有楽井戸は織田有楽斎ゆかりの大井戸茶碗。朝鮮半島で生まれ、枇杷色の釉調と梅花皮が特徴。日本で「わび」の美意識を体現し、東博所蔵。
本報告書は、日本の茶道文化において名高い「大井戸茶碗 有楽井戸(おおいどちゃわん うらくいど)」について、その多岐にわたる側面を深く掘り下げ、包括的かつ学術的な考察を加えるものである。この茶碗は、16世紀の朝鮮半島に生まれ、日本の茶人たちによってその類稀なる美が見出された後、特に織田信長の弟である茶人・織田有楽斎(おだうらくさい、長益)との深い関わりによって「有楽」の名を冠するに至った名碗として知られている 1 。
有楽井戸の辿った歴史的背景、その姿が示す美術的価値、そして数多の茶人の手を経てきた伝来の物語は、日本の茶道文化やそこに息づく独特の美意識を映し出す鏡と言えよう。それは単なる器としての存在を超え、それに関わった人々の審美眼、各時代の価値観、さらには日韓の文化交流といった無形の要素と分かち難く結びついている。特に、茶道具の価値形成において、器物自体の造形美のみならず、旧蔵者の名声やそれにまつわる物語性が重要な意味を持つことは広く認識されているが、有楽井戸もまた、その名称の由来となった織田有楽斎という人物の存在によって、単なる古陶磁を超えた文化財としての深みを獲得している。本報告書は、この有楽井戸が持つ多面的な価値と魅力を、歴史的、美術史的観点から詳細に解明することを目的とする。
井戸茶碗は、おおよそ16世紀頃、李氏朝鮮時代に朝鮮半島南部の窯で焼成された陶器の一群を指す 1 。その具体的な製作地や朝鮮半島における本来の用途、位置づけについては、今日に至るまで完全には解明されておらず、諸説が存在する謎多き存在である。
一般的には、民衆の日用品、例えば飯碗や祭祀用の器として作られたと考えられている 4 。柳宗悦がかつて「農民の使っていたお茶漬け茶碗」と述べたように、雑器であったとする説は広く知られているが 7 、一方で祭器説や酒器説なども提唱されており、その見解は多岐にわたる 7 。近年の研究では、韓国の陶芸家である趙誠主氏が、従来の祭器説を批判的に検証しつつ、韓国・熊川(ウンチョン)の古窯址の発掘調査の成果などを踏まえ、井戸茶碗の実像に迫ろうと試みている 9 。
井戸茶碗を理解する上で最も根源的な問いの一つは、朝鮮半島ではありふれた器であった(とされる)ものが、なぜ日本では至上の名品として扱われるようになったのか、という点である。この著しい価値観の転換こそが、井戸茶碗の本質に迫る鍵となる。朝鮮半島での「実用」を主とした器が、日本では「観賞」の対象となり、さらには「わび」という精神性をも担う器へと昇華した過程には、日本独自の美意識の形成と深く関わる文化的現象が見て取れる。この価値の変容は、単に器物が地理的に移動したというだけでなく、それを受容する側の「眼」と「価値基準」が根本的に異なった文化圏で再評価された結果生じたものと考えられる。井戸茶碗の窯跡研究は、こうした謎を解き明かすための重要な学術的テーマであり続けており、日韓の陶磁史研究において活発な議論が交わされている 10 。
井戸茶碗が日本へ将来されたのは、室町時代末期から桃山時代にかけてのこととされている 4 。当初、茶の湯の世界では中国から渡来した精緻な「唐物(からもの)」の茶道具が至上とされていたが、村田珠光や武野紹鴎、そして千利休といった茶人たちによって「わび茶」の精神が深化するにつれて、その美意識は大きく変化した。彼らは、華美な唐物とは対照的な、素朴で力強く、作為のない佇まいを持つ朝鮮半島の陶器に新たな美を見出し、これを積極的に茶席に取り入れたのである 3 。
中でも井戸茶碗は、そのおおらかな姿や温かみのある土味、自然な釉調などが、簡素閑寂を旨とする「わび茶」の精神を最もよく体現するものとして、茶人たちから絶大な支持を得た 13 。桃山時代の茶書『山上宗二記(やまのうえそうじき)』には、「井戸茶碗、是天下一ノ高麗茶碗」との記述が見られ、当時の茶道界において井戸茶碗が最高位の茶碗として認識されていたことを明確に示している 4 。
