姥口釜(うばぐちがま)は、日本の戦国時代から桃山時代にかけて、茶の湯の席で湯を沸かすために用いられた鉄製の茶湯釜(ちゃのゆがま)の一種です。その名称は、釜の口造り(くちづくり)が特徴的な形状をしていることに由来します 1 。この時代、茶の湯は単なる喫茶の行為を超え、武士階級にとって必須の教養であり、精神修養の手段、さらには政治的な駆け引きや社交の場としても重要な役割を担っていました 4 。茶道具、とりわけ釜は茶席の中心に据えられ、亭主の心を映すものとして、また茶会の格を象徴するものとして極めて重視されました。姥口釜もまた、こうした時代背景の中で、特定の美意識を反映し、多くの茶人や武将に愛用されたと考えられます。
この時代の茶の湯文化の隆盛は、姥口釜のような道具が単なる実用品としてではなく、深い精神性や美的価値を伴う文化財として認識される土壌を育みました。戦国武将たちは名物と呼ばれる優れた茶道具を蒐集し、それらを外交や論功行賞に用いることもありました。姥口釜もその例外ではなく、歴史的な逸話の中にその名を見ることができます。本報告では、この姥口釜について、その定義、形態的特徴、歴史的背景、そして茶の湯文化における意義を、現存する資料や研究に基づいて詳細に明らかにしていきます。特に、茶の湯の大成者である千利休との関わりは、姥口釜の価値や歴史的位置づけを考察する上で不可欠な要素となります。
千利休(1522-1591)は、「わび茶」と呼ばれる、質素簡略の中に精神的な深みを求める茶の湯の様式を大成させた人物です。彼の美意識や茶道具に対する考え方は、後世の茶の湯文化に計り知れない影響を与えました。姥口釜の中には、利休自身が所持していたと伝えられるものや、利休の好みを反映して製作されたとされる釜師・辻与次郎(つじよじろう)の作品が存在します 6 。これらの事実は、姥口釜が利休の「わび茶」の理念と深く結びついていた可能性を示唆しており、その歴史的評価を考える上で極めて重要な視点となります。利休と姥口釜の関連性を探ることは、単に一種類の釜の歴史を追うだけでなく、戦国・桃山時代の茶の湯の美学や精神性を理解する手がかりとなるでしょう。
姥口釜は、単なる古美術品としてではなく、戦国時代から桃山時代にかけての社会政治的、美意識的変遷、特に「わび茶」の興隆と武家茶の重要性を反映する文化的遺物として捉えることができます。武士階級にとって茶の湯が不可欠なものとなり、精神的な慰め、権威の象徴、そして接待の手段として用いられたこの時代 4 、千利休が「わび茶」の旗手として登場し、その影響は姥口釜のような道具にも及んでいます 6 。姥口釜のしばしば飾りのない、独特の形状 8 は、「わび」の美学と調和するものであり、その研究は、これらの広範な文化的傾向が物質文化においてどのように顕現したかを知る窓を提供するものです。それは単なる釜以上のものであり、この歴史的変革の具体的な証左と言えるでしょう。
「姥口(うばぐち)」という名称は、釜の口造りが「歯の抜けた老人の口のようになっている」 1 、あるいはより具体的に「歯の無い老婆の口に似ている」 2 ことに由来します。この特徴的な形状は、釜の口縁が肩よりも内側にやや落ち込んでいる、または口の周囲が一度盛り上がり、そこから内側へと少し窪んだ形を指しています 2 。江戸時代の茶書『筌蹄(せんてい)』にも、「姥口 口作り老女のくちに似たるゆへ云ふ」との記述が見られ、この名称が古くから定着していたことが窺えます 3 。
この「姥口」という名称は、単に物理的な形状を言い表しているだけでなく、より深い文化的・美意識的な含意を持っていたと考えられます。歯が抜け落ちた老人の口というイメージは、完全無欠な美しさや若々しさとは対極にある、むしろ老いや不完全さ、自然な経年変化を想起させます。このようなイメージは、千利休らによって深化された「わび茶」の精神、すなわち不完全さや質素さの中にこそ真の美を見出そうとする美意識と強く共鳴するものであった可能性があります 8 。したがって、「姥口」という名称自体が、この種の釜が「わび茶」の道具として受け入れられ、愛好される一因となったとも考えられます。その名が喚起する謙虚で古びた印象は、華美を嫌い、静寂と簡素を尊ぶ茶人たちの心に響いたことでしょう。
姥口釜の口造りの独自性をより明確に理解するためには、他の代表的な釜の口造りとの比較が有効です。以下に主要な口造りの特徴をまとめます。
口造りの名称 |
形状的特徴 |
代表的な釜の種類/作例 |
主な時代/備考 |
姥口(うばぐち) |
口縁が内側に落ち込み、歯の抜けた老婆の口のよう 2 。 |
天明釜、芦屋釜、京釜など 9 。 |
桃山時代~ |
立口(たちぐち) |
口がまっすぐ立っている形状 2 。 |
