玉垣文琳は、戦国時代から徳川家まで権力者たちが愛した茶入。大坂夏の陣で破損後、奇跡的に修復され、現在は遠山記念館に所蔵される名品。
高さわずか6センチメートル 1 。掌に収まるこの小さな陶器が、いかにして日本の歴史の激動を映し出し、権力者たちの野心と美意識の象徴となり得たのか。本報告書は、漢作唐物文琳茶入「玉垣文琳(たまがきぶんりん)」の五百年にわたる軌跡を、特に戦国時代という視点を基軸に、その来歴、美術的価値、そして歴史的意義を徹底的に解き明かすものである。
戦国時代において、茶の湯は単なる喫茶の風習から、武将たちの政治・外交の重要な舞台へと昇華した。千利休の登場は、その価値観を「侘び茶」として大成させたが、それ以前から唐物道具への渇望は存在した 2 。中国大陸から渡来した「唐物茶入」は、茶道具の最高位に位置づけられ 3 、特に優れたものは「大名物(おおめいぶつ)」として、一国の城にも匹敵する価値を持つとされた。織田信長や豊臣秀吉は、これを権威の象徴として「名物狩り」と称されるほどの熱意で収集したのである 2 。この背景には、唐物道具を正式に扱う「唐物点(からものだて)」が茶の湯の基本とされたことや、先進文化への憧憬があった 5 。
本報告書で詳述する通り、「玉垣文琳」は室町将軍家の「東山御物(ひがしやまぎょもつ)」に源流を持つ可能性から、戦国、桃山、江戸、そして近代に至るまで、各時代の最高権力者の手を渡り歩いた極めて稀有な存在である 1 。その価値は、「大名物」「駿府御分物(すんぷおわけもの)」「柳営御物(りゅうえいごもつ)」という三つの最高位の肩書によって三重に保証されている 1 。この三つの肩書は、単なる分類上の呼称ではない。それぞれが異なる時代の最高の権威、すなわち、室町・戦国期における茶人たちの美的権威、徳川幕府創始者による政治的権威、そして江戸幕府体制下での公的な至宝としての制度的権威を象徴している。一つの器が、これほど多層的に価値を付与され続けた例は他に類を見ない。これは、「玉垣文琳」が単なる美術品ではなく、時代の権威そのものを体現する「レガリア(王権の象徴)」に等しい役割を担ってきたことを強く示唆している。
本報告書の理解を深めるため、巻末に詳細な伝来年表を付す。この表は、複雑な所有者の変遷と、その背景にある歴史的出来事を一覧するために不可欠である。
「玉垣文琳」は、中国の南宋から元代(13-14世紀)にかけて作られたと推定される茶入であり、「唐物茶入」に分類される 1 。その中でも特に作行きが優れたものは「漢作(かんさく)」と呼ばれ、最高の格を与えられる 3 。「文琳」とは、中国の故事に由来し、林檎に似た丸い形状を指す器形の分類名である 8 。
その造形は、古様な作風を見事に伝えている。高さ6.0cm、胴径6.1cmという寸法は、他の名物文琳(多くが6.5cm以上)に比して小振りであり、この点が後述する津田宗及の記録と一致する重要な特徴となっている 1 。胴は下方がふくらむ「下張り」で、口造りは厚手で下に向かって太くなる「根太」と呼ばれる形状を持つ。さらに、轆轤で挽いた後に削り出して成形された「ソギ口」という特徴は、古田織部も文琳茶入の重要な見所として挙げた様式である 1 。手取り(持った時の重さ)は極めて軽いと伝わる 10 。
釉薬の景色もまた、この茶入の大きな魅力である。総体は濃い柿色の地に、黒釉が肩から胴にかけて流れ、変化に富んだ景色を作っている 10 。この様子を、堺の大茶人・津田宗及は「天目のようで乱れている」と的確に評した 1 。そして、この茶入の銘の由来となったのが、器の底、畳付(たたみつき)に見える赤みを帯びた土の色である。これが神社の朱塗りの垣根「玉垣」を思わせることから、この優美な銘が付けられたとされている 1 。
「玉垣文琳」は、桃山時代には既にその名声が広く知れ渡っていた。奈良の茶人・松屋久政の茶会記『松屋会記』には、「玉垣と珠光文琳と羽室文琳、此三つ天下に無隠文琳也」と記されており 10 、「天下三文琳」の一つとして、当代の茶人たちの間で最高峰の評価を受けていたことがわかる。
