「獅子頭付兜」は、護良親王の伝説から戦国武将の美意識まで、獅子意匠の変遷を物語る。親王は兜に獅子頭の御守りを忍ばせ、戦国期には「変わり兜」として武威を誇示。武士の祈願と自己表現の象徴。
厄除けや幸運招来の御利益があるとされ、後醍醐天皇の皇子である護良親王が建武中興の際に身に着け、勝利を呼び込んだと語り継がれる「獅子頭付兜」。この勇壮なイメージを伴う伝承は、獅子というモチーフが持つ力強さと、悲劇の皇子の物語とが結びつき、人々の心に深く刻まれてきた。
しかし、この伝承は歴史的な事実としてどの程度まで正確なのだろうか。そして、護良親王が生きた14世紀の南北朝時代と、本報告書が主眼を置く15世紀末から16世紀末にかけての戦国時代とでは、武士たちが兜に「獅子」をまとう行為の意味合いに、どのような違いがあったのだろうか。
本報告書は、この二つの根源的な問いを解明することを目的とする。まず、護良親王にまつわる伝説の源流を丹念に探り、その真相を明らかにする。次に、獅子という意匠が日本の武家文化、特に甲冑の世界においていかにして受容され、どのような宗教的・象徴的意味を担ってきたのかを多角的に分析する。そして最後に、戦国時代に花開いた「変わり兜」の大きな潮流の中で、「獅子頭の兜」がどのような位置を占め、武将たちの美意識をいかに体現していたのかを具体的に考察する。
この探求を通じて、一つの兜の形式から、伝説の生成過程、宗教観の変遷、そして時代ごとの武士の精神史を読み解いていく。
護良親王と獅子頭の兜を結びつける伝承は、一見すると英雄譚として非常に魅力的である。しかし、その根源を史料に基づいて検証すると、我々が抱くイメージとは異なる、より繊細で敬虔な信仰の姿が浮かび上がってくる。本章では、まず護良親王その人の生涯を概観し、次いで伝説の核心に迫る。
護良親王(1308年~1335年)は、第九十六代天皇である後醍醐天皇の皇子として生を受けた 1 。幼くして比叡山延暦寺に入り、天台座主を務めたことから「大塔宮(おおとうのみや)」と称された 1 。この事実は、親王が武人である以前に、高い位階を持つ僧侶であったことを示している。
1331年(元弘元年)、父である後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒の兵を挙げると(元弘の乱)、親王は還俗して倒幕運動に身を投じる 2 。楠木正成らと呼応し、吉野などを拠点に幕府軍と粘り強く戦い、建武中興の実現に多大な貢献を果たした。その武勇と指導力は、後醍醐天皇方の中核として広く知られるところとなった。
しかし、幕府滅亡後、親王の運命は暗転する。新政権下で征夷大将軍に任じられたものの、同じく倒幕の功労者である足利尊氏と鋭く対立 1 。『太平記』によれば、親王は尊氏の野心を警戒し、その排除を試みたが、逆に尊氏や継母である阿野廉子の讒言によって失脚。鎌倉の東光寺に幽閉されてしまう 1 。
そして1335年(建武2年)、北条高時の遺児・時行が鎌倉に攻め込む中先代の乱が勃発すると、鎌倉を守っていた尊氏の弟・足利直義は、時行が護良親王を担ぎ上げることを恐れ、淵辺義博に命じて親王を殺害させた 1 。享年28歳。その最期は、刀を噛み折り抵抗したと伝えられるほど壮絶なものであったという 1 。建武の新政の立役者でありながら、その理想の半ばで非業の死を遂げたこの悲劇性が、後世の人々の同情を誘い、数々の伝説や信仰を生む土壌となったのである。
護良親王が獅子頭の兜を被って戦ったという話は、広く知られている。しかし、この伝承の源流であり、親王を祀る鎌倉宮(神奈川県鎌倉市)に伝わる由緒は、その趣を異にする。
複数の資料が一致して示すところによれば、護良親王は「戦のときに 兜の中に獅子頭の小さなお守りを忍ばせて 」出陣し、自らの武運と幸運を祈ったとされている 2 。つまり、獅子の頭部をかたどった兜を着用したのではなく、兜という最も重要な防具の内側に、神聖な獅子頭の御守りを納めて加護を願った、というのが伝承の本来の姿なのである。
