伊達政宗所用と伝わる「水玉紋陣羽織」は、紫羅背板地に五色の円文を配した斬新な意匠。江戸中期の作と判明したが、伊達家の美意識と天体信仰を象徴し、地域文化に貢献。
奥州の覇者、伊達政宗。彼の名を語る上で欠かせないのが「伊達者」という言葉である。これは、常識にとらわれない粋で華やかな風体や振る舞いを指し、政宗の人物像そのものを表す代名詞となった。その背景には、彼の革新性、和歌や茶の湯といった伝統文化への深い造詣に加え、当時最先端であった南蛮文化への旺盛な好奇心と、それらを独自に昇華させる卓抜した美意識があった 1 。
本報告書で主題とする「紫羅背板地五色水玉模様陣羽織」、通称「水玉紋陣羽織」は、その現代的とさえ言える斬新な意匠から、政宗の「伊達者」ぶりを最も鮮やかに体現する遺品として、広く大衆に認識されている 4 。紫紺の地に色とりどりの円文が舞うこの一領は、まさしく戦国のファッションリーダーたる政宗のイメージと分かち難く結びついてきた。
しかし、この華やかなイメージと広く浸透した伝承の裏には、看過できない大きな謎が横たわっている。近年の美術史的、科学的研究は、この陣羽織が政宗の生きた時代、すなわち戦国末期から江戸初期にかけてのものではなく、彼の死後、時代が下ってから製作された可能性を強く示唆しているのである 6 。
本報告書は、この「伝承」と「史実」の乖離を調査の出発点とする。そして、単なる所有者当ての謎解きに留まらず、この一領の陣羽織が持つ多層的な意味、すなわち、モノとしての物質的価値、意匠に込められた思想的背景、そして時代を超えて文化的なアイコンとして機能するメカニズムを、あらゆる角度から徹底的に解明することを目的とする。
本章では、まず先入観を排し、この陣羽織を一つの「モノ」として客観的に捉え、その物理的特徴を素材、意匠、技術の観点から詳細に分析する。
この陣羽織の正式名称は「紫羅背板地五色水玉模様陣羽織(むらさきらせいたじごしきみずたまもようじんばおり)」である 6 。現在は仙台市博物館が所蔵しており、伊達家から寄贈された貴重な文化財の一つとして、仙台市の市指定文化財に指定されている 6 。その寸法は、丈91.0cm、裄62.5cmを測る、袖のない羽織形式の衣服である 6 。
一般に、この陣羽織の素材は羊毛を密に織ったフェルト状の生地である「羅紗(らしゃ)」と紹介されることが多い。しかし、所蔵元である仙台市博物館の公式資料によれば、地布に用いられているのは「羅背板(らせいた)」と呼ばれる、羅紗よりも薄手の毛織物であると明確に記されている 6 。
この「羅背板」という名称は、ポルトガル語の「raxeta」を音写したものであり、16世紀以降の南蛮貿易によって日本にもたらされた舶来の織物の一つである 11 。当時、毛織物は日本では生産されておらず、ポルトガルやスペインとの交易を通じて輸入される極めて貴重かつ目新しい素材であった 13 。羅紗に似てはいるが、より薄手で手触りが粗い羅背板は、その目新しさと異国情緒から、特に武将たちの間で珍重された 12 。この素材が選択されていること自体が、南蛮趣味を色濃く反映していると言える。
この陣羽織の最も目を引く特徴は、その大胆かつ洗練された意匠にある。鮮やかな紫色の羅背板を地として、その上に赤、青、緑(萌黄)、黄、白の五色の円形文様が、大小さまざまに、そしてリズミカルに配置されている 6 。そして背面の上部には、伊達家の定紋である「竹に雀紋(たけにすずめもん)」が、輝かしい金糸を用いて豪華に刺繍され、この一領が伊達家のものであることを堂々と示している 6 。
特筆すべきは、この五色の円形文様を実現している技術である。これは、単に別の布を上から縫い付ける「アップリケ」のような単純な技法ではない。地布である紫の羅背板をまず円形に切り抜き、そこに寸分の狂いもなく同形の別色の羅背板をはめ込み、裏から和紙を当てて縫い留めるという、極めて高度で手間のかかる「嵌込み(はめこみ)」、すなわち「切嵌(きりばめ)」と呼ばれる技法が用いられているのである 6 。さらに、円の輪郭は細い紐で丁寧に縁取られ、デザインを引き締めている 6 。