一般的な釜。 |
各時代。姥口釜とは対照的。 |
輪口(わぐち) |
口の周りに輪をめぐらした形状 3 。 |
桃山時代以後に多い。 |
姥口が内側に落ち込むのに対し、外側に特徴的な輪を持つ。 |
甑口(こしきぐち) |
口造りが甑(蒸し器)に似ている形状 3 。 |
鎌倉時代の仏具の火舎香炉にも見られる。 |
姥口の窪んだ形状とは異なり、より垂直的な立ち上がりを持つ。 |
繰口(くりくち) |
肩からの線が一度くびれ、上方に向かって外側に傾く形状 3 。 |
筑前芦屋釜に多く見られる。 |
姥口の単純な落ち込みとは異なる複雑な曲線を持つ。 |
上記の表からも明らかなように、姥口釜の口造りは、他の口造りとは一線を画す特徴を持っています。例えば、一般的な「立口」が直線的に立ち上がるのに対し、姥口は内側に窪むという柔らかな曲線を描きます。また、「輪口」が口縁に装飾的な輪を持つ点や、「甑口」が蒸し器のような筒型の口を持つ点とも異なります。「繰口」は、芦屋釜に代表される優美な曲線を持つ口造りですが、姥口の持つ素朴でどこか哀愁を帯びた形状とは趣を異にします。これらの比較を通じて、姥口釜がその名の通り、独特の個性を備えた釜であったことが理解されます。
姥口釜の形態は、その名称の由来となった口造りをはじめ、胴、肩、鐶付(かんつき)、羽(は)、釜肌(かまはだ)、そして材質や製作技法に至るまで、多岐にわたる特徴を有しています。
前述の通り、姥口釜の最も顕著な特徴は、釜の肩よりも口縁が内側に落ち込んでいる形状です 2 。この口の周囲が盛り上がっているため、湯を汲む際には柄杓(ひしゃく)の合(ごう)を釜の肩に乗せて扱うという、特有の作法が生じました 2 。この形状はまた、蓋が釜の口にすっぽりと収まるような形となり、蓋と釜本体との一体感を高め、視覚的にもすっきりとした印象を与えます 8 。
姥口釜の胴は、一般的に大きく、どっしりとした安定感のある形状を持つものが多いとされています 8 。例えば、藤田美術館所蔵の天猫姥口釜は、撫で肩でやや平たい形をしており、その大きさが特徴的です 9 。また、この天猫姥口釜のように、胴の中央部分に鋳造時の型の継ぎ目と見られる線が一本入る作例も存在します 9 。
釜の肩は、口造りが内側に落ち込む姥口釜の形状を決定づける重要な部分です 2 。肩から胴にかけて「霰(あられ)」と呼ばれる細かい粒状の突起が鋳出された作例、いわゆる姥口霰釜も知られています 6 。この霰文様は、視覚的なアクセントとなると同時に、触覚的な魅力も加えていると考えられます。
鐶付は、釜を炉や風炉に掛ける際に釜鐶(かまかん)を通すための左右一対の突起物です。姥口釜の鐶付には多様な意匠が見られます。天猫姥口釜では、芦屋釜系統に多く見られる鬼の顔を模した「鬼面(きめん)」の鐶付が採用されています 9 。一方、東京国立博物館所蔵の園城寺霰釜では、植物のつくしを象った「土筆(つくし)形」の鐶付が見られます 10 。その他にも、松の実や梔子(くちなし)といった植物、蜻蛉(とんぼ)や海老、兎などの動物、あるいは七宝繋ぎのような吉祥文様など、釜師の創意工夫が凝らされた様々な意匠が存在し、茶席での話題の一つともなりました 12 。
羽は、主に風炉(ふろ)に釜を掛ける際に安定させるため、釜の胴の下部に設けられた鍔(つば)状の部分を指します。古作の芦屋釜などにはこの羽が見られますが 8 、姥口釜の作例における羽の有無は様々です。天猫姥口釜の胴中央に見られる線が、元々付いていた羽を欠き取った跡である可能性も指摘されています 9 。
釜肌は、鋳造されたままの鋳物の表面のことで、その質感や風合いは、使用された鉄の質や鋳造方法によって大きく異なります 12。釜肌の美しさは茶人たちの間で特に重視され、釜の評価を左右する重要な要素とされてきました 8。
姥口釜に見られる代表的な釜肌には以下のようなものがあります。
姥口釜をはじめとする古い茶湯釜の多くは、鉄を主材料としています。特に「和銑(わずく)」と呼ばれる、伝統的なたたら製鉄によって砂鉄と木炭から作られた純国産の銑鉄が用いられることが多かったとされています 12 。和銑は不純物が少なく、現代の鉄鉱石から作られる鉄に比べて錆による腐食に強いという優れた特性を持っています 12 。これが、室町時代や桃山時代に作られた釜が今日まで良好な状態で伝存する理由の一つと考えられています。和銑の持つ独特の鉄質は、鋳造された際の釜肌の風合いや、湯を沸かした際に生じる釜鳴り(かまなり)と呼ばれる音にも影響を与えた可能性があります。素材そのものが、釜の美的価値や感覚的な魅力に貢献していたのです。幕末以降になると、より安価で大量生産が可能な「洋銑(ようずく)」も釜の製作に用いられるようになりましたが、耐久性の点では和銑に劣ると言われています 17 。
