尻張釜は、千利休が好み、辻与次郎が作した茶湯釜。胴下部が張り出し、安定感ある重厚な形が特徴。戦国時代の美意識と権力を映し、わび茶の精神を体現する名品。
茶の湯釜は、単に湯を沸かすための道具ではない。特に、価値観が激しく揺れ動き、新たな文化が勃興した戦国・桃山時代において、茶釜は茶室の主座に据えられ、亭主の美意識、ひいては時代の精神性を雄弁に物語る器物であった 1 。千利休が残したとされる『利休百首』には、「釜ひとつあれば茶の湯はなるものを、数の道具を持つは愚かな」という一首があり、茶釜が茶事においていかに中心的で本質的な存在であったかを物語っている 2 。
本報告書は、茶湯釜の一種である「尻張釜(しりはりがま)」を主題とする。この釜は、茶の湯を大成させた千利休が好み、豊臣秀吉から「天下一」の称号を許された釜師・辻与次郎が作したと伝えられる、桃山時代の茶の湯を象徴する名品の一つである 3 。本報告書では、この尻張釜という一つの「モノ」を基軸に、その造形的な特質、作者である辻与次郎の革新性、そしてそれが生まれた戦国・桃山という激動の時代背景を重層的に分析する。これにより、尻張釜が単なる過去の工芸品に留まらず、いかにして時代の美意識、思想、さらには政治的力学までもが凝縮された文化遺産となったのか、その豊かな歴史的・文化的意味を解き明かすことを目的とする。
尻張釜の最も顕著な特徴は、その名称が示す通り、釜の胴の下部、すなわち「尻」が外側へと豊かに、そして力強く張り出した器形にある 5 。この低重心で安定感に満ちたフォルムは、茶室という静謐な空間において、視覚的な落ち着きと揺るぎない重厚感をもたらす 3 。
この釜は「障泥釜(あおりがま)」という別名でも知られる 5 。障泥とは、馬具の一種で、騎乗の際に馬の脇腹を泥はねから守るために鞍の両脇に垂らす革製の覆いを指す。尻張釜を横から見た際の、胴から裾にかけての独特の曲線が、この障泥の形状に似ていることからこの名が付けられたとされ、その造形的な特徴を的確に捉えた呼称と言える 6 。
細部を見ると、口造り(くちづくり)は、縁が一段高く立ち上がった「甑口(こしきぐち)」の作例が多く見られる 7 。また、釜を炉や風炉から上げ下ろしする際に金属製の鐶(かん)を通すための耳である「鐶付(かんつき)」には、多くの場合、鋭く力強い造形の「鬼面(きめん)」が配される。これは利休が好んだ釜に共通する特徴の一つである 8 。
尻張釜の歴史的・美学的な位置づけを理解するためには、それ以前に茶の湯釜の二大産地として名を馳せた芦屋釜、天命釜との比較が不可欠である。
**芦屋釜(あしやがま)**は筑前国芦屋津(現在の福岡県芦屋町)で生産され、鎌倉時代に創始されたとされる 6 。その特徴は、端正で均整の取れた「真形(しんなり)」と呼ばれる器形、そして何よりも滑らかで艶のある美しい鋳肌、いわゆる「絹肌(きぬはだ)」にある 10 。さらに、その優美な肌には、風景や動植物などの繊細な文様が鋳出されており、極めて格調高い美しさを持つ 12 。現存する重要文化財指定の茶の湯釜九点のうち、八点を芦屋釜が占めるという事実が、その歴史的評価の高さを物語っている 14 。
一方、下野国佐野天命(現在の栃木県佐野市)で生産された**天命釜(てんみょうがま)**は、芦屋釜と並び称されながらも、その趣は対照的である 10 。天命釜は文様を持つものが少なく、ざらりとした質感の荒々しい鋳肌、すなわち「荒肌(あらはだ)」を最大の特徴とする 11 。その飾り気のない素朴で侘(わ)びた風情は、室町時代中期に村田珠光が禅の精神を取り入れて創始した「わび茶」の美意識と共鳴し、茶人たちに深く愛好されるようになった 10 。
この二つの大きな潮流の中で、室町時代末期から京都で「 京釜(きょうがま) 」が台頭する。京都の三条釜座(かまんざ)には釜師の同業者組合が形成され、茶人の注文に応じて好みの釜を制作する体制が整えられた 16 。芦屋や天命といった遠隔地の産地とは異なり、京釜は注文主である茶人と釜師が密接に連携し、その美意識をダイレクトに反映させることが可能であった 16 。
