名物「甲斐国郷」は、刀工・郷義弘作の幻の刀。武田信玄、織田信長、徳川家康、豊臣秀吉と天下人たちの手を渡り歩き、権力闘争と外交の象徴。明暦の大火で焼失したが、戦国時代の歴史を物語る。
本報告書は、日本の戦国時代にその名を馳せた一本の名刀、「甲斐国郷(かいのくに ごう)」について、その全体像を徹底的に解明することを目的とする。この刀は、単なる武器や美術品としての価値に留まらず、甲斐の虎・武田信玄、天下布武を掲げた織田信長、泰平の世を築いた徳川家康、そして天下人となった豊臣秀吉という、戦国時代の歴史を動かした中心人物たちの手を渡り歩いた、まさに「歴史の証人」と呼ぶにふさわしい存在である 1 。
「甲斐郷」とも呼ばれるこの刀の来歴は、戦国乱世のダイナミズムそのものを映し出している。武田家の栄光と滅亡の象徴として、勝者の手に渡り、やがては天下人たちの間で繰り広げられる権力闘争と外交の切り札として、その役割を変えていった 2 。なぜこの刀は、これほどまでに武将たちを魅了し、珍重されたのか。その価値の本質はどこにあったのか。そして、その輝かしい物語は、なぜ明暦の大火という悲劇的な結末を迎えなければならなかったのか。
これらの問いに対し、本報告書は、作者である刀工・郷義弘の人物像と作風の分析から始め、武田家における伝来、天下人たちの手を渡った詳細な経緯、そして焼失に至るまでの数奇な運命を、史料に基づき丹念に追う。さらに、現存する郷義弘の他の名刀や、「天下五剣」と称される刀剣群との比較考察を通じて、「甲斐国郷」が持つ歴史的・文化的な意義を多角的に明らかにする。物理的には幻と消えたこの名刀の物語を再構築することで、戦国という時代の精神性、価値観、そして権力の力学を浮き彫りにすることを目指すものである。
「甲斐国郷」の価値を理解する上で、まずその作者である郷義弘(ごうのよしひろ)が、日本刀の歴史においていかに特別な存在であったかを知る必要がある。郷義弘は、江戸時代に徳川八代将軍・吉宗の命により編纂された名刀リスト『享保名物帳』において、相模国の正宗、山城国の粟田口吉光と並び、「天下三作」と称される最高位の刀工として別格の扱いを受けた 4 。
この『享保名物帳』は上・中・下の三部構成をとり、中でも正宗、吉光、義弘の三作は「名物三作」として上巻にまとめられ、他の刀工とは明確に一線を画す存在として位置づけられた 6 。この三作の評価を決定的なものにしたのが、天下人・豊臣秀吉である。刀剣の熱心な収集家であった秀吉が、この三人の刀工の作を特に珍重したことから、「名物三作」は「天下三作」と呼ばれるようになったと伝えられている 6 。秀吉は正宗と吉光の作をそれぞれ十数振も所持していたとされ、郷義弘の作もその希少性にもかかわらず、彼のコレクションの中核をなしていた 6 。このことから、戦国時代の末期、安土桃山時代にはすでに郷義弘の評価は絶対的なものとして確立していたことがわかる。
郷義弘の作風は、師と伝わる正宗の豪壮な相州伝と、気品ある粟田口吉光の山城伝の双方の長所を兼ね備え、さらにそれを昇華させた独自の境地に達していた。正宗の作風に似ていながら鋭さが抑えられ、より高い品格を備えていると評される 6 。地刃共に明るく冴えわたるその出来栄えは、時に正宗以上の作例も存在するとまで言われるほどであった 9 。
表1:『天下三作』作風比較表
項目 |
郷義弘 (ごうのよしひろ) |
五郎入道正宗 (ごろうにゅうどうまさむね) |
粟田口吉光 (あわたぐちよしみつ) |
時代・国 |
南北朝時代・越中国 10 |
鎌倉末期~南北朝時代・相模国 6 |
鎌倉中期・山城国 5 |
地鉄 |
小板目肌がよく詰み、地沸が厚くつき、地景が顕著に入る。非常に明るく美しいと評される 6 。 |
板目肌に地沸がよくつき、地景が盛んに入る。地鉄の美しさは特筆される 6 。 |
小板目肌が詰んだ「梨子地肌」。潤いがあり優美 5 。 |