姥口釜は鋳造によって製作されます。鋳型(いがた)は通常、上下二つの外型(そとがた)と中型(なかご)から構成され、これらの間に溶かした鉄(湯)を流し込んで形作られます 12 。
姥口釜の寸法や重量は、作例によって様々です。藤田美術館所蔵の天猫姥口釜は「とても大きい」と評され、現代の一般的な茶席の炉の寸法からすると、設置できるギリギリの大きさとされています 9。また、広口釜(姥口のものも含む)も、釜自体が大きいという記述があります 18。
茶湯釜の一般的な寸法としては、炉(ろ)で使用する炉釜(ろがま)が八寸から八寸五分(約24~26cm)、風炉(ふろ)で使用する風炉釜(ふろがま)が七寸から七寸五分(約21~23cm)が標準的なサイズとされています 17。大型の姥口釜は、主に炉用として用いられたと考えられます。具体的な作例として、奈良の釜師、川邊庄造作の利休好蒲団釜(姥口ではないが形状の参考として)は、幅27.5cm × 奥行25.7cm × 高さ20.9cm、重さ3474gという記録があります 19。
戦国時代(おおよそ15世紀後半から16世紀末)は、社会が大きく変動し、下剋上が常態化する一方で、新たな文化が花開いた時代でもありました。茶の湯は、この時代に武士階級の間で急速に広まり、単なる嗜好品としてだけでなく、精神修養の道、武将間の社交や情報交換の場、さらには権威の象徴としても重要な役割を担うようになりました 4。
織田信長や豊臣秀吉といった天下人は、茶の湯を積極的に奨励し、自らも茶会を催すとともに、優れた茶道具、いわゆる「名物(めいぶつ)」を熱心に収集しました 4。これらの名物道具は、時には一城に匹敵するほどの価値を持つとされ、家臣への褒賞や同盟の証として贈答されることもありました。茶席において湯を沸かす釜は、その中心的な存在であり、亭主の美意識や茶会の格を示すものとして特に重視されました。「釜一つあれば茶の湯はなるものを」という千利休の言葉にも象徴されるように、釜は茶の湯に不可欠な道具であり、亭主の代役とも言える存在でした 16。姥口釜もまた、このような時代背景の中で名物の一つとして認識され、武将間で贈答された記録が残っています 1。織田信長が姥口釜を所有し、重臣である柴田勝家に下賜した逸話は、姥口釜が当時の武将たちにとって単なる湯沸かしの道具ではなく、高い文化的価値と政治的意味合いをも帯びた存在であったことを物語っています。
天明(古くは天命とも書かれた)は、下野国佐野(現在の栃木県佐野市)の地名で、この地で鋳造された釜は天明釜と総称されます 9。天明における鋳物の歴史は古く、平安時代に河内の鋳物師が移住したことに始まるとも伝えられています 21。室町時代から桃山時代にかけて、天明釜は茶湯釜の主要な生産地の一つとして、「西の芦屋、東の天明」と並び称されるほどの高い評価を得ていました 21。
天明釜の特徴としては、一般的に地紋(じもん)と呼ばれる文様が施されたものは少なく、無地のものや、鉄の素材感を活かした荒々しい肌合いを持つものが多いとされています 9。特に「縮緬肌(ちりめんはだ)」と呼ばれる、表面が細かく縮れたような独特の釜肌は、天明釜の代表的な特徴の一つです。
姥口釜の作例としても天明釜は重要であり、最も有名なものの一つが、織田信長から柴田勝家に贈られたとされる「天猫姥口釜」です 9。この「天猫」という表記は、天明の当て字であると考えられています。この釜は、まさしく天明釜らしい縮緬肌を持ち、姥口の口造りをしています。
茶の湯釜としての天明釜の生産は、16世紀中には次第に減少し、その後は京都で作られる京釜(きょうがま)が主流となっていったと考えられています 9。しかし、天明釜の素朴で力強い作風は、特にわび茶の精神と合致するものとして、後世まで高く評価され続けました。
芦屋釜は、筑前国芦屋津(現在の福岡県遠賀郡芦屋町)で鎌倉時代から室町時代にかけて製作された茶湯釜です 8。芦屋釜は、その優美な姿と精緻な文様で知られ、京の貴族や武家社会で非常に珍重されました。国指定重要文化財の茶湯釜の多くを芦屋釜が占めていることからも、その芸術性の高さが窺えます 15。
芦屋釜の一般的な特徴としては、やや撫で肩で裾がすぼまった「真形(しんなり)」と呼ばれる優雅な器形、口造りは内側に湾曲する「繰口(くりくち)」、鐶付は龍の顔を思わせる「鬼面(きめん)」、そして地肌は滑らかで鯰(なまず)の肌に似ていることから「鯰肌(なまずはだ)」と呼ばれるものなどが挙げられます。また、胴部には風景、動植物、幾何学文様など、多様で美しい文様が鋳出されるのが大きな特徴です 15。