戦国時代は、茶の湯が武将たちの間で流行し、茶道具が単なる趣味の品を超えて、ステータスシンボルや外交の道具としても機能した特異な時代であった 16 。このような背景のもと、井戸茶碗の持つ素朴さや、貫入(かんにゅう)や梅花皮(かいらぎ)といったある種の不完全さとも言える景色が、従来の価値観とは異なる新しい美の基準として、特に「わび」を重んじる茶人たちに積極的に受容された。これは、既存の美意識に対する挑戦であり、茶の湯における美のパラダイムシフトとも言える現象であった。日本の茶人たちは、井戸茶碗に新たな美的価値をいわば「発見」し、あるいは「付与」したのであり、これは単なる舶来品の受容ではなく、文化的な再解釈と創造の行為であったと言えよう。
井戸茶碗は、その独特の姿形や釉調、そして細部に至るまでの特徴的な景色によって、他の高麗茶碗と区別される。これらは後世の茶人たちが多くの井戸茶碗を鑑賞し、比較検討する中で見出され、体系化された「見所」であり、一種の「約束事」ともなっている。
主な特徴としては、まず全体を覆う**枇杷色釉(びわいろゆう) が挙げられる。これはほんのり赤みを帯びた柔らかな黄褐色の釉薬で、井戸茶碗の温かみのある表情を生み出す 1 。器表には 轆轤目(ろくろめ) と呼ばれる、轆轤成形の際に生じる回転の跡が残り、これが力強さや動きを感じさせる景色となる 4 。茶碗の底部には 竹節高台(たけふしこうだい) と呼ばれる、竹の節のように段があり、比較的高く作られた高台が据えられ、堂々とした風格を与える 1 。そして、高台とその周辺には 梅花皮(かいらぎ) と呼ばれる、釉薬が焼成時に縮れて粒状になった景色が生じ、これが井戸茶碗の大きな見所とされる 1 。釉の表面には 貫入(かんにゅう) と呼ばれる細かいひび割れ模様が見られ、これもまた景色として楽しまれる 4 。茶碗の内底には、重ね焼きの際に器同士の融着を防ぐために置かれた小石や貝殻の跡が 目跡(めあと)**として残ることがあり、これも特徴の一つである 6 。
これらの特徴は、井戸茶碗の価値を判断する上での基準となると同時に、その多様な魅力を理解する手がかりともなる。しかしながら、いわゆる「井戸の約束事」とされるこれらの特徴も、絶対的な規範ではなく、あくまで鑑賞の一助として捉えるべきである。個々の茶碗が持つ固有の美しさや個性を真に理解するためには、これらの約束事を知識として持ちつつも、それに囚われることのない柔軟な眼差しが求められると言えよう 6 。
井戸茶碗は、その器形や釉調、作風などによって、いくつかの種類に分類される。代表的なものとしては、大振りで風格のある 大井戸(おおいど) 、やや小振りな 小井戸(こいど)または古井戸(こいど) 、釉調に青みを帯びる 青井戸(あおいど) 、細かい貫入が特徴的な**小貫入(こかんにゅう)**などがある 4 。これらの分類は、井戸茶碗の多様な個性を理解する上で参考となる。
「大井戸茶碗 有楽井戸」に関する基本的な情報を以下に表として示す。これらの客観的データは、続く美術的評価や歴史的考察の基礎となるものである。
表1:「有楽井戸」基本情報一覧表
項目 |
内容 |
出典例 |
正式名称 |
大井戸茶碗 有楽井戸 (おおいどちゃわん うらくいど) |
1 |
文化財指定 |
重要美術品 |
1 |
時代・世紀 |
朝鮮時代・16世紀 |
1 |
制作地 |
朝鮮 |
1 |
材質 |
陶製 |
1 |
法量 |
高さ9.2cm、口径15.1cm、高台径5.5cm、重量449.2g |
1 |
所蔵 |
東京国立博物館 |
1 |
寄贈者 |
松永安左エ門氏 |
1 |
機関管理番号 |
TG-2204 (東京国立博物館) |
1 |
「有楽井戸」は、大井戸茶碗に分類されるにふさわしい、ゆったりとおおらかで、やや丸みを帯びた優しい姿をしている 1 。口縁はわずかに外側へと反り、端正な印象も与える 21 。その形態は「なかなか端正で、高台ぎわから口辺にかけて、まことに素直な立ちあがりをみせ、胴の上部でややふくらんで、口辺は少海外にそり気味」と具体的に描写されている 21 。
