金沢銘菓「寿煎餅」は、戦国時代には存在せず、江戸期の加賀藩で誕生。乱世の長寿への願いが、泰平の世の技術と文化で紅白の菓子に結実した。
金沢の祝儀菓子として知られる「寿煎餅」。紅白の薄焼き煎餅に「寿」の文字を刻んだこの優美な菓子が、日本の戦国時代に存在したのか。この問いは、単なる一菓子の起源を探るにとどまらない、より深い歴史的文脈への探求を促すものである。本報告書は、この問いを起点としながらも、その真の目的を、この菓子を構成する物質的・象徴的要素の起源を戦国時代にまで遡り、激動の時代が後の泰平の世の文化にいかなる影響を及ぼしたのかを解明することに置く。
結論から述べれば、「寿煎餅」そのものが戦国時代に存在したという直接的な証拠は見出されない。それは、文化が爛熟期を迎えた江戸時代の加賀藩という、特定の時と場において生まれた文化的産物である。しかし、その「不在」の確認をもって調査を終えることは、歴史の表層をなぞるに過ぎない。本報告書は、より踏み込んだ分析アプローチを採用する。すなわち、「寿煎餅」を「煎餅」という食品形態、「砂糖」による甘味、「紅白」の意匠、「寿」の文字、そして「婚礼儀礼」における役割という五つの要素に分解し、それぞれの歴史的系譜を戦国時代まで丹念に辿る。
この分析を通じて明らかになるのは、一つの文化事象に凝縮された歴史の重層性である。戦国時代という「不在の時代」を考察することによってのみ、「寿煎餅」がなぜ、いつ、どこで、どのようにして生まれ得たのかという歴史的必然性が浮かび上がる。戦乱の世には存在し得なかった物理的・技術的条件と、しかしその精神的土壌を育んだ象徴的・文化的背景。この二つの側面を対比させることで、戦国という時代が残した記憶と価値観が、泰平の世の文化の中でいかにして昇華され、新たな形を得ていったのかという、文化史的ダイナミズムを描き出すこと。それが本報告書の目指すところである。
「寿煎餅」は、石川県金沢市に伝わる伝統的な祝い菓子であり、特に結納や婚礼といった「ハレ」の場において用いられる干菓子として定義される 1 。その姿は、祝意を凝縮した芸術品とも言える様相を呈している。
主原料はもち米であり、薄く焼き上げられた円形の煎餅は、口に含むとほんのりとした上品な甘味が広がる 3 。最大の特徴は、紅と白の二枚が一組となっている点であり、それぞれの表面には縁起の良い「寿」の文字が鮮やかに記されている。伝統的には、この紅白の煎餅を黒塗りの盆に盛り付け、婚礼の引き出物として参列者に配られるのが習わしであった(ユーザー提供情報)。この色彩の対比と簡潔な意匠は、見る者に慶事の厳粛さと華やかさを同時に伝える。
しかし、この伝統的な菓子が辿ってきた道程は平坦ではない。かつては金沢の婚礼に欠かせない存在であったが、婚礼様式の変化やライフスタイルの多様化に伴い、その需要は徐々に衰退していった時期がある 3 。伝統的な引き出物の習慣が簡素化される中で、「寿煎餅」もまた、その役割を終えつつあるかのように見えた。
ところが近年、この伝統の灯は再び輝きを取り戻しつつある。地域の文化遺産を見直す気運の高まりや、個性的で心のこもった祝い事を求める人々の間で、その価値が再認識され始めたのである。現在では、注文に応じて生産する和菓子店も存在し、伝統は細々とながらも確かに受け継がれている 3 。例えば、金沢の老舗である株式会社加藤晧陽堂は、今なお「加賀志きしことぶき煎餅」の名でこの伝統菓子を製造・販売しており、その技術と精神を現代に伝えている 1 。
このように、「寿煎餅」は単なる食品ではなく、金沢の地域社会における儀礼と深く結びついた文化的装置としての役割を担っている。その需要の変遷は、婚礼という人生の節目における価値観の変化や、地域社会と伝統との関わり方の移ろいを映し出す鏡であると言えよう。一つの菓子が、時代の変化の中で一度は忘れかけられながらも、その文化的価値ゆえに再び求められるという現象は、伝統の継承がいかに動的なプロセスであるかを示唆している。