刃文 |
沸本位。浅い湾(のた)れに互の目や小乱れが交じる。金筋・砂流しなどの働きが豊富 6 。 |
沸本位。湾れを基調に互の目乱、大乱など多彩。沸崩れや金筋、稲妻が盛んに入る 6 。 |
匂本位で沸がつく。直刃調に小互の目が交じる。優美で気品が高い 5 。 |
帽子 |
乱れ込んで小丸に返るものや、一枚帽子、掃きかけなど多様 6 。 |
沸崩れ、火焔風など、激しい働きを見せる 6 。 |
小丸に返るか、掃きかけ風 6 。 |
全体的作風 |
正宗の豪壮さに品格が加わる。地刃が明るく冴え、気品が高い 6 。 |
豪壮で覇気に満ち、変化に富んだ華やかな作風。「相州伝」を完成させる 6 。 |
優美で格調高い。特に短刀の名手として知られる 5 。 |
郷義弘の評価を絶対的なものにしているのは、その卓越した作風だけではない。彼の生涯を覆う深い謎と、そこから生まれた伝説が、その価値に神秘的な輝きを与えている。
その最大の謎は、在銘、すなわち作者自身の名が刻まれた刀が一本も現存しないという事実である 4 。現存する彼の作はすべて、刀剣鑑定の権威である本阿弥家が「郷義弘の作に間違いない」と鑑定(極め)したものに限られる。この極めて異例な状況から、「郷(江)とお化けは見たことがない」ということわざが生まれた 4 。誰もがその存在を認め、高く評価しているにもかかわらず、確かな証拠を持つ実物には決してお目にかかれない、という畏敬と憧憬の念が込められた言葉である。
彼の出自については、越中国新川郡松倉郷(現在の富山県魚津市)に住んだとされ、その号も地名の「郷」や、本姓とされる「大江」に由来するといわれる 10 。しかし、その生涯は多くの伝書において27歳という若さで夭折したと記されており、作刀期間が極めて短かったことが、現存作の少なさと希少価値に直結している 9 。
なぜ在銘作がなく、なぜ若くして世を去ったのか。この問いに対する一つの大胆な仮説が、郷義弘を単なる刀工ではなく、武士として捉える見方である。ある説によれば、彼は越中守護代・井上俊清に仕える武士であり、作刀はあくまで余芸であったという 13 。武士であれば、職人のように自らの名を作品に刻むことに固執しなかった可能性も考えられる。
さらにこの説は、彼の死の謎にも踏み込む。鎌倉時代末期、後醍醐天皇による倒幕計画「正中の変」(1324年)が幕府に露見した際、勤皇の志を抱いていた郷義弘もこれに関与していたのではないか、というのである 13 。そして計画が失敗に終わると、主君である井上俊清や、鎌倉で師事した正宗に累が及ぶことを避けるため、自ら命を絶ったか、あるいは幕府に捕らえられ処刑されたのではないか、と推測されている 13 。この説が事実であれば、彼の夭折は単なる病死ではなく、時代の動乱に殉じた志士の悲劇的な最期として意味づけられる。
郷義弘の伝説は、こうした「在銘作の不在」「夭折」「武士兼刀工説」「倒幕運動への関与説」といった要素が複雑に絡み合うことで形成された。人々は彼の刀の気高い品格に、夭折した天才の無念や、理想に殉じた武士の魂を重ね合わせ、その作品に単なる美術品を超えた価値を見出したのである。
郷義弘の作風は、現存する無銘の傑作から窺い知ることができる。その技術的な特徴は、前期と後期で変化が見られる 9 。前期作は身幅や鋒(きっさき)が尋常な姿であるのに対し、後期作は身幅が広く鋒が延びた、南北朝時代の特徴を反映した豪壮な姿となる 9 。
地鉄は、細かく詰んだ小板目肌に、柾目が交じるものもあり、地沸(じにえ)と呼ばれる微細な粒子が厚くつき、地景(ちけい)という線状の働きが顕著に見られる 9 。刃文は、沸(にえ)が主体で、浅く揺れる湾(のた)れを基調に、互の目(ぐのめ)や小乱れが交じる 6 。刃中には金筋(きんすじ)や砂流し(すながし)といった働きが豊富に見られ、地刃ともに明るく冴えわたるのが最大の特徴である 9 。
