上杉謙信が後奈良天皇から下賜された「瓜実剣」は、瓜実形の目釘孔が特徴の短寸剣。謙信の権威と信仰、朝廷との関係を示す象徴であり、上杉家「三十五腰」にも選ばれた歴史的遺物。
本報告書は、戦国時代の武将、上杉謙信が所持したと伝わる「瓜実剣(うりざねのけん)」について、単なる一振りの刀剣としてではなく、戦国時代における武力、朝廷の権威、そして謙信個人の深い信仰が交差する、極めて重要な文化的遺物として多角的に論じるものである。瓜実剣の真価は、その冶金学的な特性や戦場での逸話に求められるのではなく、強力な政治的・精神的象徴としての役割にこそ存在する。この剣は、天皇による裁可の物理的な顕現であり、上杉家が築き上げた権威の礎石であり、そして越後の長尾氏と朝廷との長年にわたる関係の証左であった。
本論考を進めるにあたり、まず上杉家に伝来する二振りの「瓜実」の名を持つ刀剣の間に存在する混同を明確に分離する必要がある。一つは本報告書の主題である、後奈良天皇から下賜されたと伝わる「瓜実剣」である。もう一つは、同じく上杉家が所蔵した短刀「瓜実安則(うりざねやすのり)」である 1 。上杉家の刀剣台帳において、「瓜実の剣」は管理番号「乾64」、「瓜実安則」は「乾32」として明確に区別されて記録されている 2 。この事実は、両者が別個の存在であることを示しており、本報告書では前者に焦点を当てる。この初期段階での明確化は、史料に基づく厳密な分析の基礎をなすものである。
瓜実剣の物理的特徴は、その象徴的価値を理解する上で不可欠な要素である。その形態、寸法、そして名称の由来となった細部の造り込みは、この剣が単なる武器ではなく、特別な目的のために作られ、下賜された品であることを物語っている。
本作は、日本刀の主流である片刃の太刀や刀とは異なり、「剣(けん)」、すなわち両刃造りの直刀に近い形状を持つ 3 。この形態は、古代の武器や仏教美術における法具、特に不動明王などの尊格が手にする降魔の利剣を想起させる。戦国時代において、実戦の主流から外れたこの古典的な形式が選ばれたこと自体が、この剣の儀礼的、宗教的な性格を強く示唆している。天皇からの下賜品として、この形式の選択は、武威のみならず、神聖な権威を授けるという意図の表れであった可能性が高い。
判明している仕様は以下の通りである。
この刃長は、一般的な短刀や護り刀に相当する短寸であり、戦場で主たる武器として使用されることを想定したものではないことを明確に示している。鎬と樋の組み合わせは、刀身の強度を維持しつつ軽量化を図るための機能的な工夫であり、日本の刀剣製作における高度な技術の一端を示すものである 5 。
この剣にその名を与えた最大の特徴は、刀身と柄を固定する目釘を通すための穴、すなわち目釘孔(めくぎあな)の形状にある。この目釘孔が、瓜の種子(瓜実)のような独特の楕円形をしていることから「瓜実剣」と呼ばれるようになった 4 。
著名な刀剣の号は、その切れ味の伝説(例:童子切安綱)や、刃文の詩的な美しさ(例:三日月宗近)に由来することが多い。それに対し、瓜実剣は目釘孔という極めて機能的かつ微細な部分の特徴が名称となっている点で異彩を放つ。この事実は、他に類を見ない精緻な職人技や特定の美的感覚が、この剣を識別するに足る最大の特徴として朝廷や謙信自身に認識され、高く評価されていたことを示唆している。それは、天皇下賜品という極めて象徴的な機能とは裏腹に、この剣のアイデンティティを神話や伝説ではなく、その物理的な構造に根差させており、興味深い逆説を提示している。
剣の外装である拵(こしらえ)は、黒漆塗の合口拵(あいくちこしらえ)であったと記録されている 3 。合口様式とは、刀と鞘の間に鍔(つば)を設けない形式であり、主に高位の武士が用いる短刀に見られる。これにより、流麗で継ぎ目のない優美な輪郭が生まれる。柄(つか)には、滑り止めとして細かい刻みを入れた千段刻みが施されていた 3 。この質素でありながら気品と機能性を兼ね備えた拵は、天皇からの下賜品という瓜実剣の格式にふさわしいものであったと言えよう。
