本能寺文琳は、南宋時代の茶入で「唐物茶入中の楊貴妃」と称される。朝倉義景から信長へ渡り、本能寺の変の炎を奇跡的に免れた。その後、中井家、松平不昧へと伝来し、戦国の記憶を宿す至宝。
戦国乱世、武将たちが血で血を洗う抗争を繰り広げる一方で、彼らが異常なまでの執着を見せたものがあった。それは、一国一城にも匹敵するとされた「名物」と呼ばれる茶道具である。掌に収まるほどの小さな陶器である茶入が、なぜそれほどの価値を持ち、時には武将の運命さえも左右するほどの力を持ち得たのか。この問いは、戦国という時代の精神性を理解する上で極めて重要である。数ある名物の中でも、ひときわ数奇な運命を辿り、複雑な物語をその身に宿すのが、本書で詳述する唐物茶入「本能寺文琳」である 1 。
「大名物」という最高の格付けを与えられたこの茶入は、「本能寺」という名を冠している。その名は、天下人・織田信長が京都の本能寺に寄進したことに由来する 1 。しかし、その名が持つ響きとは裏腹に、この茶入は天正10年(1582)に信長自身が斃れた本能寺の変の業火を、奇跡的に生き延びたのである。数多の名物が灰燼に帰した歴史的大事件において、なぜこの茶入は伝存し得たのか。その名に秘められた逆説的な運命は、我々を歴史の深淵へと誘う。本報告書は、単なる一個の器物の美術的解説に留まるものではない。「本能寺文琳」が辿った流転の軌跡を丹念に追うことを通じて、それが戦国の世から泰平の江戸時代へと至る中で、いかにしてその価値を形成し、時代の精神を映し出す「鏡」としての役割を担ってきたのかを、多角的に解き明かすことを目的とする。
この茶入がなぜ時代を超えて人々を魅了し続けたのかを理解するためには、まずその「モノ」としての本質、すなわち物理的・美学的な特徴を徹底的に解剖し、その価値の根源を探る必要がある。その姿は、後世の数寄者たちによって「唐物茶入中の楊貴妃」とまで謳われた 1 。この至高の賛辞が、いかにして生まれたのかを明らかにする。
「本能寺文琳」は、その複雑な来歴を反映し、少なくとも三つの異なる名で呼ばれてきた。それぞれの名称は、この茶入が持つ歴史的・美的な価値の異なる側面を照らし出している。
これら三つの名は、本能寺文琳が政治的象徴(本能寺)、文化的来歴(朝倉)、そして純粋な美的対象(三日月)という、重層的な価値を一身に体現していることを示している。
この茶入の根源的な価値は、その出自と作行きに遡る。南宋時代(13世紀)の中国で焼かれたとされ、「漢作唐物文琳茶入」に分類される 1 。「唐物」とは中国からの舶来品を指し、中でも「漢作」とは、より時代の古い、格調高い作行きを示す言葉であり、その出自が別格であったことを物語っている 2 。
その器形は「文琳(ぶんりん)」と呼ばれる。文琳とは林檎の雅称であり、その名の通り林檎のように丸みを帯びた形状を特徴とする 7 。しかし、本能寺文琳の造形は、典型的な文琳とは一線を画す、独特の緊張感を孕んでいる。具体的には、頸部と肩の境目にあたる「甑際(こしきぎわ)」が平坦で、肩にふくよかな丸みが少ない姿をしている 4 。この特徴は、柔らかな丸みを持つ一般的な文琳のイメージとは異なり、どこか端正で引き締まった印象を与える。
五島美術館の所蔵データによれば、その寸法は高さ7.3cm、胴径6.9cm、底径3.0cm、重量はわずか87.4gである 5 。特筆すべきは、その寸法に対して極めて薄造りで軽いことである 4 。この軽さは、轆轤(ろくろ)を扱う陶工の卓越した技術の証であり、手に取った者にしか分からない繊細な感触と、危うさすら感じさせるほどの精緻さを物語っている。この絶妙な均衡の上に成り立つ器形こそが、後述する優美な評価を生み出す土台となっているのである。
本能寺文琳が「唐物茶入中の楊貴妃」とまで称賛される所以は、その視覚的な美しさの奇跡的な調和にある。それは単一の要素ではなく、土、釉薬、景色、そして細部の仕上げという複数の要素が、完璧な均衡を保つことで成立している。
まず、器の素地となる胎土は、赤みを帯びた非常なきめ細かい土が用いられている 4 。この良質な土を薄く挽き上げることで、前述の軽さが実現されている。その素地の上に掛けられる釉薬は、褐色の鉄釉と黒色の灰釉の二重掛けという、凝った手法が用いられている 4 。これにより、単なる黒ではない、深みと潤いを湛えた独特の「黒飴色」の釉調が生み出された 1 。
