火矢筒は棒火矢を発射する筒で、江戸時代に発展。棒火矢は長射程のロケット型焼夷弾で、大陸技術の影響を受け、島原の乱で活躍。
日本の武器史、特に火器の発展を語る上で、「火矢筒(ひやづつ)」と、それを用いて発射される「棒火矢(ぼうびや)」は、特異な位置を占める兵器体系である。一般的に「棒火矢を発射させるための筒」として認識されているこの兵器は、焼夷と破壊を目的とした強力な projectile であったと理解されている [User Query]。この認識は、本兵器の本質を捉える上で正しい出発点である。
しかしながら、専門的な見地から歴史を精査すると、この兵器システムが最も発展し、その真価を発揮したのは、一般に想起されがちな群雄割拠の戦国時代ではなく、徳川幕府による泰平の世が確立された後の江戸時代であったという事実が浮かび上がる。この時代認識の転換こそが、火矢筒と棒火矢の技術的特性、戦術的意義、そして歴史的運命を深く理解するための鍵となる。戦国時代の合戦は、大規模な野戦や城郭の物理的破壊を主眼とした攻城戦が中心であり、主力火器は集団運用される火縄銃や、城壁を打ち崩すための「石火矢(いしびや)」であった。これに対し、大規模な戦争が終結した江戸時代においては、軍事技術の役割が国家間の戦争から、国内の治安維持や反乱鎮圧、そして武家の権威を象徴する武芸の練磨へと変化した。この新たな戦略的環境が、長射程の焼夷兵器である棒火矢という、世界的に見てもユニークな兵器を発展させる土壌となったのである。
本報告書は、この歴史的背景を基軸に、火矢筒と棒火矢の実像に迫るものである。単なる兵器の解説に留まらず、その構造と機構、運用法、そして日本の社会や兵法思想、職人たちの技術体系といかに深く結びついていたのかを多角的に分析し、日本独自の軍事技術の進化と変容の軌跡を明らかにする。
本報告書で扱う兵器群を正確に理解するため、まず関連する用語の定義を明確にする。
火矢とは、敵の陣地や建造物に遠距離から火を放つことを目的とした、燃焼物または発火物を装着した矢の総称である。その歴史は古く、火薬が普及する以前から存在した。『平家物語』には、木曾義仲の家臣である今井兼平が、鏑矢の中に火を入れて敵の住居を焼き払ったという記述が見られる。近世に入り、火薬が兵器として広く利用されるようになると、火矢もその形態を大きく変え、火薬の燃焼力や爆発力を利用したものが登場した。棒火矢や、後述する石火矢なども、広義にはこの「火矢」の一種と見なすことができる。
棒火矢は、本報告書の主題の一つであり、火薬の力で推進する特殊な火矢である。その最大の特徴は、弓や発射機からの投射エネルギーのみに頼るのではなく、矢自体が推進薬を搭載し、ロケットのように自力で飛翔する点にある。本体は主に樫などの硬木で作られ、先端には焼夷効果と炸裂効果を兼ね備えた火薬が充填されていた 1 。この自己推進能力により、棒火矢は当時の他の火器とは比較にならない長大な射程距離を実現した。
火矢筒は、この棒火矢を射出するために特化して製造された、あるいは既存の大筒(おおづつ)を応用した発射装置を指す。その形態は一様ではなく、地面に据え置いて用いる大型の架台式(据え置き型)から、兵士が抱えて射撃する携行型(抱え打ち)まで、用途に応じて多様なものが存在した。新城市の設楽原歴史資料館に収蔵されている品々に見られるように、火矢筒は棒火矢という特殊な弾体を発射するための、日本の火器史における独特なカテゴリーを形成している。
ユーザーの当初の認識である「戦国時代」という視点から、なぜ本報告書が「江戸時代」を主たる舞台として設定するのか、その理由を明確にする。
