本報告は、日本の戦国時代に「国崩し」と称された大砲について、その定義、伝来の経緯、構造的特徴、具体的な運用実態、そして日本兵器史における歴史的意義を、現存する史料及び近年の研究成果に基づいて包括的に調査し、詳述することを目的とする。特に、豊後の戦国大名大友宗麟による入手と命名の背景、フランキ砲としての技術的特性、臼杵城の戦いをはじめとする実戦での使用例、さらには日本における大砲技術導入の初期段階を代表する存在としての「国崩し」の重要性を明らかにすることを目指す。
戦国時代は、天文12年(1543年)の鉄砲伝来以降、その普及によって戦術が飛躍的に変化した時代として知られる。しかしながら、鉄砲が個々の兵士の主要武器として急速に広まったのに対し、大砲に関しては一部の先進的な大名による限定的な導入に留まった。これは、フランキ砲に代表される当時の大砲が、構造的な欠陥や運用上の困難さを抱えていたこと 1 、そして何よりもその製造や入手に莫大な費用を要したこと 2 が主な要因と考えられる。
それ故に、「国崩し」のような大砲を保有し、運用することは、単なる軍事力の増強に留まらず、その大名の財力、技術力、そして海外との繋がりを示す一種のステータスシンボルとしての意味合いも帯びていたと推察される。物理的な破壊力や心理的な影響力が鉄砲とは比較にならないほど大きかった大砲は、まさに「戦略兵器」とも呼べる存在であり 2 、その中でも「国崩し」は日本における最初期の大砲として、兵器史のみならず、戦国時代の政治・外交史においても特筆すべき位置を占めている。
また、「国崩し」の伝来とそれに続く国産化の試みは、日本が西洋の高度な軍事技術に本格的に触れる初期の事例であり、その後の技術導入や国内での改良・発展の歴史を考える上で、極めて重要な画期であったと言える。大友宗麟が石火矢大工に命じて国産化を試みた事実は 3 、外国技術の模倣と改良という、日本の技術発展史における一つの典型的なパターンを戦国時代において既に示している。この初期の技術導入の経験が、後の時代の技術発展の礎となった可能性も否定できない。
「国崩し(くにくずし)」という勇壮な名称は、文字通り「国土をも打ち崩すほどの絶大な威力を持つ」という期待と畏怖の念を込めて、大友宗麟自身によって名付けられたと伝えられている 4 。この命名は、大砲という新兵器が当時の人々に与えた衝撃の大きさを如実に物語っている。大分県臼杵市の臼杵城跡に設置されているフランキ砲のレプリカに関する案内板にも、「たった一門で国を崩すほどの破壊力を持っているというのをよく表した名称」という評価が記されており 7 、その威容が後世にも語り継がれていることがわかる。
この「国崩し」という名称は、単に物理的な破壊力を示すだけでなく、敵対勢力に対する強力な心理的威嚇効果を狙ったものであった可能性も高い。戦国時代において、兵器の名称や旗印などが兵士の士気や敵方の戦意に影響を与えることは十分に考えられる。大砲の轟音や着弾時の振動そのものが敵の戦意を削ぐ効果を持っていたとされ 8 、「国崩し」という名は、その効果をさらに増幅させる意図があったと推測される。これは、大友宗麟の軍事的センスと、新兵器を最大限に活用しようとする戦略的思考の表れとも言えよう。
「国崩し」は、より広義の火砲を指す「石火矢(いしびや)」の一種として理解されていた 4 。石火矢は、火薬の爆発力を利用して石や金属の弾丸を発射する兵器の総称であり、日本においては火縄銃を大型化した国産の「大筒(おおづつ)」としばしば対比される。世界大百科事典(旧版)の「石火矢」の項目では、「国崩し」について言及があり、その弾丸重量は約1.5kgから19kg、射程は3~4町(約300m~440m)程度であったと記されている 12 。これは、「国崩し」が石火矢の系譜に連なる兵器であったことを明確に示している。
「石火矢」という一般的な呼称が存在する中で、大友宗麟が自身の手に入れた特定の大砲をあえて「国崩し」と命名した行為は、この兵器に対する並々ならぬ期待と、他とは一線を画す特別な存在として位置づけようとした意図の表れであろう。これは単に新しい武器を入手したという事実以上に、それを自軍の切り札として、また自身の権威と先進性を内外に誇示するための戦略的な意味合いを持つ行為であったと考えられる。
