灰被虹天目は、元時代の茶碗で、釉薬の窯変が虹のように輝く。戦国時代に価値が逆転し、不完全の美を象徴する重要文化財。
本報告書は、名物茶碗「灰被虹天目(はいかつぎにじてんもく)」という一つの工芸品を対象とし、その物理的特徴、歴史的背景、そして文化的価値を多角的に分析するものである。しかし、その目的は単なる美術品の解説に留まらない。この一碗を通して、日本の歴史上、最もダイナミックな変革期であった戦国時代から桃山時代にかけての精神史、とりわけ美意識と権力の複雑な関係性を解き明かすことを試みる。
天目茶碗といえば、漆黒の釉面に瑠璃色の光彩が星々のように浮かぶ国宝「曜変天目(ようへんてんもく)」や、銀色の斑紋が油滴のようにきらめく「油滴天目(ゆてきてんもく)」が至高の存在として知られている。これら華麗な天目茶碗とは対照的に、「灰被天目」は、文字通り灰を被ったかのような、くすんだ、あるいは艶のない景色を特徴とする。その中でも異彩を放つ「虹天目」は、一見地味な灰被の範疇にありながら、なぜ「大名物」として茶道文化史にその名を刻み、極めて重要な位置を占めるに至ったのか。この問いこそが、本報告書の探求の中心となる 1 。
その答えの鍵は、この茶碗が生まれ、そしてその価値が見出された「戦国時代」という時代そのものにある。足利将軍家の権威が失墜し、旧来の価値観が根底から揺らぐ中で、新たな実力者たちが台頭したこの時代は、まさに文化的な価値創造の坩堝(るつぼ)であった。本報告書は、この灰被虹天目というミクロな視点から、戦国というマクロな時代の精神性を読み解く旅へと、読者を誘うものである。
議論の基礎を固めるため、まず「灰被虹天目」そのものの客観的、物理的な特徴を詳述する。この茶碗は、2012年9月6日に国の重要文化財に指定され、現在は九州国立博物館に所蔵されている 1 。
本茶碗は、中国の元時代(14世紀)に制作されたと推定される陶磁器であり、灰被天目に分類される 1 。法量は高さ6.9cm、口径12.2cm、高台径4.4cmであり、天目形茶碗としては典型的な大きさである 1 。
その器形は、天目形の典型をなす。口辺は一度わずかに内にくびれ、そして再び外側へと緩やかに捻り返す「鼈口(すっぽんぐち)」と呼ばれる形状を持つ 1 。これにより、口当たりが良くなるとされる。胴はわずかに丸みを帯びて膨らみ、腰にかけて滑らかにすぼまっていく優美な曲線を描く。内側の見込、特に底部は広く平らに作られており、これは抹茶を点てる際の攪拌のしやすさという、茶道具としての実用性を十分に考慮した設計である 4 。
素地は黒褐色を呈する堅緻な陶胎で、硬く焼き締められている 1 。高台は、底の中央がやや窪む「内反り高台」であり、篦(へら)を用いて丁寧に削り出されている。高台の脇は狭く平らに削られ、胴の下部から底面にかけては、制作過程で篦による調整が加えられた跡が明瞭に残っている 1 。この高台の造形は、後述するように、最高級の天目茶碗である建盞(けんさん)との様式的な差異を示す重要な鑑賞点となる 5 。
この茶碗が「虹天目」と称される所以は、その類稀なる釉薬の景色にある。碗の内外面には、漆黒釉と褐釉という二種類の鉄釉が、厚く「掛け分け」られて重ね掛けされている 1 。ある記録では、半面が黒地、もう半面が熟した柿のような赤褐色の「柿金気色(かきかなけいろ)」と表現されている 7 。そして、この二色の釉薬が接する境界線が、窯の中での焼成過程における偶然の変化、すなわち「窯変(ようへん)」によって、鮮やかな銀色に発色しているのである 1 。この銀色の帯が、碗の口縁から腰にかけて斜めに走り、あたかも天空に架かる虹を想起させることから、「虹天目」という雅号が与えられた 2 。
さらに、腰から下の高台周辺は意図的に釉薬が掛けられず、素地が露出した「露胎(ろたい)」となっており、土の力強い質感を見せている。また、口縁には銀製の覆輪(ふくりん)が施され、器を保護するとともに、全体の印象を引き締めるアクセントとなっている 1 。高台内には朱漆による銘が記され、高台の一部には時代を経て生じたと思われる欠損も見られる 1 。口縁から腰にかけて斜めに一本入る貫入(ひびき)も、この碗が経てきた時間の長さを物語る景色の一部として記録されている 7 。
項目 |
詳細 |
典拠 |
分類 |
中国陶磁、灰被天目 |