このような傑出した作品でありながら、在銘作が存在しないため、郷義弘の刀の価値を保証したのは、本阿弥家の鑑定であった。本阿弥家は、室町時代から徳川幕府の刀剣鑑定を司った名家であり、彼らが発行する折紙(おりがみ)と呼ばれる鑑定書や、刀身に直接価値や作者名を記す金象嵌銘は、その刀が真作であることを公的に証明する唯一無二の権威であった 14 。もし本阿弥家による鑑定システムが存在しなければ、郷義弘という刀工の名とその作品は、歴史の闇に埋もれてしまった可能性すらある。彼の伝説は、本阿弥家の確かな鑑識眼によって支えられていたのである。
名物「甲斐国郷」の号は、その名の通り、甲斐国(現在の山梨県)を本拠とした戦国大名・武田家に代々伝来したことに由来する 2 。刀の号は、その刀工名(例:正宗、吉光)だけでなく、著名な所有者(例:「富田江」 17 )や由来地(例:「桑名江」 12 )にちなんで名付けられることが多く、「甲斐国郷」もその典型的な例である。
その所有者であった甲斐武田氏は、清和源氏の一流である甲斐源氏を祖とする名門であり、戦国時代には武田信玄の代にその勢力が頂点に達した 18 。信玄は甲斐の守護大名としてだけでなく、戦国最強と謳われた騎馬軍団を率いる当代随一の武将として、周辺諸国にその名を轟かせた 18 。本拠地である甲斐国は、四方を山々に囲まれた天然の要害であり、古代には交通の結節点「交ひ(かい)」であったとする説もある、戦略的に重要な土地であった 20 。この地を治めた武田家の重宝であったことが、この刀の価値の原点となっている。
「甲斐国郷」に関する最も象徴的な逸話は、武田信玄自身がこの刀に手を加えたという記録である。『享保名物帳』などによれば、この刀はもともと二尺九寸(約87.9cm)もある大太刀であったが、信玄はこれを二尺七寸(約81.8cm)に磨り上げ(すりあげ)させたとされる 1 。大太刀は馬上での戦闘や儀礼的な意味合いが強いが、信玄はこれを自身の体格や、より実戦的な地上戦も想定した戦術に合わせて、扱いやすい打刀の長さに調整したと考えられる。
さらに信玄は、単に刀を短くするだけでなく、その磨り上げの事実を茎(なかご、刀身の柄に収まる部分)に彫りつけさせ、常に佩用していたという 2 。この行為は、単なる刀の調整に留まらない、深い意味合いを持つ。それは第一に、天下の名刀を自身の使いやすいように作り変えるという、実用性を重んじる信玄の合理主義的な精神の表れである。第二に、歴史的至宝に自らの名を刻むことで、「この名刀は、この私、武田信玄が手を加えたものである」と宣言する、強烈な所有意識と自己の権威の表明であった。これは、織田信長が名物「宗三左文字」を手に入れた際に、自身の名を金象嵌で刻ませた行為と軌を一つにするものであり、天下を目指す武将にとって、名刀が自らのアイデンティティを投影するキャンバスであったことを示している 21 。
そして第三に、自らの行為を後世に伝えるという、歴史に対する強い意識の表れとも解釈できる。信玄は、自身の武具に武田菱の家紋や、篤く信仰した諏訪明神の加護を願う意匠を施したことで知られる 22 。茎に刻まれた内容は具体的には伝わっていないが、単なる事実の記録だけでなく、何らかの個人的な祈願や、武田家の栄光を託す象徴的な意味が込められていた可能性も否定できない。この磨り上げと刻銘の逸話は、信玄が「甲斐国郷」を単なる美術品としてではなく、自らの身体と精神の延長線上にある、極めて個人的な「魂の器」として捉えていたことを物語っている。
信玄の死後、「甲斐国郷」はその後継者である武田勝頼に受け継がれた。勝頼の代には、さらに磨り上げられて二尺一寸三分(約64.5cm)となり、より実践的な打刀としての姿を完成させた 1 。しかし、武田家の運命は、長篠の戦いでの敗北を境に急速に傾いていく 23 。