全体にかかる釉薬は、枇杷色と称される、ほんのりとした赤みを帯びた温かみのある色調を呈している 1 。桃色に近いとも評されるこの釉色は、有楽井戸の柔和な印象を決定づける重要な要素である 22 。釉の表面には細かく美しい貫入が走り、景色に深みを与えている 21 。
高台は、井戸茶碗の典型である竹節高台で、力強さと安定感を備えている 1 。高台とその周囲には、釉薬が焼成時に縮れて生じる梅花皮が景色をなし、井戸茶碗ならではの野趣と変化に富んだ表情を見せる 13 。この梅花皮の状態について、「高台ぎわの削り跡には鋭く、高台の立ちあがりでは細かく」現れていると詳述されている 21 。
有楽井戸の「見所」、すなわち鑑賞の要点は、まずその穏やかで気品を感じさせる全体の佇まいにあると言えよう 1 。枇杷色の釉、裾に生じた梅花皮、そして竹節状の高台といった井戸茶碗特有の表情が、過不足なく調和し、一つの完成された美を形成している 1 。茶碗の内部には目跡が四つあり、外側には低い轆轤目がゆるやかに波打っているとされる 21 。特に、腰までの枇杷色の釉と、それ以下の高台周辺に見られるやや荒めの梅花皮との対比が絶妙な景色を生み出していると評される 21 。手に取った際の、やわらかな丸みとおおらかな造形がもたらす穏やかな余韻も、この茶碗の魅力の一つである 13 。
有楽井戸の評価において繰り返し言及される「穏やかさ」や「気品」 1 は、具体的にどのような造形要素から生じているのであろうか。それは、轆轤目の強弱、釉薬の調子、梅花皮の現れ方、そして全体のフォルムの均衡など、複数の要素が複合的に作用した結果と考えられる。例えば、前述の「端正な形態」や「素直な立ち上がり」、そして「静かな雰囲気」といった描写 21 は、過度な歪みや激しい景色を抑えた、抑制の効いた美しさを志向した結果とも解釈できる。他の井戸茶碗、特に国宝「喜左衛門井戸」の荒々しい梅花皮や力強い造形 23 と比較した場合、有楽井戸のこの特徴はより際立つ。有楽井戸の美しさは、井戸茶碗が本来持つ素朴さや力強さを内包しつつも、過剰さを排し、洗練された調和のうちに成立していると言えるのかもしれない。この「抑制された美」こそが、後に詳述する織田有楽斎自身の美意識と深く共鳴した可能性も考えられよう。
「有楽井戸」という特徴的な名称は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将であり、当代一流の茶人としても名を馳せた織田有楽斎(本名:長益、1547-1622)がこの茶碗を所持したことに由来する 1 。有楽斎は織田信長の弟にあたり、その生涯は波乱に富んだものであったが、茶の湯の世界においては独自の境地を切り開き、後世に大きな影響を与えた人物である。
有楽斎が具体的にいつ、どのような経緯でこの井戸茶碗を入手したのかを伝える詳細な記録は乏しい。しかし、彼が茶人として旺盛に活動した時期に、この茶碗を愛用し、茶会などで用いたであろうことは想像に難くない。茶道具の世界において、誰がその道具を所持したかという「伝来」は、道具そのものの価値やそれにまつわる物語性を大きく左右する重要な要素である。有楽斎という高名な茶人の名が付されたことは、この井戸茶碗が後世において特別な名碗として認識され、珍重される大きな要因となったと言えよう。戦国時代には、茶道具が武将間の贈答品や権力の象徴としても機能したことが知られている 16 。有楽斎ほどの人物が、どのような審美眼をもってこの茶碗を選び、あるいは誰かから贈られたのか。その背景には、当時の茶の湯文化における井戸茶碗の評価の高まりと、有楽斎自身の卓越した見識が介在していたに違いない。
織田有楽斎の手を離れた後も、「有楽井戸」は数々の著名な数寄者や豪商の蔵に収まり、その来歴を豊かにしてきた。
