千利休作の竹花入「園城寺」は、小田原征伐の陣中で生まれ、ひび割れから水が漏れる「不完全の美」を体現。秀吉の豪華絢爛な美意識と対比され、利休の哲学を象徴する。
竹花入「園城寺」。それは、安土桃山時代、天正18年(1590年)に茶の湯の大成者、千利休によって作られたとされる一本の竹花入である 1 。その名は、単なる茶道具の域を遥かに超え、日本の美意識、特に「わび茶」の精神を象徴する存在として、後世に語り継がれてきた。しかし、この一管の竹が持つ真の価値は、その簡素な造形美や来歴の面白さだけに留まるものではない。「園城寺」は、戦国という百年に及ぶ乱世が終焉を迎え、天下統一という新たな秩序が生まれようとする、まさにその歴史の転換点に生み出された、時代精神の結晶なのである。
本報告書は、この竹花入「園城寺」を、単なる美術工芸品としてではなく、天正18年の小田原征伐という特異な時空間に生まれた歴史的・思想的モニュメントとして捉え直すことを目的とする。そのために、まず「園城寺」が誕生した歴史的背景、すなわち豊臣秀吉による天下統一事業の総仕上げであった小田原征伐の陣中という極限状況を詳細に分析する。次に、利休の美学の極致ともいえる「不完全さの肯定」という哲学が、この花入にどのように体現されているかを、有名な「水漏れの逸話」を手がかりに解き明かす。さらに、同じく韮山の竹から作られたとされる「尺八」「よなが」といった兄弟花入との比較を通じて、利休の制作意図とその背景にある秀吉との緊張関係を浮き彫りにする。最後に、この花入が後の時代にどのように受け継がれ、その文化的価値を増幅させていったかの軌跡を辿る。
これらの多角的な視点から、「園城寺」という一管の竹に込められた、戦国乱世の終焉を飾るにふさわしい、深く、そして複雑な物語の全貌を徹底的に解明する。それは、利休の美意識、秀吉の権力、そして「わび」という精神性が交錯する、日本の文化史における一つの頂点を再確認する試みとなるだろう。
「園城寺」の物語は、戦乱のただ中で始まる。その誕生の地は、平穏な茶室ではなく、天下統一を目前にした豊臣秀吉が率いる大軍の陣中であった。この特異な環境こそが、「園城寺」に唯一無二の歴史的・思想的深みを与えている。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は関東の雄、後北条氏を屈服させるため、20万を超える大軍を動員し、その本拠地である小田原城を包囲した 3 。この小田原征伐は、秀吉による天下統一事業の総仕上げであり、戦国時代の終焉と新たな時代の到来を告げる、象徴的な戦役であった 4 。
秀吉は、小田原城を見下ろす笠懸山(後に石垣山)に、わずか80日で城を築き上げたとされる。世に言う「石垣山一夜城」である 5 。この城は、単なる軍事拠点ではなかった。秀吉はここに淀殿ら妻子を呼び寄せ、連日能や茶会を催すなど、その圧倒的な権力と富を全国の大名に見せつけるための、壮大な文化的・政治的装置として機能させた 5 。戦の最前線に、これほどまでの文化空間を現出させたこと自体が、秀吉の権勢を物語っている。
一方で、「園城寺」の素材が採取された伊豆韮山は、まさにこの戦役における激戦地の一つであった。北条氏規が守る韮山城は、織田信雄や徳川家康らが率いる4万の豊臣勢を相手に、わずか3千の兵で4ヶ月近くも持ちこたえるという、熾烈な籠城戦を繰り広げていた 3 。つまり、「園城寺」は、華やかな権力の誇示と、凄惨な戦闘という二つの貌を持つ戦場の、まさにその渦中から生まれたのである。
この歴史的な戦役に、茶頭筆頭として秀吉に随行したのが、千利休であった 2 。彼の役割は、単に主君のために茶を点てることに留まらなかった。石垣山城で催された茶会は、長期にわたる戦陣での将兵の士気を高め、慰撫するための重要な手段であった 6 。同時に、全国から参集した大名たちが一堂に会する場において、茶の湯は円滑なコミュニケーションを促し、時には政治的な駆け引きの舞台ともなった 5 。利休は、茶の湯という文化的な営みを通じて、秀吉の天下統一事業を支える、いわば文化面における最高責任者として、その権力装置の一部を担っていたのである。
