最終更新日 2025-08-08

熊野三所権現

国宝「熊野三所権現長光」は、鎌倉時代に国家鎮護の祈りを込められ、戦国時代には九鬼家、信長、秀吉、上杉家へと伝来し、泰平の世を経て現代に受け継がれた名刀。
熊野三所権現

国宝 太刀 銘 熊野三所権現長光 — 戦国の世を渡った神聖なる一振り

序章:国宝「熊野三所権現長光」— 戦国の世を渡った神聖なる一振り

一口の太刀がある。その刀身は、鎌倉時代の敬虔な祈りの中から生まれ、戦国時代の覇権争いの渦中でその価値をめまぐるしく変容させ、泰平の世を経て、現代にまでその優美な姿を伝えている。国宝「太刀 銘 熊野三所権現長光」は、単なる美術工芸品の範疇を超え、日本の歴史そのものを映し出す鏡であり、時代の精神を宿した「歴史の証人」である。

本報告書は、この一口の太刀が持つ多層的な価値を、戦国時代という視点を軸に解き明かすことを目的とする。それは、美術品としての「静的な美」の分析に留まらない。刀工の祈り、豪族の誇り、天下人の野望、そして大名の存亡を賭けた決断—。この太刀がくぐり抜けてきた歴史の激動を追体験し、その「動的な物語」を再構築する試みである。鋼に刻まれた銘と、権力者たちの間を渡り歩いた来歴を手がかりに、我々はこの神聖なる一振りが、いかにして日本の歴史の枢要な場面に立ち会い、その役割を変え続けてきたのかを徹底的に探求する。美と歴史、その二つの側面を深く掘り下げることで、本太刀の真の価値に迫りたい。

第一章:太刀の姿 — 備前長船長光の美学と技

本太刀の物語を紐解くにあたり、まずその物理的な存在、すなわち美術品としての卓越した価値を詳細に検討する必要がある。これを生み出したのは、鎌倉時代における刀剣製作の最高峰、備前長船派を代表する名工・長光であった。

第一節:作者・長船長光 — 鎌倉期を代表する名匠

長光は、鎌倉時代中期から後期にかけて備前国(現在の岡山県南東部)で活躍した刀工であり、長船派の祖として名高い光忠の実子と伝えられている 1 。彼は、父・光忠の絢爛豪華な作風を継承しつつも、独自の洗練された境地を切り開き、備前長船派の地位を不動のものとした。

長光の特筆すべき点は、その驚異的な現存作の多さと、後世における絶大な評価にある。古刀期に数多存在する刀工の中でも、在銘作が最も多く現存する一人であり、その作品群は後世の武士や大名から至宝として扱われた 1 。その評価は現代においても揺るぎなく、国宝に指定された太刀5振と薙刀1振の計6振、重要文化財に指定された33振という数は、全ての刀工の中で最多を誇る 1 。この事実は、長光の技量が当代随一であったこと、そしてその作品が時代を超えて愛され、大切に守り伝えられてきたことを客観的に証明している。

長光の作刀期間は、現存する年紀銘から文永11年(1274年)から元応2年(1320年)頃までの約46年間に及ぶとされ、その長い活動期間の中で作風にも変化が見られる 4 。初期には父・光忠を彷彿とさせる華やかな丁子乱を焼き、後期にはより落ち着いた知的な刃文へと移行した 1 。本太刀「熊野三所権現長光」は、その優美にして引き締まった作風から、長光の円熟期における一作風を代表する傑作と位置づけられている 5

第二節:美術品としての「熊野三所権現長光」

国宝「熊野三所権現長光」は、長光の卓越した技量と高い美意識が見事に結晶化した一振りである。その姿は、鎌倉時代中期の太刀が持つ典型的な優雅さと力強さを兼ね備えている。

まず全体像として、身長(刃長)は75.0cm、反りは2.9cmを測る 2 。腰反り(反りの中心が手元近くにある形式)が高く、元幅に対して先幅が細くなる「踏ん張り」のある姿は、品格と力感を両立させている。造込みは、刀身の側面に稜線が通る「鎬造(しのぎづくり)」、背の部分が屋根の形をした「庵棟(いおりむね)」、そして切先が小ぶりに引き締まった「小鋒(こきっさき)」という、この時代の太刀の典型的な様式を示す 2

