最終更新日 2025-08-16

八重垣

戦国の葉茶壺「八重垣」は、信長の「御茶湯御政道」の象徴。本能寺の変で焼失し伝説となる。江戸の瀬戸茶入「八重垣」は、石州が愛用。二つの「八重垣」は、時代の美意識と権力の変遷を映す。
八重垣

戦国の名物、葉茶壺「八重垣」—その実像と伝説

序章:二つの「八重垣」— 伝説への序曲

茶道具の世界には、その名を歴史に刻む数多の名品が存在する。中でも「八重垣」という銘を持つ器は、二つの異なる時代に、それぞれ至高の存在として君臨したことで知られている。一つは、戦国時代に天下人・織田信長が所持し、本能寺の変の炎と共に幻と消えたとされる 葉茶壺 。もう一つは、江戸時代前期に大名茶人・片桐石州が愛用し、奇跡的な逸話と共に現存する 瀬戸茶入 である 1 。これらは分類も時代も全く異なる、完全に別の器物である。本報告書は、数多の茶人を魅了し、権力者たちが渇望した前者、すなわち戦国時代の葉茶壺「八重垣」の実像と、それが内包する歴史的意義を徹底的に解明することを目的とする。

まず、「八重垣」という銘の由来について考察する必要がある。この優美な名は、日本最古の歴史書『古事記』に記された、須佐之男命(スサノオノミコト)が詠んだ日本最初の和歌にその源流を求めることができるであろう。「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」 3 。この歌は、大切な妻を守るために幾重にも垣根を巡らせる様を詠んだものであり、「八重垣」という言葉には、神聖にして侵すべからざる場所、あるいは最愛のものを守護するという深い文化的含意が込められている。このことから、この葉茶壺が単なる器物としてではなく、所有者にとって極めて特別な意味を持つ、守られるべき宝として命名されたことが強く示唆される。

そして、全く異なる二つの器に同じ銘が与えられたという事実は、単なる偶然とは考え難い。むしろ、そこには文化的な連続性と、過去の伝説に対する意図的な参照が見て取れる。江戸時代の大名茶人であった片桐石州は、茶の湯の歴史とそれにまつわる名物の伝説に精通していたはずである。彼が自らの愛蔵する瀬戸茶入に「八重垣」と名付けた行為は、戦国時代に失われた伝説の名壺を明確に意識し、その歴史的権威と物語性を自らの茶の湯の世界に取り込もうとする、高度な文化的戦略であった可能性が極めて高い。それは、過去の文化遺産への深い敬意の表明であると同時に、自らの道具をその壮大な歴史の文脈の中に位置づけることで、その価値を一層高めようとする洗練された美意識の表れであったと言えるだろう。

第一章:名物の誕生 — 「八重垣」の姿と品格

本能寺の兵火によって現物を目にすることが叶わなくなった今、葉茶壺「八重垣」の姿は、後世に残された記録の断片から再構築するほかない。しかし、その記述は、この壺が比類なき品格を備えていたことを雄弁に物語っている。

物理的特徴の詳述

諸記録によれば、「八重垣」は葉茶壺として実に堂々たる風格を備えていた 1

その容量は六斤(約3.6kg)とされ、抹茶の原料となる碾茶(てんちゃ)を十分に保存できる大きさであった。器の肌合いは、胴体部分に深く艶やかな黒釉が施され、上部は赤黄色に焼き締まった土肌がのぞくという、劇的な対比を見せていたと伝えられる。この釉薬の「景色」は、静謐な黒の中に燃えるような赤黄色が映える、計算され尽くした美の極致であったと想像される。

形状においては、器の表面に三筋の「ろくろ目」が確認できたという。これは陶工が土を挽き上げる際に残した力強い指の痕跡であり、端正な姿の中に、手仕事ならではの生命感と躍動感を宿していたことを示している。均整の取れた美しさだけでなく、土という素材そのものが持つ力強さを感じさせる、まさしく名物と呼ぶにふさわしい造形であっただろう。