天正10年(1582年)、織田信長と徳川家康の連合軍による甲州征伐が始まると、武田軍は抗する術もなく瓦解。勝頼は、武田家終焉の地となる天目山へと追い詰められた。伝承によれば、勝頼はその最期の瞬間まで、この「甲斐国郷」を腰に佩いていたという 2 。父・信玄が魂を込めた一振りを、滅びゆく家の運命と共にしたのである。
勝頼の自害の後、この刀は戦利品として織田軍の手に渡った。寄せ手の大将であった信長の重臣・滝川一益がこれを確保し、主君である信長のもとへと献上した 1 。こうして、甲斐源氏以来の名門・武田家の栄光を象徴した名刀は、その滅亡と共に、新たな時代の覇者の所有物となった。これは、戦国時代の非情な現実を象徴する、極めて劇的な場面であった。
武田家滅亡後、「甲斐国郷」の物語は、天下統一事業の主役たちによって紡がれていく。滝川一益から献上されたこの刀を、織田信長は長く手元に置くことはなかった。信長は、甲州征伐における最大の功労者であり、長年の盟友であった徳川家康に、この刀を褒賞として与えたとされている 1 。
この贈答は、単なる論功行賞以上の深い政治的意味を持っていた。信長は、茶器や刀剣といった名物を巧みに利用し、家臣団の統制や同盟関係の強化を図る「名物政治」の達人であった 5 。武田家の象徴ともいえる「甲斐国郷」を家康に与えることは、武田の旧領の安定化を家康に託すという信頼の証であると同時に、両者の強固な同盟関係を天下に示すための、計算された政治的パフォーマンスであった。家康にとって、この刀は武田家を滅ぼした戦功の証であり、信長との絆の象徴となったのである。
本能寺の変で信長が斃れた後、天下の覇権は豊臣秀吉へと移っていく。その過程で、「甲斐国郷」は再び歴史の表舞台に登場し、決定的な役割を果たすこととなる。天正12年(1584年)、信長の後継者の座を巡り、秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍が激突した小牧・長久手の戦いが勃発した。
戦いは戦術的には家康方が優勢に進めたものの、秀吉は巧みな外交戦略で信雄を抱き込み、大局的には家康を政治的に追い詰めていった。最終的に両者の間で和議が結ばれるが、その和睦の証として、家康から秀吉へと贈られたのが、この「甲斐国郷」であった 2 。この時、秀吉からは信長秘蔵の短刀「不動国行」が家康に贈られており、互いの至宝を交換するという形がとられた 2 。
この刀剣交換は、単なる友好の証ではない。それは、家康の秀吉に対する事実上の臣従を象徴する、極めて重要な政治儀礼であった。信長から与えられ、武田家に対する勝利の象徴であったこの刀を秀吉に差し出すことは、家康が自らの武威と権威の一部を秀吉に譲渡し、その支配体制下に組み込まれることを儀礼的に認める行為に他ならなかった。秀吉が天下人として、文化的な権威の象徴である名物の所有においても頂点に立ったことを示す出来事であり、「甲斐国郷」はこの歴史的なパワーシフトを媒介する役割を担ったのである。
秀吉の手に渡った「甲斐国郷」は、彼の膨大な刀剣コレクションの中でも特に重要な一振りとして扱われた。『太閤御物刀絵図』や『豊臣家御腰物帳』といった豊臣家の蔵刀目録には、「かい国かう、二尺一寸三分、すり上」として、その存在が明確に記録されている 2 。
秀吉の死後、天下の趨勢は関ヶ原の戦いを経て徳川家康へと傾く。そして、豊臣家の命運が尽きようとしていた大坂の陣の後、「甲斐国郷」は数奇な運命の最終章を迎える。慶長20年(1615年)の大坂冬の陣の後、豊臣秀頼は徳川家康に対し、和睦と恭順の意を示すため、この刀を再び家康に贈ったのである 1 。
かつて家康が秀吉への臣従の証として差し出した刀が、時を経て、今度は秀吉の子である秀頼から、家康への恭順の証として返還される。これは、戦国乱世の終焉と徳川の世の到来を決定づける、歴史の皮肉に満ちた象徴的な出来事であった。この瞬間、「甲斐国郷」が象徴してきた「天下」は、名実ともに徳川家のものとなったのである。