この伝承に基づき、明治天皇によって創建された鎌倉宮では、現在に至るまで「獅子頭守」が厄除け・幸運招来の代表的な御守りとして授与されており、最も人気のあるものの一つとなっている 2 。これは、兜そのものではなく、その中に込められた「祈り」こそが信仰の核であることを明確に物語っている。
さらに、この点を物証の面から補強するのが、護良親王所用と伝わる兜の存在である。かつて須川家に家宝として伝わり、現在は文化庁が所蔵する「紅糸威星兜」がそれに比定されることがある 7 。この兜は、鋲の頭を装飾的に見せた「星兜」という形式であり、獅子の頭をかたどったものではない。もし親王が実際に獅子頭の兜を着用していたのであれば、その事実がもっと強調されて伝わるはずであり、現存する伝来品との整合性からも、「兜の中のお守り」という説の信憑性は高いと言える。
では、なぜ「兜の中のお守り」という本来の伝承が、いつしか「獅子頭の兜を被った皇子」という、より視覚的で英雄的なイメージへと変化していったのだろうか。ここには、口承伝説が形成される過程における「意味の転移」とでも呼ぶべき現象が見て取れる。
まず、事実関係を整理すると、伝承の原型は「兜」と「獅子頭(のお守り)」という二つの要素の「内包関係」にあった 2 。しかし、人々の間で語り継がれるうちに、この関係性がより直接的でインパクトの強い「一体化」へと変容したと考えられる。その背景には、いくつかの要因が複合的に作用したと推察される。
第一に、「獅子」というモチーフが元来持つ、破邪・武勇・守護といった強烈な象徴性である。百獣の王である獅子は、それ自体が力と権威のシンボルであり、武人の守護神として理想的な存在であった。
第二に、「兜」が単なる防具ではなく、武士の魂やアイデンティティを象徴する最も重要な武具であったことである。兜は武将の顔であり、その意匠は個人の信条や威厳を雄弁に物語る。
この二つの強力なシンボル、「獅子」と「兜」が、護良親王という悲劇の英雄の物語と結びついた時、人々の記憶の中で両者は分かちがたく融合し、より劇的なイメージへと昇華されたのではないだろうか。つまり、「兜の中に獅子のお守りを入れて加護を願った」という内面的で敬虔な行為が、より視覚的で分かりやすい「獅子頭の兜を被って敵を打ち破った」という外面的な武勇伝へと再構築されたのである。これは、歴史的事実が人々の願望や文化的価値観を反映しながら、より英雄的な物語へと姿を変えていく、伝説生成の典型的なプロセスを示す好例と言えるだろう。
武士たちが兜や鎧に獅子の意匠を取り入れたのは、単にその勇猛な姿を好んだからだけではない。その背景には、日本に深く根付いた宗教観と、獅子が持つ多層的な象徴性があった。本章では、獅子というモチーフが武家社会においていかにして特別な意味を持つに至ったのか、その文化的・宗教的な源流を探る。
獅子のイメージは、仏教の伝来と共に大陸から日本へともたらされた。仏教において獅子は、釈迦を「人中の獅子」と讃えるように、聖なる存在であり、仏法を守護する霊獣として極めて重要な位置を占めていた 8 。特に有名なのは、「三人寄れば文殊の知恵」で知られる文殊菩薩が、その乗り物として獅子に乗る姿である 9 。これにより、獅子は単なる力の象徴に留まらず、「智慧」と「威厳」を兼ね備えた存在として認識されるようになった。仏像の台座が「獅子座」と呼ばれるのも、仏陀の権威を獅子の威光に重ねた表現である 11 。
一方、日本古来の信仰である神道においても、獅子は重要な役割を担う。神社の入り口で参拝者を迎える一対の像は、一般に「獅子・狛犬」と総称される 12 。口を開けた「阿形」が獅子、口を閉じた「吽形」が狛犬とされることが多く、両者で一対となり、神域に邪気が入り込むのを防ぐ結界の役割を果たしている 14 。これにより、獅子は「聖域の守護者」「破邪の霊獣」として、民衆レベルにまで広く浸透していった。