しかし、この従軍は、利休の創造性に特異な影響を与えた。戦場という非日常的な空間、生と死が隣り合わせの極限状況は、利休の美意識をさらに研ぎ澄ませた。平和な京の屋敷では生まれ得ない、新たな美の発見へと彼を駆り立てたのである。戦争という巨大な秩序の力学が支配する場で、あえて個人的な美の秩序を打ち立てようとする行為。それは、利休の芸術家としての矜持を示すものであった。この文脈を理解することなくして、「園城寺」の制作という行為の持つ深い意味を捉えることはできない。それは、単なる工芸活動ではなく、混沌の中から精神的な静寂を、破壊の中から創造を見出そうとする、極めて象徴的な営為だったのである。
小田原征伐の陣中、利休は運命的な素材と出会う。それが、伊豆韮山に産する竹であった 10 。韮山竹は、自然に「干割れ」が生じやすいという特徴を持っていた 11 。この特性が、後に「園城寺」の最大の魅力となる「ひび割れ」を生むことになる。
利休がこの竹を見出した経緯については、いくつかの逸話が伝えられている。一つは、野営する兵士たちが竹を枕として使っているのを見て、その素朴な風情に心惹かれ、どこの竹かと尋ねたところ「韮山竹」であると知った、というものである 8 。戦場で実用に使われるありふれた素材の中に、非凡な美を見出す利休の審美眼がよく表れた逸話である。
また、利休が弟子の古田織部に宛てたとされる書簡には、この竹との出会いの興奮が記されている。「筒、不思議のを切り出し申し候。早や望みはこれなく候」(花筒について、近頃届いたと聞き、本望です。さてその筒ですが、とんでもなく素晴らしいものを切り出しました。これ以上の望みはもはやありません) 13 。この一文からは、素材の持つ本質的な美を見抜く利休の鋭敏な感覚と、それを自身の創造へと結びつけようとする芸術家の情熱がほとばしるように伝わってくる。この「不思議の」竹こそが、「園城寺」を含む三つの名高い花入の母体となったのである。
陣中で見出された一本の竹は、利休の手によって、後世に語り継がれるべき姿を与えられた。その造形は極めて簡素でありながら、深い物語性を内包している。特にその「銘」は、物理的な特徴を、豊かな文化的記憶へと昇華させる役割を果たした。
「園城寺」は、竹を素材とした「一重切」と呼ばれる形式の花入である 1 。その寸法は、高さ約33.4cm、口径約10.6cmと記録されている 10 。一重切とは、竹筒の中ほどに花を生けるための窓(花窓)を一つだけ切り抜いた、最も基本的な形式の一つである。
その姿は、あらゆる装飾を排し、竹という素材そのものの質感を最大限に生かした、静かで落ち着いた趣を持つ 16 。この無駄を削ぎ落とした簡素なフォルムは、まさに利休が追求した「わび茶」の美意識を凝縮したものである 17 。しかし、その単純さの裏には、利休の計算され尽くした美意識が潜んでいる。例えば、竹の節が作り出す自然な模様と、正面の大きな割れ目が交差する様子は、まるで意図して切り取られたかのような絶妙な均衡を見せている 19 。ただ竹を切っただけではない、自然の造形を損なうことなく、その最も美しい瞬間を捉えようとする、芸術家としての鋭い眼差しがそこにはある。
この花入の最大の特徴であり、その価値を決定づけているのが、正面を縦に走る一本の大きな「ひび割れ(干割れ)」である 2 。通常であれば、これは製品の欠陥、すなわち「瑕疵(かし)」と見なされるだろう。しかし、わび茶の世界では、こうした自然発生的な傷や経年変化を、単なる欠点としてではなく、その器物が持つ個性や歴史を物語る「景色」として積極的に鑑賞の対象とする価値観が存在する。
「園城寺」のひび割れは、この「景色」の最も有名な例である。それは、完璧なものよりも不完全なものに、新品よりも使い込まれたものに深い味わいを見出すという、わび茶の美学を雄弁に物語っている。この割れ目があるからこそ、「園城寺」はただの竹筒ではなく、唯一無二の表情を持つ芸術作品となり得たのである。