この評価を裏付けるのが、堺の豪商にして当代随一の大茶人であった津田宗及による詳細な記録である。彼は自身の茶会記『宗及他会記』(『天王寺屋会記』の一部)の中で、自らが所持する大名物「珠光文琳」と「玉垣文琳」を並べて、その特徴を詳細に比較検討している 1 。宗及の記述は、単なる主観的な感想ではない。「下張り」「根太」「天目釉の乱れ」といった専門用語を駆使し、二つの名物を客観的かつ分析的に記述している 1 。これは、当時のトップクラスの茶人たちが、極めて高度な鑑識眼を持ち、器物の美を論理的に言語化する能力を有していたことを示す動かぬ証拠である。この科学的とも言える鑑賞眼によって残された記録の存在が、後に罹災した「玉垣文琳」の同定を可能にした点で、計り知れない歴史的価値を持っている。
「玉垣文琳」は、天下三肩衝(新田、初花、楢柴)や天下三茄子(付藻、松本、紹鴎)といった最高峰の茶入群と並び称される存在であり 12 、文琳という器形を代表する一点として、当時の茶人たちの垂涎の的であったことは間違いない。
「大名物」とは、千利休以前、特に室町幕府八代将軍・足利義政の時代に選定された「東山御物」を中核とする、最も由緒と格の高い茶道具群を指す 13 。これらを所持することは、武力や経済力に加え、文化的正統性をも手中に収めることを意味し、戦国の武将たちにとって究極のステータスシンボルであった。
「玉垣文琳」の来歴を遡ると、その源流はこの「東山御物」にたどり着く可能性が高い。現存する最古の記録である『清玩名物記』(1530年頃成立)には、「玉垣文琳」が足利義政に仕えた同朋衆・能阿弥の所持であったと記されている 1 。これが事実であれば、この茶入が極めて高貴な出自を持つことの証左となる。
その後、茶入は大和の戦国大名・筒井順慶、そして経済都市・堺の豪商である祐長宗弥(祐長與太郎)へと渡ったと伝わる 1 。この「能阿弥 → 筒井順慶 → 祐長宗弥」という伝来ルートは、中世から近世への移行期における日本の権力構造の変遷を象徴的に示している。すなわち、室町将軍に仕える文化的権威(能阿弥)から、実力で台頭した地方の戦国大名(筒井)、そして商業経済を掌握した都市の豪商(祐長)へと、文化の担い手が移り変わっていく様を、この茶入の所有者の変遷が如実に物語っているのである。
祐長宗弥の後、「玉垣文琳」は織田信長の実弟、織田有楽斎(うらくさい、長益)の手に渡る 1 。有楽斎は、信長の十三歳下の弟でありながら、本能寺の変を生き延び、豊臣、徳川に仕えた稀有な経歴の持ち主である 15 。武家茶道「有楽流」の祖としても知られ、国宝茶室「如庵」や大名物「大井戸茶碗 有楽井戸」などを所持した、卓越した審美眼の持ち主であった 16 。
一方で、有楽斎の茶は名物に固執せず、もてなしの心を重視する自由なものであったとも評される 16 。「名物にこだわらない」という評価と、最高級の「大名物」である「玉垣文琳」の所持という事実は、一見すると矛盾しているように映る。しかし、これは有楽斎という人物の多面性を浮き彫りにするものである。彼は、個人の美意識を追求する「数寄者」としての顔と、織田一門の生き残りとして武家の格式を保ち、政治の舞台で立ち回る「大名」としての顔を併せ持っていた。「玉垣文琳」は、後者の「大名・織田有楽斎」の社会的地位と権威を象徴する、いわば「表道具」であった。彼は名物に振り回されるのではなく、その価値と役割を深く理解した上で戦略的に所持し、使いこなす、極めて高度な文化人であったと結論付けられる。
慶長17年(1612年)、有楽斎は、大坂にある自らの邸宅を豊臣秀頼が訪問した際に、この「玉垣文琳」を献上した 1 。この時期は、徳川家康による豊臣家への圧力が日増しに強まり、両家の対立が決定的になろうとしていた、極めて緊迫した時期であった。
この献上は、単なる美術品の贈答ではない。当時、大坂城内にあって豊臣家の後見役の一人であった有楽斎にとって、この行為は、風前の灯であった豊臣家の権威を認め、忠誠を誓うという高度に政治的なメッセージであった。最高級の「大名物」である「玉垣文琳」を差し出すことで、自らの豊臣方における立場を内外に示し、結束を促す狙いがあったと考えられる。茶道具が、天下分け目の政治的駆け引きの重要な道具として機能した典型的な事例である。
慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で大坂城は炎上し、豊臣家は滅亡する。城内の蔵に納められていた「玉垣文琳」も、天下三茄子の一つ「付藻茄子」など数々の名物と共に砕け散ってしまった 1 。
天下統一を成し遂げた徳川家康は、武力による支配だけでなく、文化の継承にも強い意志を持っていた。彼は側近の本多正純に命じ、焼け落ちた大坂城の瓦礫の中から、名物の破片を執念で探索させた 1 。発見された九つの茶入の破片は、当代随一の漆工であった藤重藤元・藤巌親子に託される。親子は漆継ぎの技術を駆使してこれらを修復し、その見事な仕事ぶりに感嘆した家康は、褒美として修復された茶入のうち「付藻茄子」と「松本茄子」の二つを藤重親子に下賜したという逸話が残っている 1 。
この修復作業は、単なる物理的な修理を超え、新たな物語を器に刻み込む行為であった。割れた器を継ぐ「呼継(よびつぎ)」や、傷を金で装飾する「金継(きんつぎ)」のように、破損の痕跡すらも「景色」として愛でる日本の美意識がここには貫かれている。「玉垣文琳」は、この「大坂城落城」という歴史的悲劇と「奇跡の再生」という物語を得ることで、単なる「美しい器」から「歴史を乗り越えた不屈の象徴」へと、その価値を劇的に昇華させたのである。
家康の死後、大坂城から再生された七つの茶入は、彼の遺産として御三家(紀州、尾張、水戸)に分配された。この家康ゆかりの宝物は、特別な敬意を込めて「駿府御分物(すんぷおわけもの)」と呼ばれる 1 。
「玉垣文琳」は、徳川御三家の筆頭であり、家康の十男・頼宣を初代とする紀州徳川家に与えられた 1 。この「駿府御分物」という肩書は、それが徳川幕府の創始者である家康の旧蔵品であることを証明する、最高のブランドとなった。「玉垣文琳」は、この由緒を得ることで、戦国時代の「大名物」という価値に加え、徳川の天下泰平を象徴する新たな格式を纏うことになった。これは、徳川家が武力だけでなく、文化的な権威をも独占し、それを子々孫々へと継承していくシステムを確立したことを象徴している。
初代頼宣をはじめ、歴代の紀州藩主は茶の湯を篤く保護し、表千家を茶頭として召し抱えるなど、高い文化的水準を誇った 20 。玉垣文琳は、その紀州徳川家の文化の核となる至宝として、一世紀近くにわたり秘蔵された。
元禄14年(1701年)、「玉垣文琳」は紀州家から五代将軍・徳川綱吉へと献上される 1 。これにより、「玉垣文琳」は徳川将軍家が秘蔵した名物茶道具の総称である「柳営御物(りゅうえいごもつ)」の一つとなった 1 。「柳営」とは幕府や将軍家を意味する言葉である 23 。
御三家から将軍家へ、という献上の流れは、江戸中期の幕藩体制下で、権威が再び将軍家へと一元的に集中していく様を映し出している。「玉垣文琳」が「柳営御物」となったことは、この茶入がもはや一個人の所有物ではなく、徳川幕府という統治機構の権威を体現する「公的な宝物」として、日本の全ての茶道具の中で最高の地位に達したことを意味する。足利将軍家の「東山御物」から始まった物語が、徳川将軍家の「柳営御物」として一つの頂点を迎えた瞬間であった。
徳川幕府の崩壊と明治維新は、多くの旧大名家の財政的困窮を招き、それまで秘蔵されてきた伝来の宝物が「売立(うりたて)」によって市場に放出される時代を生んだ 25 。
「柳営御物」として徳川将軍家に伝来した「玉垣文琳」も、この時代の流れの中で、昭和20年(1945年)に美術史家であった團伊能が買い取り、その後、三井財閥と並ぶ実業家で大コレクターであった遠山元一の所有となった 1 。この所有者の変化は、文化財の価値が、封建的な「家の格」を示す世襲財産から、個人の審美眼と経済力によって評価される近代的な「美術品」へと、その本質を転換させたことを象徴している。三井、岩崎、根津、藤田、そして遠山といった新興財閥や実業家が、旧大名家に代わる新たな文化のパトロンとして登場した時代の大きな流れを、「玉垣文琳」の来歴もまた示しているのである 12 。
