日本の戦国時代、数多の美術工芸品が製作され、また珍重されたが、中でも「古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)」と称される茶釜は、その特異な名称と形状、そして所有者であった戦国武将・松永久秀(まつながひさひで)の壮絶な最期と深く結びつき、後世に数々の伝説と憶測を生んできた稀有な存在である。単なる茶道具という範疇を超え、織田信長(おだのぶなが)の強い執着の対象ともなり 1 、まさに時代を象徴する名器として語り継がれている。その蜘蛛が這いつくばうがごとき異形の姿と、爆死という衝撃的な最期を巡る伝説は、今日に至るまで人々の想像力を掻き立ててやまない 1 。
戦国時代において「名物(めいぶつ)」とされた茶道具は、単に美術的価値が高いだけでなく、武将間の威信や権力の象徴としての側面を色濃く帯びていた。織田信長が名物茶器を家臣への褒賞として用いたこと 4 や、名物茶器が一国に値するとも言われたこと 2 は、その好例である。信長が古天明平蜘蛛を強く所望し 1 、久秀がこれを拒み続けたという事実は 1 、この茶釜が久秀にとって信長への単なる服従以上の意味を持つ、守るべき最後の砦のような存在であり、信長にとっては権力の誇示と久秀の完全な掌握を意味するものであった可能性を示唆している。
また、古天明平蜘蛛の伝説がこれほどまでに広範かつ劇的に語り継がれる背景には、所有者である松永久秀の「梟雄(きょうゆう)」としての特異な人物像が大きく影響していると考えられる。彼の波乱に満ちた生涯や、主君殺し、東大寺大仏殿焼き討ちといった(後年の研究で一部否定されつつあるものの 6 )衝撃的な行動のイメージが、この名茶器の数奇な運命と結びつき、よりドラマチックな物語として増幅された可能性は否定できない。
本報告書は、この古天明平蜘蛛に関して現存する史料や伝承を丹念に整理し、その実像と虚像を多角的に検証することを目的とする。具体的には、その名称の由来と物理的特徴、所有者であった松永久秀との関わり、織田信長との逸話、そして最も謎に包まれた最期を巡る諸説、さらには現存の可能性に至るまでを網羅的に扱う。報告書の構成は以下の通りである。まず、古天明平蜘蛛そのものの基本的な情報について解説し、次に松永久秀との関わりと運命を詳述する。続いて、現存説と関連史料を検討し、茶の湯文化における価値と評価を考察する。最後に、これらの情報を総括し、未解明な点と今後の研究への展望を示すことで、本報告の結びとしたい。
古天明平蜘蛛という名称は、「古天明」と「平蜘蛛」という二つの要素から成り立っている。
「古天明」とは、この茶釜が下野国天明(しもつけのくにてんみょう、現在の栃木県佐野市)で製作された天明釜(てんみょうがま)であることを示している 7 。天明は佐野市の古い地名であり 7 、この地は古くから鋳物の生産で栄えていた 7 。日本の茶釜の生産は、大きく分けて九州の芦屋釜(あしやがま)と東国の天明釜という二つの流れがあり、古天明平蜘蛛は後者に属する 8 。
さらに「古天明」の「古」という接頭辞は、製作年代の古さを示唆している。一般的に、正長年間(1428年~1429年)から天文年間(1532年~1555年)にかけて製作された天明釜を「古天明」と呼び、それ以降のものを「後天明(ごてんみょう)」と区別する呼称が存在する 8 。ただし、資料によっては製作期間に若干の差異が見られ、例えば正長年間(1428年)から天文年間(1555年)までとする記述もある 1 。いずれにせよ、15世紀前半から16世紀中頃にかけて作られた古い時代の天明釜であるという認識は共通している。この「古天明」という名称自体が、単に古い時代の天明産であることを示すだけでなく、当時の茶の湯の世界において既に一定の評価を得ていたブランドであった可能性も考えられる。安土桃山時代には「西の芦屋、東の天明」と並び称されるほど天明釜がもてはやされたという情報 9 も、この点を補強する材料となるだろう。古い時代の作品に「古」を冠して珍重する傾向は、後の時代の美術品評価にも通じるものがあり、その先駆けと言えるかもしれない。
