九鬼文琳は、海賊大名・九鬼嘉隆が所持した文琳茶入。関ヶ原の戦後、徳川将軍家へ献上され、堀田家へ下賜。明治期に皇族へ献上されたが、関東大震災で焼失した幻の名器。
1923年(大正12年)9月1日、帝都東京を襲った未曾有の災害、関東大震災。その劫火は、数多の人の命と文化財を無慈悲に呑み込んだ。そして、この炎の中に永遠に姿を消した一つの茶入があった。その名を「九鬼文琳」という 1 。戦国の荒波を乗り越え、泰平の世を生き、近代国家の象徴たる皇族の手に渡りながらも、最後は近代化の象徴である帝都の災害によって失われるという、あまりにも数奇な運命を辿った名器である。
本報告書は、物理的には失われたこの「九鬼文琳」の来歴を、残された史料の断片から丹念に紡ぎ直し、その存在が日本の歴史と文化に刻んだ深遠な意味を再構築する試みである。一つの茶入は、何を物語ることができるのか。「九鬼文琳」の生涯は、時代の権力者たちの野心、美意識、そして人間模様を映し出す鏡として、我々に多くを語りかけてくる。
本編に先立ち、この茶入が辿った壮大な旅路を一望できるよう、その所有者の変遷を以下の表にまとめる。これは、報告全体を通じて歴史の大きな流れを見失わないための道標となるであろう。
時代 |
年代(推定) |
所蔵者 |
主な出来事・背景 |
戦国時代 |
16世紀後半 |
九鬼嘉隆 |
織田・豊臣政権下で水軍の将として活躍。茶の湯を通じた政治・文化活動。 |
江戸時代初期 |
17世紀初頭 |
徳川秀忠・家光 |
関ヶ原の戦後、九鬼家より徳川将軍家へ献上。天下の至宝となる。 |
江戸時代初期 |
寛永年間 |
堀田正盛 |
将軍家光より寵臣・堀田正盛へ下賜。将軍の私的な情愛の証となる。 |
江戸時代中期~後期 |
17世紀~19世紀 |
堀田家代々 |
下総佐倉藩堀田家の家宝として伝来。藩の財政難により一時質入れされる。 |
明治時代 |
1883年(明治16年) |
小松宮彰仁親王 |
堀田家より皇族・小松宮家へ献上。封建時代の象徴から近代国家の文化遺産へ。 |
大正時代 |
1923年(大正12年) |
(小松宮家所蔵) |
関東大震災により焼失。 |
「九鬼文琳」を理解する上で、まずその器形である「文琳(ぶんりん)」とは何かを知る必要がある。「文琳」とは、中国の故事に由来する名称である 2 。唐の第三代皇帝・高宗の時代、李謹という人物が見事な林檎を帝に献上したところ、帝はその美しさを称え、李謹を「文琳郎」という官職に任じたという逸話から、林檎の美称として「文琳」が用いられるようになった 3 。その名の通り、文琳茶入は林檎を思わせるほぼ球形の、小ぶりな形状を特徴とする 2 。
「九鬼文琳」が分類される「唐物茶入」とは、中国大陸で焼かれた舶来の茶入を指し、特に日本の茶の湯文化が勃興した室町時代以前に渡来した南宋、元、明時代の作例が至上のものとして珍重された 5 。これらは、日本の陶工がまだ作り得なかった精緻な造形と、複雑で美しい釉薬の景色を持ち、茶人たちの憧れの的であった。
「九鬼文琳」は、数ある唐物茶入の中でも最高位である「大名物(おおめいぶつ)」に格付けされていた 7 。この格付けは、江戸時代中期の大名茶人として名高い松江藩主・松平不昧(ふまい)が、自身の審美眼に基づき茶道具を分類・整理した目録『雲州名物帳』や、名物道具の図説『古今名物類聚』で用いられたことに端を発する 8 。「大名物」とは、千利休(1522-1591)の時代、あるいはそれ以前から既に名品としての評価が確立していた道具を指す、いわば別格の称号であった。その価値は、天下に三つとないと言われた「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」「新田肩衝(にったかたつき)」「初花肩衝(はつはなかたつき)」といった天下三肩衝にも比肩するものであり、「九鬼文琳」がこの列に加えられていた事実は、その歴史的価値と美術的価値がいかに高かったかを物語っている 8 。
