相位弓は小笠原流第三位の免許弓。黒漆に吹寄藤の意匠が施され、武・礼・美を統合。鳴弦の儀など神聖な儀式で用いられ、武将の権威と美意識を象徴した。
相位弓(そういきゅう)は、小笠原流弓術において第三階の許しを受けた者に与えられる弓とされ、黒漆で塗られた弓胎に藤を巻いた「吹寄藤(ふきよせどう)」の別名を持つ、と一般に認識されている 1 。この定義は、相位弓の基本的な性格を的確に捉えている。しかし、この弓が持つ真の価値と意味の深層は、この簡潔な説明の奥深くに隠されている。それは単なる階級を示す武具ではなく、日本の武家社会、特にその価値観が激しく揺れ動いた戦国時代という時代精神を映し出す、複雑で多層的な文化的複合体である。
本報告書は、この相位弓を「武具」としての物理的実在、「儀礼具」としての社会的役割、そして「美術工芸品」としての美的価値という三つの側面から徹底的に分析し、解き明かすことを目的とする。特に、実利と武力が全てを支配したかに見える戦国時代という視座からこの弓を再検証することで、当時の武将たちが求めたものが単なる戦闘能力の向上だけではなく、いかにして自らの権威と文化的素養を可視化しようと努めたかを探求する。
そのために、本報告書は以下の構成をとる。第一章では、武家社会の規範を司った小笠原流の権威と、その中での相位弓の厳格な「格」を明らかにする。第二章では、弓の構造と、その最大の特徴である「吹寄藤」の意匠が生み出す独特の「形」を詳細に分析する。第三章では、戦国時代という特殊な時代背景と相位弓の「関係」を、武将の美意識や贈答文化といった観点から考察する。そして第四章では、この弓に与えられた「相位」と「吹寄」という名に秘められた文化的・思想的な「意味」の深層を掘り下げる。これらの多角的な分析を通じて、相位弓が武・礼・美の三要素を統合した類まれな存在であることを論証し、その歴史的意義と現代にまで続く価値を明らかにする。
相位弓の価値を理解するためには、まずその背景にある小笠原流という流派そのものが、日本の武家社会においていかなる権威と格式を保持していたかを知る必要がある。相位弓は、この厳格な世界観の中で特定の役割と地位を与えられた、特別な存在であった。
小笠原流の起源は鎌倉時代に遡る。初代・小笠原長清は源頼朝の弓馬師範を務め、以来、この流派は武家社会における弓術、馬術、そして礼法の規範、すなわち「武家故実(ぶけこじつ)」を司る最高権威として君臨してきた 2 。室町幕府、そして江戸時代には徳川将軍家の師範役を代々務めるなど、時の為政者から絶対的な信頼を得ていた 2 。
重要なのは、小笠原流が単なる戦闘技術としての弓術を教える流派ではなかった点である。その教えの根幹には、弓術・馬術と一体化した「礼法」が存在した 5 。立ち居振る舞いから儀式の差配に至るまで、武士としてあるべき姿の全てを体系化したのが小笠原流であり、その教えは武家社会の秩序そのものを支える精神的支柱であった。したがって、小笠原流から授与される「免許」や、それに伴う「免許弓」は、単なる技術の習熟度を示す証ではなく、所有者が武家社会の規範を体現するに足る高い人格と教養を兼ね備えた人物であることを公に示す、極めて重い意味を持つものであった。
小笠原流の免許制度は、歩射(ぶしゃ、徒歩での弓術)と騎射(きしゃ、馬上での弓術)に大別され、それぞれに極めて厳格で詳細な階梯が定められている 8 。その中でも、特定の高位に達した者のみが持つことを許される特別な弓が存在し、これを「免許弓」と呼ぶ。
現存する資料によれば、歩射における免許弓の階梯は、最高位である「一張弓(いっちょうゆみ)免許」を頂点とし、それに次ぐものとして「重籐弓(しげどうゆみ)免許」、そして第三位に「相位弓(そういきゅう)免許」が位置づけられている 1 。相位弓が「第三階許しの弓」あるいは「第三位の面鏡の弓」と称されるのは、この序列に由来する 1 。この免許を許されるということは、射手としての技量が神技の域に近づき、かつ小笠原流の精神を深く理解した、選ばれた者であることを意味した。この階梯は、単なる序列に留まらず、後述するように弓自体の意匠、特に藤の巻き方によって視覚的に明確に区別されており、一目見ただけでその弓の持つ格式が理解できるようになっていた。