尻張釜は、まさにこの京釜の潮流を代表する存在である。それは、地方の伝統的な窯で育まれた土着的な美意識とは一線を画す。天命釜が持つ「侘び」の精神性、すなわち素朴さや荒々しさといった美の系譜を受け継ぎながらも、それを当代随一の茶人である千利休という類稀なるクライアントの具体的なディレクションのもと、文化の中心地である京都の洗練された工房と技術で「再解釈」し、具現化したものである。したがって、尻張釜は単なる天命釜の模倣ではない。「侘び」という抽象的な理念を、京の技術と感性で昇華させた、新しい時代の都市型工芸の象徴と位置づけることができる。
特徴項目 |
芦屋釜 |
天命釜 |
京釜(辻与次郎作を代表として) |
生産地 |
筑前国芦屋(福岡県) |
下野国天命(栃木県) |
山城国京都(京都府) |
主な時代 |
鎌倉時代~室町時代 |
鎌倉時代~江戸時代初期 |
室町時代末期~江戸時代 |
釜肌 |
滑らかで光沢のある「絹肌」 |
ざらつきのある「荒肌」「砂肌」 |
意図的に作られた「荒肌」「岩肌」 |
文様 |
優美で精緻な文様が特徴 |
無文が基本 |
無文を基本とするが、雲龍などもある |
形状 |
端正な「真形」が典型的 |
肩衝、面取など力強い造形が多い |
利休の好みを反映した多様な形状(尻張、阿弥陀堂など) |
制作スタイル |
伝統的な様式に基づく生産 |
産地の特性を生かした生産 |
茶人の注文に応じた制作(オーダーメイド) |
茶道史上の位置 |
唐物中心の書院の茶で珍重された |
わび茶の隆盛と共に評価が高まった |
わび茶の完成期を象徴する釜 |
尻張釜の作者とされる辻与次郎(生没年不詳)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した、日本工芸史上屈指の名工である 4 。その出自は近江国栗太郡辻村(現在の滋賀県栗東市辻)とされ、後に京都へ上り、三条釜座の名工・西村道仁に師事したと伝えられる 4 。
彼の名を不朽のものとしたのは、茶の湯の大成者・千利休の釜師として、その独特の美意識を完璧に理解し、形にする卓越した技量を持っていたからに他ならない 2 。利休が好んだ阿弥陀堂釜、雲龍釜、そして尻張釜など、数々の名品を世に送り出した功績により、時の天下人・豊臣秀吉から「天下一」の称号を許された 3 。これは、彼の技術が単なる職人仕事の域を超え、当代の文化を象徴する最高位のものとして公に認められたことを意味する。
彼の確実な在銘作とされる茶釜は現存しないものの、京都・豊国神社の慶長5年(1600)銘の鉄灯籠や、秋田・西善寺の慶長15年(1610)銘の銅鐘などが存在し、少なくとも17世紀初頭まで活動していたことが確認できる 4 。
辻与次郎の功績は、優れた造形感覚のみに留まらない。彼は、わび茶の美学を釜の上に表現するため、革新的な鋳造・仕上げ技法を創案したと伝えられている 4 。
**「焼抜き(やきぬき)」**は、その代表的な技法である。これは、鋳上がった釜を再び炭火の中で高温に熱し、鋳肌を「一皮むいて」焼き締める仕上げ技法を指す 4 。この工程により、鉄の表面に緻密な酸化被膜が形成され、錆を防ぐという実用的な効果が生まれる 19 。それと同時に、釜肌には「むっちりとした」と表現されるような、深く独特の味わいと風合いがもたらされた 5 。
もう一つの重要な技法が**「羽落ち(はおち)」**である 4 。茶釜の胴の中ほどには、古くは風炉の縁に掛けるための鍔状の「羽」が設けられることがあった。「羽落ち」とは、この羽を鋳造後に意図的に打ち欠き、あたかも長年の使用によって摩耗し、欠け落ちたかのような風情を人為的に作り出す技法である 21 。これは、新品の釜に「古び」や「寂び」の景色を与えるためのものであり、完全なものに敢えて「不足」や「傷」を加えることで新たな美を創出するという、わび茶の美学の根幹に関わる、極めて大胆かつ革新的な発想であった 22 。
辻与次郎は尻張釜の他にも、千利休の多様な好みに応じて、様々な形状の釜を制作した 8 。阿弥陀堂釜、雲龍釜、丸釜、四方釜などがその代表例として知られている 3 。