戦国時代、日本の戦場を席巻した火器は、1543年の伝来以降、急速に普及した火縄銃であった。長篠の戦いに代表されるように、火縄銃の集団運用は戦術に革命をもたらした。また、攻城戦や海戦においては、現代の手榴弾に相当する「焙烙火矢(ほうろくひや)」や、大友宗麟が用いた「国崩し」などの「石火矢」が使用された記録が豊富に残っている。しかし、これらの戦国時代の主要な合戦において、棒火矢が兵器として体系的に使用されたという確たる記録は見当たらない。
棒火矢の起源については、文禄・慶長の役(1592年-1598年)において朝鮮水軍が使用した兵器に触発され、その後に考案されたとする説が有力である。この戦争は戦国時代の末期から安土桃山時代にかけての出来事であり、棒火矢の開発と洗練が本格化したのは、戦乱が収束し、徳川幕府による統治が安定した江戸時代に入ってからであった。
その有効性が実証された画期的な事例が、寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱である。この戦いで幕府軍は、原城に籠城する一揆勢に対し、棒火矢を用いて攻撃し、大きな効果を上げたとされる。この実戦での成功が、泰平の世における砲術のあり方に大きな影響を与え、各砲術流派が棒火矢の研究開発に注力する契機となったと考えられる。したがって、火矢筒と棒火矢を理解するためには、戦国時代の延長線上としてではなく、江戸時代という新たな社会・軍事環境が生み出した独自の兵器システムとして捉え直す必要がある。
以上の背景を踏まえ、本報告書は以下の問いを探求する。
これらの問いに答えることを通じて、火矢筒と棒火矢という一つの兵器システムから、近世日本の技術と社会の深層を読み解いていく。
火矢筒と棒火矢のシステムは、発射機である「筒」と、飛翔体である「矢」の精緻な組み合わせによって成り立っている。本章では、それぞれの構造と機構を科学的な視点から詳細に分析する。
火矢筒は、棒火矢を発射するための専用、または兼用の大筒であり、その製造には当時の日本の金属加工技術の粋が集められていた。
火矢筒の銃身は、内部で発生する火薬の強大な爆発圧力に耐えるため、主に鉄を鍛えて造られる「鍛造(たんぞう)」によって製作された。これは、金属を溶かして型に流し込む「鋳造(ちゅうぞう)」に比べて、金属の組織が緻密になり、強度や粘り強さ(靭性)が格段に向上するためである。特に、爆発の危険性を伴う銃砲身には、内部に気泡(巣)が残りにくい鍛造が適していた。
日本の鉄砲鍛冶たちは、銃身の強度を確保するために独自の技術を発展させた。その代表が「巻張(まきばり)」と呼ばれる技法である。これは、鉄の板を熱して心棒に巻き付け、幾重にも重ねて槌で叩き、鍛え合わせることで一体化させる技術である。この積層構造により、単一の鉄塊から造るよりも遥かに破裂しにくい、強靭な銃身の製造が可能となった。この技術は、ポルトガルから伝来した火縄銃の国産化の過程で洗練され、和製大筒や火矢筒の製造にも応用された。
この鍛造による「和製大筒」の系譜は、戦国時代に大友宗麟が用いた「国崩し」に代表される青銅鋳造製の「石火矢」とは技術的に一線を画すものである。石火矢が比較的融点の低い青銅を用いることで製造が容易であったのに対し、鉄の鍛造はより高度な技術を要したが、その分、強度の高い兵器を生み出すことができた。
火矢筒の形状は一つに定まっておらず、運用思想や砲術流派によって様々な形態が存在した。
江戸時代に入り、泰平の世が続くと、兵器は実用的な道具としてだけでなく、大名家の格式や技術力を示すためのステイタスシンボルとしての意味合いを強く帯びるようになった。肥後熊本藩主の細川家に伝来した火矢筒は、その典型例である。この火矢筒は銃身が非常に短く、実用性には乏しい一方で、極めて精巧で優れた装飾が施されている 2 。これは、もはや実戦での使用を主目的とするのではなく、大名家の武威と財力、そして高度な兵器を保有する技術力を内外に誇示するための儀礼的な品であったと考えられる。火矢筒の存在は、江戸時代の武家社会における兵器の役割の変容を物語っている。