相位弓の独自性を理解するために、上位の免許弓である一張弓、重藤弓と比較することは極めて有益である。それぞれの弓は、その階位に応じて異なる役割と象徴性を与えられていた。
階位 |
名称(読み) |
藤巻の特徴(箇所数・様式) |
主な用途・象徴 |
最高位 |
一張弓(いっちょうゆみ) |
詳細不明。最高の格式にふさわしい特別な仕様であったと推察される。 |
「一張りの弓をもって天下を治む」という思想を体現。江戸時代までは将軍家のみに許された究極の弓 1 。 |
第二位 |
重藤弓(しげどうゆみ) |
握り上36箇所、握り下28箇所。弓胎をほぼ覆い尽くすほど緻密かつ重厚に藤を巻く 1 。 |
将軍家への献上品。武威と権力の象徴であり、実用的な補強を極限まで高めた重厚長大な様式 1 。 |
第三位 |
相位弓(そういきゅう) |
別名「吹寄藤」。握り上22箇所(七-五-三-七)、握り下15箇所(三-五-七)。意図的に疎密をつけた、非対称で意匠性の高い様式 1 。 |
御所での鳴弦の儀など、神聖な儀式で使用。武威よりも、洗練された美意識と儀礼的な権威を象徴する 1 。 |
この比較から明らかになるのは、免許弓が単なる上下関係にあるのではなく、それぞれが異なる思想と美学を体現しているという事実である。重藤弓が、藤を「重く」巻くことで武威と権力の重厚さを表現しているのに対し、相位弓は藤の配置に「遊び」と「意匠」を取り入れることで、より洗練された文化的・儀礼的な権威を示している。この違いは、それぞれの弓が用いられる場面の違いに直結している。
相位弓が担う役割は、戦場の殺伐とした雰囲気とは一線を画す、極めて神聖かつ儀礼的なものであった。資料によれば、相位弓は宮中で行われる「鳴弦の儀(めいげんのぎ)」に用いられる弓であったと明記されている 1 。鳴弦の儀とは、弓の弦を強く弾いて音を鳴らし、その音によって魔物や邪気を祓うという、古来より伝わる神聖な儀式である。この儀式に用いられるということは、相位弓が単なる武具ではなく、神事や祭祀を執行するための「祭器」としての性格を色濃く帯びていたことを示している。
また、相位弓は「丸物(まるもの)」と呼ばれる特殊な的を射る際にも使用された 1 。丸物とは、約24センチメートルの円形に切った堅木の板であり、これを射ることは通常の的射とは異なる高度な技量と精神性が求められる、一種の儀礼的な射礼であったと考えられる。これらの用途は、相位弓が実戦の場ではなく、宮廷や神前といった清浄な空間で、天下泰平や除災招福を祈るという、極めて象徴的で高貴な役割を担っていたことを雄弁に物語っている。
相位弓の格式と役割を理解した上で、次はその物理的な「形」、すなわち構造と意匠に目を向けなければならない。特にその別名ともなっている「吹寄藤」という様式は、日本の伝統的な美意識が凝縮された、類まれなデザインである。
相位弓が製作されたであろう戦国時代から江戸初期にかけて、和弓の製造技術は一つの完成期を迎えていた。この時代の主流であったのは「弓胎弓(ひごゆみ)」と呼ばれる構造の弓である 13 。これは、弓の中心となる芯材に無数の竹籤(たけひご)を束ねて用い、その外側を側木(そばき)と呼ばれる硬木と、外竹(とだけ)と呼ばれる強靭な竹で挟み込み、膠(にべ)で接着して一体化させた複合弓である 13 。この複雑な構造により、弓は驚異的な弾力性と反発力、そして高い耐久性を獲得した。近年の考古学的発見により、この弓胎弓の技術は戦国時代後期には既に完成していたことが確認されている 14 。
そして、この弓胎を湿気や乾燥から保護し、さらなる強度を与えるために、その表面には漆が丁寧に塗り重ねられた 1 。漆塗りの工程は極めて高度な職人技であり、下地から上塗りまで幾重にも塗り重ね、その都度適切な温度と湿度の中で乾燥させる必要があるため、完成までには数ヶ月、時には一年以上の歳月を要することもあった 16 。相位弓の深く艶やかな黒漆は、こうした時間と手間を惜しまぬ職人の技の結晶なのである。