「平蜘蛛」という名称は、その独特な形状に由来する。一般的な茶釜と比較して、蜘蛛が地面に這いつくばっているかのように低く平らな形をしていたことから、この名が付けられたとされている 1 。この異形とも言える形状が、古天明平蜘蛛の大きな特徴であった。
前述の通り、古天明平蜘蛛の形状は、蜘蛛が這いつくばったような、低く平たい独特の姿であったと伝えられている 1 。『山上宗二記(やまのうえそうじき)』においては、このような異形の釜を指して「異態・奇形」と評された可能性も示唆されている 3 。この「平蜘蛛」という異形の名称と形状が、この茶釜の数奇な運命や伝説形成に影響を与えた可能性は否定できない。一般的な茶釜が持つ端正さや優美さとは異なる、ある種の禍々しさや力強さを感じさせる姿が、型破りな武将であった松永久秀のイメージと結びつきやすかったのではないかとも考えられる。
古天明平蜘蛛の具体的な材質について直接言及した史料は限られているが、天明釜が一般的に鋳鉄製であることから 9 、同様に鉄製であったと推定される。天明鋳物の特徴として、侘びた肌合いに素朴で力強い造形が挙げられる 9 。また、天明鉄瓶の製作技法に関する記述には、仕上げに「ヤキヌキ」という技法を用いて錆びにくい酸化被膜を形成すること 9 や、伝統的な鉄素材である「和銑(わずく)」の使用が示唆されているものもある 10 。これらの情報から、古天明平蜘蛛も同様の素材や技法を用いて製作された可能性が考えられる。
「古天明」の定義に基づけば、古天明平蜘蛛の製作年代は15世紀中頃から16世紀前半、すなわち室町時代中期から戦国時代初期にあたると考えられる 1 。
古天明平蜘蛛の具体的な製作者名は判明していない。「天明」という名称が示す通り、特定の個人ではなく、下野国天明という産地で作られた一群の優れた作品の一つとして認識されていたと解される 8 。
戦国の梟雄として名高い松永久秀が、いかにしてこの名器「古天明平蜘蛛」を手に入れたのか、その具体的な経緯を記した信頼できる史料は、現在の調査では確認されていない 5 。これは、この茶釜にまつわる大きな謎の一つである。松永久秀は、出自については諸説あるものの、微賤から身を起こしたとされ 11 、三好長慶(みよしながよし)に仕えてその才覚を発揮し、めきめきと頭角を現した人物である 12 。その権勢を拡大する過程で、茶の湯にも深く傾倒し、多くの名物を収集するようになったと考えられており、古天明平蜘蛛もそのコレクションの一つであったと推察される。
天下統一を目指す織田信長が、古天明平蜘蛛に対して並々ならぬ執着を見せた理由は、単に茶器としての美術的価値に留まらない、多層的な要因が絡み合っていたと考えられる。
第一に、 茶器としての卓越した価値 である。当時、「名物」と称される茶道具は、一国の城にも匹敵すると言われるほど非常に高価かつ貴重なものであった 2 。古天明平蜘蛛もまた、そのような「大名物」の一つとして広く認識されており、信長の旺盛な蒐集欲を強く刺激したことは想像に難くない。