棒火矢は、火矢筒から発射される、自己推進能力を持つ焼夷・炸裂弾である。その構造は、単なる矢とは一線を画す、精緻なものであった。
棒火矢の本体は、矢柄(やがら)に相当する部分で、主に樫(かし)などの硬く丈夫な木材で作られていた。これは発射の衝撃と飛翔中の負荷に耐えるためである。木製であるため、着弾後は燃焼・破損することが前提の消耗品であり、これが現存品が極めて少ない一因となっている。
矢の先端、鏃(やじり)に相当する部分には、重量を増して弾道を安定させ、また目標への貫通力を高めるために、鉄や鉛の塊が取り付けられていた。一方、矢の末端には、飛行姿勢を安定させるための矢羽が付けられていた。この矢羽も、鉄や木といった頑丈な素材で作られていた。栃木県小山市の野木神社に奉納された絵馬に描かれた棒火矢は、長さ77cm、直径4cmであったと記録されており、その大きさを窺い知ることができる。
棒火矢の最大の特徴は、その胴体部分に搭載された焼夷炸薬である。矢の先端から三分の一ほどの部分 1 、あるいは胴体部分に溝を彫るなどして空間を作り、そこに特殊な火薬を充填した。
この火薬の組成は、基本的な黒色火薬の原料である硝石(硝酸カリウム)、硫黄、木炭に加えて、燃焼効果を高め、煙を多く発生させるために樟脳(しょうのう)などが混合されていた。中島流砲術では、松脂なども用いられたという。
その充填方法は非常に手間のかかるものであった。田付流の伝書によれば、まず焼薬を詰めた部分に杉原紙や美濃紙といった和紙を巻きつけて袋状にし、その上から糸で雁字搦めに固く締め上げる。さらに、その表面に糊を混ぜた焼薬を塗り固めることで、飛翔中の空気抵抗や熱から内部の火薬を保護し、燃焼を制御した。このように、棒火矢は単に火薬を付けた矢ではなく、燃焼パターンまで計算された高度な焼夷兵器であった。
棒火矢の飛翔メカニズムは、単なる弾丸とは根本的に異なり、現代のロケットに近い二段式の推進原理に基づいていたと考えられる。
この二段式自己推進というメカニズムは、棒火矢を単なる「砲弾」ではなく、「誘導装置を持たない原始的なミサイル」あるいは「ロケット砲弾」として再定義させるものである。この技術的特異性が、ヨーロッパの滑腔砲とは全く異なる進化の道を歩んだ日本の大筒の、一つの到達点であった。
火矢筒と棒火矢の特異な構造は、その運用法や戦術的な役割にも独自性をもたらした。江戸時代の泰平の世において、この兵器システムは砲術流派の中で秘伝として洗練され、戦場においては比類なき長射程を活かした特殊な役割を担った。
棒火矢の運用技術は、江戸時代に確立された多くの砲術流派において、重要な研究対象であり、奥義として伝承された。
棒火矢術を重視した流派として、特に以下の三つが挙げられる。
棒火矢の長大な射程を最大限に活かすため、その射撃法には特殊な工夫が凝らされていた。
島原の乱を最後に大規模な内戦が終結すると、砲術は実戦の技術としてだけでなく、武家の権威や技術力を披露するための「演武」として、その様式美を洗練させていった。江戸時代後期に描かれた錦絵には、侍たちが大筒や火矢筒を操り、棒火矢を発射する勇壮な演武の様子が描かれていることがある。これらの演武は、大名行列などと同様に、武家の威光を民衆に示すための重要な行事であった。
また、愛媛県の大洲神社や栃木県の野木神社には、それぞれ大洲藩士や古河藩士によって棒火矢を描いた絵馬が奉納されている。これは、棒火矢の技術を習得したことへの感謝や、武運長久を祈願するものであり、この兵器が単なる道具を超え、武士たちの誇りや信仰の対象にまでなっていたことを示す興味深い事例である。
