『平法口決』は、中条流の「不争」の哲学を説く秘伝書。創始者中条長秀は武術を争いのための「兵法」ではなく、平穏無事に生きるための「平法」と捉えた。
日本の武術史において、その技術体系と思想を記した伝書は数多く存在する。その多くは、敵を制し、戦いに勝利するための技術、すなわち「兵法」として語られる。しかし、室町時代に創始された中条流の秘伝書『平法口決』は、その冒頭から一線を画す。本報告書は、ご依頼者が提示された「中条流の秘伝書」という認識を起点とし、この『平法口決』が単なる技術伝書に留まらず、流派の思想的根幹を成す哲学書であることを論証する。武術を「兵法」、すなわち争いのための技術と捉えるのが一般的である中、なぜ中条流はあえて「平」の字を冠したのか。この根源的な問いの探求は、戦国という動乱の時代における武士の生存戦略と精神性を解き明かす鍵となる 1 。
『平法口決』に記された中条流の核心的理念は、以下の文言に集約される。
「平法とは平の字 たひらか又はひとしと読んで夢想剣に通ずる也。此の心何といふなれば平らかに一生事なきを以って第一とする也。戦を好むは道にあらず。やむことを得ず時の太刀の手たるべき也。この教えを知らずして此の手にほこらば命を捨る本たるべし」 1
この一節は、中条流が目指すものが、単なる剣の技量の向上ではなく、争いを避け、平穏無事に生涯を終えること、すなわち「不争」にあることを明確に示している。剣の技は、あくまで「やむことを得ず」して用いる最後の手段であり、その技量に驕り高ぶることは、かえって命を失う元凶になると戒めている。
この「平法」の理念は、単なる理想論ではなく、動乱の時代における高度な生存戦略であったと解釈できる。創始者である中条兵庫頭長秀は、単なる一介の剣客ではなく、室町幕府の評定衆や伊賀守護といった要職を歴任した高級官僚であった 2 。彼の武術観は、武力だけでなく高度な政治的判断力が求められるその立場を色濃く反映している。下剋上が常態化し、武芸の達人であればあるほど挑戦や暗殺の標的となりやすかった戦国時代において、この「不争」の理念は、無用な争いを避けるための大義名分として機能した。後に中条流を継承した富田勢源が、他流試合の申し込みに対し、流儀の掟を盾に一度は断ろうとした逸話は、この理念が実践的な処世術として活用されていたことを示している 6 。
この思想は、当時の武士階級に深く浸透していた禅宗の「無心」や「不執着」といった思想とも共鳴するものであったと考えられる 7 。己の技に固執せず、争いを好まないという姿勢は、自己の生命と家の安泰、そして社会的地位を保全するための、極めて洗練されたリスク管理術であった。結論として、「平法」とは、武技の究極の目的を「武技を行使せずに済むこと」に置く、逆説的でありながらも、極めて実践的な武士の哲学だったのである。
中条流の創始者、中条兵庫頭長秀(ちゅうじょうひょうごのかみながひで)は、鎌倉時代末期から南北朝時代(室町時代初期)にかけて活躍した人物である 2 。彼は単なる武芸者ではなく、当時の政治の中枢に関わるエリート武士であった。
中条氏は武蔵七党の一つ、横山党の流れを汲む名門武家であり、鎌倉幕府においては評定衆を務め、尾張国の守護職を世襲した 4 。長秀自身も、三河国挙母城主として勢力を持ち、室町幕府成立後もその権勢を維持した 2 。彼は伊賀守護職、恩賞方、寺社造営奉行、そして評定衆といった幕府の要職を歴任しており、当時の政治・社会において重要な役割を担っていたことがうかがえる 2 。
長秀の名声を不動のものとしたのが、室町幕府三代将軍・足利義満の剣術指南役を務めたという伝承である 2 。この伝承は、中条流が将軍家お墨付きの武術であることを示し、その後の流派の権威を確立する上で極めて重要な役割を果たした。幕府の中枢で活躍した長秀の経歴を考えれば、将軍に武技を指南する機会があった可能性は十分に考えられる。
長秀の人物像を特徴づけるもう一つの側面は、優れた文化人であったことである。彼は武芸のみならず和歌の道にも深く通じており、歌人・頓阿の高弟としても知られていた 3 。その和歌は『新千載和歌集』、『新拾遺和歌集』、『新後拾遺和歌集』といった勅撰和歌集に計10首が採録されており、当時の文化人として高い評価を得ていたことがわかる 2 。この文武両道にわたる深い素養こそが、単なる殺人術ではない、「平法」という深遠な理念を生み出す土壌となったと考察される。武と文、実務と教養を兼ね備えた人物であったからこそ、彼は武術の本質を「争わないこと」に見出すことができたのであろう。
