新陰百首は柳生石舟斎宗厳の道歌集。戦国を生き抜いた宗厳の「活人剣」思想を和歌で表現。「無刀取り」や「転」の技法を説き、柳生流へ継承され武士道精神に影響を与えた。
本報告書は、柳生新陰流の開祖として知られる柳生石舟斎宗厳(やぎゅうせきしゅうさいむねよし)が著したとされる「新陰百首」について、その総合的な解明を試みるものである。一般に「新陰百首」は、柳生新陰流の極意である「無刀取り」などを詠んだ和歌集として認識されている 1 。しかし、本報告書が論証するのは、この百首が単なる剣術の技法を詠んだ歌の集成に留まらず、戦国乱世の終焉という時代の大きな転換期に、一人の武将がその波乱に満ちた生涯を通じて到達した生存哲学の結晶であり、来るべき時代の武士のあり方そのものを問い直す、深遠な思想的産物であるという点である。
この考察を進めるにあたり、いくつかの根源的な問いが浮かび上がる。なぜ宗厳は、自らが極めた兵法の奥義を、秘伝書や口伝のみならず、「和歌」という芸術的な形式を用いて遺そうとしたのか。その三十一文字に凝縮された「活人剣(かつにんけん)」や「無刀(むとう)」の真意とは、具体的に何を指し示すのか。そして、それらの思想は、力と力が激突する戦国という時代において、いかなる独創性を持ち、歴史的にどのような意義を担っていたのか。
これらの問いを解明するため、本報告書は以下の三つの視座から「新陰百首」の深層に迫る。第一に、「作者・柳生宗厳の生涯」である。大和国の一領主としての栄達と挫折、そして剣の道における求道者としての大成という彼の二つの側面から、百首が生み出された人間的・時代的背景を丹念に探る。第二に、「新陰流の思想と技術」である。流儀の核心理念である「活人剣」や「転(まろばし)」といった概念と、それを具現化する身体技法との不可分な関係を解き明かし、百首に詠まれた内容の具体的な意味を明らかにする。第三に、「時代との対話」である。同時代の他の主要な剣術流派との比較分析を通じて、柳生新陰流および「新陰百首」が持つ思想的な特異性と、後世に与えた影響の大きさを浮き彫りにする。この多角的な分析を通じて、「新陰百首」が戦国の世が生んだ、剣の技と哲学が融合した比類なき文化遺産であることを論証する。
「新陰百首」に込められた思想と感情の源泉を理解するためには、まずその作者である柳生石舟斎宗厳という人物の生涯を、彼が生きた戦国という時代の文脈の中に正確に位置づける必要がある。彼の人生は、大和国の一武将としての栄達と挫折、そして剣の道を究める求道者としての大成という、二つの異なる物語が複雑に交錯する場であった。この波乱の生涯こそが、百首の深遠なる内容を育んだ土壌に他ならない。
柳生宗厳は、享禄2年(1529年)頃、大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)を領する小領主、柳生家厳の嫡男として生を受けた 3 。彼が生きた16世紀の大和国は、守護職の形骸化とともに国人領主が群雄割拠する、絶え間ない争乱の地であった。天文13年(1544年)、宗厳が十代半ばの頃、柳生家は筒井順昭の猛攻を受け、本拠地である柳生城は落城、父・家厳は筒井氏への臣従を余儀なくされる 3 。宗厳もまた、筒井氏の武将として各地を転戦し、武功を挙げていた 3 。
しかし、永禄2年(1559年)、畿内に勢力を拡大する三好長慶の重臣・松永久秀が大和へ侵攻すると、宗厳は主君であった筒井氏を離反し、新たな支配者である松永氏に与する決断を下す 3 。これは、大国の狭間で生き残りを図る小国人としての、極めて現実的な戦略的選択であった。宗厳は松永久秀の配下としてその才覚を現し、特に多武峯攻めでは「比類無き働き」と賞賛されるなど、久秀の側近として厚い信頼を得るに至る 2 。この事実は、彼が単に剣の腕に覚えがあるだけの人物ではなく、現実の政治力学と戦場の機微を深く理解した有能な武将であったことを示している 6 。