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制作地・時代 |
中国 元時代(14世紀) |
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法量 |
高さ:6.9cm、口径:12.2cm、高台径:4.4cm |
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器形 |
典型的な天目形。口辺は鼈口。内面底部は広く平ら。 |
1 |
素地 |
黒褐色の陶胎。硬く焼き締められている。 |
1 |
高台 |
内反り高台。高台脇は狭く平らに削られ、篦削り調整跡が見られる。 |
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釉薬 |
漆黒釉と褐釉の二種を掛け分け。腰から下は露胎。 |
1 |
景色 |
掛け分けの釉境が窯変により銀色に発色し、「虹」を思わせる。 |
1 |
装飾 |
銀覆輪 |
1 |
銘・状態 |
高台内に朱銘。高台の一部に欠失あり。一本の貫入あり。 |
1 |
「虹天目」を理解するためには、まずそれが属する「灰被天目」というカテゴリーの本質と、その系譜を把握する必要がある。
そもそも「天目」という名称は、中国浙江省にある天目山の禅院に由来する 8 。鎌倉時代、この地へ留学した日本の禅僧たちが、現地で日常的に用いられていた喫茶用の黒い碗、すなわち鉄分を多く含む鉄釉を掛けて焼かれた碗を持ち帰ったことから、日本ではこの種の碗を「天目」と総称するようになった 8 。
「灰被天目(はいかつぎてんもく)」とは、その名の通り、焼成時に窯の灰を被ったかのような、光沢のない、いわゆる「かせた」釉調を持つ天目茶碗の一群を指す呼称である 3 。その景色は、多くの場合、二種類の釉薬を意図的に二重に掛けることで生み出される 11 。この複雑な施釉法が、窯の中での化学反応を誘発し、一つとして同じもののない、変化に富んだ味わい深い景色を生み出すのである。一口に灰被天目といっても、その釉調は決して一様ではなく、複数の異なるタイプがこの名で一括りにされていたことが、古い文献からも窺える 14 。
天目茶碗の最高峰である曜変や油滴は、中国福建省にあった「建窯(けんよう)」で焼かれた「建盞(けんさん)」として知られる。しかし、灰被天目は、この建窯ではなく、その周辺に点在していた地方の窯、特に「茶洋窯(ちゃようよう)」などで焼かれたとする説が今日では定説となっている 3 。
この説の最大の根拠は、器の造形、特に高台の作りに見られる様式的な違いである 5 。典型的な建盞は、高台内を鋭利な刃物で削り込んだようなシャープな作り(いわゆる「兜巾(ときん)高台」)を特徴とする。これに対し、灰被天目の多くは、高台脇に段差を設け、高台内を浅く、曲面を描くように丸く削り出すという、より穏やかで作為の少ない造形を見せる 17 。この建盞とは明らかに異なる特徴が、生産地の違いを示唆しているのである。
この事実は、灰被天目の価値を考える上で極めて重要である。つまり、灰被天目は、曜変や油滴のような、当時の陶磁器生産における最高級ブランドであった「建窯」の製品ではない。いわば、地方の無名の窯で焼かれた、出自としては「不完全」な器であった。この出自の不完全さこそが、後にわび茶の世界で新たな価値を見出されるための、逆説的ではあるが必要不可欠な条件となった。完璧な出自を持たない器が、その不完全さゆえにこそ、旧来の価値観を覆す新しい美意識の象徴となり得たのである。もし灰被天目が建窯産の完璧な器であったならば、後の時代にこれほどまでに高く評価されることはなかったかもしれない。
灰被天目の価値が、戦国時代を境に劇的に変化したことは、当時の茶書を比較することで明確に見て取れる。この価値の逆転劇は、単なる茶人の好みの変化ではなく、時代そのものの精神構造の変動を映し出す鏡であった。
室町時代後期、8代将軍・足利義政に仕えた同朋衆(どうぼうしゅう)によって編纂された『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)』は、将軍家の座敷飾りの規範を示すとともに、所蔵する唐物道具の格付けを記した、当時の公式な価値基準書であった 19 。この書によれば、天目茶碗の評価は、内側に星雲のような紋様が浮かぶ「曜変」が最高位で、その価値は「萬疋(まんびき)」、次いで「油滴」が「五千疋」、「禾目(のぎめ)」が「三千疋」と、明確に序列化されていた 22 。
