吐月糖は、戦国尼子氏の興亡と江戸不昧公の茶の湯が融合した銘菓。その名と紅白、口溶けに歴史の記憶が凝縮され、鎮魂と顕彰の物語を伝える。
島根県安来市広瀬町、かつて出雲国の中心として栄えたこの地に、静かに歴史を語り継ぐ一つの銘菓がある。その名は「吐月糖」。淡い白と薄紅の二色が織りなす姿は楚々として美しく、口に含めば和三盆糖の上品な甘みが広がり、はかなく溶けてゆく。片栗粉と寒梅粉を用いたこの押物は、見るからに泰平の世の洗練を極めた菓子である。
しかし、この菓子の名は、戦国乱世の記憶と深く結びついている。吐月糖がその名をちなむのは、風光明媚な「吐月山」 1 。そしてこの山こそ、かつて山陰地方に覇を唱えた戦国大名・尼子氏の本拠地、難攻不落を謳われた月山富田城がそびえていた場所なのである 2 。血で血を洗う攻防が繰り広げられた峻厳な山城の記憶と、かくも繊細で優美な菓子。この一見すると矛盾した取り合わせこそ、本報告が解き明かすべき謎である。
重要なのは、吐月糖が戦国時代の直接の産物ではないという事実である。資料によれば、この菓子が生まれたのは江戸時代後期、茶人としても名高い松江藩七代藩主・松平不昧公の治世であったと伝わる 1 。したがって、本報告が探求するのは、戦国時代の史実そのものではなく、後世の人々がその激動の記憶をいかに受け止め、解釈し、泰平の世の美意識を通じて一つの文化として昇華させていったか、という変容のプロセスである。一粒の菓子は、単なる甘味ではない。それは、戦国の記憶を内包し、江戸の洗練された文化の濾過器を通して結晶化させた、地域の歴史的アイデンティティの象徴なのである。本稿では、この吐月糖という「歴史の結晶」を多角的に分析し、そこに凝縮された五百年にわたる物語を解き明かしていく。
吐月糖という菓子を理解するためには、まずその名の由来となった歴史的舞台、すなわち月山富田城と、そこを拠点とした尼子一族の興亡を深く知る必要がある。この章では、戦国時代の出雲国に焦点を当て、銘菓が生まれる遥か以前の、峻厳な時代の記憶を辿る。
月山富田城は、平地から切り立つようにそびえる標高約190メートルの月山に築かれた、天然の要害であった 3 。その構造は複雑かつ堅固であり、山全体が一個の巨大な要塞と化していた。山頂には本丸、二の丸、三の丸が配され、中腹には城主の居館があったとされる広大な曲輪「山中御殿」が存在した 4 。山頂へ至る道は「七曲り」と呼ばれる険しい坂道で、防御施設が幾重にも張り巡らされており、敵の侵攻を容易に許さなかった 4 。事実、この城が正面から攻め落とされたことは一度もないとされ、その難攻不落ぶりは戦国時代を通じて広く知られていた。
尼子氏の治世において、月山富田城は単なる軍事拠点に留まらず、山陰地方における政治・経済の中心地として機能した 4 。城下からは街道が四方八方に伸び、多くの人々や物資が行き交い、広瀬の地は中世から近世にかけて出雲の中心として繁栄を極めたのである 5 。
しかし、この峻厳な山城には、もう一つの顔があった。城下の町からこの山を眺めると、満月を過ぎた月が山の端から昇るように見えたことから、いつしか「吐月山(とげつざん)」あるいは「吐月峰」という風雅な別名で呼ばれるようになったと伝わる 1 。武の象徴である城が、同時に詩情豊かな景観として愛でられていたという事実は、戦国の世に生きた人々の美意識の多層性を示唆しており、後の吐月糖という銘菓の誕生を予感させる。
月山富田城を拠点に、一代で戦国大名へと成り上がったのが尼子経久である。彼は謀略を駆使して主家であった京極氏から富田城を奪い、下剋上を体現する存在としてその名を轟かせた 8 。その支配は着実に拡大し、子の詮久(後の晴久)の代には、山陰・山陽十一州に影響を及ぼすほどの最大版図を築き上げ、尼子氏は栄華の絶頂期を迎える 4 。
しかし、その栄光には常に影が付きまとっていた。晴久は中央集権化を進める一方で、一族内の有力な軍事集団であった「新宮党」を粛清するなど、内部に深刻な軋轢を生じさせた 9 。この内紛は尼子氏の軍事力を著しく低下させ、好機と見た安芸の毛利元就が、その勢力を出雲へと伸ばしてくる。