表2:名物『甲斐国郷』伝来年表
年代 |
所有者 |
出来事・詳細 |
刀身の状態 |
典拠 |
南北朝時代 |
(製作) |
刀工・郷義弘により作刀される。 |
大太刀(推定) |
- |
戦国時代(~1573年) |
武田信玄 |
武田家の重宝となる。信玄が磨り上げ、茎にその旨を彫らせ佩用。 |
二尺七寸 (約81.8cm) 3 |
『享保名物帳』 |
1573年~1582年 |
武田勝頼 |
信玄より継承。さらに磨り上げる。天目山にて自害するまで佩用。 |
二尺一寸三分 (約64.5cm) 3 |
『享保名物帳』 |
1582年 |
織田信長 |
武田家滅亡後、滝川一益が戦利品として確保し、信長に献上。 |
同上 |
1 |
1582年~1584年 |
徳川家康 |
信長が甲州征伐の論功行賞として家康に下賜。 |
同上 |
1 |
1584年 |
豊臣秀吉 |
小牧・長久手の戦いの和睦の証として、家康から秀吉へ贈られる。 |
同上 |
2 |
1584年~1615年 |
豊臣家(秀吉・秀頼) |
豊臣家の蔵刀となる。『太閤御物刀絵図』等に記録が残る。 |
同上 |
2 |
1615年 |
徳川家康 |
大坂冬の陣の後、秀頼から家康へ贈られ、徳川将軍家の所有となる。 |
同上 |
1 |
1657年 |
(焼失) |
明暦の大火により、江戸城内で被災し焼失したとみられる。 |
焼身 |
3 |
江戸中期(享保年間) |
(記録) |
『享保名物帳』の「焼失之部」に記載される。 |
焼失 |
3 |
徳川将軍家の所有となった「甲斐国郷」は、泰平の世で静かな時を過ごすかに見えた。しかし、その輝かしい来歴は、江戸時代最大の大火災によって、突如として終焉を迎える。
その公式な「喪失」の記録が、八代将軍・徳川吉宗の治世である享保年間(1716-1736年)に編纂された『享保名物帳』である。この名刀リストは、本阿弥家が全国に散在する名刀を調査し、その特徴や伝来をまとめたものであり、当時の刀剣評価の集大成であった 25 。『享保名物帳』は、現存する名物を記した上巻・中巻と、失われた名物を記した下巻「焼失之部」から構成される 7 。そして、「甲斐国郷」は、この「焼失之部」にその名を連ねているのである 3 。これは、徳川幕府がこの名刀の物理的な存在が失われたことを公式に認定したことを意味し、その物語が悲劇的な結末を迎えたことを決定づける記録となった。
「甲斐国郷」を飲み込んだ災厄は、明暦3年(1657年)1月18日から19日にかけて発生した「明暦の大火」である。後に「振袖火事」とも呼ばれるこの火災は、本郷、小石川、麹町と立て続けに発生した火の手が強風に煽られ、江戸市中の約6割を焼き尽くすという未曾有の大災害となった 27 。
その猛火は、将軍の居城である江戸城も例外とせず、壮麗な天守閣をはじめ本丸、二の丸、三の丸をことごとく灰燼に帰せしめた 27 。この時、江戸城の本丸に保管されていた徳川将軍家秘蔵の刀剣コレクションも壊滅的な被害を受けた。記録によれば、一箱に三十振りの刀を収めた刀箱が二十箱あったうち、実に十五箱が猛火に包まれ、焼失したと伝えられている 24 。
戦国時代から受け継がれ、天下の権威の象徴として集められた数多の名刀が、この二日間で一挙に失われたのである。「甲斐国郷」も、この時に被災した悲運の一振りであったと考えられている。この喪失は、単に一本の刀が失われたというだけではない。日本の文化史上、最も甚大な文化財の喪失事件の一つであった。
表3:明暦の大火で焼失した徳川将軍家所蔵の主要名物刀剣
刀工 |
刀名(一部) |
備考 |
郷義弘 |
蜂屋江、上野江、紀州江、西方江、三好江、上杉江 |
「甲斐国郷」の兄弟ともいえる郷義弘の名作が多数焼失した 24 。 |
