『庭乗之書』は、小笠原流に伝わる馬術書。射術を伴わず馬を操る技を究め、武技・儀礼・精神修練を統合。戦国乱世では武将の権威と統治能力を象徴。江戸時代に継承。
室町時代に成立したとされる馬術書『庭乗之書』は、その名に反して、単一の確定した書物として存在するわけではない。その実態は、特定の馬術流派、主に小笠原流において秘伝として継承されてきた一連の伝書群、あるいはその中核をなす「庭乗」という高度な技術・儀礼体系そのものを指す概念と捉えるのが最も正確である。本章では、まず現存する写本を手がかりにその輪郭を捉え、次いで「庭乗」という行為が持つ多層的な意味を解き明かす。
『庭乗之書』に関する調査を進める上で最初に直面するのは、その書誌情報が不確定であるという事実である。特定の著者や成立年代が明記された刊本は確認されておらず、我々が参照できるのは、後世に書写されたいくつかの伝本のみである。
代表的なものとして、国立国会図書館が所蔵する『庭乗秘伝書』 1 と、京都大学附属図書館が所蔵する『小笠原流庭乗』 2 が挙げられる。これらの資料はいずれも和装の書写資料であり、大きさはそれぞれ28cm、24cmと記録されている 1 。著者名は記されておらず、成立年代も室町時代と大まかに推定されるに留まる 3 。国立国会図書館の『庭乗秘伝書』はデジタル化されており、その内容を直接閲覧することが可能であるが、その具体的な技法や思想について詳細に分析した二次資料は極めて限定的である 1 。
これらの状況は、『庭乗之書』が決して一般に流布することを目的とした書物ではなかったことを強く示唆している。むしろ、特定の武家、特に将軍家の弓馬術礼法師範という特権的な地位にあった小笠原流の内部で、師から弟子へと極秘に受け継がれる「秘伝」の形で存在したと考えるべきである。武術の流派において、その奥義が口伝や一子相伝の巻物として継承されることは一般的であり、その過程で複数の異本や写本が生まれることは珍しくない。小笠原流が「将軍家のみの御留流」として、その技法と思想を厳格に管理していたことを鑑みれば 5 、その教えが秘匿性の高い伝書の形で伝えられたのは必然であった。
したがって、『庭乗之書』という表題は、宮本武蔵の『五輪書』のような特定の個人が著した確定的な一冊を指す固有名詞としてではなく、「庭乗」という高度な修練体系に関する一連の知識群を集成した伝書の総称、あるいはその中核的な教えそのものを指す言葉として理解することが、その本質を捉える上で最も妥当な解釈となる。この視点に立つことで、現存資料の断片性や名称の不統一性といった問題が、むしろその歴史的性格を物語る証左として浮かび上がってくるのである。
「庭乗」という言葉は、一見すると単純な馬術の一分野を指すように思えるが、その内実は武技、儀礼、そして精神修練という三つの側面が複雑に絡み合った、極めて多義的な概念である。
その最も基本的な定義は、「射術を伴わず、純粋に馬を操る技を究めようとする武技」である。これは、疾走する馬上から的を射る流鏑馬(やぶさめ)のような「騎射」とは明確に一線を画す。騎射が馬の操作と弓の技術という二つの要素を統合するものであるのに対し、庭乗は馬を操る技術そのものの練度を極限まで高めることに特化している。その目的は、乗り手と馬とが完全に一体となり、あたかも乗り手の手足のごとく馬を自在に操る境地に至ることにあった。
しかし、庭乗の真価は単なる技術の練磨に留まらない。それは同時に、高度に様式化された「儀礼」としての側面を強く持っていた。「貴人の前での馬の乗り方」 6 という記述が示す通り、庭乗は将軍や大名といった高貴な人物の前で披露されることを前提とした演武であった。これは、武家の社会における行動規範や儀式作法を体系化した「武家故実」の一部を構成するものであり、馬上における立ち居振る舞い、姿勢の美しさ、そして馬を操る際の優雅さといった、厳格な様式美が求められた 5 。
