最終更新日 2025-08-08

星河原毛

信長の愛馬「星河原毛」は、河原毛の毛色と額の星が特徴。多賀谷氏が信長に献上し、信長はこれを喜び、政治的演出に活用した。
星河原毛

星河原毛の総合的考察:一頭の名馬が映し出す織田信長の天下と戦国武将の生存戦略

序論:一頭の名馬から読み解く戦国時代

日本の戦国時代、数多の武将が覇を競う中で、馬は単なる移動手段や軍事力の一部にとどまらず、主君の権威を象徴し、家臣の忠誠を測り、時には外交の成否を左右する重要な役割を担っていた。その中でも、織田信長の愛馬として知られる「星河原毛(ほしかわらげ)」は、ひときゆわ注目に値する存在である。

一般にこの馬については、「常陸の多賀谷修理亮が献上した骨太で勇ましい悍馬であり、信長はこれを大いに喜んだ。しかし、同時期に明智光秀も馬を献上したが、そちらは受け取らなかった」という逸話が語られることがある。この対照的な逸話は、後の本能寺の変へと至る信長と光秀の確執を象徴する物語として、人々の興味を惹きつけてきた。

しかし、この逸話の真偽を問うだけでは、星河原毛という存在が持つ歴史的な意義の全貌を捉えることはできない。本報告書は、この一頭の名馬を多角的な視点から徹底的に分析し、それを戦国時代の政治、文化、軍事、そして武将たちの価値観を映し出す「鏡」として再評価することを目的とする。星河原毛はなぜ信長を喜ばせたのか。その名は一体何を意味するのか。献上という行為の裏には、どのような政治的力学が働いていたのか。これらの問いを深く掘り下げることで、一頭の馬をめぐる事象が、戦国という時代の有り様をいかに雄弁に物語るかを明らかにしていく。

第一章:「星河原毛」の解体 ― その名の意味するもの

「星河原毛」という名は、この馬が持つ具体的な特徴を雄弁に物語っている。この名称を言語学的、馬相学的な観点から分析することで、当時の人々がこの馬にどのような価値を見出していたのかを復元することが可能となる。

第一節:「河原毛(かわらげ)」という毛色 ― 希少性と在来馬の誇り

「河原毛(かわらげ)」とは、馬の毛色の一種であり、その特徴は「淡い黄褐色から艶のない亜麻色までの被毛に、長毛(たてがみ、尾)と四肢の下部が黒いもの」と定義される 1 。遺伝学的には、基本の毛色が鹿毛である馬が、クリーム様希釈遺伝子を一つ(ヘテロで)持つことによって発現する毛色であり、英語圏では「バックスキン(buckskin)」と呼ばれるものに相当する 4

この毛色は、近代競馬の主流であるサラブレッド種ではあまり見られないが、クォーターホースや、そして重要なことに日本の在来馬においては、それほど珍しいものではない 4 。特に長野県の木曽馬には、鹿毛や黒鹿毛と並んで河原毛の個体が存在することが確認されている 5 。戦国時代の合戦で活躍した馬は、現代人が想像するような大型のサラブレッドではなく、体高が120センチメートルから140センチメートル程度の、ずんぐりとした頑強な在来馬、すなわち現在の基準ではポニーに分類される馬たちが主力であった 6

この文脈において、「河原毛」という毛色は特別な意味を帯びてくる。それは、舶来の珍品ではなく、日本の風土に根差し、武士の活動を支えてきた在来馬の中でも、特に美しいとされる毛色であった可能性が高い。さらに、ある学説では、馬の本来の基本型に近い毛色が河原毛であるとされており、現存する唯一の野生馬であるモウコノウマ(プシバルスキーウマ)にも見られる特徴である 7 。このことは、河原毛が単に美しいだけでなく、生命力に溢れた野性味や、質実剛健な気風を想起させ、それが戦国武将の価値観と共鳴した可能性を示唆している。洗練されすぎたものではなく、力強く、日本の大地に根差した在来馬の美の象徴、それが「河原毛」であったと考えられる。

第二節:「星(ほし)」という身体的特徴 ― 個体識別の印

「星河原毛」の名のもう一つの要素である「星(ほし)」は、馬の額にある白い斑点を指す馬相学の専門用語である 8 。この「星」は、その大きさによって親指より小さいものを「小星」、握り拳より大きいものを「大星」と呼び分けたり、形状によって「乱星(らんせい)」や「曲星(きょくせい)」などと細かく分類されたりもする 10 。これらの特徴は、個々の馬を識別するための重要な情報として、血統登録や個体管理において現代でも用いられている 13