正宗 |
三好正宗、八幡正宗、伏見正宗、横雲正宗、対馬正宗 |
天下三作の筆頭、正宗の傑作も甚大な被害を受けた 24 。 |
吉光 |
骨喰藤四郎、庖丁藤四郎、豊後藤四郎、米沢藤四郎 |
短刀の名手、吉光の作も多くが罹災した。「骨喰藤四郎」は後に再刃された 24 。 |
貞宗 |
大坂切刃貞宗 |
正宗の子とされる貞宗の作も失われた 24 。 |
来国次 |
青木来国次、三斎来国次 |
来派の名工の作も含まれていた 24 。 |
左文字 |
義元左文字(宗三左文字) |
織田信長所持で知られる名物。後に再刃され現存する 24 。 |
国行 |
不動国行 |
豊臣秀吉から徳川家康に贈られた名物。後に再刃された 24 。 |
この表が示すように、「甲斐国郷」の焼失は、日本の刀剣文化の精華が一夜にして失われた大悲劇の一部であった。明暦の大火は、戦国時代から受け継がれてきた物理的な「記憶」を焼き尽くした、文化史上の断絶点とも言える事件だったのである。
火災で焼けた刀身、いわゆる「焼身(やけみ)」は、その刀工の技量や鋼の質によっては、再度焼き入れを施して刃文を蘇らせる「再刃(さいは)」が可能である 31 。事実、明暦の大火で共に被災した「宗三左文字」や「骨喰藤四郎」は、越前康継らの手によって再刃され、その姿を現代に伝えている 24 。
しかし、「甲斐国郷」が再刃されたという記録は一切なく、そのまま廃棄処分になったとみられている 3 。その理由は定かではない。一つには、火災による損傷があまりに激しく、再刃に耐えうる状態ではなかった可能性が考えられる。あるいは、郷義弘の完璧な作域を知る本阿弥家や幕府が、中途半端な姿で後世に残すことを潔しとせず、その完全なる「死」を選んだという、厳しい美意識の表れであったのかもしれない。
その刀身は失われたが、「甲斐国郷」の伝説は消えなかった。昭和48年(1973年)、ボストン美術館の関係者によってアメリカで発見された、という説が一時期流布した 2 。しかし、この説は他の信頼できる史料では一切裏付けが取れず、今日では信憑性の低い風聞と見なされている。だが、このような伝説が現代に至るまで生まれること自体が、失われた名刀に対する人々の尽きることのない憧憬とロマンを雄弁に物語っている。物理的には幻と消えたからこそ、「甲斐国郷」はかえって人々の想像力の中で、不滅の物語を紡ぎ続けているのである。
焼失した「甲斐国郷」が、いかなる輝きを放っていたのか。その在りし日の姿は、幸いにも現存する郷義弘の傑作から類推することができる。それらはすべて無銘であるが、国の宝として大切に受け継がれてきた。
中でも双璧とされるのが、二振りの国宝である。一つは、加賀前田家に伝来した**国宝「刀 無銘 義弘(名物 富田江)」**である 17 。もとは豊臣秀吉の側近・富田一白(とみたいっぱく)が所持したことからこの名があり、秀吉を経て前田利長に下賜された 17 。江戸時代には「天下一の郷」と称えられた名刀で、小板目肌がよく詰んだ精緻な地鉄に、浅い湾れを基調とした刃文が焼かれ、地刃ともに極めて明るく冴えわたる、品格の高い作である 32 。
もう一つは、岩国美術館が所蔵する**国宝「刀 金象嵌銘 天正十三十二月日江本阿弥磨上之(花押)/所持 稲葉勘右衛門尉(名物 稲葉江)」**である 34 。織田信長の家臣・稲葉重通が所持し、後に徳川家康が買い上げ、次男の結城秀康に与えたものと伝わる 34 。茎には本阿弥光徳による金象嵌銘が施され、その伝来を今に伝えている。こちらも小板目肌が精美で、小湾れの刃文が明るく冴える、郷義弘の典型的な作風を示している 37 。
この他にも、細川家家臣・松井康之が所持した 重要文化財「刀 朱銘 義弘 本阿(花押)(名物 松井江)」 39 や、本多忠勝の子・忠政が伊勢桑名で手に入れた