江戸時代中期には、豪商としてその名を轟かせた**紀伊国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)**が所持したと伝えられている 3 。彼がこの茶碗を蔵した際、その箱書は当代の人気絵師であった英一蝶(はなぶさいっちょう)の手によるものであったという逸話は、この茶碗が当時から特別な品として扱われていたことを示唆している 14 。
近代に入ると、関西を代表する実業家であり、熱心な茶人でもあった 藤田香雪(ふじたこうせつ) (藤田伝三郎の長男、藤田平太郎)の所蔵となる 1 。そして、昭和12年(1937年)に藤田家所蔵品の大規模な入札が行われた際、「有楽井戸」は再び大きな注目を集めることとなる。この時、後に「電力の鬼」と称される実業家であり、近代を代表する大数寄者の一人である**松永安左エ門(まつながやすざえもん、号:耳庵(じあん))**が、同じく当代随一の数寄者であった益田鈍翁(ますだどんのう)との熾烈な競り合いの末、十四万六千八百円という当時としては破格の金額で落札したのである 20 。この出来事は、当時の茶道具に対する熱狂ぶりと、「有楽井戸」の評価の高さ、そしてそれを巡るコレクターたちの情熱を如実に物語るエピソードとして知られている。耳庵が後に「二十万円でも買うつもりであった」と嘯いたという話も伝わっており 22 、彼のこの茶碗にかける並々ならぬ執心ぶりがうかがえる。その他、明治時代の建築家である伊集院兼常などの名も、かつての所蔵者として挙げられることがある 22 。
「有楽井戸」は、単に物理的な器として存在するだけでなく、これらの歴代所蔵者たちの物語や逸話が幾重にも積み重なることで、その文化的価値を一層増幅させてきたと言える。その伝来は、単なる所有者の変遷に留まらず、各時代の数寄者たちの美意識、財力、そして時には執念が交錯する一つのドラマであった。紀伊国屋文左衛門が英一蝶に箱書を依頼した行為は、茶碗の価値をさらに高めようとする意図の表れであり、松永耳庵による落札劇は、近代における名物茶碗の市場価値と、それを巡るコレクターたちの熱量を象徴している。これらのエピソードは、「有楽井戸」を単なる古美術品としてではなく、「生きた文化財」として捉える上で不可欠な要素である。
松永耳庵は、第二次世界大戦後、自らが情熱を傾けて蒐集した多くの美術工芸品とともに、「有楽井戸」を国(現在の東京国立博物館)に一括して寄贈した 1 。これにより、「有楽井戸」は一個人の所蔵品から、国民全体の共有財産へとその位置づけを変えることとなった。
現在、「有楽井戸」は東京国立博物館の重要な所蔵品の一つとして厳重に管理され、折々の展示機会を通じて広く一般に公開されている 1 。近年では、8Kの高精細映像技術を用いた新たな文化財鑑賞ソリューションの実証実験の対象として「有楽井戸」が選ばれるなど、現代における文化財活用の新たな試みもなされている 19 。
個人所蔵の名品が博物館に収蔵されることは、一部の限られた数寄者だけのものであった美が、より多くの人々の目に触れる機会を得るという点で、文化財の保護と公開という観点から大きな意義を持つ。一方で、かつての名物たちが所有者を変えながら繰り広げたドラマティックな「名物流転の絵巻」が、博物館という安定した環境に収まることで終焉を迎えることに対し、ある種の感慨を覚える向きもあるかもしれない 22 。しかし、これこそが文化財が辿る一つの宿命であり、安定した保存と広範な公開という新たな段階への移行を意味するのである。デジタル技術を用いた新しい展示方法は、この新たな段階における文化財との多様な関わり方の一例と言えよう。
織田有楽斎、本名を織田長益(1547-1622)は、尾張の戦国大名・織田信秀の十一男として生まれ、織田信長の弟にあたる 18 。彼の幼少期や信長存命中の事績については比較的記録が少ないが、甲州征伐などに従軍したことが知られている 18 。
