最終更新日 2025-08-08

向獅子

向獅子香炉は、中国起源の獅子形香炉。武野紹鷗、千利休、古田織部ら戦国茶人に愛され、権力者の象徴にも。美意識の変遷と権力の象徴を映す名品。
向獅子

戦国時代の茶の湯における「向獅子」香炉の総合的考察

序論:戦国の世に香(こう)を焚くということ

「向獅子」とは、一対の丸く太った獅子が口を開け、そこから香の煙が立ち上る趣向の香炉であり、戦国から安土桃山時代にかけて多くの茶人に愛用された。この簡潔な定義は、器物の基本的な姿を捉えているものの、その背後に広がる豊かな文化的・歴史的文脈のほんの入り口に過ぎない。そもそも「向獅子」という呼称自体が、特定の一個の器物を指す固有名詞(例:徳川美術館所蔵の「紫銅向獅子香炉」)と、獅子の姿を模した香炉という器物の一分類を示す一般名詞の両方の文脈で用いられる多義的なものである。この点をまず明確にすることが、本報告書の議論の前提となる。

戦国時代において、「香」を焚くという行為は、単に空間に芳香を満たすだけのものではなかった。それは仏事における空間の浄化という宗教的役割を担い 1 、権力者の座敷を飾る舶来のステータスシンボルであり、そして何よりも、茶の湯という精神的な空間を演出するための極めて重要な要素であった。香炉とは、この多義的な「香」の価値を可視化し、体現するための装置だったのである。

本報告書は、この「向獅子」という器物群を、大陸からの文化受容、茶の湯の精神性の深化、そして戦国武将たちの政治力学という三つの軸が交差する点として捉える。そして、その造形的な源流から、戦国を代表する茶人たちの美意識の投影、さらには天下人たちの権威の象徴としての役割までを多角的に分析し、「向獅子」という一つの香炉を通して、戦国という時代の精神性を解明することを目的とする。

第一章:「向獅子」の源流と伝播 — 大陸の威厳と日本の機知

「向獅子」に代表される獅子形の香炉は、日本で突如として生まれたものではない。その造形的なルーツは大陸にあり、中国大陸や朝鮮半島で育まれた格調高い様式が、日本の美意識と出会うことで独自の展開を遂げた。本章では、その伝播と変容の軌跡を辿り、「唐物」への憧憬と、それを取り込み自らのものとしていく日本の創造性のダイナミズムを明らかにする。

第一節:大陸からの影響 — 中国・朝鮮半島の獅子形香炉

獅子形香炉の源流を遡ると、中国の壮麗な陶磁文化に行き着く。特に、中国浙江省に位置する龍泉窯は、宋代から明代にかけて上質な青磁を生産した一大拠点であった 3 。この龍泉窯では、獅子を蓋の鈕(つまみ)にあしらい、香を焚くとその口から煙が立ち上るという、洗練された意匠の香炉が作られていた 4 。これらの香炉の本体は、しばしば古代中国の青銅器である「鼎(かなえ)」の重厚な形状を模しており、その出自が単なる日用品ではなく、高い格式を持つ器物であったことを示している 4 。獅子の胴体から口にかけて内部が空洞になっており、香炉本体で焚かれた香の煙がこの空洞を通って獅子の口から排出されるという仕組みは、実用性と視覚的な面白さを兼ね備えた、高度な設計思想の産物であった 4

この獅子をモチーフとする香炉の文化は、朝鮮半島にも伝播し、高麗時代には精巧な青磁の獅子形香炉として花開いた 5 。忠清南道泰安郡の海底から引き揚げられた泰安船の積荷からは、高麗青磁の優れた獅子形香炉蓋が発見されている 5 。この香炉蓋に見られる獅子は、鉄顔料で黒く点を打たれた両眼が、正面、側面、真上など、どの角度から見ても鑑賞者と視線が合うように巧みに作られている 5 。これは単なる写実的な表現を超え、見る者に強い印象と、まるで魂が宿っているかのような不思議な力を感じさせるための意図的な造形であり、高麗青磁の持つ表現主義的な特徴をよく示している。

こうした獅子の造形が重用された背景には、仏教の影響がある。獅子は仏教において、文殊菩薩の乗り物であり、仏法を守護する聖なる存在、あるいは王者の象徴として尊ばれてきた 1 。そのため、これらの香炉は当初、宗教的な権威や儀式と深く結びついた器物として制作され、使用されていたと考えられる。