さらに特筆すべきは、底に三つの漆繕いがあったという点である 1 。通常、傷や修復は器の価値を損なう欠点と見なされがちである。しかし、戦国時代の成熟した茶の湯の価値観においては、これらはむしろ「趣深い」景色として肯定的に評価された。この漆の跡は、この壺が単なる鑑賞品ではなく、歴代の所有者たちの手で実際に使われ、万が一の破損に際しても丁寧に修復されるほど深く愛されてきた歴史の証左なのである。完璧な新品の状態よりも、使い込まれ、受け継がれてきた時間の重みにこそ美を見出す「わび」の精神が、この壺の評価の根底には流れていた。この漆繕いは、まさに「八重垣」に付与された物語を可視化する刻印であり、その価値を一層深める要素となっていた。

産地と分類の考察

「八重垣」の産地については、唐物、すなわち中国大陸からの輸入品であったことが確実視されている。具体的にどの窯で焼かれたかを特定する史料は現存しないが、同じく大名物として知られる他の茶壺と比較することで、その輪郭をある程度推測することは可能である。例えば、現存する大名物「松花」は南宋から元時代(13〜14世紀)にかけて中国南部で焼かれた四耳壺(しじこ)であることが判明している 4 。これらの壺は、本来、貯蔵用の雑器として作られたものが、日本の茶人たちの審美眼によって見出され、茶壺として新たな価値を与えられたものである 6

「八重垣」もまた、同様の経緯で日本にもたらされた広東省周辺の窯で焼かれた陶器であった可能性が高い。また、戦国時代後期には、フィリピンのルソン島を経由して輸入された東南アジアや中国南部の雑器が「呂宋壺(るそんつぼ)」として珍重され、大名たちの間で熱狂的な収集の対象となった 7 。豊臣秀吉が千利休らの目利きによって呂宋壺に等級を付け、価値を公認した逸話は有名である 8 。こうした時代背景を鑑みれば、「八重垣」は、それ以前から伝来していた由緒正しい唐物として、新たに流入してきた呂宋壺とは一線を画しつつも、舶来の壺に対する当時の武将たちの憧れと熱狂の中で、その価値を絶対的なものとしていったと考えられる。

第二章:権威の象徴 — なぜ壺が城に匹敵したのか

戦国乱世において、一つの壺がなぜ一国の城にも匹敵するほどの価値を持ち得たのか。その謎を解く鍵は、当時の茶の湯が置かれていた特異な状況と、それを巧みに利用した天下人・織田信長の戦略にある。

戦国時代の茶の湯の特異性

この時代の武将たちにとって、茶の湯は単なる趣味や芸道ではなかった。それは、武人としての必須教養であり、社会的地位を示すステータスシンボルであった 9 。明日をも知れぬ戦場の緊張から解放され、静寂な茶室で一碗の茶と向き合う時間は、彼らにとってかけがえのない精神的な癒しの場であった 11 。しかし同時に、茶室は極めて高度な政治交渉や同盟、密談が行われる外交の舞台でもあった。武器を持たずに膝を突き合わせる茶会は、互いの腹を探り、信頼関係を構築するための重要な儀式として機能していたのである 9

「名物」という価値の創造

この茶の湯が持つ政治的・社会的機能を最大限に活用したのが、織田信長であった。信長は、畿内を平定する過程で、堺の豪商や寺社が所蔵する高価な茶道具(名物)を、時には権力に物を言わせ、時には莫大な金銀を投じて収集した。これは「名物狩り」として知られている 13

信長の真の革新性は、集めた名物を自身の趣味に留めなかった点にある。彼は、これらの茶道具を家臣への恩賞として与えるという、全く新しい価値体系を創り出した。これは「御茶湯御政道」と呼ばれ、信長の統治術の根幹をなすものであった 16 。天下統一が進むにつれて、恩賞として与えるべき土地は有限となる。この問題に対し、信長は茶道具に「一国一城」にも匹敵する価値を「宣言」することで、新たな報酬システムを確立したのである 18