ここで興味深いのは、これらの釜の作者を巡る記録の不一致である。多くの資料がこれらの釜を「辻与次郎作」とする一方で、『釜師由来』や『西京釜師系図』といった史料には、より具体的な分業体制が記されている。例えば、「尻張釜は(与次郎の弟子または兄弟とされる)弥四郎作」「丸釜は藤左衛門作」といった記述が見られるのである 17 。
この矛盾は、単にどちらかの史料が誤っていると断じるのではなく、当時の工芸品生産のあり方を考察する上で重要な視座を提供する。すなわち、「辻与次郎作」という呼称は、必ずしも与次郎という一個人の手による制作物のみを指すのではなく、彼を頂点とし、利休の高度な美意識を共有する「辻与次郎工房」とも言うべき制作集団が生み出した作品群の総称、あるいはブランド名として機能していた可能性が考えられる。与次郎が全体の監修やデザインを行うプロデューサー的な役割を担い、弥四郎や藤左衛門といった優れた職人たちが実際の制作を手掛けていたのかもしれない。この解釈は、桃山時代の「天下一」という称号が、個人の技量だけでなく、工房全体の技術力と生産体制に対する評価であった可能性を示唆している。
釜の名称 |
形状の特徴 |
釜肌の特徴 |
主な鐶付 |
史料上の作者(異説) |
尻張釜 |
胴の下部が豊かに張り出す。安定感のある重厚な形。 |
岩肌風。初期は比較的滑らかとされる。 |
鬼面 |
与次郎、または弥四郎作 3 |
阿弥陀堂釜 |
尻張形を基本とし、肩がやや角張る。繰口。 |
「かつかつ」と荒らされた荒肌が特徴。 |
鬼面 |
与次郎作 2 |
雲龍釜 |
皆口の筒釜。胴に雲龍文を鋳出す。大中小あり。 |
文様があるが、地肌は荒肌。 |
鬼面など |
与次郎作 9 |
丸釜 |
シンプルで自然な丸形。 |
無地の荒肌。 |
鬼面 |
与次郎、または藤左衛門作 5 |
四方釜 |
四角形の釜。 |
無地の荒肌。 |
鬼面 |
与次郎作 5 |
尻張釜が生まれた背景には、日本の美意識における一大転換があった。室町時代までの茶の湯は、将軍家や大名などの上流階級が中心となり、中国渡来の豪華絢爛な美術工芸品、すなわち「唐物(からもの)」を飾り立てて楽しむ「書院の茶」が主流であった 24 。
この風潮に対し、異を唱えたのが奈良の僧・村田珠光である。珠光は、茶の湯に禅の精神を導入し、華美な道具や遊興的な要素を排して、精神的な交流を重んじる茶のあり方を追求した 25 。彼は、それまで顧みられなかった信楽焼や備前焼といった、素朴で不完全さを持つ国産の雑器(「和物(わもの)」)の中に、新たな美の価値を見出した 25 。
この珠光の思想は、堺の豪商・武野紹鴎を経て、千利休によって「わび茶」として大成される 25 。利休は、豪華な唐物を排し、簡素で静寂な中にこそ見出される深い精神性を「わび」の美として確立した。自ら創意工夫を凝らした楽茶碗や、自然の竹を削り出しただけの茶杓など、作為を極限まで削ぎ落とした道具を重用し、茶の湯における価値観を根底から覆したのである 25 。
この「唐物から和物へ」という大きな価値観の転換において、茶釜は特殊な位置を占めていた。茶碗や茶入、天目台などが中国から舶載されたものであるのに対し、湯を沸かす釜は、古くから日本国内で生産されてきた「生粋の和物」であった 22 。それゆえに、わび茶という日本独自の美意識を表現するための最も重要な媒体として、釜に新たな造形と肌合いが求められるのは、必然的な流れであった。
戦国時代、茶の湯は単なる文化的な趣味に留まらず、極めて高度な政治的ツールとして機能した。特に、天下統一を推し進めた織田信長は、茶の湯を巧みに政治利用したことで知られる 28 。
信長は、各地の武将や豪商が所有する名物の茶道具を権力によって収集する「名物狩り」を強行する一方、それらを自身の茶会で披露することで、自らの権威を誇示した 29 。さらに、家臣に対しては茶会を催すことを原則として禁じ、大きな手柄を立てた者への最高の恩賞として、名物茶器を下賜すると共に茶会の開催を許可した 29 。これにより、名物茶器は一国一城にも匹敵するほどの価値を持つ「政治的な調度品」となり、茶の湯は織田政権におけるステータスシンボルとなったのである 30 。