第二節:日本における受容と変容 — 「唐物」から「和物」へ

鎌倉時代から室町時代にかけて、中国や朝鮮半島で作られたこれらの獅子香炉は、「唐物(からもの)」として日本に輸入された。当時の日本において「唐物」は、将軍家や守護大名といった支配者層がその権威と富を示すための最高級の美術品であり、茶の湯の世界においても最も格式の高い道具として珍重された 3 。龍泉窯の青磁などは、その美しい釉色から特に高く評価され、日本の支配者層の間で垂涎の的となった。

しかし、室町時代も末期になると、この「唐物」への憧憬は、新たな段階へと移行する。すなわち、それを自らの手で作り出そうとする動きである。日本の瀬戸窯や美濃窯では、中国青磁の意匠や技法を熱心に学び、その模倣品が作られ始めた 6 。これは単なるコピーに留まるものではなく、大陸から伝わった文化を日本の陶工たちが咀嚼し、自らの技術と美意識によって再生産していく重要なプロセスであった。

この流れの中で特筆すべきは、後に千利休が「見立て」たとされる獅子香炉の存在である。この香炉の原型は、大陸からの輸入品ではなく、日本の瀬戸窯で焼かれた一対の狛犬であったと伝えられている 7 。大陸の様式が日本で受容され、国産化が進む中で、茶人という新たな価値の発見者によって、その意味合いが大きく転換されることになる。当初は宗教的権威や舶来品としての希少価値が重視された獅子香炉が、戦国時代の日本では、茶人の鋭い審美眼によって、わび、さび、あるいは遊び心といった新たな美的価値を見出される対象へと変容を遂げたのである。この価値の転換こそが、戦国時代の茶の湯文化の核心に触れる動きであった。

第二章:戦国茶の湯と「向獅子」— 三人の茶人が見出した美

戦国時代の茶の湯は、単一の美意識で支配されていたわけではない。それは、時代を代表する茶人たちの個性的な哲学がぶつかり合い、影響し合うダイナミックな場であった。「向獅子」という共通のモチーフは、彼らの美意識を映し出す鏡となり、それぞれの茶人がこの器物に何を見出し、どのように自らの茶の湯の世界に取り込んだかを探ることは、戦国茶の湯の思想的進化を理解する上で不可欠である。本章では、武野紹鷗、千利休、古田織部という三人の巨人が獅子形香炉とどのように関わったかを分析する。

第一節:大名物「紫銅向獅子香炉」— 武野紹鷗のわびと豪華の共存

千利休の師であり、わび茶の理念を深めたとされる武野紹鷗(1502-1555)。彼の茶の湯は、質素で静寂なものと一般的に理解されがちだが、彼が愛玩したと伝わる道具を見ると、そのイメージはより複雑で豊かなものとなる。その代表格が、徳川美術館に所蔵される「紫銅向獅子香炉」である 9

この香炉は、茶道具の格付けにおいて最高位である「大名物」に分類される逸品である 9 。特筆すべきは、その材質が一般的な陶磁器ではなく、紫がかった光沢を持つ銅の合金、紫銅で作られている点である 9 。制作地は中国、時代は明代とされ 9 、まさに紹鷗が生きた時代の「唐物」の名品であった。その造形は、頭に角を持ち、全体的に丸々と肥え、大きく開けた口から舌をのぞかせる姿をしており、百獣の王たる獅子の威圧的な猛々しさは感じられない。むしろ、その表情は「ユーモラス」と評されるほどの愛嬌に満ちている 9 。この「おかしみ」や「コミカルな表現」は、後の時代の明代龍泉窯の動物をかたどった香炉にも通じる特徴であり 10 、厳格な様式美だけでなく、見る者を楽しませる遊び心をも許容する大陸の美意識の一端を示している。

わび茶の祖とされる紹鷗が、なぜこのような装飾的で、異国情緒と遊び心にあふれた金工品を愛したのか。この一点は、紹鷗の茶の湯が決して質素一辺倒ではなかったことを雄弁に物語る。彼の美意識は、後の利休が徹底させたような禁欲的な「わび」とは異なり、舶来の名物(唐物)が持つ格調や豪華さ、そしてそこに宿る遊戯性を肯定的に受け入れる、過渡期ならではの豊かさと幅広さを持っていた。紹鷗にとっての茶の湯とは、静寂と華やかさ、質素と豪華さが矛盾なく共存する世界だったのである。「紫銅向獅子香炉」は、その複雑な美学を象徴する存在と言えよう。

