「和泉守兼定」は、戦国時代の二代目兼定(之定)と幕末の十一代目兼定を指す。之定は美濃関の刀工で、豪壮な姿と華やかな刃文、最上大業物の切れ味で武田信虎ら戦国武将に愛された。
「美濃国関の刀鍛冶・兼定の作で、武田信虎が所持した名刀」。このご認識は、まさしく歴史的事実を的確に捉えています。現に、武田信虎の所持銘が刻まれた兼定の太刀は、今日まで伝来する第一級の史料として存在します。しかしながら、この事実は「和泉守兼定」という名の持つ、より広大で深遠な歴史の、ほんの一端に過ぎません。本報告書は、その名を巡る歴史の多層性を解き明かし、特にご依頼の趣旨である「戦国時代」という視点から、この名工の実像に徹底的に迫るものです。
「和泉守兼定」という名は、歴史上、特に高名な二人の刀工を指します。彼らは時代も活動拠点も全く異なりますが、その名はしばしば混同されてきました。
第一の人物は、 室町時代後期(戦国時代)に美濃国関(現在の岐阜県関市)で活躍した二代目兼定 です。彼はその卓越した技量により朝廷から「和泉守」の官位を授かりました。そして、自らの作であることを示すため、銘の「定」の字のウ冠の下を「之」の字のように切ったことから、通称「 之定(のさだ) 」として刀剣界にその名を轟かせました。本報告書が主として論じるのは、この「之定」です。
第二の人物は、 江戸時代末期(幕末)に陸奥国会津(現在の福島県会津若松市)で活躍した十一代目兼定 です。彼は会津藩のお抱え刀工として、やはり「和泉守」の官位を受領しました。新選組副長・土方歳三が佩用した刀の作者として、大衆文化を通じて絶大な知名度を誇りますが、これは「 会津兼定 」とも呼ばれ、之定とは別人です。
司馬遼太郎の歴史小説『燃えよ剣』などの影響で、土方歳三の愛刀が戦国時代の之定の作であるかのような印象が広まりましたが、これはフィクションであり、歴史学的には明確に区別されています 1 。この混同を解消するため、まず両者の特徴を以下の表に整理します。
項目 |
和泉守兼定(二代目) |
和泉守兼定(十一代目) |
通称 |
之定(のさだ)、関兼定 |
会津兼定、古川兼定 |
時代 |
室町時代後期(戦国時代) |
江戸時代末期(幕末) |
活動拠点 |
美濃国 関(現・岐阜県関市) |
陸奥国 会津(現・福島県会津若松市) |
世代 |
関兼定の二代目 |
会津兼定の十一代目 |
作風の要点 |
相州伝を取り入れた豪壮な姿。箱乱、矢筈乱など華やかな刃文。切れ味は「最上大業物」。 |
反りの浅い長寸の姿。直刃を得意とし、機能美に優れる。時に相州伝写しも見られる。 |
著名な所有者 |
武田信虎、細川忠興、森長可、柴田勝家など |
土方歳三 |
歴史的意義 |
戦国武将に最も愛された刀工の一人。関物を代表するブランドを確立。 |
幕末の動乱期、新選組隊士に実用的な刀を供給。土方歳三の最期を共にした刀として有名。 |
この混同が生じる背景には、単なる偶然以上の、深い歴史的理由が存在します。「和泉守兼定」という名称が、単なる刀工の名を超え、一個の「ブランド」として絶大な価値を持っていたことこそが、この歴史的混同の根源にあるのです。幕末の会津兼定が、三百年の時を経て「和泉守」という高名な官位を再び名乗ったのは、戦国時代の伝説的名工「之定」が築き上げた権威と名声に自らを結びつけ、そのブランド価値を継承しようとする明確な意図があったと考えられます。そして、土方歳三の愛刀として後世に名を馳せたことは、このブランド戦略が時代を超えて成功した証左と言えるでしょう。
応仁の乱(1467-1477)を境に、日本は百年に及ぶ戦乱の時代へと突入しました。絶え間ない戦闘は、刀剣に対する需要を質・量ともに飛躍的に増大させ、新たな刀剣生産地を求める声を全国にもたらしました。この時代の要請に完璧に応えたのが、美濃国関の刀工たちです。