刀身を構成する地鉄(じがね)は、細かく均一な木材の板目を思わせる「小板目肌(こいためはだ)」が非常によく詰んでおり、地沸(じにえ)と呼ばれる微細な粒子が輝き、刃文の影が地鉄に映るかのような「乱れ映り(みだれうつり)」が鮮やかに立っている 2 。これは備前刀の最上作にのみ見られる特徴であり、鋼が極めて清浄かつ高度に鍛え上げられた証左である。

刃文(はもん)は、本太刀の美術的価値を最も象徴する部分である。匂口(においぐち)と呼ばれる刃と地の境界線が強く締まり、香辛料である丁子の実が連なるような「丁子乱(ちょうじみだれ)」を基調としながら、わずかに半円形の「互の目(ぐのめ)」が交じる 2 。刃中には「足(あし)」や「葉(よう)」といった働きが盛んに入り、複雑で知的な景色を生み出している。これは、父・光忠の大模様で華やかな刃文とは一線を画し、より洗練され、引き締まった格調高い美しさを示している。

切先部分の刃文である帽子(ぼうし)は、刃文がそのまま乱れ込み、先端でやや緩やかに小さく丸く返る「小丸(こまる)」となっている 5 。この様式は、長光とその弟子たちの作に見られる「三作帽子」と呼ばれる特徴に通じるものがある 3

そして何よりも特筆すべきは、茎(なかご)が製作当初の姿をほぼ完全に留めた「生ぶ茎(うぶなかご)」である点だ 5 。数百年もの時を経て、幾多の戦乱をくぐり抜けてきた太刀が、磨り上げや大修理を受けることなくオリジナルの姿を保っていることは、それ自体が奇跡的であり、本太刀の価値を一層高めている。その茎の鎺(はばき)に近い棟寄りの部分に、細鏨(ほそたがね)によって「熊野三所権現」と「長光」の銘が、静かに、しかし明確に刻まれているのである 5

この太刀の作風を、同じく長光作の国宝「大般若長光」と比較すると、極めて興味深い事実が浮かび上がる。「大般若長光」は、足利将軍家から織田信長、徳川家康へと伝来し、室町時代に六百貫という破格の値が付いたとされる、世俗的権威の象徴ともいえる一振りである 9 。その刃文は「大丁子乱に互の目交り」と評されるように、豪壮華麗で見る者を圧倒する力強さを持つ 3 。一方、「熊野三所権現長光」の刃文は、前述の通り、より引き締まり、清澄で優美な印象を与える。この作風の差異は、単なる製作時期の違いや偶然によるものではなく、長光が刀の用途や注文主の意図を深く理解し、それに合わせて作風を意図的に変えていた可能性を強く示唆している。すなわち、「大般若長光」の華やかさは所有者の権威を可視化するためのものであり、「熊野三所権現長光」の清澄な美しさは、神へ捧げるという神聖な目的意識から生まれた、必然の姿であったのかもしれない。長光は単なる職人ではなく、鋼を媒体として思想や祈りを表現する芸術家であった。


表1:太刀 銘 熊野三所権現長光 諸元

項目

詳細

鑑定区分

国宝

指定年月日

1952年11月22日(国宝)、1931年1月19日(旧国宝)

時代

鎌倉時代

作者

長光

寸法

身長: 75.0cm、反り: 2.9cm、元幅: 3.0cm、先幅: 1.9cm、鋒長: 3.0cm、茎長: 21.2cm

品質・形状

鎬造、庵棟、腰反り、踏張りあり。鋒小。鍛は小板目肌よくつみ、乱れ映りあざやかに立つ。刃文は匂口つよく締まる出来、丁子乱僅かに互の目交じり、足葉よく入る。帽子は乱込み中ややたるみごころに小丸。茎は生ぶで、鎺下棟寄りに細鏨で銘がある。