「玉垣文琳」は現在、遠山元一が蒐集したコレクションを公開するために設立された遠山記念館(埼玉県)に収蔵され、大切に保管されている 1 。
平成元年(1989年)、表面の漆の劣化のため、およそ四百年ぶりに解体修理が行われた。この調査により、大坂城で罹災した際の破片の状況(大小二十数個の破片からなる)がより詳細に判明し、藤重親子の驚異的な修復技術が再確認された 1 。現代の科学技術(分解調査、X線写真など)が、400年前の歴史的事件(大坂城落城)と失われた職人技(藤重親子の修復)の真相を解明したのである。これにより、「玉垣文琳」にまつわる物語は、単なる伝承から、科学的根拠に裏付けられた歴史的事実へとその確度を飛躍的に高めた。これは、文化財研究において、文献史学と保存科学が融合する現代的なアプローチの好例である。
また、高橋箒庵が編纂した不朽の名著『大正名器鑑』にも所載されており 7 、近代における茶道具評価の体系の中でも、その価値が揺るぎないものであったことが確認できる 31 。
「玉垣文琳」は、その掌に収まるほどの大きさの中に、日本の五百年にわたる歴史の精髄を凝縮している。その価値は、単一の側面から語ることはできない。
第一に、 美術品として 、南宋時代の陶芸技術の粋を集めた、完璧な造形美を持つ 8 。第二に、
歴史資料として 、足利、織田、豊臣、徳川という権力者の手を渡り歩き、時代の変遷を映し出す第一級の歴史資料である 1 。そして第三に、
物語の器として 、大坂城での罹災と再生という、破壊と創造のドラマチックな物語は、日本人の美意識の根幹に触れ、人々の心を惹きつけてやまない 1 。
「玉垣文琳」の不朽の価値は、その物質的な美しさ、歴史的な由緒、そしてそれに纏わる物語が分かちがたく結びつくことによって形成されている。それは、日本の美意識、権力と文化の関係、そして歴史のダイナミズムを、後世に静かに、しかし雄弁に語り継ぐ永遠の証人なのである。
時代 |
年代 |
所持者・出来事 |
典拠・備考 |
室町時代 |
15世紀後半 |
能阿弥 (足利義政 同朋衆)所持 |
『清玩名物記』の記述に基づく 1 。東山御物であった可能性を示唆。 |
戦国時代 |
16世紀中頃 |
筒井順慶 (大和国 戦国大名)所持か |
伝来による 1 。 |
|
|
祐長宗弥 (堺 豪商)所持 |
伝来による 1 。 |
安土桃山時代 |
16世紀後半 |
織田有楽斎(長益) 所持 |
祐長より入手 1 。 |
|
天正年間 (1573-1592) |
『松屋会記』に「天下に無隠文琳」の一つとして記録される 10 。 |
|
|
天正15年 (1587) |
津田宗及が自らの「珠光文琳」と見比べる。『宗及他会記』に詳細な記録を残す 1 。 |
|
|
慶長17年 (1612) |
豊臣秀頼の邸宅訪問の際、有楽斎より 豊臣秀頼 へ献上される 1 。 |
|
江戸時代初期 |
慶長20年 (1615) |
大坂夏の陣にて大坂城落城。城内にて罹災し、砕け散る 1 。 |
|
|
|
徳川家康の命により、藤重藤元・藤巌親子が灰中より破片を収集し、漆で修復 1 。 |
|
|
元和2年 (1616) |
家康の遺産として「駿府御分物」の一つとなる。**紀州徳川家(初代・頼宣)**へ下賜 1 。 |
|
江戸時代中期 |
元禄14年 (1701) |
紀州家より五代将軍・ 徳川綱吉 へ献上される 1 。 |
|
|
|
「柳営御物」となり、以後 徳川将軍家 に伝来する 1 。 |
|
近代・現代 |
昭和20年 (1945) |
團伊能 (美術史家)が徳川宗家より買い受ける 1 。 |
|
|
昭和期 |
遠山元一 (実業家・コレクター)の所蔵となる 1 。 |
|
|
平成元年 (1989) |
遠山記念館にて解体修理が行われる。罹災時の破損状況が詳細に判明 1 。 |
|
|
現在 |
遠山記念館 (埼玉県)所蔵 1 。 |
|