九十九髪茄子(つくもかみなす)は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて、足利義満、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人たちの手を渡り歩いた、数奇な運命を持つ唐物茄子茶入である 1 。茶道具の中でも特に優れたものとして「大名物」と称され、とりわけ「天下三茄子」の一つとして最高級の評価を得ていた 1 。その価値は単なる美術品に留まらず、当時の武将たちにとっては一国一城にも匹敵するとされるほど、政治的・経済的にも極めて重要な意味を持っていたのである 4 。
九十九髪茄子の歴史的重要性は、その美術的価値に加え、日本の歴史における激動の時代を象徴する出来事と深く関わっている点にある。本能寺の変、そして大坂夏の陣という二度にわたる歴史的大火災で被災しながらも、奇跡的に修復され現存しているという事実は、この茶入に唯一無二の物語性を与えている 1 。
本報告は、現存する資料に基づき、九十九髪茄子の名称の由来、器形、材質、製作年代、歴代所有者と伝来の軌跡、二度の罹災と修復の詳細、そしてその歴史的・文化的価値について総合的に考察することを目的とする。特に、その数奇な運命が日本の茶道文化や美意識に与えた影響、さらには近年の科学的調査によって明らかになった事実を踏まえ、九十九髪茄子の多層的な意義を明らかにすることを目指す。
九十九髪茄子は、古来「つくもがみ」と呼ばれていたと伝わる 1 。この呼称に対しては、主に「九十九髪」と「付喪神」という二つの漢字表記が用いられてきた 1 。
「九十九髪」という表記は、老女の白髪を意味する 1 。この名称の由来として最もよく知られているのは、『伊勢物語』に収められた和歌「百年に一年足らぬ九十九髪 我を恋ふらし 面影に見ゆ」にちなむという説である 7 。ここでいう「つくも」とは、水辺に生える水草の一種であり、その白く枯れた様子が老婆の白髪に似ていること、また漢字の「百」から「一」を引くと「白」となることから、「九十九」の字に「つくも」の読みを当てたとも解釈されている 8 。この説は、茶入が持つ不完全さや老成した美を、古典文学の世界観と結びつけて捉えようとする意図の表れとも考えられる。百という完璧な数に対して一足りない九十九という数は、ある種の不足の美、あるいは完成に至る手前の緊張感を内包し、日本の伝統的な美意識に通じるものがある。
一方、「付喪神」という表記は、古い器物に歳月を経て霊魂が宿り、妖怪または神格化した存在となるという日本古来のアニミズム信仰に根差している 1 。この茶入には、釉薬が掛からず素地が露出した「石間(いしま)」と呼ばれる部分が二箇所あり、これが両目に見立てられ、器物に宿る霊的存在としての「付喪神」を想起させたという説がある 1 。この解釈は、単なる道具としてではなく、生命や意思を持つかのような存在として茶入を捉える、当時の人々の感性を反映していると言えよう。
その他にも、「付藻茄子」という表記も広く用いられており、現在静嘉堂文庫美術館に所蔵されているこの茶入の箱書にも「付藻」と記されている 1 。この「付藻」は、「九十九髪」からの当て字であるとも、あるいは亀の甲羅に生える緑色の藻を指し、長寿や吉祥を表すめでたい名であるとも伝えられている 10 。茶道においては自然の風物を尊び、道具の銘にも好んで用いられることから、「付藻」という表記には、単に音を借りただけでなく、吉祥や自然への愛着といった茶道に通底する思想が込められている可能性も考えられる。さらに、「作物」 1 、「江沢藻」、「江浦草」 11 といった漢字が当てられることもある。
茶道の祖とされる村田珠光が、この茶入を九十九貫文で購入したことから「九十九」の名が付いたという伝承も広く知られている 4 。この逸話は、珠光という偉大な茶人と具体的な価格を結びつけることで、茶入の価値を分かりやすく示す物語的要素を付加している。しかしながら、この説はあくまで伝承の域を出ないとも指摘されている 1 。
戦国武将・松永久秀が所持していた時期があることから、「松永茄子」という異名でも呼ばれることがある 10 。