現存しない「九鬼文琳」の具体的な姿を、我々は他の現存する「大名物」文琳茶入の記述から類推するほかない。例えば、同じく大名物の「白玉文琳」は、球形の胴に粗めの轆轤目がめぐり、地釉の上に瑠璃色と黄色の釉薬が流れ落ち、底で見事な景色を作っていると記録されている 4 。また、「本能寺文琳」は、褐色の鉄釉と黒色の灰釉の二重掛けが特徴で、非常に薄造りで軽いとされる 12 。これらの記述から、「九鬼文琳」もまた、端正な球形のフォルムの中に、釉薬が織りなす複雑で深みのある景色を有していたと想像される。
さらに、名物茶入の価値を決定づけるのは、本体だけではない。それに付属する「仕覆(しふく)」と呼ばれる袋や蓋、箱なども極めて重要な要素である。「九鬼文琳」には、「間道織留(かんどうおりどめ)」と「鞘型九龍緞子(さやがたきゅうりゅうどんす)」という二種の仕覆が添えられていたと伝わる 7 。間道や緞子といった裂地(きれじ)は、室町時代から桃山時代にかけて中国や東南アジアから渡来した最高級の染織品であり、それ自体が貴重な美術品であった 13 。これらの豪華な仕覆は、茶入本体の格式をさらに高め、所有者の権威と美意識を雄弁に物語る役割を果たしたのである 15 。
モノの価値は、その物質的な側面だけで成立するのではない。中国由来という「舶来」の希少性、林檎になぞらえられた「文琳」という美しい形状と故事来歴、松平不昧という絶対的な権威による「大名物」という格付け、そして所有者の威光を増幅させる豪華な「付属品」。これら複数の価値基準が重層的に組み合わさることによって、「九鬼文琳」の絶対的な価値は構築された。それは、モノの価値が物語と権威付けによって決定されるという、文化経済史の好個の事例と言えよう。
「九鬼文琳」が歴史の表舞台でその価値を輝かせた戦国時代は、茶の湯が政治と分かちがたく結びついた特異な時代であった。その中心にいたのが織田信長である。信長は、茶の湯を単なる文化的趣味の域を超え、統治の道具として用いた。この政策は後に「御茶湯御政道(おちゃのゆごせいどう)」と呼ばれることになる 16 。
信長は、武功を立てた家臣に対し、従来の領地加増に代えて、名物の茶道具を下賜し、茶会を催すことを許可した 19 。これにより、名物茶入は「一国一城」にも匹敵する価値を持つようになり、武将たちはそれを手に入れることに血道を上げた 16 。茶道具を所有し、公式に茶会を開くことは、信長政権の中枢にいることの証であり、最高の栄誉となったのである 17 。
信長はまた、服従させた大名から名物を献上させる「名物狩り」を精力的に行い、自身のコレクションを茶会で披露することで、その絶大な権力を天下に誇示した 17 。大和の梟雄・松永久秀が、信長に反旗を翻した際、降伏の条件として求められた名物「平蜘蛛釜」の譲渡を拒み、釜と運命を共にしたという逸話は、茶道具が武将にとって命に代えても惜しいほどの価値を持っていたことを象徴している 20 。
この信長の政策は、豊臣秀吉によって継承され、さらに発展させられた。秀吉は、天皇に茶を献じるために黄金の茶室を造営し 23 、身分を問わず参加を許した「北野大茶湯」を催すなど 26 、茶の湯を自らの権威を天下に示す壮大なスペクタクルとして利用した。
戦国武将にとって、茶の湯とは一体何だったのか。それは単なる趣味や教養の域を遥かに超える、極めて戦略的な営為であった。第一に、茶の湯は「権力の可視化装置」であった。名物を所有し、それを茶会で披露することは、自らの経済力と、何よりも天下人たる信長や秀吉からの信頼を周囲に示す最も効果的な手段だったのである。
第二に、茶室は「情報戦の舞台」であった。武器の持ち込みが許されない狭い茶室は、誰にも聞かれることなく密談を行うための絶好の空間であり、政治的・軍事的な駆け引きの場として大いに機能した 21 。
