三品藤弓は小笠原流弓術の許し弓で、白木弓に赤漆と州浜巴紋を施した飾弓。戦国時代、弓術が実戦から儀礼へ変容する中で、武士の技術、精神性、美意識、権威を象徴した。
「三品藤弓(さんぼんとうゆみ)」は、小笠原流弓術における特定の階梯に達した者のみが持つことを許される、特異な弓である。利用者より提示された「小笠原流弓術の第5階許しの弓。白木弓に糸または麻を巻き、赤漆を塗って固めた後、さらに州浜巴(すあまともえ)の模様を加えたもの」という情報は、この弓の物理的な特徴と、流派内での格式を示す貴重な出発点となる。しかし、この弓の実像は、単一の定義に収斂されるものではない。その本質を理解するためには、より多角的かつ深層的な分析が不可欠である。
本報告書は、この三品藤弓という一つの「モノ」を基点として、それが帰属する小笠原流という「体系」、それが用いられた戦国時代という「時代」の文脈、そしてその意匠に込められた「象徴」の意味を多層的に解き明かし、一つの文化史として再構築することを目的とする。具体的には、まず弓そのものを物理的に解体し、その構造、素材、装飾を分析する。次に、小笠原流という武家故実の体系の中にこの弓を位置付け、その格式と役割を明らかにする。さらに、戦国という激動の時代背景の中で、弓術が実戦の道具から儀礼的な武士の嗜みへと変容していく様相を捉え、その中で三品藤弓が果たした役割を考察する。最終的に、これらの分析を統合し、三品藤弓が単なる武具ではなく、戦国武士の技術、精神性、美意識、そして権威が交差する文化的な結節点であったことを論証する。この探求を通じて、一本の弓が戦国武士の精神性をいかに映し出す文化的な鏡となり得るかを示したい。
三品藤弓を理解する第一歩は、その物理的な構成要素を詳細に分析することである。この弓は、単なる機能的な道具ではなく、素材の選定から最終的な装飾に至るまで、実用性と象徴性が複雑に絡み合った工芸品としての側面を持つ。その構造、色彩、紋様には、戦国時代の技術水準と精神文化が色濃く反映されている。
三品藤弓の製作は、「白木弓(しらきゆみ)」を素地とすることから始まる。白木弓とは、塗装や特別な装飾が施されていない、木地のままの弓を指す 1 。しかし、三品藤弓は最終的に漆塗りや紋様といった加工が施されるため、「飾弓(かざりゆみ)」に分類されるべきものである 1 。
戦国時代に用いられた高性能な和弓は、単一の木材を削り出して作る原始的な「丸木弓」ではなく、複数の素材を組み合わせた複合弓であった。平安・鎌倉期には竹を木の腹側に貼り付けた「伏竹弓(ふせだけゆみ)」が開発され、時代が下るにつれて竹と木を積層させた「三枚打(さんまいうち)」、さらには芯材に細い竹(籤)を束ねて用いる「弓胎弓(ひごゆみ)」へと進化していった 2 。三品藤弓も、こうした当代最新の技術を用いて製作されたと推察される。弓の弾力と強度を両立させるため、外側と内側には弾力性に富む竹が、側面には強靭なバネの働きをする櫨(はぜ)などが用いられ、それらを強力な接着剤である鰾膠(にべにかわ)で貼り合わせていたと考えられる 3 。
この複合構造をさらに強固にするため、「糸または麻を巻く」工程が加えられる。これは、弓全体に糸や麻、あるいはより強靭な藤(とう)を巻き付けることで、接着部分の剥離を防ぎ、弓が折れるリスクを低減させるための実用的な技法である 5 。この技法自体は古く、縄文時代の漆塗りの弓にも樹皮などを巻き付けた痕跡が見られることから、日本の弓製作における伝統的な補強方法であったことがわかる 7 。
糸や麻を巻き付けた後、弓は「赤漆(あかうるし)」で塗り固められる。漆を塗る第一の目的は、木や竹でできた弓を湿気や乾燥から保護し、腐食を防ぐという実用的なものである 8 。漆の塗膜は極めて強靭であり、武器の耐久性を飛躍的に向上させた。