姥口釜の作例として芦屋釜も存在します。東京国立博物館が所蔵する「園城寺霰釜(おんじょうじあられがま)」は、室町時代(15~16世紀)の芦屋作とされ、その口造りは姥口です 10。この釜は全体に霰地が施され、肩には「園」「城」「寺」の文字と唐草文が薄肉で鋳出されています。また、茶道資料館の展示リストには、徳川美術館所蔵の「古芦屋姥口雹釜(こあしやうばぐちひょうがま)」(室町時代)が名物として記載されています 23。
芦屋釜の典型的な口造りが繰口であるのに対し、これらの作例は姥口であることから、芦屋釜の中でもやや特殊な位置づけにあるか、あるいは姥口という口造りが特定の時代や好みに応じて芦屋でも製作された可能性を示唆しています。
千利休が活躍した16世紀後半になると、茶の湯の中心地であった京都においても茶湯釜が盛んに製作されるようになり、これらは京釜と呼ばれます 17。天明釜や芦屋釜の生産が下火になるにつれて、京釜が茶湯釜の主流となっていきました。
京釜における姥口釜の存在も確認できます。江戸時代の茶書『茶道筌蹄』には、「古作に多し道安好み、与二郎作にて輪口と姥口」という記述があり、これは利休の釜師として名高い辻与次郎が、京都で姥口釜を製作していたことを示唆しています 3。実際に、利休所持と伝わる与次郎作の《姥口霰釜》は京釜の代表的な姥口釜と言えるでしょう 6。
また、後の時代の京釜にも姥口の作例は見られ、例えば表千家七代如心斎の弟である川上不白の好みとされる「姥口刷毛目釜」(了保作)などが知られています 11。
さらに、天正九年(1581年)の津田宗及の茶会記(『天王寺屋会記』)には、堺の豪商であり当代一流の茶人であった宗及自身が所持していた姥口釜が、奥村平六左衛門という人物によって茶会で用いられたという記録があります 25。この宗及所持の釜が具体的にどの産地のものかは不明ですが、当時の茶の湯文化の中心人物が姥口釜を所有し、それが茶会で実際に使用されていたという事実は、姥口釜の重要性を示すものです。
天明や芦屋といった古くからの生産地が持つ素朴さや力強さを備えた姥口釜と、京釜として洗練された美意識の中で作られた姥口釜とでは、それぞれ趣が異なる可能性があり、姥口という一つの形式が多様な地域的特色を吸収しながら展開していった様子が窺えます。特に、千利休のような指導的な茶人が「わび」の美意識を追求する中で、辻与次郎のような京釜師との密接な連携を通じて、その理念を体現する釜が作られたことは、姥口釜の歴史を考える上で非常に重要です。古い生産地の茶湯釜生産が16世紀末までに衰退したこと 9 は、利休の影響力と京釜の台頭と時期的に一致しており、姥口釜という形式が、異なる地域様式に適応しうる過渡的または持続的な様式であり、新たに興隆した京釜の伝統の中で新たな表現を見出した可能性を示唆しています。
千利休と姥口釜の関係は、単に利休がこの種の釜を好んだというだけでなく、利休の茶の湯における美意識「わびさび」の精神が、姥口釜の形状や質感と深く共鳴していた点に本質があります。
千利休は、華美な装飾や技巧を排し、質素で簡素なものの中にこそ深い精神性や美しさを見出す「わび・さび」の茶の湯を追求しました 8。この美意識は、茶道具の選択や製作にも色濃く反映されています。姥口釜が持つ、どこか古びて素朴な印象を与える「姥」という名称や、その内側に落ち込んだ独特の口造りは、完璧ではないもの、経年変化を経たものに価値を見出す「わび」の精神と通じるものがあったと考えられます 8。どっしりとした安定感のある姿や、素材そのものの質感を活かした釜肌もまた、利休の好みに合致した要素であったでしょう。
江戸時代の茶書『茶道筌蹄』には、具体的に「姥口丸釜」「姥口霰釜」「姥口乙御前釜」などが利休好みとして挙げられています 8。さらに同書には、利休が百回の茶会を催した記録である『利休百会記』において、天明作の姥口釜(鬼面鐶付、唐銅薄モリ蓋)が用いられたとの記述も見られ、利休が実際に姥口釜を茶会で使用していたことが確認できます 8。
利休は釜の表面の質感、すなわち釜肌にも強いこだわりを持っていたと伝えられています。釜師に対して「地をくわつくわつとあらし候へ」(釜の肌をもっと荒々しく、ざらついた感じにしてくれ)と指示したという逸話は 16、天明釜に見られる「縮緬肌」のような意図的に荒らされた釜肌や、与次郎作の釜に見られる作為的な朽ちた表現と通じるものがあり、利休の美意識が姥口釜の作風に影響を与えた可能性を示唆しています。
辻与次郎(生没年不詳)は、京都三条釜座の鋳物師で、千利休の釜師として、利休の指導のもと、その好みに合致した茶湯釜を数多く製作したとされています 6。利休の「わび茶」の理念を具現化する道具として、長次郎の楽茶碗と並び称されるのが、与次郎の釜です 27。