出典: 2


第二章:「熊野三所権現」の銘に込められた意味 — 鎌倉武士の信仰世界

本太刀の茎に刻まれた「熊野三所権現」という五文字は、単なる記号ではない。それは、この太刀が生まれた鎌倉時代という時代の精神的支柱であった「熊野信仰」の核心へと我々を誘う、重要な鍵である。この銘が持つ意味を解き明かすことは、本太刀の根源的な価値を理解する上で不可欠である。

第一節:熊野信仰と武士社会

「熊野三所権現」とは、紀伊半島南部に位置する聖地・熊野の三つの大社、すなわち熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社に祀られる中心的な三柱の神々を指す 8 。具体的には、本宮の家津美御子大神(けつみこのおおかみ)、新宮の速玉大神(はやたまのおおかみ)、那智の夫須美大神(ふすみのおおかみ)である。これらの神々は、日本の神々が仏の仮の姿(権り)として現れたとする「本地垂迹説」に基づき、それぞれ阿弥陀如来、薬師如来、千手観音を本地仏とする「権現」として一体的に信仰された 14

この熊野信仰は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、日本社会のあらゆる階層に爆発的に浸透した。宇多法皇に始まり、後白河法皇の34回、後鳥羽上皇の28回など、上皇たちによる熊野御幸は実に百回を超えた 17 。その行列の壮大さから、庶民の参詣も含めて「蟻の熊野詣」と形容されるほど、人々は身分を問わず、険しい山道を踏み越えて熊野を目指したのである 19

特に武士階級にとって、熊野は極めて重要な意味を持つ聖地であった。熊野は、死後の魂が救済される阿弥陀如来の西方極楽浄土の地と信じられ、常に死と隣り合わせの武士たちにとって、来世の安寧を願う切実な信仰の対象であった 15 。同時に、熊野の神々は武勇の神としても崇められ、現世における武運長久を祈る霊場でもあった 20 。さらに、熊野の神使である八咫烏(やたがらす)が描かれた神符「熊野牛王宝印(ごおうほういん)」は、武士たちが誓約を交わす際の「起請文(きしょうもん)」として広く用いられた 21 。この神符に書いた誓いを破れば、熊野権現の恐ろしい神罰が下ると固く信じられており、武士社会の秩序と契約を担保する、強力な精神的基盤として機能していた。

第二節:奉納刀としての誕生 — 元寇という国難

このような時代背景の中、刀工・長光が自らの作刀に「熊野三所権現」と銘を切った行為は、この太刀が個人的な武具としてではなく、熊野の神々に捧げるための「奉納刀」として製作されたことを明確に物語っている。これは、長光自身の熊野信仰の篤さを示すと同時に、この太刀に特別な目的があったことを示唆する 2

その目的について、極めて有力な説が伝えられている。日本刀剣博物技術研究財団の解説によれば、本太刀は、日本が未曾有の国難に直面した「元寇」(文永の役 1274年、弘安の役 1281年)の際に、朝廷が敵国降伏を祈願して行った護摩焚きのために作刀され、後に熊野大社へ奉納されたというものである 1 。長光の作刀年代がまさにこの元寇の時期と重なることから、この説は高い信憑性を持つ 4

当時の人々にとって、刀剣は単なる武器ではなかった。それは、神威が宿る神聖な器であり、邪を祓い、場を清める力を持つと信じられていた。国家存亡の危機に際し、時の為政者が当代最高の名工に命じ、国家の総力を挙げた祈りを込めて至高の一振りを鍛えさせ、それを神々に捧げることは、極めて重要かつ合理的な国家的事業だったのである。この太刀は、鎌倉武士たちの「国を守らん」という切実な祈りの結晶であった。