ここに、彼の後の思想形成に繋がる重要な洞察の萌芽が見られる。主家を乗り換えなければ生き残れないという小領主の悲哀、そして最終的にその主君・松永久秀自身が織田信長に反逆して滅亡する様を目の当たりにした経験は、宗厳に痛切な現実を突きつけた 2 。すなわち、単純な「武勇」や一時的な「権勢」だけでは、この乱世を真に渡りきることはできないという実感である。力で相手を制圧するという発想、後に新陰流で「殺人刀」として相対化される考え方への根源的な懐疑は、彼の武将としてのキャリアの中で育まれたと言える。相手の力をいかに受け流し、利用し、状況そのものを有利に導くかという、より高度な生存戦略への志向性が、この時点で彼の内に醸成されていた。これこそが、後に上泉信綱がもたらす「転(まろばし)」や「活人剣」の思想を、表層的ではなく、自身の経験に裏打ちされた必然として受け入れる素地となったのである。
武将としての日々を送る一方、宗厳は若年より剣術に深く傾倒し、神取新十郎から新当流を、あるいは戸田一刀斎から富田流を学ぶなど、諸流を修めていた 3 。大和国では名の知れた剣客であった彼にとって、その後の人生を決定づける運命的な出会いが訪れる。永禄6年(1563年)、当時「剣聖」と謳われ、諸国を巡歴していた上泉伊勢守信綱(後の武蔵守信綱)が奈良を訪れたのである 8 。
伝承によれば、宗厳は宝蔵院において信綱に立ち会いを挑む 8 。しかし、結果は完敗であった。信綱の弟子である疋田景兼にすら敗れ、信綱本人と相見えた際には、刀を交える以前に、その構えから刀を奪い取られてしまったという 12 。それまで自らの剣技に自負を抱いていた35歳の宗厳にとって、この敗北は自身の価値観を根底から覆すほどの衝撃であった 2 。彼はその神技に感服し、即座に弟子入りを志願する。
宗厳は信綱一行を自らの居館である柳生の庄に招き、熱心にその教えを請うた 12 。修行に没頭すること2年、ついに信綱は宗厳に対し、新陰流の奥義の全てを伝授した証として「一国一人」の印可状を与える 2 。これは、信綱が数多の弟子の中で唯一、宗厳にのみ与えたものであり、彼が新陰流の正統な後継者として認められたことを意味する。この邂逅と継承が、後の柳生新陰流、そして「新陰百首」が生まれる直接的な原点となったのである。
信綱から印可を受けた後も、宗厳の人生は平坦ではなかった。主君・松永久秀が織田信長に滅ぼされると、宗厳は柳生の庄に隠遁する 2 。そして、彼と柳生一族にとって最大の危機が訪れる。天正13年(1585年)頃から始まった豊臣秀吉による太閤検地において、「隠し田(かくしでん)」、すなわち検地帳への申告を怠った田地を摘発され、父祖伝来の所領を全て没収されてしまうのである 6 。これにより、柳生氏は武士としての経済的・社会的基盤を完全に失い、一族は困窮の淵に立たされた 16 。
この苦難の時期、60代半ばを過ぎた宗厳は髪を下ろし、「石舟斎(せきしゅうさい)」と号するようになる 6 。この号は、彼自身がその心境を詠んだとされる以下の歌に由来する。
「兵法(つわもの)の 勝ちを取りても 世の海を 渡りかねたる 石の船かな」 6
この歌には、剣術(兵法)という船の舵(かじ)を自在に操る技(勝ち/楫)を極めたにもかかわらず、世渡り(世の海)という現実社会の荒波は渡りきれず、為すすべもなく沈んでしまう石の船のようだ、という深い自嘲と無力感が痛切に込められている。