このように、九十九髪茄子の名称には多様な由来説が存在し、それぞれがこの茶入の持つ重層的な文化的意味価を反映している。古典文学との関連、アニミズム信仰、具体的な購入価格の伝承、そして吉祥の意味合い。これらの異なる由来が並立し、語り継がれてきたこと自体が、九十九髪茄子が単なる器物ではなく、多様な解釈や価値観を受容する文化的な象徴(アイコン)であったことを示している。それぞれの時代の人々が、この茶入のそれぞれの側面に光を当て、享受してきた歴史がそこには刻まれているのである。
九十九髪茄子は、中国で製作されたいわゆる漢作唐物の茄子茶入である 1 。茄子茶入とは、その名の通り野菜の茄子に似て、口造りがやや窄まり、胴部がふっくらと丸みを帯びた形状を特徴とし、茶入の中でも最も格式が高いとされている 3 。九十九髪茄子は、「天下三茄子」と称される三つの名物茄子茶入の一つに数えられ、その中でも特に優れたものとして最高の評価を得てきたと伝えられる 3 。
現存する九十九髪茄子は、後述する二度の大きな戦災とそれに伴う修復を経ているため、製作当初の正確な寸法や形状を完全に把握することは困難である。しかし、静嘉堂文庫美術館の展示解説などでは、その大きさが「女性の拳くらい」と表現されることがあり、比較的小ぶりな茶入であったことが窺える 13 。
釉薬に関しては、本能寺の変で一度被災した後、豊臣秀吉がその焼けて釉薬の輝きが失われた状態を好まなかったという逸話が残っている 1 。そして、大坂夏の陣で壊滅的な被害を受けた後、漆を用いた大掛かりな修復が施され、現在の姿に至っている。そのため、表面の大部分は漆で覆われているのが現状である 14 。
九十九髪茄子の製作年代は、南宋時代から元時代(13世紀から14世紀)と推定されている 1 。これは、日本に舶載された唐物茶入の中でも比較的古い年代に属し、その希少価値を高める一因となっている。この時代は、日本において禅宗文化が隆盛し、それに伴って中国から喫茶の習慣や関連する道具類が盛んに導入された時期と重なる 17 。福建省の建窯(けんよう)などで焼かれた天目茶碗などがその代表例として知られるが、茶入もまた、喫茶文化に不可欠な道具として日本にもたらされたと考えられる。九十九髪茄子のような高度な技術で製作された唐物茶入は、単なる輸入品というだけでなく、当時の日本の支配者層や文化人にとって、最新の洗練された文化を象徴する品物であったと言えよう。その後の足利義満による所持という伝承は、この茶入が日本に渡って早い段階から最高権力者のもとにあったことを示唆しており、その製作年代の古さと質の高さが、初期の所有者の格を裏付けている。
具体的な生産窯については、福建省などがこの時代の主要な茶道具生産地として知られているが 17 、九十九髪茄子の生産窯を特定する直接的な資料は、現在のところ確認されていない。日宋貿易や日元貿易といった、当時の活発な国際交易を通じて日本にもたらされたものと考えられる 18 。
九十九髪茄子は、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣において大坂城と共に炎上し、壊滅的な損傷を被った。その後、徳川家康の命により、塗師(ぬし)の藤重藤元(ふじしげとうげん)・藤厳(とうがん)親子が焼け跡からその破片を丹念に拾い集め、漆を用いて元の形に継ぎ合わせて修復したと伝えられている 1 。
現在の九十九髪茄子の表面は、この時の修復によってほぼ全体が漆で覆われているが、その仕上げは極めて精巧であり、一見すると陶器そのものであるかのような質感と光沢を呈している 14 。この驚くべき修復技術の詳細は、長らく伝承の域を出なかったが、平成6年(1994年)に静嘉堂文庫美術館によって行われたX線透過調査、さらに令和4年(2022年)に東京国立博物館の施設で行われたX線CTスキャン撮影によって、科学的なメスが入れられた 15 。これらの調査の結果、九十九髪茄子は多数の陶器の破片を漆で丹念に繋ぎ合わせ、表面を漆で塗り込めて補修し、元の形状に復元されていることが明確に確認されたのである 15 。この事実は、藤重親子が駆使した約400年前の修復技術の驚くべき水準の高さを改めて証明するものであった。