第三に、それは「文化的資本の獲得」の手段でもあった。荒々しい武の世界で生きる武将たちが、茶の湯という洗練された文化に通じていることを示すことは、自らを単なる武人ではない、天下を治めるにふさわしい器量の人物としてアピールする上で不可欠であった。この時代、茶室はもう一つの「戦場」であり、茶道具はその「武器」であったと言っても過言ではない。「九鬼文琳」もまた、そうした時代背景の中で、所有者の力を誇示する強力な武器として存在したのである。
「九鬼文琳」の名が由来する最初の所有者、九鬼嘉隆(1542-1600)は、戦国時代を代表する異色の武将である。志摩国を本拠とする水軍を率い、織田信長に仕えては鉄甲船を建造して大坂本願寺勢を打ち破り、豊臣秀吉のもとでは朝鮮出兵などで活躍した、まさに「海賊大名」の名にふさわしい海の覇者であった 27 。
しかし、嘉隆の人物像は、勇猛果敢な武人という一面だけでは捉えきれない。彼は同時に、当代一流の文化人、すなわち「数寄者(すきしゃ)」でもあった。茶道に深い造詣を持ち、自ら茶会を催すだけでなく、堺の豪商にして当代随一の茶人であった津田宗及の茶会にも頻繁に顔を出し、交流を深めていたことが、宗及の日記『宗及茶湯日記他会記』に記録されている 29 。
彼が「大名物」である「九鬼文琳」を所有していたという事実は、彼が単なる地方の水軍領主ではなく、信長や秀吉が主導する中央の政治・文化の中枢にアクセスできる、洗練された大名であったことを何よりも雄弁に物語っている。
その嘉隆の生涯に、最大の悲劇が訪れる。慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発した。この時、嘉隆は旧主・豊臣家への恩義から西軍に与し、一方で家督を継いでいた嫡男の守隆を東軍の徳川家康のもとへ送った。これは、九鬼家のどちらが敗れても家名を存続させるための、戦国武将ならではの非情にして究極の戦略であった 27 。
しかし、本戦はわずか一日で東軍の圧勝に終わる。西軍敗北の報を受けた嘉隆は、守隆が守る鳥羽城を明け渡して答志島へ逃亡した。息子・守隆は、父の旧功に免じて助命を家康に必死に嘆願し、その願いは聞き入れられた。だが、家康からの赦免の知らせを携えた急使が島に到着する直前、嘉隆は自らの責任を取る形で、和具の洞仙庵にて自刃を遂げた。享年59 34 。この悲劇的な最期は、「九鬼文琳」の流転の物語に、最初の大きな影を落とすこととなった。
九鬼嘉隆が体現した「武」と「文」の二面性は、決して矛盾するものではなく、戦国乱世を生き抜くための必須の能力であった。水軍を率いる「武」の力は、主君にとっての利用価値であり、立身出世の基盤そのものである。一方で、茶の湯の心得と「九鬼文琳」のような名物を所有する「文」の力は、権力中枢との関係を構築し、自らの地位を文化的に正当化するための、いわば「ソフトパワー」であった。「九鬼文琳」は、嘉隆が中央の政治・文化に通じた大名であることを示す、一種のパスポートの役割を果たしていたのである。彼の悲劇的な最期もまた、旧時代の価値観(豊臣への恩義)と新時代の到来(徳川の覇権)の狭間で引き裂かれた、多くの戦国武将が辿った宿命を象徴している。
九鬼嘉隆の死後、彼が愛蔵した「九鬼文琳」は、新たな天下人である徳川将軍家のものとなる。具体的には、二代将軍・徳川秀忠に献上され、次いで三代将軍・徳川家光の所有するところとなった 7 。
この献上は、単なる美術品の贈答という次元を遥かに超えた、極めて高度な政治的行為であった。関ヶ原の戦いにおいて、父・嘉隆は西軍に与したものの、息子・守隆は東軍として戦功を挙げた。その結果、九鬼家は父の罪を赦されただけでなく、戦後処理において2万石の加増を受け、5万5000石の大名として存続を許されている 37 。
この状況下で、父・嘉隆が所有していた最高級の茶入、すなわち旧豊臣方の有力大名であったことの証とも言える「九鬼文琳」を、新時代の支配者である徳川家に差し出すことは、九鬼家の過去を清算し、徳川家への完全な服従と未来永劫の忠誠を誓う、最も象徴的な行為であった。
