ポルトガル伝来の「かるた」は、戦国時代に賭博具として熱狂的に普及し、武士の法度で禁じられた。一方、和歌と融合した「歌かるた」は教養の象徴として発展。この二面性は、戦国時代の文化遺産である。
日本の戦国時代(1467年頃-1615年頃)は、絶え間ない戦乱と下剋上という社会秩序の流動化によって特徴づけられる。しかし、この時代は単なる破壊と混沌の時代ではなかった。それは同時に、旧来の権威が揺らぎ、新たな価値観が生まれるダイナミックな変革期でもあった。この激動の社会状況の中、ポルトガルからもたらされた「南蛮人」との接触は、日本の文化に予期せぬ、そして永続的な影響を与えることになる。鉄砲やキリスト教といった歴史の教科書に大きく記される文物が注目されがちだが、それらと共に静かに、しかし確実に日本社会の深部に浸透していったのが、一枚の紙片からなる遊戯具、「かるた」であった。
ポルトガル語の「carta(カルタ)」を語源とするこの目新しい遊戯は 1 、日本に上陸するや否や、二つの全く異なる、そしてある意味で矛盾した方向へと枝分かれしながら発展を遂げるという特異な運命を辿った。一方の道は、武士たちの陣営や庶民の集う賭場へと続き、手軽で射幸心を煽る賭博の道具として熱狂的に受け入れられた。それは時に風紀を乱し、武家の法度によって厳しく禁じられる社会問題の源泉ともなった 3 。もう一方の道は、公家や大名のサロン、そして教養を重んじる上流階級の室内に通じていた。ここでは、かるたは日本古来の優雅な歌遊びと融合し、和歌や古典文学の知識を競う知的遊戯へと昇華され、洗練された文化の象徴となった 6 。
本報告書は、この「かるた」という文化装置が、なぜ戦国という時代を揺籃として、これほどまでに二面的な発展を遂げたのかを徹底的に解明することを目的とする。単なるカードゲームの歴史を追うのではなく、それが受容され、変容していく過程を通して、戦国時代から近世初期にかけての日本社会の価値観、権力構造、そして文化のダイナミズムを浮き彫りにする。一枚の札が、いかにして日本の文化に深く根を下ろし、その後の日本人の娯楽と教養の世界を形作っていったのか。その壮大な物語は、戦乱の巷に漂着した一艘の南蛮船から始まるのである。
日本におけるかるたの歴史は、16世紀半ば、ポルトガルの交易船がもたらした一枚のカードゲームから幕を開ける 1 。船員たちが船内での慰みとしていたこの遊戯は、当時の日本人にとって目新しく、魅力的なものであった。その名は、ポルトガル語でカードや手紙を意味する「carta」がそのまま日本語化されたものであり 2 、その呼称自体がこの遊戯の出自を雄弁に物語っている。
当初は輸入された南蛮かるたが珍重されていたが、その人気は瞬く間に広がり、国内での模倣製作、すなわち国産化への需要が高まった。この需要に応え、日本で最初のかるた生産地として歴史に名を刻んだのが、筑後国三池(現在の福岡県大牟田市)であった 6 。特に天正年間(1573年-1592年)に製作が盛んになったことから、これらの国産かるたは「天正かるた」と総称されるようになった 2 。三池かるたの品質は非常に高く評価され、「よきものは三池」という言葉が生まれるほどであった 6 。その名声は、後の一大消費地である京都で生産されたかるたにさえ、付加価値を高めるために三池の名が記されるほどだったという 12 。この歴史的事実を裏付ける貴重な物証として、兵庫県の滴翠美術館には、裏に「三池住貞次」と墨書された天正かるたの札がただ一枚現存しており、三池が国産かるた発祥の地であることを示している 6 。
天正かるたは、ポルトガルで用いられていたラテン・スートのカードを忠実に模倣したもので、全48枚で構成されていた 12 。その内訳は4つの紋標(スート)と、各スートに配された1から9までの数札、そして3種の絵札である。