しかし、この絶望的な状況こそが、彼の兵法思想を新たな次元へと昇華させる契機となった。まさにこの時期、「新陰百首」の編纂が行われたと考えられるからである 2 。所領という物理的な力を全て失った宗厳にとって、唯一残された、そして誰にも奪われることのない価値は、己の身体と精神に深く刻み込まれた新陰流の兵法そのものであった。百首の編纂とは、この無形の価値を体系化し、自らの存在意義を「土地を持つ武将」から「剣の道を体現する求道者」へと再定義する、極めて重要な営為だったのである。それは、武将・柳生宗厳が一度「死に」、剣の求道者・石舟斎として「再生」する過程で生まれた、魂の記録であったと言える。彼が後に「治国平天下の剣」という壮大な理念にまで到達し得たのは 2 、全てを失ったこの経験を通じて、武技が持つ単なる殺傷技術を超えた普遍的な価値に目覚めたからに他ならない。「新陰百首」は、その悟りの集大成であり、柳生家再興への不屈の執念が込められた、知の遺産なのである。
雌伏の時を経て、石舟斎に転機が訪れる。文禄3年(1594年)、当時関東に覇を唱えていた徳川家康に招かれ、京都の鷹峯にて、五男の宗矩(むねのり)と共に新陰流の兵法を披露する機会を得た 7 。この時、66歳となっていた石舟斎は、家康を相手に新陰流の奥義である「無刀取り」の妙技を見せたという 2 。老齢とは思えぬその神技に深く感銘を受けた家康は、その場で石舟斎に仕官を要請し、自らの兵法指南役になることを求めた 18 。
しかし、石舟斎は老齢を理由にこれを固辞し、代わりに同行していた息子の宗矩を推挙した 2 。この決断は、柳生家の未来を見据えた、石舟斎の最後の、そして最大の戦略であった。この推挙により、宗矩は徳川家に仕えることとなり、後の江戸柳生家の繁栄、ひいては柳生新陰流が徳川将軍家の「御流儀」として天下にその名を轟かせる、その確かな礎が築かれたのである。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、宗矩が徳川方として大和国での情報収集や工作活動で功を挙げたことにより、戦後、柳生家は太閤検地で没収されていた大和の旧領2000石を回復する 6 。実に15年ぶりの故郷への復帰であった。慶長11年(1606年)、石舟斎宗厳は、柳生家の再興を見届けた後、故郷である柳生の庄で80年に及ぶ波乱の生涯を閉じた 3 。
柳生石舟斎宗厳の生涯という土壌から生まれた「新陰百首」は、その形式と内容の両面において、戦国末期の武芸思想の中で際立った特徴を持っている。本章では、なぜ「和歌」という伝承形態が選ばれたのか、そしてその百首全体を貫く核心思想である「活人剣」とは何かを解き明かし、この歌集の本質に迫る。
「新陰百首」は、新陰流の技法や心法に関する教訓を、五・七・五・七・七の和歌形式にまとめたものであり、「道歌(どうか)」と呼ばれる伝承形態の一種である 1 。この形式が採用された背景には、いくつかの複合的な理由が考えられる。
第一に、記憶と伝承の容易性である。口伝が教育の中心であった当時の武芸の世界において、定型詩である和歌のリズムと音律は、難解で複雑な奥義を記憶し、弟子へと正確に伝承するための極めて優れた媒体であった。
第二に、思想の凝縮性である。わずか三十一文字という限られた字数の中に、技の要諦のみならず、その技を用いる際の心構えや思想的背景までを凝縮して表現することが可能であった。これにより、技と心が一体となった教えとして伝えることができた。
第三に、文化的権威付けの意図である。和歌は古来、貴族や武士階級における最高の教養と見なされてきた。剣術という、ともすれば単なる殺傷技術と見なされがちな「武」の世界に、和歌という「文」の形式を取り入れることで、柳生新陰流が目指すものが、精神性を伴う高尚な「道(どう)」であることを内外に示す効果があった。