「寿煎餅」が生まれ得た泰平の世の文化とは対照的に、戦国時代の菓子文化は、乱世の様相を色濃く反映したものであった。この時代における「菓子」の概念は、現代の我々が抱く嗜好品としてのイメージとは大きく異なり、より実用的で、かつ階級的な性格を帯びていた。
当時の菓子として最も一般的だったのは、主食の延長線上にある穀物を加工したものであった。餅や団子、あるいは戦場での保存食として重宝された干飯(ほしいい)などがその代表格であり、これらはエネルギー源としての役割が第一義であった 4 。甘味の源もまた、現代とは大きく異なる。当時、砂糖は中国からの輸入品であり、薬として扱われるほど希少で高価な存在であった 5 。そのため、日常的な甘味は、ツタの樹液を煮詰めた甘葛(あまづら)のような、植物由来の甘味料に頼っていた 6 。
このような状況に大きな変化をもたらしたのが、室町時代に確立され、戦国武将たちの間で流行した茶の湯の文化である。茶道は、武将たちにとって単なる趣味ではなく、同盟関係を確認し、政治的駆け引きを行うための重要なコミュニケーションの場であった 9 。そして、茶の湯の発展は、必然的に茶席で供される「茶菓子」の需要を生み出した。当初の茶菓子は、鮑の煮物や焼き栗といった、食事に近い素朴なものであったが 11 、次第に洗練の度を加えていく。特に美食家として知られた豊臣秀吉のもとには、みたらし団子、羊羹、饅頭など、数々の菓子が献上されたと記録されている 12 。
さらに、16世紀半ばに始まる南蛮貿易は、日本の菓子文化に革命的な影響を及ぼした。ポルトガルやスペインの宣教師たちによって、カステラ、金平糖、有平糖といった、砂糖と鶏卵をふんだんに使用した南蛮菓子がもたらされたのである 9 。永禄12年(1569年)、宣教師ルイス・フロイスが織田信長に謁見した際に金平糖を献上したという逸話は、菓子が外交の道具として、そして新しい時代の象徴として機能したことを物語っている 9 。
武将たちが催す饗応(きょうおう)の席でも、菓子は重要な役割を果たした。天正10年(1582年)、信長が徳川家康を安土城でもてなした際の豪華絢爛な饗応膳には、食後の菓子として「求肥餅」や「豆飴」が含まれていた 15 。これらは、主君が客に対して示す歓待の意と、自らの権勢を誇示するための重要な演出であった。
総じて、戦国時代は日本の菓子文化が大きな転換点を迎えた時代であったと言える。古来の穀物を主原料とする素朴な菓子、茶の湯の発展と共に洗練された点心、そして南蛮貿易がもたらした砂糖を基盤とする革新的な菓子。これらが混在し、主に支配階級の間で享受されていた。しかし、この混沌とした状況は、裏を返せば、文化が成熟し安定するには程遠い状態であったことを示している。「寿煎餅」のような、良質な米の安定供給、比較的手に入りやすい砂糖、そして精緻な文字を施す専門職人の技術という三つの要素を前提とする高度な祝儀菓子が生まれるための社会的・経済的・技術的基盤は、この時代にはまだ整っていなかったのである。
「寿煎餅」が戦国時代に存在しなかったという事実は、この菓子を構成する各要素の歴史を紐解くことで、より明確に理解される。物理的・技術的な要素は未成熟であった一方で、象徴的・精神的な要素は既に社会に深く根付いていた。この乖離こそが、歴史の連続性と変容を理解する鍵となる。
「寿煎餅」の器である「薄焼きの米菓」という形態は、戦国時代には一般的ではなかった。日本の歴史において「煎餅」という言葉自体は古く、その記録は飛鳥・奈良時代にまで遡ることができる。天平9年(737年)の『但馬国正税帳』には「煎餅」の文字が見られる 16 。しかし、当時の煎餅は、現代の我々が想像するものとは全く異なる食品であった。10世紀前半の辞書『和名類聚抄』によれば、当時の煎餅は小麦粉を主原料とし、それを水で練って油で煎る(いる)ものであったと記されている 16 。これは、現在の瓦煎餅などにその名残をとどめるものであり、もち米を原料とする「寿煎餅」の系譜とは異なる。