ところが、「灰被(はいかつき)」は、これらの建盞とは全く別のカテゴリーに分類され、「土之物」の最下位に置かれた。そして、「上には御用なき物にて候。代に及ばず候也」と記されている 5 。これは、「将軍家のような高貴な場では用いるに足らないものであり、値段を付ける価値すらない」という意味であり、これ以上ないほどの低い評価であった。
しかし、戦国乱世の中で、この絶対的とも思われた価値観は根底から覆される。武野紹鴎(たけのじょうおう)らが推し進め、千利休(せんのりきゅう)によって大成された「わび茶」の流行である 24 。わび茶は、豪華絢爛な唐物道具を飾り立てる従来の「書院の茶」とは対極にあり、不完全なもの、質素なものの中にこそ深い精神性を見出そうとする、静寂の美学であった 25 。この美意識の革命は、日本の文化史における一大転換点であった。
この新しい美意識を最も先鋭的に示したのが、利休の一番弟子、山上宗二(やまのうえのそうじ)が著した秘伝書『山上宗二記』である 5 。この書には、利休の茶の湯の思想と、それに基づく道具の格付けが赤裸々に記されている。そして、ここで灰被天目の評価は、180度の劇的な転回を遂げる。
『山上宗二記』において、灰被天目は、かつて『君台観左右帳記』で最高の建盞とされた禾目天目よりも上位に位置づけられたのである 5 。価値なしとされたものが、最高の価値を持つものへと躍り出た瞬間であった。この価値転換を現代に伝える最も重要な物証が、徳川美術館に所蔵される大名物「灰被天目」であり、これは『山上宗二記』に記載された天目の中で、唯一現存が確認されている作例である 27 。
この評価の逆転は、単なる美意識の変化ではない。それは、戦国時代という社会構造の変動そのものを映し出している。『君台観左右帳記』の価値観が足利将軍家という「旧権力」の美学を代表するのに対し、『山上宗二記』の価値観は、利休を庇護した織田信長、豊臣秀吉、そして堺の豪商たちという「新興勢力」の美学を代弁するものであった。武力で天下を掌握した彼らは、文化的にも旧権威から自立する必要があった。旧権力が至上とした唐物(中国からの輸入品)をただ追い求めるだけでは、文化的な従属から脱却できない。そこで彼らは、旧権力が価値なしと切り捨てたもの、すなわち灰被天目や高麗茶碗といった「不完全な」器の中に、新たな美を見出し、それを至上のものとして称揚する「わび茶」を強力に支持した。これは、価値評価の基準そのものを自らの土俵へと引き込む、高度な文化戦略であったと言える。「灰被虹天目」の価値の上昇は、まさにこの「文化的下剋上」の成功を物語る、動かぬ証なのである。
戦国時代、茶の湯は単なる趣味や芸道ではなく、政治、経済、外交と密接に結びついた、極めて高度な統治の道具であった。「灰被虹天目」もまた、こうした時代の渦中に存在した。
天下統一を目指す織田信長は、その過程で、畿内の武士や有力商人たちが所蔵する高名な茶道具、いわゆる「名物」を、時に権威を背景に、時に金銀と引き換えに、精力的に収集した。この行為は「名物狩り」として知られている 29 。
信長にとって、これらの名物は単なるコレクションではなかった。彼は、戦で功績を挙げた家臣に対し、領地の代わりに一国一城にも匹敵するとされた茶器を恩賞として与えた 31 。これにより、名物茶器を持つこと、そして茶会を催すことが、信長に認められた者のみに許される最高の栄誉となり、家臣団を強力に統制する手段となった。この、茶の湯を政治の中枢に据えた統治スタイルは「御茶湯御政道(おちゃのゆごせいどう)」と呼ばれる 34 。信長自身も曜変天目を所持していたと伝えられ、天正10年(1582年)の本能寺の変において、他の多くの名物と共に焼失したとされる 36 。
信長の茶湯政治を継承し、さらに発展させたのが豊臣秀吉である。秀吉は、茶の湯を自らの絶大な権力を天下に示すための壮大な演出装置として用いた。その象徴が、組み立て式の「黄金の茶室」であり、誰もが一目でその富と権力を理解できる、究極の視覚的プロパガンダであった 39 。