黒漆で仕上げられた弓胎の上には、さらに「藤(とう)」が巻かれる。ここで言う藤とは、植物のフジ(wisteria)ではなく、ヤシ科の蔓性植物であるラタン(rattan)を指す。この藤を弓に巻き付けることには、二つの重要な目的があった。第一に、実用的な機能として、弓胎を構成する竹や木といった複数の部材が剥離するのを防ぎ、弓全体の結合力を高めるという補強の役割である 9 。
第二に、装飾的な機能である。藤の巻き方、間隔、箇所数に変化をつけることで、弓に多様な表情と格式を与えることができた。藤巻の工程自体も熟練を要する作業であり、乾燥した藤の蔓を長時間水に浸して柔らかくした後、弓胎に強く、隙間なく巻き付けていく 21 。そして、藤が乾燥する過程で収縮する力を利用して、弓を強力に締め上げるのである 21 。この藤巻の様式こそが、弓の性格を決定づける重要な要素となった。
相位弓を他の全ての弓から区別する最大の特徴は、その別名ともなっている「吹寄藤(ふきよせどう)」という他に類を見ない藤巻の様式にある。複数の資料が一致して伝えるところによれば、その様式は以下の通りである 1 。
この配置が持つ意味は大きい。第一に、それは意図的な「非対称性」と「不規則性」のデザインである。握りの上下で藤の総数も配置パターンも異なっている。第二に、それは「疎密のリズム」の創出である。七、五、三と数が減っていく流れと、再び七に戻る変化は、単調な等間隔の繰り返しとは全く異なる、音楽的なリズム感を生み出している。
この特異なデザインは、単なる思いつきや偶然の産物ではない。それは、「吹寄」という日本の伝統的な美意識を、弓という立体物の上に意図的に具現化したものに他ならない。
「吹寄」とは、もともと風に吹かれた木の葉や花びらが、ひとところに寄せ集まった風情を指す言葉である 23 。このモチーフは、着物の文様、蒔絵や陶器の意匠、和菓子の盛り合わせ、さらには建築における天井の竿縁の配置(吹寄天井)など、日本の文化のあらゆる場面で愛されてきた 25 。吹寄の美の本質は、完全な均整や秩序ではなく、自然の偶然が生み出す「ゆらぎ」や「不揃いの調和」にある 28 。
相位弓の「七-五-三-七」という藤の配置は、まさにこの「吹寄」の美学を体現している。それは、あたかも秋風が紅葉や松葉を舞い上がらせ、弓の上に偶然降り積もらせたかのような、自然で作為のない風情を醸し出す。製作者は、単に藤を巻くという作業を行っていたのではない。彼らは、弓の上に「吹寄」という詩的な風景を創造しようとしていたのである。このように、相位弓においては、その「吹寄藤」という名称と、物理的な意匠とが分かちがたく結びついており、弓そのものが一つの芸術作品として完成されていることがわかる。
相位弓の持つ高度な儀礼性と芸術性は、それが生まれたであろう戦国時代という背景と切り離して考えることはできない。鉄砲が伝来し、合戦の様相が激変する中で、なぜこのような非実戦的な、洗練を極めた弓が必要とされたのか。その答えは、当時の武将たちが抱いていた特有の美意識と、武具が担っていた政治的・社会的な役割の中に見出すことができる。
戦国時代は、下剋上に象徴されるように、旧来の権威が失墜し、実力のみがものを言う時代であった。しかし、その一方で、武将たちは自らの力を内外に示すため、武具に対してかつてないほどの自己表現を求めた。甲冑や刀装具は、単なる戦闘のための道具ではなく、持ち主の思想、権威、そして美意識を雄弁に物語るメディアとなったのである 30 。
武田信玄が率いた部隊の「赤備え」は、戦場で目立つ赤色をあえて用いることで、その武勇と精強さを誇示するものであった 30 。伊達政宗の有名な「黒漆塗五枚胴具足」は、その漆黒の統一された色彩と巨大な三日月の前立によって、他に類を見ない圧倒的な存在感を放ち、彼のカリスマ性を象徴した 32 。また、真田幸村の鹿角をあしらった兜や、黒田官兵衛の「赤合子」と呼ばれた奇抜な形の兜も、戦場において自らのアイデンティティを際立たせるための強力な装置であった 30 。