4つのスートは、ポルトガル語の呼称が日本語風に訛ったもので、それぞれ「パウ(Pau)」(棍棒)、「イス(Isu)」(刀剣、原語は espadas )、「コップ(Koppu)」(聖杯、原語は copas )、「オウル(Ōru)」(金貨、原語は ouros )と呼ばれた 13 。絵札は、階級の低い順に「ソウタ(Sōta)」(女王または女官)、「カバ(Kaba)」(騎馬、原語は
cavalo )、「レイ(Rei)」(国王、原語は rei )の3枚であった 13 。
しかし、この模倣は単なる複製品の製造に留まらなかった。そこには、異文化の図像を自国の文脈で理解しようとする、興味深い「文化的翻訳」の過程が見て取れる。1686年(貞享3年)に黒川道祐が著した京都の地誌『雍州府志』には、当時の日本人がこれらの絵札をどのように認識していたかが記録されている 13 。それによると、日本人は「ソウタ(女王)」を僧侶(法師)と、そして最も位の高い「レイ(国王)」をなんと庶人と誤認していたという 13 。
この驚くべき誤解は、当時の日本人の視覚文化と社会通念に根差している。ヨーロッパの王族が持つ盾は、当時の日本の戦では用いられない手盾であったためか認識されず、図像から省略された 13 。また、王や騎士がまとう鎧兜は、より馴染み深い日本の武者風に描き変えられた。こうした改変の結果、ヨーロッパ的な王権の象徴が失われ、日本独自の社会階層(僧侶、武士、庶民など)に当てはめて解釈されたのである。この過程は、外来文化が単に受容されるのではなく、受け手側の文化フィルターを通して再解釈され、意味を付与し直される「土着化(domestication)」の典型例と言える。かるたが日本社会に深く根付くためには、このような文化的翻訳のプロセスが不可欠だったのである。
スート(紋標) |
ポルトガル語の呼称(語源) |
日本での呼称 |
構成札 |
絵札の呼称(日本での誤認) |
絵札の本来の意味 |
棍棒 |
Pau (棍棒) |
パウ、波宇 |
数札(1-9)、絵札(3枚) |
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刀剣 |
Espadas (剣) |
イス、伊須波多 |
数札(1-9)、絵札(3枚) |
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聖杯 |
Copas (カップ) |
コップ、古津不 |
数札(1-9)、絵札(3枚) |
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金貨 |
Ouros (金貨) |
オウル、於宇留 |
数札(1-9)、絵札(3枚) |
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絵札 |
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(10) |
Sota (女官) |
ソウタ |
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法師の形(僧形) |
女王・女官 |
(11) |
Cavalo (騎馬) |
カバ |
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馬に騎る人(士) |
騎士 |
(12) |
Rei (王) |
レイ、キリ |
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床に踞るの人(庶人) |
国王 |
出典: 13 に基づき作成
天正かるたが戦国武士や庶民の間で急速に広まった背景には、その遊技法の単純明快さと賭博への適性があった。特に人気を博したのは、以下の二系統の遊び方であった 13 。
こうした遊技文化の中から、今日まで使われる慣用句も生まれている。物事の始めから終わりまで、あるいは最高のものから最低のものまでを意味する「ピンからキリまで」という言葉は、この天正かるたに由来すると言われる 12 。数札の「1」はポルトガル語の
