修善弓は小笠原流弓術の免許弓で、朱塗りと七五の藤巻が特徴。陰陽道思想を反映し、武士の精神修養と品格を象徴。戦国時代、弓術が実戦から儀礼へ変容する中で生まれた。
小笠原流弓術における免許弓の一つ、「修善弓」。その姿は「朱塗りの弓に藤を上に7ヶ所、下に5ヶ所巻いたもの」とされ、その装飾は「七曜・五行という陰陽道の理を表している」と伝えられている 1 。この定義は、単なる一つの弓の仕様を超えて、我々に深遠な問いを投げかける。すなわち、この「修善弓」は、日本の歴史上、最も武力による実利が追求されたであろう戦国時代において、具体的にどのような形で存在し、いかなる意味を担っていたのであろうか。
本報告書は、この問いを解明することを目的とする。単に修善弓という「モノ」の物理的特徴や、現代における免許制度上の位置づけを整理するに留まらない。その構成要素である「朱塗り」「七と五の藤巻」、そして「修善」という名称に込められた思想的背景を、戦国時代という特殊な文脈の中で徹底的に分析する。これにより、一本の弓を通じて、戦国武士の精神世界、宇宙観、美意識、そして「武」と「文」が織りなす複雑な価値観を浮かび上がらせることを試みる。これは、修善弓を、武器であると同時に、一つの文化的な装置として捉え、その歴史的実在性と象徴的意義を多角的に解き明かす知的探求である。
修善弓を理解するためには、まずその母体である小笠原流そのものの成り立ちと、その根底に流れる思想的基盤を把握することが不可欠である。小笠原流の弓、ひいては修善弓が持つ特異な象徴性は、戦国時代に突如として生まれたものではなく、鎌倉時代から連綿と受け継がれてきた武家の精神的伝統に深く根差しているからである。
小笠原家の歴史は、平安時代末期から鎌倉時代初期にまで遡る。清和源氏の系譜を引く小笠原家の祖、小笠原長清は、建久元年(1190年)頃、源頼朝の「糾方(きゅうほう)」、すなわち弓馬術礼法の師範に任じられた 3 。これは、小笠原流が武家政権の黎明期において、その頂点に立つ将軍家の師範として、武士の規範を指導する最高の権威であったことを示している。
重要なのは、小笠原流が単なる弓の技術(弓術)のみを教える流派ではなかったという点である。その教えは「礼法・弓術・弓馬術(流鏑馬など)」の三つを不可分の一体として教授する、総合的な武家故実の体系であった 5 。小笠原流自身、この三つの関係を「礼法が楷書、弓術が行書、流鏑馬が草書」と説明しており、礼法という厳格な基本があって初めて、弓術や流鏑馬という応用的な武技が成り立つという思想を示している 5 。この「武」と「礼」の統合こそが、後に「修善」という弓の名に象徴される精神性へと繋がる、流派の根幹をなす理念であった。
小笠原流の精神的基盤を形成する上で、もう一つ決定的に重要な要素が陰陽道である。陰陽道は、平安時代に日本へ伝来し、森羅万象すべてが「陰」と「陽」という相反する二つの気のバランスと循環によって成り立つとする思想である 7 。この思想は、特に鎌倉時代の武士たちに深く浸透し、彼らの世界観や行動規範の根底をなしていた 9 。
小笠原流の創始者である長清もまた、この時代の武士であり、その教えは必然的に陰陽道の強い影響下にあった。小笠原流の公式な見解によれば、礼法・歩射・騎射の全てが陰陽道を軸に成り立っており、特に免許弓の模様や、儀礼行事における場の設営法などは、陰陽道の方位や数理に基づいていると明言されている 7 。流鏑馬神事で射手が発する「陰陽(いんよう)」という矢声(やごえ)も、宇宙や神と呼応するためのものと考えられている 7 。
この事実は、修善弓の装飾を解読する上で極めて重要な示唆を与える。すなわち、修善弓に見られる「七」と「五」という数字や「朱」という色は、単なるデザイン上の選択ではなく、小笠原流が依拠する陰陽道の宇宙観を具現化した、意図的な思想の表明である可能性が極めて高い。したがって、戦国時代における小笠原流の武具を理解するためには、この陰陽道という思想的フィルターを通して分析することが不可欠となるのである。