現在我々が「煎餅」として認識している、うるち米を粉にして焼き、塩や醤油で味付けした米菓が広く普及するのは、江戸時代に入ってからのことである 19 。特に、日光街道の宿場町であった草加で生まれた「草加煎餅」は、その代表格として知られている 16 。
では、戦国時代の武士たちが口にしていた米製品は何だったのか。それは嗜好品としての煎餅ではなく、兵糧としての性格が強いものであった。米を蒸して搗き固め、乾燥させた「乾餅(ほしいい)」や「堅餅(かたもち)」は、保存性に優れ、戦場での重要な食料であった 4 。これらは腹を満たすための実用的な食品であり、「寿煎餅」のような薄さや繊細さ、そして祝意を込めた意匠とは無縁の存在であった。したがって、「寿煎餅」の物理的な形態そのものが、戦国時代には存在し得なかったと結論付けられる。
「寿煎餅」の持つ「ほんのり甘い」という繊細な味わい。この特徴もまた、戦国時代という文脈においては実現が困難なものであった。その理由は、甘味の主たる源である砂糖が、当時極めて貴重な品であったからに他ならない。
砂糖が日本に伝来したのは奈良時代とされるが、その後、室町時代に至るまで、その希少価値から薬として扱われることがほとんどであった 5 。16世紀の南蛮貿易によって砂糖の輸入量は増加したものの、その価値が下がったわけではない。それは依然として一部の支配階級のみが享受できる贅沢品であり、大名への献上品や、特別な饗応の席で用いられるものであった 14 。
砂糖を用いた甘い煎餅が一般化するのは、砂糖の国内生産がある程度軌道に乗り、流通網が整備される江戸時代中期以降のことである。文化文政年間(1804年~1830年)になると、米粉を原料とする醤油味の煎餅が登場し 21 、さらに明治時代に入ると砂糖が広く普及し、甘い煎餅も作られるようになったとする説もある 22 。
この歴史的背景を鑑みれば、戦国時代において、婚礼の引き出物という、ある程度の量を必要とする祝儀菓子に、貴重な砂糖を惜しげもなく使用することは経済的に考え難い。人々の切なる願いを込めるべき祝儀の品が、経済的な制約によって実現不可能であったという事実は、時代の厳しさを物語っている。
一方で、「寿煎餅」を彩る「紅白」という意匠は、その象徴的意味において、戦国時代に既に完成されていた。この色彩に込められた祝意は、当時の武将たちにも即座に理解されるものであっただろう。
日本文化において紅白の組み合わせが「めでたい」とされる由来には諸説あるが、その起源の一つとして、平安時代末期の源平合戦が挙げられる。この戦いにおいて、源氏が白旗を、平氏が赤旗(紅旗)を掲げて敵味方を区別したことは広く知られている 23 。この歴史的出来事は、後世の武家社会において、対抗する二つの力を象徴する基本的な配色として深く記憶された。
やがて、この対比の色は、単なる対立の象徴から、より広範な意味を持つようになる。赤(紅)は「赤ちゃん」という言葉にも通じるように「誕生」や「活力」を、白は神事に用いられるように「神聖」や「純潔」、あるいは死装束の色として「死」や「別れ」を象徴するとされた 1 。この二つの色を組み合わせることで、人の誕生から死に至るまでの一生、すなわち人生そのものを表し、婚礼や祭りといった特別な「ハレ」の場を飾るにふさわしい、縁起の良い配色として定着していったのである。金沢で正月に紅白の鏡餅を飾る風習も、藩政期に始まったとされており、この地域における紅白への特別な意識をうかがわせる 3 。
源平合戦は戦国武将たちにとって遠い過去の伝説ではなく、自らの武士としてのアイデンティティに繋がる直接の歴史であった。それゆえ、紅白という色彩に込められた象徴性は、彼らの精神世界に深く刻み込まれていたはずである。後の時代に「寿煎餅」が祝儀菓子として広く受け入れられるための、重要な文化的素地は、この時代に既に醸成されていたと言える。