このシステムの下では、茶会を催すことさえも信長の許可が必要とされ、名物茶道具を拝領することは、主君から絶大な信頼と評価を得た証となった 17 。例えば、武田氏攻略で大手柄を立てた滝川一益が、関東管領の地位よりも名物茶入「珠光小茄子」を望んだという逸話は、この価値観がいかに武将たちの間に浸透していたかを物語っている 20 。信長は、千利休のような当代一流の茶人の審美眼を巧みに利用して名物の価値を権威付けし 21 、文化をも自らの支配下に置くことで、天下布武を盤石なものにしようとした。葉茶壺「八重垣」は、この信長が創り出した「象徴資本」の頂点に君臨する、究極の至宝であった。

武将たちの熱狂

武将たちがこれほどまでに茶道具、特に唐物や呂宋壺に熱狂した背景には、複雑な心理が渦巻いていた。まず、遠い異国から渡ってきた品々への素朴な憧れがある。そして、数ある道具の中から真の価値を持つものを見抜く「目利きの能力」を誇示することは、武勇だけでなく文化的素養をも兼ね備えた一流の武人であることの証明であった 9 。さらに、天下人である信長が価値を認めた道具を所有し、その価値観を共有することは、信長を中心とする支配体制への帰属意識を高め、自らの地位を確固たるものにするための重要な手段でもあった。こうして、一つの壺を巡る熱狂は、戦国武将たちの野心と美意識、そして政治的思惑が交錯する、時代の象徴的現象となったのである。

第三章:天下人の手を渡る — 「八重垣」の伝来

名物茶道具の価値は、その造形美のみならず、誰の手を経てきたかという「伝来」によって大きく左右される。「八重垣」の伝来史は、それ自体が室町時代後期から戦国時代にかけての権力闘争の縮図であり、この壺がいかに時代の中心人物たちに渇望されたかを物語っている。

所有者の系譜

「八重垣」が辿ったとされる所有者の変遷は、日本の歴史の転換点と見事に同期している。

足利義政と東山御物

「八重垣」の伝来は、室町幕府八代将軍・足利義政にまで遡るとされる 22 。義政は政治的には必ずしも成功したとは言えないが、文化的には東山文化を開花させた当代随一の数寄者であった。彼が収集した唐物の絵画や工芸品は「東山御物」と呼ばれ、後世の美術品評価の絶対的な基準となった 23 。もし「八重垣」が東山御物の一つであったとすれば、それはこの壺がその出自からして最高級の文化的権威をまとっていたことを意味する。

三好義賢(実休)と堺の豪商

その後、幕府の権威が失墜する中で、「八重垣」は畿内の実力者であった戦国大名・三好長慶の弟、三好義賢(実休)の手に渡ったとされる 1 。三好氏は、当時の政治経済の中心地であった堺の豪商たちと深く結びつき、茶の湯文化の強力なパトロンであった 24 。『山上宗二記』には、三好実休が名物「小茄子」や茶壺「三日月」をはじめ、五十もの名物を所持していたと記されており、彼が傑出したコレクターであったことがわかる 22 。足利将軍家から三好氏への所有者の変遷は、まさに旧来の権威が形骸化し、実力者が天下を動かす下克上の時代の到来を象徴する出来事であった。

織田信長と権力の頂点

そして最終的に、「八重垣」は天下統一を目前にした織田信長の所有となる 1 。信長がどのような経緯でこの名壺を手に入れたかは定かではないが、三好氏との和睦や服従の証として献上された可能性が考えられる。信長が「八重垣」を自らのコレクションに加えたことは、単に一個の美術品を手に入れたという以上の意味を持っていた。それは、足利将軍家から三好氏へと受け継がれてきた文化的権威の正統な後継者が自分であることを天下に示す、極めて象徴的な行為だったのである。

