上杉謙信へ関東管領職と共に譲られたとされる刀工「天国」作の太刀は、史実ではない可能性が高い。伝承は職務譲渡と山鳥毛、伝説の刀工「天国」が結びつき形成された物語。
戦国時代の数多の武将の中でも、軍神と称され、義を重んじる孤高の武将として異彩を放つ上杉謙信。彼の生涯は、数々の名刀と共に語り継がれてきた。その中でも、ひときわ謎めいた光を放つ一振りの刀に関する伝承が存在する。それは、関東管領・山内上杉家の当主であった上杉憲政が、その地位と家督を謙信(当時は長尾景虎)に譲る際、象徴として共に授けたとされる、刀工「天国」作の太刀である。
この伝承は、「日本刀の祖」という神話的な権威を持つ刀工・天国と、室町幕府の関東における最高権威であった関東管領職という、二つの絶大な権威が結びついた、極めて魅力的な物語である。しかし、この心を惹きつける物語は、上杉家の公式な刀剣台帳や、米沢市上杉博物館が所蔵・展示する数々の名刀の目録、その他の信頼性の高い一次史料において、その直接的な裏付けを見出すことが極めて困難であるという、歴史研究上の大きな壁に突き当たる 1 。
では、この「上杉家の天国」という伝承は、単なる後世の創作に過ぎないのだろうか。もしそうであるならば、なぜこのような具体的な伝承が生まれ、語り継がれるに至ったのか。本報告書は、この問いに答えるべく、単に伝承の真偽を問うにとどまらず、その成立背景を多角的に解明することを目的とする。そのために、伝承を構成する三つの要素――伝説の刀工「天国」の実像、上杉憲政から謙信への「関東管領職譲渡」という歴史的事件、そして、謙信が実際に愛した「上杉家伝来の名刀」――をそれぞれ徹底的に調査・分析し、それらが如何にして一つの物語へと紡がれていったのか、その核心に迫るものである。
物語の前提となる刀工「天国」その人の正体に迫ることは、本調査の第一歩である。彼が日本の刀剣史においてどのような存在として位置づけられ、語り継がれてきたのかを理解することは、なぜ彼の名が後世において権威の象徴として引用され得たのかを解き明かす鍵となる。
刀工「天国(あまくに)」は、日本刀の歴史において始祖として語り継がれる、伝説的な人物である。大和国(現在の奈良県)を拠点とし、その活動時期は文武天皇の大宝年間(701年~707年)にまで遡るとされる。この時代は、日本が律令国家としての体制を整え始めた黎明期であり、天国の存在は、日本刀という文化そのものの起源を、国家形成の時代にまで遡らせる役割を担っている。
彼の伝説は、単に文献上にとどまるものではない。奈良県宇陀市には、天国が作刀の際に用いた霊水が湧き出たとされる「天国の井戸」や、「刀剣天国鍛冶屋屋敷跡」と記された石碑が現存しており、地域に根差した物語として今に息づいている。これは、天国という存在が、具体的な土地と結びついた信仰の対象であったことを示唆している。
しかしながら、その実在性については、学術的には多くの疑問符が付けられている。刀剣研究において、天国の名が文献に登場し始めるのは鎌倉時代後期以降であり、彼が活動したとされる奈良時代から数百年もの空白期間が存在する。このことから、天国は後世、特に刀剣文化が爛熟し、各流派が自らの権威を高めるために始祖を必要とした時代に、「日本刀の偉大なる祖」として創作された架空の人物である、という説が有力視されている。あらゆる技術や芸道がその起源を神話的な時代に求める文化的背景の中、「天国」という存在は、日本刀という文化そのものに神聖性と歴史的正当性を与えるために「要請され、創造された」祖であった可能性が極めて高い。
天国の名を不朽のものとしているのが、彼が作刀したとされる数々の名刀の伝説である。その筆頭に挙げられるのが、平家一門に伝来したとされる宝刀「小烏丸(こがらすまる)」である。この刀は、平安京を築いた桓武天皇の御代に、伊勢神宮の使いである神聖な烏がもたらしたという、極めて神話的な由来を持つ。天国の作刀が、皇室の祖先や伊勢神宮という国家最高の権威と結びつけられている点は、彼の伝説が持つ性質を象徴している。