しかし、数ある色の中で特に「赤漆」が選択されている点には、単なる機能性を超えた強い象徴性が認められる。日本の精神史において、赤色は特別な意味を持つ色彩であった。縄文時代にまで遡ると、赤は生命の源である血や魂を象徴し、魔除けや再生、隆盛を願う呪術的な意味合いを込めて、櫛や土器などの神聖な道具に施された 9 。この古代からの信仰は、武士の時代においても色濃く受け継がれた。
戦国時代において、赤色は武威の象徴として積極的に用いられた。甲斐武田軍の飯富虎昌や山県昌景が率いた部隊、あるいは徳川家康配下の井伊直政の部隊が用いた「赤備え(あかぞなえ)」は、その代表例である 11 。全身を赤で統一した武具は、戦場で際立って目立ち、敵に対しては威圧感を与え、味方にとっては士気を高揚させる効果があった。三品藤弓に施された赤漆も、こうした戦国武士の価値観を反映したものであり、弓の持ち主の武勇と威厳を誇示する色彩であったと考えられる。それは、弓という武器に生命力と武威という二重の力を与えるための、精神的な武装であったと言えよう。
赤漆で仕上げられた弓の表面には、さらに「州浜巴(すはまともえ)」の模様が加えられる。この紋様は、二つの異なる吉祥紋を組み合わせたものであり、その意味を解き明かすことで、三品藤弓に込められた願いをより深く理解することができる。
「州浜(すはま)」は、一般に河口に土砂が積もってできた三角州を図案化したものと解釈されがちだが、家紋の由来としては、祝賀の宴席で用いられた「洲浜台(すはまだい)」と呼ばれる飾り台を模したものである 12 。この洲浜台は、不老不死の仙人が住むとされる伝説の蓬莱山(ほうらいさん)を表現したものであり、長寿や子孫繁栄を願う、極めてめでたい意味を持つ瑞祥紋であった 14 。
一方、「巴(ともえ)」の起源は、弓を射る際に左手首を弦から保護する武具「鞆(とも)」の形を絵にした「鞆絵(ともえ)」に由来するとされる 16 。また、水が渦を巻く様子にも似ていることから、火災を防ぐまじないとして神社仏閣の瓦などに多用された 16 。さらに重要なのは、巴紋が八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神紋として知られ、武家の守護神として広く信仰されていた点である。
この二つの紋を組み合わせた「州浜巴」は、単なる装飾ではない。それは、「家の永続的な繁栄(州浜)」と「射手個人の武運長久(巴)」という、武士にとって最も根源的な二つの願いを一つの意匠に込めた、強力な祈りのシンボルである。なお、州浜紋は常陸国の小田氏や信濃国の真田氏など、多くの武家で使用されており、小笠原家固有の紋というわけではない 17 。このことは、三品藤弓に施された州浜巴が、特定の家を示すためというよりは、弓馬の道に関わる者にとって普遍的な価値を持つ吉祥紋として採用された可能性を示唆している。
これらの物理的要素を統合して考察すると、三品藤弓が単なる道具ではないことが明らかになる。それは、当代最高の複合弓技術という「知」の上に、古代からの呪術的信仰と戦国期特有の武威を象徴する「赤漆」を塗り、さらに未来への繁栄と武運を願う「州浜巴紋」を施した、まさに祈りの具現化とでも言うべき存在なのである。
三品藤弓の価値は、その物理的な特徴のみによって定まるものではない。この弓が、武家社会において絶大な権威を誇った小笠原流弓馬術礼法という巨大な体系の中で、どのような位置を占めていたのかを明らかにすることによってはじめて、その真価を理解することができる。流派の歴史、厳格な免許制度、そして特定の儀礼との関わりの中に、三品藤弓の座標を定める。