利休所持と伝えられる与次郎作の代表的な姥口釜として、《姥口霰釜》が挙げられます。この釜は桃山時代(16世紀)の作で、かつて三井家(北三井家)が所蔵していました 6。内側に落ち込む姥口の口造りを持ち、肩から胴にかけては細かく端正な霰文様がびっしりと鋳出されています。全体として穏やかな丸みを帯びた姿が特徴的で、千利休の子孫である千宗旦(せんのそうたん)による箱書が付されており、利休が所持していたものとして今日に伝わっています 6。
『茶道筌蹄』にも、与次郎が製作した釜には輪口のものと姥口のものがあったと記されており 3、与次郎が姥口釜の製作にも長けていたことがわかります。利休のような当代随一の茶匠の指導や注文を受けて釜を製作した与次郎の存在は、姥口釜が利休の美意識を反映した形で発展していく上で、極めて重要な役割を果たしたと言えるでしょう。利休と与次郎のような茶匠と職人の間の密接な協力関係は、単に好みの釜を選定するに留まらず、茶匠の美意識が釜の設計や製作の傾向に積極的に影響を与えたことを示しています。
前述の辻与次郎作《姥口霰釜》は、利休所持と伝わる姥口釜の最も著名な作例の一つです 6。
これに加えて、利休が姥口釜を高く評価していたことを示す具体的な史料として、天正九年(1581年)卯月一日付で利休が堺の商人・末吉勘兵衛尉(すえよしかんべえのじょう)に宛てた書状が残されています。この書状の中で利休は、当時、石山本願寺に伝来していた「霙(みぞれ)の姥口の釜」が売りに出たことを受け、この釜を「よき釜」であると即座に評価し、「銀百貫文くらいで是非に買い取るべきだ、絶対に逃してはいけない」と強く購入を勧めています 28。銀百貫文という具体的な価格に言及している点は非常に興味深く、当時の名物釜の経済的価値の一端を垣間見せるとともに、利休自身が姥口釜の目利きであり、その価値を高く認識していたことを明確に示しています。この評価は、単に釜の出来栄えだけでなく、その希少性や由緒(元石山本願寺伝来)、そして利休自身の美的判断に基づいていたと考えられます。
利休最晩年の茶会を記録した『利休百会記』には、様々な道具の使用例が記されていますが、提供された資料からは、姥口釜が具体的にどの程度の頻度で、どのような評価と共に用いられていたかについての直接的な言及は確認できません 27。しかし、『茶道筌蹄』に「利休百会に(天明作の姥口釜を)用ゆ」との記述があることから 8、利休の茶会において姥口釜が実際に用いられていたことは確かであり、その簡素ながらも深い味わいを持つ姿が、利休の目指した「わび茶」の空間に調和していたと想像されます。
姥口釜の中には、その優れた造形や歴史的な由来から「名物」として珍重され、数々の逸話と共に語り継がれてきたものが存在します。これらの作例は、姥口釜の多様性と、それが茶の湯の歴史の中でいかに重要な役割を果たしてきたかを示しています。
室町時代(16世紀)に天明(現在の栃木県佐野市付近)で製作されたとされるこの姥口釜は、戦国武将・織田信長(1534-1582)が所持していたことで特に有名です 9。信長は家臣の柴田勝家(1522?-1583)からこの釜を所望された際、「馴れ馴れて あかぬ馴染みの姥口を 人に吸わせんことをしぞ思ふ」(長年馴染んできた愛着のある姥口(の釜)を、他人に使わせるのは惜しいものだ)という狂歌を詠んで、機嫌よく手ずから与えたという逸話が伝えられています 1。この逸話は、江戸時代に編纂された『名物釜所持名寄』にも記載されており、当時の武将たちが茶道具に対していかに深い愛着と価値を見出していたかを物語っています 9。
この天猫姥口釜は、藤田美術館が所蔵しており、その特徴としては、撫で肩でやや平たい器形、口造りはもちろん姥口、鐶付は鬼面、そして釜肌は天明釜特有の「縮緬肌」と呼ばれる荒々しい質感をしています。製作当初からの共蓋(ともぶた)と、後の時代に補われた蓋の二つが付属し、釜を収める箱も二重になっており、さらに添状などを収めるための大きな外箱も備わっています 9。『信長公記』にも「姥口釜」に関する記述が見られることから 9、この種の釜が当時既に一定の評価を得ていたことが窺えます。
桃山時代(16世紀)に、千利休の釜師として名高い辻与次郎によって製作された姥口釜です 6。この釜は千利休が所持していたと伝えられ、利休の孫である千宗旦の箱書が添えられています。かつては北三井家が所蔵していました 6。
その特徴は、内側に緩やかに落ち込む姥口の口造りと、釜の肩から胴にかけてびっしりと、しかし端正に鋳出された霰地紋です。全体として穏やかな丸みを帯びた姿は、利休の「わび」の美意識を反映しているとも言われ、与次郎の高度な鋳造技術と美的感覚が融合した名品として知られています 6。