両者の激しい攻防の末、永禄八年(1565年)から毛利氏による月山富田城への総攻撃が開始された。尼子方は籠城してよく戦ったが、毛利元就の巧みな兵糧攻めにより城内の士気は次第に低下。翌永禄九年(1566年)十一月、ついに城は開城し、当主・尼子義久は降伏。ここに、戦国大名としての尼子氏は滅亡し、月山富田城の歴史は大きな転換点を迎えることとなった 7 。
尼子氏が栄華を誇った戦国時代の食文化は、吐月糖が持つ洗練された美意識とは対極に位置するものであった。戦時下において最も重要視されたのは、言うまでもなく生命維持のための栄養補給と、長期保存に耐えうる携帯性である。武士たちの食の中心は、干飯や焼米、味噌玉、梅干しといった、質実剛健な兵糧であった。甘味は貴重なエネルギー源ではあったものの、それはあくまで実用的な価値においてであり、後の世のように五感で楽しむ芸術的な菓子とは一線を画す、素朴で力強いものであったと推察される。
この時代の価値観は、生き残るための「実」を何よりも重んじるものであった。吐月糖が主原料とする和三盆のような高級な砂糖はまだ存在せず、そのはかなく溶ける食感を楽しむような文化的土壌もなかった。戦国時代の味覚が「生きるためのエネルギー」を求めるものであったのに対し、吐月糖が提供するのは生命維持とは別次元の「美的な体験」である。この両者の間にある深い断絶は、単なる技術の進歩だけでなく、時代精神そのものの根本的な変容を物語っている。吐月糖の繊細さを理解するためには、まずそれが生まれる以前の、この質実剛健な時代の記憶を心に留めておく必要がある。
尼子氏が滅び、戦国の世が終わりを告げると、月山富田城とそれにまつわる記憶は、新たな時代の中で変容を遂げていく。凄惨な歴史は、泰平の世の人々によって語り直され、物語として再構築されていった。この章では、吐月糖が生まれる文化的背景として、戦国の記憶が江戸時代にいかにして語り継がれ、理想化されていったかを探る。
関ヶ原の戦いの後、出雲国に入った堀尾氏が松江に新たな城を築くと、政治の中心は完全にそちらへ移り、月山富田城は慶長十六年(1611年)に廃城となった 7 。城下町として栄えた広瀬は、その中核的機能を失い、次第に一地方の町へと姿を変えていった。さらに、寛文六年(1666年)の大洪水は、かつての市街地の多くを富田川(現在の飯梨川)の流れの下に沈めてしまったとされ、町の姿は大きく変貌した 12 。
しかし、物理的な城や町並みが失われても、人々の心から尼子氏の記憶が消え去ることはなかった。むしろ、過去の出来事となったからこそ、その記憶は伝説や物語として、より自由に、より豊かに語り継がれていく土壌が生まれたのである。
尼子一族の歴史の中で、江戸時代を通じて最も人々の心を捉えたのは、当主たちではなく、一人の家臣の物語であった。その人物こそ、尼子家再興のために生涯を捧げた悲劇の武将、山中鹿介(幸盛)である。
主家滅亡後も、鹿介は「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈り、尼子氏の血を引く尼子勝久を担いで再興軍を組織し、宿敵・毛利氏に対して執拗な戦いを挑み続けた 11 。その戦いは敗北の連続であり、最後は毛利氏に捕らえられ非業の死を遂げるが、彼の滅私奉公の精神と不屈の闘志は、後世の人々に深い感銘を与えた。
特に、主君への「忠義」を武士の最高徳目として奨励した江戸時代において、鹿介の生き様は理想の武士像として絶大な人気を博した 14 。講談や軍記物語、浮世絵などの題材として繰り返し取り上げられ、その名は全国に知れ渡った 15 。尼子経久の謀略や晴久の統治といった、為政者としての複雑な現実は次第に忘れ去られ、尼子氏の記憶は、山中鹿介という個人の純粋で悲劇的な「忠義」の物語へと集約され、ロマン化されていったのである。後世の人々が「尼子」を思うとき、それは多くの場合、この鹿介の物語というフィルターを通して美化されたものであった。吐月糖が偲ぶ「戦国」もまた、史実そのものというよりは、この伝説化された物語の系譜に連なるものと考えられる。