「寿煎餅」の核をなす象徴、それは表面に記された「寿」の一文字である。この文字が持つ言霊的な力と、それに込められた人々の願いは、戦乱の世であった戦国時代にこそ、最も強く、切実に希求されたものであった。
「寿」という漢字は、長寿を祝い、めでたさをことほぐ吉祥文字として、古代中国で生まれた。その歴史は二千年以上に及び、人々の健康と長寿への普遍的な願望を表現してきた 29 。この思想は、儒教の教えと共に日本へともたらされ、年を重ねることを尊ぶ文化として深く根付いていった 30 。
明日をも知れぬ戦乱の世。戦場に散る者、病に倒れる者、飢饉に苦しむ者。死が常に身近にあった戦国時代において、「長生きすること」、そして自らの一族が「永く栄えること」は、武士から庶民に至るまで、あらゆる階層の人々が抱く最大の願いであった。
このような時代背景において、「寿」の文字は単なる装飾ではあり得ない。それは、人々の切実な祈りを形あるものとして表現し、未来への希望を託すための強力な縁起物として機能した。この力強いシンボルを、人々が集う祝いの場の菓子に刻むという発想は、泰平の世が訪れ、人々が改めて「寿(ことほぎ)」の価値を心から噛みしめることができる時代になって初めて、具体的な形を取り得たのである。戦国の世の人々が抱いた祈りが、江戸の世の職人の手によって菓子の上に結実した。それが「寿煎餅」であると解釈することも可能であろう。
表1:菓子とその構成要素の時代別比較 — 「寿煎餅」成立への道程 |
構成要素 |
主原料 |
甘味料 |
主要な意匠 |
用途・役割 |
生産体制 |
「寿煎餅」が現代において主たる役割を果たす婚礼の場。その儀礼のあり方もまた、戦国時代と現代とでは大きく異なっていた。戦国時代の婚礼において、祝意を表明し、客をもてなす主役は、菓子ではなく、あくまで酒と豪華な本膳料理であった。
室町時代に確立された武家の婚礼は、家と家とを結びつける政治的同盟の側面が極めて強く、その儀式は厳格な作法に則って行われた。儀礼の中心をなしたのは、「式三献(しきさんこん)」と呼ばれる酒盃を交わす儀式と、それに続く「本膳料理(ほんぜんりょうり)」と呼ばれる盛大な饗宴であった 33 。これらは、現代の結婚式における三三九度や披露宴の原型と見なすことができる。
本膳料理は、一の膳から始まり、三の膳、五の膳、あるいは七の膳に至るまで、定められた形式に則って多種多様な料理が提供される、壮麗なものであった 33 。献立には、立身出世の象徴である鯉、めでたい席に欠かせない鯛、そして鮑といった、縁起の良いとされる山海の幸が惜しげもなく用いられた 34 。これらの料理は、単に味覚を満足させるだけでなく、主催者である武家の権力、財力、そして客への敬意を誇示するための重要な手段であった。
饗宴の最後に、果物や菓子(当時は点心に近い性格のもの)が供されることはあったが 35 、それが儀礼の中心を占めることはなかった。また、現代の引き出物に相当するものとして、「台引(だいびき)」や「引物膳(ひきものぜん)」という習慣が存在した。これは、饗宴で出された料理の一部、特に尾頭付きの鯛などを折り詰めにし、客が土産として持ち帰るものであった 33 。つまり、祝儀の記念品は、饗宴の豊かさを象徴する「現物」そのものであったのである。
特定の菓子が婚礼の引き出物として定着する風習、例えば香川県西讃地方の「おいり」 37 や徳島県の「花嫁菓子」 38 などは、その起源を江戸時代初期の藩主の輿入れに求める伝承が多く、戦国時代まで遡る事例の確認は難しい。
この事実は、当時の菓子産業がまだ未発達であったこと、そして祝儀における「食」の価値観の違いを明確に示している。専門の菓子職人が意匠を凝らした菓子を、引き出物として大量に準備し、配布するという習慣は、社会にそれを支える生産と流通のシステムが存在することを前提とする。貨幣経済が浸透し、専門職人が分化し、誰もがその菓子の文化的・経済的価値を共有できる社会。このような条件は、戦乱が収束し、商工業が飛躍的に発展する江戸時代になって初めて整うのである。婚礼における菓子の役割の変化は、単なる食文化の変遷に留まらず、社会構造そのものの変化を映し出している。