「九鬼文琳」を最終的に手にした三代将軍・家光の治世は、幕藩体制が盤石となり、武断政治が完成すると同時に、洗練された「寛永文化」が花開いた時代であった。家光自身も祖父・家康同様に茶の湯を深く愛好し、江戸城内で大規模な茶会を催すこともあったと記録されている 39 。こうして「九鬼文琳」は、徳川幕府の絶対的な権威と、将軍家の洗練された文化を象徴する至宝として、江戸城の奥深くに収められることになったのである。
「九鬼文琳」の所有権が九鬼家から徳川家へと移ったことは、戦国時代の終焉と江戸時代の幕開けという、日本の歴史の大きな転換点を象徴する出来事であった。この茶入は、間接的ではあるが関ヶ原の戦いの「戦利品」としての側面を持ち、旧豊臣恩顧の大名が持っていた権威の象徴を、新時代の覇者が接収したことを意味する。一方で九鬼家側から見れば、これは過去の罪を清算し、徳川政権下での家の安泰を確保するための、最も価値ある「貢物」であった。徳川家は、信長や秀吉が築き上げた「茶の湯の価値体系」を巧みに継承し、戦国の名物を自らのものとすることで、文化的な側面からも自らが正統な天下人であることを天下に示したのである。「九鬼文琳」の江戸城への移動は、日本の権力中心が完全に移行したことを物語る、物理的な証左に他ならなかった。
徳川将軍家の至宝として江戸城に秘蔵されていた「九鬼文琳」は、やがてその運命を大きく変える。三代将軍・家光から、時の老中であった堀田正盛(1609-1651)へと下賜されたのである 7 。将軍家が所有する最高級の「大名物」が、いかに功績ある家臣とはいえ臣下に与えられるというのは、極めて異例のことであった。
この前代未聞とも言える措置の背景には、家光と正盛の間に結ばれた、尋常ならざる関係があった。正盛は、家光の乳母であった春日局の義理の孫という縁から、幼い頃より家光の側に仕えていた 41 。家光は正盛を深く寵愛し、その関係は主従のそれを超えていたと多くの史料が示唆している。家光の男色相手の一人として正盛の名が挙げられており、その寵愛ぶりは他の側近たちとは一線を画すものであったという 44 。
この二人の絆の深さを最も劇的に示すのが、慶安4年(1651年)4月20日、家光が死去した際の正盛の行動である。主君の死を知った正盛は、その日の夜に息子たちを呼び寄せ、「我が身はもとより小身なれど、御取立てに預かり大名となり、常に側近に侍ることができた。偏に御重恩によるものである。故に今日お供をする」と遺言を伝え、静かに後を追い殉死した 41 。
この堀田正盛への下賜は、政治的な論功行賞とは全く次元が異なる、極めて個人的な意味合いを持つものであった。家光にとって、徳川の権威の象徴そのものである「九鬼文琳」を正盛に与えることは、自らの権威の一部を分かち与えるに等しい行為であり、正盛への比類なき愛情と絶対的な信頼を天下に示す、最大級の表現であった。それは、他の家臣たちに対し、堀田正盛が自分にとっていかに特別な存在であるかを、誰もがその価値を知る「大名物」によって保証するものであった。
そして、殉死という究極の忠誠を捧げた正盛の姿を思うとき、この下賜は、単なる主従関係を超えた魂レベルでの結びつきの証であったとも解釈できる。この瞬間、「九鬼文琳」はその価値の性格を再び大きく変える。徳川の公的な権威の象徴から、将軍個人の「愛の証」へ。その流転の歴史に、極めて人間的な、濃密な情愛の物語が深く刻み込まれたのである。
将軍家光から堀田正盛へと下賜された「九鬼文琳」は、以後、下総佐倉藩主・堀田家の至宝として、代々の当主に受け継がれていくこととなる 7 。それは、堀田家が将軍家から受けた比類なき栄誉の象徴であり、一門の誇りの根幹をなす存在であった。
しかし、泰平の世が続いた江戸時代も中期から後期にかけて、多くの大名家が深刻な財政難に苦しむようになった。参勤交代に伴う莫大な経費や、幕府から命じられる河川工事などの「御手伝普請」の負担は重く、一方で収入の基盤である米価は不安定であった 48 。その結果、多くの大名家は「大名貸」と呼ばれる大坂や江戸の豪商からの借金に依存して、かろうじて藩の財政を維持している状態であった 49 。