戦国の記憶が物語へと変容していく過程で、大きな役割を果たしたのが、江戸時代に成立した『陰徳太平記』などの軍記物である。これらの書物は、中国地方の戦国史を生き生きと、そしてドラマチックに描き出し、武士から庶民に至るまで幅広い層の歴史観を形成した 17 。
『陰徳太平記』は、史実を骨格としながらも、読者の興味を引くための脚色や創作を随所に含んでいる 18 。合戦の描写は臨場感にあふれ、登場人物の心情は生き生きと描かれる。このような軍記物語を通じて、戦国時代の凄惨な現実は、勧善懲悪や英雄譚、悲劇の物語といった、人々が共感しやすい物語の枠組みへと再編成されていった。歴史は、研究の対象から娯楽の対象へと姿を変え、泰平の世の人々に消費されていったのである。山中鹿介の伝説化も、こうした軍記物の流行と深く関わっている。吐月糖が生まれる頃には、尼子氏の歴史はもはや生々しい過去ではなく、美しくも哀しい、追憶されるべき「物語」となっていたのである。
戦国の記憶が物語として熟成された江戸時代後期、出雲の地に一人の傑出した文化人が現れる。松江藩七代藩主・松平治郷、号して不昧。彼の存在こそ、吐月糖誕生の直接的な触媒となった。この章では、不昧公が築き上げた高度な文化と、それを支えた技術の進歩が、いかにして戦国の記憶を優美な菓子へと昇華させたかを明らかにする。
項目 |
戦国時代(尼子氏期) |
江戸時代(松平不昧公期) |
時代精神 |
実力主義、下剋上、質実剛健 |
秩序、安定、様式美、わびさび |
食文化 |
生命維持、兵糧、保存性重視 |
嗜好品、もてなし、季節感、美的体験 |
菓子 |
携帯食、エネルギー源(素朴) |
茶席の主役、芸術品、五感で楽しむもの |
美意識 |
武具甲冑に見る機能美、力強さ |
繊細さ、はかなさ、見立て、遊び心 |
象徴的人物 |
尼子経久、山中鹿介(武勇と忠義) |
松平不昧(文化の庇護者、大名茶人) |
松平不昧(1751-1818)は、破綻寸前であった松江藩の財政を立て直した名君として知られる一方で、茶道の世界に不滅の足跡を残した当代随一の大名茶人であった 20 。彼は自身の茶道を「不昧流」として大成させ、その影響は諸大名から庶民にまで及んだ。
不昧流の精神の根幹にあるのは、形式や定石に固執せず、客をもてなす心を第一とする、自由で開かれた姿勢である。「客の心になりて亭主せよ。亭主の心になりて客いたせ」という彼の言葉は、その哲学を端的に示している 23 。このもてなしの心は、茶事におけるあらゆる要素、特に茶の味を引き立てる菓子のあり方に、深い洗練を求めた。
不昧公の茶の湯への情熱は、松江の文化風土を一変させた。彼は藩の財政が許す限り名物茶器を蒐集する一方、地元の工芸を奨励し、和菓子作りにも力を注いだ 21 。彼の庇護のもと、松江の菓子職人たちは腕を磨き、京や金沢と並び称される日本三大菓子処としての礎が築かれたのである 25 。現在でも「不昧公好み」として語り継がれる「若草」や「山川」、「菜種の里」といった銘菓は、この時代に生まれ、あるいは再興されたものであり、松江の和菓子文化の豊かさを象徴している 24 。
不昧公の美学が花開いた背景には、和菓子作りにおける技術的な革新があった。その最大の要因が、国産の高級砂糖「和三盆」の登場である。
江戸時代中期、八代将軍・徳川吉宗の糖業奨励策をきっかけに、それまで輸入品や南西諸島産の黒砂糖に頼っていた砂糖の国内生産が本格化する 30 。特に高松藩(香川県)や徳島藩ではサトウキビの栽培と製糖法の研究が進み、やがて「盆の上で三度研ぐ」ことから名付けられたとされる、極めて粒子が細かく、口溶けの良い上品な甘みを持つ和三盆糖が完成した 30 。この新しい砂糖の誕生は、和菓子の世界に革命をもたらした。
