、関ヶ原で見せつけられた島津軍の常軌を逸した戦闘力と、九州の果てまで大軍を派遣する logistical な困難さ、そして天下統一後の国内平定を急ぐ中で、これ以上の大規模な戦役を避けたいという政治的判断があった。
さらに島津側は、日明貿易や琉球貿易における自らの地政学的な重要性を交渉材料として活用し、経済的な価値も暗に示したと考えられる 12 。軍事力だけでなく、経済的な実利もまた、島津家が持つ強力なカードであった。
本領安堵の獲得
慶長7年(1602年)、遂に家康が折れ、島津家の本領(薩摩・大隅・日向の一部)を安堵する旨の誓約を義久に送った 11 。西軍の主要大名が軒並み改易・減封される中、所領を一切削られることなく現状維持を勝ち取ったのである 7 。これは、まさに異例中の異例の処置であった。
この報を受け、忠恒が島津家を代表して上洛し、伏見城で家康に謁見。ここに、二年間にわたる神経戦は、島津家の完全勝利という形で幕を閉じた 16 。この交渉の成功は、単なる粘り強さの賜物ではない。それは、関ヶ原で見せつけた「武備」、当主が上洛しないという「外交的矜持」、義弘の蟄居という「形式的謝罪」、そして貿易上の「経済的価値」という複数の要素を巧みに組み合わせた、複合的な国家戦略の勝利であった。この成功体験は、中央の権威を認めつつも容易には屈しないという、その後の薩摩藩の半独立的な気風を決定づけ、幕末に至る特異な行動力の源泉となったのである。
第三章:新しき館、父子の葛藤— 築城地選定の裏側
本領安堵という最大の難関を乗り越えた島津家は、次なる課題に直面した。それは、徳川の治世という新しい時代にふさわしい、新たな本拠地の建設である。しかし、その場所を巡り、家中の、特に当主となった忠恒と、父である歴戦の将・義弘との間で、深刻な路線対立が生じることとなる。
新時代の政庁の必要性
それまでの島津家の本拠であった鹿児島市内の「内城」は、防御施設としては手薄な「館」であり、有事の際には背後の東福寺城を詰めの城として頼るという、中世以来の旧態依然としたものであった 18 。徳川体制下で藩として再出発するにあたり、政庁機能と当主の権威を象徴する新たな拠点の建設は、喫緊の課題であった。
第一候補地:瓜生野城(建昌城)
島津忠恒が最初に候補地として考えたのは、大隅国帖佐にある瓜生野城(建昌城)であった 18 。この城は、天然の要害に築かれた堅城であることに加え、島津家の所領である薩摩・大隅・日向三国のほぼ中央に位置しており、領国経営の拠点として地理的にも絶好の場所であった 18 。
父・義弘の反対:戦国武将の視点
しかし、父・義弘はこの案に強く反対した。表向きの理由は「堅城だが水利が良くない」「大規模な工事は領民に多大な負担を強いる」というものであった 18 。だが、その真意は、生涯を戦場で生きてきた戦国武将としての城郭観にあった。義弘にとって、城とは何よりもまず「戦うための拠点(要塞)」であり、防御能力こそが最優先されるべきであった。
第二候補地:上之山城(城山)と鹿児島湾岸
次に忠恒が計画したのは、内城の背後に聳える上之山城(現在の城山)を改修し、その麓の鹿児島湾に面した地に新たな館を築くという案であった 18 。
これに対しても、義弘は再び反対の声を上げる。その理由は「海に近すぎるため、防御に著しく難がある」という、極めて実践的なものであった 18 。万が一、徳川が海上から大軍を送り込んできた場合、艦砲射撃の格好の的となり、城はひとたまりもない。これは、義弘の現実的な軍事的懸念であった。そして皮肉なことに、この義弘の危惧は、約260年後の文久3年(1863年)、薩英戦争においてイギリス海軍の軍艦から放たれた砲弾が鹿児島城の奥御殿に着弾するという形で、寸分違わず現実のものとなるのである 19 。
忠恒の決断:新時代の大名の視点
度重なる父の反対にもかかわらず、忠恒は鹿児島湾岸への築城を強行した 18 。これは単なる父への反抗ではない。二人の「城」に対する思想の、根本的な相違の表れであった。この父子の対立は、「戦うための城」を絶対視する戦国武将・義弘と、「治めるための城(政庁)」を重視する近世大名・忠恒との間の、世代交代に伴う統治パラダイムの転換を象徴していた。義弘の視線が過去(戦国)の記憶に向けられていたのに対し、忠恒の視線は未来(江戸)の展望に向けられていたのである。