この太刀の価値の根源は、後の戦国武将たちの手を渡った華やかな来歴のみにあるのではない。その本質は、この「熊野三所権現」という銘に刻まれた、揺るぎない「聖性」にこそある。この聖性こそが、後の所有者たちにとって、単なる名刀以上の特別な価値をもたらす源泉となった。戦国の世を生きる武将たちは、神仏の加護を強く求めた。彼らにとってこの太刀は、熊野の強力な神々の加護を受けた特別な一振りであることを証明する、いわば「神威の保証書」であった。後の織田信長や豊臣秀吉といった天下人は、この太刀を所有することで、その美術的価値や歴史的価値を手に入れるだけでなく、熊野権現の神威そのものを自らのものとし、天下統治の精神的支柱としようとしたのではないか。このように、本太刀の「聖性」は、その後の「政治的価値」を高めるための重要な触媒となり、戦国の世を渡り歩くための、いわば「精神的な通行手形」の役割を果たしたのである。

第三章:戦国動乱と太刀の伝来 — 九鬼家から天下人へ

鎌倉時代に国家鎮護の祈りを込めて誕生した神聖なる一振りは、やがて時代の大きなうねりの中で、戦国という新たな舞台に登場する。その最初の所有者として歴史に名を現すのが、熊野灘にその名を轟かせた水軍の将、九鬼氏であった。

第一節:熊野の豪族・九鬼家と「海賊大名」嘉隆

本太刀の来歴を語る上で、九鬼家の存在は欠かすことができない。九鬼氏は、紀伊国九鬼浦(現在の三重県尾鷲市九鬼町)をルーツとし、熊野の神域を統括した熊野別当の血を引くとも伝えられる、熊野に深く根差した一族であった 23 。彼らは熊野灘を知り尽くした海の民であり、強力な水軍(九鬼水軍)を率いて、時には交易に、時には海賊行為に従事し、その勢力は「海賊大名」と称されるほどであった 27

この九鬼水軍を率いて歴史の表舞台に躍り出たのが、九鬼嘉隆(1542-1600)である 29 。嘉隆は、織田信長の天下布武の過程でその卓越した水軍指揮能力を見出され、信長に仕えることとなる。特に天正6年(1578年)の第二次木津川口の戦いでは、信長の命で建造した世界史上初ともいわれる鉄甲船を駆り、当時最強を誇った毛利水軍を撃破するという大金星を挙げ、信長の石山本願寺攻略に決定的な貢献を果たした 27

熊野大社に奉納されていたはずの本太刀が、どのような経緯で地元の豪族である九鬼家の手に渡ったのか、その詳細は記録に残されていない。しかし、熊野の地に深く根を下ろし、熊野水軍を率いるほどの力を持っていた九鬼氏が、大社に伝わる宝刀を所持するに至ったことは、想像に難くない。それは守護の任を帯びた結果か、あるいは寄進の見返りであったか定かではないが、熊野と九鬼氏の密接な関係を物語るものである。その関係の深さは現代にも及び、熊野本宮大社の宮司を九鬼家の子孫が務めている事実は、この一族と熊野の聖地との永続的な繋がりを象徴している 32

第二節:織田信長への献上 — 忠誠の証と未来への投資

九鬼嘉隆が歴史の表舞台で活躍するきっかけとなったのが、織田信長への帰順であった。その際、極めて重要な役割を果たしたのが本太刀である。伝承によれば、嘉隆は信長の重臣であった滝川一益の仲介を経て信長に仕えることになったが、その臣従の証として、一族の至宝であるこの「熊野三所権現長光」を献上したとされる 1

この献上は、単なる贈答品を差し出す行為とは全く次元が異なる。熊野にルーツを持つ九鬼氏にとって、氏神ともいえる熊野権現の名を冠したこの宝刀は、一族の精神的な拠り所そのものであった。それを新たな主君に差し出すことは、一族の魂と未来の全てを信長に委ねるという、最大限の忠誠の表明に他ならなかった。一方、信長はこの比類なき名刀を受け入れることで、九鬼水軍という強力な軍事力を手中に収めると同時に、彼らの絶対的な忠誠を確保したのである。本太刀は、九鬼氏にとっては未来への投資であり、信長にとっては天下統一事業を加速させるための重要な駒であった。