芦屋(現在の福岡県遠賀郡芦屋町)で室町時代(15~16世紀)に製作されたとされる姥口釜で、東京国立博物館に所蔵されています 10 。この釜は、撫で肩でふっくらとした器形を持ち、口造りは姥口、鐶付は土筆(つくし)を象ったものが付けられています。特筆すべきは、肩の部分に「園」「城」「寺」という文字と唐草文様が薄肉で鋳出され、胴全体には細かく先の丸みを帯びた霰地が施されている点です。江戸時代後期の著名な大名茶人である松江藩主・松平不昧(まつだいらふまい)が愛蔵したことでも知られています 10 。
室町時代に芦屋で製作されたとされる姥口釜で、徳川美術館が所蔵しています 23 。「雹釜(ひょうがま)」という名称が特徴的で、通常の霰よりも大きな粒状の文様、あるいは雹が降った跡のような特殊な肌合いを持つ可能性が推測されますが、提供された資料からはその具体的な形状や意匠に関する詳細な情報は得られませんでした。しかし、茶道資料館の展示リストに「名物」として記載されていることから、歴史的に高く評価されてきた姥口釜の一つであることがわかります 23 。
上記の他にも、歴史的な記録や伝世品として注目すべき姥口釜が存在します。
これらの名品や記録は、姥口釜が単一の様式ではなく、産地や釜師、そして時代の好みによって多様な姿を見せていたことを示しています。特に、信長、利休、松平不昧といった歴史上の重要人物に愛蔵された姥口釜の多くが、霰や縮緬肌といった特徴的な表面処理を施されている点は注目に値します。これは、姥口という口造りだけでなく、釜肌の触覚的・視覚的な質感が、その釜の評価や名声において決定的な要素であったことを示唆しています。口の形状だけでは「名物」としての地位を確立するには不十分であり、全体の姿や釜肌の美しさ、そしてそれにまつわる物語が一体となって、姥口釜の価値を形成してきたと言えるでしょう。また、これらの釜が戦国時代の武将から、桃山時代の茶人、そして江戸時代の大名茶人へと、時代を超えて愛好され続けた事実は、姥口釜という形式が持つ普遍的な魅力と、日本の茶の湯文化におけるその高い地位を物語っています。
以下に、主要な姥口釜の名品に関する情報をまとめます。
主要な姥口釜の名品一覧
名称 |
時代 |
作者/生産地 |
主な特徴(口、胴、肌、鐶付等) |
伝来/所蔵 |
関連逸話/備考 |
天猫姥口釜 |
室町(16世紀) |
天明 |
姥口、なで肩平形、縮緬肌、鬼面鐶付 9 |
織田信長→柴田勝家、藤田美術館 9 |
信長狂歌の逸話 1 |
与次郎作 姥口霰釜 |
桃山(16世紀) |
辻与次郎(京) |
姥口、丸みのある胴、霰地紋 6 |
千利休所持伝(宗旦箱書)、北三井家旧蔵 6 |
利休好み 6 |
園城寺霰釜 |
室町(15-16世紀) |
芦屋 |
姥口、撫肩、霰地、土筆形鐶付、肩に文字・唐草文 10 |
松平不昧愛蔵、東京国立博物館 10 |
|
古芦屋姥口雹釜 |
室町 |
芦屋 |
姥口、(雹地紋か?) 23 |
徳川美術館 23 |
名物 23 |
霙の姥口の釜 |
(桃山以前か) |
(産地不明) |
姥口、(霙のような肌か?) 28 |
石山本願寺旧蔵 28 |
利休が高く評価し、末吉勘兵衛尉に銀百貫文での購入を勧めた 28 |
姥口釜は、その独特の形状から、茶の湯の点前においても特有の扱い方が求められ、また、その美的価値は「わびさび」の精神と深く結びついて鑑賞されてきました。
姥口釜の据え方に関しては、千利休の教えを伝える「利休道歌」の一つに「姥口は囲炉裡縁(ろぶち)より六七分(ろくしちぶ) 低くすへるぞ習ひなりける」という歌があります 2。これは、姥口釜を炉に掛ける際には、炉の縁よりも六、七分(約2センチメートル)ほど低く据えるのが習わしである、という意味です。釜を掛ける高さは、炉中に置かれる五徳(ごとく)の据え方によって決まりますが、この高さの調整が適切でないと、点前がやりにくくなるとも指摘されています 2。
この低く据えるという約束事は、姥口釜の口造りの特徴と密接に関連していると考えられます。一般的な立口(たちぐち)の釜では、柄杓の合(ごう)を釜の口に差し入れて湯を汲みますが、姥口釜は口の周囲が盛り上がり、内側に落ち込んでいるため、柄杓の合を釜の肩に乗せて湯を汲むように扱います 2。釜を低く据えることで、この肩に柄杓を乗せる動作がより自然かつスムーズに行えるようになる可能性があります。また、視覚的にも、どっしりとした姥口釜が炉の中に低く安定して据えられている様子は、茶室全体の落ち着いた雰囲気を強調し、「わび」の空間に調和する美的効果も意図されていたのかもしれません。
さらに、広口の釜(姥口のものも含む)は、その広い口から湯気が多く立ち上るため、特に寒い時期(例えば旧暦の師走など)には、視覚的にも暖かさを感じさせ、季節に応じたもてなしの道具として好まれたようです 18。