特に、米や麦の粉を砂糖と混ぜて木型で打ち固める「落雁」は、和三盆を用いることで、その質を飛躍的に向上させた。室町時代に中国から伝来し、茶道の隆盛とともに発展した落雁は 33 、和三盆の繊細な風味と口溶けの良さを得ることで、茶席にふさわしい、より洗練された干菓子へと進化したのである。
吐月糖の誕生は、単に「戦国を偲ぶ」という情緒的な動機だけで可能になったわけではない。それは、「和三盆」という新しい技術的供給と、不昧公が主導する「不昧流茶の湯」という高度な文化的需要が、松江の地で交差したからこそ生まれた、必然の産物であった。和三盆がなければ、吐月糖のあのはかない口溶けは実現できず、不昧公の美学がなければ、戦国の物語を優美な菓子へと昇華させるという高度な文化的営為は生まれなかったであろう。
吐月糖が江戸時代後期、まさに不昧公の時代より伝わる菓子であるという事実は 1 、極めて示唆に富んでいる。松江松平家は、徳川家康の次男・結城秀康を祖とする親藩であり、尼子氏を滅ぼした毛利氏に連なる勢力、すなわち戦国時代の「勝者」の系譜に属する。通常、新たな支配者は、旧支配者の記憶を薄め、自らの正統性を強調しようとする傾向がある。
しかし、不昧公はそうしなかった。彼は、被支配者であった尼子氏の記憶を、地域の歴史遺産として、そして茶の湯文化の題材として積極的に取り込んだ。この行為は、彼が単なる武家の当主ではなく、出雲の歴史と文化の正統な継承者であることを示す、高度な文化政策であったと言える。尼子氏の居城の名を冠した菓子の誕生を許容し、あるいは奨励したことは、武力による支配から文化による統合へと移行した江戸の泰平を象徴する出来事である。それは、過去の対立を文化の力で乗り越え、地域の歴史全体を肯定しようとする、文化人・不昧公の深い見識と懐の深さを示している。
これまでの章で見てきたように、吐月糖は戦国時代の記憶と江戸時代の文化が交差する地点に生まれた。この章では、菓子そのものを一つのテクストとして捉え、その名称、色彩、素材、食感といった構成要素を一つひとつ解体し、そこに込められた多層的な意味を読み解いていく。
吐月糖の名称は、月山富田城の雅名「吐月峰」に由来する 1 。この命名自体が、歴史を美的に再解釈する行為である。もしこの菓子が「富田城糖」や「尼子糖」と名付けられていたならば、その印象は大きく異なっていただろう。それは、より直接的に戦国時代の武力や権力を想起させたに違いない。
しかし、作り手たちはあえて「吐月」という、静かで幻想的な響きを持つ言葉を選んだ。これにより、血なまぐさい戦の記憶は濾過され、風雅で詩的な追憶の対象へと巧みに転化されている。「城」という軍事施設の名前ではなく、月という自然の美と結びついた雅名を用いることで、峻厳な歴史は、茶席の静謐な時間の中に溶け込むことが可能になったのである。
吐月糖は、白と薄紅の二色で構成されている。この配色は、日本の伝統において祝い事や神事を象徴する「紅白」に通じるものである 35 。しかし、滅び去った一族を偲ぶ菓子に、なぜあえて祝いの色が用いられたのだろうか。この一見矛盾した選択には、複雑で深い意味が込められている。
日本の色彩文化において、「紅(赤)」は生命力や誕生、ハレの日を象徴する一方で、「白」は神聖さや清浄さ、そして死や別れをも意味することがある 38 。この二色を組み合わせることは、誕生から死まで、すなわち人の一生そのものを表すと解釈することも可能である。この観点から見れば、吐月糖の紅白は、尼子一族の栄華(生)と滅亡(死)という壮大な歴史のサイクルを象徴していると読み解ける。
さらに重要なのは、その色合いが鮮烈な赤白ではなく、「淡く楚々たる」薄紅色と白である点だ。これは、派手な祝祭ではなく、静かで敬虔な思いを表している。したがって、吐月糖の紅白は、単なる祝いではない。それは、悲劇的な運命を辿った者たちへの「鎮魂」の祈りと、彼らが歴史に残した栄光や忠義を後世に伝える「顕彰」の意という、二つの相反する感情が、淡い色彩の中に溶け合った、極めて日本的な美意識の表れなのである。滅びへの哀悼と、歴史への敬意が、この菓子の中で静かに両立しているのだ。