棒火矢が戦場で用いられる際、その最大の武器は圧倒的な射程距離であった。
各種の伝書や記録によれば、棒火矢の最大射程は約2,500mから3,000mに達したとされる。これは、当時の日本の城郭都市の規模を考えると、驚異的な性能であった。例えば、広島城の城下町は千メートル四方程度の範囲に収まっており、棒火矢を用いれば、敵の鉄砲や弓矢の反撃が全く届かない安全な距離から、城下全体を一方的に攻撃することが可能であった。
この長射程は、幕末に西洋式の近代的な大砲が導入されるまで、日本の火器の中で突出したものであり、棒火矢の戦術的価値の根幹をなしていた。
棒火矢は、その特性から多様な戦術的効果を期待された。
その高い潜在能力にもかかわらず、棒火矢が大規模な実戦で活躍した記録は限定的である。
結局のところ、棒火矢は「泰平の世に完成した、大規模な戦争を経験することのなかった兵器」であったと言える。その真価が発揮されるべき戦場が、その誕生とほぼ同時に失われていたのである。
棒火矢という特異な兵器は、日本の内部だけで生まれたものではない。その起源は大陸の先進的な火器技術にあり、また、日本の戦国時代に存在した他の火器との比較を通じて、その独自性はより一層明確になる。
日本の棒火矢は、東アジアにおける火薬兵器技術の大きな流れの中に位置づけられる。
江戸時代の文献であるブリタニカ国際大百科事典の古い版などには、棒火矢が「文禄・慶長の役に朝鮮水軍が使用したものから考案された」という記述が存在する。豊臣秀吉による二度の朝鮮出兵(1592年-1598年)は、日本と明・朝鮮連合軍との間で激しい戦闘が繰り広げられた。この戦争において、日本軍は朝鮮軍が使用する多様な火器に直面することになる。
特に朝鮮軍が用いた兵器の中に「火車(ファチャ)」がある。これは、多数のロケット矢(神機箭)を一度に発射することができる多連装式の移動式発射機であり、日本軍に大きな脅威を与えた。この火車から発射される矢は、火薬の力で自ら飛翔するロケットであり、日本の棒火矢と基本原理を共有している。この戦争を通じて、日本の武将や技術者たちが朝鮮の先進的なロケット兵器技術に直接触れ、その知識を日本に持ち帰ったことが、後の棒火矢開発の重要な触媒となった可能性は極めて高い。
さらにその源流を遡ると、中国の存在が浮かび上がる。中国では火薬の発明以来、独自の火器技術が発展しており、14世紀の明代に書かれた兵法書『火龍経』には、「火龍出水(かりゅうしゅっすい)」という驚くべき兵器が記載されている。
『火龍経』の図解によれば、火龍出水は龍の形を模した木製の筒で、その胴体の外部に4本の推進用ロケットが取り付けられている。まずこの外部ロケットに点火して本体を飛翔させ、その燃料が尽きる頃合いを見計らって、内部に仕込まれた第二段のロケット矢が発射されるという、精巧な多段式ロケット兵器であった。この「外部の推進力で飛翔し、さらに内部から飛翔体を発射する」という二段式推進のコンセプトは、火矢筒(第一段)から棒火矢(第二段)が発射されるシステムと構造的に酷似している。
鉄砲伝来(1543年)以前から、日本は倭寇や勘合貿易などを通じて大陸と交流があり、中国の火器技術が断片的に伝わっていた可能性は十分に考えられる。日本の棒火矢は、こうした朝鮮の火車や中国の火龍出水といった、東アジアに連綿と続くロケット兵器技術の系譜の末端に位置づけられる、日本独自の発展形と見なすのが妥当であろう。
棒火矢の特性を理解するため、戦国時代から安土桃山時代にかけて日本で活躍した他の主要な火器と比較する。これにより、それぞれの戦術的役割(ニッチ)の違いが明確になる。