「国崩し」の日本への伝来は16世紀、より具体的には天正4年(1576年)に、豊後国(現在の大分県)の戦国大名であった大友義鎮(宗麟)が、ポルトガル人からもたらされたものとされている 4 。当時の日本は、ポルトガルやスペインとの間でいわゆる南蛮貿易が活発に行われており、「国崩し」もこの交易ルートを通じて日本にもたらされた最新兵器の一つであった。
その製造地については、ポルトガルのアジアにおける重要な拠点であったインドのゴアで鋳造されたとする説が有力である 1 。玉名市立歴史博物館こころピア所蔵の資料によれば、大友宗麟はポルトガル人宣教師を通じてインドからこの大砲を購入、輸入したとされている 14 。この伝来経路は、当時のポルトガルがアジア各地に広大な交易ネットワークを築き、香辛料や生糸などと共に、鉄砲や大砲といった軍事物資も日本にもたらしていた歴史的背景を反映している。
「国崩し」の入手に際して、ポルトガル人宣教師が介在したことは複数の資料で指摘されている 1 。大友宗麟は、九州における有力なキリシタン大名として知られており、宣教師たちとの間に密接な関係を築いていた。大分県公式サイトの情報によれば、宗麟がキリスト教の布教を認めた理由の一つとして、鉄砲や大砲といった最新の火器や、その火薬の原料となる硝石を入手するという実利的な側面があったとされている 15 。
この入手経緯は、戦国時代の大名たちが、宣教師や南蛮商人といった海外の勢力と積極的に結びつき、軍事技術を含む先進的な文物を導入しようとした当時の状況を象徴している。特に、九州という地理的条件は、海外との窓口に近く、宗麟のような先進的な大名がポルトガル人との接触や「国崩し」のような新兵器の入手に有利に働いたと考えられる。宣教師側もまた、布教活動の便宜を図るために、大名の求める物資や技術の提供に協力した可能性があり、これは当時の宗教と政治・軍事が複雑に絡み合っていた様相を示唆している。
「国崩し」は、日本に初めて本格的にもたらされた西洋式大砲であると一般的に認識されている 10 。これが意味するのは、日本が組織的な運用が可能な大型火砲技術に直接触れた画期的な出来事であったということである。それ以前にも、中国や朝鮮半島経由で原始的な火器が伝来していた可能性は否定できないが、「国崩し」のようなヨーロッパ製の高性能な大砲の導入は、日本の兵器史において新たな時代の幕開けを告げるものであったと言えよう。その後の国産化の試みや、他の大名による大砲導入の動きにも、少なからぬ影響を与えたと考えられる。
「国崩し」の最大の特徴は、それがフランキ砲(仏郎機砲、仏狼機砲とも表記される)と呼ばれる形式の大砲であった点にある。フランキ砲は15世紀から16世紀にかけてヨーロッパで広く用いられた青銅鋳造の大砲で、砲尾から弾薬を装填する後装式を採用していた 1 。
その具体的な構造は、砲身本体である「母砲(おもほう)」と、火薬と砲弾を予め詰めておく着脱式の燃焼室である「子砲(こほう)」または「装填筒(そうてんづつ)」から構成される 1 。発射時には、この子砲を母砲の砲尾上面にある開口部から挿入し、木製の楔(くさび)などで固定する仕組みであった 10 。この母砲・子砲システムにより、理論上は前装式の大砲に比べて迅速な次弾装填が可能であった。
「国崩し」として最も著名なのは、大友宗麟が用いたとされ、現在は靖国神社の遊就館に展示されている実物である。この大砲の仕様については、資料によって若干の数値の揺れが見られるものの、おおむね口径9cm~9.5cm、全長288cm~290cmと記録されている 16 。 17 の記述によれば、銘には「一貫目九匁」(約3.78kg)とあり、これは砲弾重量を示している可能性がある。