この小烏丸の伝来は複雑を極める。平家滅亡と共に壇ノ浦の海に沈んだとも伝えられる一方で、人知れず伝世し、江戸時代になって平家の流れを汲む伊勢家で保管されていたものが発見され、明治天皇に献上されたという説もある。現在、皇室の御物として宮内庁が管理するこの太刀が、その平家伝来の小烏丸であるとされるが、刀身に「天国」の銘はなく、両者が完全に同一のものであるかは断定できていない。
天国の作刀伝説は小烏丸にとどまらない。三種の神器の一つである「天叢雲剣(草薙剣)」を鍛えたという伝承 や、東京都の亀戸天神社、群馬県の山名八幡宮、千葉県の成田山新勝寺といった、各地の由緒ある神社の社宝も天国作と伝えられている。
これらの伝承を俯瞰して見えてくるのは、刀工「天国」の名が、皇室、平家、有力寺社といった、主に中央の権威や古くからの信仰と強く結びついているという事実である。彼の伝説が形成され、語り継がれた世界は、京を中心とした文化圏であった。ここに、本報告書の主題である「上杉家の天国」を考える上で、極めて重要な示唆がある。上杉家やその前身である長尾家は、越後や関東を拠点とした地方の武家であり、天国伝説が育まれた文化的・地理的土壌とは一線を画す。天国作とされる刀剣の伝来の中に、上杉家、あるいは関東管領家との接点が一切見いだせないという事実は、「上杉家の天国」という物語が、本来の天国伝説とは異なる文脈で、後から結びつけられたものである可能性を強く示唆しているのである。
物語のもう一つの核である「関東管領職の譲渡」という歴史的事件は、戦国時代の関東におけるパワーバランスの劇的な変化を象徴する出来事であった。名門・山内上杉家から、越後の新興勢力・長尾家へ、如何にして権威が継承されたのか。そして、その際に譲渡された「重宝」の実態に迫ることで、「天国」という刀が入り込む余地があったのかを検証する。
室町幕府において、将軍に次ぐ関東統治の要職であった関東管領。その職を世襲してきた名門・山内上杉家は、15代当主・上杉憲政の時代に、その権勢に大きな翳りが見え始めていた。相模国から台頭した新興勢力、後北条氏の圧迫が日増しに強まっていたのである。天文15年(1546年)の河越夜戦における北条氏康に対する歴史的な大敗は、山内上杉家の権威失墜を決定的なものとした。
関東における拠点を次々と失った憲政は、ついにその地を放棄。元は家臣筋であり、また外戚(妻の実家)の関係でもあった越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼り、落ち延びることとなる。景虎は憲政を庇護し、その要請に応じて関東へ出兵、北条氏と対峙した。
そして永禄4年(1561年)閏3月、相模の小田原城を包囲した後、鎌倉の鶴岡八幡宮において、歴史的な儀式が執り行われる。上杉憲政は、長尾景虎を正式に養子とし、上杉の姓、山内上杉家の家督、そして関東管領の職を譲渡したのである。これにより景虎は「上杉政虎」と名を改め(後に将軍・足利義輝の一字を拝領し輝虎、さらには法号の謙信となる)、北条氏を討伐し、関東の秩序を回復するという、絶大な大義名分を手にした。
この関東管領職の譲渡に際して、単に職名や家名といった無形の権威だけでなく、それを象徴する有形の「重宝」もまた、憲政から謙信へと譲られたと記録されている。その中には、家の正統性を示す「上杉家系図」などが含まれていた。そして、武家の家督相続において最も象徴的な重宝といえば、伝家の宝刀である。
この時譲られたとされる刀の最有力候補こそ、国宝「太刀 無銘一文字」、号「山鳥毛(さんちょうもう)」であるとする説が、広く知られている。山鳥毛は、その豪壮華麗な作風から、まさに名門・山内上杉家の家宝として、そして関東管領の権威の象徴として、この歴史的な儀式にふさわしい一振りであった。
ところが、この説には一つの大きな矛盾が存在する。上杉家に伝わる『上杉家刀剣台帳』という信頼性の高い記録によれば、山鳥毛は、管領職譲渡の5年前である弘治2年(1556年)10月、上野国の白井城主であった長尾憲景(※上杉憲政とは別人)から謙信に献上された、との記述が残されているのである。
この記録の矛盾は、歴史の事実が物語へと昇華されていく過程を雄弁に物語っている。関東管領職という、当時における絶大な権威の継承という一大イベントには、それにふさわしい物理的な象徴が不可欠であった。上杉家の数ある名刀の中でも、ひときわ輝きを放つ山鳥毛は、その象徴として最もふさわしい存在であった。たとえ実際の入手経緯が異なっていたとしても、後世の人々が「あれほどの権威が譲られたのだから、あの素晴らしい山鳥毛も共に継承されたに違いない」と解釈し、二つの出来事を結びつけて物語として定着させていった可能性は非常に高い。