この印象的なひび割れは、花入に「園城寺」という名を与える直接のきっかけとなった 2 。この名は、滋賀県大津市にある天台寺門宗の総本山、園城寺(通称:三井寺)が所蔵する、ある伝説的な梵鐘に由来する 21 。
その鐘は「弁慶の引き摺り鐘」として知られる、奈良時代制作の重要文化財である 22 。伝説によれば、鎌倉時代初期、三井寺と対立していた比叡山の荒法師・武蔵坊弁慶が、三井寺からこの鐘を奪い、比叡山まで引き摺り上げていったという 23 。その際に鐘には無数の傷が付いたとされる。さらに、弁慶が比叡山でこの鐘を撞いてみると、「イノー、イノー」(関西地方の方言で「帰りたい」の意)と悲しげに響いたため、怒った弁慶が鐘を谷底へ投げ捨ててしまったと伝えられている 24 。この伝説は、鐘が持つ霊的な力と、数奇な運命を物語るものとして広く知られていた 25 。
「園城寺」のひび割れは、この弁慶の伝説に彩られた鐘の傷跡に見立てられたのである 11 。この命名を行ったのは、利休からこの花入を贈られた養子の千少庵であったという説が有力である 11 。この命名行為は、単に似ているという理由だけではない、極めて重要な文化的意味を持っていた。それは、一つの工芸品に、歴史と伝説に裏打ちされた壮大な物語を重ね合わせる行為であった。この瞬間、花入の物理的な「ひび割れ」は、弁慶の怪力、鐘の悲しい響き、寺社の争いといった、豊かで重層的な文化的記憶を呼び起こす象徴へと昇華された。茶道具の価値が、単なる物質的な属性だけでなく、それに付与された物語によっていかに増幅されるかを示す、好個の例と言えるだろう。
「園城寺」がわび茶の精神を体現する至宝とされる最大の理由は、その姿形もさることながら、この花入をめぐる一つの逸話にある。それは、利休自身の言葉によって、「不完全さ」が持つ価値を逆説的に、しかし決定的に示した、茶道史上最も有名なエピソードの一つである。
この逸話は、利休の孫である千宗旦(1578-1658)が語った利休の言行を、宗旦の弟子である藤村庸軒らが聞き書きしたとされる茶書『茶話指月集』に収められている 10 。この書は、利休の生きた姿を伝える貴重な史料として知られる。その中に、次のような一節がある。
「宗易、園城寺の筒に花を入れて床にかけたるを、ある人、筒のわれめより水したたりて畳のぬれけるをみて、いかがと申されたれば、易、この水のもり候が命なりという。」 13
現代語に訳せば、「利休(宗易は号)が、園城寺の花入に花を生けて床の間に掛けたところ、ある客が、筒の割れ目から水が滴り落ちて畳が濡れているのを見て、『これは(欠陥品であり)いかがなものでしょうか』と尋ねた。すると利休は、『この水が漏れるところこそが、この花入の命(本質、最も良いところ)なのです』と答えた」となる 27 。
客が常識的な感覚から「欠点」として指摘した「水漏れ」という現象。それに対して利休は、それを否定するどころか、その花入の存在価値そのものであると断言した。この逆説的で、常識を覆す応答こそが、「園城寺」を単なる名物から、わび茶の哲学を体現するイコンへと押し上げたのである。
利休のこの言葉は、単なる機知に富んだ切り返しではない。それは、わび茶の思想的核心を衝く、深い哲学的表明であった。わび茶の美意識とは、完璧なもの、華麗なもの、永遠なるものを求めるのではなく、むしろ「不完全なもの」「質素なもの」「儚いもの」の中にこそ、真の美や深い精神性を見出そうとするものである 18 。
この思想の根底には、禅宗、特に「無常観」の影響が色濃く見られる 31 。万物は常に変化し、一つの状態に留まることはない。生あるものは必ず滅び、形あるものはいつか壊れる。この世の理(ことわり)を静かに受け入れ、その移ろいの中にこそ美を見出すのが、禅的な世界観である。
「園城寺」から滴り落ちる水は、この無常の理を象徴している。満たされた水は、時と共に漏れ、いずれは空になる。その儚いプロセスそのものが、この花入の「命」なのである。利休の言葉は、欠点を受容するという消極的な態度を超えて、不完全さや移ろいを積極的に「祝福」する境地を示している。割れ目は静的な傷だが、水漏れは動的なプロセスである。この動性こそが、花入に「生命」を与えている。それは、完成された「物」としての価値ではなく、常に変化し続ける「事」としての価値を提示する、美意識における革命的な転換であった。完璧な状態とは、それ以上の変化を拒む、いわば「死んだ」状態である。対して、水が漏れるという不完全さは、時間が流れ、世界と相互作用している「生きている」証なのである。