忠恒が海に近い場所を選んだのは、防御上の不利を承知の上で、海運や交易による経済的発展を視野に入れていたからに他ならない。琉球や明との貿易が、生産性の低い火山灰土壌の薩摩藩にとって生命線となることを見越せば、港に近い政庁は極めて合理的な選択であった。忠恒は、徳川の治世下では直接的な軍事衝突のリスクよりも、経済力こそが藩の存続と発展の鍵を握ると見抜いていた。鹿児島城の立地は、薩摩藩が軍事国家であると同時に、海洋交易国家としての側面を強化していくという、未来への明確な意思表示だったのである。
第四章:鹿児島城、築城の軌跡— 恭順と実利の建築
父・義弘との路線対立を乗り越え、島津忠恒(後の家久)の主導のもと、新時代の薩摩藩の拠点となる鹿児島城の築城が開始された。その建築過程と構造には、徳川幕府への恭順の意と、領国経営における実利を両立させようとする、島津家のしたたかな戦略が色濃く反映されている。
築城の開始と進行
築城工事は、慶長6年(1601年)頃に開始されたと見られている 20 。縄張り(設計)は、背後に控える城山(旧上山城)との連携を大前提として行われた 23 。工事は迅速に進められ、慶長9年(1604年)には主要部分が完成し、忠恒は慶長11年(1606年)にそれまでの内城から正式に移徙(いし)した 19 。奇しくもこの年、忠恒は家康から偏諱(「家」の字)を賜り、「家久」と改名している 17 。これは、新城への移転が、名実ともに徳川体制下の近世大名・島津家久の誕生を象徴する出来事であったことを示している。
構造的特徴①:天守なき「屋形造り」
鹿児島城の最大の特徴は、公称77万石という大大名の居城でありながら、権威の象徴である天守閣を最後まで築かなかったことである 21 。城の中心は、政庁機能と藩主の居住空間を兼ね備えた、比較的簡素な「屋形(やかた)」であった 21 。これは、徳川幕府に対して謀反の意図がないことを示す、明確な恭順の意思表示であった 18 。関ヶ原の戦後処理において異例の厚遇を受けた島津家として、これ以上幕府を刺激するような威圧的な城郭を築くことは、政治的に賢明ではなかった。
構造的特徴②:城山を「詰めの城」とする思想
麓の館(本丸・二の丸)は、防御施設としては比較的単純な構造であったが、その背後には標高107mの天然の要害・城山が控えていた 22 。有事の際には、この城山が籠城のための「後詰めの城」として機能するよう設計されていたのである 22 。つまり、鹿児島城は麓の館と背後の山城が一体となった、巧みな平山城であった。麓の館はあくまで平時の政庁であり、真の防御拠点はこの城山にこそあった。
その他の特徴
城郭は本丸と二の丸から構成され、その三方は堅固な石垣と水堀によって囲まれていた 21 。本丸の北東隅の石垣には、鬼門(不吉とされる方角)を避けるための「隅欠(すみおとし)」と呼ばれる特徴的な加工が見られる 21 。また、近年、往時の姿に木造復元された大手門「御楼門」は、高さ約20mを誇る日本最大級の城門であり、天守なき鹿児島城の事実上の象徴となっている 25 。そして、現存する石垣には、幕末の西南戦争の際に政府軍の攻撃によって穿たれた無数の弾痕が生々しく残されており、この地が後の歴史の激戦地となったことを雄弁に物語っている 21 。
鹿児島城 主要年表
年代(西暦) |
元号 |
主な出来事 |
典拠 |
1601年頃 |
慶長6年 |
島津忠恒(家久)により築城開始 |
20 |
1604年 |
慶長9年 |
主要部が完成 |
19 |
1606年 |
慶長11年 |
島津家久、内城から鹿児島城へ移徙 |
19 |
1612年 |
慶長17年 |
御楼門の柱立が行われる |
20 |
1696年 |
元禄9年 |
城下の大火が延焼し、本丸焼失 |
20 |
1707年 |
宝永4年 |
本丸の再建工事が完了 |
20 |
1863年 |
文久3年 |
薩英戦争で被弾。本丸大奥や御楼門が損傷 |
20 |
1873年 |
明治6年 |
火災により本丸が焼失 |
23 |
1877年 |
明治10年 |
西南戦争により二の丸も炎上 |