小笠原流の起源は、清和源氏の流れを汲む甲斐源氏の一族、小笠原氏に遡る 19 。その初代とされる小笠原長清は、鎌倉時代初期の文治3年(1187年)、源頼朝から弓馬の師範に任じられ、流鏑馬(やぶさめ)や笠懸(かさがけ)といった武家儀礼を創定したと伝えられる 20 。この伝説の真偽はさておき、小笠原氏が弓馬の道に長けた一族として重んじられていたことは確かである。
室町時代に入ると、小笠原流の地位はより確固たるものとなる。京都に拠点を置いた小笠原家の持長が将軍・足利義教の弓術師範を務めた記録が残り 22 、7代当主の貞宗は後醍醐天皇から「小笠原は日本武士の定式たるべし」との言葉を賜ったとされる 20 。さらに、10代長秀は将軍・足利義満の命により、武家礼法の集大成である『三議一統』の編纂に携わり、小笠原流は武家故実の中心的な担い手として、その権威を不動のものとした 19 。
戦国時代の動乱期にあっても、その伝統は途絶えることはなかった。信濃守護であった17代長時は、武田信玄との抗争に敗れて流浪の身となるが、その間も将軍・足利義輝に弓馬を指導するなど、礼法の師範としての活動を継続した 22 。そして、その子である18代貞慶は、父と共に戦乱の中で研究を重ね、小笠原流の故実を『小笠原礼書七冊』として再編纂し、後世に伝えた 19 。このように、小笠原流は単なる弓術の流派ではなく、武士の立ち居振る舞いから儀礼全般に至るまでを網羅した、武家社会の規範そのものであった。
小笠原流の深遠さは、その厳格な免許(許し物)制度に端的に表れている。特に地面に立って射る歩射(ぶしゃ)においては、技量の段階に応じて使用を許される弓や弓具が定められており、複雑な階梯を形成していた 24 。三品藤弓は、この階梯の中に明確に位置付けられている。
複数の資料を統合・分析すると、小笠原流歩射免許の序列は以下のように再構築できる。最高位は「一張弓(いっちょうゆみ)」であり、「一張りの弓をもって天下を治む」という意味を込め、江戸時代には将軍家にのみ許された免許であった 24 。その下に、重藤弓(しげとうゆみ)、相位弓(そういきゅう)、修善弓(しゅぜんきゅう)、そして本稿の主題である三品藤弓と続く 25 。
特筆すべきは、三品藤弓と、弓を引く際に用いる手袋である「ユガケ」の免許との関係性である。ある資料では両者が併記されているが 24 、同門の研究者からの指摘により、現在では「三品藤弓免許」の方が「紫二本継指ユガケ免許」よりも格上として扱われていることが確認されている 27 。この事実に基づき、免許の階梯を整理すると、以下の表のようになる。
表1:小笠原流歩射免許の階梯(推定)
序列 (推定) |
免許名 |
関連する許し物(弓など) |
備考 |
最高位 |
一張弓免許 |
一張弓 |
将軍家にのみ許される特別な免許 24 。 |
第2位 |
重藤弓免許 |
重藤弓 |
将軍家専用。黒漆塗で、握りの上に36箇所、下に28箇所の藤が巻かれる 26 。 |
第3位 |
相位弓免許 |
相位弓(吹寄藤) |
円物射礼や宮中での鳴弦の儀に用いる 26 。 |
第4位 |
修善弓免許 |
修善弓 |
詳細な仕様は不明 25 。 |
第5位 |
三品藤弓免許 |
三品藤弓 |
本報告書の主題。特定のユガケ免許より上位に位置する 27 。 |
第6位 |
紫二本継指ユガケ免許 |
紫二本継指ユガケ |
紫色の紐を用いた二本指のユガケ。 |
第7位 |
紫一本継指ユガケ免許 |
紫一本継指ユガケ |
紫色の紐を用いた一本指のユガケ。 |
第8位 |
紫紐ユガケ免許 |
紫紐ユガケ |
紫色の紐を用いることが許される。 |