この馬が「星河原毛」と名付けられている事実は、単に河原毛の馬というだけでなく、「額に星の模様を持つ、特定の河原毛の馬」として、明確に個体として認識されていたことを示している。これは、数多いる軍馬の中から特定の一頭を区別し、その個性を尊重する文化が当時存在したことの証左に他ならない。この馬は、献上される以前から「星のある、あの河原毛」として、その産地で特別な個体として評価され、その個性的な外見的特徴が価値の一部を形成していた可能性が高い。名馬は、血統や産地、性能だけでなく、こうした唯一無二の印によっても、その存在を際立たせていたのである。

第三節:呼称の統合的考察 ― 視覚的魅力と武将の美意識

「星」と「河原毛」という二つの要素を統合すると、「額に星の模様を持つ、美しい黄褐色の馬」という、極めて具体的で視覚に訴えるイメージが浮かび上がる。淡い黄褐色の体に、引き締まった印象を与える黒いたてがみと尾、そして黒い四肢。その精悍な姿の中心、額に輝くように浮かぶ一点の白い「星」。この色彩の鮮やかなコントラストは、華やかでありながらも品格を失わない、戦国武将たちが好んだであろう美意識に強く響いたと想像される。

「星河原毛」という名は、この馬が持つ身体的な価値(在来馬としての強健さ)と、美的価値(色彩のコントラストと個性的な印)の両方を凝縮した、完璧なブランド名であったと言えよう。それは、ただの馬ではなく、一つの芸術品にも等しい価値を持つ存在として、天下人信長の元へと届けられたのである。

第二章:献上者・多賀谷修理亮重経 ― 関東の雄、信長に接近す

星河原毛の献上という行為を深く理解するためには、その献上者である多賀谷修理亮重経(たがや しゅりのすけ しげつね)という人物と、彼が置かれていた当時の政治的状況を分析する必要がある。この献上は、単なる臣従の意を示す贈り物ではなく、高度な戦略的意図に基づいた外交行為であった。

第一節:常陸の多賀谷氏とその立場

多賀谷氏は、常陸国下妻城(現在の茨城県下妻市)を本拠地とした戦国武将の一族である 14 。献上者である多賀谷修理亮は、名を重経といい、永禄元年(1558年)生まれの、当時まだ若き当主であった 14 。多賀谷氏は、上杉謙信が関東の諸将の序列を記したとされる『関東幕注文』にもその名が見え、結城氏などとは別に独立した勢力として認識されていたことがわかる 15

しかし、その地理的条件は極めて厳しかった。北には関東の覇権を争う大大名・佐竹氏、南には相模の雄・後北条氏という二大勢力が存在し、多賀谷氏はその狭間で常に難しい舵取りを迫られていた。彼らは周辺の結城氏や佐竹氏と結びつきながら、自家の勢力を維持・拡大するという、まさに綱渡りのような外交戦略によって命脈を保っていたのである 14

第二節:天正七年という時点 ― 絶妙な時機を捉えた外交戦略

多賀谷重経が信長に星河原毛を献上したのは、天正七年(1579年)四月十七日のことであったと、『信長公記』に明確に記されている 16 。重経は、中央で破竹の勢いで天下統一事業を進める織田信長の動向を鋭敏に察知し、この駿馬の献上を通じて信長への接近を図ったのである 15

この天正七年という時期の選択は、極めて戦略的であった。この頃、信長はすでに畿内をほぼ手中に収め、その権威は全国に轟き始めていた。まさに関東の諸将にとっても無視できない、次代の覇者としての地位を確立しつつあった。一方、多賀谷氏が本拠を置く関東では、依然として佐竹氏と後北条氏の対立が続いており、多賀谷氏のような中小勢力は、どちらにつくか、あるいは独立をいかに保つかという厳しい選択を迫られ続けていた。

このような状況下で、重経は第三の選択肢を見出した。それは、中央の絶対的な権力者である信長と直接的なパイプを構築することである。信長という後ろ盾を得ることができれば、北の佐竹氏、南の後北条氏の双方に対して強力な牽制となり、自家の外交的立場を飛躍的に向上させることができる。星河原毛の献上は、単なる貢物や臣従の意思表示に留まるものではない。それは、関東の複雑なパワーバランスの中に、中央の権威という「楔」を打ち込むための、自家の存亡と将来の発展を賭けた高度な外交的布石、すなわち戦略的「投資」だったのである。馬一頭の献上が、関東の政治地図を塗り替えかねない、重大な一手となり得たのである。