これに対し、同じくフランキ砲の範疇に入るものの、国産されたと考えられる他の大砲の仕様は異なる。例えば、ウィーン軍事博物館所蔵の黒田長政所蔵と伝わるフランキ砲は、全長203.5cm、口径約5.8cmであり 3 、パリ軍事博物館所蔵の佐竹義宣所蔵と伝わるフランキ砲は全長約158cm、口径約4.7cmである 18 。これらの比較から、フランキ砲と一口に言っても、輸入されたものと国産化されたもの、あるいは製造時期や目的によって、その仕様にはかなりの差異が存在したことがわかる。
表1:現存・関連フランキ砲の比較
大砲の名称(通称) |
所有者(伝) |
製造年・場所(推定含む) |
材質 |
全長 (cm) |
砲身長 (cm) |
口径 (cm) |
重量 (kg) |
現存場所 |
特記事項 |
典拠 |
国崩し |
大友宗麟 |
1576年頃 ポルトガル(ゴア製造説) |
青銅 |
約290 |
不明 |
約9 |
不明 |
靖国神社遊就館 |
「一貫目九匁」銘 |
16 |
国崩し |
大友宗麟 |
1576年頃 ポルトガル(ゴア製造説) |
青銅 |
不明 |
不明 |
不明 |
不明 |
ロシア・クンストカメラ(または軍事史博物館) |
「FCO」印 |
16 |
黒田砲 |
黒田長政 |
慶長15年(1610年) 筑前国 |
青銅 |
203.5 |
砲身部119、薬室部58 |
約5.8 |
約280 |
ウィーン軍事博物館 |
「慶長十五年 筑前国」銘、花文・蓮文・S字文装飾 |
3 |
佐竹砲 |
佐竹義宣 |
17世紀初頭 日本製 |
青銅 |
約158 |
砲身部110、後装部48 |
約4.7 |
不明 |
パリ軍事博物館 |
「百目玉」鋳出銘、花文・蓮文・S字文装飾 |
18 |
藤堂砲 |
藤堂高虎 |
天正15年~慶長12年(1587~1607年) 日本製 |
青銅 |
不明 |
不明 |
不明 |
不明 |
ベルギー王立軍事博物館 |
「片喰紋」「藤堂佐渡守」銘 |
18 |
この表は、「国崩し」の具体的なイメージを掴むと共に、同時代に存在した他のフランキ砲との比較を通じて、その特徴や当時の技術水準を多角的に理解するための一助となる。輸入された「国崩し」と、その影響を受けて国内で製造された可能性のある他のフランキ砲との間には、材質の配合比や装飾の意匠、さらには照準器の形状などに差異が見られ、これは技術の伝播と在地化の過程を示唆している。
フランキ砲の砲架に関する具体的な図解や詳細な記録は乏しいが、いくつかの資料からその構造を推測することができる。フランキ砲の砲耳(砲身側面にある、砲架に取り付けるための突起)は比較的小さく、木製の砲架に載せられるか、あるいは船の舷側などに設けられたソケットに鉄製の細い柄(スイベル式の軸)を差し込んで運用されたと考えられている 20 。この鉄製の柄は、砲尾側で操作しやすいように凹型をしており、下部に地面や船体に固定するための尖った棒状の部分が付いていたとされる 20 。
発射時には、砲手がこの後部の鉄製柄を操作して照準を定めたと推測されている 20 。艦載用として設計されたという説もあり 16 、船上での運用に適した旋回式の砲架が用いられた可能性が高い。陸上での使用に際しても、比較的大型の「国崩し」クラスの砲を砲手が直接抱えて操作したとは考えにくく、何らかの簡易的な地上設置用の架台が用いられたと見るのが自然であろう。
なお、 17 で言及されている「応変台」は、砲を吊り下げて紐で砲角を調整し、台座のコロで砲口を回転させるという、江戸時代後期の和流砲術に見られる独特な砲架である。しかし、この応変台はフランキ砲に直接使用されたという記録はなく、構造的にもフランキ砲のような反動の大きい火砲の運用には不向きであった可能性が高い。
フランキ砲の最大の利点は、予め複数の子砲に弾薬を装填しておくことで、前装砲に比べて迅速な連射が可能であった点である 10 。これは、特に接近戦や連続的な射撃が求められる局面において有利に働く可能性があった。