この階梯は、単に技術の優劣を示すものではない。小笠原家が戦国時代に政治的・軍事的な実権を失いつつあった状況を鑑みると、この免許制度は別の重要な役割を担っていたことが見えてくる。すなわち、土地や兵力といった物理的な力に代わり、他者が容易に模倣できない歴史と伝統に裏打ちされた「弓馬術礼法」という文化的な資本の価値を高め、その希少性を維持するための装置として機能したのである。免許を授与する権限を持つ宗家は、自らの文化的権威を可視化し、流派の求心力を維持することができた。三品藤弓を許されることは、この権威の体系に連なるエリートの一員として認められることを意味したのである。
上位の免許弓は、それぞれが特定の儀式や射法と深く結びついている。例えば、第三位の「相位弓」は、「円物(まるもの)」と呼ばれる、堅木の板で作られた円形の的を射る特殊な儀式や、魔を祓うために弦を鳴らす宮中での「鳴弦(めいげん)の儀」で用いられた 26 。
三品藤弓が具体的にどのような儀式で用いられたかを示す直接的な記録は見当たらない。しかし、その格式を考慮すれば、相応に高度な技量が要求される射礼や、流派内での重要な行事において、その使用が許されたと考えるのが妥当である。それは、単に的を射抜く技術の証明に留まらず、小笠原流が重んじる礼法や精神性を深く体得し、その美学を体現するに足る「品格」を備えた射手であることの証であった可能性が高い。三品藤弓を手にすることは、技術的な到達点であると同時に、小笠原流の道を歩む者としての精神的な成熟を公に認められた瞬間であったと言えるだろう。
三品藤弓という存在を深く理解するためには、それが生まれた戦国時代という特異な時代背景を無視することはできない。この時代は、一方で弓矢が合戦の主役であり続けた最後の時代であり、他方で鉄砲の伝来によってその実用的な価値が揺らぎ始めた過渡期でもあった。この「実戦」と「儀礼」の狭間で、弓術とそれを取り巻く文化は大きく変容し、小笠原家の運命もまた、その潮流の中で翻弄された。
戦国時代、小笠原氏は信濃国(現在の長野県)の守護大名として一定の勢力を保持していた。しかし、その勢力は盤石ではなく、嘉吉年間(1441年-1444年)に起こった一族内の大規模な内紛「嘉吉の内訌」によって、府中(松本)と伊那松尾に分裂し、力を削がれていた 22 。
17代当主・小笠原長時の時代、甲斐国から武田信玄(当時は晴信)が信濃への侵攻を開始すると、小笠原家の運命は暗転する。長時は信濃守護としての名門の誇りをかけて武田軍と対峙するも、天文17年(1548年)の「塩尻峠の戦い」で大敗を喫する 21 。この敗戦の要因は、武田方の巧みな調略により、味方であった仁科氏などが戦わずして離反したことにあり、小笠原氏の国人衆に対する統率力の脆弱さを露呈する結果となった 22 。その後、長時は本拠地である林城(現在の松本市)を追われ、各地を流浪する身となる。この苦難の時期にあっても、長時は京都で将軍・足利義輝に弓馬の道を指導するなど、武家の師範としての矜持を失わなかったことが記録されている 22 。
この失墜からの再興を成し遂げたのが、長時の子である貞慶であった。貞慶は父と別れ、諸国を巡って再起の機会をうかがい、最終的に徳川家康の支援を取り付ける。そして天正10年(1582年)、本能寺の変後の混乱に乗じ、旧領である深志城(この時「松本城」と改名)を奪還することに成功した 21 。この、一族の存亡をかけた苦難の時代にこそ、父祖伝来の弓馬故実の研究と体系化が精力的に進められ、『小笠原礼書七冊』として結実したのである 19 。