この歌集は「兵法百首」あるいは「新陰百首」と呼ばれ、現存する最も古い伝書としては、文禄2年(1592年)に石舟斎が記したものが確認されている 1 。また、慶長6年(1601年)には、能楽金春流の太夫である金春七郎安照に宛てて書かれた『兵法百首』も存在しており 19 、石舟斎が武芸の世界に留まらず、能楽といった他分野の芸道家とも深い交流を持ち、自らの兵法を普遍的な芸道論として捉えていたことがうかがえる。
さらに、「百首」という形式そのものにも、石舟斎の深い意図が込められている可能性がある。平安時代後期に崇徳院の命によって編纂された『久安百首』 21 のように、和歌の世界において「百首歌」は、一つのテーマや思想体系を網羅的に表現する、壮大な文化的事業を意味した。また、後の時代ではあるが、千利休が茶道の心得を百の歌にまとめた『利休百首』のように、一つの「道」を大成した人物が、その教えの集大成として「百首」を編むという文化的な型が存在した 22 。石舟斎がこの「百首」という形式を選んだのは、自らが大成した柳生新陰流が、古典的な和歌集や茶の湯の道に匹敵するほどの網羅性と完成度を持つ、一つの完結した「芸道」であるという強い自負の表れであったと推察される。それは、武将としてのキャリアが一度は絶たれた彼が、文化的な領域において不滅の名を成そうとした、壮大な試みであったとも解釈できよう。
「新陰百首」に詠まれた数々の教えの根底には、一貫した核心思想が存在する。それが「活人剣(かつにんけん)」の理である。戦国時代、剣術の主流は、いかに速く、いかに強く相手を斬り伏せるかという「殺人刀(せつにんとう)」の思想であった 23 。これは、力と速さで相手を圧倒し、制圧することを目的とする、いわば「殺す」ための剣であった。これに対し、柳生新陰流は、相手を活かし、働かせて勝つという、全く逆の発想に立つ「活人剣」を流儀の神髄として標榜した 23 。
この「活人剣」という言葉は、多層的な意味を持つ。
第一の層は、技術としての「活人剣」である。これは、相手を力でねじ伏せるのではなく、相手の攻撃を誘い、引き出し、その力を利用して制する技術体系を指す 23 。相手を無理に殺しにいくのではなく、相手が動くのを「活かす」ことで、結果的に自分が傷つかずに「生きる」という、極めて高度な術理である。
第二の層は、禅思想としての「活人剣」である。この言葉は元来、禅宗における修行者の指導法に由来する 26 。師が弟子を導く際、厳しく突き放し、迷いや執着を断ち切らせるアプローチを「殺人刀」と呼ぶのに対し、相手の機根を受け入れ、その働きを活かしながら悟りへと導くアプローチを「活人剣」と呼ぶ 27 。石舟斎は、この深遠な哲学的概念を剣術の世界に応用し、単なる技術論ではない、心のあり方としての兵法を確立しようとした。
第三の層は、社会思想としての「活人剣」である。これは「一人の悪を殺すことによって、万人を活かす(一殺多生)」という思想に代表される 26 。剣という武力は、無秩序に使えば破壊の道具に過ぎないが、天下の平和と万民の安寧という目的のために用いられるならば、それは人々を「活かす」ための力となり得る。この思想は、戦乱が終わり、泰平の世が訪れつつあった時代において、武士が持つべき力の使い方、すなわち剣術を個人の武勇から「治国の剣」へと高める、極めて重要な思想的萌芽であった 2 。
石舟斎が「新陰百首」を通じて示そうとしたこの「活人剣」の思想は、息子の宗矩が沢庵宗彭の教えを受け、『兵法家伝書』において「剣禅一致」の思想として大成させる、その直接的な源流となった 30 。百首は、単なる技の歌ではなく、戦国から江戸へと移行する時代の武士道精神の変革を告げる、哲学の書でもあったのである。
「新陰百首」の真価は、そこに詠み込まれたとされる柳生新陰流の具体的な技法と、それを支える身体操作、そして根底に流れる哲学とが、分かちがたく融合している点にある。本章では、百首に示唆される流儀の精髄を、「無刀取り」「転」といった象徴的な概念から具体的な技法に至るまで、その不可分な関係性を解き明かす。