「寿煎餅」が金沢という特定の地で生まれたのは、歴史的な偶然ではない。そこには、戦国時代の記憶を継承しつつ、泰平の世の価値観を体現した加賀藩独自の文化政策が深く関わっている。戦国武将・前田利家が蒔いた文化の種が、孫である三代藩主・利常の時代に、百万石の財力という豊かな土壌を得て、見事に花開いたのである。
加賀藩の藩祖・前田利家は、織田信長、豊臣秀吉に仕えた歴戦の武将であると同時に、千利休に直接茶の湯を学んだ当代一流の文化人でもあった 32 。武断と文治を兼ね備えたこの初代藩主の素養が、加賀藩の文化的な方向性を決定づけた。
泰平の世が訪れると、加賀百万石という強大な財力と潜在的な軍事力は、逆に徳川幕府からの警戒を招く要因となった。この緊張関係を緩和し、藩の安泰を図るため、三代藩主・前田利常は、武力ではなく文化の振興に藩の資源を重点的に投下する戦略をとった 41 。これは、現代で言うところの「ソフトパワー戦略」であり、加賀藩の華麗な文化が形成される直接的な契機となった。
利常は、京都など中央の先進地から名工や文化人を積極的に招聘し 42 、茶道、能楽、そして九谷焼や加賀友禅といった美術工芸を強力に奨励した。特に茶の湯への傾倒は著しく、裏千家を創設した千仙叟宗室を茶道奉行として召し抱えるなど、藩を挙げてその普及と深化に努めた 32 。
茶の湯の隆盛は、必然的に茶菓子の需要を爆発的に増大させ、その質の向上を促した。藩は城下に御用菓子司を設け、職人たちに高度な菓子作りを競わせたのである 32 。寛永2年(1625年)創業の老舗・森八は、利常の命により、和三盆糖と米粉を用いた落雁の最高峰「長生殿」を創り出したと伝えられており、藩主の庇護のもとで数々の名菓が誕生したことを物語っている 44 。
こうして発展した金沢の菓子文化は、京都の公家文化が持つ洗練された美意識の強い影響を受けつつも 31 、そこに加賀百万石の武家文化らしい豪華絢爛さや力強さを加味した、独自の様式を確立していった。
「寿煎餅」は、まさにこの文化的交差点に咲いた一輪の花であると言える。戦国時代に培われた儀礼を重んじる武家の精神と、乱世の中で育まれた長寿や繁栄への切なる願い。それらが、泰平の世の経済的繁栄と、茶の湯によって極限まで高められた美意識、そして京都から移植された高度な製菓技術と融合した。この歴史的必然性なくして、「寿煎餅」の誕生を語ることはできないのである。
本報告書における多角的な調査の結果、「寿煎餅」そのものが戦国時代に存在した可能性は、物質的、技術的、経済的、そして文化史的観点から総合的に判断して、極めて低いと結論付けられる。それは、戦国の記憶が遠のき、加賀百万石の文化が爛熟期を迎えた江戸時代の泰平が生んだ、優美な結晶である。
しかし、この菓子の歴史的価値は、その成立年代の特定に留まるものではない。戦国時代という視座から「寿煎餅」を捉え直すとき、我々はその「不在」の向こうに、壮大な歴史の連続性と変容の物語を読み解くことができる。
第一に、「寿煎餅」を形作る精神的・象徴的要素は、戦国時代にその起源や重要性を見出すことができる。
最終的に、「寿煎餅」は、戦国時代の記憶と価値観を精神的な「遺伝子」として内包しつつ、江戸時代の泰平と加賀藩の特殊な文化的土壌という「母体」の中で育まれた、歴史の産物であると結論付けられる。したがって、戦国時代という視点でこの菓子を考察する営みは、単にその物理的な存在の有無を確認する作業ではない。それは、一つの文化がいかにして時代の荒波を越え、記憶を継承し、そして新たな価値として生まれ変わるかという、文化のダイナミズムそのものを解き明かすことに他ならないのである。