姥口釜の美的価値は、千利休によって大成された「わびさび」の精神と分かちがたく結びついています。「姥」という名称自体が、老いや不完全さ、質朴さを想起させ、これらにこそ深い味わいや美しさを見出そうとする「わびさび」の美意識に通じるものです 8。華美な装飾を排した簡素で無駄のないデザイン、そして土や鉄といった自然素材の持つ素朴な風合いや質感を重視した姥口釜は、まさに利休が追求した「わび」の精神を具現化した道具の一つと言えるでしょう 8。
例えば、天明姥口釜に見られる「縮緬肌」のような荒々しく不均一な釜肌 9 や、意図的に虫食いのような細工を施した釜の蓋の摘み 31 などは、完全なものよりもむしろ、自然の作用や時間の経過によって生じる「寂(さび)」の趣や、枯れた風情を積極的に評価する美意識の表れです。鉄という素材自体が、時間と共に錆び、朽ちていくという性質を持つことも、この美意識と無関係ではありません。多くの姥口釜が古作として伝世している事実は、単に古いというだけでなく、その時間経過がもたらす独特の風合いや変化の美をも含めて評価されてきたことを示唆しています 16。
姥口釜を鑑賞する際には、以下のような点に注目することで、その魅力をより深く理解することができます。
姥口釜の鑑賞は、視覚的な美しさだけでなく、釜肌の触覚的な質感(直接触れることは稀ですが、その質感を想像すること)、そして釜鳴りのような聴覚的な要素まで含めた、多角的な感覚的体験を通じて行われると言えます。これこそが、茶の湯における道具鑑賞の奥深さを示しています。
姥口釜は、戦国時代から江戸時代にかけての様々な古文献にその名が記されており、当時の茶人や武将たちによる認識や評価、実際の使用状況などを垣間見ることができます。これらの文献は、姥口釜の歴史的実在性と文化的重要性を裏付ける貴重な証拠となります。
『信長公記』は、織田信長の家臣であった太田牛一(おおたぎゅういち)によって記された、信長の生涯とその時代に関する詳細な記録です。この史料の中に「姥口釜」という記述が見られることは 9 、姥口釜が16世紀後半には既に特定の名称を持つ道具として認識され、かつ、信長のような最高権力者の周囲でその存在が語られるほどのものであったことを示しています。藤田美術館所蔵の天猫姥口釜にまつわる、信長が柴田勝家にこの釜を与えたという逸話の背景としても重要な記録です。
江戸時代中期に稲垣休叟(いながききゅうそう)によって編纂された『茶道筌蹄』は、茶の湯に関する広範な知識を網羅した茶書であり、姥口釜についても多くの記述が見られます。
まず、名称の由来について「姥口 口作り老女のくちに似たるゆへ云ふ」と明確に記しています 3。
千利休の好みとの関連では、「姥口丸釜」「姥口霰釜」「姥口乙御前釜」などが利休好みとして挙げられています 8。さらに、「百会 利休百会に用ゆ、天猫作、ウバ口、鬼面鐶付、唐金薄モリ蓋、当時柳沢侯御所持」との記述は、利休が催したとされる百回の茶会の記録(おそらく『利休百会記』を指す)において、天明作の姥口釜が使用されたことを具体的に示しており、利休と姥口釜の結びつきを裏付けています 8。
釜師との関連では、「広 古作に多し、道安好み、与二郎作にて、輪口とウバクチとあり」と記され、利休の釜師として名高い辻与次郎が姥口釜を製作していたことにも言及しています 3。
また、「乙御前釜」については特に詳細な記述があり、信長が所持し柴田勝家に下賜した際の狂歌、それが天明作であること、加賀藩主が所持していた写しは宮崎寒雉(みやざきかんち)の作が良いとされたこと、そして天明釜には輪口もあるが姥口の方が優れている、といった具体的な情報が記されています 8。これらの記述は、姥口釜が特定の作例や釜師と結びつけて評価され、その情報が後世に伝えられていった様子を示しています。
『南方録』は、江戸時代初期の立花実山(たちばなじつざん)が、千利休の言葉を秘かに書き留めたものとされる茶書ですが、その成立や内容の真偽については長年議論があります。しかし、茶の湯の世界に大きな影響を与えた文献の一つであることは間違いありません。この『南方録』の中には、茶会の場面描写として、客が席入りすると炉には姥口釜が懸かっている、という記述が見られます 34 。これが史実を正確に反映しているか否かは別として、姥口釜が侘びた茶席の道具としてふさわしいものと認識され、そのような文脈で語られていたことを示す一例と言えます。