長益の名が歴史上大きくクローズアップされるのは、天正10年(1582年)の本能寺の変における行動である。当時、信長の嫡男・織田信忠に仕えていた長益は、信忠と共に二条新御所に籠城したが、明智光秀軍の猛攻の前に信忠は自害。その中で長益は御所を脱出し、近江を経て岐阜へと逃れたとされる 18 。この行動は後に、「信忠に自害を勧めながら自分は逃げた」として、「織田の源五(長益のこと)は人では無いよ」などと京童に嘲笑されたという俗説を生み、「逃げた男」という不名誉な評価がつきまとうことにもなった 18 。しかし、この点については、現代的な視点から「生き抜くことの方が、よほど苦難の道ではなかったか」といった擁護的な解釈もなされている 18 。
本能寺の変後は、甥の織田信雄に仕え、その後豊臣秀吉の御伽衆となり、摂津国味舌(ました)に所領を得て剃髪し「有楽」と号した 25 。関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦功を挙げ、戦後、大和国に3万2千石を与えられた 25 。大坂の陣が起こるまでは豊臣家に仕え、淀殿を補佐したが、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の和議交渉に関わった後、翌年の夏の陣開戦直前に大坂城を退去した 25 。
晩年は京都に隠棲し、建仁寺の塔頭であった正伝院を再興(現在の正伝永源院)。ここに茶室「如庵(じょあん)」などを築き、茶道三昧の余生を送った 5 。有楽斎の生涯は、戦国の動乱から泰平の世へと移り変わる激動の時代を、武将として、そして文化人として巧みに生き抜いた軌跡と言える。彼のいくつかの行動は、表面的には不名誉と映るかもしれないが、それは彼なりの状況判断と生存戦略の結果であり、その複雑な人生の中で、茶の湯が精神的な支柱、あるいは処世術として重要な役割を果たした可能性が考えられる。
織田有楽斎は、千利休に茶の湯を学んだとされ 27 、利休七哲の一人に数えられることもあるが 30 、むしろ利休の茶風を踏まえつつも、独自の茶風を展開したと評されている 27 。彼は茶道有楽流の流祖として知られ、その流儀は特に尾張徳川家で受け継がれ、「尾州有楽流」として今日に伝わっている 31 。有楽流の茶風は、武家らしい格式や大らかさを持ちつつ、ゆったりとした点前を特徴とするとされる 31 。また、武家茶道としての特色として、点前の際に袱紗(ふくさ)を右腰に付けるなどの作法も見られる 32 。
有楽斎は生涯を通じて頻繁に茶会を催し、大名や公家、町衆など幅広い層の人々と交流を深めた 28 。時には、彼の茶席が政治的な交渉や調停の場としても機能したことが記録に残っている。例えば、豊臣秀吉と織田信雄、あるいは秀吉と徳川家康との間の和議に際して、有楽斎が茶会を通じてその仲介役を務めたとされるエピソードがある 30 。
有楽斎の茶の湯に対する姿勢は、単に形式を重んじるのではなく、客をもてなし、快適に過ごしてもらうことを第一とするものであったと言われる 28 。彼は、師である利休の教えを尊重しつつも、それを盲目的に模倣することを批判し、自身の創意工夫を重んじた 30 。有楽斎の茶は、利休の追求した厳格な「わび」とは趣を異にし、武家としての矜持と茶人としての柔軟な精神性を併せ持ち、相手や状況に応じたもてなしを重視した、ある種の自由さや洗練された趣味性を有していたのではないかと推察される。
織田有楽斎の美意識を最も象徴的に示すものの一つが、彼が晩年に京都・建仁寺の正伝院(現在の正伝永源院)内に建造した茶室「如庵(じょあん)」である。この茶室は、現存する国宝茶席三名席の一つとして高く評価されており、有楽斎の茶道における思想と独創性を今に伝えている 5 。
「如庵」は二畳半台目という小間の構成でありながら、その内部空間には有楽斎ならではの創意工夫が凝らされている。例えば、壁の一部に暦を貼り付けた「暦張り」の意匠や、窓に斜めに竹を数本打ち付けた「有楽窓(うらくまど)」または「斜め格子窓」と呼ばれる独特の窓などが特徴的である 5 。これらのデザインは、単なる装飾に留まらず、有楽斎の知的好奇心や遊び心、あるいは何らかの思想的背景を反映している可能性も指摘されている。「如庵」という名称についても、有楽斎がキリスト教の洗礼を受け、その洗礼名が「ジョアン(João)」であったことに由来するという説がある 5 。