茶道具鑑賞の核心である「景色」、すなわち釉薬の溶け具合や流れが生み出す偶発的な文様もまた、この茶入の大きな魅力である。肩のあたりから二筋の飴色の釉薬がしっとりと流れ落ち、胴裾のあたりで合流し、そこで見事に留まっている 1 。この釉薬の流れが作り出す景色は「置形(おきがた)」と呼ばれ、特に麗しいと評されている 1 。それは計算された意匠ではなく、窯の中の炎が生み出した偶然の芸術であり、二つとして同じものは存在しない。
さらに細部に目を転じれば、その作り込みの非凡さがわかる。底部の高台脇に見られる、轆轤から切り離す際の糸の跡は「糸切」と呼ばれるが、本能寺文琳のそれは「こまかく繊麗無比」と絶賛されるほど精緻である 1 。また、他の茶入にはほとんど見られない特徴として、甑際と胴の中程に、極めて細い「浮筋」が一本ずつ巡らされている 1 。こうした微細な部分へのこだわりが、全体の印象を単なる優美さから、気品と格調の高みへと昇華させている。
これらの要素、すなわち、独特の緊張感を孕んだ器形、薄く軽い作りの技術力、二重掛けによる釉薬の深い色調、偶然が生んだ美しい景色、そして繊細を極めた細部の仕上げ、これらすべてが奇跡的な調和を見せたとき、人々はその美しさを「女性的で婉麗優美」「唐画の美人を見るがごとし」と表現した 1 。そして、その気品、華やかさ、そして見る者を虜にする物語性を兼ね備えた究極の美を表現するために、歴史上の絶世の美女である「楊貴妃」の名を冠する以外になかったのである 1 。この評価は、当時の人々がこの茶入を単なる「モノ」としてではなく、人格や生命感を持つ特別な存在として捉えていたことを、何よりも雄弁に物語っている。
本能寺文琳の価値は、その器物としての美しさだけに由来するものではない。それが戦国時代の政治と文化のダイナミズムの中で、いかにしてその価値を増幅させ、時代の象徴としての意味を帯びるに至ったのか。その軌跡を、最初の所有者とされる朝倉義景から、天下人・織田信長へと渡る過程を中心に追跡する。
本能寺文琳の来歴は、越前の戦国大名・朝倉義景から始まる 1 。義景は、武将としての評価は必ずしも高くない一方で、茶の湯や和歌、絵画などに深く通じた当代随一の文化人として知られている 9 。彼が本拠地とした一乗谷(現在の福井県福井市)は、応仁の乱で荒廃した京都から多くの公家や文化人を招聘し、「北ノ京」とも呼ばれる一大文化サロンを形成していた 11 。
近年の発掘調査では、一乗谷朝倉氏遺跡から茶室と推定される遺構や、天目茶碗、茶入、茶杓といった多種多様な茶道具が数多く出土しており、当時、この地で極めて高度で洗練された茶の湯文化が実践されていたことが考古学的にも裏付けられている 12 。このような文化的先進都市の主であった義景が「朝倉文琳」を所持していたことは、単なる個人的な趣味の域を超え、彼の文化的権威と一乗谷文化の成熟度を内外に示す、極めて重要な象徴であったと考えられる。この茶入に付属する仕覆(しふく、茶入を収める袋)の裂地の一つに、義景が愛用したとされる「朝倉間道」が用いられていることは、その記憶を現代に色濃く伝えている 9 。
天正元年(1573)、織田信長によって朝倉氏は滅亡し、本能寺文琳は信長の手に渡ることになる。これは、信長が推し進めた「御茶湯御政道」として知られる、茶の湯の政治利用戦略における象徴的な出来事であった。
信長は、家臣への恩賞として、従来の土地(知行)に代えて、価値ある名物茶器を与えるという画期的な手法を導入した 15 。土地と違って分割や移動が容易な茶器を恩賞とすることで、家臣団に対する新たな価値体系を構築し、自身の権力を絶対的なものへと集中させていったのである。この政策を支えるため、信長は京都や堺の商人、あるいは降伏した大名から、高価な名物茶器を強制的に召し上げる「名物狩り」を断行した 16 。これは単なる略奪ではなく、多くの場合、金銀や米を対価とする買い上げの形をとったが、その実態は市場から名物を独占し、その価値を自らがコントロールしようとするものであった 18 。