吐月糖の主原料は、和三盆糖、片栗粉、寒梅粉などである 2 。これらはすべて、江戸時代の平和と経済発展、そして農業技術の向上がもたらした、洗練された食材に他ならない。特に和三盆の上品で繊細な甘みは、この菓子の品格を決定づけている。
そして、その最大の特徴は「口の中でさらりと溶ける」はかない食感にある 1 。この感覚は、戦国武士の剛健さとはまさに対極に位置する、公家文化や成熟した町人文化に通じる繊細な美意識を体現している。力強く噛みしめるのではなく、舌の上で静かに消えていくのを待つ。この一瞬の体験の中に、もののあはれや無常観といった、日本の伝統的な美意識が凝縮されている。
戦国の激しく壮大な物語は、和三盆の上品な甘みと、はかなく消えゆく食感によって、美しくも物悲しい「物語」として、味覚の上で再構築される。凄惨な歴史の現実は、この菓子を通過することで浄化され、我々が安全な場所から追体験できる、美的な記憶へと昇華されているのである。
吐月糖に込められた歴史の物語は、現代においても地域の菓子舗によって大切に受け継がれている。そのあり方は、単なる商業活動を超え、地域史の継承という文化的な役割を担っている。
製造元名 |
所在地 |
代表的な商品・キーワード |
歴史的背景との関連性 |
尼子吐月糖本舗 |
安来市広瀬町広瀬 |
吐月糖 |
屋号に滅びた一族の名を冠し、歴史の直接的な継承者であることを示している 2 。 |
祖田風月堂 |
安来市広瀬町広瀬 |
富田吐月糖、鹿之介 |
尼子氏の英雄・山中鹿介の名を商品に用いることで、物語性を強調し、地域のヒーローを顕彰している 40 。 |
表に示すように、「尼子吐月糖本舗」のように屋号そのものに滅びた一族の名を冠する店や、「祖田風月堂」のように「鹿之介」という名をキーワードに掲げる店が存在する事実は、菓子作りが地域の歴史とアイデンティティを能動的に継承する営みであることを明確に示している。
月山富田城は今や石垣を残すのみの史跡となったが、菓子は今なお作り続けられ、人々の口に入る。地域の人々や訪れる観光客が「尼子」や「鹿之介」の名を冠した菓子を製造し、販売し、そして消費するというサイクルは、地域社会の中で絶えず戦国の記憶を再生産し、共有する行為に他ならない。このように、吐月糖とその製造元は、物理的な遺産と並び、広瀬という土地の歴史的アイデンティティを形成し、後世に伝え続ける無形の文化財として、重要な機能を果たしているのである。
出雲国広瀬の銘菓「吐月糖」は、単に江戸時代後期に生まれた上品な砂糖菓子ではない。本報告で詳述してきたように、それは戦国乱世の峻厳な史実が、江戸時代の泰平、理想化された英雄譚、そして大名茶人・松平不昧の洗練された美意識という、幾重もの文化的フィルターを経て見事に結晶化した、「食の芸術品」であり「歴史の記念碑」である。
この小さな一粒の菓子は、実に多層的な意味を内包している。それは、月山富田城に散った尼子一族への静かな「鎮魂歌」であり、主家再興に生涯を捧げた忠臣・山中鹿介への「賛歌」でもある。同時に、茶の湯文化を極めた松平不昧の美学の「証」であり、そして何よりも、出雲・広瀬の地が育んできた「歴史的アイデンティティの象徴」なのである。
戦国の記憶は、そのままの形で後世に伝えられたわけではない。それは語り継がれる中で取捨選択され、美化され、物語へと姿を変えた。そして、和三盆という新しい技術と、不昧公という傑出した文化の庇護者を得て、ついに吐月糖という優美な形へと昇華された。凄惨な歴史は浄化され、はかなくも美しい、味わうことのできる記憶となったのだ。
したがって、我々がこの菓子を一口に含むとき、それは単に甘さを味わう行為に留まらない。それは、尼子一族の栄華と没落、鹿介の悲願、そして不昧公の美学という、五百年にわたる人々の記憶と想いが織りなす壮大な歴史物語を、五感で味わうという、極めて文化的な体験なのである。