修善弓は、その物理的な構成要素の一つ一つが、射手の内面世界と宇宙観を反映する象徴的な記号として機能している、極めて高度な思想的武具である。その「朱塗り」「藤巻の数」「修善」という名、それぞれを分解し、その意味の深層を分析することで、この弓が担う重層的な役割が明らかになる。
修善弓は、「朱合漆(しゅあいうるし)を拭き」と説明されるように、朱色の漆で仕上げられている 1 。この「朱」という色は、日本の精神文化において古くから特別な意味を担ってきた。
第一に、呪術的な意味である。朱の原料である辰砂(しんしゃ)やベンガラは、縄文時代の祭祀具や埋葬人骨にも見られ、古くから「魔除け」「厄除け」、そして生命の再生を象徴する神聖な色と見なされてきた 10 。朱で塗るという行為自体が、対象物に神聖な力を付与し、邪悪なものから保護する呪術的な意味合いを持っていたのである。
第二に、物理的な保護機能である。漆は木材を湿気や乾燥から守り、耐久性を高める効果がある 12 。特に弓のような、常に強い張力がかかり、天候の影響を受けやすい武具にとって、漆による塗膜は性能を維持するために不可欠な実用的技術であった。
第三に、社会的・軍事的な象徴性である。戦国時代において、朱(赤)は特に武威を示す色として重用された。武田信玄の軍団や後の井伊直政の部隊に代表される「赤備え」は、戦場で際立って目立ち、敵を威圧すると同時に、それが精鋭部隊であることの証でもあった 13 。このため、朱塗りの武具は、所有者の高い身分や武勇、そして所属する部隊の格式を示す象徴となった。
これら三つの意味を統合すると、修善弓の朱塗りは、単なる装飾ではなく、①所有者を災厄から守る呪術的加護、②弓自体を保護する物理的機能、そして③射手の卓越した技量と高い身分を示す社会的記号、という三重の意味を担っていたと解釈できる。
修善弓の最大の特徴は、「握りより上に七ヶ所、下に五ヶ所」という特異な藤の巻き方にある 1 。藤を巻くこと自体は、竹と木を膠(にかわ)で接着して作られる和弓の構造を補強し、剥離を防ぐための実用的な目的を持つ 14 。しかし、この「七」と「五」という非対称な数には、明らかに実用性を超えた象徴的な意味が込められている。
この数字は、第一章で述べた小笠原流の根幹思想である陰陽道によって解読することができる。
さらに、日本の伝統的な思想では、一、三、五、七といった奇数(陽数)は吉数とされ、祝儀などに用いられてきた 17 。七と五は共に吉祥の数であり、この弓が神聖かつ縁起の良いものであることをも示している。
このように、修善弓は一本の弓の上に、天(七曜)と地(五行)の理を同時に体現している。弓を構える射手は、天と地の間に立つ「人」として、この弓を引くという行為を通じて、宇宙の秩序と一体化することを求められる。これは、古代中国思想における「天地人」の三才思想 19 を、弓という道具の上に凝縮して表現した、壮大な世界観の表明に他ならない。
この天地の理を体現した弓に、なぜ「修善(しゅぜん)」という名が与えられたのか。この名称は、弓を射ることが単なる技術の行使ではなく、人間としての精神的な完成を目指す「道」であることを明確に示している。
「修」は、学問や武芸を修める、人格を修養するといった意味を持つ。「善」は、道徳的な正しさ、倫理的な善性を意味する。つまり「修善」とは、「善を修める」ことであり、弓を引くことを通じて自己の人格を陶冶し、道徳的に高い境地を目指すという思想そのものを表している。
この思想は、弓道における「正射必中(せいしゃひっちゅう)」の理念と深く共鳴する。これは、正しい射法で射られた矢は、必ず的に中るという意味であり、的中という結果よりも、そこに至るまでの射法、すなわち心のあり方や身体の使い方の正しさを追求する姿勢を重視するものである 20 。また、儒教の教えである「射は正しきを己に求む」という言葉にも通じる。的に中らなかった場合、その原因を弓や矢、環境のせいにするのではなく、自らの内なる邪念や技術の未熟さに求め、反省する。この自己内省の過程こそが、徳を積み、人格を磨くことに繋がるのである 21 。