瓜実剣の価値を決定づけたのは、天文22年(1553年)に行われた上杉謙信(当時は長尾景虎)の上洛と、それに伴う後奈良天皇からの下賜という出来事である。この剣は、当時の緊迫した政治情勢の中で、景虎が自らの権威を確立するための極めて戦略的な一手であった。
当時24歳の長尾景虎は、数年にわたる内乱を鎮め、越後国(現在の新潟県)の統一を成し遂げたばかりであった 6 。その一方で、隣国の信濃では、武田晴信(後の信玄)が勢力を拡大し、信濃守護の小笠原長時や有力国衆の村上義清らを追放していた。故郷を追われた彼らは景虎を頼り、失地回復の助力を求めた 8 。これにより、越後の長尾氏と甲斐の武田氏との衝突は避けられない状況となっていた。
この状況下で景虎が選択したのが上洛であった。これは単なる都見物ではなく、自らの越後支配の正当性を公的に認めさせ、来るべき武田との対決に最高の権威付けを行うための、計算された政治行動であった。景虎は室町幕府の将軍・足利義輝に謁見し、そして決定的なことに、後奈良天皇への拝謁を許されたのである 3 。
戦国時代の天皇は、直接的な軍事力や政治力こそ持たなかったものの、官位叙任権や綸旨(りんじ、天皇の命令書)の発給を通じて、絶大な宗教的・象徴的権威を保持していた 9 。全国の戦国大名たちは、自らの支配を正当化し、敵対勢力を朝敵、すなわち「賊軍」に仕立て上げるために、朝廷の権威を求めていた 11 。
景虎は後奈良天皇への拝謁に際し、天盃(てんぱい)を賜るとともに、一振りの御剣(ぎょけん)を拝領した。この御剣こそが瓜実剣である 3 。さらに重要だったのは、景虎が「私敵治罰の綸旨」、すなわち朝廷が景虎の敵を「私敵」と認定し、これを討伐することを公的に許可する命令を得たことである 7 。これにより、武田信玄との領土を巡る私的な紛争は、天皇の御威光のもとで戦う「官軍」としての正義の戦へと昇華された。瓜実剣は、この綸旨の物理的な証であり、景虎が佩用することで、彼が朝廷の代理人であることを誰の目にも明らかにする象徴となった。この剣の物語が、その後の武功ではなく、下賜の瞬間に集約されているのは、その価値がこの政治的行為と不可分に結びついているからに他ならない。
景虎が天文22年に朝廷から受けた厚遇は、決して一朝一夕に得られたものではなかった。その背景には、父の代からの長尾家と朝廷との深い関係が存在する。謙信の父である長尾為景は、戦乱の影響で財政的に困窮し、即位の礼を10年もの間挙げられずにいた後奈良天皇に対し、多額の献金を行っていたことが記録されている 13 。この忠誠と財政支援に対し、朝廷は天文4年(1535年)、為景に「錦の御旗」を下賜して報いている 13 。
つまり、謙信が瓜実剣を拝領したことは、父・為景が築いた朝廷との信頼関係という土台の上に成り立っていた。それは、長尾家が数十年にわたり、帝室との特別な関係を培うために行ってきた戦略的な投資が、謙信の代になって結実した瞬間であったと言える。
史料を批判的に検討すると、下賜の時期について若干の齟齬が見られる。『上杉年譜』などの記録では、拝謁と下賜を天文22年4月10日としているが、同資料は注記で、実際の上洛は同年9月以降であったと指摘している 3 。他の史料も、景虎の上洛を同年秋から冬にかけてのこととしており 7 、実際の拝謁と下賜は1553年末に行われたと考えるのが妥当である。この些細な矛盾点の指摘も、歴史を正確に記述する上で重要な手続きである。
瓜実剣の重要性は、謙信の死後、その後継者である上杉景勝によってさらに確固たるものとなる。景勝が選定した上杉家秘蔵の名刀リスト「御手選三十五腰」に、瓜実剣が加えられたのである。