重要文化財「刀 金象嵌銘 義弘 本阿(花押)/本多美濃守所持(名物 桑名江)」 12 など、現存する郷義弘の作は、いずれも大名家に秘蔵された名品ばかりである。これらの傑作が示す、澄み切った鋼の美しさと気品に満ちた姿こそ、失われた「甲斐国郷」が宿していた輝きであったに違いない。
日本の名刀を語る上で、「天下三作」と双璧をなす存在が「天下五剣」である。これは、童子切安綱、鬼丸国綱、三日月宗近、大典太光世、数珠丸恒次という、特に由緒と品格に優れた五振りの名刀を指す呼称である 42 。では、「甲斐国郷」の価値は、この天下五剣の価値とどのように異なり、また共通するのであろうか。
天下五剣の価値の根幹をなすのは、その古さと、神話的・伝説的な由緒である。例えば、「童子切安綱」は源頼光が酒呑童子という鬼を退治したという伝説にその名が由来し 43 、「鬼丸国綱」は北条時頼を夢で苦しめた小鬼を退治したという逸話を持つ 45 。これらの物語は、刀が単なる武器ではなく、超自然的な力を持つ霊的な存在として畏敬されていた時代の価値観を色濃く反映している。その評価は主に室町時代に形成されたとされ、伝説や物語性が価値の源泉となっている 47 。
これに対し、「甲斐国郷」を含む「天下三作」の価値基準は、やや趣を異にする。その評価が確立されたのは、より合理的で、美術品としての鑑定眼が重視されるようになった安土桃山時代から江戸時代初期にかけてである 6 。その価値の源泉は、第一に郷義弘という刀工の卓越した技量と、在銘作が存在しないことによる極度の希少性にある。そして第二に、武田信玄、織田信長、徳川家康、豊臣秀吉といった、歴史を実際に動かした権力者たちの手を渡り歩いたという、具体的かつ政治的な来歴に重きが置かれている。
ここに、日本の名刀を評価する上での二つの異なる、しかし補完的な価値基準が見て取れる。「天下五剣」が「伝説的・神話的価値」を象徴するならば、「甲斐国郷」に代表される「天下三作」の名刀は、「美術的・歴史的価値」を象徴すると言えるだろう。「甲斐国郷」の物語には鬼は登場しない。代わりに登場するのは、生身の人間として天下の覇権を争った武将たちである。その価値は、彼らの野望と戦略、そして権力闘争という生々しい歴史の舞台で果たした役割そのものに根差している。
したがって、「甲斐国郷」は、「天下五剣」とは異なる文脈において「天下」の名を冠するにふさわしい至宝であった。それは、神話の時代ではなく、人間の意志と力が歴史を創造した戦国乱世という時代そのものを象徴する名刀だったのである。
本報告書で詳述した通り、名物「甲斐国郷」は、夭折の天才刀工・郷義弘の類稀なる技量の結晶であり、甲斐武田家の誇りそのものであった。そして、武田家の滅亡後は、戦国末期の天下統一をめぐる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という巨星たちの野望と外交、そして権力継承の象徴として、歴史の重要な局面で常に中心的な役割を果たしてきた。
その刀身は、1657年の明暦の大火という悲劇によって永遠に失われた。しかし、その物語は『享保名物帳』をはじめとする歴史の記録の中に、そして失われた名刀への憧憬を抱く人々の記憶の中に、今なお鮮やかに生き続けている。それは、武田家の栄光と悲壮な滅亡、そして織田、豊臣、徳川による天下統一事業という、日本の歴史上、最も劇的な時代を駆け抜けた、唯一無二の証人そのものである。
一本の刀の来歴を追うことは、単なるモノの歴史を語ることではない。それに価値を見出し、所有し、受け継ぎ、そして失った人々の精神性、美意識、政治力学、そして時代そのものを映し出す鏡を覗き込む行為に他ならない。「甲斐国郷」の物語は、我々にそのことを強く教えてくれる。物理的には幻となったこの名刀は、その比類なき物語を通じて、日本の歴史と文化の中に、不滅の存在としてこれからも輝き続けるであろう。