柳生新陰流を象徴する技法として最も名高いのが「無刀取り」である。この極意について、百首の中では以下のように詠まれていると伝えられる。
「無刀にても 神妙剣に行くならば 敵の打つ太刀 身には当たらじ」 34
「当流は 無刀の理にて 勝つなれば 真の無刀 疑いは無し」 34
これらの歌が示唆しているのは、「無刀」の本質が、巷間でイメージされるような、単に相手の刀を素手で奪い取ること(奪刀法)にあるのではないという点である。石舟斎の息子・宗矩がその著書『兵法家伝書』の中で、「我が刀なき時、人にきられじとの無刀也。いで取て見せるなどと云事を、本意とするにあらず」と明確に述べている通り 35 、無刀の真髄は、たとえ自らの手に武器がない状況に陥っても、決して相手に斬られることのない術理と心構えそのものにある。
これは、武器の有無という物理的な条件に依存しない、絶対的な不敗の心身の状態を指す。相手と力で争って勝つのではなく、相手の攻撃意志そのものを無力化し、攻撃を空転させる境地を目指すものである。この思想は、相手を殺さず、傷つけず、その上で勝つという「活人剣」の理念を最も象徴的に体現した技法と言える。柳生新陰流が、その術理の中に柔術的な体捌きや素手による対応法を多く含み、後に起倒流や柳生心眼流といった柔術諸派を生み出す源流の一つとなったのも、この「無刀」の思想が根底にあったからである 37 。
上泉信綱が陰流を発展させて創始し、石舟斎がその神髄を継承した新陰流の、まさに核心とも言える理念が「転(まろばし)」である 12 。これは、円転自在、臨機応変を意味し、状況に応じて千変万化し、固定された特定の形に頼ることなく、相手の動きに流れるように対応していく思想と技術の総称である 23 。
「転」の要諦は、剛腕や速さといった自己の能力に頼るのではなく、相手の力を正面から受け止めずに受け流し、無力化し、あるいは利用して勝つことにある。この思想は、新陰流のもう一つの重要な理念である「性自然(しょうじねん)」と分かちがたく結びついている 23 。性自然とは、自然の働き、すなわち物理法則に逆らわない身体の使い方を意味する。例えば、腕力に頼って刀を振るうのではなく、身体の重み(重力)を利用し、体幹を軸とした円運動によって刀を振るう。このような自然な動きこそが、「転」の思想を物理的に具現化するものであり、無理なく、無駄なく、そして相手の予測を超えた変化を生み出す源泉となるのである。
「新陰百首」には、これらの「無刀」や「転」といった高度な哲学を具現化するための、具体的な技法群や身体操作の要諦が示唆されている。
「新陰百首」に示される柳生新陰流の思想は、それが生まれた戦国末期から江戸初期という、剣術が単なる戦闘技術から創始者の人生観や哲学を色濃く反映した「流派」へと大きく発展した時代の中で、どのような独自性を持ち、いかなる位置を占めていたのか。本章では、同時代に覇を競った主要な剣術流派、特に伊藤一刀斎の一刀流と宮本武蔵の二天一流との比較を通じて、その歴史的な座標を明らかにする。
戦国末期から江戸初期にかけて、数多の剣術流派が興ったが、中でも柳生新陰流、一刀流、二天一流は、その後の武道思想に絶大な影響を与えた。これらの流派は、単に技術的な差異だけでなく、「いかにして勝つか」という根本的な問いに対する、創始者の哲学的な回答そのものであった。以下の表は、各流派の思想的特徴を比較し、その差異を明確化するものである。この比較を通じて、新陰流が掲げた「待つ剣」「応じる剣」という思想が、一刀流の「決める剣」、二天一流の「実利の剣」といかに異なっていたかが浮き彫りになる。