中条流が成立した南北朝から室町時代初期は、日本史上でも稀に見る混乱期であった 11 。絶え間ない戦乱の中で、個々の武士が持つ戦闘技術は、より実践的かつ体系的な教授法を持つ「流派」として整理・確立されていく。中条流は、こうした武術流派の黎明期に誕生した、最初期の剣術流派の一つと位置づけられる。
中条流の技術的源流については、古くからの通説と、近年の研究による異説が存在する。
中条流は、その後の剣術流派に多大な影響を与えた、いくつかの際立った特徴を持っていた。
室町時代に京周辺で創始された中条流は、戦国時代に入ると越前の地で新たな展開を迎える。戦国大名・朝倉氏に仕えた富田一族によって継承され、その武名は全国に轟くこととなった。しかし、その名声の影で、流派の呼称を巡る複雑な問題も生じていた。
中条長秀から数代を経た後、流派の正統は甲斐氏、大橋氏を経て、越前の戦国大名・朝倉氏の家臣であった富田九郎左衛門長家(とだくろうざえもんながいえ)に継承された 12 。これ以降、中条流は富田家によって代々受け継がれ、発展していくことになる。
富田家は、長家の子・景家、そして景家の子である富田勢源(とだせいげん)、景政(かげまさ)、さらに景政の養子となった富田重政(しげまさ)といった、傑出した達人を次々と輩出した 12 。特に、盲目でありながら小太刀の名手であった勢源や、「名人越後」と称された重政の名声は絶大であり、彼ら富田一門の武名は全国に知れ渡った。その結果、世間一般では、この流派を「中条流」ではなく、その最も著名な使い手である富田一族の名を冠して「富田流」と呼ぶようになったのである 12 。
この呼称の変化は、武術流派のアイデンティティがどのように形成されるかを示す興味深い事例である。富田家自身の内部的な認識は、後述する一次史料(「家ノ書」)によれば、一貫して「中条流」であった 13 。実際に加賀藩主へ発行された免許状にも「中条流免許」と明記されている 13 。しかし、外部社会からの認識は、最も輝かしい実践者であった富田一族の名を冠した「富田流」であった。これは、流派のブランドが、師弟の系譜という内部的な正統性だけでなく、その最も優れた実践者の名声や、彼らが仕えた有力な後援者(朝倉氏、後の前田氏)の威光によって形成されたことを意味している。
この社会的な認識を決定的に固定化させたのが、江戸時代中期に編纂された武芸書『本朝武芸小伝』(1716年)である。この書物が、中条流を源流とし、富田流をその分派として記述したことにより、「富田流」という名称が歴史的に広く定着するに至った 13 。この事実は、武術流派の歴史が、単なる師弟の系譜(内部史)だけでなく、社会的な名声や評判、後援者との関係、そして後世の歴史記述(外部史)によって、いかに重層的に構築されていくかを如実に物語っている。
「富田流」の名を世に知らしめた最大の功労者は、富田勢源であろう。彼は越前朝倉氏の剣術指南役を務め、その武名は広く知られていた 6 。
彼の人物像を象徴するのが、後年に眼病を患い、ほぼ盲目となりながらも、その剣技は衰えなかったという伝承である。永禄3年(1560年)、美濃の斎藤義龍の強い要請により、神道流の達人・梅津某と立ち会うことになった。この時、相手が三尺四寸(約103cm)の長大な木刀を構えたのに対し、勢源はわずか一尺二寸(約36cm)の薪を手に取り、一撃のもとに相手を打ち倒したと伝えられている 6 。この逸話は、中条流が特徴とする短い武器で長い武器を制する技術の精髄を示すと同時に、高価な名刀に頼るのではなく、身の回りの物でもって敵を制する「平法」の思想を体現している。
また、この試合に際し、勢源は当初「中条流は他流試合を禁じられている」として、一度は固辞しようとした 6 。これは、単なる言い訳ではなく、『平法口決』に記された「不争」の理念を、戦国大名の厳命という極限状況下でさえ実践しようとした具体例として高く評価できる。