堀田家もその例外ではなく、ついに家宝中の家宝である「九鬼文琳」を質入れするという、苦渋の決断を迫られる事態が発生した 51 。これは、堀田家にとって最大の危機であると同時に、泰平の世における武家の経済的苦境を象徴する出来事であった。
この一大事に際し、一筋の光が差し込む。本家の窮状を聞きつけた分家である佐倉藩主・堀田正亮(ほったまさすけ)が、これを座視するに忍びず、大金を投じて質流れ寸前の「九鬼文琳」を請け出し、ただちに本家に返還したという美談が伝わっている 51 。
この質入れ事件は、江戸時代の武家社会が抱えていた矛盾と実態を、一つの茶入を通して鮮やかに映し出している。第一に、それは「名誉の重さ」を物語る。「九鬼文琳」は、単に高価な骨董品ではない。三代将軍・家光公からの拝領品であり、堀田家の栄光と由緒の根幹をなす、金銭には代えがたい「名誉の象徴」であった。それを手放すことは、家の歴史そのものを汚すに等しい行為だったのである。
第二に、それは「経済の厳しさ」を露呈する。しかし、その絶対的な名誉をもってしても、日々の藩財政の困窮はいかんともしがたい。質入れという行為は、武家の面子や名誉よりも、現実の金銭が必要であったという、大名家の切迫した状況を物語っている。
そして第三に、それは「一門の結束」を示す。分家が私財を投じてまで家宝を買い戻したという行為は、この茶入が堀田「一門」全体の誇りであったことを証明している。それは、単なる経済的合理性を超えた、武家の「面子」と「家」の存続をかけた行動であった。「九鬼文琳」は、この逸話によって、美しくも厳しい江戸時代の武家のリアルな物語を、その身に深く刻み込んだのである。
時代は江戸から明治へと移る。徳川幕府は崩壊し、日本は西洋列強に伍するべく、近代国家へと大きく舵を切った。大政奉還と廃藩置県により、かつて日本を支配した大名家はその地位を失い、封建的な価値観は根底から揺らいだ。
このような時代の大きな転換期、1883年(明治16年)5月、堀田家当主であった堀田正養(ほったまさやす)は、一門の至宝「九鬼文琳」を、皇族である小松宮彰仁親王に献上するという決断を下す 51 。
この献上の背景には、明治新政府による文化財保護政策の萌芽があった。明治維新直後の「廃仏毀釈」の嵐により、多くの貴重な文化遺産が破壊・散逸の危機に瀕したことを受け、政府は「古器旧物保存方」を発布するなど、文化財の保護に乗り出し始めていた 52 。そして、その保護の主体として、皇室が重要な役割を担うようになっていったのである 54 。
旧大名家であった堀田家にとって、かつての支配者である徳川将軍家から拝領した宝物を、新しい時代の権威の中心である皇室に献上することは、新時代への順応と忠誠を示す、極めて象徴的な行為であった。小松宮彰仁親王は、皇族の中でも特に美術品への関心が深く、多くの名品をコレクションしていたことが知られており、「九鬼文琳」の新たな所有者としてふさわしい人物であった 55 。
「九鬼文琳」の最後の旅路は、日本が近代化していくプロセスそのものを象徴している。明治維新によって、「徳川将軍からの拝領品」という価値は、その絶対的な権威を失った。堀田家は、このままでは価値が失墜しかねない家宝に、「皇室献上品」という新たな、そして近代国家における最高の権威を与えることで、その価値を巧みに再創造したのである。
この所有者の移行は、文化財のあり方が、特定の支配階級の権威を示す「私的な象徴」から、国家や国民が共有すべき「公的な遺産」へと移行していく、大きなパラダイムシフトを意味していた。戦国の武将、江戸の将軍、そして近代の皇族。日本の歴史の主役たちの手を渡り歩いた「九鬼文琳」は、その来歴自体が、日本のダイナミックな歴史の変遷を物語る、生きた証人となったのである。
1923年(大正12年)9月1日、午前11時58分。相模湾を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震が関東地方を襲った。関東大震災である。帝都東京は瞬く間に火の海と化し、死者・行方不明者は10万5千人余りに及んだ。この時、小松宮家の邸宅も被災し、そこに秘蔵されていた「九鬼文琳」は、数世紀にわたる流転の末、その付属品と共に灰燼に帰した 1 。