第三節:豊臣秀吉、そして上杉景勝へ — 天下人の象徴として

天正10年(1582年)、本能寺の変によって信長が非業の死を遂げると、彼が所有していた天下の至宝は、その後継者として覇権を握った豊臣秀吉の所蔵となった 1 。「名物狩り」と称して各地の名刀や茶器を蒐集したことでも知られる秀吉にとって、信長旧蔵の品々は、自らが信長の後継者であり、正統な天下人であることを世に示すための重要な象徴であった。熊野権現の神威を宿すこの名刀もまた、秀吉の権威を補強するコレクションの至宝として、大坂城で輝きを放ったことであろう。

その後、天下を掌握した秀吉は、この太刀を強力な政治的ツールとして活用する。彼は、諸大名を統制する一環として、上洛した越後の大大名・上杉景勝に本太刀を下賜したのである 1 。これは、景勝に対する秀吉の恩寵を示すと同時に、豊臣政権への絶対的な忠誠を誓わせるための、極めて効果的な手段であった。景勝は、この天下人からの下賜品を拝領することで、豊臣大名としての序列の中に組み込まれることを受け入れたのである。この時、本太刀に付属する豪華な「天正上杉拵」が作られたと推測されており、上杉家がいかにこの太刀を丁重に扱ったかが窺える 1

本太刀の所有者の変遷は、戦国時代の権力構造のシフトそのものを如実に映し出している。地方の有力豪族(九鬼)から中央の覇者(信長)へ、そしてその覇権の継承者(秀吉)へ、さらにその支配下にある有力大名(上杉)へと、名物という「価値」は常に権力の頂点から下へと流れていく。九鬼氏から信長への献上は地方勢力が中央の覇者に臣従するプロセスを、信長から秀吉への継承は権力の世襲を、そして秀吉から上杉への下賜は確立された中央権力が地方を統制するプロセスを、それぞれ象徴している。戦国時代において、名刀は単なる武器や美術品ではなく、武力や経済力と並ぶ一種の「政治的資本」であった。その移動経路を追跡することは、当時の目に見えない権力関係を可視化することに他ならないのである。

第四章:泰平の世へ — 徳川の世に受け継がれた名刀

戦国の動乱が終わりを告げ、徳川家康による泰平の世が訪れると、「熊野三所権現長光」はその役割を再び大きく変えることとなる。政争の具から、新たな秩序を象徴する存在へ。その転換点となったのは、天下分け目の関ヶ原の戦いであった。

第一節:関ヶ原の戦いと上杉家の決断

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍の総大将・毛利輝元に次ぐ中心人物として徳川家康と対峙した上杉景勝は、西軍の敗北により絶体絶命の窮地に立たされた。戦後、会津120万石から米沢30万石へと大幅に減封され、お家取り潰しの危機に瀕したのである 1

この上杉家の存亡を賭けた局面で、外交交渉の任に当たったのが家老の直江兼続であった。兼続は、新しき天下人となった徳川家康に対し、上杉家が豊臣家への忠誠を完全に断ち切り、今後は徳川家へ絶対の忠誠を誓うことを示す必要があった。その最大の証として献上されたのが、かつて豊臣秀吉から拝領したこの「熊野三所権現長光」であった 1 。旧主からの恩賞の品を新主君に差し出すというこの行為は、これ以上ないほど明確な忠誠の転換を示す、極めて象徴的な外交的ジェスチャーであった。この一口の太刀が、上杉家の存続を決定づける重要な役割を果たしたのである。

第二節:将軍吉宗から朽木家へ — 泰平の世における恩賞

徳川将軍家の所有となった本太刀は、以後、戦乱の世の記憶を宿す至宝として、江戸城の奥深くで秘蔵されることとなる。そして約120年の時を経た享保2年(1717年)、この太刀は再び歴史の表舞台に姿を現す。

八代将軍・徳川吉宗は、長年にわたり寺社奉行兼奏者番の要職を務めた福知山藩主・朽木稙元(くつき たねもと)の功労を労い、恩賞としてこの「熊野三所権現長光」を下賜した 1 。この下賜に際し、刀剣鑑定の権威であった本阿弥家により「金八枚」の折紙(鑑定書)が発行されている 1 。戦国時代には政争の具であり、大名の存亡を左右した名刀が、徳川の泰平の世においては、幕府への忠勤に対する最高の栄誉を象徴するステータスシンボルへと、その役割を変えた瞬間であった。