勢源は指導者としても優れており、その門下からは鐘捲自斎(かねまきじさい)や東軍流の祖・川崎鑰之助(かわさきかぎのすけ)といった、後世に名を残す多くの剣客が輩出された 6 。
栄華を誇った朝倉氏と、その庇護下にあった富田一族にも、戦国乱世の荒波が容赦なく押し寄せる。天正元年(1573年)、織田信長による越前侵攻によって、主家である朝倉氏は滅亡した 21 。これは、富田一族と彼らが守り伝えてきた中条流にとって、最大の存亡の危機であった。
主家を失った武芸者一族が、いかにして新たな仕官先を見出し、流派の命脈を保っていったのか。富田一族は、朝倉氏滅亡後、織田家の重臣であった前田利家に仕えることで、この危機を乗り越えた 21 。この過程は、特定の主君への忠誠だけでなく、自らの武芸という「専門技術」を資本として、新たな権力者と関係を構築していく戦国武芸者の現実的な処世術を如実に物語っている。主家の滅亡は、流派にとって断絶の危機であると同時に、より大きな権力と結びつき、さらなる発展を遂げる転機ともなり得たのである 24 。
朝倉氏の滅亡という危機を乗り越えた中条流は、富田重政という傑出した武将の登場により、加賀百万石を誇る前田家のもとで、その地位を盤石なものとしていく。これは、戦国時代の武術が、近世大名の藩体制下で「公的な資産」へと転換していく象徴的な過程であった。
富田重政は、もともと山崎景邦の子として生まれたが、朝倉氏滅亡後、父と共に織田家重臣・前田利家に仕えた 21 。その後、中条流の継承者であった富田景政の嫡子が戦死したため、景政の婿養子となり、富田の姓と中条流の正統を継承することになった 23 。
重政は、単なる剣術家ではなかった。彼は前田家の主要な武将として、数々の合戦で目覚ましい武功を挙げた。天正12年(1584年)の末森城の戦いでは一番槍の功名を立てて利家から激賞され 21 、その後の小田原征伐、関ヶ原の戦いにおける北陸での戦役、そして隠居後でありながら参陣した大坂の陣に至るまで、常に前田軍の中核として戦った 25 。
これらの軍功により、重政は加増を重ね、最終的には1万3670石という、一介の家臣としては破格の知行を得るに至った 21 。これは、1万石以上を大名と称した当時において、まさに大名に匹敵する待遇であった。将軍家剣術指南役として絶大な権勢を誇った柳生宗矩でさえ1万2500石であったことを考えれば、重政の待遇がいかに異例であったかがわかる 21 。この事実は、重政が単なる「剣術師範」としてではなく、藩の軍事と政治を担う方面指揮官、すなわち「重臣」として高く評価されていたことを明確に示している。彼の官位が越後守であったことから「名人越後」と称され、その武名は全国に轟いた 21 。
重政の器の大きさを示す逸話も数多く残されている。ある時、主君である前田利常から「無刀取りはできるか」と挑発的に問われた際、重政は全く動じず、機転を利かせて利常の手から刀を奪い取り、「これが無刀取りにござります」と述べたという 21 。また、豊臣秀吉が催した醍醐の花見の席で、役人から無礼な扱いを受けても毅然とした態度を崩さず、かえって秀吉から「壮士なり」と称賛されたという逸話も伝わっている 21 。これらの逸話は、彼の卓越した剣技と、いかなる状況でも臆することのない胆力、そして武人としての高い矜持を物語っている。
富田重政の活躍により、中条流は加賀藩に深く根を下ろすことになった。これは、戦国武芸者の生き残りと、武術が藩の「公的な資産」へと転換する過程を象徴している。
朝倉氏滅亡という危機を、前田家という新たな有力な後援者を見出すことで乗り越えた中条流は、重政が新主君に対して剣技だけでなく、合戦における具体的な「武功」によってその価値を証明したことで、その地位を不動のものとした。彼の破格の待遇は、剣術師範としてではなく、方面指揮官としての功績に対するものであったが、その結果として、彼が継承する中条流もまた、藩から篤い保護を受けることになったのである。
山嵜正美氏の研究によれば、加賀藩では富田盛源の系統を引き継いだ関家や矢野家が、重政の出身である山崎家と共に藩校の師範を務めており、藩主に与えた免許も一貫して「中条流免許」であった 13 。これは、中条流が加賀藩の公式な武術として、藩士を教育するための藩校「経武館」において教授されていたことを示唆している 28 。一個人の武技であったものが、藩士を育成するための「公的な武術」へとその性格を変え、藩の武芸奨励という体制に組み込まれていく。これは、戦国時代の武術が、泰平の世となった江戸時代の藩体制下でどのように変容し、存続していったかを示す典型的な事例と言えるだろう。