こうした仏教と神道における神聖なイメージは、神仏習合が進む中で融合し、武家社会に受容されていく。死と隣り合わせの戦場に赴く武士たちにとって、獅子の意匠を身に着けることは、自らの武勇を誇示するだけでなく、神仏の加護を得て邪を打ち破り、勝利を祈願するための極めて重要な行為であった。獅子は、武士にとって「武勇」「神仏の加護」「正当な権威」を同時に体現する、この上なく縁起の良いシンボルだったのである 16 。
武士たちが獅子の力を借りようとした時、その表現方法は多岐にわたった。特に甲冑においては、部位や時代に応じて特徴的な意匠が生み出された。
その代表格が「獅噛(しかみ)」である。これは、獅子が大きく口を開け、歯を食いしばって敵を睨みつける忿怒の表情をかたどった装飾で、主に兜の眉庇(まびさし)や、左右に張り出した吹返(ふきかえし)など、顔周りの目立つ部分に取り付けられた 17 。この恐ろしい形相には、「あらゆる厄災を獅子が噛み砕き、持ち主を守る」という強い願いが込められている 17 。「しかめっつら」という言葉の語源とも言われるこの意匠は、病魔や災厄を退ける強力な呪具としての役割を期待されていた 20 。
戦国時代の最も著名な事例としては、甲斐の虎・武田信玄が用いたとされる「諏訪法性兜(すわほっしょうのかぶと)」が挙げられる 18 。この兜は、眉庇の上に据えられた金色の「獅噛」の前立と、兜全体を覆う純白のヤクの毛(白熊、はぐま)との対比が強烈な印象を与える。獅噛の威圧的な表情と、神聖さを感じさせるヤクの毛の組み合わせは、信玄の武威と、彼が篤く信仰した諏訪明神の神威とを一体化させ、見る者を圧倒する絶大な効果を発揮した 18 。
また、獅子の意匠は兜の前立や装飾金具に限らず、鎧の各所にも見られる。例えば、岡山県立博物館が所蔵する国宝「赤韋威鎧(あかがわおどしよろい)」では、鎧の胴や大袖を飾る金物の文様に「獅子丸文」が用いられている 21 。このように、獅子は甲冑を構成する様々な部分に意匠として取り入れられ、その人気の高さと、武士たちがいかにその力にあやかろうとしていたかを物語っている。
表1:兜における獅子関連意匠の分類と比較
種類 |
概要 |
主な時代 |
関連人物・事例 |
典拠資料 |
獅子頭守(ししがしらまもり) |
兜の中、あるいは懐中に入れて戦場に赴いた、厄除け・戦勝祈願のための小型の獅子頭の御守り。 |
南北朝時代~現代 |
護良親王、鎌倉宮 |
2 |
獅噛(しかみ) |
獅子が歯を食いしばり、敵を睨みつける忿怒の表情をかたどった装飾。主に前立や吹返に用いられる。 |
鎌倉時代~江戸時代 |
武田信玄(諏訪法性兜) |
17 |
獅子頭の兜(ししがしらのかぶと) |
兜の鉢全体が獅子の頭部を模して立体的に作られた「変わり兜」の一種。 |
南北朝時代~江戸時代 |
『太平記』巻十四の記述 |
27 |
武将が獅子の意匠を甲冑に用いる行為は、単一の意味に収斂されるものではない。それは、武士の精神構造を映し出す、極めて重層的な象徴行為であった。
この行為の根底にあるのは、まず第一に、死と隣り合わせの戦場における「現世的な祈願」である。獅子の破邪の力にあやかり、敵の攻撃から身を守り、武運に恵まれて勝利を手にしたいという、切実な願いが込められている 16 。これは、神仏の加護を求める、極めてパーソナルな信仰の表れと言える。
第二に、敵味方に対する「武威の誇示」という側面がある。百獣の王である獅子の勇猛なイメージを自らの姿に重ねることで、敵を心理的に威圧し、味方の士気を鼓舞する狙いがあった。これは、戦場における自己の存在感をアピールするための、戦略的な意匠の活用である。