この「不完全の美学」は、当時の最高権力者であった豊臣秀吉の美意識と、鮮烈な対比をなすものであった。秀吉が好んだのは、その権勢を天下に示す、絢爛豪華で絶対的な美であった。その象徴が、天皇への献茶のために作らせたという、移動可能な「黄金の茶室」である 34 。壁、柱、天井、そして茶道具に至るまで金で覆われたこの茶室は、秀吉の権力と富の頂点を体現していた 37 。
利休が「園城寺」を制作したのは、まさにその秀吉の権勢が頂点に達した小田原の陣中であった。秀吉が石垣山一夜城でその威光を誇示するすぐ側で、利休はあえて、ひび割れ、水が漏れるという、対極的な価値を持つ花入を生み出した。この行為は、秀吉が提示する「黄金の価値観」に対する、利休の静かでありながら、断固たる美学的な異議申し立てであったと解釈することができる 17 。
この小田原征伐の翌年、天正19年(1591年)に利休は秀吉から切腹を命じられる 40 。その直接的な原因は諸説あるが、二人の間に存在した美意識の、ひいては世界観の根本的な対立が、その根底にあったことは想像に難くない。「園城寺」は、蜜月にあったはずの二人の間に生じた、埋めがたい亀裂を象徴する、悲劇的な前兆とも言える存在なのである。
「園城寺」の物語をより深く理解するためには、それが単独の作品ではなく、一つの家族として生まれたという伝承に目を向ける必要がある。利休は韮山で手に入れた一本の竹から、三つの個性的な花入を切り出したと伝えられている。この三部作の構成と、それぞれの宛先は、利休の意図を読み解く上で重要な手がかりとなる。
伝承によれば、利休は小田原の陣中で見出した一本の優れた竹を三つに切り分け、それぞれに花入としての命を吹き込んだ 7 。竹の最も根元に近い下部から作られたのが一重切の「園城寺」、中間部から作られたのが二重切の「よなが」、そして最も先端に近い上部から作られたのが寸切の「尺八」であったとされる 41 。
この「一本の竹から三つ」という逸話自体が、極めて利休的な思想を反映している。それは、一つの素材を余すところなく、それぞれの部位の特性を生かし切って使い尽くすという、徹底した合理性と素材への敬意の表れである。それぞれの花入は、同じ母体を持ちながらも、形状、銘、そして与えられた運命において、全く異なる個性を与えられた兄弟なのである。
「尺八(しゃくはち)」
寸胴の筒をそのまま切ったような、最もシンプルな形式の花入である 42。この花入は、天下人である豊臣秀吉に献上されたと伝えられている 10。しかし、ある逸話によれば、秀吉はこの素朴すぎる花入を気に入らず、地面に投げ捨ててしまったという 12。そして、その際に割れたのが、後に「園城寺」となる部分であった、ともされる。この逸話の真偽は定かではないが、華美を好む秀吉と、侘びを追求する利休の間の美意識の断絶を象徴する物語として、後世に語り継がれている。
「よなが」
竹筒に二つの花窓を持つ「二重切」という形式の花入である 14。この「二重切」は利休が創案した形とされ、後世の竹花入の規範の一つとなった 45。その銘は、竹の節と節の間(よ)が長い「節長」に由来すると同時に、長期化する戦陣で眠れぬ「夜長」を過ごす兵士たちを案じたものとも解釈されている 7。ひらがなで「よなか」(濁点を打たない古い表記)と記された銘は、その両義性を意図した利休の深い配慮を感じさせる 45。裏には利休自身の花押(サイン)が記されており 8、利休が自らの手元に残したか、あるいは特に心を通わせた人物に与えたものと考えられている。この花入には、戦場にあって他者を思いやる利休の人間的な温かみが投影されていると言えよう。
これら三つの花入の形状と、それらが与えられたとされる人物を比較すると、利休の巧みな意図が浮かび上がってくる。