X線・CTスキャン調査の結果は、九十九髪茄子の物理的な来歴を科学的に裏付けるだけでなく、その「物語性」をさらに強化する役割を果たしている。大坂夏の陣で粉々になったという劇的な逸話は、長らく語り継がれてきたが、科学的調査によって、その破片が漆で巧みに接合されている内部構造が可視化された。これは、単に伝承を「確認」するだけでなく、目に見えない過去の出来事と修復者の超絶技巧を現代に「再現」する効果を持つ。これにより、鑑賞者は九十九髪茄子を単なる古い茶入としてではなく、歴史の荒波を乗り越え、最高の技術で蘇った「奇跡の器」として、より強い感銘とともに受容することになる。科学的知見が、歴史的物語の信憑性と感動を増幅させていると言えよう。
九十九髪茄子の伝来史は、日本の権力構造の変遷と茶道文化の浸透を象徴的に示している。その所有者の変遷は、各時代の権力者や文化の担い手を映す鏡であり、日本史の縮図とも言える様相を呈している。
九十九髪茄子の最初の所有者として伝わるのは、室町幕府第3代将軍・足利義満である 1 。義満は、この茶入を内野の戦いにも携えて行った、あるいは金甲の裏に繋けて肌身離さず持ち歩いたなどと伝えられており、その愛着の深さが窺える 1 。足利将軍家は、室町時代の文化的中心であり、唐物名物を所有することはその権威の象徴であった。
その後、足利家が代々所有し、第8代将軍・足利義政の時代になると、義政の寵臣であった山名是豊(通称、山名政豊とも)に下賜されたという 1 。山名是豊もまた、この茶入を戦場に持参したため、その際に瑕(きず)がついたとも言われている 11 。この逸話は、当時の武家社会の一側面を垣間見せる。
15世紀末になると、九十九髪茄子は足利義政の茶道の師であった村田珠光の手に渡ったとされる 4 。前述の通り、珠光が九十九貫文で購入したという説の根拠となる出来事である。村田珠光のような茶道の祖とされる人物への伝来は、茶の湯が武家社会や地方の有力者へも広まっていった過程を示す。
その後、伊佐宗雲という人物を経て、越前の戦国大名朝倉氏の有力家臣であった朝倉宗滴(本名、朝倉教景)が五百貫で購入したとされている 1 。しかし、宗滴は後にこの茶入を越前の小袖屋に質入れしたと記録されている 1 。
天文23年(1558年)頃、戦国時代の梟雄として知られる松永久秀が、一千貫という当時としては破格の大金で九十九髪茄子を入手した 1 。松永久秀は武将であると同時に、当代一流の文化人、数寄者でもあった。
永禄11年(1568年)、松永久秀は、室町幕府第15代将軍・足利義昭を奉じて上洛した織田信長に対し、降伏の証として、名刀「吉光」と共にこの九十九髪茄子を献上した 1 。信長はこの茶入を大いに気に入り、愛蔵したと伝えられる 3 。
天正10年(1582年)の本能寺の変で織田信長が横死すると、九十九髪茄子は本能寺の焼け跡から拾い出され、天下統一を目前にした豊臣秀吉の手に渡った 1 。しかし秀吉は、焼けて釉薬の輝きが失われた状態を好まず、側近の有馬則頼に与えたという 1 。則頼の死後、九十九髪茄子は再び大坂城に戻された 1 。
そして慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で大坂城は落城。九十九髪茄子は再び戦火に見舞われ、今度は完全に焼失、破損した。この時、天下人となっていた徳川家康は、焼け跡から九十九髪茄子の破片を探し出すよう厳命した 1 。松永久秀、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という戦国末期から江戸初期にかけての天下人の手を経ることで、九十九髪茄子は単なる名物から「天下の名物」へとその格を高め、時代の激動と深く結びつくこととなった。
徳川家康の命を受けた塗師の藤重藤元・藤厳親子は、見事に九十九髪茄子を修復した。家康はその出来栄えを絶賛し、褒美として藤重藤元にこの九十九髪茄子を与えた 1 。以後、九十九髪茄子は藤重家に家宝として伝来することになる。