さらに、庭乗の修練は、深い精神性を伴うものであった。武士にとって馬術は必須の教養であり 9 、特に小笠原流においては、弓馬術の稽古を通じて「上に立つ者としての心構え」を涵養し、全人格的な完成を目指すことが究極の目的とされた 11 。馬という、力強く、時には予測不能な動きをする生き物と心を通わせ、力ではなく精緻な技術によって完璧に制御する過程は、乗り手の精神を鍛え上げる。それは、己の心を制御し、動じない精神力を養い、馬との一体感を通じて万物への深い洞察力を得るための修練であり、一部では「乗馬禅」とも称されるような、深遠な精神的探求の道でもあった 12 。
この庭乗が持つ多義性を深く考察すると、その本質的な機能が見えてくる。それは、身体的コントロールの究極形であり、統治能力の視覚的なメタファー(比喩)であった。外部の目標(的)を射るのではなく、乗り手と馬との内的な関係性そのものに焦点を当てる庭乗において、乗り手は自らの内面と向き合わざるを得ない。気性の荒い馬を、精緻な扶助(ふじょ)のみで意のままに操る姿は、単なる乗馬技術の誇示を超えて、乗り手である武将が持つ「万物を統御する能力」を象徴するものであった。一国や一軍という、より複雑で御しがたい対象を統治・指揮する能力を、馬一頭の完璧なコントロールを通じて無言のうちに示す。貴人の前でこれを披露することは、自らの統治者としての正統性と卓越した能力を証明する、極めて高度な政治的パフォーマンスだったのである。
戦国時代は、馬術が実戦の場で重要な役割を担うと同時に、様々な思想と目的を持つ流派が興隆し、互いに影響を与え合った時代でもあった。『庭乗之書』が依拠する小笠原流を理解するためには、同時代に存在した他の主要な馬術流派、特に実戦を重視した大坪流や神事を担った武田流との比較を通じて、その相対的な位置付けを明確にする必要がある。
小笠原流は、日本の馬術史において比類なき権威と伝統を誇る流派である。その起源は鎌倉時代に遡り、初代将軍・源頼朝の弓馬師範を務めた小笠原長清を始祖と仰ぐ 11 。この由緒は、後世の武家社会において絶大な権威の源泉となった。室町時代には足利将軍家の師範役を務め 15 、後醍醐天皇から「日本武士の定式たるべし」との御手判を賜ったという伝承も、その特権的な地位を象徴している 15 。
小笠原流の思想的核となるのが、「糾法(きゅうほう)」と呼ばれる独自の教育体系である。これは、礼法、弓術、弓馬術の三つの分野を不可分一体のものとして捉え、これらを同時に修めることで、統率者としての人格を完成させることを目指すものである 5 。単なる戦闘技術の習得に留まらず、馬上での立ち居振る舞いや日常の作法を通じて、武士としての品格と精神性を高めることを重視した。この思想体系において、「庭乗」は、騎射の基礎技術であると同時に、馬術の精髄を儀礼という最高の形に昇華させた、究極の演武として位置づけられていたのである。
小笠原流が儀礼と伝統の頂点に立つ一方で、戦国時代の現実的な需要に応える形で台頭したのが大坪流である。室町時代中期、小笠原流の門下であった大坪慶秀によって創始されたこの流派は 12 、その性格において小笠原流とは明確な対照をなす。
最大の特徴は、その徹底した実用主義にある。小笠原流が弓馬故実全般を包括的に扱うのに対し、大坪流は「馬術専一」を掲げ、純粋に馬を操る技術の探求に特化した 17 。また、秘伝主義を重んじる小笠原流とは異なり、門戸を広く開放したため、多くの武士たちがその教えを学び、全国にその名を広めることとなった。