第三章:受贈者・織田信長と馬 ― 権威の象徴と個人の趣味

献上された星河原毛を受け取った織田信長。彼がこの馬をどのように評価し、扱ったのかを検証することは、信長の人物像と彼の天下統一事業の本質を理解する上で不可欠である。信長にとって馬は、個人の趣味の対象であると同時に、自らの権威を可視化するための重要な政治的ツールであった。

第一節:名馬収集家としての信長

信長が並外れた馬好きであったことは、同時代の記録からも明らかである。宣教師ルイス・フロイスは、その著書『日本史』の中で、信長が「著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩り」を格別に愛好したと記しており、馬が茶器や刀剣と並ぶ第一級のコレクションであったことがわかる 17 。その情熱は「名馬マニア」と評されるほどで、一説には100頭以上の馬を集めていたともいう 19

彼のコレクションには、各地の有力大名から献上された名馬が名を連ねていた。例えば、奥州の伊達輝宗からは「白石鹿毛(しろいしかげ)」や「がんぜき黒」といった名馬が、会津の蘆名盛隆からは「あいそう駁(ぶち)」の馬が贈られている 18 。全国から名馬が集まってくるという状況そのものが、信長の威光が日本の隅々にまで及んでいることの動かぬ証拠となった。多賀谷重経から献上された星河原毛も、この壮大なコレクションに加わった一体であり、関東の独立勢力たる多賀谷氏が信長の権威に服した証として、極めて重要な意味を持っていたのである。

第二節:『信長公記』に見る献上の記録 ― 喜びの演出

信長の側近であった太田牛一が記した第一級史料『信長公記』には、この献上の様子が記されている。巻十二、天正七年四月十七日の条に「多賀谷修理亮、星河原毛の馬を進上」とあり、この馬が「一日に三十里(約120キロメートル)を走ることができた」と、その優れた性能についても触れられている 16

信長はこの献上を大いに喜び、その喜びを巧みに演出して見せた。彼はまず、馬の性能を確かめるべく、家臣の青地与右衛門に試乗を命じた。そして、その見事な走りを確認した後、青地に対して褒美として天下の名刀「正宗の御腰物」を与えたという 22

この一連の行動は、単に優れた家臣に褒美を与えたという以上の、深い政治的意図を含んでいる。試乗という客観的な評価プロセスを経た上で、その報告者(試乗者)に最高級の褒美を与える。この行為は、周囲の家臣や諸大名に対して、「この星河原毛という馬は、名刀正宗に匹敵するほどの価値を持つ、素晴らしい献上品である」と公に宣言する効果を持つ。これにより、献上者である多賀谷重経の面目は大いに立ち、彼が信長から極めて高い評価を得たことが内外に示される。信長は、贈り物そのものを受け取るだけでなく、その「受け取り方」をも巧みに演出し、自らの寛大さと、相手への評価をコントロールする、卓越した政治家であった。

第三節:馬が映し出す信長の天下 ― 京都御馬揃えという一大事業

信長の馬に対する情熱と、それを政治的に利用する手腕が最も顕著に表れたのが、天正九年(1581年)二月に京都で挙行された「京都御馬揃え」である 23 。これは、正親町天皇や公家衆を招き、自らが率いる諸将と、彼らが全国から集めた名馬を披露する、壮大な軍事パレードであった 21 。この一大イベントの目的は、織田政権の圧倒的な軍事力を天下に示し、もはや戦乱の時代が終わり、信長の下で平和と秩序が確立されたことを宣言することにあった。

この御馬揃えでは、信長自身が「大黒」という馬に騎乗し、一番手には寵愛した「鬼葦毛」が入場するなど、彼のコレクションの中から選りすぐりの名馬たちが次々と登場した 6 。星河原毛が献上されたのは、この御馬揃えの二年前にあたる。信長が各地から熱心に名馬を収集していた背景には、こうした政治的パフォーマンスで自らの権威を可視化するという、壮大な構想があったことは間違いない。星河原毛もまた、この信長の天下を彩るための、重要なピースの一つとして期待されていたと考えられる。