時代は下り、明治9年(1876年)、この藤重家伝来の九十九髪茄子は、三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の弟であり、三菱第2代社長となる岩崎弥之助の手に渡った 1 。弥之助は、兄の弥太郎に借金をしてまで、あるいは年末の賞与を前借りしてまでこの茶入を購入したと伝えられるほど、その入手に情熱を傾けたという 6 。九十九髪茄子は、岩崎家における最初の本格的な茶道具蒐集品の一つとなり、後の静嘉堂文庫美術館のコレクションの礎となった。江戸時代に塗師の藤重家に下賜され、その後明治期に実業家の岩崎家に渡るという流れは、文化財の所有が武家から職人、そして近代資本家へと移行していく時代の変化を反映している。
現在は、東京都世田谷区にある静嘉堂文庫美術館に大切に所蔵され、折に触れて公開されている 1 。
伝承の中には、所有者の個性や人間関係を色濃く反映した逸話が多く見られる。足利義満が戦場にまで携行したという話は彼の茶入への深い愛着を示し、足利義政が山名是豊に男色の寵愛故に与えたという逸話は当時の武家社会の一側面を垣間見せる 11 。松永久秀が千貫で購入し信長に献上した話は、彼の茶人としての一面と信長への政治的計算を示し 1 、秀吉が焼けた状態を好まず有馬則頼に与えた話は秀吉の美意識や則頼との関係性を示唆する 1 。家康が修復を命じその出来栄えに満足して藤重親子に下賜した話は、家康の文化政策と職人への評価を示し 1 、岩崎弥之助が借金をしてまで購入した逸話は近代における文化財収集家の情熱を物語る 6 。これらの逸話は、単なる所有者のリストに血肉を与え、九十九髪茄子を巡る人間ドラマとして、その魅力を高めている。
表1: 九十九髪茄子 歴代主要所有者と関連年表
所有者 |
年代/関連時期 |
主要な出来事・逸話 |
典拠例 |
足利義満 |
室町時代前期 |
初代所有者と伝わる。戦場にも携行か。 |
1 |
足利義政 |
室町時代中期 |
山名是豊(政豊)に下賜。 |
1 |
山名是豊(政豊) |
室町時代中期 |
義政より拝領。戦場に持参し瑕が付いたとの説も。 |
1 |
村田珠光 |
15世紀末 |
義政の茶道の師。九十九貫で購入説。 |
4 |
朝倉宗滴(教景) |
戦国時代 |
五百貫で購入。のち質入れ。 |
1 |
松永久秀 |
1558年頃 |
一千貫で購入。 |
1 |
織田信長 |
1568年 |
松永久秀より献上される。本能寺の変で罹災。 |
1 |
豊臣秀吉 |
本能寺の変後 |
焼け跡から発見され献上。釉薬の輝き失せ有馬則頼へ。 |
1 |
有馬則頼 |
秀吉より下賜 |
秀吉より拝領。 |
1 |
(大坂城) |
則頼死後 |
大坂城に戻る。大坂夏の陣で再度罹災、焼失。 |
1 |
徳川家康 |
大坂夏の陣後 |
焼け跡から捜索させ、藤重親子に修復を命じる。 |
1 |
藤重藤元・藤厳親子 |
江戸時代初期 |
漆で修復。家康より褒美として下賜される。以後、藤重家伝来。 |
1 |
岩崎弥之助 |
1876年(明治9年) |
藤重家より購入。静嘉堂文庫の基礎となる。 |
1 |
静嘉堂文庫美術館 |
現代 |
所蔵・展示。 |
1 |
この表は、九十九髪茄子の長く複雑な伝来を概観する上で有用である。多くの著名な歴史上の人物が関わり、その所有者の変遷は、茶入が各時代においてどのような状況に置かれ、いかなる価値を認められていたかを簡潔に示している。
九十九髪茄子の歴史は、二度にわたる壊滅的な戦災とその後の奇跡的な修復によって、他に類を見ないドラマ性を帯びている。この破壊と再生の物語は、日本の文化財修復における特筆すべき事例であると同時に、器物が持つ物語性の重要性を我々に教えてくれる。
天正10年(1582年)6月2日、織田信長が明智光秀の謀反によって京都・本能寺で自刃した本能寺の変。この時、信長は九十九髪茄子を所持しており、本能寺にあったと広く信じられている 28 。そして、本能寺の炎上後、焼け跡から奇跡的に発見され、豊臣秀吉に献上されたというのが通説である 1 。この「奇跡の発見」は、九十九髪茄子の物語性を高める重要な要素となっている。