天正15年(1587年)、秀吉は京都の北野天満宮で「北野大茶湯」を催す。この前代未聞の茶会では、身分を問わず、茶道具を一つでも持参すれば誰でも参加が許された 40 。秀吉は自慢の名物道具の数々を惜しげもなく展観し、自らも茶を点てることで、天下人としての文化的な覇権を天下に知らしめたのである 41 。
徳川家康もまた茶の湯を深く愛好したが、そのあり方は信長や秀吉のそれとは趣を異にする。家康が天下を平定し、江戸幕府を開くと、茶の湯は政治的緊張感をはらんだ戦略的ツールから、幕藩体制下における武家の嗜むべき必須教養、すなわち「武家茶道」として、次第に制度化・流儀化されていった 33 。
「灰被虹天目」は、まさにこのような、茶の湯が政治権力と分かちがたく結びついていた激動の時代に、その価値を認められ、受け継がれてきた。特定の武将がこの「虹天目」そのものを茶会で用いたという直接的な記録(茶会記)は現存しないものの、同種の灰被天目は、堺の豪商・津田宗及の茶会記などに「豊後天目」として登場しており 45 、名物の一つとして武将や茶人たちの間で広く認識されていたことは間違いない。
美術品の価値は、その物自体の美しさだけでなく、誰がそれを所持し、どのように受け継いできたかという「伝来」の物語によって大きく左右される。「灰被虹天目」の伝来は、日本の権力構造と文化の担い手の変遷を象徴する、壮大な歴史絵巻そのものである。
本茶碗の伝来は、室町幕府8代将軍・足利義政に遡る。義政が収集した中国渡来の美術工芸品は「東山御物(ひがしやまごもつ)」と呼ばれ、最高の格付けを与えられた。「虹天目」もまた、この東山御物の一つであったと伝えられている 1 。この出自こそが、本茶碗の由緒と格を決定づける最も重要な要素である。しかし、応仁の乱(1467-1477)以降、幕府の財政は破綻状態に陥り、義政自身も貴重な御物を売却したり質入れしたりして糊口をしのぐ状況であった 46 。「虹天目」も、この混乱期に幕府の手を離れ、世に流出したものと考えられる。
次に本茶碗が姿を現すのは、宗教界の最高権威であった奈良・東大寺の塔頭(たっちゅう、山内寺院)の一つ、四聖坊(ししょうぼう)である 7 。当時の大寺社は、大名に匹敵するほどの経済力と文化的権威を有しており、多くの名物を所蔵していた。茶会記の記録によれば、四聖坊は「虹天目」の他にも「夕陽」という銘を持つ灰被天目も所蔵していたことが知られている 50 。
その後、本茶碗は古川大和大禄、谷可十郎といった人物の手を経て、最終的に若狭小浜藩(現在の福井県小浜市)の藩主であった酒井家へと伝来する 7 。酒井家は徳川将軍家に代々仕える譜代大名の名門であり、特に初代小浜藩主の酒井忠勝は、幕府の大老という要職を務めた実力者であった。同時に彼は、当代一流の茶人であった小堀遠州と深い親交を結んだ「数寄大名」としても知られ、茶の湯に深い造詣を持っていた 51 。このような文化的素地があったからこそ、酒井家は「虹天目」のような大名物を入手し、代々秘蔵することができたのであろう。
時代は下り、明治・大正期。武家社会が終焉を迎え、多くの大名家伝来の品が市場に流出する中、「虹天目」は新たな所有者を得る。三井財閥の総帥であり、近代における最大の茶人・美術収集家として知られる益田鈍翁(ますだどんのう)である 7 。
鈍翁が本茶碗を入手したのは大正12年(1923年)のことで、その時の価格は二万六千二百円であったと明確に記録されている 7 。この金額の価値を現代に換算してみると、当時の1円は物価や賃金水準から見て、現在の約1,000円から4,000円程度に相当すると考えられる 59 。これを基に計算すると、二万六千二百円という価格は、現在の貨幣価値で
およそ2,620万円から1億480万円 にも達する。これは、本茶碗が近代においても、その由緒と美しさから最高の美術品として評価されていたことを示す、動かぬ証拠と言えよう。
時代 |
年代(西暦) |
所持者・所蔵場所 |
関連事項・特記事項 |
室町時代 |
15世紀後半 |
足利義政 |
「東山御物」として所蔵される。 |
室町~安土桃山時代 |
不明 |
奈良 東大寺四聖坊 |
足利将軍家から流出し、什物となる。 |
江戸時代 |
1742年 |
谷可十郎 |
古川大和大禄を経て所持。 |
江戸時代 |
1855年 |
京都 三井家 |
谷可十郎より伝来。 |
江戸~明治時代 |
不明 |
若狭酒井家 |
京都三井家より伝来。代々藩主家に伝わる。 |
大正時代 |
1923年 |
益田鈍翁 |