このように、「八重垣」の所有権の移動は、単なる売買や譲渡ではなく、文化的な正統性と最高権威の継承、あるいは簒奪を意味した。足利将軍家の文化的権威、三好氏の経済力と実効支配、そして織田信長の絶対的な武力。この壺は、それぞれの時代の覇者の手を渡り歩くことで、その来歴自体が比類なき物語となり、その価値を不動のものとしていったのである。

第四章:天下三名壺 — 「八重垣」の位階

数ある名物茶道具の中でも、「八重垣」が特別な地位を占めていたことは、同時代の他の名壺との比較によって一層明らかになる。当時、この壺は「三日月」「松島」と並び、「天下三名壺」と称され、茶道具のヒエラルキーの頂点に君臨していた。

同時代のライバルたち

葉茶壺「三日月」と「松島」もまた、「八重垣」と同様に足利義政の東山御物であり、三好家を経て織田信長の手に渡ったという、輝かしい経歴を持つ名品であった 1 。「三日月」は、器表にある七つの大きな瘤と傾いた姿が三日月に見立てられたことからその名があり 1 、「松島」は表面の多くの瘤が奥州の名勝・松島を思わせることに由来する 1 。これらの壺は、いずれも天下無双と讃えられた、当代随一の名物であった。

茶書における記述

これらの名壺の評価は、茶人・山上宗二が豊臣秀吉に献上するために記した秘伝書『山上宗二記』によって、後世に伝えられている。この書物の中で、「松島」「三日月」と並んで三大名物茶壺として挙げられているのが、徳川美術館に現存する「松花(しょうか)」である 27 。ただし、これは「三日月」と「松島」が本能寺の変で焼失した後の評価であり、信長の時代においては、間違いなく「八重垣」「三日月」「松島」の三つが最高位を占めていたと考えられる。実際、『天正名物記』などの古文書には、これらの名が揃って記録されている。信長は、天正5年(1577年)10月28日に妙光寺で茶会を催した際、「三日月」と「松島」の二つの壺を同時に飾り、その威光を堺の茶人たちに見せつけている 22

絶対的地位の確立

「天下三名壺」という格付けは、単なる個人の好みの表明ではない。それは、茶道具の世界に「カノン(正典)」を創り出す行為であった。この格付けの背景には、東山御物という由緒正しき伝来、器物そのものが持つ圧倒的な品格、そして何よりも当代随一の権力者である信長が所有しているという事実が複合的に作用していた。

『山上宗二記』のような権威ある書物に記されることで、この評価は個人の主観を超えた「公的な価値」へと昇華する。これは、現代において特定の文化財が国宝に指定される行為にも通じる、価値の認定作業である。一度このカノンが確立されると、それに含まれること自体が絶大な価値となり、含まれない他の名物との間に決定的な格差を生み出す。武将たちは、このカノンに含まれる道具を手に入れることによってのみ、自らの地位を文化的側面からも完全に証明できると考え、ますますその収集に熱を上げていったのである。「八重垣」は、この価値創造のシステムの中で、誰もが認め、渇望する絶対的な存在として君臨していた。

第五章:本能寺の煙 — 伝説の終焉と誕生

栄華を極めた名物「八重垣」の物語は、その所有者であった織田信長の生涯と共に、あまりにも劇的な終焉を迎える。

運命の日

天正十年(1582年)六月二日、未明。京都・本能寺に滞在していた織田信長を、腹心の将であった明智光秀の軍勢が急襲した。信長は、この謀反を知ると、自ら弓を取り応戦したが、衆寡敵せず、燃え盛る炎の中で自刃したと伝えられる。この日本の歴史を揺るがした大事件において、信長と共に多くの至宝が灰燼に帰した。その中に、葉茶壺「八重垣」も含まれていたというのが通説である 1

信長は死の前日である六月一日、公家や僧侶らを招いて茶会を催しており、その際にも自慢の名物道具の数々を披露していた 17 。天下統一を目前にした最高権力者の傍らには、常に最高の名物が侍っていたのである。「八重垣」は、主君の栄光の頂点を見届け、そしてその最期の瞬間までを共にした、最も忠実な証人であったと言えるかもしれない。