第三節:近代以降の流転

明治維新を経て武士の世が終わると、本太刀は再び所有者を変える。朽木家を離れた後、肥後新田藩主細川家の養子となった子爵・細川利文の所蔵となった 8 。近代国家の枠組みの中で、その価値は新たな基準によって評価されることになる。昭和6年(1931年)、国宝保存法に基づき国宝(旧国宝)に指定され、戦後の昭和27年(1952年)には、文化財保護法に基づく国宝(新国宝)に改めて指定された 5

その後、複数の個人所有者の手を経て、現在は大阪府茨木市に拠点を置く株式会社ブレストシーブが所蔵しており、日本刀剣博物技術研究財団がその保存に関与している 1 。かつて神への祈り、武将の野望、大名の忠誠を一身に背負った太刀は、今、国民全体の文化的遺産として、静かにその輝きを未来へと伝えている。

この太刀の価値は、時代ごとにその重心を移しながらも、決して失われることがなかった。鎌倉時代には神への奉納品としての「聖性」、戦国時代には忠誠の証や外交の道具としての「政治性」、江戸時代には将軍からの恩賞としての「権威性」、そして近代以降は国宝としての「美術性・歴史性」。それぞれの時代がこの太刀に新たな価値のレイヤーを重ねていった結果、現代の我々がこの太刀を鑑賞するとき、これらすべての時代の価値観が重層的に積み重なった、他に類を見ない「文化の地層」を目の当たりにすることになるのである。


表2:国宝「熊野三所権現長光」の伝来経路

時代

所有者/所属

関連する出来事・意味合い

鎌倉時代

熊野大社

元寇に際し、国家鎮護の祈りを込めて奉納される(聖性の発祥)。

戦国時代

九鬼家

熊野に根差す水軍豪族の至宝となる。

戦国時代

織田信長

九鬼嘉隆が臣従の証として献上(政治的価値の獲得)。

戦国時代

豊臣秀吉

信長の後継者として継承。天下人の権威の象徴となる。

戦国時代

上杉景勝

秀吉から下賜される。豊臣政権下における主従関係の証。

江戸時代

徳川将軍家

関ヶ原後、上杉家から忠誠の証として献上される。徳川の世の始まりを象徴。

江戸時代

朽木稙元(福知山藩主)

将軍吉宗から功労の恩賞として下賜される(権威性の象徴)。

近代

細川利文(子爵)

大名家から華族の所有へ。

現代

個人蔵 → 株式会社ブレストシーブ

国宝に指定され、国民的文化遺産として保護・継承される(美術的・歴史的価値の確立)。

出典: 1


終章:歴史の証人として — 「熊野三所権現長光」が現代に語りかけるもの

一口の太刀、「熊野三所権現長光」の壮大な旅路を振り返ると、我々は改めてその類い稀な存在意義に気づかされる。神への祈りの対象から、戦国の覇権を巡る政治の道具へ、そして泰平の世の恩賞、さらには国民的至宝へ。この太刀は、それぞれの時代の要請に応じてその役割を見事に変え続け、日本の歴史の核心を静かに、しかし雄弁に物語ってきた。

「熊野三所権現長光」は、単なる鋼の塊ではない。それは、人々の祈り、野望、忠誠、苦悩、そして美意識といった、目には見えない精神の働きが、長光という名工の卓越した技によって結晶化した存在である。その優美な刀身には、元寇という国難に立ち向かった鎌倉武士の敬虔な祈りが宿り、その華麗な来歴には、天下統一を目指した戦国武将たちの激しい息遣いが刻まれている。

我々がこの太刀を前にして抱く畏敬の念は、その完璧な美術的完成度のみに由来するものではない。数百年の長きにわたり、日本の歴史の中心で繰り広げられた人間ドラマの重みを、その静謐な輝きの奥に無意識に感じ取っているからに他ならない。「熊野三所権現長光」は、過去からの使者として、我々に日本の歴史と文化の深淵を問いかけ続ける、永遠の語り部なのである。