焙烙火矢は、現代の「手榴弾」に最も近い兵器である。食材を炒るための素焼きの土鍋「焙烙」に似た形状の陶器に火薬を詰め、導火線に火を付けて投擲する。爆発時の衝撃と、飛散する陶器の破片で敵兵を殺傷するほか、木造の船や陣地に火災を発生させる焼夷効果も狙った。主に村上水軍などの海賊衆が得意とし、海戦において絶大な威力を発揮した。第一次木津川口の戦い(1576年)では、毛利水軍がこの焙烙火矢を駆使して織田方の水軍を壊滅させている。しかし、その射程は投擲者の腕力に依存するため、比較的短距離に限定された。棒火矢が長射程の「砲」であるのに対し、焙烙火矢は近・中距離用の「投擲兵器」であり、その役割は明確に異なっていた。
石火矢は、16世紀半ばにポルトガルからもたらされた「フランキ砲」に代表される、西洋式の後装式カノン砲である。九州の戦国大名・大友宗麟がフランシスコ・ザビエルら宣教師を通じて入手し、「国崩し」と名付けて臼杵城の防衛戦で使用したことで知られる。青銅を鋳造して作られ、火薬と弾丸を詰めた「子砲(しほう)」と呼ばれる薬室を交換することで、当時としては高い連射速度を実現した。その目的は、石や金属の弾丸を撃ち出し、城壁や建物を物理的に破壊することにあった。
棒火矢が「長射程の焼夷ロケット」であるのに対し、石火矢は「中射程の攻城砲」であった。材質(鍛造鉄 vs 鋳造青銅)、弾種(ロケット矢 vs 固体弾)、そして戦術目的(焼夷・面制圧 vs 物理破壊・点目標攻撃)の全てにおいて、両者は対照的な兵器システムであった。江戸時代に入ると、球状の弾丸を撃つ大砲を「石火矢」、矢状の飛翔体を発射する砲術を「棒火矢」と呼び分けるようになり、両者の区別が明確に意識されるようになった。
表1:戦国・江戸初期の主要火器比較表
兵器名称 |
種類 |
主な材質 |
発射・投擲方法 |
主な用途 |
主要な活躍時代 |
射程(目安) |
棒火矢 (Bōhiya) |
ロケット推進型焼夷弾 |
木、鉄、火薬 |
火矢筒・大筒による射出 |
遠距離からの拠点焼き討ち |
江戸時代前期 |
長距離 (〜3km) |
焙烙火矢 (Hōroku Hiya) |
炸裂手榴弾・投擲弾 |
陶器、火薬 |
手投、もしくは遠心力を利用した投擲 |
海戦での対舟艇攻撃、対人殺傷 |
戦国時代 |
短〜中距離 |
石火矢 (Ishibiya / 国崩し) |
後装式カノン砲 |
青銅(鋳造) |
砲架に据え、砲弾を発射 |
城郭防衛、対物破壊 |
戦国〜安土桃山時代 |
中〜長距離 (数百m) |
火縄銃 (Hinawajū) |
前装式小銃 |
鉄、木 |
肩付けによる直接照準射撃 |
対人殺傷 |
戦国〜江戸時代 |
短距離 (有効射程50-100m) |
この比較から、棒火矢がいかに特異な存在であったかがわかる。それは、火縄銃のような対人兵器でも、焙烙火矢のような近接戦闘兵器でも、石火矢のような攻城兵器でもなかった。それは、日本の伝統的な戦術思想である「火攻」を、当時の最先端技術であったロケット工学と融合させ、長距離から実現するために特化した、全く新しいカテゴリーの兵器だったのである。
棒火矢が発展を遂げた江戸時代は、260年以上にわたる平和な時代であった。この特殊な環境が、日本の兵器技術に「独自進化」とも言うべき特異な変容をもたらした。
島原の乱(1637年)以降、日本国内で大規模な戦争は発生しなくなった。これにより、火器の役割は、実戦での勝利を追求する道具から、大名の権威を象徴する儀礼品や、砲術流派がその伝統技術を保存・伝承するための演武の道具へと、その重心を移していった。肥後細川家伝来の豪華な火矢筒は、まさにこの時代の変化を象徴するものである。