第二に、より重要なのは 政治的背景と権力の象徴 としての意味合いである。信長は、茶道具を家臣への恩賞として与えるなど、茶の湯を巧みに政治的手段としても活用していた 4 。名物を所有することは、すなわち権力と威信の誇示であり、敵対あるいは服従させた相手の象徴的な名物を手中に収めることは、その相手を完全に支配下に置いたことの証ともなり得た。久秀は、信長に一度臣従した際に名物「九十九髪茄子(つくもなす)」を献上しているが、その後も信長は再三にわたり古天明平蜘蛛の献上を要求した。しかし、久秀はこれを頑なに拒み続けたと伝えられている 1 。この久秀の抵抗とも言える拒絶が、両者の間に横たわる緊張関係をさらに高め、後の悲劇的な結末へと繋がる一因となったと考えられる。
天正5年(1577年)10月10日、織田信長に再び背いた松永久秀は、居城である大和国信貴山城(しぎさんじょう)に立て籠もったが、織田信忠(のぶただ)を総大将とする織田軍の猛攻の前に落城し、自害した 1 。この時、愛蔵の古天明平蜘蛛もまた、久秀と運命を共にしたとされるが、その最期の様子については、史実と伝説が入り混じり、諸説紛々としている。
最も広く知られ、また最も劇的な説が、久秀が古天明平蜘蛛の釜に火薬を仕込み、茶釜と共に爆死を遂げたというものである 1 。この説は、江戸時代初期に成立した軍記物である『川角太閤記(かわすみたいこうき)』や『老人雑話(ろうじんざつわ)』などに記されており、久秀の首と平蜘蛛が鉄砲の火薬によって爆砕されたとされている 3 。『川角太閤記』には、久秀が最期に際し、「平蜘蛛の釜と自分の首は信長に見せるな」と近臣に命じたという逸話も伝えられている 3 。
ただし、この爆死説の詳細な描写については解釈の幅がある。例えば、一部資料では『川角太閤記』の記述「頸を鐵炮の薬にてやきわり」を引用し、これは爆死そのものではなく、久秀が切腹した後に、その首が信長の手に渡ることを避けるために爆薬で処理されたと解釈している 16 。この解釈に従えば、茶釜と「共に」爆死したというイメージとはやや異なる様相を呈する。
いずれにせよ、この爆死説は松永久秀の壮絶な最期を象徴するエピソードとして、後世の浮世絵や小説などのフィクション作品においても繰り返し描かれてきた 8 。中山義秀の小説『咲庵(しょうあん)』もその一例であるが、その典拠として挙げられている太田牛一(おおたぎゅういち)の『信長公記(しんちょうこうき)』には、実際には平蜘蛛に関する直接的な記述は存在しないと指摘されている 5 。久秀の平蜘蛛に対する執着は、単なる美術品愛好を超えた、武将としての意地や誇り、あるいは信長への最後の抵抗の象徴と解釈できる。「平蜘蛛の釜とわれらの首と二つは、信長公にお目にかけようとは思わぬ。粉々に打ち壊すことにする」 2 という、久秀が発したとされる言葉は、その心情をよく表していると言えよう。信長が平蜘蛛を強く欲し、久秀が九十九髪茄子は献上したものの平蜘蛛は拒否し続け、追い詰められてもなお平蜘蛛を渡せば助命するという提案を拒否した一連の行動は、平蜘蛛が久秀にとって自己の尊厳や独立性の最後の砦であり、それを信長に渡すことは完全な屈服を意味すると捉えていたことを示唆している。
久秀自身の手によって古天明平蜘蛛が打ち砕かれたとする説も有力である。これは、比較的信頼性の高い史料とされる太田牛一の『大かうさまくんきのうち』(『信長公記』の異本または関連史料とされる)に記されている 8 。また、柳生家の家譜である『玉栄拾遺(ぎょくえいしゅうい)』の記述として紹介されているものの中には、久秀が平蜘蛛を打ち壊し、糠(ぬか)に詰めて攻め手の大将であった織田信忠に贈った、というやや趣の異なる内容も見られる 14 。