しかし近年、この通説に疑問を投げかける説も存在する。静嘉堂文庫美術館所蔵の九十九髪茄子をX線調査した結果、「一度しか焼けていない」という所見が得られたという話が一部で語られている 30 。これが事実であれば、九十九髪茄子は本能寺の変では焼失を免れた可能性が浮上する。この場合、秀吉の手に渡った経緯について、いくつかの仮説が考えられる。例えば、本能寺にあったとされる九十九髪茄子とは別に同名の茶入が存在したという説、あるいは本能寺の変の直前に信長から嫡男・信忠に譲られ、信忠が滞在していた二条城(二条御新造)から何らかの形で持ち出されたという説などである 30 。『信長公記』には、信長が本能寺に滞在するにあたり茶道具38点を携えていたとの記述が見られるが 31 、その中に九十九髪茄子が含まれていたか、またその後の詳細な行方については、現時点では確たる史料に乏しい 32 。
本能寺の変における九十九髪茄子の正確な状況を巡る諸説の存在は、歴史的事件における名物の行方に対する人々の強い関心と、歴史の空白を埋めようとする物語創造の欲求を示している。高名な茶入であればあるほど、その行方に関する憶測や異説は生まれやすく、それらがさらに茶入の伝説性を高める効果を持つ。これは、史料の不足や矛盾点に対し、人々がどのように意味を見出し、物語を紡いでいくかという、歴史叙述や伝承形成のプロセスを考察する上で興味深い事例となる。
本能寺の変を生き延びたとされる九十九髪茄子は、その後、豊臣秀吉、有馬則頼を経て、再び大坂城に戻された。しかし、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣において、豊臣氏の滅亡と共に大坂城は炎上。この時、九十九髪茄子は再び戦火に見舞われ、今度は完全に焼失・破損したとされている 1 。
この壊滅的な状況にもかかわらず、徳川家康は九十九髪茄子に対して並々ならぬ執着を見せた。家康は、大坂城の広大な焼け跡から、この名高い茶入の破片を探し出すよう厳命したのである 1 。通常であれば器物の終焉を意味する完全な破壊の後にもかかわらず、最高権力者がその捜索を命じたという事実は、この茶入が持つ並外れた価値を物語っている。
家康の命を受けたのは、当代随一の塗師と謳われた藤重藤元・藤厳(藤巖)親子であった 1 。彼らは、焼け跡から丹念に九十九髪茄子の陶片を拾い集め、およそ3ヶ月の期間をかけて、漆を用いて元の形に継ぎ合わせるという至難の業を成し遂げた 1 。
その修復技術は驚嘆すべきものであり、家康をして「古今不思議の手涯(しゅがい)、言舌の及ばざる細工」と絶賛せしめたと伝えられる 33 。修復された九十九髪茄子は、表面は完全に漆で覆われているにもかかわらず、まるで元からそうであったかのような陶器の質感と深みのある光沢を再現しており、その地肌の美しさは見る者を魅了すると評されている 14 。
この藤重親子による修復は、単なる「修理」を超え、失われた器物に新たな命を吹き込む「創造」行為に近いと言える。漆という素材を用い、陶器の質感を再現する技術は、日本の漆工芸の粋を極めたものであり、その技術の高さは、平成6年(1994年)のX線透過調査、そして令和4年(2022年)のX線CTスキャン撮影によって科学的にも裏付けられた 15 。これらの調査により、無数の陶片が漆によって巧みに接合され、表面が漆で覆われて元の形に復元されている内部構造が明らかになり、約400年前の藤重親子の超絶技巧が現代に改めて示されたのである。
この修復は、傷を隠すのではなく、むしろその歴史の一部として受け入れ、新たな美を生み出す「金継ぎ」の精神とも通底する 34 。九十九髪茄子の場合、その傷跡(破片の接合部)は漆によって完全に覆われているが、その修復の事実自体が新たな「景色」となり、物語性を深めている。結果として、九十九髪茄子は「元の姿」を失ったにもかかわらず、あるいは失ったからこそ、その来歴と修復の物語によって、唯一無二の存在としてより一層の価値を持つに至った。これは、物質的な完全性だけでなく、それに付随する物語や歴史的経緯が文化財の価値を形成するという好例である。