特に戦国時代においては、個人の武勇を競う一騎討ちから、統率された集団による戦闘へと戦の形態が大きく変化した。大坪流は、この集団戦に適した、乗り手に従順で統率の取りやすい馬の操法を重視したため、時代の要請に合致した実践的な馬術として高く評価された 8 。大坪流が馬術を実用的な「技術」として深化させたのに対し、小笠原流はそれを「儀礼」「故実」の域にまで高めた。この鮮やかな対比は、戦国武士が馬術という一つの武芸に対し、実用性と権威性という二つの異なる価値を同時に求めていたことを明確に示している。
小笠原流と並び称される弓馬術の古流として、武田流の存在も忘れてはならない。この流派は、馬術が持つ宗教的・神事的側面を色濃く受け継いでいる点で特異な位置を占める。
武田流は特に流鏑馬においてその独自性を発揮する。射手が被る笠は檜(ひのき)で編んだ独特の形状のものを、矢は先端に木製の蕪(かぶら)を取り付けた殺傷を目的としない「神頭矢(じんどうや)」を用いる 19 。そして、騎射に先立ち、「天下太平・万民息災・五穀豊穣」を祈願する「天長地久式(てんちょうちきゅうしき)」という厳粛な儀式を執り行う 19 。これは、馬術が単なる戦闘技術や儀礼に留まらず、神々への奉納や天下国家の安寧を祈るという、神聖な宗教行為であったことを示している 21 。武田流の存在は、武士の精神世界において、武と祈りが分かちがたく結びついていたことを物語る貴重な事例である。
これら三つの主要な流派の思想、技術、そして戦国時代における役割を比較することで、『庭乗之書』の背景にある小笠原流の特異性がより一層明確になる。以下の表は、その相違点を整理したものである。
項目 |
小笠原流 (『庭乗之書』の背景) |
大坪流 |
武田流 |
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思想・目的 |
礼法・故実との一体化による 統率者の人格形成 5 。将軍家師範としての |
権威の維持 15 。 |
実戦的馬術の追求 。馬術専一で門戸を開放し、技術を広める 17 。 |
神事としての奉納 。「天下太平・万民息災・五穀豊穣」の祈願 20 。 |
技術的特徴 |
儀礼的で様式化された個人の高度な馬術 。馬上での美しい姿勢や所作の重視 6 。 |
集団戦に適した 統率の取りやすい馬の操法 。実践性を重視 8 。『武馬必要』に代表される技術体系 17 。 |
神事としての 様式化された騎射 。独自の神頭矢や檜笠を使用 19 。 |
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戦国時代における役割 |
大名家の 権威と文化資本の象徴 。実戦的価値よりも、統治の正統性を示すための教養 10 。 |
実戦部隊での直接的な運用 。より広範な武士層に普及した実践的スキル 8 。 |
神社への奉納による 戦勝祈願や武威の誇示 。地域の祭礼との結びつき 21 。 |
この表が示すように、小笠原流の「庭乗」は、大坪流の実用性や武田流の宗教性とは異なる、独自の価値軸の上に存在していた。それは、戦国という実力が全てを支配する時代にあって、なお「権威」と「伝統」という無形の価値を追求するものであり、その特異性こそが、次の章で論じる戦国乱世における「庭乗」の逆説的な意義へと繋がっていくのである。
鉄砲が戦場の主役となり、下剋上が日常と化した激動の時代において、儀礼的で非実戦的ともいえる「庭乗」は、一見すると時代錯誤な存在に映るかもしれない。しかし、その価値は戦闘における直接的な有用性ではなく、乱世だからこそ希求された「権威」「伝統」「秩序」といった、より高次の次元に存在した。本章では、戦国時代という特殊な文脈の中に「庭乗」を位置づけることで、その逆説的な意義を明らかにする。