天正6年(1578年)に上杉謙信が急逝すると、その膨大な刀剣コレクションは養子であり後継者の上杉景勝に受け継がれた 14 。景勝自身も父・謙信に劣らぬ刀剣愛好家であり、優れた鑑定眼の持ち主であったと伝わる 15 。彼は、謙信の遺した数百口に及ぶ蔵刀の中から、特に重要と見なした35振(一説には36振)を選び出した。これが「上杉景勝御手選三十五腰(うえすぎかげかつおてえらびさんじゅうごこし)」、あるいは単に「上杉家三十五腰」と呼ばれる名刀リストである 15 。これは単なる景勝個人の好みを反映したものではなく、上杉家の伝統と権威を後世に伝え、その威光を定義するための意図的な編纂行為であった。
「三十五腰」のリストには、多種多様な価値を持つ名刀が名を連ねている。備前福岡一文字派の最高傑作とされ、国宝に指定されている「山鳥毛一文字」や、重要文化財の「姫鶴一文字」のような絶大な美術的価値を持つ刀剣 15 。正親町天皇から下賜され、五頭の虎を退けたという逸話を持つ短刀「五虎退」や、零れ落ちる小豆を斬ったとされる「小豆長光」のような、魅力的な物語を持つ刀剣 19 。そして、瓜実剣のように、天皇や将軍からの下賜という、非の打ちどころのない来歴を持つ刀剣である。
このコレクションは、いわば上杉家の威信を構成する要素を慎重に選び抜いたポートフォリオであった。それぞれの刀剣が、一族の力の異なる側面、すなわち芸術的趣味、武勇、そして瓜実剣の場合は、国土の最高権威たる天皇に由来する絶対的な政治的正当性を象徴していた。その来歴と象徴性ゆえに、瓜実剣がこのリストに選ばれることは必然であったと言える。
上杉家では、これらの宝物を極めて厳格に管理しており、詳細な刀剣台帳が作成・維持されていた。その中で、瓜実剣は「乾64」という管理番号で記録されている 2 。この体系的な管理体制は、これらの刀剣が単なる財産ではなく、家の歴史と権威そのものであったことを示している。
以下の表は、瓜実剣を「三十五腰」の他の代表的な名刀と比較し、その特徴を明確にするものである。
表1:上杉景勝御手選三十五腰(代表例)と瓜実剣の比較
名称/号 |
作者(伝) |
時代 |
形態 |
文化財指定 |
上杉家管理番号 |
由来・逸話 |
山鳥毛一文字 |
福岡一文字 |
鎌倉時代中期 |
太刀 |
国宝 |
乾7 |
刃文が山鳥の羽毛のように華やかであることに由来。謙信所用 15 。 |
姫鶴一文字 |
一文字 |
鎌倉時代中期 |
太刀 |
重要文化財 |
乾3 |
謙信が磨上を命じた夜、姫の姿で夢に現れ中止を懇願したという逸話を持つ 15 。 |
五虎退吉光 |
粟田口吉光 |
鎌倉時代中期 |
短刀 |
重要美術品 |
乾51 |
正親町天皇より謙信が拝領。足利家伝来で、五頭の虎を退けた伝説を持つ 20 。 |
瓜実の剣 |
豊後瓜実(伝) |
不明(平安~鎌倉期か) |
剣 |
なし |
乾64 |
後奈良天皇より謙信が拝領。瓜実形の目釘孔が特徴 2 。 |
この比較から、瓜実剣が持つ独自性が浮き彫りになる。他の名刀が「太刀」や「短刀」であるのに対し、瓜実剣は古風な「剣」という形態を持つ。そして最も顕著な違いは、その輝かしい来歴にもかかわらず、主要な文化財指定を受けていない点である。この事実は、瓜実剣の価値の源泉がどこにあるのかを考える上で、重要な示唆を与える。
瓜実剣はその出自を物語る銘を持たない。しかし、上杉家には古くからその作者についての伝承が残されている。
瓜実剣は無銘である 3 。しかし、上杉家の伝承では、豊後国(現在の大分県)の刀工、時に「瓜実」あるいは「安則」と呼ばれる者の作とされてきた 3 。ここで再び、序論で触れた管理番号「乾32」の短刀「瓜実安則」の存在が重要になる 1 。瓜実剣の作者に関する伝承は、コレクション内に存在したこの似た名前を持つ別の刀の影響を受けたか、あるいは両者の情報が混同された可能性も否定できない。
瓜実剣の作者を特定することは、銘がない以上、推測の域を出ない。しかし、伝承を手がかりに、歴史上の刀工「安則」の可能性を探ることは可能である。