戦国時代の合戦において、弓矢は依然として重要な遠距離武器であった。特に、鉄砲が普及し始めるまでは、騎馬武者による騎射や、足軽集団による歩射が戦の勝敗を左右する要素であった。この時代、実戦での有効性を徹底的に追求したのが、日置弾正政次を祖とするとされる日置流(へきりゅう)である 29 。日置流は射程、威力、速射性といった実戦的な要素を重視し、その射法は戦場で弓兵を集団運用するのに適していた 29 。
しかし、天文12年(1543年)の鉄砲伝来以降、戦場の様相は徐々に変化する。鉄砲は、訓練が比較的容易でありながら、甲冑を貫通する高い威力を持ち、弓矢の軍事的な優位性を相対的に低下させた 31 。この実戦における役割の変化は、皮肉にも弓術の新たな価値を生み出すことになる。武器としての重要性が薄れる一方で、弓術は武士の精神を鍛錬し、礼節を学ぶための「道」として、また、その家柄と教養を示す「嗜み」としての側面を強めていったのである。
この流れを主導したのが、まさに小笠原流であった。小笠原流が重んじたのは、実戦的な「武射(ぶしゃ)」に対して、儀礼的・精神的な側面を重視する「文射(ぶんしゃ)」であった 30 。武士が単なる戦闘技術者ではなく、高い教養と礼節をわきまえた支配階級であることを示す上で、こうした儀礼的な弓術の習得は不可欠とされた 32 。
この文脈の中に三品藤弓を置くと、その存在意義はより鮮明になる。赤漆や州浜巴紋で華麗に装飾されたこの弓は、泥や血にまみれる実戦の場を主戦場とするものではない。それは、武士の権威と威信を、武力そのものではなく、洗練された文化と伝統を通じて示すための象徴であった。戦国という時代は、弓術が「殺傷の技術」から「威信の芸術」へとその重心を移し始める、大きな転換期であった。そして、その転換を象徴する存在こそが、三品藤弓のような「飾弓」だったのである。興味深いことに、この文化的転換の担い手は、実戦において敗北を喫し、文化の領域に新たな活路を見出さざるを得なかった小笠原氏であった。三品藤弓の存在は、時代の逆説そのものを体現していると言えよう。
これまで、三品藤弓を物理的実態、流派内の体系、そして時代背景という三つの側面から分析してきた。最終章では、これらの分析を統合し、この一本の弓が戦国武士の複雑な精神性やアイデンティティをいかに凝縮して表現しているかを考察する。名称に込められた多義的な解釈から、飾弓が持つ権威の象徴性までを深掘りすることで、三品藤弓の文化史的な価値を結論付けたい。
「三品藤弓」という名称に含まれる「三品(さんぼん、さんぴん)」という言葉は、複数の解釈が可能であり、その重層的な意味合いこそがこの弓の奥深さを示している。
第一に、最も直接的な解釈は、第二章で示した免許階梯における**序列としての「品(しな)」**である。一張弓を頂点とする体系の中で、特定の階級を示す名称として用いられたと考えられる。
第二に、 形状に由来する解釈 である。この弓に施される州浜紋は、三つの円を品字形に組み合わせたものが基本形であり、漢字の「品」の字を想起させる 13 。意匠の見た目と名称を一致させるのは、日本文化において古くから見られる「見立て」という言葉遊びの一種であり、この可能性は十分に考えられる。
第三に、 精神的な品格としての解釈 である。小笠原流は単なる弓の技術ではなく、礼法を通じて人間性を陶冶する修身の道でもあった 23 。「品」という字が「品位」や「品格」をも意味することを踏まえれば、「三品」とは、弓を扱う上で求められる三つの徳目や品性を象徴しているのかもしれない。例えば、技術の「品」、精神の「品」、態度の「品」といった、心技体を兼ね備えた射手であることを示す称号であったという解釈も成り立つ。
第四に、小笠原流の重要な教典である**『三議一統』との関連**も考えられる 19 。この書は小笠原、伊勢、今川という三家の礼法を統合したものであり、この「三」という数字に因んで「三品」と名付けられた可能性も否定できない。