pinta (点、印)から「ピン」と呼ばれ、最も強い絵札である国王(12番)は「キリ」と呼ばれた。このことから、最初と最後、最弱と最強を包括する表現として定着したのである。このように、天正かるたは単なる遊戯具に留まらず、戦国時代の日本の言語文化にまでその足跡を残した。
戦国時代は、武士たちにとって死と隣り合わせの緊張が続く一方で、合戦の合間には長い待機時間や退屈がつきものであった。士気を維持し、集団の結束を高める上で、娯楽は不可欠な要素であった。織田信長が催した相撲大会や、徳川家康が好んだ鷹狩り、あるいは囲碁や将棋といった知的遊戯は、武将クラスの洗練された娯楽として知られている 14 。しかし、足軽などを含む一般の兵士たちにとっては、より手軽で、即物的な興奮を得られる娯楽が求められた。
当時、すでにサイコロを用いた双六などの賭博は広く行われており、武士たちの間で人気の息抜きとなっていた 14 。このような既存の賭博文化の土壌に、天正かるたはまさにうってつけの存在として現れた。持ち運びが容易で、ルールが単純、そして何より短時間で勝敗が決し金銭のやり取りが発生するため、賭博具としてのポテンシャルは極めて高かった。瞬く間に陣中での慰みとして大流行し、兵士たちの射幸心を掻き立てる新たな熱狂の源となったのである 4 。
かるた賭博の熱狂は、しかし、それを統率する為政者たちにとっては看過できない問題を引き起こした。賭け金を巡るいさかい、借財による困窮、そして何よりも軍規の弛緩は、軍団の戦闘能力を著しく損なう危険性をはらんでいた 5 。戦国の世を勝ち抜くためには、強力で規律ある軍団の維持が至上命題であり、賭博の蔓延はその根幹を揺るがしかねない脅威と映ったのである。
このような状況下で、かるたに対して初めて明確な禁令を発したとされるのが、土佐の戦国大名、長宗我部元親である 5 。元親は厳格な規律で知られ、その治世の集大成として1597年(慶長2年)に制定した分国法『長宗我部元親百箇条』の中で、「博奕(ばくえき)」を厳しく禁じている 18 。この掟書に「かるた」という具体的な名称こそないものの、当時、家臣団の間で急速に広まっていた新たな賭博の風潮を背景に発布されたことは明らかであり、これが日本史上最初期のかるた禁止令と見なされている 5 。この禁令は、単なる道徳的な理由からではなく、領国経営と軍事力維持という、戦国大名としての極めて現実的な統治目的から発せられたものであった。
長宗我部元親に始まり、やがて江戸幕府も度々発令したかるた禁止令であったが、その効力は限定的であった 4 。むしろ、権力による抑圧は、遊戯者たちの間に法の網をかいくぐろうとする新たな創造性を生み出すという、皮肉な結果をもたらした。
禁止された天正かるたそのものではなく、「かるたに見えないかるた」を考案することで、取り締まりを逃れようとする動きが活発化したのである 3 。この「禁制とのいたちごっこ」こそが、かるたの多様化と日本独自の発展を促す最大の原動力となった。天正かるたの意匠を複雑化させ、枚数を増やして別物として通用させようとした「うんすんかるた」の登場はその一例である 4 。さらに後世には、ポルトガル由来の紋標(スート)を完全に排し、日本の花鳥風月を札の絵柄に採用した「花札」が考案されるに至る 3 。これは、もはや外見からは賭博札としての出自をうかがい知ることが難しい、完全な「和風かるた」であった。
このように、為政者による禁止の圧力は、かるたを根絶するどころか、その姿を次々と変えさせ、より巧妙で、より日本的な遊戯具へと進化させる触媒として機能した。法規制が文化の変容と創造を促すという、興味深い歴史の力学がここに見られるのである。
天正かるたに対する禁制が強まる中で、その直接的な後継として登場し、一世を風靡したのが「うんすんかるた」である 22 。これは天正かるたを基に、より大人数で、より複雑なゲームが楽しめるように拡張・改良されたものであった 24 。