戦国時代の合戦は、それ以前の時代とは様相を大きく異にしていた。平安・鎌倉時代に戦の華であった騎馬武者による一騎討ちは影を潜め、槍や弓を持った足軽による集団戦が戦局を左右するようになった 24 。もちろん、馬が持つ優れた機動力は、伝令、偵察、奇襲、追撃といった場面で依然として極めて重要であり、騎馬隊は戦術上不可欠な存在であり続けた 24 。しかし、騎馬武者個人の卓越した武勇が、かつてのように戦全体の勝敗を決する決定的な要因となることは少なくなった。
この変化を決定的なものにしたのが、天文12年(1543年)の鉄砲伝来である 28 。鉄砲は、日本の戦術思想を根底から覆す破壊的な新技術であった 28 。長年の厳しい訓練を必要とする弓馬の術に対し、鉄砲は比較的短期間の訓練で、誰でも強力な殺傷能力を持つ兵士となり得ることを可能にした 30 。これにより、伝統的な騎馬武者の戦場における優位性は相対的に大きく低下し、戦の主役は完全に歩兵へと移行した。
このような戦場の変化は、皮肉にも「庭乗」のような高度な個人馬術に新たな価値を与えることになった。その直接的な戦闘価値が薄れたからこそ、逆にその象徴的な価値が増大したのである。実戦から遠ざかったことで、庭乗は純粋に「文化」や「権威」の象徴としての役割を担うことが可能になった。
その最も象徴的な事例が、天正9年(1581年)に織田信長が京都で挙行した「御馬揃え」である 25 。これは、単なる軍事パレードではなく、信長が自らの権力を天下に知らしめ、朝廷や諸大名を威圧するための壮大な政治的パフォーマンスであった。この場で各大名が披露した華麗な馬術や壮麗な馬具は、彼らの直接的な戦闘力を示す以上に、その大名家が持つ経済力、動員力、そして文化的な洗練度を誇示するものであった。
この現象の背後には、戦国時代特有の精神構造が存在する。戦国時代とは、室町幕府という既存の権威が失墜し、実力のみがものをいう混沌の時代であった。この下剋上の風潮の中で、武力によって成り上がった戦国大名たちは、単なる武力による支配の正当化に限界を感じ、新たな秩序の構築者としての「権威」と「正統性」を渇望した。
『庭乗之書』が伝える小笠原流の馬術は、まさにその失われつつある旧来の権威の象徴であった。足利将軍家の師範という、かつての日本における最高の権威に裏打ちされた流儀である 15 。したがって、成り上がりの大名がこの古式ゆかしい儀礼的馬術を修め、披露することは、「自分は単なる武力だけの成り上がり者ではない。由緒正しい文化と秩序の正統な継承者であり、この乱世に新たな秩序を築くにふさわしい人物である」という、極めて強力な政治的メッセージを発信する行為に他ならなかった。それは、混沌の中から新たな秩序を生み出そうとする、時代の精神的な希求の表象であったと言える。
以上の考察を踏まえれば、戦国武将が『庭乗之書』やそれに類する伝書に求めた価値は、自ずと明らかになる。彼らは、これを戦場で直接役立つ技術を学ぶための実用書として読んだのではなかった。そのような即物的な目的であれば、より実践的な大坪流の教えを求める方が合理的であっただろう 8 。
彼らが「庭乗」に求めたのは、より高次で象徴的な価値、すなわち統治者のための「帝王学」としての側面であった。具体的には、以下の三つの価値が求められたと考えられる。
第一に、 正統性の獲得 である。将軍家師範の流儀を修めることは、自らの支配に文化的な深みと歴史的な正統性を与えるための、最も効果的な手段の一つであった。
第二に、 精神の鍛錬 である。馬との静かな対話を通じて、乗り手は自己を深く見つめ、統率者に不可欠な不動の精神力、克己心、そして万物に対する鋭い洞察力を養うことができた 11 。これは、絶えず生死の判断を迫られる戦国武将にとって、極めて重要な修養であった。
第三に、 外交・儀礼ツール としての機能である。他の有力大名や公家、朝廷といった、武力だけでは服従させられない相手と渡り合う上で、高い文化教養を身につけていることは不可欠であった。洗練された馬術を披露することは、自らの格を示す有効な外交的手段だったのである 10 。