この文脈において、信長が朝倉義景から本能寺文琳を入手したことは、単に美しい茶入を手に入れた以上の意味を持つ。それは、敵対勢力の武力を打ち破るだけでなく、その敵が持っていた文化的権威をも吸収し、自らのものとして継承したことを天下に示す行為であった。事実、信長は別の機会に、朝倉氏が旧蔵していた名画「瀟湘八景図」を茶会の席に飾り、自らの勝利を誇示している 20 。本能寺文琳の所有権の移動は、武力と文化の両面における、旧勢力から新時代の覇者への完全なる権威の移譲を象徴していたのである。
こうして手に入れた至宝を、信長は京都・本能寺に寄進する。この行為は、単なる信仰心の発露として片付けることはできない。そこには、信長の冷徹な戦略的判断が介在していたと考えられる。
信長が上洛時の定宿としていた本能寺は、単なる寺院ではなかった。当時の本能寺は、周囲を高い塀と深い堀で囲まれた、さながら城塞のような堅固な構造を誇り、信長の安全を確保する上で重要な拠点であった 21 。
さらに重要なのは、本能寺が属する法華宗(日蓮宗)が、当時、堺の商人や鉄砲の伝来地である種子島と強固なネットワークを築いていたことである 23 。このネットワークは、信長が天下布武を進める上で不可欠な、鉄砲や火薬といった最新兵器の安定的な調達ルートとして機能していた 21 。
このような軍事的・経済的に極めて重要な戦略的パートナーシップを結んでいた本能寺に対し、最高級の名物である本能寺文琳を寄進する行為は、両者の強固な同盟関係を内外に誇示し、その結びつきをさらに盤石にするための、高度に計算された政治的ジェスチャーであったと解釈するのが妥当であろう。本能寺文琳は、その美しさゆえに、信長の壮大な戦略の一翼を担うための究極の贈物として選ばれたのである。この茶入の価値は、朝倉義景の「文化的価値」から、信長の「政治的価値」へと、その所有者の意図と時代の要請によってダイナミックに転換されていったのである。
天正10年(1582)6月2日、京都・本能寺。明智光秀の謀反によって、天下人・織田信長はその生涯を終える。日本の歴史を揺るがしたこの大事件は、本能寺文琳の運命をも決定づけた。数多の名物が信長と共に炎に包まれる中、この茶入はなぜか生き延びた。その奇跡的な伝存は、この茶入の物語性を決定的に高めることになる。
本能寺の変の際、信長は茶会を開くためか、あるいは自身の権威を誇示するためか、蒐集した名物の多くを本能寺に持ち込んでいた 15 。その数は30点にのぼるとも言われる 15 。そして、そのほとんどが本能寺を包んだ炎と共に失われたと伝えられている。
焼失したとされる名物の中には、「珠光小茄子」「紹鴎白天目」「千鳥の香炉」など、いずれも当代随一と謳われた至宝が含まれていた 15 。特に「珠光小茄子」は、信長の重臣・滝川一益が恩賞として強く望んだにもかかわらず、信長が決して手放さなかったという逸話を持つ名品である 25 。これらの名物の焼失は、単に高価な器物が失われたというだけでなく、それらにまつわる逸話や歴史、そして人々の美意識の結晶が一夜にして灰燼に帰したことを意味し、当時の茶人や大名にとって計り知れない文化的損失であった 27 。本能寺の変は、政治的な政変であると同時に、日本の文化史における未曾有の大災害でもあったのだ。
本能寺文琳の周辺を調査する上で、注意すべき点が一つある。それは、本能寺文琳の別名である「三日月文琳」と、本能寺の変で焼失したとされる葉茶壺(抹茶を保存する大きな壺)「三日月茶壺」の存在である 1 。
「三日月茶壺」は、「松嶋」と並び天下無双と讃えられた大名物であり、足利義政が秘蔵した天下三名壺の一つに数えられていた 28 。この茶壺もまた、信長が所持し、本能寺の変で焼失したと記録されている 26 。
名称が酷似しているため混同されやすいが、「三日月文琳」と「三日月茶壺」は、茶入と茶壺という器種の違いからも明らかなように、全くの別物である。しかし、同じ「三日月」の名を冠する二つの名物が、同じ本能寺の変において、一方は焼失し、もう一方は生き延びるという対照的な運命を辿ったという事実は、極めて示唆に富んでいる。「生き残った三日月」としての本能寺文琳の稀少性と、その運命の強さを、この対比は劇的に際立たせている。