九十九髪茄子は、その美術的価値のみならず、戦国時代から江戸時代初期にかけての茶道文化において、極めて重要な位置を占めていた。その価値は、単に美しい器物であるというに留まらず、当時の政治、経済、そして人々の精神性にまで深く関わっていたのである。
茶道具の世界には、特に優れたものに対して「名物(めいぶつ)」という格付けがなされる。中でも九十九髪茄子は、最高位に位置づけられる「大名物(おおめいぶつ)」の一つとして知られている 1 。さらに、茄子形の茶入の中でも特に傑出した三つの名品を指して「天下三茄子(てんかさんなす)」と称するが、九十九髪茄子はその筆頭に挙げられることが多い 3 。具体的には、「九十九髪茄子」、「松本茄子(まつもとなす、別名:紹鷗茄子 しょうおうなす)」、そして「富士茄子(ふじなす)」の三つが天下三茄子とされており、九十九髪茄子はその中でも最も高い評価を得ているとも言われる 3 。
戦国時代の武将たちにとって、名物茶器は単なる趣味の品ではなかった。それは自身の権威や教養、財力を示すステータスシンボルであり、時には外交交渉の道具として、あるいは家臣への恩賞としても用いられた 4 。
特に織田信長は、茶の湯を積極的に政治利用したことで知られ、その政策は「御茶湯御政道(おんちゃのゆごせいどう)」とも呼ばれる 36 。信長は「名物狩り」と称して各地の名物茶器を蒐集し、手柄を立てた家臣に対しては、領地や金銀ではなく、これらの名物茶器を恩賞として与えることもあった。その結果、優れた名物茶器には、一国一城にも匹敵するほどの経済的価値が付与されるに至ったのである 4 。
松永久秀が九十九髪茄子を織田信長に献上した際、その見返りとして大和一国の支配権を安堵されたという逸話は 1 、まさにこの時代の茶道具が持っていた絶大な政治的・経済的価値を象徴する出来事と言えよう。九十九髪茄子の「大名物」としての価値は、その物質的な属性(材質、形状、製作地、年代)だけでなく、それに付随する「来歴」と「物語」によって大きく増幅されている。これは茶道具評価における日本特有の現象であり、九十九髪茄子はその典型例である。
足利義満の手から始まり、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人たちの手を経て、本能寺の変と大坂夏の陣という二度の歴史的な戦火を生き延び、そして奇跡的に修復されたという九十九髪茄子の数奇な運命は、この茶入に他に類を見ない強い物語性を与えている 2 。この物語性は、単に古い器物である以上の価値を九十九髪茄子に付与し、時代を超えて人々を魅了し続けてきた大きな要因である 4 。
この破壊と再生の歴史は、日本の伝統的な美意識、例えば「もののあはれ」や「侘び寂び」といった、不完全さや儚さの中に美を見出す感性と深く共鳴する。特に、破損した器物を漆と金で修復し、その傷跡を新たな景色として楽しむ「金継ぎ」の文化は 34 、九十九髪茄子の修復の物語と軌を一にするものと言えよう。九十九髪茄子の場合、その修復は金ではなく漆のみで行われているが、破壊されたものが再生し、新たな価値を帯びるという点において、共通の精神性が見出せる。
また、その名称の由来の一つとされる「付喪神」という概念も 1 、長年使われた器物には魂が宿るという日本的なアニミズムの思想と結びつき、九十九髪茄子に神秘的な魅力を加えている。これらの要素が複合的に作用し、九十九髪茄子は単なる美術工芸品を超えた、日本の文化や美意識を象徴する存在として認識されるに至ったのである。
九十九髪茄子の存在は、戦国時代から江戸初期にかけての茶の湯の政治的・社会的役割の変化をも体現している。足利将軍家においては文化的な権威の象徴であり、戦国時代には織田信長や豊臣秀吉によって政治利用され、その所有は権力誇示や家臣統制の手段となった。松永久秀による信長への献上は、政治的な服従と忠誠の表明であった。江戸時代に入り、徳川家康がこれを修復させ、功労者である藤重親子に下賜したことは、戦乱の時代の終焉と、文化・技術の保護・奨励へと価値観がシフトしたことを示唆する。このように、九十九髪茄子の所有と扱われ方の変遷は、茶の湯が単なる遊芸から、政治的ツール、そして平和な時代の文化的象徴へとその役割を変えていった歴史を反映している。