「如庵」は、千利休の茶室とは異なる独自の美意識を示しており、その後の茶室建築にも少なからぬ影響を与えたとされる 5 。この茶室の空間構成は、有楽斎の茶風と同様に、武家としての格式と茶人としての自由な精神、静謐さと独創性が巧みに同居するものであったと推察される。「如庵」はまさに「織田有楽斎の茶道の集大成」 32 とも言える存在であり、彼の美意識を理解する上で欠くことのできない重要な遺構である。
織田有楽斎は、自ら茶杓や茶碗を製作することもあったと伝えられているが、残念ながら現存するものは極めて少ない 5 。それゆえ、彼が所持したとされる「有楽井戸」は、有楽斎の趣味嗜好や美意識を考察する上で貴重な手がかりとなる。
「有楽井戸」の「穏やかで気品のある」佇まい 1 は、有楽斎の茶風や、彼が設計した茶室「如庵」に見られる洗練された美意識と通底するものがあると考えられる。ある資料では、有楽斎の美意識が、彼が晩年に用いたとされる品々、例えば重要文化財に指定されている「緑釉四足壺(りょくゆうしそくこ)」(慈照院蔵)や自作と伝わる茶杓、そしてこの「有楽井戸」に端的に表れていると指摘されている 18 。
また、有楽斎は植物にも深い関心を示したとされ、ツバキの一品種である「太郎冠者(たろうかじゃ)」は、彼がこの花を特に愛したことから別名「有楽椿(うらくつばき)」とも呼ばれ、その学名も Camellia uraku となっている 25 。このような自然の美に対する関心も、彼の多面的な美意識の一端を示すものと言えよう。
有楽斎が選んだとされる「有楽井戸」、彼が設計した「如庵」、そして彼が愛したとされる植物など、異なる対象物の中に、共通する美意識の軸を見出すことは可能であろうか。それは、おそらく「華美」や「奇抜」といった方向性ではなく、むしろ「洗練された簡素美」や「静謐な気品」といった言葉で捉えられるものではないだろうか。「有楽井戸」の穏やかな姿や静かな雰囲気 21 は、「如庵」の抑制された空間構成や、有楽斎の「客をもてなす」という柔和な茶風 28 と響き合うように感じられる。千利休が追求した厳格な「わび」とは異なる、より個人的で洗練された趣味性を帯びた美意識が有楽斎にはあり、「有楽井戸」はそのような彼の審美眼に適った器であったと考えられる。
井戸茶碗は数多くあれど、その中でも特に名高い「名物」と称される茶碗がいくつか存在する。「有楽井戸」の個性をより深く理解するためには、これらの名碗との比較が不可欠である。
表2:「有楽井戸」と主要な名物井戸茶碗の比較表
茶碗名称 |
文化財指定 |
寸法例(高さ×口径 cm) |
作風・特徴の要約 |
主要な伝来・所蔵 |
出典例 |
有楽井戸 |
重要美術品 |
9.2 × 15.1 |
穏やかで気品のある姿。枇杷色の釉調。梅花皮は比較的おとなしい。「柔」の印象。 |
織田有楽斎、紀伊国屋文左衛門、藤田香雪、松永耳庵。東京国立博物館蔵。 |
1 |
喜左衛門井戸 |
国宝 |
9.8 × 15.4 |
荒々しい梅花皮、力強い轆轤目、やや歪みを伴う豪快な姿。「剛」「動」の印象。井戸の筆頭。 |
竹田喜左衛門、本多忠義。大徳寺孤篷庵蔵。 |
24 |
筒井筒井戸 |
重要文化財 |
7.9 × 14.5 |
雄大でさびのある趣。深めの見込みと高い高台が特徴。 |
筒井順慶、豊臣秀吉、細川幽斎(逸話)。個人蔵。 |
35 |
細川井戸 |
重要文化財 |
9.1-9.6 × 15.9 |
大らかで端正な姿。明るい枇杷色。整った梅花皮。 |
細川三斎、伊達家、松平不昧。畠山記念館蔵。 |
36 |
加賀井戸 |
(指定なし) |
(記載なし) |
青みを帯びた釉調に鼠色のしみが「むら雲」のような景色をなす。 |
松平不昧など。 |
38 |
まず筆頭に挙げられるのが、井戸茶碗の中で唯一国宝に指定されている**「喜左衛門井戸(きざえもんいど)」**(大徳寺孤篷庵蔵)である 4 。喜左衛門井戸は、その荒々しく力強い梅花皮、大胆な轆轤目、そしてやや歪みを伴うこともある豪快な姿など、全体として「剛」や「動」といった印象が強い名碗である 34 。その作行きは「非常に手強い」と評されるほどである 34 。