項目 |
柳生新陰流 |
一刀流 |
二天一流 |
|||
創始者 |
上泉信綱 / 柳生宗厳 |
伊藤一刀斎 |
宮本武蔵 |
|||
核心思想 |
活人剣 :相手を活かし、働かせて勝つ。争わざるの理。 23 |
一刀必殺 :一撃に全てを懸け、相手の中心を制す。 40 |
実利主義 :勝つための合理性の徹底追求。 41 |
|||
象徴的概念 |
転(まろばし) :円転自在、状況への適応。 12 |
無刀 :武器に頼らぬ心身。 34 |
切落(きりおとし) :相手の攻撃ごと斬り下ろす。 42 |
払捨刀(ほっしゃとう) :邪念を払い、無心で斬る。 43 |
拍子 :戦いのリズムとタイミングの掌握。 45 |
空(くう) :形骸化した教えの超越。 41 |
「勝ち」へのアプローチ |
後の先(ごのせん) :相手の動きに応じて勝ちを得る。 負けないこと を重視。 24 |
先の先(せんのせん) :相手が起こる前に機先を制す。 決めること を重視。 46 |
手段を問わぬ勝利 :心理戦、奇襲などあらゆる要素を駆使し、 勝つこと 自体を目的とする。 41 |
伊藤一刀斎を始祖とする一刀流は、その極意を「一刀のもとに全てを決する」点に置く 40 。その象徴的な技法が「切落(きりおとし)」であり、これは相手が打ち込んでくる太刀を、受けたり払ったりするのではなく、その太刀筋の中心を自らの太刀で割り、攻撃ごと相手を斬り下ろすという、極めて積極的かつ攻撃的な技法である 42 。また、その心法である「払捨刀(ほっしゃとう)」は、勝敗への執着、恐怖、油断といったあらゆる邪念を「払い捨て」、無心の一撃を放つことを理想とする 43 。
ここに、柳生新陰流との思想的な対極性が見て取れる。新陰流が相手の攻撃を誘い、その動きに「応じて」勝ちを拾う「後の先(ごのせん)」を理想とするのに対し、一刀流は相手が動く機先を制し、自ら積極的に勝ちを「決める」「先の先(せんのせん)」を本義とする。新陰流が「いかにして負けないか」という不敗の理を追求するならば、一刀流は「いかにして一撃で勝つか」という必殺の理を追求する。これは、「勝ち」に至るプロセスにおける、根本的な哲学の対立と言えるだろう。
宮本武蔵がその生涯の到達点として『五輪書』に著した二天一流の兵法は、徹底した合理主義と実利主義に貫かれている 41 。武蔵は、多くの流派が固執する特定の構えや、門外不出とされる秘伝といった形式主義を厳しく批判し、実戦においていかにして「勝つか」という唯一の目的に向かって、あらゆる手段を講じるべきだと説いた 41 。戦いの流れやタイミングを意味する「拍子」の重要性を説き、相手の意表を突く心理戦や奇襲をも厭わないその姿勢は、マキャベリストとしての一面すら感じさせる 41 。
ここにも、柳生新陰流との明確な思想的差異が存在する。「新陰百首」に示されるように、新陰流が「活人剣」や「治国平天下の剣」といった理念を掲げ、剣術を人格陶冶や社会秩序の維持に貢献する「道」へと昇華させようとしたのに対し、武蔵はあくまで個人の戦闘における「勝利」という、即物的で現実的な目的に徹した 49 。新陰流が、武士は「どうあるべきか」という規範や理想を説くのに対し、二天一流は、兵法家は「どう勝つべきか」という即物的な方法論を説く。この点に、両者の思想の根本的な違いを見出すことができる。柳生新陰流が泰平の世の支配階級の武芸として受け入れられたのに対し、武蔵の兵法が孤高の輝きを放ち続けた理由の一端が、ここにあるのかもしれない。
柳生石舟斎宗厳が「新陰百首」に込めた教えは、彼の死後、二つの大きな流れとなって後世に受け継がれていった。一つは、徳川将軍家の兵法指南役として江戸で権勢を振るった五男・柳生宗矩の系統である「江戸柳生」。もう一つは、石舟斎から直接薫陶を受け、尾張徳川家に仕えた嫡孫・柳生利厳(兵庫助)の系統である「尾張柳生」である。両者は同じ新陰流を名乗りながらも、それぞれ異なる発展を遂げた。