同時代の茶人であり、千利休(せんのりきゅう)の高弟であった山上宗二が著した茶の湯の秘伝書『山上宗二記』には、信貴山城の戦いの際に古天明平蜘蛛は失われた、と簡潔に「松永氏に失す」と記されている 3 。これが、同時代の茶人による記録として注目される。
興福寺(こうふくじ)多聞院(たもんいん)の僧であった英俊(えいしゅん)が記した日記『多聞院日記』の天正5年(1577年)10月10日の条には、「昨夜松永親子切腹自焼了、今日安土ヘ首四ツ上了」という記述がある 3 。これは、松永親子(久秀とその嫡男・久通(ひさみち))が切腹し自ら火を放って焼身自殺を遂げ、その首級四つが安土城の信長のもとへ送られたことを示している。
この『多聞院日記』の記述は、久秀の首が存在し、安土へ送られたという事実を伝えており、首もろとも爆砕されたとする一部の爆死説とは明らかに矛盾するように見える 3 。ただし、一部の研究では、首が送られたことだけでは直ちに「爆死はなかった」とは断定できないとする見解や 3 、『多聞院日記』は爆発炎上という「騒ぎの大きさ」を間接的に伝えているに過ぎないとする解釈も存在する 16 。重要なのは、『多聞院日記』には古天明平蜘蛛そのものや、久秀が爆死したという直接的な記述は見られないという点である。
古天明平蜘蛛の最期に関する多様な説の存在自体が、松永久秀という人物の複雑な性格と、彼に対する後世の評価の多岐性を示していると言えるだろう。爆死説のような劇的な物語は、彼の「梟雄」としてのイメージを強調し、物語性を高める一方で、史実とは異なる尾ひれがついた可能性も否定できない。特に、『川角太閤記』のような後世に成立した軍記物は、史実の記録というよりも、読者の興味を引くための物語的要素や脚色が加えられる傾向があるため、その記述の取り扱いには慎重を期す必要がある。結果として、史実以上にドラマチックな爆死説が広まり、久秀の特異なイメージと結びついて定着したと考えられる。
表1:古天明平蜘蛛の最期に関する諸説と主な典拠
説の名称 |
概要 |
主な典拠史料名 |
爆死説 |
久秀が平蜘蛛に火薬を仕込み、釜と共に爆死、または首と釜が爆砕された。 |
『川角太閤記』 3 、 『老人雑話』 3 |
打ち砕き説 |
久秀自身の手で平蜘蛛が打ち砕かれた。 |
『大かうさまくんきのうち』 8 、 『玉栄拾遺』(一部異なる内容 14 ) |
消失説 |
信貴山城の戦いの際に失われた。 |
『山上宗二記』 3 |
(参考)自焼説 |
『多聞院日記』には久秀親子の自焼と首の安土送致が記されるが、平蜘蛛への言及なし。 |
『多聞院日記』 3 |
松永久秀と共に信貴山城で失われたとされる古天明平蜘蛛であるが、その劇的な最期とは裏腹に、その後もいくつかの形でその存在が語り継がれている。これらの「現存説」は、この名器に対する人々の強い関心と、数奇な運命を辿った名器が何らかの形で生き残っていてほしいという願望の表れとも解釈できる。失われたはずの名器が、形を変えたり、秘かに伝えられたりして存在し続けているという物語は、それ自体が魅力的なテーマであり、人々の想像力を刺激してきた。
古天明平蜘蛛が破壊された後、その破片が集められ復元されたという説がある。具体的には、『松屋名物集(まつやめいぶつしゅう)』という史料に、多羅尾光信(たらおみつのぶ)という人物が、落城した信貴山城から平蜘蛛の破片を苦心して集め、これを復元したという記述が見られる 8 。
