「塩留めの太刀」こと太刀「弘口」は、武田信玄の父信虎が上杉謙信に贈った可能性が高い。重要文化財で、景勝選定の三十五腰の一つ。伝説と美術的価値を併せ持つ名刀。
日本の戦国時代史において、最も劇的な好敵手として知られる甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信。両雄の長きにわたる死闘は数々の逸話を生んだが、中でも「敵に塩を送る」という故事は、敵対する相手の窮地を救うという義侠心と武士の情けを象徴する物語として、現代に至るまで広く語り継がれている 1 。
この美談のクライマックスを飾るのが、塩を送られた信玄が感謝の証として謙信に贈ったとされる一口の太刀、通称「塩留めの太刀」である 2 。この太刀は、二人の武将の間に存在したとされる、単なる敵対関係を超えた精神的な交流の物証として、物語に確かな輪郭を与えてきた。本報告書は、この伝説の光に包まれた名刀、太刀 銘「弘」(号 弘口)の実像に、歴史的、美術的両側面から徹底的に迫るものである。
しかし、この感動的な物語は、一度史実の光を当てて検証を試みると、その輝きの中に数多くの影、すなわち矛盾点や疑問点が浮かび上がってくる。塩は本当に無償で「送られた」のであろうか 3 。そもそも、この太刀を贈ったのは武田信玄その人であったのか 6 。そして、「塩留めの太刀」という通称は、一体いつ、どのようにして生まれ、定着したのであろうか。
これらの根源的な問いを一つひとつ解き明かすことこそ、本報告書の主眼である。人口に膾炙した伝説のベールを剥がし、その奥に秘められた史実と、一振りの刀剣が持つ本来の価値を明らかにすることを目指す。
物語の発端は、永禄10年(1567年)頃に遡る。武田信玄が、長年の同盟関係にあった駿河の今川氏真との盟約を破棄し、その領国へ侵攻を開始した。これに激怒した氏真は、相模の北条氏康と結託し、武田の領国である甲斐への塩の流通を差し止めるという、いわゆる「塩止め」という経済封鎖を断行した 2 。
内陸国である甲斐にとって、塩は生活必需品であり、その欠乏は領民の生命を直接脅かすものであった。この窮状を知った宿敵・上杉謙信が、「信玄と争うところは、弓箭(きゅうせん)にあり。米や塩にはあらず」と述べ、越後から甲斐へ塩を送ることを命じたとされる 6 。この行為は、謙信の義理堅く、人道主義的な武将としての人格を際立たせるものとして、特に江戸時代後期の儒学者・頼山陽が著した『日本外史』などを通じて広く世に知れ渡り、謙信を「義将」として神格化する上で決定的な役割を果たした 8 。
しかし、近年の歴史研究では、この美談は後世に脚色された側面が強いという見方が有力となっている。一次史料を精査しても、謙信が塩を無償で「送った」という直接的な証拠は見つかっていない。むしろ、実際には、従来通り越後の商人たちが甲斐へ塩を販売することを「止めなかった(黙認した)」というのが実情に近いと考えられている 3 。
この行為は、見方を変えれば、極めて合理的な経済判断でもあった。今川・北条という二大供給元が塩の輸出を停止したことにより、越後の商人たちは甲斐市場を独占することが可能となった。結果として、通常よりも高値で塩を販売する機会を得た可能性も指摘されており、美談の裏には「ビッグビジネス」という現実的な側面が存在した可能性も否定できない 4 。
この解釈の転換は、謙信の行動原理を再考する上で極めて重要である。通説では、彼の行動は「義」という一言で片付けられがちである 9 。しかし、謙信自身は自らの行動規範を説明する際に、「義」という言葉よりも「筋目(すじめ)」という言葉を多用していたことが研究で指摘されている 8 。「筋目」とは、物事の道理、順序、そして正当性を意味する言葉であり、現代で使われる「正義」や「人情」といった情緒的な概念とは一線を画す。