21 |
2020年 |
令和2年 |
御楼門が木造で復元される |
25 |
鹿児島城の構造は、対外的(幕府向け)な「恭順」のメッセージと、対内的(領内向け)な「実利」のメッセージという、二重の意図を内包していた。天守を築かないことで幕府への従順さを示しつつ、政庁機能に特化した効率的な館と、いざという時のための詰めの城を確保することで、領国支配の実利は全く損なわない。この城の構造は、薩摩藩の根本思想である「城をもって守りと成さず、人をもって城と成す」 21 を完璧に体現している。物理的な城郭の堅固さに頼るのではなく、領民とそれを統率するシステムこそが真の防御力であるという思想である。鹿児島城は、その思想を具現化するための「司令塔」に過ぎず、豪華絢爛である必要はなかった。この思想こそが、次章で詳述する薩摩藩独自の統治システム「外城制」の根幹をなすものであり、鹿児島城の建築様式は、この巨大なシステムの一部として捉えて初めて、その真の意味を理解することができるのである。
第五章:「人をもって城と成す」—外城制の中枢
鹿児島城は、単独で完結した城郭ではない。それは、薩摩藩が江戸時代を通じて維持し続けた、他に類を見ない広域防衛・統治システム「外城制(とじょうせい)」の中枢神経として機能して初めて、その真価を発揮する。鹿児島城の築城は、この巨大な「見えざる城」の司令塔を据える事業であった。
外城制の概念と背景
薩摩藩は、他藩と比較して人口に占める武士階級の割合が極めて高い(明治初期の時点で約26%)という、特異な社会構造を持っていた 32 。これほど多数の武士を、本城である鹿児島城の城下町だけに集住させることは物理的にも経済的にも不可能であった。
そこで島津家は、慶長20年(1615年)に幕府から発布された「一国一城令」に対し、独自の解釈で巧みに対応する。公式には鹿児島城を藩内唯一の城としながらも、実際には領内各地にあった中世以来の山城やその麓に行政・軍事拠点を維持し、それらを「外城(とじょう)」または「麓(ふもと)」と称して、武士たちを分散して居住させたのである 13 。その数は、時代によって変動はあるものの、おおよそ110余りを数えた 34 。
外城の構造と機能
各外城には、藩から派遣された「地頭(じとう)」が置かれ、その地に土着する武士である「郷士(ごうし)」を統轄した 34 。郷士たちは、平時には自ら土地を耕して生計を立てる半農半士の生活を送りながら、武芸の鍛錬を怠らなかった 13 。そして、ひとたび有事となれば、地頭の指揮下に即座に動員される、地域に根差した常備軍として機能した。
麓の町並みそのものも、防御を強く意識した構造となっていた。玉石を積み上げた堅固な石垣、敵の侵入を阻む生垣、見通しの利かないように意図的に曲げられた道筋など、集落全体が一つの要塞としての機能を有していたのである 13 。
鹿児島城の役割:巨大ネットワークの司令塔
この独創的なシステムにおいて、鹿児島城が果たした役割は、単なる藩主の居城に留まらない。それは、領内全域に張り巡らされた113の外城を統括する「本城」として、薩摩藩全体の 中央政庁であり、最高司令部 であった 33 。藩の軍事・行政に関するあらゆる指令は鹿児島城から発せられ、各外城の地頭を通じて末端の郷士一人ひとりにまで伝達された。
つまり、薩摩藩の防衛体制とは、鹿児島城という「点」で敵を迎え撃つのではなく、領内全域に広がる外城ネットワークという「面」で敵を消耗させ、撃退する、一種の 縦深防御システム であった 37 。鹿児島城が天守を持たず、一見して簡素な造りであったのは、藩領全体が一個の巨大な城塞であり、そこに住む武士たちが石垣そのものであるという思想に裏打ちされていたからに他ならない。
外城制は、多数の武士を養い、かつ土地に縛り付けるという「社会政策」、平時から領内全域に兵力を分散配置する「軍事政策」、そして地頭を通じて地方行政を行う「行政政策」という三つの機能を融合させた、極めて合理的かつ独創的な統治システムであった。この「見えざる城」の存在があったからこそ、その司令塔である鹿児島城は、華美な装飾や威圧的な天守を必要としなかったのである。鹿児島城の築城は、この250年以上続く強固な社会軍事システムの神経中枢を創造したという点に、最大の歴史的意義を見出すことができる。