この路線は、豊臣秀吉にも継承された。秀吉は、千利休を自らの茶頭(さどう)として重用し、黄金の茶室や北野大茶湯といった壮大なイベントを通じて、茶の湯を自らの権威と財力を天下に示すための装置として最大限に活用した 28 。
このような時代背景にあって、尻張釜が持つ意味は極めて大きい。それは、天下人・秀吉の側近である当代随一の茶頭・千利休が、同じく秀吉から「天下一」の称号を認められた釜師・辻与次郎に作らせた釜である。つまり、尻張釜は、時の政治的権威と文化的権威が交差する一点に存在する、極めて価値の高い象徴的な器物であったと言える。
利休と与次郎の関係性を象徴する逸話として、利休が釜の肌について与次郎に具体的な指示を出したという話が、複数の記録で伝えられている。大西清右衛門美術館に伝わる話では、利休は与次郎に「地をくわつくわつとあらし候へ」(釜の肌を荒々しくしてくれ)と命じたとされ 2 、また別の伝承では「肌をかつかつと荒らせ」と指導したともいう 32 。
この言葉は、わび茶の美学の核心に触れる、極めて重要な指示である。それまでの芦屋釜に代表されるような、滑らかで均整の取れた肌を良しとする伝統的な価値観からの、完全な決別を意味するからだ。利休が求めた「荒れ」は、自然に朽ちたり、技術が未熟であることによって生じたりしたものではない。それは、天下一と称された最高の技術を持つ釜師が、当代随一の美意識を持つ茶人の思想に基づき、意図的に、そして計算し尽くして作り出した「景色」であった 2 。この作為的な「荒れ」は、鉄という素材が持つ本来の力強さや質感を露わにし、不完全さの中にこそ宿る深い美を見出そうとする、わび茶の精神そのものであった。
尻張釜の重厚で安定したフォルムは、茶室という精神的な空間において、動かざる中心としての静かで力強い存在感を放つ 3 。それは、下剋上が常であった戦国の世の喧騒とは対極にある、不動の精神性を象徴しているかのようである。また、華やかな文様を排した無地の肌は、鑑賞者の意識を、装飾ではなく、釜の造形そのもの、鋳肌の微細な表情、そしてやがて聞こえてくる湯の沸く音へと向けさせる 8 。余計なものを削ぎ落とすことで、かえって本質的な美が浮かび上がるという、わびの思想を見事に体現している。
しかし、ここで一つの重要な史実を考慮に入れる必要がある。通説では「利休好みの釜=荒肌」という図式で語られがちだが、表千家に伝わる記録には、利休の孫である宗旦の言として、驚くべき一文が残されている。「(以前につくった) 尻張り釜は地肌がなめらかだったので、阿弥陀堂は地を荒らすよう利休は命じた のである」 33 。
この記述は、利休の釜に対する美意識の変遷を明らかにする、決定的な証言である。つまり、彼の好みは静的なものではなく、 「比較的滑らかな肌(尻張釜の時代)」から、より「荒々しい肌(阿弥陀堂釜の時代)」へと、時間と共に深化・変化 していったことを示唆している。この視点に立つならば、尻張釜は利休のわび茶美学の最終的な完成形ではなく、その途上にある重要な一里塚、記念碑的な作品と位置づけられる。まず、その重厚で力強い「形」において旧来の釜と一線を画し、次いで、その「肌」のあり方を巡って、さらなる革新(阿弥陀堂釜)へと向かう、その転換点に立つ存在なのである。この動的なプロセスの中に尻張釜を置くことで、その歴史的意義はより立体的で、ドラマティックなものとして理解される。それは静的な完成品ではなく、利休という一人の偉大な思想家の、思索のプロセスの証人となるのである。
茶の湯において、釜は視覚的な存在であるだけでなく、聴覚を通じて茶室の空間を演出する重要な役割を担う。釜の湯が沸く音は「釜鳴り(かまなり)」と称され、茶事の風情を高める要素として古くから愛されてきた 34 。
湯が沸く過程で生じる音は、その様相によって詩的な名称で呼ばれ、繊細に聞き分けられた。沸き始めの微かな音を「蚯音(きゅうおん)」、小さな泡が立つ様を「蟹眼(かいがん)」、泡が連なるのを「連珠(れんじゅ)」、大きな泡が立つと「魚目(ぎょもく)」と呼び、やがて湯が十分に沸くと、釜全体が「シュンシュン」と鳴り響く 35 。この音を、松林を風が吹き抜ける音にたとえて「松風(しょうふう)」と呼ぶ 36 。