加賀藩の藩校「経武館」では、中条流以外にも多様な武術流派が教えられていた。これは、藩として武芸全般を奨励し、藩士に幅広い武術を修めさせようという意図があったことを示している。
流派 (Ryūha) |
武術種別 (Martial Art Type) |
主な師範家(推定) (Main Instructor Families) |
備考 (Notes) |
中条流 |
剣術、槍術 |
山崎家、関家、矢野家 |
藩主への免許状も発行された公式流派の一つ 13 。 |
無拍子流 |
柔術(和)、組討、棒術など総合武術 |
不明(複数の師範家が存在) |
経武館開校時の柔術・組討師範として採用された 30 。 |
心鏡流 |
薙刀術、鎖鎌術(草鎌) |
土方家 |
彦根藩から伝わり、経武館で教授された 31 。 |
民弥流 |
居合術 |
黒田家など |
富山藩および加賀藩で伝承された 32 。 |
袖岡流 |
棒術 |
水野家、池上家など |
無拍子流から派生した流派 33 。 |
この表は、中条流が大大名である加賀藩の公式な武術教育の中で、他の有力な流派と並んで重要な位置を占めていたことを示している。藩は特定の流派のみを優遇するのではなく、多様な武術を奨励することで、藩全体の武術水準の向上を図っていたと考えられる。
加賀藩で確固たる地位を築いた中条流は、その影響力を全国に広げ、多くの分派を生み出していく。特に、後の剣術界を二分するほどの勢力となった一刀流の源流となったことは、その歴史的重要性を物語っている。また、北国・弘前藩では独自の発展を遂げ、流派の多様性を示すことになった。
中条流の系譜から生まれた最も著名な流派が、伊藤一刀斎景久(いとういっとうさいかげひさ)が創始した一刀流である 34 。その誕生には、鐘捲自斎(かねまきじさい)という一人の剣豪が深く関わっている。
鐘捲自斎は、富田勢源(あるいは弟の景政)の門下で、山崎左近将監、長谷川宗喜と共に「富田の三剣」と称されたほどの達人であった 6 。彼は中条流を深く修めた後、自らの工夫を加えて鐘捲流(外他流とも)を創始したとされる 20 。
伊藤一刀斎は、この鐘捲自斎に師事し、中条流の奥義を継承したというのが最も広く知られた通説である 38 。一刀斎は師から学んだ技を基盤とし、さらに諸国を巡って修行を重ね、自らの体験と工夫を加えて、究極の一撃を意味する「一刀」の哲学を持つ一刀流を創始した 34 。
しかし、両者の関係は単純ではなく、伝承には錯綜が見られる。一刀斎が自斎の師であったとする説や、鐘捲自斎と(外田)一刀斎は同一人物であるという説も存在する 36 。この複雑な関係性の解明は今後の研究を待たねばならないが、いずれにせよ、中条流の卓越した技術体系と、それを継承した鐘捲自斎という天才剣士の存在なくして、一刀流の誕生はあり得なかったと言える。中条流の「平法」という不争の理念や、短い太刀を駆使する精緻な技術が、いかにして「一刀必殺」という異なる哲学へと昇華、あるいは変容したのかを考察することは、日本の剣術思想史における重要なテーマである。
中条流のもう一つの重要な伝播先が、本州北端の弘前藩である。この地では、中条流は「當田流」として独自の発展を遂げ、藩の武術文化の中核を担う存在となった。
當田流の伝承によれば、江戸の剣客であった富田甚五郎吉正が、慶安4年(1651年)に起きた由井正雪の乱に関与した疑いを避けるため、弘前藩へと移住したのが始まりとされる 42 。彼は弘前で「當田半兵衛吉正」と改名し、伝えてきた富田流(中条流)を「當田流」と改称して藩士に教授した 42 。
當田流は、その卓越した技術が認められ、やがて一刀流、卜傳流と並んで弘前藩の三大剣術流派の一つとして重用されるまでになった 42 。これは、一つの流派が特定の藩の武術文化の中核を成すに至った顕著な事例であり、藩の庇護のもとで安定した伝承が行われたことを示している。