項目 |
園城寺 (Onjōji) |
よなが (Yonaga) |
尺八 (Shakuhachi) |
形状 |
一重切 |
二重切 |
寸切 |
竹の部位 |
下部 |
中間部 |
上部 |
下賜された人物 |
千少庵(養子・後継者) |
千利休自身/弟子 |
豊臣秀吉(天下人) |
銘の由来・逸話 |
三井寺の割れ鐘伝説。水漏れが「命」。 |
節の間が長い「節長」。戦陣の「夜長」。 |
楽器の尺八。秀吉が投げ捨てた説も。 |
現在の所蔵 |
東京国立博物館 |
藤田美術館 |
諸説あり |
この表から読み取れるのは、利休による象徴的な価値の配分である。最もシンプルな「尺八」を権力者の秀吉へ。人間的な温かみと自身の創意を込めた「よなが」を自らの傍へ。そして、わび茶の真髄である「不完全の美」を体現し、深い物語を宿した「園城寺」を、自身の茶の湯を継承すべき養子の少庵へと託した 2 。これは、利休がそれぞれの花入に込めた思想と、それぞれの人物との関係性を反映した、極めて意識的な行為であったと考えられる。
この「一本の竹から三兄弟」という美しい物語は、しかし、完全に閉じられたものではない。一部の史料、特に『茶話指月集』には、同じく韮山竹で作られ、利休の弟子であり、後に独自の茶風を確立する大名茶人・古田織部に送られたという、第四の花入「音曲(おんぎょく)」の存在が記されている 10 。
「音曲」が、先の三兄弟と同じ一本の竹から作られたのか、あるいは別の竹によるものなのか、詳細は明らかではない。しかし、この存在は、利休の陣中での創作活動が、有名な三部作の伝説以上に広がりを持っていた可能性を示唆する。完璧に整えられた物語は、しばしば後世の脚色を含むことがある。この「音曲」の存在は、歴史の伝承が持つ複雑さと曖昧さを示しており、我々が安易に定説に安住することを戒める。むしろ、小田原の陣中という極限状況が、利休の創作意欲を大いに刺激し、複数の傑作を生み出す土壌となったと考える方が、より事実に近いのかもしれない。
「園城寺」の価値は、利休の手を離れた後、時代を超えて受け継がれる中で、さらに増幅されていった。その来歴、すなわち「伝来」の軌跡を辿ることは、一つの茶道具がいかにして国民的な文化財へと昇華していくかを理解する上で不可欠である。
「園城寺」の旅路は、利休から養子であり後継者の千少庵へと手渡されたことから始まる 2 。これは、単なる土産物ではなく、利休のわび茶の精神そのものを託すという、象徴的な継承であった。
その後、江戸時代後期には、出雲松江藩主であり、当代随一の大名茶人として知られた松平治郷(不昧)の所蔵となる 10 。不昧は、自身の膨大な茶道具コレクションを整理した目録『雲州蔵帳』を編纂しているが、その中でも最高位に位置づけられる「名物之部」に、「園城寺花入 利休作」として明確に記載されている 10 。この事実は、江戸時代中期から後期にかけて、「園城寺」がすでに茶道具の中でも最高級の「名物」として、その評価を確立していたことを示している。
そして近代に入り、昭和13年(1938年)、松平家当主の松平直亮より、新たに落成した東京帝室博物館(現在の東京国立博物館)へと献納された 10 。これにより、「園城寺」は一個人の所有物から、国民全体の文化遺産となり、今日に至るまで大切に保管・展示されている 49 。
この伝来の軌跡を簡潔にまとめると、以下のようになる。
時代 |
年代(目安) |
所有者・出来事 |
意義 |
安土桃山 |
天正18年 (1590) |
千利休 |
小田原征伐の陣中で制作 |
安土桃山 |
天正18年 (1590) |
千少庵 |
利休より下賜される。わび茶精神の継承。 |
江戸 |
18世紀末~19世紀初頭 |
松平不昧 |
大名茶人のコレクションに加わる。『雲州蔵帳』に記載され、「名物」としての地位が確立。 |
昭和 |
昭和13年 (1938) |
東京帝室博物館 |
松平家より献納。国民の文化財となる。 |
現代 |
- |
東京国立博物館 |
所蔵・展示 |