静寂に包まれた茶室に響き渡るこの「松風」の音は、客人の心を落ち着かせ、非日常的な空間へと誘う。釜の鉄の質や厚み、形状、そして炉にかけられた炭の火加減によってその音色は微妙に変化し、亭主と客人はその音に耳を澄ませることで、精神的な一体感を深めていったのである 34 。
茶釜が茶の湯にもたらす影響は、音だけに留まらない。釜は、点てられる抹茶の味そのものを左右する、決定的な役割を果たす。鉄製の釜で沸かした湯は、味が「まろやか」になり、口当たりが柔らかくなると言われる 39 。
この現象には科学的な根拠がある。一つには、水道水に含まれる塩素(カルキ)が、鉄釜で沸かす過程で分解・除去されること。そしてより重要なのは、釜の鉄肌から、人体に吸収されやすい二価鉄を中心とした微量の鉄イオンが湯の中に溶け出すことである 42 。この鉄分を含んだ湯は、水中のカルシウムやマグネシウムなどのミネラル分と反応し、いわゆる軟水に近い状態になる。
このまろやかで角の取れた湯は、抹茶の繊細な風味を最大限に引き出す。抹茶の持つ渋みや苦みを程よく和らげ、その奥にある甘みや旨味をより一層際立たせる効果があるのだ 39 。優れた釜は、ただ湯を沸かすだけでなく、最高の茶を点てるための最高の「水」を育む、能動的な道具なのである。江戸時代中後期の名のある釜師の作や、古い芦屋、天命の釜で沸かした湯は、茶の味を格段に引き立てると評価されている 3 。
尻張釜が実際にどのような茶会で、どのような道具組の中で用いられたのかを知るためには、『松屋会記』や津田宗及の『天王寺屋会記』といった、同時代の茶人たちが残した茶会記が極めて重要な一次史料となる 21 。これらの記録には、茶会で用いられた一つ一つの道具の名称、作者、由来などが詳細に記されており、桃山時代の茶の湯の実態を解明する上で不可欠である。これらの史料を丹念に読み解くことで、尻張釜の具体的な使用例や、当時の茶人たちによる評価をさらに深く探求することが、今後の研究課題として期待される。
辻与次郎の真作とされる尻張釜は、今日、いくつかの美術館や個人蔵として大切に受け継がれている。これらの現存する名品は、桃山時代の美意識を今に伝える貴重な遺産である。
与次郎と利休が共に確立したわび茶の釜の様式は、後代の釜師たちに絶大な影響を与えた。特に、千家の茶道具制作を担う十の職家「千家十職(せんけじっしょく)」の一つである釜師・大西家は、与次郎の釜を深く研究し、その精神性を受け継ぎながら、今日に至るまで釜を鋳造し続けている 2 。江戸時代を通じて、利休が好んだ釜の「写し(うつし)」が数多く制作されたが、中でも尻張釜はその力強い造形美から人気の釜形として定着し、多くの釜師によって作り継がれていった 45 。
所蔵館/所蔵者 |
名称・銘 |
寸法(cm) |
特徴・備考 |
典拠 |
本間美術館 |
尻張釜 銘 初音 |
高20.0, 口径13.1, 胴径29.5 |
岩膚風の肌と鬼面の鐶付が特徴。素朴で味わい深い。 |
46 |
和泉市久保惣記念美術館 |
与次郎 尻張釜 |
高20.2, 径25.8 |
桃山時代の作として伝わる。 |
47 |
拾穂園 |
尻張釜 |
高20.0, 口径13.0, 胴径29.5 |
炉壇ぎりぎりの大ぶりな作。約10リットルの大容量。 |
3 |
尻張釜は、単なる桃山時代の茶道具の一つとして語ることはできない。それは、千利休という稀代の茶人が提示した革新的な美意識と、辻与次郎という天下一の釜師の卓越した技術とが出会うことで生まれた、時代の精神性の結晶である。
その重厚な形は、乱世にあって不動の精神性を求めんとする気概を映し、意図的に作り出された肌合いは、完全さよりも不完全さの中に真の美を見出す「わび」の思想を物語る。そして、その作者を巡る複雑な伝承は、個人の才能を超えた工房という制作体制の可能性を示唆する。
政治の道具であり、至高の芸術品であり、そして茶室という精神的な空間を完成させるための装置でもあった尻張釜。この一つの鉄の器は、戦国・桃山という激動の時代が生んだ文化の豊かさと、その思想の奥行きを、四百年以上の時を超えて我々に伝え続けている。まさしく、日本の文化史において不朽の価値を持つ、類稀なる遺産であると言えるだろう。