では、本能寺文琳は具体的にどのようにして災禍を免れたのであろうか。残念ながら、その詳細を伝える明確な記録は存在しない。信長が個人的に持ち込んだ道具類とは別に、すでに「寄進」されたものとして本能寺の蔵の奥深く、安全な場所に保管されていたため難を逃れた、という可能性が考えられる。しかし、これはあくまで推測の域を出ず、その正確な経緯は歴史の謎に包まれている。そして、この「謎」こそが、本能寺文琳の伝説性を一層高める要因となっている。
この謎を考察する上で比較対象となるのが、同じく信長が所持し、本能寺にあったとされる大名物「九十九髪茄子(つくもなす)」である。この茶入は、本能寺の変で焼失したものの、後に豊臣秀吉が焼け跡から探し出させ、修復されたという伝承を持つ 29 。さらに大坂夏の陣で再び被災し、粉々になったものを徳川家康が執念で拾い集めさせ、漆で継ぎ合わせて蘇らせたという、まさに不死鳥のような物語で知られている 32 。
この「九十九髪茄子」の逸話は、当時の権力者たちが名物に対して抱いていた常軌を逸した執念の強さを示すと同時に、本能寺文琳の伝存の奇跡性を浮き彫りにする。焼け跡から拾い出されたという記録すらない本能寺文琳は、おそらくほぼ無傷のまま発見されたと考えられる。歴史の篩(ふるい)にかけられ、数多の名物が消え去り、あるいは傷を負う中で、この茶入だけがその優美な姿を保ち続けた。その事実は、この茶入が何か特別な宿命を帯びた、選び残された存在であるかのような印象を与える。本能寺文琳の価値は、本能寺の変で「焼失しなかった」という事実、すなわち共にあったはずの他の名物が「不在」となったことによって、逆説的に、そして決定的に証明されたのである。
戦国の動乱と本能寺の変という最大の危機を乗り越えた本能死文琳は、江戸という泰平の世を迎え、新たな価値の担い手たちの手を渡っていく。その所有者の変遷は、日本の権力の質が「武」から「官(制度)」へ、そして「美(文化)」へと移り変わっていく時代の流れを象徴的に映し出している。
時代 |
所有者(推定含む) |
主要な出来事・逸話 |
典拠(例) |
南宋時代(13世紀) |
(作者不詳) |
中国にて作られる。 |
5 |
戦国時代(~1573) |
越前・朝倉義景 |
「朝倉文琳」と呼ばれる。文化的権威の象徴。 |
4 |
天正元年(1573)頃 |
織田信長 |
朝倉家滅亡後、信長の手に渡る。「名物狩り」の一環。 |
1 |
天正10年(1582)以前 |
京都・本能寺 |
信長により寄進される。「本能寺文琳」の名の由来。 |
1 |
天正10年(1582) |
(本能寺の変) |
焼失を免れ、奇跡的に伝存。多くの名物が焼失する中での生存。 |
26 |
江戸時代前期 |
中井大和守(正知) |
徳川幕府大工頭の所持。正保2年(1645)、京極丹後守の購入申し出を小堀遠州が退ける。 |
4 |
江戸時代中期 |
小堀仁右衛門 |
中井家より譲渡される。 |
1 |
安永7年(1778) |
松平不昧 |
道具商・山越利兵衛の仲介で金五百五十枚にて購入。雲州蔵帳に記載。 |
1 |
明治~現代 |
松平家(伯爵)→五島美術館 |
明治・大正期の展覧会に出品され、現在は五島美術館に収蔵される。 |
1 |
本能寺の変の後、この茶入は「中井大和守」なる人物の手に渡ったと伝えられている 1 。この「中井大和守」は長らく謎に包まれていたが、近年の研究により、江戸幕府の京都大工頭を世襲した中井家の三代目当主・中井正知(なかい まさとも、1631-1715)である可能性が極めて高いことが指摘されている 33 。
中井家は、徳川家康に見出され、伏見城、二条城、江戸城、名古屋城といった幕府の根幹をなす城郭や、内裏、主要寺社の造営を一手に担った技術者集団である 35 。彼らは単なる大工の棟梁ではなく、建築の設計から施工管理までを統括し、大名に匹敵するほどの家格と権威を誇った、いわば幕府の「作事官僚」であった 35 。戦国武将の象徴であった本能寺文琳が、徳川の治世を建築技術で支える新たな権力の中枢たる中井家の手に渡ったという事実は、時代の大きな転換を物語っている。
万治3年(1660)成立の茶書『玩貨名物記』には、この時点で中井大和守(正知)が本能寺文琳を所有していると明確に記されている 33 。本能寺の変の後、どのような経緯で中井家の所有となったかは不明であるが、初代の中井正清が家康の側近として深く信頼されていたことなどから 37 、徳川家との密接な関係の中で入手した可能性が考えられる。