酒井家より二万六千二百円で入手。『大正名器鑑』に所載。 |
現代 |
2012年~ |
九州国立博物館 |
国の重要文化財に指定され、現在に至る。 |
「灰被虹天目」の価値の核心は、その名の由来となった「虹」の景色にある。この景色は、日本の伝統的な美意識と、陶磁器制作における偶然の科学が交差する点に成立している。
日本の茶の湯、特にわび茶の世界では、茶碗の表面に現れた釉薬のムラ、窯の中での変色、貫入(ひび)といった、作り手の意図を完全に超えた偶然の産物を、山水や自然の風景に見立てて「景色」と呼び、積極的に鑑賞の対象とする独自の美意識が育まれた 61 。これは、完璧なものよりも不完全なものに、計算されたものよりも偶然性に価値を見出す「わび」の精神、そして万物は流転し、人の作為を超えたところに真実があるとする禅宗の思想と深く結びついている 25 。虹天目の銀色に輝く釉境は、まさにこの「景色」の美学を体現するものであった。
この美しい「虹」の景色は、窯の中での複雑な化学反応、すなわち「窯変(ようへん)」によって生まれる奇跡である 1 。具体的には、鉄分を高い濃度で含む二種類の釉薬(漆黒釉と褐釉)を二重に掛けて高温で焼成し、その後ゆっくりと冷却する過程で、釉薬の成分が分離したり、微細な結晶が析出したりすることで、特異な文様や色彩が発現する 8 。
近年の科学的な分析研究により、天目茶碗に見られる虹色や瑠璃色の輝きは、釉薬に含まれる金属顔料そのものの色ではなく、釉薬の表面に形成されたナノメートル単位の極めて薄い膜や、微細な凹凸構造が光の干渉を引き起こすことによって生まれる「構造色」であるとする説が有力となっている 67 。これは、シャボン玉の表面やCDの記録面が虹色に輝いて見えるのと同じ「薄膜干渉」という物理現象である。つまり、虹天目の銀色の輝きは、特定の物質が銀色なのではなく、釉薬の表面構造が光を巧みに操ることで我々の目に銀色として映っているのである。
「虹」という銘は、単に視覚的な類似性から名付けられただけではない。虹は、古来より天と地を結ぶ橋と見なされ、あるいは仏が出現する際の吉兆のしるしともされる、神聖な意味合いを持つ現象であった。
さらに、茶の湯の世界には、小さな茶碗の中に広大な宇宙を観想するという、極めて精神性の高い思想が存在する 37 。漆黒の釉は静寂の夜空や無限の宇宙空間を、そこに浮かぶ銀色の輝きは星々や天の川を、そして虹色の光彩は仏の世界や浄土を想起させる。一杯の茶を喫しながら、掌中の茶碗に仏教的な宇宙観(須弥山世界や蓮華蔵世界)を観じ、自己と宇宙との一体化を図る 71 。これこそが、わび茶が目指した精神的な境地の一つであった。「灰被虹天目」は、その深遠な瞑想のための、またとない媒体(メディア)だったのである。
「灰被虹天目」は、その誕生から今日に至るまで、日本の歴史と文化の変遷を静かに見つめてきた。この一碗の茶碗が持つ意義は、単なる美術品としての価値を超え、一つの時代精神を体現する象徴としての価値にある。
本報告書で詳述したように、この茶碗の価値は、戦国時代という激動期に劇的な転換を遂げた。それは、均整の取れた完璧な美(唐物至上主義)を絶対としていた旧来の価値観に対し、いびつで、不均一で、偶然性に満ちた「不完全の美」(わび)を対置し、新たな時代の美として確立した、文化的な革命の証であった 25 。
この美意識の転換は、戦国時代の社会精神と深く共鳴している。足利将軍家の権威が失墜し、出自を問わず個人の実力のみがものをいう下剋上の時代。それは、窯の「ブランド」(建窯)ではなく、器そのものが持つ個性的で力強い魅力(茶洋窯の灰被)をこそ評価する、わび茶の精神と軌を一にするものであった。灰被虹天目は、まさにこの時代精神が生み出した名碗なのである。
その価値は現代においても揺らぐことはない。平成24年(2012年)には国の重要文化財に指定され、現在は九州国立博物館という公的な施設で大切に保管・展示されている 1 。我々がこの茶碗を前にするとき、その虹色の輝きの中に、足利将軍家の栄華と没落、戦国武将たちの野心と策略、そして千利休ら茶人たちが切り拓いた革新的な美の世界を見ることができる。それは、日本の歴史と文化の大きな転換点を、静かに、しかし雄弁に物語る「歴史の証人」なのである。この一碗の茶碗を通して、私たちは日本の文化の底流に脈々と流れる、深く豊かな精神性に触れることができるのだ。