そして第三に、より高度な次元で、「権威の正当性」を象徴する意味合いも含まれていた。仏法や神域を守護する聖獣である獅子の意匠をまとうことは、自らが単なる殺戮者ではなく、秩序や正義を守る側に立つ者であることを暗に主張する行為でもあった。特に、天下を治めようとする大名にとっては、自らの支配の正当性を視覚的に訴えかけるための、重要なプロパガンダの手段となり得た。
このように、獅子意匠は、個人の「安全祈願」、集団における「武威の誇示」、そして社会に対する「正当性の主張」という、ミクロからマクロに至る複数の願いや自己認識を同時に表明する、高度に洗練されたコミュニケーションのメディアであった。そこには、現世的な勝利への渇望と、神仏への敬虔な祈りが分かちがたく結びついた、武家社会特有の精神構造が色濃く反映されているのである。
護良親王が生きた南北朝時代から約200年後、日本は群雄が割拠する戦国時代へと突入する。この時代、兜は単なる防具としての役割を超え、武将たちの個性と美意識が爆発するキャンバスとなった。本章では、この「変わり兜」の流行という文脈の中に「獅子頭の兜」を位置づけ、その実像に迫る。
戦国時代の合戦は、それ以前の時代に比べて大規模な集団戦が主体となった。広大な戦場で入り乱れる敵味方の中から、自らの存在を際立たせ、手柄を主君に認知させることは、武士にとって死活問題であった 22 。この戦場での自己顕示欲が、兜の意匠に劇的な変化をもたらした。従来の画一的な形式から脱却し、見る者の度肝を抜くような奇抜で独創的な兜、「変わり兜」が大流行したのである 22 。
そのモチーフは、武将たちの世界観を反映して実に多種多様であった。伊達政宗が用いた巨大な三日月の前立は、武神として信仰された妙見菩薩への祈りを表し 25 、加藤清正の天を突くような長烏帽子形の兜は、その長身と相まって圧倒的な存在感を放った 25 。また、徳川家康が小牧・長久手の戦いで着用したと伝わる大黒頭巾形の兜は、福の神である大黒天の加護を願ったものであり 25 、同じく家康所用と伝わる一の谷形兜は、源義経の逆落としの故事を兜の形で表現するという、大胆な発想に基づいている 25 。
これらの兜は、神仏への信仰、故事来歴、動植物、あるいは単に奇抜な形状など、あらゆるものがデザインの源泉となった。兜はもはや単なる防具ではなく、着用者の信条、出自、武勇、そして美意識を雄弁に物語る「自己表現のメディア」へと変貌を遂げたのである。「獅子頭の兜」もまた、この時代の大きな潮流の中に位置づけられるべき存在であった。
「獅子頭の兜」とは、前述の「獅噛」のような部分的な装飾とは一線を画し、兜の本体である鉢(はち)全体を用いて、獅子の頭部を立体的かつ写実的に造形した兜を指す 27 。その製作には、鉄板を叩き出して成形する打出(うちだし)の技術や、木型の上に和紙や革などを漆で何層にも貼り重ねて形作る張懸(はりかけ)といった、高度な職人技が用いられた 23 。
このような兜は、戦国時代に突如として現れたわけではない。注目すべきは、護良親王の時代を描いた軍記物語『太平記』の巻十四に、「 獅子頭(シシガシラ)の冑(カブト)に、目の下の頬当てして 」という一節が見られることである 28 。これは、少なくとも14世紀後半の南北朝時代には、既に「獅子頭の兜」という形式が武具として存在し、認識されていたことを示す極めて貴重な文献資料である。
戦国時代においても、龍頭(たつがしら)の兜や、城の守り神である鯱(しゃち)をかたどった兜と並び、獅子頭の兜は強さや守護を願う武将たちに好まれた意匠であったと推察される 16 。しかし、現存する作例は極めて稀であり、その製作に要する手間とコストを考えれば、誰もが着用できるものではなかったことは想像に難くない。おそらくは、高い身分の大名が、その権威と財力を示すために特別に作らせた、非常に格式の高い兜であったと考えられる。