この「切嵌」技法の採用は、この陣羽織が単なる実用的な衣服ではなく、最高の技術を惜しみなく投入して作られた美術工芸品であることを雄弁に物語っている。この技法によって、布地に不要な凹凸や厚みが生じることがなく、あたかも一枚の布に多色の模様が織り込まれているかのような、滑らかで美しい仕上がりが可能となる。布地における「切嵌」は、江戸時代に刀の鐔(つば)などで発達した金工の象嵌(ぞうがん)技術にも通じる、異素材を精密に嵌め込む日本の伝統的な装飾技法の一系統と見なすことができる 18 。特に、それぞれ伸縮性の異なる毛織物を、歪みや弛みなく完璧に嵌め込むには、製作者に卓越した裁断・縫製の技術が要求される。このような複雑な技法を敢えて選択したことは、発注者である伊達家の極めて高い美意識と、それを実現するための潤沢な財力の存在を示唆している。それは、戦国の実用主義から、泰平の世における文化的成熟と奢侈への移行を体現しているとも解釈できよう。
本章では、なぜこの陣羽織が政宗所用と広く信じられてきたのか、その背景を考察するとともに、なぜその説が現代の研究で覆されたのかを、具体的な比較対象を交えながら検証する。
この陣羽織が伊達政宗の所用とされてきた最大の理由は、そのデザインが「伊達者」政宗のパブリックイメージと完璧に合致するからに他ならない。政宗は、伝統的な価値観に囚われることなく、南蛮渡来の新しい文物を積極的に取り入れ、それを自らのスタイルへと昇華させたことで知られる 1 。この陣羽織に見られる、舶来の素材(羅背板)の使用、大胆な構図、そして鮮やかな色彩感覚は、まさしく政宗の美意識を象徴するものとして捉えられた 4 。
加えて、隻眼の竜と恐れられた猛将が、かくもモダンで華やかな陣羽織をまとって戦場に立つ、という物語は、単なる歴史的事実以上に人々の心を捉える強い魅力を持っている。この抗いがたい「物語性」こそが、科学的考証がなされる以前の時代において、伝承を確固たるものとして人々の間に浸透させた大きな要因であったと考えられる。
しかし、長らく「伝えられてきた」この政宗所用説は、近年の研究によって転換期を迎えた。仙台市博物館の公式見解をはじめ、多くの専門家は、本陣羽織の製作年代を政宗の死後(1636年没)からかなり時代が下った**江戸中期(18世紀)**とするのが現在の定説であると結論付けている 6 。
この年代比定の根拠となっているのが、科学的・美術史的な調査研究の進展である。例えば、共立女子大学家政学部被服学科では、仙台市博物館の委託により本陣羽織の修復研究が実施されている 7 。染織史の権威である長崎巌教授をはじめとする専門家たちが関わるこうしたプロジェクトでは、素材の繊維や染料の科学分析、そして縫製技術や意匠の様式論的検討が行われる 7 。これらの多角的なアプローチが、より客観的で精度の高い年代比定を可能にしたのである。
「水玉紋陣羽織」の年代を考察する上で、決定的な比較対象となるのが、実際に伊達政宗が所用したことが確実視されているもう一領の陣羽織、すなわち国指定重要文化財の「山形文様陣羽織」である 21 。
この「山形文様陣羽織」は、黒い羅紗を地とし、金銀のモール(金属を螺旋状に巻いた糸)で縦縞を飾り、裾には緋色の羅紗を用いて山形の文様をあしらっている 23 。ここにも「水玉紋」と同様に「切嵌」の高度な技法が用いられているが、その全体的な雰囲気は大きく異なる。衿には南蛮服飾に見られる襞飾りの跡が残るなど、桃山文化の豪華絢爛でダイナミックな気風を色濃く反映しているのが特徴である 22 。
この二つの陣羽織を比較すると、両者の間に明確な美意識の差異、すなわち時代の空気感の違いが見て取れる。この差異こそが、製作年代の違いを何よりも雄弁に物語っている。
結論として、「山形文様」が体現するのは武将の「威厳」であり、「水玉紋」が体現するのは泰平の世の「粋」である。この空気感の決定的な違いが、両者を異なる時代に位置づける強力な根拠となるのである。
表1:「紫羅背板地五色水玉模様陣羽織」と伊達政宗所用「山形文様陣羽織」の比較
項目 |
紫羅背板地五色水玉模様陣羽織 |
山形文様陣羽織 |
通称 |
水玉紋陣羽織 |
山形文様陣羽織 |
製作年代 |
江戸中期(18世紀) |
桃山~江戸初期(16~17世紀) |
所用者 |
伝・伊達政宗(実際は仙台藩歴代藩主の誰か) |
伊達政宗 |
文化財指定 |
仙台市指定文化財 |
国指定重要文化財 |
主たる素材 |
紫羅背板(舶来の薄手毛織物) |
黒羅紗(舶来の厚手毛織物) |
主たる意匠 |
大小の五色円文(水玉/乱星) |