さらに、この復元説を裏付ける可能性のある記録として、堺の豪商であり著名な茶人でもあった津田宗及(つだそうきゅう)が記した茶会記『天王寺屋津田宗及茶湯日記他会記(てんのうじや つだそうきゅう ちゃのゆにっき たかいき)』が挙げられる。これによれば、天正8年(1580年)閏3月13日に、若江三人衆(わかえさんにんしゅう)の一人であった多羅尾綱知(たらおつなとも、光信の子か、あるいは一族か)が「平くも釜」と記された茶釜を茶会で使用したという記録がある 8 。この「平くも釜」が、多羅尾光信によって復元された古天明平蜘蛛である可能性が研究者によって指摘されている。また、久秀の死後である1580年に平蜘蛛釜が存在していたという記録があり、それは戦の後に城の瓦礫の中から発見されたという情報もある 6 。これも復元説と何らかの関連性を持つ可能性がある。
九州国立博物館が所蔵する品として、松永久秀の平蜘蛛が破片を集めて復元されたものとするキャプションが付いた写真がColBase(国立文化財機構所蔵品統合検索システム)で公開されているが、これが多羅尾氏によって復元されたものと同一であるか、またその信憑性については「定かではない」とされている 12 。
この多羅尾氏による破片収集・復元と使用の記録は、他の伝説と比較して具体的な時期や人物名が伴っており、一定の信憑性を感じさせる。もしこれが事実であれば、古天明平蜘蛛は一度破壊されたものの、その卓越した価値故に再生され、再び茶の湯の席でその姿を現したことになる。これは、戦国時代の武将たちの茶道具に対する並々ならぬ執念と、優れた道具が持つある種の生命力をも示すエピソードと言えるだろう。
もう一つの興味深い現存説として、柳生家への伝来説がある。これは、松永久秀と生前親交があったとされる剣豪・柳生石舟斎宗厳(やぎゅうせきしゅうさいむねよし、松吟庵とも号す)に、本物の古天明平蜘蛛が密かに譲られていたというものである。この説の根拠とされるのが、柳生家の家譜である『玉栄拾遺』の記述である 3 。
『玉栄拾遺』の記述として紹介されている内容によれば、久秀が信貴山城で自害する際、打ち壊した、あるいは織田信忠に贈ったとされる平蜘蛛は実は偽物であり、本物の平蜘蛛はかねてより親交のあった友人である柳生松吟庵(宗厳)に密かに託されたという 5 。そして、その本物の平蜘蛛は柳生家において代々秘蔵され、重宝として伝えられたと記されている 5 。
この柳生家伝来説は、名門である柳生家が伝えるものであるという点で一定の重みを持つ一方で、他の史料による客観的な裏付けが乏しいという点が、その信憑性を検討する上での課題として指摘されている 5 。
近年まで、古天明平蜘蛛とされる茶釜の現物として注目を集めていたのが、静岡県浜松市に2018年まで存在した私設美術館「浜名湖舘山寺美術博物館(はまなこかんざんじびじゅつはくぶつかん)」が所蔵していた伝「平蜘蛛釜」である 3 。
この釜の伝承によれば、信貴山城の落城後、城跡を掘り起こした際にこの茶釜が出土し、その後、織田信長の手に渡り愛用されたものだとされている 3 。しかしながら、この釜が松永久秀の所持したオリジナルの古天明平蜘蛛であるか、あるいはその復元品であるかについては、学術的な確証は得られていない 8 。また、一部には、この釜の由来は松永久秀とは直接関係がないとする説も紹介されている 3 。
残念ながら、浜名湖舘山寺美術博物館は既に閉館しており 19 、かつて同館が所蔵していたこの伝「平蜘蛛釜」の現在の行方や、専門家による詳細な学術的鑑定結果についての情報は、提供された資料からは確認することができなかった 5 。この釜の学術的な調査・鑑定結果が公表されているか、そして閉館後の現在の所在がどうなっているのかという点は、依然として大きな謎として残されている。これがもし本当に松永久秀ゆかりの品、あるいはその忠実な復元品であるならば、日本の文化財研究にとって極めて重要な対象となるであろう。