しかしながら、フランキ砲は多くの構造的欠陥も抱えていた。まず、子砲の交換は手間がかかり、迅速な連射という利点を十分に活かせない場合があった 1 。さらに深刻な問題は、子砲と母砲の間の密閉性が不完全であったことである。これにより、発射時に燃焼ガスが後方へ漏れやすく、威力の低下を招くだけでなく、最悪の場合、砲の破裂(暴発)を引き起こす危険性も高かった 1 。 20 や 17 の記述によれば、同規模の前装砲と比較した場合、フランキ砲の威力は3分の1程度しかなかったとも言われている。これは、装填筒(子砲)の口径が砲腔(母砲の内径)よりも小さいため、火薬の燃焼効率が悪かったことにも起因する 17 。
これらの技術的限界から、フランキ砲は戦国時代の日本において広く普及するには至らなかった 1 。後装式という先進的な概念を取り入れつつも、当時の冶金技術や精密加工技術の限界から多くの課題を抱えていたフランキ砲は、まさに兵器技術の過渡期における特性を体現していたと言えるだろう。
「国崩し」が実戦でその威力を発揮した最も著名な例は、天正14年(1586年)の豊薩合戦における臼杵城(丹生島城)の戦いである。この戦いで大友宗麟は、島津家久率いる大軍に包囲された臼杵城に籠城し、城内に備え付けられていた「国崩し」を駆使して島津軍を撃退することに成功した 10 。
具体的な戦況として、臼杵城から放たれる「国崩し」の砲撃は島津軍に大きな衝撃を与え、その陣を後退させたと記録されている 23 。臼杵城跡のフランキ砲レプリカの説明にも「あの島津をも撃退したというのはこの大砲の威力が他の武器とは桁違いだったということがよくわかります」と記されており 7 、その戦果の大きさが窺える。この臼杵城の戦いは、「国崩し」が実戦で効果を上げた数少ない記録として、日本の兵器史上、極めて重要な事例である。
しかし、この限定的な成功が「国崩し」の普遍的な有効性を示すものと解釈するには慎重であるべきだろう。フランキ砲自体が抱える技術的欠陥を考慮すると、臼杵城での勝利は、籠城戦という特殊な状況、島津軍がこの新兵器に対する十分な知識や対応策を持っていなかったこと、あるいは「国崩し」の心理的効果が大きかったことなど、複数の要因が複合的に作用した結果である可能性が高い。
戦国時代の戦場において、鉄砲が戦術に革命的な変化をもたらし、急速に普及したのとは対照的に、「国崩し」に代表される大砲の普及は極めて限定的であった 12 。前述の通り、フランキ砲の構造的欠点、すなわち装填の不便さや暴発の危険性、そして威力不足などが、その広範な採用を妨げた主な理由と考えられる 1 。
また、当時の大砲は命中精度が必ずしも高くなく、直接的な破壊効果よりも、むしろその轟音や着弾時の振動によって敵兵に恐怖心を与え、戦意を削ぐといった心理的な役割が期待されることも少なくなかった 8 。加えて、大砲は非常に重量があり、その運搬や設置には多大な労力を要したため、機動性が著しく低く、使用できる場面も攻城戦や海戦など、ごく限られた状況に留まっていた 8 。これらの特性は、「国崩し」にも当てはまると考えられる。
「国崩し」のような大砲は、攻城戦において、城壁や櫓などの建造物に対する破壊効果、そして何よりも城内に籠る守備兵に対する心理的圧迫を与える兵器として期待された 2 。臼杵城の戦いは、まさにその効果が発揮された事例と言えよう。
しかしながら、その重量と機動性の低さから、野戦における運用は極めて困難であったと推測される 10 。日本特有の起伏に富んだ地形も、大砲の運用をさらに難しくした要因の一つであろう。また、前述した技術的な限界、すなわち相対的な低威力、低命中精度、そして信頼性の問題から、戦局全体を決定づけるほどの広範な影響力を持つには至らなかった。
「国崩し」のような先進兵器が導入されても、それを効果的に運用するための戦術思想や兵站システム、さらには専門的な知識を持つ運用者の育成が十分に追いついていなかった可能性も指摘できる。新技術を導入しても、それを支えるシステムや思想が伴わなければ、その効果は限定的になるという、技術史における普遍的な課題を「国崩し」の事例も示していると言えるかもしれない。