これに対して「有楽井戸」は、枇杷色の釉調がより穏やかで、梅花皮の現れ方も比較的おとなしく、全体の姿も端正であることから、「柔」や「静」といった印象を与える 22 。その佇まいには気品や優美さが際立っており、「女性的な優美な大井戸」と表現されることもある 38 。
また、重要文化財に指定されている**「筒井筒井戸(つついづついど)」**(個人蔵)も、喜左衛門井戸と並び称される大井戸の名碗である 4 。雄大で「さび」のある趣が特徴とされ 35 、もとは筒井順慶が所持し、後に豊臣秀吉の手に渡ったが、近侍の小姓が誤って割り、それを細川幽斎の機転の利いた歌によって小姓が許されたという有名な逸話が残っている 35 。
その他、 「細川井戸(ほそかわいど)」 (畠山記念館蔵、重要文化財)は、大らかで端正な姿と明るい枇杷色、整った梅花皮が特徴であり 23 、**「加賀井戸(かがいど)」**は、青みを帯びた釉調に鼠色のしみが「むら雲」のような景色をなすことで知られている 38 。
これらの名碗を比較検討することで、一口に「井戸茶碗」と言っても、その作風や景色には多様性があり、それぞれが異なる魅力を持っていることが理解できる。「有楽井戸」の持つ「穏やかさ」や「気品」は、井戸茶碗の美の一つの到達点であり、例えば喜左衛門井戸の持つ「力強さ」とは異なるベクトルで高く評価されてきた。ある論者は喜左衛門井戸を「剛」、有楽井戸を「柔」と対比し、「中庸な美であっても吸い寄せられるような魅力を湛えている」と有楽井戸を評している 22 。これは、井戸茶碗の評価軸が一つではないことを示唆しており、荒々しさや力強さだけが井戸茶碗の魅力なのではなく、「有楽井戸」のような調和の取れた静かな美もまた、茶人たちを深く惹きつけてきたのである。この多様性の認識は、日本の茶道における美意識の幅広さと深さを示すものと言えよう。
「有楽井戸」が各時代においてどのように評価されてきたかを知る上で、茶会記や関連文献は重要な手がかりとなる。具体的な茶会記での使用例や詳細な評価の変遷については、現存する資料からは限定的ではあるものの、いくつかのエピソードはその評価の高さを物語っている。
前述の通り、江戸時代の豪商・紀伊国屋文左衛門が英一蝶に箱書を依頼したという事実は 20 、当時既に「有楽井戸」が特別な価値を持つ名品として認識されていたことを示している。また、近代に入って松永耳庵が益田鈍翁と競って高額で落札した逸話 22 は、20世紀初頭においても「有楽井戸」がトップクラスの茶道具として茶人や数寄者たちの垂涎の的であったことを明確に示している。
近世後期には、大坂の豪商であった鴻池家などの蔵帳をもとにした体系的な茶道具集が編纂され、これらが茶道具の評価の基礎となったことが指摘されている 40 。「有楽井戸」も、こうした文脈の中でその評価が確立され、名物としての地位を不動のものとしていった可能性が考えられる。歴代の所蔵者が、織田有楽斎をはじめ、いずれも当代一流の茶人や数寄者であったという事実は、それ自体が「有楽井戸」の評価の高さを間接的に証明していると言えよう。茶道具の評価は、単に作られた時代の価値だけでなく、後世の茶人や数寄者たちがどのようにそれを受け止め、語り継いできたかによって形成される。「有楽井戸」は、その「語られる歴史」においても豊かな内容を持つ名碗なのである。
井戸茶碗全般が、朝鮮半島における日常の器から、日本の茶の湯の世界において「わび」の美意識を体現する特別な存在へとその価値を転換させたことは既に述べた通りである 4 。その中でも「有楽井戸」は、大井戸としての風格を備え、枇杷色の温かな釉色、手に馴染むおおらかな造形、そして高台周りの梅花皮といった井戸茶碗特有の魅力を凝縮しつつ、全体として「穏やかで気品すら感じさせる」という独自の個性を有している 1 。