弘前の當田流は、源流である中条流・富田流の古い形態を色濃く残していることで知られる。特に、形稽古(當田流では「死合の作法」と呼ぶ)において、打太刀が三尺を超える大太刀を用いるのに対し、仕太刀がそれより短い中太刀や小太刀で応じるという形式は、中条流以来の伝統を忠実に継承している 42 。また、「流水の如し」と評される、静かに相手に接近し一瞬で技を仕掛ける独特の体捌きも、近代剣道とは一線を画す古流の精髄を今に伝えている 45 。現在も剣術と棒術が青森県弘前市で保存・伝承されており、中条流の古態を知る上で極めて貴重な存在となっている 18 。
中条流の伝播は、加賀や弘前といった主要な拠点に留まらなかった。流派は全国各地に広がり、その過程で内容を多様化・専門化させていった。
ご依頼者が当初の認識として持たれていた「若狭・陸前」への伝承について、若狭藩の公式記録など直接的な一次史料の発見は困難である。しかし、間接的ながらも重要な手がかりが存在する。宮崎県高千穂地方に祭りの棒術として現存する「戸田當流」の系譜に、「仲村権内政行(若狭)」という人物の名が記されているのである 47 。この流派は富田勢源を遠祖としており、中条流の流れを汲むことは明らかである。この記述は、中条流系統の武術家が若狭に存在し、その技が遠く九州まで伝播した可能性を示す、極めて重要な傍証と言える。
この事実は、流派の伝播がその内容を多様化・専門化させるプロセスであったことを示唆している。元来、中条流は剣、槍、棒、小具足などを含む総合武術であった 13 。しかし、各地に伝播する過程で、弘前では剣術と棒術が 45 、宮崎では棒術が 47 、そして関東に伝わった戸田派武甲流では薙刀術が 48 、というように、特定の武器術に特化して伝承される傾向が見られる。
これは、伝播先の地域の武術的な需要や、技を伝えた師範の得意分野によって、流派の内容が取捨選択され、適応・変化した結果と考えられる。つまり、「流派」とは固定された不変のものではなく、時代や地域、人との関わりの中で絶えず再創造されていく、生きた伝統なのである。
中条流とその系統の歴史を正確に理解するためには、古くから伝わる伝承や逸話を無批判に受け入れるのではなく、史料に基づいた厳密な検証、すなわち「史料批判」の視点が不可欠である 49 。特に、江戸時代に成立した武芸書と、近年の一次史料研究との間には、看過できない相違が存在する。
享保元年(1716年)、儒学者である日野資徳(ひのすけのり)によって著された『本朝武芸小伝』は、日本で初めて体系的に武芸諸流派の歴史をまとめた書物として、後世の武芸史観に絶大な影響を与えた 16 。
この書は、中条流についても記述しており、「山崎兵左衛門者仕二越前忠直卿一、伝二箕裘芸一、悟二中条流奥秘一」(山崎兵左衛門は越前忠直卿に仕え、父祖の芸を伝え、中条流の奥秘を悟った)といった記述が見られる 19 。しかし、この『本朝武芸小伝』こそが、「富田流」という呼称を一般に定着させる大きな要因となったと、後述する山嵜正美氏は批判的に指摘している 13 。『本朝武芸小伝』が、富田家を中条流から派生した独立した流派(富田流)として扱ったことで、富田家自身は「中条流」を名乗っていたにもかかわらず、外部の認識が「富田流」として固定化されてしまったのである。
これは、一つの権威ある文献が、いかにして歴史的な「通説」を形成し、それが後世の研究にまで影響を及ぼすかを示す好例である。武術史を研究する上では、こうした二次史料に依拠するだけでなく、その記述の根拠となった一次史料にまで遡って検証する姿勢が求められる。
近年、武術史研究者である山嵜正美氏は、諸藩の公式記録や師範家の家伝書(「家ノ書」)といった信頼性の高い一次史料を丹念に調査し、従来の通説に数多くの誤謬や後世の創作が含まれていることを明らかにした 12 。
山嵜氏が明らかにした主要な訂正点と論証は以下の通りである。
山嵜氏の研究は、武術史を単なる英雄譚や逸話の集積から、厳密な史料批判に基づく実証的な歴史学の一分野へと引き上げるものであり、その学術的意義は極めて大きい。本報告書においても、その成果を全面的に参照し、中条流の歴史像を再構築するものである。
通説と山嵜氏の説の相違点を明確にするため、以下に比較表を示す。これにより、物語的な伝承と、史料に基づく実証的な歴史像との違いを視覚的に理解することができる。