関の地は、作刀に不可欠な資源に恵まれていました。切れ味を左右する焼き入れに適した良質な「焼刃土」、高温を維持するための燃料となる「松炭」、そして鋼を鍛え、焼きを入れる際に用いる清冽な「長良川の水」。これらの天然資源が、関を日本一の刀剣生産地へと押し上げたのです。
ここで生み出された「関物(せきもの)」と総称される刀剣は、何よりも実用性を第一に考えられていました。「折れず、曲がらず、よく切れる」という評価は、関物の本質を端的に表しています。その造り込みは、刀身の厚みである「重ね」をやや薄くし、切っ先にかけて反りが強くなる「先反り」がつくことで、抜群の切れ味を実現していました。この実践本位の思想こそが、関物を全国の武将垂涎の的としたのです。
関の繁栄を支えたのは、天然資源だけではありませんでした。この地には「関の七流」と呼ばれる刀工の流派が形成され、互いに技術を競い合い、全体のレベルを向上させていました。
さらに特筆すべきは、関の刀工たちが「鍛冶座(かじざ)」という一種の自治組織を形成していた点です。これは、刀剣の五大流派「五箇伝」(大和、山城、備前、相州、美濃)の中で唯一の事例であり、関が単なる職人の集住地ではなく、生産から販売までを管理する、高度に組織化された一大工業都市であったことを物語っています。この組織力こそが、戦国時代の膨大な需要に応え、安定した品質の刀剣を供給し続けることを可能にしたのです。
関鍛冶の中でも、孫六兼元と並び称される最高のブランドが「兼定」です。その名は三代にわたって受け継がれ、それぞれが時代の要請に応えながら、独自の作風を確立していきました。
兼定一門の祖である初代は、関七流の一つ、三阿弥派の刀工・兼則の子と伝えられています。当初は赤坂(現在の岐阜県大垣市)で作刀し、後に刀都・関へ移住しました。
その作風は、京都で生まれた山城伝に通じる、上品で優美な姿を特徴とします。刃文は、焼きの入った部分の幅が狭く、引き締まった「直刃(すぐは)」を基調としながら、部分的に小豆ほどの大きさの丸い「互の目(ぐのめ)」を交えるなど、洗練された趣がありました。これは、まだ室町中期の雅やかな文化が残る時代の気風を反映していると言えるでしょう。銘は細い鏨(たがね)を用いて繊細に刻まれ、後代の兼定と区別するため、敬意を込めて「親兼定」と呼ばれています。
本報告書の中心人物であり、兼定の名を不朽のものとした天才刀工が、二代目・和泉守兼定です。彼は初代の子としてその技を受け継ぎ、戦国時代という新たな時代の要請に応えるべく、作風を劇的に進化させました。
彼の転機となったのは、明応年間(1492-1501)の末頃に朝廷より「和泉守」の官位を授かったことです。これは刀工にとって最高の栄誉であり、彼の技量が公に認められたことを意味します。これ以降、彼は他の「兼定」を名乗る刀工と一線を画し、自らの作品の価値を明確にするため、銘の「定」の字のウ冠の下を、ひらがなの「之」のように切るようになりました。これが、彼の代名詞である「之定」の由来です。この独特の銘は、彼の絶大な自信と、自らの作品を一個のブランドとして確立しようとする、極めて高い意識の表れと解釈できます。
之定の跡を継いだのが、彼の子、または養子とされる三代目です。彼は、偉大な父・之定と区別するため、銘の「定」の字のウ冠の下を、漢字の「疋」のように崩して切りました。このことから、彼は「疋定(ひきさだ)」と呼ばれています。
疋定の作風は、父・之定の華やかな様式を継承しつつも、全体的にはやや穏やかで、優しい印象を与えるものへと変化しています。また、刃の根元である刃区(はまち)のすぐ上の「焼出し」に、大きく乱れた刃を入れる「関の腰刃」といった、関物特有の様式がより顕著に見られるのも特徴です。これは、革新の時代であった之定の時代が一段落し、その様式が定着・洗練されていく過渡期の姿を示していると言えるでしょう。