この「有楽井戸」が持つ「穏やかさ」と「気品」は、激しさや過度な作為性を排した、より洗練された「わび」の表現として、特に織田有楽斎のような武家出身の茶人の美意識に合致した可能性が考えられる。「わび」の美意識は一様ではなく、千利休が追求した徹底的な簡素や寂寥感もあれば、有楽斎が好んだとされるような、ある種の明るさや品の良さを伴う「わび」も存在しうる。「有楽井戸」の「穏やかで気品すら感じさせる」という評価は、後者の美意識を反映していると言えるかもしれない。
ある資料では「有楽井戸」について、「数寄の心を今に伝える、茶碗一碗の中に織り込まれた長い歴史と美意識。その静けさと力強さは、まさに井戸茶碗の真髄といえる」と、その複合的な価値を高く評価している 13 。これは、「有楽井戸」が単に美しいだけでなく、それに関わった人々の精神性や、時代を超えて受け継がれてきた美意識をも内包していることを示唆している。「有楽井戸」は、素朴さや力強さといった井戸茶碗の基本的な魅力を備えながらも、過度な作為や荒々しさを抑えた、洗練された「わび」の姿を示している。これは、千利休が確立した「わび茶」の精神が、有楽斎のような後継者たちによって多様に解釈され、展開していく過程の一つの現れと見ることができるだろう。
「大井戸茶碗 有楽井戸」は、16世紀の朝鮮半島で生まれた一碗の陶器が、日本の茶道文化という特異な環境の中で独自の美的価値を見出され、織田有楽斎という歴史的人物との結びつきによってその名を高め、以来、数々の茶人・数寄者の手を経て、今日まで大切に伝えられてきた稀有な歴史的遺産である。
美術史的な観点からは、大井戸茶碗の優品として、その穏やかで気品のある造形美、温かみのある枇杷色の釉調、高台周りに生じた梅花皮などの見所が高く評価される。特に、同じく大井戸の代表格である国宝「喜左衛門井戸」が「剛」の美しさを特徴とするのに対し、「有楽井戸」はそれとは対照的な「柔」の美しさ、すなわち調和の取れた静謐な気品を持つ点にその際立った個性があると言えよう。
さらに、その伝来の過程で付与されてきた数々の物語性や、織田有楽斎という戦国武将であり当代一流の茶人であった人物との深い関わりもまた、「有楽井戸」の価値を構成する重要な要素である。この茶碗は、単なる物質的な存在を超え、歴史と文化を内包する象徴的な存在として捉えることができる。
現代において私たちが「有楽井戸」を鑑賞することは、単に美しい古美術品に触れるという行為に留まらない。それは、戦国時代から近世、そして近代へと続く日本の茶道文化の奥深い変遷や、そこに生きた人々の美意識、価値観、さらには日韓の文化交流の歴史の一端に思いを馳せることでもある。
近年試みられているデジタル技術を駆使した新しい鑑賞方法 19 は、文化財との新たな関わり方を提供し、より多くの人々が「有楽井戸」の持つ魅力にアクセスする機会を広げる可能性を秘めている。このような取り組みは、文化財の価値を現代に再認識させ、未来へと繋ぐ上で重要な役割を果たすであろう。
「有楽井戸」は、朝鮮半島で生まれ日本で育まれた日韓文化交流の貴重な産物であり、日本の「わび」という独自の美意識を理解する上で欠くことのできない文化的遺産である。その美しさは、時代を超えて多くの人々を魅了してきた普遍性を持つと同時に、それが評価されてきた背景には各時代の特有の価値観や美意識が色濃く反映されている。現代の我々が「有楽井戸」を鑑賞する際には、その両側面を意識することが肝要である。「数寄の心を今に伝える」 13 と評されるように、この茶碗が持つ物理的な美しさだけでなく、それに込められた人々の思いや積み重ねられた歴史が、現代の私たちにも静かに、しかし力強く訴えかけてくる。文化財とは、過去の遺物であると同時に、現代そして未来へと繋がるメッセージを発信する存在なのである。「有楽井戸」の物語はまだ終わっておらず、私たちがそれをどのように受け止め、解釈し、そして次世代へと伝えていくかによって、その価値はさらに深まり、豊かになっていくに違いない。今後も大切に保護し、その文化的意義を広く伝えていくことが、現代に生きる我々の責務と言えよう。