大友宗麟は、「国崩し」の入手に留まらず、その国産化にも着手したとされる。宗麟は、「石火矢大工」として知られる渡辺三郎太郎宗覚を召し抱え、南蛮人から大砲の鋳造技術や運用法を学ばせ、日本国内での製造を試みたと伝えられている 3 。この渡辺宗覚の技術は、大友氏が改易された後、徳川家康の下に流出し、慶長9年(1604年)には家康のために駿府で石火矢を鋳造したという記録も残っている 3 。これは、地方大名によって導入された先進技術が、中央政権の軍事技術基盤の強化にも影響を与えたことを示す興味深い事例である。
同時期には、織田信長も近江国友村の鉄砲鍛冶に対し、大砲の試作を命じたとの記録がある 2 。これは、複数の有力大名が同時並行的に大砲という新兵器の国産化に関心を寄せていたことを示唆している。ただし、国友で製造されたとされる大砲は、鉄片を鍛接して砲身を形成する鍛造製法による前装式のものであり、鋳造による後装式のフランキ砲とは技術系統が異なると考えられる。
国産化された大砲の材質については、興味深い変遷が指摘されている。16世紀後半に製造されたとみられる初期の国産砲、例えば島津氏が鹵獲したとされる「大友砲」や藤堂高虎所用の「藤堂砲」などには、日本国内で産出された金属材料が用いられていた可能性が高いとされる 3 。
しかし、17世紀初頭に入ると、黒田長政所用の「黒田砲」(慶長15年・1610年銘)や佐竹義宣所用の「佐竹砲」などでは、主に華南(中国南部)産の金属材料が使用されるようになる 3 。この変化は、徳川家康による朱印船貿易の開始と深く関連していると考えられ、海外からの金属資源の入手が比較的容易になったことを反映している。
また、国産の青銅製大砲は、西洋における標準的な砲金(銅90%+錫10%の合金)と比較して、鉛の含有量が多いという特徴が指摘されている 3 。これは、日本では錫の産出量が少なく高価であったのに対し、鉛は比較的入手しやすかったため、錫の一部を鉛で代替した、あるいは鉛を添加することで鋳造性を改善しようとした等の理由が考えられる。
現存する国産フランキ砲(またはその影響を強く受けた大砲)の代表例として、ウィーン軍事博物館所蔵の黒田長政所用と伝わるものと、パリ軍事博物館所蔵の佐竹義宣所用と伝わるものが挙げられる。
黒田長政所蔵砲 は、砲身に「慶長十五年(1610) 筑前国」の銘があり、青銅製の後装式大砲である。全長203.5cm、口径約5.8cm。子砲には導火線用の溝が彫られるなど、独自の工夫が見られる。照準器の形状は日本の鉄砲や大筒と共通する特徴を持ち、「黒田藩流の改良品」と評価されている。材質分析の結果、主成分は銅で、鉛と錫を多く含み、金属材料の産地は華南産と推定されている。砲身には「花文」「蓮文」「S字文」といった和様化されたレリーフ装飾が施されているが、その配置などには東南アジアのイスラム圏の大砲の影響も指摘されている 3 。
佐竹義宣所蔵砲 は、17世紀初頭の日本製と推定される青銅製の旋回式後装砲である。全長約158cm、口径約4.7cm。砲身上面には「百目玉」(砲弾重量100匁=約375gを示すか)という鋳出し銘がある。金属組成は銅95%に対し錫・鉛が5%で、材料は華南産が主体と分析されている。紋様や形状は黒田砲と多くの類似点があり、特に佐竹家に伝わる「石火矢五百目筒之図」という絵図に描かれた大砲との共通性が注目される 18 。
これらの国産砲は、大友宗麟に仕えた渡辺宗覚の技術系統を引くか、あるいはその強い影響下で製造された可能性が示唆されており、異なる大名家の所用でありながら紋様や形状に共通性が見られる点は、当時の技術者や工房の活動範囲、技術の伝播のあり方を考察する上で興味深い。国産化の過程では、入手しやすい材料への変更や、既存の日本の武器(鉄砲など)の要素を取り入れた改良といった「技術的適応」が見られる一方で、フランキ砲が元来持つ構造的な欠陥(ガス漏れや威力不足など)を根本的に解決するには至らなかった。これは、外来技術を導入し、自国の状況に合わせて「現地化」しようとする初期段階の様相を呈していると言えるだろう。
「国崩し」を含む戦国時代のフランキ砲で実際にどのような砲弾が使用されたかについては、断片的な情報や一般的な傾向からの推測が主となる。初期の大砲では石をくり抜いた石弾が用いられたが、石造りの城壁などに対する破壊効果が限定的であったため、次第に鉄製の砲弾が主流になったとされる 25 。また、 3 の記述によれば、ある砲の砲弾重量として750gという数値が記録されている。