徳川幕府の鎖国政策により、西欧からの最新軍事技術の流入は、出島などを通じて限定的なものとなった。その結果、日本の砲術は、世界の軍事技術の潮流から離れ、国内で独自の深化を遂げることになった。棒火矢は、その象徴的な存在である。長射程焼夷兵器としては世界的に見ても高度に洗練されていた一方で、18世紀から19世紀にかけてヨーロッパで急速に進展した、弾道学の科学的発展、砲身内部に溝を刻むライフリング技術による命中精度の向上、着弾時に炸裂する高性能な榴弾の開発といった、近代砲術の核心となる技術革新からは完全に取り残されてしまった。
この日本の「独自進化」が、幻想であったことを突きつけたのが、幕末の黒船来航と、それに続く西洋列強との接触であった。1855年にイギリスで開発されたアームストロング砲に代表される近代的な後装式ライフル砲は、日本の伝統的な大筒や棒火矢とは比較にならない性能を誇っていた。射程、命中精度、破壊力、連射速度のすべてにおいて、その差は歴然であった。
戊辰戦争(1868年-1869年)では、佐賀藩などが用いたアームストロング砲が、旧幕府軍の旧式な大砲を圧倒し、勝敗を決定づける要因の一つとなった。上野戦争や会津戦争において、新政府軍の近代砲兵が旧式の要塞や陣地をいとも簡単に沈黙させる光景は、和流砲術の時代の完全な終わりを告げるものであった。こうして、江戸時代の泰平が生んだ「傑作」である火矢筒と棒火矢は、その技術体系もろとも、歴史の舞台から急速に姿を消していったのである。
火矢筒と棒火矢という兵器システムを支えていたのは、江戸時代の日本の職人たちが持つ高度な製造技術であった。特に、発射機である大筒の製造には、日本刀の鍛錬技術とは異なる、独自の発展を遂げた鉄の加工技術が用いられていた。近年の科学的分析は、その材質の秘密を解き明かしつつある。
和製大筒(火矢筒)の製造は、鉄を自在に操る鍛冶職人の高度な技術に依存していた。
前述の通り、銃砲身のように内部で高い圧力がかかる部品の製造には、金属を叩いて鍛える「鍛造」が、溶かして固める「鋳造」よりも遥かに適していた。鍛造プロセスにおいて金属を繰り返し叩くことで、内部の結晶構造が微細化・均一化され、鋳造時に生じがちな微小な空洞(巣)が圧着される。これにより、金属の密度と靭性が増し、爆発圧力に対する破断抵抗が格段に向上するのである。
日本の鉄砲鍛冶たちは、強靭な銃身を製作するために、世界的に見てもユニークな「巻張(まきばり)」という技法を編み出した。これは、薄く伸ばした鉄の板(短冊鉄)を熱し、心金(しんがね)と呼ばれる鉄の棒に螺旋状に巻き付け、槌で叩いて鍛え合わせる(鍛接)ことを繰り返す技法である。さらに、二重、三重に巻き重ねる「二重巻張」などの高度な技術も開発された。この技法は、あたかも和紙を幾重にも貼り合わせて強度を増すかのように、鉄の層を重ねることで、強力な国産火薬(和製火薬)の使用にも耐えうる、軽量かつ強靭な銃身の製造を可能にした。
火縄銃の製造が始まると、近江の国友村や和泉の堺といった地域に、鉄砲製造を専門とする「鉄炮鍛冶」の集団が形成された。彼らは、銃身を作る鍛冶、銃床を作る木工職人(台師)、からくり(撃発機構)を作る職人など、分業体制を確立し、鉄砲の大量生産を可能にした。
一方で、既存の「刀鍛冶」が、その金属加工技術を応用して副業として鉄砲を製作する例も少なくなかった。しかし、両者の間には、単なる専門分野の違いだけでなく、使用する素材や技術体系にも差異があったことが、近年の研究で明らかになっている。例えば、火縄銃の部品において、銃身本体には広島県三原周辺で産出された鉄が、そして銃身の末端を密閉し、爆圧を直接受け止める最も重要な部品である「尾栓(びせん)」には、より柔軟性に富む出雲地方の「たたら製鉄」による鉄が多用されるなど、部位ごとに最適な材質を使い分ける高度な知見が存在した。これは、鉄炮鍛冶たちが、日本刀とは異なる「火器」という製品の要求性能に応じて、独自の材料供給網(サプライチェーン)と技術ノウハウを構築していたことを示している。