中井家がこの茶入を所蔵していた時代に、その価値を物語る有名な逸話が残されている。正保二年(1645)、京極丹後守安智が、この茶入を金七百五十枚という大金で購入したいと望み、当代随一の茶人であり、徳川幕府の作事奉行でもあった小堀遠州に仲介を依頼した 4 。
この申し出に対し、遠州は次のように返答して断ったと伝えられている。「此物無用、須價千枚金幣、茶のわけ丹後守不案内と聞く」 4 。この言葉は、「この茶入は(茶の道を解さぬ)彼には無用の長物である。そもそも千枚の値打ちがあるほどのものだ。それに、聞けば丹後守は茶の湯に不案内だというではないか」と意訳できる。
この逸話は、本能寺文琳が持つ金銭的な価値の高さを証明すると同時に、それ以上に重要視された価値観の存在を明らかにしている。それは、名物とは、ただ金があれば所有できるものではなく、その真価を理解し、それにふさわしい人格と見識を持つ数寄者によってのみ、その輝きを真に放つことができるという思想である。遠州の言葉は、本能寺文琳がもはや単なる権力の象徴ではなく、深い文化的理解を要求する至高の芸術品として認識されていたことを示している。
中井家から小堀仁右衛門という人物を経て 1 、本能寺文琳の流転の旅は、一人の偉大なコレクターの元で一つの頂点を迎える。安永七年(1778)、出雲松江藩主であり、江戸時代を代表する大名茶人として知られる松平不昧(ふまい)が、京都の道具商・山越利兵衛の仲介により、金五百五十枚でこの茶入を手に入れたのである 4 。
不昧は、その生涯をかけて古今の名物を情熱的に蒐集し、「雲州蔵帳」と呼ばれる詳細な所蔵品目録を作成したことで名高い。彼のコレクションは、単なる趣味の蒐集ではなく、散逸の危機にあった日本の文化遺産を体系的に整理・保存しようとする、文化事業としての側面を持っていた。本能寺文琳は、その膨大な不昧のコレクションの中でも特に愛好され、「大名物中でも格別の優位を認められる」存在であったという 40 。文化四年(1807)正月二十日に不昧が自ら催した茶会で、この茶入が用いられたという記録も残っている 4 。
不昧の所蔵品となったことで、本能寺文琳はその価値を最終的に確立したと言える。戦国時代には武将の権威の象徴であり、江戸前期には幕府官僚のステータスシンボルであったこの茶入は、不昧という稀代の数寄者の審美眼によって、その美術的・歴史的価値が体系的に評価され、後世に守り伝えられるべき「文化遺産」として、その位置づけを完全に移行させたのである。
本報告書で詳述してきたように、唐物茶入「本能寺文琳」は、単に美しい姿を持つ一個の茶道具ではない。それは、日本の歴史の激動期を駆け抜け、各時代の精神をその身に映し出してきた、類い稀な「鏡」であった。
その来歴は、朝倉義景が育んだ戦国期の洗練された「雅」の文化から始まる。やがて織田信長の手に渡ると、天下統一を目指す「覇」の象徴となり、茶の湯を政治の道具とした信長の戦略の中で、その価値を飛躍的に高めた。本能寺の変という歴史的カタストロフを奇跡的に生き延びた後は、徳川の泰平の世を技術で支えた大工頭・中井家の所有となり、武力ではなく制度によって統治される「官」の時代の到来を告げた。そして最終的に、大名茶人・松平不昧という究極のコレクターの手に渡ることで、その価値は政治的な文脈から解放され、純粋な歴史的・美術的価値を持つ「美」の結晶として完成されたのである。
「唐物茶入中の楊貴妃」という賛辞は、その外見の優美さだけを指すのではない。戦国の記憶をその身に刻み、歴史の荒波を乗り越えてきた強運、そして数々の権力者たちを魅了し、その運命と深く関わってきた物語性。それらすべてが渾然一体となった、抗いがたい魅力を的確に表現した言葉である。現在、五島美術館に静かに佇むその姿は 5 、我々に対し、掌中の小宇宙に凝縮された日本の歴史、文化、そして美の物語を静かに、しかし雄弁に語りかけている。それは、戦国の世から泰平の世へと、日本の美意識の神髄を伝え続けた「歴史の証人」であり、未来永劫その価値を失うことのない、日本の至宝であると結論づけられる。