最大の特徴は、札の枚数が天正かるたの48枚から75枚へと大幅に増加した点にある 24 。これは、従来の4スート(パウ、イス、コップ、オウル)に、「グル」と呼ばれる巴紋などを意匠とした新たなスートを加え、全5スート構成としたためである 23 。さらに、各スートの絵札には、従来のソウタ、カバ、レイの上に、さらに高位の札として「ウン」(福禄寿などの福の神が描かれることが多い)と「スン」(唐人風の人物が描かれることが多い)が追加された 24 。
「うんすん」という独特の名称の由来については諸説ある。ポルトガル語で「1」を意味する「ウム(um)」と「最高」を意味する「スムモ(summo)」が転訛したという説が有力視されているが 24 、決定的な証拠はなく、その語源は未だ謎に包まれている 28 。札の絵柄も、日本の福の神、中国風の人物、そして南蛮由来の紋標が混在する、国際色豊かで独特の美意識を反映したものとなっており 7 、当時の文化混淆の様相を色濃く伝えている。
江戸時代中期、うんすんかるたはその斬新さと遊技性の高さから、庶民の間で爆発的な人気を博した 25 。しかし、その栄華は長くは続かなかった。18世紀末、松平定信が主導した寛政の改革において、風紀の引き締めと賭博の厳禁が徹底されると、うんすんかるたもその主要な標的となり、急速に衰退していく 29 。また、娯楽そのものの多様化も、その人気に陰りを落とす一因となった 25 。こうして、かつて日本中を熱狂させたうんすんかるたは、ごく一部の地域を除いて、歴史の表舞台からその姿を消していったのである 32 。
全国的にほぼ消滅したうんすんかるたが、唯一、奇跡的に現代まで伝承され続けた場所がある。それが、九州の山深くに位置する熊本県人吉球磨地方である 29 。なぜこの地でのみ、この稀有な文化遺産は生き延びることができたのか。その理由は、地理的条件、政治的背景、そして地域文化という三つの要素が複合的に絡み合った結果であった。
第一に、 地理的隔絶性 である。人吉盆地は九州山地の険しい山々に囲まれており、近世においては外部からのアクセスが極めて困難な「隠れ里」であった 29 。この地理的条件が、江戸幕府による中央集権的な統制や、京・大坂で生まれる新たな文化の波及を緩やかにし、独自の文化が保持されやすい環境を生み出した。作家の司馬遼太郎がこの地を「日本でもっとも豊かな隠れ里」と評したように、外部からの干渉を受けにくい閉鎖性が、結果として古様の文化を保存する揺りかごとなったのである 29 。
第二に、この地を700年にわたって治めた 相良氏の寛容な統治政策 である。相良氏は、領民の心をつなぎとめるための巧みな統治術として、民衆の娯楽に対して寛大な姿勢をとった 35 。幕府が厳しく禁じた賭博性の高い遊戯についても、領内の安定を優先して厳格な取り締まりを避け、ある種の「ガス抜き」として大目に見る政策をとったとされる 34 。この藩独自の柔軟な政策が、幕府の禁令の嵐からうんすんかるたを守る防波堤の役割を果たした 34 。
第三に、 地域社会への深い浸透 である。うんすんかるたは、人吉において単なる一過性の流行ではなく、地域住民の生活文化として深く根付いた。特に、城下町の鍛冶屋町(かじやまち)では、仕事を終えた職人たちが日々の慰みとしてうんすんかるたに興じるのが日常的な光景であったという 29 。このように、特定のコミュニティの社交や娯楽の核として世代から世代へと受け継がれたことが、その伝承を確かなものにした。
これら地理、政治、文化の三要素が奇跡的に組み合わさったことで、人吉はうんすんかるたが生き残るための唯一の「聖域(サンクチュアリ)」となった。今日、うんすんかるたは熊本県の重要無形民俗文化財に指定され 30 、この「隠れ里」で大切に守り継がれている。
天正かるたが賭博具として裏社会に根を張る一方で、その「カード」という形式は、日本の表舞台で全く異なる文化の華を咲かせた。それが、日本古来の和歌の伝統と融合して生まれた「歌かるた」である。この流れは、戦国時代に芽生え、泰平の江戸時代に大きく開花した、かるたのもう一つの重要な系譜である。