したがって、謙信の行動は、敵国の領民を憐れむという人道的な動機よりも、「大名同士の武力抗争に、民間の経済活動である商取引を巻き込むのは道理に反する」という、より理性的で政治的な判断に基づいていた可能性が高い。この「筋目」を重んじる姿勢が、後世の人々によって、より分かりやすく英雄的な「義」という概念に置き換えられ、理想化された結果として、「敵に塩を送る」という美談が誕生したと考えられる。これは、戦国武将の複雑な政治判断が、時代を経る中でいかにして単純化され、物語として消費されていくかを示す好例と言えよう。
「敵に塩を送る」の逸話においては、この太刀の贈呈者は、塩への返礼を行う武田信玄その人であると信じられてきた 1 。物語の整合性を考えれば、それは至極当然の帰結である。
しかし、この長きにわたる通説を根底から覆す、極めて重要な一次史料が存在する。それが、米沢上杉家に伝来した数々の名刀を記録した管理台帳、**『上杉家御腰物元帳』**である。
この信頼性の高い台帳には、問題の太刀について、以下の通り、疑いの余地なく明確に記されている。
「 太刀銘ニテ弘ノ一字アリ 刃長二尺七寸三分 武田信虎ヨリ贈進 」 7
この一文が示す事実は衝撃的である。すなわち、この太刀を上杉家に贈ったのは武田信玄ではなく、天文10年(1541年)に信玄自身によって甲斐から追放された、その実父・ 武田信虎 であったというのである。この記述は、「敵に塩を送る」の逸話と本太刀との直接的な関係性をほぼ完全に否定する、決定的な証拠と言わざるを得ない。
贈呈者が信虎であると確定したことで、物語は新たな謎を提示する。追放された老将は、一体いつ、いかなる目的で、息子の宿敵である上杉謙信に名刀を贈ったのだろうか。
信虎が甲斐の国主であった時代、武田家は今川家と同盟を結び(甲駿同盟)、信濃方面への侵攻に力を注いでいた 11 。この時期、後の謙信である長尾景虎はまだ若く、両者が直接的な外交関係を結ぶ政治的状況にはなかったと考えられる。
可能性が高いのは、信虎が追放された後の動向である。甲斐を追われた信虎は、娘婿である今川義元の庇護のもと駿河に身を寄せ、その後は京都に滞在して将軍・足利義輝に仕えるなど、隠居の身とは言い難い、活発な政治活動を続けていたことが知られている 13 。この時期の信虎が、独自の政治的立場から、関東管領職を継承して中央政界でもその名を轟かせ始めていた謙信(当時は輝虎)と何らかの接触を持ち、この太刀を贈ったというシナリオが浮かび上がる。
贈呈者が信玄から信虎へと変わることで、贈答の持つ意味合いもまた、「塩への返礼」という個人的な感謝の表明から、全く異なる政治的文脈で読み解く必要が生じる。戦国時代における刀剣の贈答は、単なる贈り物ではなく、同盟の締結、忠誠の誓い、あるいは敵対勢力への牽制や関係改善の打診など、極めて高度な政治的メッセージを内包する外交行為であった 16 。
追放されたとはいえ、信虎は武田家の前当主であり、今川家や京の公家社会にも独自の人脈を持つ、無視できない政治的存在であった 15 。一方の上杉謙信は、当代きっての刀剣愛好家としてその名を知られており、彼に名刀を贈ることは、極めて効果的な外交アプローチであったと考えられる 6 。事実、謙信は関東管領の上杉憲政や将軍・足利義輝からも名刀を贈られ、その権威を高めている 20 。