古天明平蜘蛛の姿やそれにまつわる逸話を視覚的に伝えるものとして、江戸時代後期の浮世絵師である月岡芳年(つきおかよしとし)や落合芳幾(おちあいよしいく)が、松永久秀が平蜘蛛釜を打ち壊す場面を描いた作品が存在する 5 。これらの作品は、久秀と平蜘蛛の伝説が当時いかに人々の間で知られ、関心を集めていたかを示す好例であるが、あくまで後世の創作であり、史実を直接的に示すものではない点に留意が必要である。
古天明平蜘蛛は、その数奇な運命と伝説によって戦国時代を象徴する名器として語り継がれているが、当時の茶の湯文化において、具体的にどのような価値を持ち、どのように評価されていたのだろうか。
戦国時代において、「名物」と称された茶道具は、単に美術工芸品としての美しさや希少性を有するだけでなく、極めて高い社会的・政治的価値を伴っていた。大名間の贈答品として用いられ、外交関係を左右することもあれば、武功を挙げた家臣への最高の褒賞として与えられ、主従関係を強固にする役割も果たした 4 。その価値は時として一国の領地にも匹敵するとされ 2 、まさに天下の趨勢をも動かし得るほどの重要性を持っていたのである 13 。
古天明平蜘蛛もまた、そのような「名物」の一つ、それも最高級の「大名物」として当時の人々に認識されていたことが窺える。織田信長が、同じく松永久秀所蔵の天下の名物茶入「九十九髪茄子」と共に、この古天明平蜘蛛をも手に入れようと強く望んだという事実は 1 、その価値の高さを如実に物語っている 3 。
古天明平蜘蛛の評価を考える上で非常に興味深いのが、千利休の高弟であった山上宗二が著した茶の湯の秘伝書『山上宗二記』における記述である。同書には、「平蜘蛛。松永氏に失す。当世在りても不用。」という一節がある 3 。これは、「平蜘蛛は松永(久秀)の代で失われた。もし現代(宗二の生きた時代)にあったとしても、もはや用いられることはないだろう」という意味に解釈される。
この手厳しい評価の背景には、千利休によって大成され、当時の茶の湯の主流となりつつあった「侘び茶(わびちゃ)」の美意識が深く関わっていると考えられる。侘び茶は、華美な装飾や技巧を排し、簡素で静寂な中に深い精神性を見出すことを理想とした。古天明平蜘蛛の「蜘蛛が這いつくばうような」と形容される異形で、ある意味では奇抜とも言える形状は、このような新しい時代の茶の湯の価値観にはそぐわない、と見なされた可能性が高い 3 。
ある研究者は、この『山上宗二記』の評価を、「平蜘蛛の滅失は、久秀のごとき謀略・下克上を身上とする梟雄の時代が終わり、智略・合理をもって天下を統べる信長、秀吉等新しいリーダーの到来を象徴するものであったかもしれない」と解釈している 3 。これは、茶道具の評価の変遷が、単なる趣味嗜好の変化に留まらず、時代の大きな転換や社会の価値観の変化とも密接に連動していた可能性を示唆しており、非常に示唆に富む見解である。平蜘蛛は、それ以前の、唐物(からもの)や豪華絢爛な道具を尊ぶ価値観から、より簡素で内省的な「侘び」の精神性を重視する価値観へと移行する、まさにその転換点に位置していた。そして、その過渡期的な存在、あるいは旧時代の象徴として捉えられた結果、「不用」という評価に至ったのかもしれない。
また、平蜘蛛が「不用」と評価された背景には、その特異な形状だけでなく、所有者であった松永久秀のネガティブなイメージ(裏切り者、梟雄など)も少なからず影響した可能性が考えられる。茶道具の価値は、その物自体の出来栄えや美しさだけでなく、誰が所持し、どのような経緯を辿ってきたかという「伝来(でんらい)」もまた、極めて重視される要素であるためである。久秀の毀誉褒貶の激しい人物像が、平蜘蛛の評価に無意識的な影響を与え、その「異形」という特徴と結びついて「好ましくないもの」という印象を強めた可能性も否定できないだろう。