表1 織田信長の主な愛馬一覧

馬名

毛色・特徴

献上者/入手経緯

関連する逸話・史料

星河原毛

河原毛、額に星

多賀谷重経より献上

『信長公記』に記載。一日三十里(約120km)を走る駿馬 16

鬼葦毛

葦毛

不明

京都御馬揃えにおいて、一番手として入場した寵愛馬 6

白石鹿毛

鹿毛

伊達輝宗より献上

奥州一と謳われた名馬 18

がんぜき黒

黒毛

伊達輝宗より献上

白石鹿毛と共に贈られた奥州の名馬 6

大黒

黒毛

不明

京都御馬揃えにおいて、信長自身が騎乗した馬 6

小雲雀

鹿毛

不明

京都御馬揃えにも登場。後に蒲生氏郷に下賜された 20

連銭葦毛

葦毛(銭形の模様)

不明

長篠の合戦で活躍したとされる 26

第四章:戦国時代における「名馬」の価値

星河原毛が生きた戦国時代において、「名馬」がどのような価値を持っていたのかを、軍事、経済、文化の各側面から考察することは、この馬の重要性を理解する上で不可欠である。

第一節:武具からステータスシンボルへ

戦国時代の武将にとって、馬はまず第一に、戦場を駆け巡り、敵陣に切り込むための不可欠な「武具」であった。しかし、その価値は軍事的な実用性だけに留まらなかった。優れた馬を所有することは、武将の威信を示すステータスシンボルであり、その価値は刀剣や茶器にも比肩した 17

名馬は贈答品の定番としても珍重され、その経済的価値は極めて高かった。兵卒が乗るような一般的な馬であれば1貫文(現代の価値で約10万円)程度であったのに対し、大名間の贈答品となるような名馬は、数千万から億単位の価値があったと推測されている 28 。山内一豊が妻の持参金で名馬「鏡栗毛」を購入し、それが信長の目に留まって出世のきっかけとなった逸話は、名馬一頭が武将の運命を左右し得たことを象徴している 20

さらに、単に高価なだけでなく、気性が荒く乗りこなすのが難しい「悍馬(かんば)」を自在に操ることは、武将の武勇と力量を示す名誉な行為と見なされていた 27 。星河原毛が「骨太で勇ましい悍馬」であったという伝承は、この馬が単に速く走るだけでなく、乗りこなすこと自体がステータスとなる、武将にとって理想的な資質を備えていたことを示唆している。

第二節:当時の馬の体格と「名馬」の基準

ここで極めて重要なのは、当時の「名馬」の基準が、現代のそれとは大きく異なっていたという点である。前述の通り、戦国時代の軍馬は木曽馬に代表される在来種が中心であり、その体高は120センチメートルから140センチメートル程度の、いわゆるポニーサイズであった 6

この事実を踏まえて星河原毛の性能を見ると、その評価は一変する。『信長公記』が記す「一日三十里(約120キロメートル)を走る」という能力 21 は、この小柄な馬が達成した記録なのである。これは、現代の競馬のような平坦なコースでの最高速度を競う能力ではない。甲冑を身に着けた重装備の武者を乗せ、山道や悪路を含む日本の険しい地形を、一日中走り続けることができる驚異的な「持久力」と「強健さ」を意味する。

つまり、戦国時代における「名馬」の最も重要な基準は、瞬発力よりも、戦場での実用性に直結する持続的な機動力、すなわちタフネスにあった。星河原毛が信長を喜ばせた最大の理由は、その美しい外見に加え、この戦場で最も信頼に足る、卓越した持久力にあったと結論付けられる。

第五章:逸話の検証 ― 明智光秀の献馬は事実か

本報告書の出発点となった、「多賀谷氏の献上と同時期に明智光秀も馬を献上したが、信長はそれを受け取らなかった」という逸話について、その信憑性を史料に基づいて厳密に検証する。

第一節:逸話の概要と出典の探索

この逸話は、信長の寵愛が関東の新参者である多賀谷氏に向かい、腹心であるはずの光秀が疎んじられたことを示すエピソードとして、しばしば語られてきた。しかし、信頼性の高い同時代の史料、特に信長の動向を最も詳細に記録した『信長公記』を精査しても、この逸話を直接裏付ける記述は一切見当たらない 31 。『信長公記』は、天正七年四月十七日に多賀谷重経が星河原毛を献上した事実は明確に記録しているが 16 、同日に光秀が馬を献上したこと、そしてそれが拒絶されたという記録は存在しないのである。