兼定三代にわたる作風の変遷は、単なる技術の継承や芸術上の変化に留まりません。それは、戦国時代そのものの様相を映し出す鏡なのです。初代「親兼定」の優美さは応仁の乱以前の文化の残り香を、二代目「之定」の豪壮で華やかな作風は実用性と威厳が同時に求められた戦国最盛期の価値観を、そして三代目「疋定」の穏やかさを加えた作風は様式が定着していく時代の姿を、それぞれ見事に体現しているのです。
項目 |
初代(親兼定) |
二代目(之定) |
三代目(疋定) |
通称 |
親兼定 |
之定 |
疋定 |
活躍年代 |
室町中期 |
室町後期(明応頃) |
室町後期(天文頃) |
姿(反り・身幅) |
上品で優しい姿 |
反り浅く先反り気味。身幅広く、鋒/切先が伸びる。 |
全体的に穏やかな姿 |
地鉄 |
大和伝風の柾目肌が交じる |
小板目肌に柾目肌が交じる |
兼定一門の特色を継承 |
刃文 |
焼幅の狭い直刃に小互の目を交える |
箱乱、湾れ、矢筈乱など、覇気があり華やか |
之定より優しい刃文。関の腰刃が見られる。 |
帽子 |
不明瞭 |
地蔵帽子などが多い |
父の作風を継承 |
銘字の特徴 |
細い鏨で繊細な字体。「兼定」「濃州住兼定」 |
「定」のウ冠の下が「之」。「和泉守兼定」 |
「定」のウ冠の下が「疋」。 |
二代目和泉守兼定、すなわち「之定」の刀が、なぜ数多の戦国武将を魅了し、後世にまで語り継がれる存在となったのか。その答えは、美術品としての究極の美と、武器としての至高の性能が、一つの刀身の中で奇跡的な融合を遂げている点にあります。
之定の刀の姿は、一見して豪壮でありながら、完璧な均衡を保っています。反りは全体的に浅いものの、切っ先にかけて反りが強くなる「先反り(さきぞり)」がつき、これは振り抜きの良さと刺突の鋭さを両立させるための計算された形状です。身幅は広く、鋒/切先(きっさき)はやや伸びごころとなり、堂々たる威容を誇ります。この力強い姿は、鎌倉時代の相州伝(そうしゅうでん)の影響を色濃く反映しており、実用一辺倒ではない、武将の威儀を示すための美意識が込められています。
刀身の表面に現れる文様である地鉄は、刀工の技量が最も如実に現れる部分です。之定の地鉄は、細かな木材の板目を思わせる「小板目肌(こいためはだ)」が非常によく詰み、清らかで澄んだ鉄の美しさを見せます。そして、その中に兼定一門の特色である、まっすぐな木目のような「柾目肌(まさめはだ)」が交じり、単調ではない複雑な表情を生み出しています。この美しい地鉄は、原料となる玉鋼(たまはがね)から不純物を徹底的に取り除き、鋼を数えきれないほど折り返し鍛錬した結果であり、刀身の強靭さと美しさを同時に保証する、之定の技術の結晶です。
之定の真骨頂であり、その名を不滅にした最大の要因は、燃え立つ炎のように華やかで覇気に満ちた刃文にあります。
特筆すべきは、刃文と地鉄の境界線である「匂口(においぐち)」の出来栄えです。一般的な関の刀は、この匂口がやや沈んで見える傾向がありますが、之定の作はこれがはっきりと明るく冴え渡り、刃の白さと地の黒さのコントラストを際立たせています。この鮮烈な刃文こそが、之定の刀に生命感と覇気を与えているのです。
切っ先部分に焼かれた刃文である「帽子」には、刀工の個性と技術のすべてが凝縮されます。之定の作には、乱れ込んだ刃文が切っ先の先端で地蔵菩薩の横顔のように丸く返る「 地蔵帽子(じぞうぼうし) 」が多く見られます。これは彼の作を鑑定する上で極めて重要な見どころであり、単なる装飾ではありません。刺突時に最も負荷がかかる切っ先の強度を確保するための、機能的な意味合いを持つ形状であり、刀身が健全であることの象徴として、武将たちに特に好まれました。
之定の刀の価値は、その美術的な美しさだけに留まりません。江戸時代、徳川幕府の御用試役(ごようためしやく)であった山田浅右衛門家は、実際の死体を用いて刀の切れ味を試す「試斬(ためしぎり)」を行い、その結果を位列としてまとめました。その中で、之定の刀は、最高の切れ味を持つとされる刀工にのみ与えられる最高位「 最上大業物(さいじょうおおわざもの) 」に選定されたのです。これは、彼の刀が美術品として美しいだけでなく、武器として比類なき斬断性能を有していたことの、最も客観的な証明と言えます。