歌かるたの精神的な源流は、遠く平安時代(794年-1185年)の宮廷文化にまで遡ることができる。その原型となったのは、「貝覆い(かいおおい)」または「貝合わせ」と呼ばれる貴族の遊びであった 7 。
この遊びは、元来、対になるハマグリの貝殻を探し当てるという単純なものであった 7 。ハマグリの貝殻は、元の一対でなければぴったりと合わないという性質を利用したものである。やがてこの遊びは洗練され、貝殻の内側に金箔を貼り、極彩色の美しい絵を描いた「絵貝(えがい)」が登場し、その美術的価値を競うようになった 7 。
そして、文化的に決定的な発展が、和歌を題材とした「歌貝(うたがい)」の誕生である 7 。これは、一つの和歌の上の句(五・七・五)と下の句(七・七)をそれぞれ別の貝殻に書き記し、対になる句を探し出して一首を完成させるという、知的で優雅な遊戯であった 37 。この「歌貝」こそが、後の歌かるたの直接的な祖形となった。
戦国末期から安土桃山時代にかけて、二つの異なる文化が出会う。すなわち、日本古来の「歌貝」という**内容(コンテンツ) と、ポルトガル伝来の「かるた」という 形式(フォーマット)**の邂逅である 6 。
この融合は、遊戯文化における画期的なイノベーションであった。天然のハマグリを素材とする歌貝は、美しく高価である一方、数に限りがあり、制作も手間がかかるため、ごく一部の上流階級の独占物であった 7 。そこへ、携帯性に優れ、安価に量産可能な紙製のカードという媒体が登場したことで、歌遊びの文化は爆発的に普及する可能性を得たのである 8 。
当初、賭博用のかるたと区別するため、これらの新しいカードは「歌貝」や「続松(ついまつ)」などと呼ばれたが 12 、やがて「歌かるた」という呼称が定着した。貝殻から紙へ。この素材の転換は、単なる技術的な変化に留まらず、日本の伝統的な知的遊戯が、より広い階層へと開かれていくための扉を開いた歴史的な瞬間であった。
初期の歌かるたでは、『古今和歌集』や『伊勢物語』など、様々な古典から和歌が採られていた 7 。しかし、やがてその題材は、鎌倉時代に歌人・藤原定家が選んだとされる私撰和歌集『小倉百人一首』に収斂していく 20 。『百人一首』が歌かるたの「標準テキスト」として絶対的な地位を確立した背景には、戦国から江戸へと移行する時代の文化的要請があった。
第一に、 優れた教育教材としての機能 である。『百人一首』は、天智天皇から順徳院まで、各時代の代表的な歌人百人の秀歌を一首ずつ集めたものであり、和歌の歴史と多様な表現技法を学ぶための絶好の入門書であった。特に江戸時代に入ると、武家や町人の女子教育において、読み書きや古典の教養を身につけるための教材として広く用いられるようになった 43 。
第二に、 新たな支配階級の「文化資本」としての役割 である。戦乱の世を実力で勝ち抜いた戦国武将や、その後の江戸幕府を支える武士階級にとって、旧来の権威である公家文化を身につけることは、自らの支配の正統性を補強し、社会的威信を高めるための重要な手段であった 15 。『百人一首』に親しむことは、雅な教養を持つことの証であり、武士たちが目指すべき文化的ステータスとなったのである。
そして第三に、 国民的共通言語の形成 への貢献である。江戸時代を通じて、『百人一首』かるたが全国津々浦々にまで普及した結果、身分や地域を超えて、多くの日本人が共有する数少ない文化テクストが生まれた 43 。北は松前から南は薩摩まで、人々が同じ和歌を口ずさみ、同じ歌人の物語を共有する。これは、宗教書でも道徳書でもなく、遊戯を通じて形成された、極めて日本的な文化共同体の姿であった。
歌かるたは、江戸時代に入ると、その文化的価値の高まりと共に、美術工芸品としての側面を強めていく。17世紀後半には、かるた文化は円熟期を迎え、一流の絵師たちがその制作に腕を振るった 8 。例えば、琳派を代表する絵師・尾形光琳が手掛けたとされる「光琳かるた」は、その芸術性の高さから幻の逸品として語り継がれている 44 。