焼失の歴史的意義

一つの時代の終わりと共に、至高の美術品が永遠に失われたという事実は、後世の茶人や数寄者たちに計り知れない衝撃と深い喪失感を与えた。しかし、皮肉なことに、「八重垣」の価値は、その焼失によってある意味で完成したとも言える。物理的な存在を失ったことと引き換えに、それはもはや誰も手に入れることのできない、永遠の「伝説」へと昇華されたのである。

現存する名品は、常に他の名品と比較され、評価が変動する可能性を免れない。しかし、失われた「八重垣」は、人々の記憶と想像の中で理想化され、神格化されていった。それは、天下人・信長の夢と野望、そしてその悲劇的な最期という、これ以上ないほど強力な物語と一体化したからである。その結果、「八重垣」は単なる「かつて存在した名品」ではなく、「信長の天下布武と共に消えた、究極の茶壺」という、一種の神話的存在へと変貌を遂げた。その価値はもはや物質的なものではなく、人々の記憶と憧憬の中に永遠に存在し続けるものとなったのである。これは、美術品における「喪失の美学」とも言うべき、稀有な現象であった。

異説の検討

一方で、「八重垣」の最期については異説も存在する。『仙茶集』という書物には、「三日月」や「松島」といった名物と共に、安土城に残されていたという記述が見られる 22 。本能寺の変の後、安土城もまた織田信雄によって火が放たれ焼失したため、この説が正しかったとしても、「八重垣」が失われたという結論に変わりはない。しかし、一つの名物の最期を巡って複数の伝承が生まれるということ自体が、その存在がいかに人々の心に強く刻まれ、語り継がれるべき対象であったかを雄弁に物語っている。

第六章:もう一つの遺産 — 瀬戸茶入 銘「八重垣」

戦国の世に消えた葉茶壺「八重垣」の伝説を完全に理解するためには、時代を下って江戸時代前期に登場した、もう一つの「八重垣」について言及し、両者を明確に区別しておく必要がある。それは、大名茶人・片桐石州が所持した、瀬戸焼の茶入である。

江戸の名品の詳述

この瀬戸茶入「八重垣」は、その数奇な来歴によって広く知られている 2 。慈光院に伝わる資料によれば、元々は石州に仕える女性が髪油を入れていた名もなき壺であったという。しかし、石州はその壺に非凡な美しさ、すなわち「天然と侘びたる姿」を見出し、持ち主の女性に黄金三百両という破格の代価を支払って譲り受け、「八重垣」と名付けて生涯の秘蔵品としたと伝えられる 2 。この逸話は、ありふれた日用品の中に究極の美を見出すという、茶の湯の精神の神髄を体現するものとして語り継がれている。

この茶入は、石州の茶会記に寛永21年(1644年)から頻繁に登場し、多くの大名や要人が集う席で披露された 2 。石州の死後は片桐家に代々伝わったが、明治期に当主の片桐貞健から旧平戸藩主の松浦心月へと譲られた。その後、昭和9年(1934年)の入札会などを経て、最終的に高名な美術収集家である木村定三氏のコレクションに収まり、現在は愛知県美術館に寄贈され、その優美な姿を我々も目にすることができる 2

さらに、この茶入には八種にも及ぶ豪華な仕覆(しふく、茶入を入れる袋)が付属していることも特筆に値する 2 。金襴、緞子、間道といった様々な時代の貴重な名物裂が用いられており、中には16〜17世紀に制作されたと推測される裂も含まれる 28 。これらの仕覆は、石州をはじめとする歴代の所有者たちが、この茶入をいかに大切に扱い、最高の装いを誂えてきたかを物語る貴重な証拠である。