その性能と希少性から、之定の刀は江戸時代には「 千両兼定 」とも呼ばれ、大名家でさえ容易には入手できない垂涎の的でした。その価格は、文字通り千両の価値があるとされたのです。
戦国時代の関を代表する二大巨頭として、之定は常に「 孫六兼元(まごろくかねもと) 」と共に語られます。二人は「関の双璧」と称され、兄弟の契りを結んでいたという伝承もあるほど、互いを認め合うライバルでした。
両者ともに「最上大業物」の評価を受ける最高の刀工ですが、その作風には明確な違いがあります。兼元が、杉の木が三本並んだように見える鋭利な「三本杉」の刃文に代表される、どちらかと言えば規則的で鋭さを強調した「機能美」を追求したのに対し、之定は箱乱や矢筈乱など、より多様で変化に富んだ刃文を得意とし、豪華絢爛な「装飾美」をも極めました。
この違いは、戦国武将たちの多様なニーズを反映しています。純粋な切れ味と実用性を求める武将は兼元を、それに加えて自らの権威と威光を示すための華やかさを求める武将は之定を選んだのかもしれません。二人の天才が競い合ったからこそ、関の刀剣は戦国時代において絶対的な地位を築くことができたのです。
之定の刀に見られる美術的特徴は、決して単なる飾りではありません。華やかな乱れ刃は、衝撃を分散させて刃こぼれを防ぎつつ、硬い刃先を維持するための冶金学的な工夫の産物です。地蔵帽子は、刺突時に最も重要な切っ先の強度を保証する構造です。之定の真の天才性は、戦場で最高の性能を発揮するための機能的要請を、そのまま比類なき芸術へと昇華させた点にあります。彼の作品において、美術と武備は不可分であり、その二つが一体となったものこそが、戦国の武士が求めた理想の刀だったのです。
之定の刀の価値を最も雄弁に物語るのは、それを手にした戦国の覇者たちの存在です。彼らにとって、之定の刀は単なる武器ではなく、自らの権威、武威、そして時には狂気さえも映し出す、自己表現の媒体でした。
ご依頼者がご存知であった「武田信虎の佩刀」という事実は、確固たる史料によって裏付けられています。現在、国の重要美術品に指定されている太刀で、その茎(なかご)には作者を示す「 兼定 」の二字銘と共に、「 武田左京大夫信虎所持 」という所持銘が鮮明に刻まれています。これは、信虎が之定の作を所有していたことを示す、動かぬ証拠です。
さらに、永正元年(1504年)の日付と共に「信虎所持」と後年に追刻された銘を持つ刀の存在も確認されており、信虎が之定の作を複数所持していた可能性が高いことを示唆します。これは、之定の刀が単なる贈答品ではなく、信虎自身がその性能と価値を高く評価し、日常的に佩用していたことの証左と考えられます。
武田信虎が周辺の豪族を次々と打ち破り、甲斐国を武力で統一して戦国大名としての地位を確立した時期は、まさしく之定が刀工として最も脂の乗っていた全盛期と重なります。
同時代の史料に「悪逆無道」と記されるほどの猛々しい気性を持った信虎が、当代最高の切れ味を誇る「最上大業物」である之定の刀を求めたのは、自らの武威を内外に示す上で、極めて自然な選択でした。信虎のような有力大名が佩刀としたという事実は、之定の評価を不動のものとし、その名は他の武将たちへと瞬く間に広まったことでしょう。信虎の所持は、之定ブランドの価値を決定づける、最高の宣伝となったのです。
之定の刀は、信虎のみならず、戦国時代を彩った数多の名将たちの手を渡り、それぞれに強烈な物語を刻み込んでいきました。
肥後熊本藩の初代藩主であり、千利休の高弟「利休七哲」にも数えられる一流の文化人・ 細川忠興(ほそかわただおき) 。彼が佩用した之定の打刀は、「 歌仙兼定(かせんかねさだ) 」という雅な号で知られています。