『山上宗二記』において「不用」と評されたこともあり、古天明平蜘蛛そのものが、その後の茶道の世界で積極的に用いられたという具体的な記録は乏しい。しかし、その特異な形状、松永久秀との劇的な逸話、そして織田信長が渇望したという物語は、茶の湯の世界において伝説的な存在として長く語り継がれることとなった。
失われたこと、そして当時の最先端の美意識からは否定的な評価を受けたことが、逆説的にそのミステリアスな魅力を増幅させ、後世のフィクションなどで繰り返し取り上げられる素地となったとも考えられる。「失われた悲劇の名器」「時代の変化に取り残された異形の釜」といった物語性が、人々の想像力を刺激し、かえってその存在感を高めたのかもしれない。名物茶器が持つ物語性や、それにまつわる人々のドラマは、茶の湯文化の奥深さや豊かさを形成する重要な一要素であり、古天明平蜘蛛はその典型的な例と言えるだろう。
本報告書では、戦国時代の名茶釜「古天明平蜘蛛」について、その名称の由来、形状、材質、製作年代といった基本的な情報から、所有者であった松永久秀との関わり、織田信長がこの茶釜を渇望した理由、そして信貴山城の戦いにおける最期を巡る諸説(爆死説、打ち砕き説、消失説)、さらには現存説(破片収集と復元説、柳生家伝来説、浜名湖舘山寺美術博物館旧蔵の釜)に至るまで、関連する史料や伝承を基に多角的に検討してきた。
古天明平蜘蛛は、その蜘蛛が這いつくばうような特異な形状、下野国天明産の由緒ある茶釜としての出自、そして何よりも戦国武将・松永久秀の壮絶な生き様と最期に分かちがたく結びついた、他に類を見ない名物茶釜であった。織田信長が渇望し、久秀が命を賭してまでその手に渡すことを拒んだとされる数々の逸話は、戦国時代における茶道具が単なる器物を超えた価値を持ち、武将たちの精神性や権力闘争と深く結びついていたことを象徴している。
その最期を巡る多様な説や、破壊されたはずの釜が現存するという複数の伝承は、史実と伝説が複雑に交錯する中で、この茶釜の神秘性を一層高めている。これらの物語は、物そのものの価値だけでなく、それにまつわる人間のドラマ、すなわち所有欲、抵抗、誇り、そして後世の人々による伝説化のプロセスがいかに歴史を彩り豊かにするかを示している。
古天明平蜘蛛に関しては、多くの情報が明らかになってきた一方で、依然として解明されていない謎も数多く残されている。具体的には、松永久秀がこの茶釜を正確にどのような経緯で入手したのか、信貴山城での最期に関する爆死説の真偽、柳生家伝来説を裏付ける客観的な史料の有無、そして浜名湖舘山寺美術博物館がかつて所蔵していた伝「平蜘蛛釜」の学術的な鑑定結果と現在の正確な所在などが、今後の研究によって明らかにされるべき重要な課題として挙げられる。
これらの謎を解き明かすためには、未発見の関連史料の探索と既知史料のより詳細な読解、考古学的な調査(例えば信貴山城跡の発掘調査など)、そして美術史、歴史学、文献学、保存科学といった各分野の専門家による学際的な共同研究の推進が期待される。
古天明平蜘蛛に関する研究は、単一の茶道具の来歴を追跡することに留まらない。それは、戦国時代の政治・経済・文化・思想、武将たちの価値観、茶の湯の美意識の変遷、さらには伝説や物語が形成され受容されていく過程など、より広範な歴史的・文化現象を理解する上で、貴重な手がかりを与えてくれる可能性を秘めている。この一碗の茶釜が語りかける声に耳を澄ませることは、日本の歴史と文化の深淵を覗き込む試みとも言えるだろう。