終章:鶴丸の遺産—幕末、そして現代へ
慶長6年(1601年)に礎が築かれた鹿児島城、そしてそれを中枢とする外城制は、その後の日本の歴史に計り知れない影響を与えた。
江戸時代を通じて、鹿児島城は「鶴丸城」の別名で親しまれ、薩摩藩77万石の政治・経済・文化の中心として機能し続けた 21 。しかし、泰平の世が終わりを告げ、動乱の幕末期を迎えると、城は再び歴史の表舞台に立つこととなる。文久3年(1863年)の薩英戦争では、築城時に島津義弘が抱いた懸念が現実となり、英国艦隊の砲撃に晒された 19 。そして明治10年(1877年)、西郷隆盛が率いる士族が蜂起した西南戦争では、西郷軍最後の拠点となり、政府軍の総攻撃によって本丸・二の丸ともに炎上、灰燼に帰した 21 。物理的な城郭としての鹿児島城は、ここに悲劇的な最期を遂げたのである。
しかし、たとえ建物が失われようとも、その遺産が消え去ることはなかった。「人をもって城と成す」という思想、そして外城制を通じて250年以上にわたり育まれてきた薩摩武士の強靭な精神と組織力は、明治維新を成し遂げる最大の原動力の一つとなった。外城制が可能にした郷士という広範な下級武士層の存在が、戊辰戦争などで活躍する兵士を大量に動員することを可能にし、また、中央集権的な支配とは異なる地方分権的な統治体制が、西郷隆盛や大久保利通といった変革の担い手を生み出す土壌となったのである。
結論として、鹿児島城の築城は、関ヶ原の敗戦という島津家最大の危機を、独自の強固な統治体制を確立するという好機へと鮮やかに転換させた、卓越した国家戦略の結晶であった。その遺産は、今日、史跡として残る石垣や堀といった物理的な遺構以上に、現代にまで続く鹿児島の歴史と文化、そして人々の精神性の根幹に、深く、そして確かに刻み込まれている。
引用文献
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- 鹿児島城(鶴丸城)御楼門 | 観光スポット - かごしま市観光ナビ https://www.kagoshima-yokanavi.jp/spot/20047
- PR 2022年3月リリース!幕末・明治維新期の鹿児島城をリアルに楽しめる「VR鹿児島城」! https://shirobito.jp/article/1543
- 鹿児島 (鶴丸) 城跡について https://www.pref.kagoshima.jp/ab10/kyoiku-bunka/bunka/goroumon/documents/55308_20161206131121-1.pdf
- 鶴丸城 - 筑紫のしろのき http://shironoki.com/200fukuokaigai-no-shiro/207tsurumaru/tsurumaru0.htm
- 外城制 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%9F%8E%E5%88%B6
- 薩摩藩独自の外城制度 https://kagoshima-fumoto.jp/outer-castle/
- 藩政のしくみ - 鹿児島県 http://www.pref.kagoshima.jp/reimeikan/josetsu/theme/kinsei/hansei/index.html
- 外城配置図 - 鹿児島県 http://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/josetsu/theme/kinsei/hansei/kgs03_s2_1.html
- 鹿児島城跡(鹿児島市) | 薩摩の武士が生きた町 〜武家屋敷群「麓」を歩く〜 https://kagoshima-fumoto.jp/kagoshima_1/
- 国支配を熟考した家久は建昌城 (旧瓜生野城) 構想を再燃させ - 鹿児島県 http://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/siroyu/documents/6757_20220514182857-1.pdf