世代 (Generation) |
通説(『本朝武芸小伝』等に基づく) (Traditional View) |
山嵜正美氏の説(一次史料に基づく) (Yamasaki Masami's Theory) |
創始 |
中条兵庫頭長秀(念流を学ぶ) |
中条兵庫頭長秀(法名:元威)。念流との直接関係はない。 |
中興 |
(記述なし) |
中條左馬介持保(法名:実田源秀)が念流の技法を導入。 |
継承 |
甲斐豊前守広景 |
甲斐美濃・越前守 |
継承 |
大橋勘解由左衛門高能 |
山崎右京亮昌巖 |
継承 |
冨田九郎左衛門長家 (冨田流の祖) |
冨田九郎左衛門長家 (昌巖の子・景公の後見人) |
継承 |
冨田勢源、冨田景政 |
(正統)山崎右京亮景公、山崎内務丞景隆 |
主な相違点 |
・長秀が念流を学んだとする。 ・富田家が正統な継承者であり、「富田流」を創始したとみなす。 |
・念流を導入したのは後代の持保とする。 ・富田家はあくまで山崎家の後見役であり、流派名は一貫して「中条流」であったとする。 |
この比較から明らかなように、山嵜説は富田家の位置づけを大きく変更し、「富田流」という呼称そのものの歴史的正当性に疑問を投げかけている。これは、武術史研究におけるパラダイムシフトとも言える重要な指摘である。
本報告書は、『平法口決』とそれに連なる中条流の歴史を、戦国時代という視点を中心に、多角的な史料と批判的視点から徹底的に調査・分析した。そこから導き出される結論は以下の通りである。
第一に、「平法」の思想は、戦乱の極みにあった時代において、単なる理想論ではなく、極めて現実的かつ高度な生存戦略であった。創始者・中条長秀が幕府の要職にあるエリート武士であったこと、そしてその思想が禅宗の精神性と共鳴するものであったことを踏まえれば、「不争」の理念は、武士としての社会的地位と生命そのものを守るための、洗練された哲学であったと再評価できる。武を極めればこそ、武を用いずに済む境地を目指す。この逆説的な思想こそが、中条流の核心的価値である。
第二に、中条流の歴史は、一つの武術流派が辿るダイナミックな生命力を示している。創始者の高邁な理念を核としながらも、時代の荒波の中で後援者を変え(朝倉氏から前田氏へ)、著名な達人の名声によって呼称を変え(中条流から富田流へ)、各地への伝播を通じて技術形態をも変容させていった(剣術、棒術、薙刀術への専門化)。流派とは固定的なものではなく、人、時代、社会との関わりの中で絶えず変容し続ける生きた伝統なのである。
第三に、本報告は、武術史研究における史料批判の重要性を改めて浮き彫りにした。『本朝武芸小伝』に代表される二次史料が形成した「通説」と、山嵜正美氏に代表される一次史料に基づく研究成果を対峙させることで、伝承や逸話の背後にある歴史的実像に迫ることの重要性を示した。武術史はもはや単なる英雄譚の集積ではなく、厳密な考証によってその実像が解き明かされるべき、歴史学の一分野なのである。
総じて、『平法口決』に込められた思想と、それを体現しようとした中条流の剣士たちの歴史は、戦国という極限状況下で武士がいかに生き、いかに自らの技と心を律しようとしたかを物語る、日本の武家文化の深層を理解するための、極めて重要な思想的・歴史的遺産であると結論づける。
本報告で詳述した剣術の「中条流(ちゅうじょうりゅう)」とは別に、歴史上、同名の医術流派が存在したことを付記する。
この医術の中条流は、豊臣秀吉の家臣であった中条帯刀(ちゅうじょうたてわき)を始祖とする産婦人科・小児科の一派である 19 。本来は戦陣における刀傷などの治療を主体としながら、婦人の産術も手掛けていたとされる 19 。しかし、泰平の世となった江戸時代に入ると、この流派の名を騙り、堕胎を専門に行う者が現れたため、やがて「中条流」という言葉が堕胎医の俗称として川柳などで広まってしまった 19 。
この医術の中条流は、剣術の中条流とは創始者も時代も内容も全く異なる別個の存在である。しかし、同名であることから歴史的に混同されることがあったため、本報告の最後にこの点を明確に区別し、読者の誤解を防ぐことで、調査の網羅性と正確性を担保するものである。