第二節:見立ての妙「瀬戸獅子香炉」— 千利休の創造性

武野紹鷗の弟子である千利休(1522-1591)は、茶の湯を大成させ、その価値観に革命をもたらした。その革命の核心にあったのが、「見立て」という美学である。利休の創造性を最も象徴的に示す逸話の一つが、「瀬戸獅子香炉」の誕生にまつわる物語である。

伝承によれば、利休はもともと神社仏閣に奉納される一対の狛犬として作られた瀬戸焼の置物に着目した 7 。そして、口を開けた阿形(あぎょう)の像を手に取り、その頭部を後頭部にかけて大胆に打ち割って、火舎(ほや、香炉の蓋)に見立て、香炉として再生させたと伝えられる 7 。これは、単なる再利用ではない。本来の用途や文脈から物を意図的に切り離し、茶の湯の道具として全く新しい命と価値を吹き込む、極めて高度な創造的行為であった。

この「見立て」という行為が革命的であったのは、茶道具における価値の基準を根底から覆した点にある。それまで茶道具の価値は、その来歴(誰が所持していたか)や産地(唐物であるか)、希少性によって決まるのが常識であった。しかし利休は、高価な「唐物」に頼るのではなく、ありふれた国産品(和物)や、本来は茶道具ではない物の中に、自らの鋭い審美眼で「美」を発見し、亭主の精神性こそが物の価値を「創造」するのだと示したのである。

この伝承を裏付けるかのように、根津美術館には重要美術品に指定された「獅子香炉」が所蔵されている 8 。この作品は、がっしりとした力強い姿の獅子で、近年の調査では室町時代後半の瀬戸窯の作とされている 8 。さらに、その箱の蓋には、大名茶人として名高い小堀遠州の筆で「利休所持」と墨書されており、この香炉が土屋相模守から松平不昧といった数寄者の手を経て伝来したことも記録されている 8 。利休の「見立て」は、単なる逸話に留まらず、具体的な名品として後世に語り継がれていったのである。

第三節:「織部獅子鈕香炉」— 古田織部の破格の美学

利休の死後、茶の湯界の第一人者として君臨したのが、利休七哲の一人、古田織部(1544-1615)であった。織部は豊臣秀吉、そして二代将軍・徳川秀忠の茶道指南役を務めるなど、政治の中心においても重用された 12 。彼の美意識は「織部好み」として知られ、利休の静謐で均衡のとれた「わび」の世界とは対照的なものであった。織部は、整然としたシンメトリーを嫌い、意図的に形を歪ませ、大胆な文様や鮮やかな色彩を用いる「破格の美」を追求した 14

この「織部好み」を体現するのが、「織部焼」の獅子鈕香炉である。ORIBE美術館に参考展示された「青織部獅子鈕香炉」などは、その好例と言える 15 。伝統的な獅子の姿を大胆にデフォルメし、織部焼の最大の特徴である鮮やかな深緑色の釉薬を流しかけたその姿は、静的な利休の美とは全く異なる、動的で生命力に満ちた奔放なエネルギーを放っている。

織部の茶は、戦国の世を生き抜いた武将たちの気風と合致し、「武家茶道」として一世を風靡した 12 。彼の獅子香炉は、利休の「見立て」からさらに一歩進んだものと言える。利休が既存の物の中に新たな価値を発見したのに対し、織部は日本の陶工と一体となって、自らの美意識に基づき、全く新しい「和物」の名品をゼロから創造する時代の到来を告げたのである。

紹鷗、利休、織部という三代の茶匠が「向獅子」というモチーフに示したアプローチは、戦国時代の茶の湯の思想が、いかにダイナミックに進化していったかを象徴している。それは、舶来の「唐物」を尊重し、その格調を愛でる段階(紹鷗)から、身近な国産品に新たな価値を見出す「見立て」の創造性(利休)へ、そしてついには日本独自の美意識で大胆な自己表現を行う「和物」の確立(織部)へと至る、日本の美意識が自立していく大きな歴史的潮流そのものであった。戦国時代の茶の湯は、利休の「わび」一色ではなく、紹鷗の豪華さや織部の破格の美もまた、時代の精神が求めた多様な価値観であったことを、「向獅子」は静かに物語っている。

第三章:天下人と茶道具 — 権威の象徴としての香炉

茶室という静謐な空間で美の探求の対象となった香炉は、ひとたびその場を離れると、全く別の顔を見せた。それは、戦国武将たちが繰り広げる政(まつりごと)の舞台において、領地や黄金に匹敵する価値を持つ「権威の象徴」としての顔である。本章では、視点を茶室から政治の場へと移し、名物茶道具が、いかにして武将たちの政治的資本となり、天下統一の趨勢にまで影響を与えたかを論じる。