この「修善」の思想が小笠原流の核心部分であることは、同流に『修身論』という最も重要な伝書の一つが存在することからも裏付けられる 23 。『修身論』は、まさしく「身を修める」ための教えであり、修善弓がその教えを体現する象徴的な道具であることを示唆している。この弓を持つ者は、ただ弓の技量に優れるだけでなく、天地の理を理解し、常に自己の心を正しく保ち、善を修めることを求められる、理想の武士像を体現する存在なのである。
修善弓のような高度に象徴的な弓の存在を戦国時代という文脈で考察するためには、当時の武士たちが弓矢という武具をどのように認識していたかを理解する必要がある。戦国時代は、弓矢が最も実用的な兵器としてその性能を極めた時代であると同時に、古来からの神聖な祭器としての役割も失われていなかった。この「武射(ぶしゃ)」と「文射(ぶんしゃ)」、すなわち「兵器」と「祭器」という二面性の共存こそが、修善弓が生まれる土壌となった。
戦国時代は、弓矢が合戦の主兵器として最も輝いた時代であった。天文12年(1543年)に鉄砲が伝来した後も、その装填に時間がかかるという欠点から、速射性に優れる弓矢は依然として戦場の主力であり続けた 25 。遠距離からの射撃戦において、弓足軽隊による一斉射撃は、敵の突撃を阻止し、戦況を有利に進める上で決定的な役割を果たした。
この時代、弓の構造自体も著しい進化を遂げた。木と竹を張り合わせた複合弓の技術はさらに洗練され、芯材に竹ひごを用いることで、より強く、高い反発力と貫通力を実現した「弓胎弓(ひごゆみ)」が戦国時代後期までに完成していたことが、考古学的出土品からも確認されている 14 。これは、弓が純粋な兵器として、いかに殺傷能力と飛距離を追求されていたかを示す証左である。
戦場で用いられたこれらの弓は、当然ながら実用性が第一に求められた。装飾は最小限に抑えられ、例えば黒漆塗りで要所のみを藤で補強した、質実剛健な弓が主であったと考えられる 27 。これらはまさしく「武射」、すなわち敵を殺傷するための道具としての弓の側面を体現している。
一方で、弓矢は古代から単なる武器ではなかった。縄文時代には狩猟具であると同時に神聖な道具とされ 28 、弥生時代以降、争いの道具となってもなお、その神聖な性格は失われなかった 29 。この伝統は戦国時代においても色濃く残っていた。
武士たちは、戦場での役割とは全く別に、弓矢を神威の依り代として様々な儀礼に用いた。その代表が、年頭に行われる「弓神事」である。これは、その年の吉凶を占ったり、天下泰平や五穀豊穣を祈願して行われる神聖な儀式であり、全国各地の神社で武家によって執り行われた 30 。
また、より個人的なレベルでは、魔除け・厄除けの儀礼としての弓矢の役割が重要であった。特に、矢をつがえずに弓の弦を強く弾き、その音によって邪気を祓う「鳴弦の儀(めいげんのぎ)」は、皇室や公家、そして武家社会に広く浸透した儀礼であった 28 。主君の病気平癒や、不吉な出来事が起こった際に、この儀式が行われた。
このように、弓矢は戦場を離れれば、神と交信し、魔を祓うための神聖な祭器、「文射」の道具としての顔を持っていた。戦国武士にとって、弓矢は人を殺すための兵器であると同時に、神仏に祈りを捧げ、自らと一族を守るための祭器でもあったのである。この二つの側面は決して矛盾するものではなく、戦勝を祈願するために神事を行い、その足で戦場へと向かうのが、当時の武士の偽らざる姿であった 33 。この兵器と祭器の二面性の共存こそが、戦国武士の弓矢に対する認識の根底にあったと言える。
これまでの分析を踏まえ、本章では核心的な問いである「修善弓は戦国時代に存在したのか」について考察する。直接的な物証や文献が乏しい中で、その存在形態を推論するためには、史料の不在が意味することと、当時の武家故実における象徴的武具の位置づけを慎重に検討する必要がある。