獅子という一つのモチーフが、甲冑において異なる表現形式へと分化していった事実は、時代の精神性の変化を鋭敏に反映している。具体的には、南北朝時代から存在が確認される「獅子頭の兜(兜全体の造形)」と、戦国時代に特に多くの作例が見られる「獅噛の前立(部分的な意匠)」との比較から、その変化を読み取ることができる。
南北朝時代の合戦は、後の戦国時代に比べれば、まだ家柄や血統といった「格式」が戦場での権威を支える重要な要素であった。このような社会背景において、製作に多大な費用と最高の技術を要する「獅子頭の兜」は、着用者の卓越した身分と権威を象徴する、いわば「ハレの日のための特別な武具」としての性格が強かったのではないだろうか。兜全体で獅子を体現するその姿は、個人的な武勇を超えた、一族の誉れや家格そのものを背負うという意味合いを持っていた可能性がある。
一方、戦国時代は下剋上が常態化し、出自よりも個人の実力が重視される時代であった。戦場での自己アピールはより直接的かつ効果的であることが求められた。この文脈において、「獅噛の前立」は非常に合理的な選択であった。既存の兜に後から取り付けることが可能であり、比較的少ないコストで、獅子の持つ強力な象徴性(破邪、武威)を自らのものとすることができたからである。これは、より多くの武将が獅子の力を借りることを可能にした、いわば「実戦的」で「普及型」の様式であったと言える。
この様式の分化は、武士の価値観の変化を映し出している。すなわち、伝統的な格式を重んじる精神から、個人の実力と個性を何よりも尊ぶ精神への移行が、兜の意匠にも明確に表れているのである。獅子の神威にあやかりたいという根源的な願いは共通しつつも、その表現方法が、それぞれの時代の要請に応じて変化し、多様化していった。このダイナミズムこそ、戦国時代の武具が持つ尽きせぬ魅力の源泉なのである。
本報告書は、「獅子頭付兜」という一つのテーマを、護良親王の伝説から戦国時代の武具に至るまで、多角的に掘り下げてきた。その調査結果から、いくつかの重要な結論が導き出される。
第一に、調査の起点となった護良親王の伝説は、史実としては「獅子頭の兜を着用した」のではなく、「兜の中に獅子頭の御守りを入れていた」ものであったことが明らかになった。しかし、この伝説が持つ「獅子の加護による幸運招来」という強力な物語は、後世の武士たちが獅子意匠を好む精神的な土壌を形成する一助となった可能性は否定できない。伝説は事実そのものではなくとも、文化を形成する力を持つのである。
第二に、獅子という意匠に込められた意味合いが、時代と共に変遷していったことが確認された。南北朝時代には、仏法や神域の守護者としての性格が強く、主に「神仏の加護」を願う敬虔な祈りの対象であった。それが戦国時代になると、その宗教的な意味合いを保持しつつも、それに加えて、戦場における「個人の武威と存在」を誇示するための、より積極的で自己表現的な手段としての側面を強く帯びるようになった。
この意味の変遷は、兜の様式の分化にも表れている。兜全体で獅子をかたどる荘重な「獅子頭の兜」と、兜の前立として獅子の顔を取り付ける機動的な「獅噛」。前者が伝統的な権威を象徴するとすれば、後者は実力主義の時代における個性の発露を象徴する。武士の精神性が、格式の重視から個性の尊重へと移行していく過程が、兜の意匠の中に刻まれているのである。
最終的に、「獅子頭付兜」というテーマを深掘りすることは、単一の武具の形態を調べることに留まらない。それは、伝説がいかにして生まれ、人々の心に根付いていくのかという生成のプロセス、大陸から伝わった宗教観が日本の文化の中でいかに受容され変容したかという文化史、そして何よりも、時代ごとに異なる戦闘様式や社会構造の中で、武士たちが何を信じ、何を願い、何を表現しようとしたのかという精神史そのものを解き明かす、壮大な歴史への窓なのである。