表2: 天下三茄子の比較概要
名称 |
九十九髪茄子(付藻茄子) |
松本茄子(紹鷗茄子) |
富士茄子 |
別名 |
つくもなす、松永茄子、作物茄子 |
しょうおうなす、みをつくし |
ふじなす |
製作年代/生産地 |
南宋~元時代(13~14世紀)、中国(漢作唐物) |
南宋~元時代(13~14世紀)、中国(漢作唐物) 16 |
南宋時代(12~13世紀)、中国(唐物) 40 |
主要な伝来 |
足利義満→…→松永久秀→織田信長→豊臣秀吉→徳川家康→藤重家→岩崎家 |
…武野紹鷗…織田信長→豊臣秀吉→徳川家康→藤重家→岩崎家 25 |
足利義輝→曲直瀬道三→織田信長→豊臣秀吉→前田利家→前田家 40 |
現所蔵 |
静嘉堂文庫美術館 1 |
静嘉堂文庫美術館 16 |
前田育徳会 40 |
特徴・逸話 |
二度の罹災と漆による修復。数奇な伝来。 |
紹鷗遺愛。飴色地に蛇蝎釉がなだれかかる景色 44 。大坂夏の陣で罹災、修復 25 。 |
富士山のような雄大な姿から命名か。飴色鉄釉と白濁釉の景色 40 。 |
寸法 (高さcm) |
(修復後) 女性の拳大程度 13 |
(修復後) (不明) |
5.5 40 |
この表は、九十九髪茄子を他の著名な茄子茶入と比較することで、その独自性と共通性を明らかにする。特に松本茄子も九十九髪茄子と同様に大坂夏の陣で罹災し、藤重親子によって修復され、岩崎家に伝わったという共通の運命を辿っている点は興味深い 25 。
九十九髪茄子は、その製作された南宋~元時代という古い年代に由来する美術的価値のみならず、足利義満にはじまり織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった日本の歴史の激動期を象徴する人物たちの手を渡り歩いたという比類なき伝来、そして本能寺の変と大坂夏の陣という二度の壊滅的な罹災からの奇跡的な修復という、他に類を見ない特異な経歴によって、極めて高い歴史的・物語的価値を帯びるに至った名品である。
その存在は、戦国時代から江戸時代初期にかけての茶道文化の隆盛と、茶の湯が武家社会の政治・経済、さらには美意識にいかに深く関わっていたかを如実に物語る貴重な証左と言える。特に、松永久秀から織田信長への献上や、徳川家康による修復命令といったエピソードは、茶道具が単なる器物を超えた意味を持っていたことを示している。
藤重藤元・藤厳親子による漆を用いた修復は、日本の伝統工芸である漆工芸技術の粋を現代に伝えるとともに、破損した器物に新たな命を吹き込み、その歴史的価値を継承するという日本独自の美意識、すなわち「金継ぎ」にも通じる精神性を体現している。X線調査やCTスキャンといった現代の科学技術は、この歴史的修復の事実を裏付け、その技術の高さを再認識させるものであった。
九十九髪茄子に関しては、依然としていくつかの研究課題が残されている。まず、本能寺の変における九十九髪茄子の正確な状況については、諸説が存在しており、決定的な史料が待たれるところである。『信長公記』をはじめとする一次史料の再検証や、関連する古文書、茶会記などのさらなる発掘と分析が期待される。
また、X線CTスキャンなどの科学的調査技術は日進月歩であり、将来的には、修復に使用された漆の具体的な種類や技法、あるいは残存する陶片から本来の胎土や釉薬に関するより詳細な知見が得られる可能性がある。
さらに、九十九髪茄子が持つ強烈な物語性は、同時代の文学作品や後の美術評論、さらには現代の創作物に至るまで、多岐にわたる影響を与えてきたと考えられる。この茶入をはじめとする名物茶器が、当時の人々の精神世界や美意識の形成にどのような影響を与えたのか、そしてその物語がどのように受容され、再生産されてきたのかについて、文学、美術史、文化史など、より広範な視点からの学際的な研究が深められることが望まれる 47 。
九十九髪茄子は、その数奇な運命と、それにまつわる豊かな物語によって、今後も多くの人々の関心を集め、日本の文化と歴史を語る上で重要な存在であり続けるであろう。