このような文脈で相位弓を捉え直すと、その洗練された意匠が持つ意味が明らかになる。実用的な補強という目的をはるかに超えた「吹寄藤」という様式は、まさに戦国武将が甲冑や刀装具に込めた美意識と軌を一にするものである。それは、所有者が単なる武勇だけの人物ではなく、小笠原流の格式を理解し、その高度な儀礼を執り行うに足る文化的素養と正統性を持つ支配者であることを、沈黙のうちに語る。戦国大名が相位弓を所有し、あるいは儀礼の場で用いることは、著名な茶器を所持することや、特異な意匠の甲冑をまとうことと同質の、極めて高度な文化的・政治的パフォーマンスであったと推察される。
戦国時代の外交において、贈答品の交換は極めて重要な役割を果たした。大名たちは、刀剣、馬、鷹、茶器といった価値ある品々を盛んにやり取りすることで、同盟の確認、忠誠の要求、あるいは威信の誇示といった、複雑な政治的メッセージを伝達していた 31 。これらの贈答品は、その物理的な価値以上に、それに付随する「物語」や「格式」といった象徴的な価値が重視された。
この観点から、相位弓が贈答品として用いられた可能性は非常に高いと考えられる。相位弓は、そのもの自体の製作に高度な技術と長い時間を要する高価な品であると同時に、「小笠原流第三位の免許弓」という、金銭には換算できない絶大な「格式」と、「御所の鳴弦の儀に用いられる」という「希少性」を兼ね備えている。
ある大名が別の有力大名や重臣に相位弓を贈るという行為は、単に高価な弓を贈る以上の意味を持つ。それは、「我々は、武家の正統な故実と礼法を共有する、文化的に高い次元にある者同士である」というメッセージの発信に他ならない。受け取った側にとっても、それは自らのステータスを内外に示す強力な証となり、両者の間には武力による同盟関係だけでなく、文化的な共感に基づいたより強固な絆が生まれる。このように、相位弓は、戦国時代の激しい権力闘争の裏で繰り広げられた、洗練された外交ゲームにおける切り札の一つとして機能した可能性が十分に考えられるのである。
相位弓を構成する要素の中で、最も深い思索を促すのが、その「相位」と「吹寄」という名称、そして素材である「藤」に込められた文化的な意味である。これらの言葉は、単なる記号ではなく、日本の伝統的な世界観や思想を内包している。
「相位」という言葉は、現代日本語では一般的に「位相」と表記され、物事が変化していく中でのある「段階」や「局面(フェーズ)」を意味する。小笠原流の免許階梯における「第三階」という位置づけは、この意味と直接的に符合する。つまり、射手の修行がある特定の「相位」に到達したことを示す弓、と解釈できる。
しかし、この言葉にはさらに深い意味が隠されている可能性がある。宮古島の信仰に関するある研究資料には、「相位とは位置のこと」であり、特に「神の存在ありよう、ある場所(聖地)」を指すという興味深い用法が記録されている 35 。この解釈を適用するならば、「相位弓」という名称は、二重の意味を持つことになる。
この視点から、小笠原流礼法の核心に触れることができる。小笠原流が説く礼法とは、単なる形式的な作法ではない。それは、「時、所、対人関係における自分の位置をわきまえて礼を行」うこと、すなわち、流動的な状況の中で自らが立つべき「相位」を正しく認識し、それにふさわしい振る舞いをすることこそが本質である、と教える 36 。
これらの考察を統合すると、「相位弓」という名称に込められた重層的な意味が浮かび上がってくる。それは、
第二章で論じた「吹寄」の意匠についても、その美的価値の源泉をさらに深く探る必要がある。吹寄文様は、紅葉や松葉、銀杏といった秋の風物が風に舞い、集まる様を描いたものであり、季節の移ろいや、それに対する「もののあはれ」といった、日本文化に固有の感受性を強く反映している 24 。