金銀モール、裾の緋羅紗による山形文様 |
背面の紋 |
竹に雀紋(金糸刺繍) |
なし |
技法 |
切嵌(きりばめ) |
切嵌(きりばめ) |
文化的背景 |
江戸中期の成熟した都市文化、遊戯的・装飾的美意識 |
桃山文化の豪華絢爛さ、南蛮文化の影響、武将の威厳 |
出典 |
6 |
22 |
現代では誰もが「水玉模様」として認識しているこの陣羽織の意匠が、製作された当時は全く異なる意味を持っていた可能性が高い。本章では、文献資料と伊達家の思想的背景から、その意匠に秘められた本来の意味を探る。
この謎を解く鍵は、仙台市博物館が指摘する一つの文献記録にある。明治時代に作成された伊達家の宝物目録において、本陣羽織は「 紫羅背板地五色乱星同(むらさきらせいたじごしきらんせいどう) 」という名で記載されていたのである 6 。
これは、現代我々が「水玉」と認識している円形の文様が、かつては「 星 」、それも夜空に不規則に煌めく「 乱星 」として解釈されていたことを示す、極めて重要な事実である。この発見は、単なる名称の違いに留まらず、意匠の解釈を根底から覆すものである。
「乱星」という解釈は、意匠に用いられている五色と、伊達家に根付いていた天体信仰を結びつけることで、より深い意味を帯びてくる。
まず、意匠に用いられる赤・青(緑)・黄・白、そして地色の紫(黒の代替)の五色は、古代中国から伝わった陰陽五行思想において、それぞれ火星(赤)、木星(青・緑)、土星(黄)、金星(白)、水星(黒)の五惑星に対応させることができる 26 。
そして、伊達家、特に藩祖・政宗が天体と深く関わっていたことは、数々の遺品や伝承から明らかである。
これらの事実を総合すると、この陣羽織は単なる装飾品ではなく、宇宙観そのものを身にまとう一種の呪術的な祭服、あるいは藩主の権威を象徴する装置であった可能性が浮かび上がる。五色の星々(五惑星)をその身にまとうことは、宇宙の秩序と力を自らの身体に宿し、支配することを意味する。そして「乱星」という不規則な配置は、静的な天球図ではなく、ダイナミックに運行する天体のエネルギーそのものを表現しているのかもしれない。さらに、背面に輝く伊達家の定紋「竹に雀紋」と組み合わせることで、「天(星々)の加護」と「地(伊達家)の永続性(常緑の竹と繁殖する雀)」を同時に示し、天地を治める藩主の絶対的な権威を視覚的に宣言する、壮大な意図があったと推測される。
政宗が朝鮮出兵の際に「紺地に金の丸」をあしらった陣旗を用いたという記録も 16 、円形を天体に見立てるデザイン思想の源流として興味深い。この「乱星」という深い思想的背景が時代と共に忘れ去られ、見た目の印象から通俗的な「水玉」と呼ばれるようになった現代との認識の断絶は、近代化の過程で失われた文化的文脈の大きさを示している。
本陣羽織を、より広い武家服飾史の中に位置づけることで、その特異性と時代における普遍性を明らかにする。
陣羽織は、甲冑の上から羽織る上着として室町時代後期に登場した 32 。当初は「具足羽織(ぐそくばおり)」や「陣胴服(じんどうぶく)」と呼ばれ、「陣羽織」という呼称が一般に定着したのは江戸時代に入ってからである 34 。
その役割は、時代と共に大きく変化した。初期には防寒、防雨、防塵といった実用的な目的が主であったが 32 、群雄が割拠する戦国時代が激化するにつれて、その役割は戦場で自らの存在を際立たせ、威厳を示し、部隊の士気を鼓舞するための「表着(うわぎ)」、すなわち自己表現のメディアとしての性格を強めていった 24 。それに伴い、形状も進化し、動きやすさを重視した袖なしの形式が主流となり、乗馬の邪魔にならないよう背中の中央が裾まで開いた「背割羽織(せわればおり)」も登場した 34 。
陣羽織が豪華絢爛な発展を遂げる上で決定的な役割を果たしたのが、南蛮貿易によってもたらされた素材革命である。16世紀半ば以降、ポルトガルやスペインの船が、羅紗、羅背板、天鵞絨(ビロード)、繻子、金襴といった、ヨーロッパやアジア各地の珍しい織物を日本にもたらした 13 。
これらの堅牢で色鮮やかな舶来生地は、武将たちの美意識を強く刺激した。彼らはこぞってこれらの高価な素材を陣羽織に用い、それまでの日本の服飾には見られなかった、大胆で華やかなデザインを次々と生み出していったのである 33 。