第一節:織田信長の「名物狩り」と香炉の価値

天下統一を目前にした織田信長(1534-1582)は、武力による支配と並行して、極めて巧みな文化戦略を展開した。その中核にあったのが、畿内や堺の豪商たちが所蔵する名物茶道具を、権力と財力にものを言わせて収集する、いわゆる「名物狩り」である 16 。信長はこうして手中に収めた茶道具を、戦功のあった家臣への最高の恩賞として与えた。一国一城にも匹敵するとされた名物茶道具は、土地や金銭以上に家臣のプライドをくすぐる価値を持ち、信長の独自の支配体制を強化するための強力な政治的ツールとして機能したのである 16

信長が所有した名物香炉として特に名高いのが、「青磁香炉 銘 千鳥」である 18 。これは中国・南宋時代の龍泉窯で焼かれた最高級の砧(きぬた)青磁で、かつては武野紹鷗も所持したとされる「大名物」であった 19 。信長がこの「千鳥の香炉」を茶会で用い、その際の道具組を目録として記している史料も残っており 19 、香炉が茶事の中心的な飾り道具として極めて重要視されていたことがわかる。

茶道具が武将の誇り、ひいては命そのものと一体化していたことを示す最も衝撃的な逸話が、松永久秀の最期であろう。信長に反旗を翻した久秀は、信貴山城に籠城。信長は降伏の条件として、久秀が秘蔵する名物茶釜「平蜘蛛釜」を差し出すよう要求した。しかし久秀は、「平蜘蛛釜だけは信長に渡すわけにはいかぬ」とこれを断固として拒否し、最期は茶釜に爆薬を詰めてもろとも爆死したと伝えられている 14 。この逸話は、名物茶道具が単なる美術品ではなく、戦国武将のアイデンティティそのものであったことを象徴している。

第二節:豊臣秀吉の茶会と権勢の誇示

本能寺の変で信長が斃れると、「千鳥の香炉」をはじめとする彼のコレクションの多くは、天下人の地位を継承した豊臣秀吉(1537-1598)の手に渡った 19 。信長の名物をそっくり受け継ぐことは、秀吉が信長の後継者であることを天下に知らしめる、極めて象徴的な意味を持っていた。

農民から天下人にまで上り詰めた秀吉は、自らの権威を可視化するために、文化を巧みに利用した。その頂点が、天正15年(1587年)に京都・北野天満宮で催された「北野大茶湯」である。この前代未聞の大茶会で、秀吉は身分の別なく参加を許す一方で、自らが蒐集した珠玉の名物道具を惜しげもなく披露した 19 。この場においても「千鳥の香炉」が飾られ、東大寺の至宝である香木「蘭奢待」が焚かれたと記録されている 19 。北野大茶湯は、文化的な催しであると同時に、秀吉の圧倒的な権勢と富を天下に誇示する、壮大な政治的パフォーマンスだったのである。

第三節:徳川家への伝来と文化的遺産の形成

秀吉の死後、関ヶ原の戦いを経て天下を手にした徳川家康(1543-1616)のもとへ、再び多くの名物が集積された。そして家康の死後、その遺産は「駿府御分物(すんぷおわけもの)」として、尾張・紀伊・水戸の御三家をはじめとする子らへと分与された。信長、秀吉と天下人の手を渡り歩いた「千鳥の香炉」も、この時に家康の九男である尾張徳川家初代・徳川義直に譲られた 19 。また、武野紹鷗が愛玩したと伝わる「紫銅向獅子香炉」も、同じく尾張徳川家初代義直以降、同家に伝来したことが確認されている 9

戦乱の世が終わり、泰平の江戸時代が訪れると、これらの名物の持つ意味合いも変化していく。かつては武将の野心や誇りを象徴し、時には政争の具ともなった茶道具は、もはや政治的ツールとしてではなく、大名家の「家格」を象C徴する文化的遺産として、大切に守り伝えられていくことになった。戦国の血風を浴びながらも生き抜いた「向獅子」たちは、今や美術館の静かな展示ケースの中で、その激動の歴史を静かに語りかけている。