それは、単に「いろいろなものを寄せ集めた」だけのデザインではない 27 。その根底には、完全な対称性や幾何学的な秩序よりも、自然の移ろいの中に現れる偶然性や非対称性の中にこそ、真の美と調和を見出そうとする日本人の自然観がある。風に舞う木の葉は、一枚一枚が異なる形を持ち、その動きは予測不可能である。しかし、それらが集積した様は、不思議な統一感と詩的な風情を醸し出す。相位弓の「吹寄藤」は、この自然が生み出す秩序、すなわち「不揃いの調和」という高度な美学を、弓という武具の上に表現しようとした試みなのである。
最後に、この弓を構成する重要な素材である「藤」という文字が持つ、豊かな象徴性について考察する。弓に巻かれる素材はヤシ科の「藤(とう)」であるが、その表記に用いられる「藤(ふじ)」の字は、日本文化において極めて強力なシンボルとして機能してきた。
第一に、植物の藤(フジ)はその旺盛な生命力と、他の木に蔓を絡ませて長く伸びていく性質から、「子孫繁栄」や「長寿」の象徴とされてきた 37 。また、「ふじ」という音が「不死」に通じることから、極めて縁起の良い植物と見なされた 40 。
第二に、歴史的に藤原氏が自らの姓の象徴としてこの花を愛好したことから、「藤」は「高貴さ」や「雅」のシンボルとなった 37 。その優美な紫色は高貴な色とされ、『万葉集』の時代から数多くの和歌に詠まれ、日本人の美意識の根幹をなす花の一つであった 40 。
これらの象徴性を踏まえると、相位弓に「藤」を用いるという選択は、単に物理的な補強材として適していたからという理由だけでは説明できない。そこには、藤という植物が持つ「繁栄」「長寿」「高貴」「不死」といった、ポジティブで強力な呪術的ともいえる力を、武具である弓に付与し、その力を所有者にもたらそうとする文化的な意図があったと考えられる。戦国武将が甲冑に神仏の意匠を施して加護を願ったように、相位弓の藤巻は、弓を強化する「機能」、吹寄の「美」、そして藤の象徴性がもたらす「思想・呪力」が一体となった、極めて重層的な文化的行為であったと結論付けられる。
本報告書を通じて行ってきた多角的な分析の結果、相位弓が単なる武具や階級章といった一次元的な存在ではないことが明らかになった。それは、小笠原流が800年以上にわたって追求してきた武家の理想が、一本の弓という形に見事に結晶した、類まれな文化的統合体である。
第一に、それは**「武」**の象徴である。弓胎弓という当代最高の技術で造られ、小笠原流の免許階梯の第三位という、極めて高い武技の練度を証明する。
第二に、それは**「礼」**の体現である。武家故実の最高権威である小笠原流の儀礼において中心的な役割を担い、特に鳴弦の儀のような神聖な場で用いられることで、社会の秩序と安寧を祈るという武士の公的な責任を象徴する。
第三に、それは**「美」**の結晶である。日本の伝統的な美意識である「吹寄」をその意匠に取り入れ、素材である「藤」の持つ豊かな象徴性を重ね合わせることで、単なる道具の域を超えた、高度な芸術作品へと昇華されている。
特に、戦国時代という視点からこの弓を見るとき、その意義はさらに深まる。実利と実力が全てを支配するかに見えたあの激動の時代にあって、相位弓のような高度に様式化され、洗練を極めた儀礼弓が尊重され、求められたという事実は、逆説的に当時の武将たちが「力」だけでは満たされない精神的な渇望を抱いていたことを示している。彼らは、自らの権威を正当化し、その支配に永続性を与えるために、「文化」や「格式」、「正統性」といった無形の価値を渇望し、それを相位弓のような形で可視化することを求めたのである。
そして、相位弓の物語は過去のもので終わらない。この弓は歴史の遺物ではなく、現代においても小笠原流の御用弓師(小山弓具の故・小山雅司氏など)の手によってその伝統技術が受け継がれ、製作されている 44 。そして、全国各地の神社で執り行われる奉納射礼など、現代の儀式の場においても実際にその役割を果たし続けている 47 。この事実は、相位弓に込められた武・礼・美の精神が、鎌倉、室町、戦国、江戸という時代の変遷を乗り越え、現代にまで脈々と生き続けていることの力強い証左である。相位弓は、日本の武家文化が生み出した、時代を超える価値を持つ、生きた伝統なのである。