引用文献

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  2. 工芸|太刀 銘 熊野三所権現長光[個人蔵] - WANDER 国宝 https://wanderkokuho.com/201-00355/
  3. 長光 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%85%89
  4. 長光(ながみつ) 著名刀工・刀匠名鑑/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/sword-artisan-directory/nagamitsu/
  5. 太刀〈銘熊野三所権現長光/〉 たち〈めいくまのさんしょごんげん ... https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/197400
  6. 太刀〈銘熊野三所権現長光/〉 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/197400
  7. 備前長船兼光 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99%E5%89%8D%E9%95%B7%E8%88%B9%E5%85%BC%E5%85%89
  8. 熊野三所権現長光 - 名刀幻想辞典 https://meitou.info/index.php/%E7%86%8A%E9%87%8E%E4%B8%89%E6%89%80%E6%A8%A9%E7%8F%BE%E9%95%B7%E5%85%89
  9. 太刀〈銘長光(大般若長光)/〉 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/192513
  10. 太刀 銘長光(号大般若長光) - e国宝 https://emuseum.nich.go.jp/detail?&content_base_id=100184
  11. 大般若長光 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%88%AC%E8%8B%A5%E9%95%B7%E5%85%89
  12. 太刀 銘 熊野三所権現長光/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/search-noted-sword/saneiketsu-meito/54122/
  13. 熊野三山 - 新宮市観光協会 https://www.shinguu.jp/kumanokodo1
  14. 熊野本宮大社について https://www.hongutaisha.jp/about/
  15. 熊野権現 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E6%A8%A9%E7%8F%BE
  16. 熊野十二社権現配祀図 https://www.city.shingu.lg.jp/div/bunka-1/htm/kumanogaku/article/faith/data/data/3_Kumano_Jyunisya.htm
  17. 熊野権現とは(中世の様相) - 周防山口館 https://suoyamaguchi-palace.com/kumano-gongen/
  18. 熊野三山の歴史 https://www.kumano-sanzan.jp/sanzan/rekishi.html
  19. 神仏が習合する熊野信仰 - JR西日本 https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/07_vol_115/feature01.html
  20. 熊野三社関係 - 文化財について - 名取市 https://www.city.natori.miyagi.jp/site/bunkazai/4461.html
  21. 熊野信仰とは何か〜特徴や歴史、祭神、熊野古道について解説 - 株式会社 折橋商店 https://orihasisyouten.jp/blog/kumano-shinkou/
  22. 熊野信仰 http://imakumanojinja.or.jp/kumanosinkou.html
  23. 熊野水軍について | 三段壁洞窟【公式】 https://sandanbeki.com/suigun/index3.php
  24. 九鬼嘉隆〜戦国最強の水軍大将 - 実はぜんぶ三重人(みえびと)なんです https://www.miebito.jp/kuki.php
  25. 『竜の柩』キャラクターの背景 http://www.fafner.biz/act9_new/fan/report/ai/ryuh/chara.htm
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  30. 九鬼 嘉隆 について | 九鬼プロジェクトHP - 鳥羽市観光協会 https://toba.gr.jp/kuki-project/about/
  31. 九鬼家のルーツ | 九鬼産業の歴史 https://www.kuki-info.co.jp/learn-enjoy/shizuku/shizuku_1.html
  32. 2014年7月 | 玉置美術刀剣研磨処|京都・左京区 https://kyoto-katana.com/archives/date/2014/07/
  33. 熊野本宮大社 宮司 九鬼 家隆氏 - CREATIVE COLLABO(クリエイティブ コラボ) https://creative-collabo.com/interview/kumano-hongutaisha/
  34. 和歌山、熊野。日本古来の信仰と祈りが息づく世界遺産の地へ | The KANSAI Guide https://www.the-kansai-guide.com/ja/article/item/20037/
  35. 九鬼 家隆さん|メンバー紹介 - 高野山・熊野を愛する100人の会 https://koyasan-kumano100.jp/members/detail/99.html
  36. 蘇りの熊野 - 和歌山県世界遺産センター https://www.sekaiisan-wakayama.jp/learn/seminar/data/R051029seminar.html