石舟斎の推挙により徳川家康に仕えた柳生宗矩は、二代将軍・秀忠、三代将軍・家光の兵法指南役を務め、ついには一万石を超える大名にまで出世した 6 。彼は、柳生新陰流を徳川将軍家の「御流儀」という絶対的な地位にまで押し上げた、江戸柳生の祖である 50 。
宗矩の功績は、単に政治的な成功に留まらない。彼は、父・石舟斎が「新陰百首」に込めた「活人剣」の思想を、当代随一の禅僧であった沢庵宗彭との深い交流を通じて、「剣禅一致」という、より高度で体系的な哲学へと深めていった 30 。その成果が、彼の主著である『兵法家伝書』である。この書において宗矩は、剣術の技法を、武士の心構え、ひいては国を治めるための統治の理念にまで結びつけ、「治国平天下の剣」という壮大な思想を確立した 2 。江戸柳生は、剣術を個人の武技から、泰平の世を支える支配者の哲学へと昇華させたのである。
一方、石舟斎の嫡男・厳勝の子であり、石舟斎にとっては嫡孫にあたる柳生利厳(としとし、通称・兵庫助)は、祖父から直接その技と心の薫陶を受けた 50 。彼は新陰流の正統第三世を継承し、尾張藩初代藩主・徳川義直に仕え、尾張柳生の祖となった 50 。
利厳が継承したのは、石舟斎が戦国乱世の実戦の中で磨き上げた、甲冑着用を前提とする「介者剣法(かいしゃけんぽう)」、すなわち流儀の根本である「本伝」であった。利厳は、時代の変化に対応し、この介者剣法を、平時の素肌(着流し)での戦いを想定した「内伝」へと改めた 50 。これは、戦乱の世から泰平の世へと移行する中で、剣術に求められる役割の変化を的確に捉えた、実用的な改変であった。
江戸柳生が将軍家の指南役として、剣術を政治的・思想的な側面で大きく発展させたのに対し、尾張柳生は、尾張徳川家の兵法師範家として、より実戦的・技術的な体系の維持と発展に重きを置いたとされている 9 。しかし、その発展の方向性は異なれども、両者の根底には、祖である石舟斎が「新陰百首」に凝縮した「活人剣」や「転」の思想と技術が、共通の源流として脈々と流れているのである。
柳生石舟斎宗厳による「新陰百首」は、その成立の背景、形式、内容の全てにおいて、戦国という「力」が全てを支配する時代に生まれながら、その時代の論理そのものを乗り越えようとする、極めて先進的な思想の結晶であった。それは、大和国の一武将としての栄達と、所領を全て失うという痛切な挫折を経験した一人の人間が、その個人的な体験を、いかなる状況下でも生き抜くための普遍的な「負けない」生存哲学へと昇華させた、魂の記録である。
和歌という形式に託された「活人剣」「無刀」「転」といった核心的な思想は、単に個人の武技を高めるための技術論に留まるものではなかった。それらは、人と人が対峙した際に生じる争いをいかにして収め、相手を殺さずして事を納めるかという、より高次の問いへと繋がっていた。この思想的な深みと先進性こそが、柳生新陰流を単なる一剣術流派から、泰平の世の秩序を支える徳川幕府の「治国の剣」たらしめた根源であると言える。
石舟斎は、自らの不遇を「世の海を渡りかねたる石の船」と詠んだ。しかし、彼が遺した「新陰百首」という知の遺産は、息子の宗矩、孫の利厳へと受け継がれ、江戸柳生、尾張柳生という二つの大きな流れとなって、泰平の世の武士道精神を形成していく。その意味で、石舟斎の「石の船」は、決して沈むことはなかった。それは、荒波の世を渡るための、沈むことのない知恵の船として、時代を超えて、力とは何か、強さとは何か、そして武士はいかにして生きるべきかという、普遍的な問いを我々に投げかけ続けている。その静かな輝きは、今なお失われていない。