どちらの説も確証はない。古い様式の模作(写し物)も刀剣界では一般的であり、剣の形式だけでは時代を断定できない。しかし、上杉家の伝承を重視するならば、鎌倉時代の豊後の刀工によって作られたと考えるのが最も妥当な推論であろう。
豊後国の刀工集団(豊後刀)は、実用性を重んじた頑健な作風で知られる。鎬が高く、重ねが厚いなど、質実剛健な造り込みを特徴とし、大和伝の影響を受けつつも九州物らしい特色を併せ持つ 23 。自らを毘沙門天の化身と信じ、義を重んじる一方で、極めて合理的な戦術家でもあった上杉謙信。そして篤い仏教徒であった彼にとって、豊後物らしい実用的な刀剣に、仏教的含意を持つ「剣」という形式と、天皇下賜という最高の権威が加わった瓜実剣は、まさにその所持品としてふさわしい一振であったと言えるかもしれない。
瓜実剣は、戦国の動乱、そして江戸時代の平和な世を経て、現代にまでその姿を伝えている。その継承の道のりは、上杉家の歴史そのものであった。
関ヶ原の戦いの後、上杉家は越後から会津120万石へ、さらに徳川幕府によって出羽米沢30万石(後に15万石に減封)へと移封された。領地と石高は大幅に削減されたが、景勝は「三十五腰」をはじめとする謙信以来の最も重要な家宝を手放すことはなかった。これらの宝物は、失われた国力に代わる、上杉家の誇りと権威の源泉であり続けた。謙信の遺骸もまた米沢に移され、城内の不識庵に祀られた後、最終的には上杉家廟所に移された 14 。そして明治時代に入り、謙信は米沢の地に創建された上杉神社の祭神として祀られることとなる 6 。謙信の遺産の重要な一部として、瓜実剣もまたこの地へ運ばれ、現在に至るまで上杉神社に所蔵されている 3 。
ここで、本報告書における核心的な分析点に至る。「三十五腰」に含まれる他の多くの名刀が国宝、重要文化財、あるいは重要美術品に指定されているのに対し、瓜実剣はその輝かしい来歴にもかかわらず、いずれの指定も受けていない 2 。この「指定の不在」は、瓜実剣の本質を理解する上で極めて重要である。考えられる理由は複数ある。
この議論は、文化遺産の評価がいかに多角的であるかを浮き彫りにする。そして、その物語が物理的な形態そのものよりも強力であるという、瓜実剣のユニークな地位を逆説的に強調している。瓜実剣は、美術品としての最高評価を得なくとも、歴史的遺物としての第一級の価値を保持し続けているのである。
本報告書の調査を通じて明らかになったのは、瓜実剣が単なる鋼と漆の工芸品以上の存在であるということである。それは、戦国大名の複雑な精神世界を映し出すレンズであり、歴史の重要な転換点を静かに物語る証人である。
瓜実剣は、その瓜の種子に似た目釘孔にちなんで名付けられた、刃長約18.6cmの両刃造りの剣である。天文22年(1553年)、越後を統一した若き長尾景虎(後の上杉謙信)が上洛した際、後奈良天皇から下賜された。この下賜は、武田信玄との対決を目前にした景虎の戦いに「官軍」としての大義名分を与えるものであり、その行為は長尾家が父・為景の代から築き上げてきた朝廷との関係の集大成であった。謙信の死後、後継者である上杉景勝は、この剣を上杉家の威光を象徴する「御手選三十五腰」の一つに列した。豊後の刀工の作と伝わるものの無銘であり、美術品としての最高評価である国宝や重要文化財の指定を受けていない事実は、その価値が物理的な完成度よりも、それが体現する歴史的・政治的象徴性にこそあることを示している。
瓜実剣は、軍事力だけでは支配を完遂できなかった戦国時代において、権威という無形の力が如何に決定的であったかを我々に教えてくれる。それは、伝統と威光の戦略的利用、後世へと伝えるべき遺産の意図的な編纂、そして何よりも、自らを毘沙門天の化身と信じた上杉謙信の深い信仰心と、朝廷への尊崇の念を明らかにする。この一振りの小さな剣は、一地方の武将が、単なる武力ではなく、神聖なる天皇の祝福という究極の権威をその手にすることで、自らを全国的な存在へと変貌させた決定的な瞬間の、静かなる、しかし最も雄弁な証人なのである。