「水玉紋陣羽織」の美意識を相対化するため、他の著名な戦国武将たちが愛用した陣羽織と比較することは極めて有益である。彼らにとって陣羽織がいかに重要な自己表現の道具であったかが見えてくる。
これらの事例から明らかなように、戦国武将にとって陣羽織は、単なるお洒落着ではなく、自らの出自、信条、財力、そして天下に対する構想までもを織り込んだ、総合的なアイデンティティの表明であった。信長は「革新者」、秀吉は「権力者」、謙信は「軍神」というそれぞれの自己イメージを、陣羽織を通じて雄弁に語っている。
この文脈に照らせば、伊達家の「水玉紋(乱星)陣羽織」もまた、たとえ江戸中期の作であったとしても、その根底には藩祖・政宗が確立した「伊達者」の美意識、すなわち「南蛮趣味」「天体思想」「卓抜したデザイン性」という、伊達家が代々受け継ぐべきブランド・アイデンティティが色濃く反映されている。つまり、この陣羽織は、政宗個人の所有物ではなかったとしても、「伊達家」というブランドを象徴する一着として、後代の藩主によって製作されたと考えるのが最も妥当であろう。
表2:戦国著名武将の陣羽織一覧(比較分析用)
武将名 |
陣羽織の名称(通称) |
特徴的な素材・意匠 |
示唆される美意識・思想 |
出典 |
織田信長 |
黒鳥毛揚羽蝶模様陣羽織 |
黒い山鳥の羽毛、揚羽蝶の紋 |
革新性、奇抜さ、自己の神格化(蝶紋) |
39 |
豊臣秀吉 |
鳥獣文様綴織陣羽織 |
ペルシャ絨毯(絹、金銀糸)、動物闘争文 |
圧倒的な財力と権威、舶来品への憧れ |
38 |
上杉謙信 |
はぐま毛陣羽織 |
ヤクの毛(白熊)、白一色 |
神秘性、雪国での実用性(防寒・擬態) |
46 |
小早川秀秋 |
猩々緋羅紗地違鎌文様陣羽織 |
鮮やかな緋羅紗、背面に巨大な鎌の紋 |
大胆さ、呪術的意味(赤の魔除け)、自己顕示欲 |
24 |
伊達政宗 |
山形文様陣羽織 |
黒羅紗、金銀モール、山形文様 |
桃山的な武人の威厳、南蛮服飾の影響 |
22 |
史実の探求とは別に、この陣羽織が現代においていかにして生き続けているのかを、文化的なアイコンとしての機能と、その具体的な活用事例から明らかにする。
本報告書で繰り返し述べてきたように、史実の上では政宗所用ではないにもかかわらず、「水玉紋陣羽織」は、兜の三日月前立てと並び、現代メディアにおいて伊達政宗を象徴する最も強力な視覚的アイコンとして定着している 4 。そのモダンでキャッチーなデザインは、複雑な歴史的背景を知らない人々にも直感的に魅力を伝え、政宗の「伊達者」イメージを補強し続けている。これは、複雑な史実よりも、シンプルで魅力的な「伊達者政宗の水玉陣羽織」という物語が、大衆の記憶に選択的に受容され、定着した文化的現象と言える。
この強力なアイコン性は、政宗が礎を築いた仙台の地において、地域文化の核として積極的に活用されている。
こうした現代的な活用の大本には、仙台市博物館に大切に所蔵されている「現物」の存在があることは言うまでもない。この物理的な文化財が失われれば、そこから派生する全ての文化的価値もまた、その源流を失うことになる。
毛織物という有機物でできた陣羽織は、経年劣化による損傷が避けられない。前述した共立女子大学などで行われている修復作業は、この貴重な文化遺産を物理的に健全な状態で未来へと継承するための、不可欠かつ極めて重要な活動である 7 。そして、修復の過程で得られる新たな科学的知見は、我々のこの陣羽織に対する理解をさらに深め、その価値を未来へと伝えていく上で新たな光を当てることにも繋がるのである。
本報告書は、「紫羅背板地五色水玉模様陣羽織」が、伊達政宗所用という長年の伝承とは異なり、彼の死後、江戸時代中期(18世紀)に製作された伊達家伝来の美術工芸品であることを、複数の研究資料と様式論的比較から明らかにした。
しかし、この史実の確定は、本陣羽織の価値を何ら貶めるものではない。むしろ、その真の価値は、より多層的で豊かなものであることが浮き彫りになる。すなわち、本陣羽織の価値は、以下の三つの側面に再定義することができる。
結論として、この一領の陣羽織は、その虚実の物語を通じて、モノそのものが持つ歴史的・物質的価値と、人々がモノに投影するイメージや物語の価値という、二重の重要性を我々に教えてくれる。それは、伊達家が育んだ類稀なる美意識の結晶であり、時代を超えて「伊達」の精神を今に伝える、生きた文化遺産なのである。