材質に関しては、鉛はその融点が327.4℃と低く、鋳造が比較的容易であること、また比重が11.34と大きいため、命中時の衝撃力が鉄(比重7.87)や銅(比重8.96)よりも大きいという利点があった 26 。そのため、特に対人殺傷を目的とした場合や、戦時下で大量の砲弾を迅速に用意する必要がある場合には、鉛製弾が用いられた可能性も考えられる。一方で、鉄や銅は融点が高く(鉄1535℃、銅1083℃)、大型の砲弾を鋳造するには高度な技術と設備が必要であった 26 。
一般的な傾向として、西欧では城壁破壊を主目的として鉄製弾が、日本では対人馬殺傷を目的として鉛製弾が用いられることが多かったという指摘もあるが 17 、これがフランキ砲の砲弾にそのまま当てはまるかは不明である。総じて、「国崩し」が具体的にどのような材質・重量の砲弾を主に使用したかについての直接的かつ詳細な史料は乏しく、石、鉄、鉛などが状況に応じて使い分けられたと考えるのが妥当であろう。
「国崩し」そのもの、あるいは同種のフランキ砲やその影響を受けて製作された国産大砲は、国内外の博物館等にいくつか現存しており、これらは当時の技術や歴史的背景を研究する上で極めて貴重な一次資料となっている。
国内の主な所蔵・展示場所:
海外の主な所蔵場所:
これらの現存品、特に海外に渡ったものは、近年の国際的な共同研究や科学的分析(蛍光X線分析による材質同定、鉛同位体比分析による原料産地推定など)の対象となり、その製造技術や材質、来歴に関する新たな知見が次々と明らかにされつつある 3 。
「国崩し」やフランキ砲に関する記述は、日本の軍記物や大名家文書だけでなく、当時の日本に滞在した宣教師の記録や、貿易関係にあったオランダ商館の日記など、多様な出自の史料に散見される。
これらの多様な史料は、それぞれ異なる立場や目的で書かれているため、記述内容にバイアスが含まれている可能性も考慮する必要がある。例えば、日本の軍記物は「国崩し」の威力を誇張して描く傾向があるかもしれないし、宣教師やオランダ商館の記録は、本国への報告という性格上、特定の側面を強調している可能性がある。したがって、これらの史料を多角的に比較検討し、考古学的知見とも照らし合わせることで、より客観的で信頼性の高い「国崩し」像を再構築していくことが求められる。
「国崩し」は、日本の戦国時代に初めて本格的にもたらされた西洋式大砲であり、その衝撃的な名称と共に、当時の人々に強烈な印象を与えた兵器であった。大友宗麟による導入は、日本の戦国大名が海外の先進技術を積極的に取り入れようとした姿勢を象徴する出来事であり、日本の兵器史における重要な転換点の一つと評価できる。
フランキ砲としての「国崩し」は、子砲システムによる速射性の可能性を示しつつも、ガス漏れによる威力不足や暴発の危険性といった構造的欠陥を抱えており、戦国時代の戦場において鉄砲のような広範な普及を見ることはなかった。しかし、臼杵城の戦いにおける活躍は、限定的ながらも攻城戦におけるその戦術的価値を明確に示した。
さらに、「国崩し」の導入は、渡辺宗覚らによる国産化の試みを促し、日本の技術者が外来技術をどのように受容し、自国の状況に合わせて改良・発展させようとしたかの初期の事例として、技術史的にも大きな意義を持つ。材質の選定や細部の意匠に見られる日本独自の工夫は、その後の日本の火器開発の方向性を示唆している。
総じて、「国崩し」は、戦国時代の日本の国際関係、技術導入、兵器開発の様相を映し出す鏡であり、日本兵器史における過渡期の象徴的な存在として、その歴史的価値は極めて高いと言える。
「国崩し」に関する研究は進展を見せているものの、未だ解明されていない点も多く残されている。今後の研究においては、以下の課題に取り組むことが期待される。
これらの研究課題の解決を通じて、「国崩し」という特異な大砲が日本の歴史の中で果たした役割と意義が、より一層明確になることが期待される。