重要なのは、この関東管領職譲渡という、上杉家の歴史における最重要イベントの一つにおいて、譲渡された「重宝」として「天国」の名は、どの歴史資料にも一切登場しないという事実である。最有力候補である山鳥毛でさえ、その入手経緯に異説があるほど注目されている中で、もし「日本刀の祖」が作刀したとされるほどの超一級の宝物が譲渡されていたのであれば、それが『上杉家刀剣台帳』や『謙信公御年譜』といった公式記録から完全に抜け落ちているとは考え難い。
したがって、史実として「上杉憲政から上杉謙信へ、天国作の刀が譲られた」という事実は存在しなかったと、ほぼ断定して差し支えない。利用者様がご存知の伝承は、史実そのものではなく、何らかの理由で後世に形成された物語である可能性が極めて高いのである。
「天国」は上杉家の蔵刀には存在しなかった。しかし、それにも勝るとも劣らない、数多の名刀が軍神・上杉謙信の手元に集い、彼の生涯を彩ったことは紛れもない事実である。ここでは、謙信が実際に所有した刀剣に焦点を当て、その代表格を紹介することで、彼の刀剣に対する価値観や美意識、そしてそれらの刀剣が物語る歴史を明らかにする。
関東管領職譲渡の象徴として語られる国宝「山鳥毛」は、備前国(現在の岡山県)福岡を拠点とした福岡一文字派の刀工により、鎌倉時代中期に作られたとされる太刀である。刃長は約79.1cm、腰反り(刀身の反りの中心が手元寄りにあること)が高く、切っ先が詰まって力強い猪首切先(いくびきっさき)という、鎌倉最盛期の豪壮な姿を今に伝えている。
この刀を何よりも特徴づけているのが、その華麗にして激しい刃文である。号の由来は、その刃文が「山鳥の羽毛のように見える」からとも、「山野が燃え盛る炎のようだ」からともいわれる。大小の丁子(チョウジの実)が重なり合うように連なる重花丁子乱(じゅうかちょうじみだれ)を基調としながら、刃文が刀身全体に広がる皆焼(ひたつら)風の箇所も交じり、見る者を圧倒する迫力と美しさを兼ね備えている。これは、数ある福岡一文字派の作刀の中でも最高傑作と称される所以である。
また、この名刀には、上杉家独特の美意識を反映した拵(こしらえ)が付属している。刀身を保護し、装飾する外装である拵は、通常、手を防護するための鍔(つば)を持つが、山鳥毛の拵は鍔のない合口(あいくち)様式となっている。これは、実戦における機能性を重視しつつも、既成概念にとらわれない謙信の好みを反映したスタイルとされ、上杉家伝来の他の刀剣にも見られる特徴的な様式である。
山鳥毛は江戸時代を通じて米沢上杉家に伝来したが、第二次世界大戦後に同家を離れ、個人所蔵となった。そして近年、その故郷である備前長船の地、岡山県瀬戸内市がクラウドファンディングによって購入資金を募り、見事「里帰り」を果たしたことで大きな話題を呼んだ。現在、同市の備前長船刀剣博物館に所蔵され、その威容を現代に伝えている。
上杉謙信の刀剣コレクションの精髄を今に伝えるのが、「上杉家御手選三十五腰(うえすぎけおてえらびさんじゅうごよう)」と呼ばれる名刀のリストである。これは、謙信の養子であり、自身も刀剣に深い造詣を持っていた二代目当主・上杉景勝が、上杉家に伝わる数百口の蔵刀の中から、特に優れた三十五口(三十六口など諸説あり)を選び抜いたものである。謙信が愛した刀の多くが、このリストに含まれている。
号(名称) |
刀工(伝) |
区分 |
刃長 |
主な逸話・特徴 |
山鳥毛 |
福岡一文字 |
国宝 |
約79.1cm |
関東管領職と共に譲られたとされる。山鳥の羽毛や山火事のような華麗で激しい刃文。 |
姫鶴一文字 |
福岡一文字 |
重要文化財 |
約71.5cm |
磨上げを止めさせた姫の夢の逸話。明治天皇が天覧した際に魅了されたとされる。 |
五虎退 |
粟田口吉光 |
重要美術品 |
約25.1cm |
正親町天皇より下賜。明の使者が虎の群れを退けたという逸話を持つ短刀。 |
小豆長光 |
長船長光 |
- |
- |