以上のことから、「弘口」の贈呈は、信玄と謙信のライバル物語の一幕などではなく、追放された父・信虎が、激動する東国情勢の中で自らの政治的価値を誇示するため、あるいは武田本家とは異なる独自のパイプを構築すべく、新興勢力の旗頭である上杉謙信に対して行った、知られざる外交工作の一環であった可能性が極めて高い。かくして、この太刀を巡る物語は、武士の「美談」から、権力者たちの「政争の舞台裏」へと、その貌を劇的に変えるのである。
伝説や逸話の真偽とは別に、太刀「弘」は一級の美術品として、それ自体が揺るぎない価値を有している。ここでは、その刀剣としての客観的な情報と美術的特徴を詳述する。
項目 |
詳細 |
文化財指定 |
重要文化財(昭和27年7月19日指定) 8 |
所蔵 |
東京国立博物館(渡辺義介氏寄贈) 8 |
伝来 |
武田信虎 → 上杉家 → 渡辺義介氏 → 東京国立博物館 7 |
作者(鑑定) |
備前国福岡一文字派の刀工「弘」 8 |
上杉家での旧鑑定 |
来国行 作 8 |
異名・号 |
塩留めの太刀、弘口 2 |
上杉家での位置づけ |
上杉景勝公御手選三十五腰の一つ 8 |
上杉家では長らく山城国の名工「来国行」の作と伝えられてきたが、現代の刀剣鑑定では、その作風から備前国(現在の岡山県南東部)で鎌倉時代中期に隆盛を極めた福岡一文字派の作と結論付けられている 8 。
刀身と共に現存する打刀拵(こしらえ)もまた、この太刀がただならぬ品であったことを物語っている。
これらの特徴を以下の表にまとめる。
部位 |
様式・特徴 |
刀身 |
|
種別 |
太刀 |
銘 |
弘 |
刃長 |
二尺七寸三分 (82.7cm) 7 |
反り |
腰反り高く踏ん張りがある 8 |
造込 |
鎬造り、庵棟 8 |
切先 |
中峰、猪首切先 8 |
地鉄 |
小板目肌、乱れ映り立つ 8 |
刃文 |
直刃調に丁子交じり、足・葉入る 8 |
彫物 |
表裏に棒樋を掻き流す 8 |
茎 |
生ぶ中心、栗尻、目釘孔一 7 |
拵 |
(附 黒漆打刀拵) |
形式 |
打刀拵 |
柄 |
熏韋巻 23 |
目貫 |
御所車図 23 |
鞘 |
黒漆塗 23 |
笄 |
倶利伽羅龍図 23 |
小柄 |
桐紋高彫 23 |
「軍神」と畏怖された上杉謙信であるが、その私的な側面においては、当代随一の刀剣愛好家・収集家であった 19 。特に関東管領職という権威ある地位を継承したことにより、足利将軍家や諸大名から数多くの名刀が贈られ、そのコレクションは質・量ともに戦国大名の中でも群を抜いていた 20 。
この比類なき蔵刀は、養子である上杉景勝へと引き継がれた。景勝自身もまた、父・謙信に勝るとも劣らない卓越した鑑定眼の持ち主として知られている 22 。
景勝は、謙信から受け継いだ数百口に及ぶ膨大な蔵刀の中から、自身の厳しい眼で選び抜いた特に優れた名刀三十五口(三十六口とも伝わる)をリストアップし、秘蔵のコレクションとした。これが後世に「上杉景勝公御手選三十五腰(うえすぎかげかつこうおてえらびさんじゅうごこし)」として知られる、名刀中の名刀を集めたリストである 7 。
このリストには、国宝に指定されている「山鳥毛(さんちょうもう)」や、逸話に彩られた「姫鶴一文字(ひめつるいちもんじ)」といった上杉家を代表する至宝が名を連ねている。そして、この太刀「弘口」もまた、それらの名刀と肩を並べ、三十五腰の一振りとして選定されるという最高の栄誉に浴しているのである 8 。