国立歴史民俗博物館などで行われた近年の科学的調査は、現存する江戸時代の鉄砲の銃身を非破壊で分析し、その材質に関する驚くべき事実を明らかにしている。
鉄砲の銃身に蛍光X線を照射し、そこに含まれる元素を分析した結果、日本の鉄砲と日本刀の素材である鉄には、含有される不純物(介在物)の化学組成に明確な違いがあることが判明した。
この介在物の組成の明確な違いは、極めて重要な事実を示唆している。それは、日本の「鉄炮鍛冶」と「刀鍛冶」が、多くの場合、異なる原料鉄を用いて製品を製造していたということである。刀鍛冶が、伝統的な「たたら製鉄」による高品質な玉鋼にこだわったのに対し、鉄炮鍛冶は、より安価で大量に入手可能な、異なる製法(あるいは輸入)の鉄を主に使用していた可能性が高い。
これは、日本刀という、文化的・美術的価値も高い伝統的な工芸品と、鉄砲という、純粋に性能とコストが重視される実用的な工業製品との間に、明確な技術的・文化的断絶があったことを物語る。鉄炮鍛冶たちは、伝統に縛られることなく、火器という新しい製品の要求性能を満たすために、最も合理的で経済的な材料を選択する、極めてプラグマティックな技術者集団であった。火矢筒と棒火矢は、こうした伝統とは異なる、もう一つの日本の鉄鋼技術史の系譜の上に成り立っていたのである。
本報告書を通じて行ってきた多角的な分析は、火矢筒と棒火矢という兵器システムが、単なる「火を放つ矢と筒」という単純な理解を遥かに超える、複雑で奥深い存在であることを明らかにした。その歴史的評価を、ここに改めて総括する。
火矢筒と棒火矢は、中国大陸のロケット技術にその着想を得つつも、戦国時代の終焉と江戸時代の到来という、日本の歴史上類を見ない社会・軍事環境の激変の中で、独自の発展を遂げた、精緻な長射程ロケット推進式焼夷兵器システムであった。それは、火縄銃のような対人殺傷を主目的とせず、また石火矢のような物理的破壊を意図するものでもなかった。その本質は、日本の伝統的な木造建築群に対して最大の効果を発揮する「火攻」という戦術思想を、当時の最先端技術を用いて最大化することにあった。
この兵器システムは、日本の兵器史における一つの到達点であることは間違いない。その驚異的な射程は、敵の反撃を受けない一方的な攻撃を可能にし、日本の職人たちが持つ高度な鍛造技術と火薬調合技術の結晶であった。特定の条件下、すなわち木造の城郭や都市に対する遠距離からの焼夷攻撃という点においては、世界的に見ても比類のない能力を有していたと言える。
しかし、その成功と特化こそが、影の部分をも生み出した。棒火矢の発展は、世界的な軍事技術の潮流であった弾道学の科学的探求、命中精度の飛躍的向上をもたらすライフリング技術、そして近代的な榴弾の開発といった道筋から、日本の砲術を乖離させる一因となった。江戸時代の泰平が生み出した「傑作」は、その誕生の瞬間から、来るべき近代的な軍事力の衝突においては「時代遅れの遺物」となる運命を内包していたのである。
幕末、アームストロング砲に代表される西洋の近代火砲の前に、日本の伝統的な和流砲術は為す術もなく陳腐化した。火矢筒と棒火矢、そしてそれを支えた精緻な職人技術の体系は、歴史の表舞台から急速に姿を消し、その多くは断絶した。
しかし、その技術史上の断絶は、彼らの達成の価値を何ら損なうものではない。火矢筒と棒火矢の存在は、近世日本の技術力が決して停滞していたわけではなく、世界とは異なる独自の基準と目標の下で、極めて高度な発展を続けていたことの力強い証左である。この兵器を研究することは、単に過去の武器を振り返ることではない。それは、兵器という「モノ」を媒介として、戦国から江戸、そして近代へと至る日本の社会構造、戦略思想、そして技術革新のダイナミックな変容の物語を読み解く、重要な鍵なのである。