この伝来の軌跡は、茶道具の価値がどのように形成されるかを示す典型的な例である。茶道具の価値は、作者の知名度や造形的な美しさだけで決まるのではない。むしろ、その道具が「誰の手を経て、どのような歴史を歩んできたか」という「物語(来歴)」こそが、その価値を大きく左右する 50 。
「園城寺」の場合、①千利休という偉大な作者、②小田原征伐という歴史的大事件における誕生、③弁慶伝説と結びついた銘の由来、④「水漏れが命」という哲学的な逸話、⑤松平不昧という大コレクターによる旧蔵、という幾重にも重なった豊かな物語を纏っている。これらの物語の一つ一つが、この竹花入に文化的、歴史的な深みを与え、単なる工芸品ではない、特別なオーラをまとわせているのである。人々は「園城寺」を鑑賞する時、ただ竹筒を見るのではなく、その背景にある壮大な歴史と人間ドラマに思いを馳せる。これこそが、伝来がもたらす価値の本質である。
「園城寺」が持つ影響力は、その物自体に留まらない。利休が創り出した「園城寺」の形式、すなわち一重切の竹花入は、後世の茶人や工芸家たちにとって一つの規範、あるいは乗り越えるべき目標となった 43 。
さらに興味深いのは、「園城寺」という「名」そのものが、一つのブランドとして独り歩きを始めたことである。例えば、茶の湯で用いられる鉄製の釜の中には、「園城寺霰釜(おんじょうじあられがま)」と呼ばれるものが存在する 54 。これはもちろん竹花入ではない。しかし、釜の表面の霰(あられ)地紋や形状に、本歌である竹花入の持つ侘びた風情や、あるいは弁慶の鐘の伝説に通じる力強さなどを見出し、その名を借りて作られた「写し」の作品である。
この現象は、「園城寺」という名が、もはや特定の竹花入を指す固有名詞であるだけでなく、「歴史に裏打ちされた、不完全さの中に美を見出す侘びの精神」を象徴する一個の強力なブランド、あるいは美の類型(アーキタイプ)へと昇華したことを示している。後世の工芸家が自らの作品に「園城寺」の名を冠する時、彼らは単に形を模倣しているのではない。本歌が持つ豊かな文化的・哲学的遺産を自らの作品に注入し、その権威にあやかろうとしているのである。一つの花入が持つ物語が、いかに広範な文化的影響を及ぼし得るかを示す、注目すべき事例と言えるだろう。
竹花入「園城寺」は、単なる竹筒ではない。それは、戦国という百年にわたる乱世が終わりを告げ、新たな時代が生まれようとする歴史の激動期に、千利休という一人の天才が、己の美学と哲学のすべてを注ぎ込んで生み出した、類稀なる精神的造形物である。
その価値は、一つの要素に還元することはできない。それは、韮山竹が持つ自然の「ひび割れ」という 不完全さ 、そこから水が滴るという 儚さ 、弁慶の引き摺り鐘という 物語 、小田原征伐という 歴史 、そして利休と秀吉という二人の巨人の間にあった 人間ドラマ 、これらすべてが分かちがたく融合した、総合的な文化遺産なのである。
小田原の陣中という、武力と権力がすべてを支配する空間において、利休はあえて、最も素朴で、傷つき、移ろいやすいものの中に、究極の美を見出した。それは、秀吉が黄金の茶室で示した絶対的な価値観に対する、静かだが揺るぎないアンチテーゼであった。物質的な豊かさや権威とは全く異なる次元に存在する精神的な価値を追求した「わび」の精神が、戦国の極度の緊張の中から結晶化したもの、それが「園城寺」である。
利休から少庵へ、そして松平不昧を経て現代に至るまで、この一管の竹は、多くの人々の手を経て、その物語をさらに豊かにしてきた。それは、時代を超えて人々が「わび」という美意識に価値を見出し、継承しようと努めてきた歴史の証でもある。
今日、我々が東京国立博物館で「園城寺」と対峙する時、我々が見ているのは、400年以上前の竹の断片だけではない。そこに宿る戦国の終焉の空気、利休の哲学、そして時を超えて受け継がれてきた人々の想いそのものである。ひび割れから滴り落ちたという一滴の水は、とうの昔に乾いてしまった。しかし、その一滴が象徴する「不完全の美」という思想は、今なお我々の心に潤いを与え続けている。竹花入「園城寺」は、まさに戦国が生んだ、永遠の「わび」の象徴なのである。