このように、「向獅子」に代表される名物香炉は、茶室における「美の探求」の対象であると同時に、政治の舞台における「権力の象徴」という二重の顔を持っていた。この二つの側面は、互いに深く影響し合っていたと言える。名物としての美的な評価が高いからこそ、その政治的な価値も高まる。逆に、天下人が所有することで、その器物の美的な権威もまた強化される。この美と権力の相互作用こそが、戦国時代の茶道具をめぐる文化の核心であり、そのダイナミズムを理解する鍵なのである。

挿入表:戦国時代を代表する主要獅子形香炉の比較

本報告書で論じた主要な獅子形香炉の特徴を以下に要約する。この比較表は、武野紹鷗、千利休、古田織部という三人の茶匠の美意識の変遷と、それに伴う「向獅子」というモチーフの展開(唐物→見立て→和物)を視覚的に示している。

名称

主な伝来

材質・産地

造形的特徴

現所蔵

典拠

紫銅向獅子香炉

武野紹鷗 → 徳川義直

中国・明代、紫銅

角があり、丸く肥え、舌を出すユーモラスな表情。格調と遊び心の共存。「大名物」。

徳川美術館

9

瀬戸獅子香炉

千利休 → 松平不昧

日本・室町時代、瀬戸窯

狛犬からの「見立て」。本来の用途からの転用による創造性。力強い表情のがっしりした姿。

根津美術館

7

青磁香炉 銘 千鳥

武野紹鷗 → 織田信長 → 豊臣秀吉 → 徳川家康

中国・南宋、龍泉窯(砧青磁)

三足が浮く「千鳥形」。後藤祐乗作と伝わる蓋の千鳥の鈕。天下人の権威の象徴。

徳川美術館

18

青織部獅子鈕香炉

(古田織部関連)

日本・桃山時代、美濃窯

織部焼特有の緑釉。均衡を破る大胆な歪みとデフォルメ。「破格の美」。

ORIBE美術館(参考展示)

12

結論:向獅子が見つめた戦国の終焉と新たな時代の幕開け

本報告書で詳述してきたように、「向獅子」という香炉は、単なる美しい工芸品の範疇を遥かに超え、戦国時代という激動の時代の多層的な文化事象を映し出す、類稀な文化的アイコンであった。その意義は、以下の三つの側面に集約される。

第一に、大陸文化の受容と日本的な変容のプロセスを体現している点である。中国・龍泉窯の格調高い様式が、日本において瀬戸・美濃の陶工たちによって模倣され、やがて織部焼のような独自の美意識に基づく創造へと昇華していく過程は、日本の文化形成の縮図とも言える。

第二に、紹鷗・利休・織部に代表される茶の湯の美意識の深化と多様化を象徴している点である。紹鷗が愛した「唐物」の豪華さ、利休が「見立て」によって創造した「和物」の静謐さ、そして織部が追求した「破格の美」。これらは、戦国時代の茶の湯が決して一枚岩ではなかったこと、そして多様な価値観が共存し、競い合っていたことを示している。

第三に、信長・秀吉・家康といった天下人たちの政治力学と権威の象徴であった点である。茶道具は恩賞として家臣の心を掴み、その所有は天下人の正統性を示し、泰平の世においては大名家の「格」を物語る文化的遺産となった。

「向獅子」は、その口から香煙を静かに吐き出すように、戦国時代の宗教、美学、政治が複雑に織りなす「時代の香り」を現代に伝えている。それは、戦乱の世にありながら、人々が必死に求め、創造し、時には命さえ懸けた「美」の物語の、寡黙なる証人なのである。この小さな獅子の姿をした器物を通して、我々は戦国という時代の精神的風景を、より深く、より豊かに理解することができる。

引用文献

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  3. 龍泉窯(りゅうせんよう)とは|南宋の青磁窯の歴史と特徴、購入方法。日本に最も多く輸入された青磁 https://touji-gvm.com/longquan/
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  10. 本物の古美術品に触れよう!~「龍泉窯青磁」の時代ごとの呼称と特徴 - スルガ銀行 https://www.surugabank.co.jp/d-bank/event/report/160416.html
  11. 根津美術館で仏教の世界を装飾する華麗な仏具を紹介【読者レビュー】 - Sfumart https://sfumart.com/column/10477/
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  21. 武将茶人/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/117450/
  22. 秀吉の香炉のはなし - 梅薫堂 http://www.baikundo.co.jp/wordpress/hideyoshis_incense_burner/
  23. 作品詳細 | 紫銅向獅子香炉 | イメージアーカイブ - DNPアートコミュニケーションズ https://images.dnpartcom.jp/ia/workDetail?id=TAM000561