まず、現時点において、戦国時代の古文書や絵画資料の中で「修善弓」という名称が明確に記された一次史料の発見は極めて困難である、という事実を認めなければならない。この史料の不在をもって、直ちに「戦国時代に修善弓は存在しなかった」と結論づけるのは、しかし早計である。
第二章で詳述したように、修善弓を構成する全ての要素、すなわち「朱塗り」「七と五の藤巻」「修善の思想」は、いずれも戦国時代に存在し、武家社会において重要な意味を持つものであった。朱塗りは武威と格式を示し、七曜五行思想は武士の宇宙観の根底にあり、弓による精神修養は武士道の中核をなす理念であった。これらの要素が、戦国時代に一つの弓の上で統合されていなかったと考える方が不自然である。
ここから、本報告書の中心的な仮説が導き出される。すなわち、**「修善弓は、戦国時代において、特定の『モノ』の固定名称としてではなく、高位の武士が持つべき理想の弓の『理念』あるいは『様式』として、既に存在していたのではないか」**という仮説である。戦国の武将が、自らの持つ特別な弓を指して「これぞ我が修善弓なり」と呼んだかどうかは定かではない。しかし、彼らが「天地の理を表す、朱塗りで七五の藤を巻いた神聖な弓」を、最高の格式を持つ弓として認識し、所持していた可能性は極めて高いと考えられる。
戦国時代の武士、特に大名や高名な武将は、戦場で実際に使用する実用的な武具とは別に、自らの権威、家格、教養、そして武威を示すための象徴的な武具を所持した。例えば、全軍を指揮する際に手にする軍配 34 や、天下に名高い名刀、あるいは華麗な装飾が施された甲冑などがそれに当たる。これらは単なる道具ではなく、所有者の全人格を体現する、極めて重要なステータスシンボルであった。
修善弓もまた、この系譜に連なる象徴的武具として位置づけることができる。それは、日常の稽古や、戦勝祈願、元服などの重要な儀式、あるいは大将が本陣に座して戦況を見守る際に佩用(はいよう)する、いわば「見せる」ための弓であったと推論される。その弓を手にすることは、単に弓の技量が高いことを示すだけでなく、天地の理をわきまえ、常に自己を修養する高い精神性を持った武人であることの表明であった。
この「理念」や「様式」としての修善弓が、後の時代に具体的な名称と位階を持つに至った背景には、江戸時代における武芸流派の制度化が大きく関わっている。戦乱が終息し泰平の世となると、各流派は自らの技術や思想の正統性、権威を確立するため、それまで口伝や暗黙の了解であった教えを成文化し、免許制度を整備する必要に迫られた 35 。小笠原流もこの大きな流れの中で、古来より伝わる弓の格式を、「免許弓」として明確な名称と位階を持つ体系へと再編した。その過程で、戦国期に既に存在した「思想的・象徴的に最高位に位置づけられる弓の様式」の一つに、「修善弓」という、その本質を的確に表す名称が与えられ、免許階梯の中に正式に組み込まれたと考えられる。したがって、我々が今日知る「修善弓」とは、戦国期に生まれた武士の理想が、江戸期に制度として結晶化した姿であると結論づけるのが最も妥当であろう。
戦国という実利の時代が終わり、泰平の江戸時代が訪れると、武芸のあり方は大きく変容した。かつて戦場で生き残るための殺傷技術であった弓術は、次第に心身を鍛錬し、人間性を高めるための「道」としての性格を強めていく。この過程で、各流派は自らの教えを後世に正しく伝えるため、伝書の整備と免許制度の体系化を競って進めた。修善弓もまた、この流れの中で小笠原流の免許階梯に明確に位置づけられることとなった。
江戸幕府による統治が安定すると、武士にとって弓矢を戦場で用いる機会は激減した。しかし、弓術が廃れることはなく、むしろ武士が平時において心身を鍛え、武徳を養うための重要な修養法として奨励された。この時代、弓術は実戦技術(術)から、精神性を重視する求道(道)へとその重心を移したのである。