第二節:逸話の成立背景に関する考察

史料的な裏付けが皆無であることから、この逸話は歴史的事実ではなく、後世に創作された「物語」である可能性が極めて高いと結論付けられる。では、なぜこのような物語が生まれ、語り継がれるようになったのか。その背景には、天正十年(1582年)に起きる「本能寺の変」という衝撃的な結末から歴史を逆算し、信長と光秀の間の不和を象徴するエピソードを求める人々の心理があったと考えられる。

この逸話は、本能寺の変という結果を説明するための「予兆」として、物語的に非常に優れた構造を持っている。

  1. 対比構造の妙 : 遠方の関東から忠誠を示す多賀谷氏と、信長の最も近くにいるはずの腹心・光秀。この両者を対比させ、前者が受け入れられ、後者が拒絶されるという構図は、信長の寵愛が光秀から離れつつあったことを暗示する上で極めて効果的である。
  2. 動機の補強 : 光秀が謀反に至った動機については諸説あるが、信長による度重なる屈辱が原因であるとする「怨恨説」は根強い人気を持つ。この献馬拒絶の逸話は、その怨恨が積み重なる一例として、光秀の謀反の動機を分かりやすく補強する役割を果たす。

したがって、この逸話は史実としてではなく、本能寺の変という大事件をめぐる人々の歴史解釈や、英雄たちの物語をよりドラマチックにしたいという欲求が生み出した「文化的産物」として捉えるべきである。なお、明智氏と馬をめぐる物語としては、光秀の重臣である明智秀満(左馬助)が、山崎の戦いの後、愛馬「大鹿毛(おおかげ)」に乗って琵琶湖を泳ぎ渡り、居城である坂本城へ帰還したという有名な伝説が存在する 33 。こうした「明智氏と名馬」にまつわる別の物語が、時代を経て混同されたり、変形したりして、新たな逸話を生み出す土壌となった可能性も考慮に入れるべきであろう。

結論:星河原毛が物語る戦国の一断面

本報告書を通じて明らかになったように、織田信長の愛馬「星河原毛」は、単に一頭の美しい馬ではなかった。それは、戦国という時代の多面的な様相を映し出す、極めて象徴的な存在である。

その名は、「河原毛」という在来馬の強健さと美しさ、そして「星」という個性を尊ぶ、当時の武将たちの価値観を反映していた。その献上は、天下統一の最終段階にあった織田政権と、北条・佐竹という二大勢力の狭間で生き残りを賭ける関東の武将・多賀谷氏との間の、緊迫した外交戦略の産物であった。そして、信長によるその受容とそれに伴うパフォーマンスは、彼の卓越した政治的手腕と、天下人としての権威を内外に示す見事な演出であった。

さらに、この馬が評価された核心には、小柄な体格で重装備の武者を乗せ、一日百キロメートル以上を走破する驚異的な「持久力」があり、それは当時の「名馬」の基準が、見た目の速さではなく、戦場での実用性、すなわちタフネスにあったことを示している。

そして、明智光秀との献馬をめぐる対比的な逸話は、史実である可能性は極めて低いものの、それ自体が「本能寺の変」という歴史的大事件を人々がどのように解釈し、物語化してきたかを示す貴重なサンプルである。

結論として、星河原毛という一頭の馬の存在と、それを取り巻く史実および後世の創作は、戦国時代の政治力学、武将の生存戦略、独自の美意識、そして馬という生き物が人間社会で果たした多面的な役割を、今日に鮮やかに伝え、我々に戦国という時代をより深く理解するための、豊かで魅力的な視座を提供してくれるのである。