『山上宗二記』は、千利休の高弟であった山上宗二(やまのうえそうじ)が、師から見聞きした茶の湯の奥義や道具の評価などを記した秘伝書です。天正16年(1588年)頃に成立したとされ、利休時代の茶の湯を知る上での第一級の史料とされています。提供された資料からは、『山上宗二記』本文中に姥口釜に関する直接的な言及があったかどうかは明確には確認できませんでした 8 。しかし、『茶道筌蹄』が引用する形で、山上宗二記が「此外紹鴎筋釜并に笠釜、是は数寄々々たるへし」(この他にも武野紹鴎ゆかりの釜や笠釜は、それぞれ好事家の間で好まれるべきものである)と述べている箇所がありますが、これは姥口釜とは直接関連する記述ではありません 8 。とはいえ、利休と同時代の茶道具の価値観や名物の基準などを知る上で、『山上宗二記』は極めて重要な文献です。
茶会記は、茶会の日時、場所、亭主、客、使用された道具、懐石の献立などを詳細に記録したもので、当時の茶の湯の実態を知る上で欠かせない史料です。
これらの古文献や茶会記、書状は、姥口釜が単なる伝承上の存在ではなく、戦国時代から桃山時代にかけて実際に製作・使用され、高い評価を受けていたことを具体的に示しています。特に『信長公記』のような同時代の記録から、後代の『茶道筌蹄』のような集成的な茶書に至るまで、姥口釜に関する情報が一貫して言及されていることは、その歴史的重要性を裏付けています。また、津田宗及や千利休といった茶の湯の中心人物が姥口釜を所持したり、その取引に関わったりしていた事実は、これらの道具が当時の富裕な商人や茶人たちの間で形成されていた社会的・経済的ネットワークの中で流通し、ステータスシンボルとしての役割も果たしていたことを示唆しています。
姥口釜は、その名称の由来となった「老女の口」を思わせる特徴的な口造りを持つ茶湯釜であり、日本の戦国時代から桃山時代にかけて、茶の湯文化の隆盛と共に発展しました。主な生産地としては、東国の天明、西国の芦屋、そして茶の湯の中心地であった京都などが挙げられ、それぞれの地域で特色ある姥口釜が製作されました。
その素朴でありながら力強い造形、和銑(わずく)に代表される良質な素材へのこだわり、そして縮緬肌(ちりめんはだ)や霰(あられ)といった多様な釜肌の表情は、当時の茶人たちが追求した美意識、とりわけ千利休が大成させた「わびさび」の精神を色濃く反映しています。華美を排し、不完全さや質朴さの中にこそ深い美を見出そうとする思想は、姥口釜の形態や質感と深く共鳴し、多くの茶人に愛好される所以となりました。
織田信長や千利休といった歴史上の重要人物が姥口釜を所持し、それにまつわる逸話が数多く残されていることは、姥口釜が単なる湯沸かしの道具ではなく、高い芸術的価値と社会的価値を伴う文化財であったことを明確に示しています。信長が柴田勝家に下賜した天猫姥口釜の逸話や、利休が辻与次郎に作らせたとされる姥口霰釜、あるいは利休自身が「霙の姥口の釜」を高く評価した書状などは、その好例です。これらの事実は、姥口釜が当時の権力構造や文化交流の中で、象徴的な役割をも果たしていたことを物語っています。
さらに、『信長公記』、『茶道筌蹄』、『南方録』といった古文献や、津田宗及の茶会記などの一次史料における記述は、姥口釜が実際の茶席でどのように扱われ、どのように評価されてきたかを具体的に伝えており、その歴史的実在性と重要性を裏付けています。これらの文献を通じて、姥口釜が茶の湯の歴史の中で確固たる地位を占めていたことが明らかになります。
千利休好みとされる姥口釜の様式や、天明・芦屋・京釜に見られる姥口釜の多様な作風は、後代の釜師たちにも大きな影響を与え、江戸時代以降もその写しや本歌取(ほんかどり)の作品が作られ続けました。これは、姥口釜が持つ普遍的な美的魅力と、茶の湯におけるその様式の完成度の高さを示しています。
現代においても、古作の姥口釜は古美術品として極めて高く評価され、博物館や美術館に収蔵されたり、茶会で大切に使用されたりしています。また、その特徴的な口造りや全体のフォルムは、現代の工芸家によって新たな鉄瓶や茶道具のデザインに取り入れられることもあり 38 、日本の伝統工芸や美意識を現代に伝える貴重な遺産としての価値を保ち続けています。角谷一圭・勇圭親子のような人間国宝の釜師も、古作の研究を通じて姥口釜の技法や精神を継承し、新たな創作活動へと繋げています 29 。
姥口釜の研究は、戦国・桃山時代の茶の湯文化の深層を理解する上で、依然として多くの示唆を与えてくれます。それは、当時の工芸技術の水準、素材に対する知識、茶人たちの美意識、そして彼らが生きた時代の精神性を映し出す鏡であり、日本の文化史におけるその意義は今後も変わることはないでしょう。姥口釜という一つの茶道具を通じて、私たちは日本の美の系譜と、それを育んできた人々の心に触れることができるのです。その独特の形状が持つ「わびさび」の精神は、機能性と深い象徴性が見事に融合した好例であり、そのデザイン理念の時代を超えた魅力は、戦国時代の武将から現代の工芸家や茶道愛好家まで、多くの人々を惹きつけ続けています。