これらの解釈は相互に排他的なものではなく、むしろ複合的に作用し、「三品藤弓」という名称に豊かな奥行きを与えている。それは、単なる序列を示す記号ではなく、形状の美しさ、そして射手が到達すべき精神的な高みを同時に示す、極めて象徴的な名辞なのである。
三品藤弓は、その華麗な装飾からも明らかなように、実戦での消耗を前提とした武器ではない。それは、厳しい修練を経て特定の段階に達した者だけが、公式の儀礼や重要な場面において佩用し、自らの格式、技量、そして小笠原流への深い帰属意識を周囲に「見せる」ための弓であった。
その美しさは、所有者の権威を視覚的に訴えかける装置として機能する。生命力と武威を象徴する赤漆の鮮やかさ、家の繁栄と武運長久を祈願する州浜巴紋の吉祥性、そしてそれらを固定する藤の精緻な巻き様式 5 。これら全てが一体となり、見る者に一種の畏敬の念を抱かせる。それは、武士が持つべき「威」を、むき出しの腕力や殺傷能力によってではなく、洗練された美意識と揺るぎない伝統の力によって示すための、高度な文化的表現であった。
この弓を理解する時、我々は戦国武士という存在が持つ複数のアイデンティティに直面する。第一に、武士は戦場で敵を討つ「戦闘者」である。これは弓が持つ実用的な側面に対応する。第二に、武士は秩序を重んじ、礼節をわきまえた「支配者」である。これは小笠原流が追求した儀礼的な側面に対応する。そして第三に、武士は神仏を敬い、家の安泰と武運を祈る「信仰者」である。これは三品藤弓に施された赤漆や紋様といった装飾に対応する。
三品藤弓は、これら武士を構成する**「戦闘者」「支配者」「信仰者」という三つのアイデンティティが一つの「モノ」の中に凝縮・結晶化した、稀有な存在**であると言える。この弓を深く読み解くことは、戦国という時代の複雑な精神構造そのものを理解する鍵となるのである。
本報告書は、「三品藤弓」という一本の弓を多角的に分析し、その物理的実態から、それが帰属する小笠原流の体系、戦国時代という時代背景、そして象徴的な意味合いに至るまでを詳細に検討した。その結果、この弓が当初提示された「小笠原流弓術の第5階許しの弓」という定義を遥かに超える、重層的な意味を持つ文化遺産であることが明らかになった。
第一に、三品藤弓は、当代最高の複合弓技術に、古代からの信仰と戦国武士の価値観を反映した赤漆、そして武運と繁栄を願う吉祥紋を施した、 技術と祈りの結晶体 であった。
第二に、この弓は、小笠原流という武家故実の体系において、厳しい修練を経た者のみが手にすることを許される 権威の象徴 であった。特に、小笠原家が政治的実権を失いつつあった戦国期において、流派の文化的権威を維持・再生産するための高度な社会戦略の一翼を担う存在であった。
第三に、三品藤弓は、 時代の転換点を体現する存在 であった。鉄砲の台頭により武器としての実用性が相対的に低下していく中で、弓術が儀礼化・精神化していくという、武器史における大きなパラダイムシフトを象徴していた。そして、その担い手は、皮肉にも実戦に敗れ、文化の領域に活路を見出した小笠原氏であった。
最終的に、三品藤弓は、武士という存在が持つ複雑な精神性を映し出す鏡であると結論付けられる。それは、武士が単なる戦闘者ではなく、秩序を司る支配者であり、神仏を敬う信仰者でもあったという、複合的なアイデンティティの物的な証左である。実戦の技である「術」が、精神的な修養である「道」へと昇華されていく、その歴史的な過程そのものを、この一本の弓は静かに物語っている。三品藤弓を理解することは、戦国武士の理想と現実、そしてその葛藤の様を、現代に鮮やかに読み解くことに他ならない。