引用文献

  1. 【競馬用語解説】河原毛(かわらげ) - オッズパーク https://www.oddspark.com/keiba/glossary/keyword/ka/79002.html
  2. 「かわらげ」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E3%81%8B%E3%82%8F%E3%82%89%E3%81%92
  3. 河原毛 - 競馬用語辞典 - JRA https://www.jra.go.jp/kouza/yougo/w99.html
  4. 河原毛 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%8E%9F%E6%AF%9B
  5. 河原毛 馬の毛色 花遊戯 http://home.catv-yokohama.ne.jp/22/hnasb/uma/uma.ryoko/uma.ryo.ke.kawara.html
  6. 戦国武将はポニーに乗っていた!? 小さくてもパワフルなずんぐり ... https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/40611/
  7. 河原毛(かわらげ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%B2%B3%E5%8E%9F%E6%AF%9B-1294645
  8. 豆知識!!馬の顔の模様について! - 乗馬用品店 BLUENNY https://bluenny.base.shop/blog/2023/02/01/110000
  9. 【マメ知識】馬の特徴を登録! 馬の模様には名前があるって知っていますか? - JAきたみらい https://www.jakitamirai.or.jp/tsushin/tips/30024/
  10. 【今さら聞けない競馬学】流星など、馬の顔の模様にはどんな種類があるの? | Pacalla(パカラ) https://pacalla.com/article/article-3391/
  11. 流星(りゅうせい)や曲星(きょくせい)など、馬の顔の模様について | HORSE FAIR https://horsefair.jp/topics/topics-767/
  12. 馬の顔の模様って分類されているの知ってました? - 乗馬メディア EQUIA エクイア https://equia.jp/trivia/post-7128.html
  13. 馬の顔の模様 | GORON by ペット共生アドバンスネット https://goron.co/archives/12845
  14. 多賀谷重経(たがやしげつね)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A4%9A%E8%B3%80%E8%B0%B7%E9%87%8D%E7%B5%8C-1087983
  15. 武家家伝_多賀谷氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tagaya_k.html
  16. 総 年 表 - 歴史の目的をめぐって https://rekimoku.xsrv.jp/9-sounenpho.php?page=228
  17. 「彼は美しい贈り物を携えた者だけに会見を許した」…織田信長の心をつかみとれ! 戦国武将たちの“贈り物合戦” | 文春オンライン https://bunshun.jp/articles/-/65268?page=1
  18. 「彼は美しい贈り物を携えた者だけに会見を許した」…織田信長の心をつかみとれ! 戦国武将たちの“贈り物合戦” | コラム・エッセイ - 本の話 https://books.bunshun.jp/articles/-/8236
  19. 【武将と愛馬Ⅲ】 シリーズ最後を飾るのは「織田信長」。馬好き武将のなかでも - ぐるっとママ湘南 https://www.gurutto-mama-shonan.com/detail/1027/news/crane-6726.html
  20. 武将の名馬一覧/ホームメイト - 名古屋刀剣ワールド https://www.meihaku.jp/historian-text/warlord-horse/
  21. 織田信長と馬 馬を通した諸大名との外交戦略とは - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/437
  22. [20240721更新]"伝説の侍弥助"は本当に歴史的事実なのか?侍とは何か?Assasin's Creed Shadowsのトレーラーを見て調べてみたこと - note https://note.com/gamoripo/n/naa749b5b1fc7
  23. 京都御馬揃え - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BE%A1%E9%A6%AC%E6%8F%83%E3%81%88
  24. 織田信長によるビッグイベントを成功させろ!多くの家臣が奔走した「御馬揃え」とは - 歴史人 https://www.rekishijin.com/28349
  25. 名馬一覧 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E9%A6%AC%E4%B8%80%E8%A6%A7
  26. 戦国エピソード:武将たちの名馬 http://pipinohoshi.blog51.fc2.com/blog-entry-41.html
  27. 戦国時代に活躍した名馬たち https://equia.jp/trivia/post-9407.html
  28. 賄賂にトータル3億円!?室町時代、戦国大名・伊達成宗のバラまいた賄賂がケタ違いすぎる | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 2 https://mag.japaaan.com/archives/158113/2
  29. まじかよ…山内一豊の妻は馬なんか買ってない?「内助の功」の真相に迫る - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/110442/
  30. 雑記 馬について - つとつとのブログ - Seesaa https://tsutotsuto.seesaa.net/article/201808article_3.html
  31. 信長公記 - Wikisource https://ja.wikisource.org/wiki/%E4%BF%A1%E9%95%B7%E5%85%AC%E8%A8%98
  32. 信長公記/我自刊我書- Wikisource https://ja.wikisource.org/wiki/%E4%BF%A1%E9%95%B7%E5%85%AC%E8%A8%98/%E6%88%91%E8%87%AA%E5%88%8A%E6%88%91%E6%9B%B8
  33. 犬に馬に猿に猫…、動物大好きお殿様/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/18240/
  34. 武将と馬の逸話を大調査!?【後編】 - Pacalla(パカラ) https://pacalla.com/article/article-3781/
  35. 『明智左馬之助 湖水渡り』あらすじ - 講談るうむ http://koudanfan.web.fc2.com/arasuji/01-19_aketikosui.htm