二つの「八重垣」の比較

以上のように、戦国の葉茶壺と江戸の瀬戸茶入は、名称こそ同じ「八重垣」であるが、その実態は全く異なる。読者の理解を助けるため、両者の特性を以下の表にまとめる。

項目

葉茶壺「八重垣」(戦国時代)

瀬戸茶入「八重垣」(江戸時代)

分類

葉茶壺(抹茶の原料である碾茶を保存)

茶入(濃茶用の抹茶を入れる)

時代

戦国時代(16世紀)

江戸時代前期(17世紀)

材質・産地

唐物(中国南部産と推定)

和物(瀬戸焼)

主な所有者

足利義政、三好義賢、織田信長

片桐石州、松浦心月、木村定三

現状

本能寺の変にて焼失(通説)

現存(愛知県美術館所蔵)

逸話

天下三名壺の一つとして著名

片桐石州が女性の髪油壺を見出した

この表が示すように、二つの「八重垣」は、その背景にある文化や価値観においても対照的である。戦国の葉茶壺が、権力と権威の象徴として天下人たちの間を渡り歩いたのに対し、江戸の茶入は、一人の大名茶人の卓越した審美眼によって見出され、平和な時代の中で大切に育まれてきた。両者は、それぞれの時代精神を映す鏡と言えるだろう。

終章:物言わぬ語り部

本能寺の炎の中に消えた葉茶壺「八重垣」。その物理的な存在は永遠に失われたが、その「存在した」という記録と、それにまつわる伝説は、四百年以上の時を超えて現代の我々に多くのことを語りかけてくる。

「八重垣」の物語は、まず、戦国という時代がいかに武力だけでなく、文化や美意識が複雑に絡み合ったダイナミックな時代であったかを教えてくれる。一つの壺が城に匹敵する価値を持ち、その所有権の移動が権力の変遷と同期する。茶会が政治交渉の場となり、名物道具が最高の恩賞となる。こうした現象は、武将たちが単なる武人ではなく、自らの権威を文化的な側面からも演出しようとした、洗練された支配者であったことを示している。

そして、「八重垣」は、物の価値がいかにして創造され、付与されていくかという、文化の本質的な営みを我々に示してくれる。元は中国の地で焼かれたであろう名もなき壺が、日本の茶人たちの審美眼によって見出され、足利義政、三好実休、織田信長といった最高権力者の手を渡ることで、その来歴自体が比類なき物語となった。そして最後には、天下人の最期と運命を共にするという劇的な結末によって、決して色褪せることのない伝説へと昇華した。物の価値は、その素材や形状といった物理的特性のみによって決まるのではない。それを巡る人々の歴史、記憶、そして憧憬こそが、物に魂を吹き込み、時代を超える価値を与えるのである。

物言わぬ一つの壺が、これほどまでに雄弁に一つの時代を語りうるという事実。葉茶壺「八重垣」は、失われた美術品という以上の存在である。それは、戦国という時代の精神そのものを内包した、永遠の語り部なのである。

引用文献

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  18. 松永久秀が死に際して、運命を共にした名物の茶器とは? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/16073
  19. 茶道具の歴史で知っておきたい出来事を紹介!買取ポイントも解説! - 永寿堂 https://www.eijyudou.com/news/p1624/
  20. 北条氏規(ほうじょううじのり)と「茶の湯」文化 - 神奈川県立歴史博物館 https://ch.kanagawa-museum.jp/monthly_choice/2022_07
  21. その価値、一国相当なり!戦国時代の器がハンパない件。 | 大人も子供も楽しめるイベント https://tyanbara.org/sengoku-history/2018010125032/
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  23. 東山御物 - 名刀幻想辞典 https://meitou.info/index.php/%E6%9D%B1%E5%B1%B1%E5%BE%A1%E7%89%A9
  24. 粉引茶碗|SAKURA 日本文化体験教室 京都本校 https://www.sakura-kyoto.jp/sado/koraimono/kohiki.html
  25. 26 | 古銅角木花入 - 藤田美術館 https://fujita-museum.or.jp/topics/2021/03/26/1417/
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