このように、『庭乗之書』は戦国時代において、実戦の場から離れることで、むしろ武将たちの精神的・政治的領域において、より一層重要な役割を担うことになったのである。
戦国乱世という激動の時代を、戦闘技術としてではなく文化資本として生き延びた「庭乗」の思想は、泰平の世となった江戸時代において新たな役割を与えられ、その命脈を保っていく。その変容の軌跡を追うことは、『庭乗之書』が持つ歴史的意義を総括する上で不可欠である。
戦国時代の合戦では、その実用性から大坪流などの新興流派が隆盛する一方で、流鏑馬に代表される儀礼的な弓馬術は一時的に衰退の道を辿った。しかし、徳川家康によって天下が統一され、二百数十年におよぶ泰平の世が訪れると、状況は一変する。戦闘がなくなった時代において、武士階級のアイデンティティを支えるものとして、武芸が持つ礼法的・精神的な側面が再び重視されるようになったのである 23 。
この流れを決定づけたのが、八代将軍・徳川吉宗である。彼は「享保の改革」の一環として、文治政治の中で軟弱化しつつあった武士の気風を引き締めるべく、武芸を大いに奨励した 24 。その中で、中世以来の伝統を持ちながらも途絶えがちであった小笠原流の弓馬術礼法に注目し、その研究と復興を命じたのである 23 。この命を受け、旗本の小笠原常春が幕府の騎射師範役に任じられ、江戸の高田馬場では将軍家の厄除けや祈願のために、流鏑馬が度々奉納されるようになった 23 。
この江戸時代における「庭乗」を含む小笠原流の復興は、単なる伝統文化の保護に留まるものではなかった。それは、武士という身分のアイデンティティを再定義するための、国家的な文化事業としての側面を持っていた。戦闘が日常であった戦国時代、武士の存在意義は戦場での働きにあった。しかし、平和な時代が到来し、武士が「戦士」から「官僚」「支配者」へとその役割を変えたとき、彼らの存在意義の根幹である「武」をいかに維持するかが大きな課題となった。
徳川吉宗による小笠原流の復興は、この課題に対する一つの回答であった。もはや実戦では使われることのなくなった弓馬の「術」を、精神を鍛え、礼節を学ぶための修養の「道」として再定義したのである。これにより、武士たちは戦わずして「武」を体現し、自らが単なる官僚ではなく、武士道精神を体得した特別な存在であることを確認することができた。平和な時代の武士にとって、「庭乗」の修練は、自らが「武士」であることの証を立て、その精神性を維持するための重要な儀式となった。これは、日本の武術が戦闘技術(術)から、人間形成を目指す「武道」(道)へと昇華していく、歴史的な転換点を示す象徴的な出来事であった。
本報告書で詳述してきたように、『庭乗之書』とその背景にある小笠原流の「庭乗」は、単なる乗馬技術の解説書ではない。それは、時代時代の武士たちが「武」と「馬」という二つの要素に、いかなる価値と意味を見出してきたかを映し出す、歴史の鏡である。
その価値は、決して一様ではなかった。室町時代には足利将軍家の権威を象徴する秘伝として、戦国時代には下剋上の混沌の中に秩序と正統性をもたらすための文化資本として、そして江戸時代には泰平の世における武士の精神的支柱として、その役割を変容させながらも、日本の歴史の中に確固たる位置を占め続けた。
「庭乗」という一つの概念を探求する旅は、結果として、実用性と象徴性、武力と文化、戦闘と儀礼、そして「術」と「道」という、日本の武士社会を貫く二元的な価値観の相克と統合の歴史そのものを解き明かすことに繋がる。射術を伴わず、ただひたすらに馬との一体化を目指すその姿は、外部への攻撃ではなく、自己の内面と向き合う武士の精神性を象徴している。その精神は、現代に伝わる流鏑馬の神事や、様々な武道の理念の中に、形を変えながらも今なお脈々と息づいているのである 21 。