この変質に伴い、各流派は自らの流儀の優位性や伝統を内外に示すため、技術の段階を細かく分け、それぞれの段階に到達したことを証明する免許状を発行する制度を確立した 37 。この免許制度は、単に技術レベルを示すだけでなく、その段階で学ぶべき思想や故実、そして使用を許される道具の格式までをも規定する、総合的な教育システムであった。小笠原流においても、この免許制度の整備が進められ、使用する弓や弓懸(ゆがけ)によって、その者の修行の段階(位)が一目でわかるようになった 6 。
現代に伝わる小笠原流の歩射(ぶしゃ)の免許制度において、修善弓は特定の修行段階に達した者のみが使用を許される、明確な位階を持つ免許弓として規定されている 5 。その相対的な位置づけを理解するため、他の免許弓と比較して一覧化する。
【表1:小笠原流 歩射免許弓の位階(現代における一般的な解釈)】
位階(下位から上位へ) |
免許弓の名称 |
主な特徴と象徴 |
備考 |
|
初伝段階 |
三品籐弓(さんぼんとうきゅう) |
朱塗、大中小の州浜模様。「品」格を象徴。円物(儀礼的射礼)で使用される 1 。 |
射法における基本的な品格を身につけた段階を示す。 |
|
中伝段階 |
修善弓(しゅぜんきゅう) |
朱合漆、上七所・下五所藤巻。七曜五行の理、天地の秩序と修身を象徴 1 。 |
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本報告書の中心主題。技と心の調和、修養の段階に入ることを示す。 |
奥伝段階 |
相位弓(そういきゅう) |
漆塗、七・五・三の藤巻。天地人、陰陽の調和を象徴。鳴弦の儀にも用いられる 1 。 |
修善弓からさらに進み、宇宙観との深い一体化を示す。 |
|
最高位 |
重籐弓(しげとうきゅう) |
全体に黒漆塗りの藤を隙間なく巻く。最高の格式と武威を象徴。『平家物語』にも登場する伝説的な弓 1 。 |
江戸時代には大名家にのみ許された最高位。武家の頂点に立つ者の弓。 |
この表が示すように、修善弓は免許の階梯において、基本的な技と品格を修めた者が、次に心身の修養というより高次の段階へ進むことを象徴する、重要な位置を占めている。戦国時代には流動的であった「理想の弓の様式」が、江戸時代という制度化の時代を経て、修行の道筋を示す明確なマイルストーンとして、体系の中にしっかりと位置づけられたのである。
本報告書における総合的な考察の結果、小笠原流の「修善弓」は、特定の時代に限定される単一の「モノ」ではなく、歴史の潮流の中でその意味を変容させ、武士の理想を映し出してきた文化的な「コト」であると結論づけることができる。
その思想的源流は、鎌倉武士の精神的支柱であった陰陽道の宇宙観に遡る。天を象徴する「七」と地を象徴する「五」の数理をその身にまとうことで、弓は単なる道具から、射手が宇宙の秩序と一体化するための媒介装置へと昇華された。
この理念は、実利と武威が全てを支配したかに見える戦国時代において、決して失われることはなかった。むしろ、武人の武勇(武)と、精神性や教養(文)の統合こそが理想の武士像とされたこの時代に、修善弓はその理想を体現する高位武士の弓の「様式・理念」として存在したと推論される。それは戦場で敵を射抜くための兵器であると同時に、神前にて自らの心を正し、武運を祈るための祭器でもあった。
そして、戦乱が終息し、武芸が「術」から「道」へとその本質を変化させた泰平の江戸時代に至り、この流動的な理念は、小笠原流の免許制度という形ある体系の中に「修善弓」という具体的な名称と位階を持つものとして結晶化した。それは、修行者が技の習熟から心の修養へと踏み出すことを示す、重要な道標となったのである。
最終的に、修善弓とは、単なる武器や工芸品の範疇を超えた、一つの文化的装置であると言える。それは、射手の内面的な徳性や、宇宙観との調和といった、目に見えない精神的価値を「朱塗り」や「七・五の藤巻」という形によって可視化したものである。一本の弓の中に、武士道が目指した理想の人間像、すなわち、技に優れ、礼節をわきまえ、天地の理に通じ、常に自らを修め続けるという生き方を凝縮して現代に伝える、極めて貴重な文化遺産なのである。