鞘からこぼれた小豆が刃に触れて切れたという切れ味の逸話。川中島合戦での佩刀説。 |
山鳥毛と同じく福岡一文字派の作とされ、国の重要文化財に指定されている太刀である。この刀には、謙信の人物像を偲ばせる優美な逸話が残されている。ある時、謙信はこの太刀が長すぎるため、磨上げ(すりあげ、刀身を短く詰めること)をしようと研師に命じた。するとその夜、謙信と研師の双方の夢枕に「ツル」と名乗る美しい姫君が現れ、「どうか私を切らないでください」と嘆願したという。この不思議な出来事により磨上げは中止され、「姫鶴一文字」と名付けられたと伝えられる。この刀は明治14年(1881年)に明治天皇が米沢に行幸した際に天覧に供され、刀剣愛好家であった天皇がその美しさに魅了され、予定時間を超えて見入ったという逸話も残っている。
短刀作りの名手として名高い、鎌倉時代の京の刀工・粟田口吉光の作。国の重要美術品に指定されている。この短刀の名の由来は、室町幕府3代将軍・足利義満の時代、明(中国)へ派遣された使者が荒野で虎の群れに襲われた際、この短刀を抜くとその輝きを恐れた虎たちが退散した、という伝説にある(虎の数は後に誇張されたともいわれる)。その後、足利将軍家から朝廷に献上され、永禄2年(1559年)、謙信が上洛した際に正親町天皇から下賜されたという、極めて由緒正しい一振りである。
備前長船派の刀工・長光の作で、謙信が特に好んだ刀工の一人とされる。この刀の逸話は非常にユニークである。もとは越後の百姓が所持していたもので、ある時、その百姓が背負っていた小豆の袋が破れ、中からこぼれ落ちた小豆が、鞘の割れ目から覗いていた刃先に触れただけで真っ二つに切れていったという。その驚くべき切れ味の評判を聞いた家臣(竹俣氏とされる)が買い上げ、やがて謙信に献上されたと伝えられる。宿敵・武田信玄との一騎打ちで有名な第四次川中島の合戦で、謙信が佩いていたのがこの小豆長光であったともいわれる。
興味深いのは、『常山紀談』などの江戸時代の軍記物において、「竹俣兼光」や「赤小豆粥」といった、酷似した逸話を持つ別の名の刀が登場することである。これは、名将の武勇伝が語り継がれる中で、個々の刀の逸話が混同されたり、複合されたりしていった結果と考えられる。この現象は、本報告書の主題である「上杉家の天国」という、より大きなスケールの伝承がどのようにして形成され得たのかを類推する上で、極めて重要な手がかりとなる。
謙信の愛刀とその逸話群は、単なる武器のコレクションリストではない。それらは、上杉謙信という武将の多面的な人物像を後世に伝えるための「物語装置」として機能している。天皇から下賜された「五虎退」は、彼の朝廷への忠誠心と、それによって得た権威の正統性を象徴する。神秘的な夢の逸話を持つ「姫鶴一文字」は、彼が単なる武人ではなく、毘沙門天の化身とまで信じられた神がかり的な側面を補強する。「小豆長光」の逸話は、百姓が持つ無名の名刀を見出す慧眼と、身分にとらわれない価値観を示唆する。そして「山鳥毛」の豪壮さと華麗さは、軍神としての圧倒的な強さと、高い美意識を併せ持つ彼の二面性を体現している。これら名刀の物語は、上杉謙信その人の物語なのである。
本報告書における詳細な調査の結果、利用者様が提示された「関東管領職と共に上杉憲政から謙信へ譲られた天国作の太刀」という伝承は、残念ながらそれを直接的に裏付ける歴史的証拠は存在せず、史実ではない可能性が極めて高いと結論づけられる。
では、なぜこの史実ではない物語が生まれたのか。本調査を通じて、その成立過程を以下の複合的な要因によるものではないか、という一つの仮説を提示することができる。
最終的に、上杉謙信にとって刀剣とは何だったのかを考えるとき、それは単なる武器や美術品への愛好を超えた、深い意味を持っていたことがわかる。天皇から下賜された「五虎退」、関東管領職の象徴「山鳥毛」、夢の逸話を持つ「姫鶴一文字」、家臣が見出した「小豆長光」。それぞれの刀は、彼の人生の重要な局面や、彼が生涯をかけて貫いた価値観――義、信仰、武――と分かちがたく結びついている。上杉謙信の刀剣は、彼自身の生き様そのものを映し出す鏡であり、その生涯を雄弁に物語る、生きた証人なのである。この視点こそが、戦国武将と刀剣の深い関係性を理解する上で、不可欠なものと言えよう。