これらの歌かるたは、土佐派や狩野派の絵師によって歌人の肖像画が丹念に描かれ、金箔や美しい顔料で贅沢に装飾された。もはや単なる遊戯具ではなく、それ自体が高度な芸術作品であり、大名家や富裕な町人階級のステータスシンボルとなった。特に、格式ある武家の娘が嫁ぐ際には、豪華な歌かるた一式が、その家の文化的な豊かさを示す重要な**嫁入り道具(嫁入道具)**の一つとして加えられたのである 8 。
その一方で、木版印刷技術の発展は、かるたのもう一つの側面、すなわち大衆化を力強く後押しした 8 。手描きの豪華な一点物が富裕層の所有物であったのに対し、木版刷りのかるたは安価で大量に生産され、一般庶民の手にも届くようになった。これにより、『百人一首』は、正月の家族団らんの遊びとして、日本の暮らしの中に深く定着していくことになったのである 20 。
ポルトガルから伝来した「かるた」は、戦国時代という激動の坩堝の中で、日本社会に深く根を下ろし、二つの対照的な文化潮流を形成した。本報告書で詳述してきたように、その一つは賭博と結びつき、権力との禁制と潜脱の歴史を繰り返しながら、庶民の射幸心を満たす遊戯として独自の進化を遂げた「賭博系かるた」の流れである。もう一つは、日本古来の和歌の伝統と融合し、教養と芸術性を高め、上流階級の洗練された知的遊戯から国民的な文化教養の基盤へと発展した「歌かるた」の流れである。
この二面的な発展は、戦国時代という時代背景なくしてはあり得なかった。絶え間ない戦乱は、兵士たちのための手軽で刺激的な娯楽への需要を生み出し、賭博系かるたが普及する土壌を提供した 17 。一方で、下剋上によって台頭した武士階級は、自らの権威を確立するために、旧来の支配者であった公家の文化を積極的に受容しようとした。この文化的欲求が、歌かるたを教養の象徴へと押し上げたのである 15 。そして、大航海時代がもたらした南蛮人との接触が、この全ての変化の引き金となる「カード」という新しいメディアを日本にもたらした 1 。戦争、社会階級の変動、そして異文化接触という、戦国時代を特徴づける三つの要素が複合的に作用したからこそ、かるたはこれほど豊かで複雑な文化遺産へと成長し得たのである。
この戦国時代に育まれた二つの潮流は、形を変えながら現代にまで脈々と受け継がれている。天正かるたの血を引く「花札」や「おいちょかぶ」は、今なお庶民的な遊戯として親しまれている。そして、『小倉百人一首』を用いた「競技かるた」は、知力と体力を競う文化的スポーツとして、新たな世代の熱狂を生み出している。一枚の小さな紙片に過ぎないかるたは、かくも豊かに、戦国という時代の混沌と創造のエネルギーを内包し、日本の文化を語り続ける生きた歴史の証人なのである。
項目 |
賭博系かるた(天正かるた、うんすんかるた等) |
歌かるた(百人一首かるた等) |
起源 |
16世紀半ば、ポルトガル伝来のカードゲーム「carta」 1 |
平安時代の貴族の遊び「貝合わせ」「歌貝」と、ポルトガル伝来のカード形式の融合 7 |
発展の系譜 |
天正かるた → うんすんかるた → めくり札・花札など 3 |
歌貝 → 歌かるた(伊勢物語等) → 小倉百人一首かるた 8 |
主な遊戯者層 |
武士(特に一般兵士)、庶民、博徒 4 |
公家、武家(大名・上級武士)、富裕町人、後に一般庶民へ拡大 8 |
遊戯の性質 |
射幸心を煽る、単純明快、短時間での決着 13 |
知的、教養的、記憶力や瞬発力を競う 43 |
権力との関係 |
風紀紊乱を理由に、大名や幕府による禁制の対象となる 3 |
支配階級の教養の証として奨励され、美術工芸品として保護される 8 |
文化的役割 |
陣中や庶民の娯楽、社会の非合法な一面を形成 4 |
古典文学の普及、女子教育の教材、国民的共通教養の形成 43 |
現代への継承 |
花札、おいちょかぶ等の遊戯 3 |
競技かるた、正月の家庭での遊び 20 |