しかし、その名の由来は血なまぐさい逸話に彩られています。忠興は非常に気性が激しく、ある時、自らの意に沿わない家臣36人をこの刀で手討ちにしたと伝えられます。そして、その数があたかも和歌の名人三十六歌仙と同じであることから、この刀を「歌仙兼定」と名付けたというのです。この逸話は、当代随一の教養人でありながら、常軌を逸した激情家でもあった忠興の、複雑で矛盾した人間性を見事に象徴しています。
ただし、近年の研究では、細川家に伝わる古い時代の刀剣台帳に「歌仙」の名が見られないことから、この有名な逸話が後世に創作された可能性も指摘されています。真偽はともかく、このような物語が生まれること自体が、之定の刀と細川忠興という人物が持つ、強烈な個性の発露と言えるでしょう。なお、この刀は刀身だけでなく、茶道に通じた忠興の美意識が反映された「歌仙拵(かせんこしらえ)」と呼ばれる美しい刀装と共に、現在も永青文庫に大切に保管されています。
織田信長の家臣団の中でも、その勇猛さと気性の荒々しさで「 鬼武蔵(おにむさし) 」と恐れられた猛将・ 森長可(もりながよし) 。彼が戦場で振るったのは、之定が鍛えた十文字槍でした。その槍には、所有者の魂を体現するかのような、恐るべき号が与えられています。「 人間無骨(にんげんむこつ) 」です。
この号は、文字通り「この槍の前では、人間の骨など無いも同然である」という、その凄まじい切れ味と貫通力を示しています。天正2年(1574年)の伊勢長島一向一揆攻めにおいて、当時まだ17歳であった長可がこの槍を手に敵陣に突入し、27もの首級を挙げたという武功伝は、この槍の号が単なる誇張ではないことを物語っています。持ち主の苛烈な性格と、武器の号がこれほどまでに完璧に一致する例は、日本刀剣史においても稀有な存在です。
之定の刀を求めたのは、彼らだけではありません。記録によれば、織田家の筆頭宿老・ 柴田勝家 、本能寺の変で歴史を動かした 明智光秀 、築城の名手として知られる 藤堂高虎 、そして徳川家康の盟友であった 池田恒興 (佩刀の号は「篠ノ雪」)など、まさに戦国時代のオールスターとも言うべき錚々たる武将たちが、之定の作を所持していました。
この事実は、之定の刀が特定の勢力や派閥に限定されることなく、敵味方の垣根を越えて、当代最高の武具として広く認識されていたことの何よりの証明です。之定の刀を差料とすることは、戦国武将にとって最高のステータスであり、自らの価値を証明する行為だったのです。
本報告書を通じて、「和泉守兼定」こと二代目兼定、通称「之定」の実像を多角的に検証してきました。その結論として、以下の三点を挙げることができます。
第一に、之定は、戦乱の時代が求める「最高の切れ味と堅牢性」という機能的要請に完璧に応えながら、それを「比類なき芸術性」にまで昇華させた、日本刀史上屈指の名工であったということです。彼の刀は、武器としての性能と美術品としての美しさを、かつてない高次元で両立させていました。
第二に、彼が作り上げた「之定」というブランドは、戦国武将にとって最高のステータスシンボルであり、その武威と威厳を示すための不可欠な道具でした。武田信虎の所持銘、細川忠興の「歌仙兼定」、森長可の「人間無骨」といった数々の逸話は、彼の刀が単なる鉄の塊ではなく、所有者のアイデンティティと結びついた、物語を宿す文化的な存在であったことを示しています。
そして最後に、本報告書の冒頭で提示した「二人の和泉守兼定」というテーマに立ち返ります。之定が戦国時代に築き上げた絶大な名声とブランド価値は、三百年の時を超えて陸奥国会津の地に受け継がれました。そして幕末という新たな激動の時代に、会津兼定の手による「和泉守兼定」が新選組副長・土方歳三の佩刀として、再び歴史の表舞台に登場したのです。この歴史的な反響こそが、「和泉守兼定」という名跡がいかに強固なブランドであったか、そしてその価値が不滅であることを、何よりも雄弁に物語っていると言えるでしょう。