この事実は、極めて重要な意味を持つ。仮に「塩留めの太刀」という逸話が後世の創作であったとしても、この太刀「弘口」の価値は微塵も揺らぐことはない。なぜなら、当代きっての刀剣鑑定家である上杉景勝が、数ある名刀の中から「最高峰の一振り」として選定しているという厳然たる史実が存在するからである。この選定は、逸話や伝来といった付加的な価値ではなく、刀剣そのものが持つ姿の美しさ、地鉄の健全さ、刃文の華やかさ、すなわち美術品としての完成度そのものに基づいて下された評価に他ならない。
つまり、「弘口」は「物語の小道具」として価値があるのではなく、それ自体が「主役」級の美術品であり、その価値は客観的に保証されているのである。「三十五腰」への選定という事実は、「塩留めの太刀」という逸話の真偽を巡る議論そのものを超越する。逸話が真実であれ創作であれ、この太刀が上杉家にとって最高級の宝物であったことは動かしがたい史実であり、その根源は、刀剣として宿す絶対的な美と力にあるのだ。
上杉家伝来の名刀には、国宝「山鳥毛」のように、その華麗な刃文が山鳥の羽毛のようであることから名付けられたとされるものや、「姫鶴一文字」のように、夢の逸話に由来する詩的な「号(ごう)」を持つものが多い 21 。
これに対し、本太刀の「弘口」という呼称は、刀工名である「弘」と、刀を数える助数詞である「口(ふり、くち)」を単純に組み合わせた、極めて実務的で管理的な名称である 30 。ここに、この太刀の持つ二重性が象徴的に現れている。
本太刀には、二つの名が存在すると言える。一つは、広く知られる「塩留めの太刀」という物語性を帯びた通称。もう一つは、上杉家の蔵の中で呼ばれたであろう「弘口」という管理上の呼称である。「塩留めの太刀」という名は、外部に向けて語られる「パブリック・フェイス」であり、武家の義理や人情といった理想化された価値観を体現する。一方で「弘口」は、上杉家の武器庫(アーモリー)内部で使われた「プライベート・ネーム」であり、刀工名と現物を一対一で対応させるための、極めて合理的で即物的な分類記号である。
この二つの名は、それぞれがこの太刀の異なる側面を照らし出している。それはあたかも、理想の武士像を演じる戦国武将の「表の顔」と、領国を経営し、膨大な武具を管理する現実的な統治者としての「裏の顔」のようでもある。一振りの刀が持つこの二重性こそが、「弘口」という存在の最も興味深い本質なのかもしれない。
本報告書における徹底的な調査の結果、太刀「弘口」を巡る通説は、多くの点で史実と異なる可能性が極めて高いことが明らかとなった。
第一に、「敵に塩を送る」という美談と本太刀の贈呈を直接結びつける確かな証拠は乏しい。それどころか、贈呈者は武田信玄ではなく、その父・信虎であったことを示す信頼性の高い一次史料が存在する。これにより、「塩留めの太刀」という名称は、後世に付与されたロマンチックな装飾であり、その贈呈の背景には、美談とは異なる政治的な文脈が存在した可能性が強く示唆された。
しかし、伝説のベールを一枚ずつ剥がした先に現れたのは、決して色褪せた凡庸な存在ではなかった。むしろ、当代随一の鑑定眼を持つ上杉景勝によって選び抜かれた「三十五腰」の一振りとして、その比類なき美術的価値と刀剣としての完成度の高さが、揺るぎない史実として一層の輝きを放っている。鎌倉時代中期、備前福岡一文字派の刀工が生み出した豪壮な姿と華麗な刃文は、逸話の有無に関わらず、それ自体が絶対的な価値を持つ。
最終的に、太刀「弘口」は、人々の心を捉えて離さない「伝説の主人公」としての顔と、専門家の厳しい鑑定眼に応える「一級の美術品」としての顔を併せ持つ、稀有な存在であると結論付けられる。この伝説と実像の狭間に立ち、双方の世界に籍を置くことによって生まれる二重性こそが、我々を惹きつけてやまない、この名刀の真の魅力と言えるだろう。