この震災による文化財の損失は計り知れない。「九鬼文琳」の他にも、本阿弥光悦作の黒樂茶碗「鉄壁」や赤樂茶碗「ヘゲメ」、千利休が愛したとされる長次郎作の茶碗「木守」など、日本の茶道史を彩る数多の名物茶道具が、この劫火の中で永遠に失われた 1 。この喪失は、日本の文化史にとって、取り返しのつかない大きな打撃であった。
しかし、我々が「九鬼文琳」の存在を今なお語り継ぐことができるのは、一つの幸運があったからである。実業家にして数寄者であった高橋箒庵(そうあん)の編纂により、震災前の大正10年(1921年)から、当代の名物茶道具を網羅した写真図録『大正名器鑑』の刊行が始まっていた 1 。堀田家から小松宮家への伝来を記した文献には、この『大正名器鑑』が典拠として挙げられており 51 、失われる直前の「九鬼文琳」の姿が、近代的な写真技術によって記録されていた可能性が高い。我々がその姿を僅かでも偲ぶことができるのは、まさにこうした近代的な文化財記録事業の恩恵に他ならない。
「九鬼文琳」の終焉は、我々に何を問いかけるのだろうか。そこには、一つの歴史的な皮肉が見て取れる。戦国の動乱や幾多の火災を生き延び、最も安全で名誉ある場所、すなわち皇族の邸宅に安置されたにもかかわらず、近代都市がもたらした未曾有の自然災害によって失われたのである。この結末は、文化財を未来へ継承することの困難さと、人間の力の及ばない運命の存在を我々に突きつける。
しかし同時に、物理的に失われたことで、「九鬼文琳」はもはや誰も手にすることのできない「幻の名器」となった。その存在は、人々の記憶と、かろうじて残された記録の中にのみ生き続け、かえってその伝説性を高めることになったとも言える。この悲劇は、文化財の物理的な保護だけでなく、写真や文献による「記録」がいかに重要であるかを痛感させる。失われたモノの物語を後世に伝えることができるのは、偏に先人たちの記録の賜物なのである。
本報告書で辿ってきた「九鬼文琳」の生涯は、まさに日本の歴史そのものの縮図であった。一人の海賊大名の名を冠して歴史の表舞台に登場したこの小さな茶入は、戦国、江戸、明治、大正という四つの時代を駆け抜け、武将、将軍、大名、そして皇族という、各時代の権力の頂点に立つ者たちの手を渡り歩いた。
その旅路において、「九鬼文琳」は常にその意味合いを変容させ続けた。ある時は、戦国武将の武功と文化資本の証として。ある時は、徳川幕府の絶対的な権威の象徴として。またある時は、将軍の寵臣への深い私情の証として。そして、大名家の名誉と経済的苦境の狭間で揺れ動き、最後は近代国家の文化的至宝として、その役割を終えた。
結論として、「九鬼文琳」は、単なる美しい茶入ではない。それは、日本の歴史の激動期における権力と文化の在り様、武家の名誉と経済の実態、そして近代化の光と影を、その一身に凝縮して体現した「時代の鏡」であった。物理的には失われた今、その来歴という名の「物語」こそが、我々にとっての「九鬼文琳」であり、日本の歴史と文化の豊かさと奥深さを雄弁に物語る、不滅の文化遺産なのである。
本報告書は、文献に基づき「九鬼文琳」の歴史的価値を論じるものであった。しかし、茶の湯の本質は、頭で理解するだけでなく、五感を通じて体験することにある 57 。静寂に包まれた茶室の空気、釜の湯がしゅんしゅんと沸く音、茶筅で点てられた抹茶の豊かな香りと舌の上に広がるかすかな苦み、それを引き立てる和菓子の繊細な甘さ、そして亭主と客との間で交わされる一期一会の交流 59 。
現代において、我々は「九鬼文琳」そのものを手にすることはできない。しかし、日本各地には、初心者でも気軽に茶の湯を体験できる施設が数多く存在する 61 。そうした場で一服の茶を味わうことは、「九鬼文琳」が生きた世界の空気に触れ、その背景にある精神性を肌で感じるための、最良の道筋となるであろう。この報告書が、読者諸賢をその奥深い世界へと誘う一助となれば幸いである。