『神当流音捨巻』は、塚原卜伝の武道哲学を馬術で具現化した伝書。「音を捨てる」とは、禅の放下着、武道の捨身、芸道の秘すれば花に通じる。人馬一体の雑音を捨て、気配を断つ極意。
本報告書は、剣豪・塚原卜伝(つかはら ぼくでん)の流派に伝わるとされる、謎に満ちた伝書『神当流音捨巻(しんとうりゅうおんしゃのまき)』について、戦国時代という歴史的背景と、日本の武道・芸道に流れる思想的文脈から、その実像と核心に迫ることを目的とする [User Query]。
『神当流音捨巻』は、神(新)当流馬術の極意を記した書とされ、その存在は一部で知られているものの、具体的な内容を記した一次史料は今日まで確認されておらず、その実態は厚いヴェールに包まれている 1 。この現状を踏まえ、本調査は単なる文献の提示に留まるものではない。むしろ、「音を捨てる」という巻物の名称そのものを解読の鍵とし、卜伝の武道哲学、戦国期の馬術、そして禅や神道、能楽といった関連分野の思想を援用することで、その多層的な意味を解き明かすことを試みる。
調査を進めるにあたり、まず明確にすべき前提が二つ存在する。
第一に、 二つの「新当流」の峻別 である。塚原卜伝が創始した剣術中心の「鹿島新當流(かしましんとうりゅう)」と、時代を下った江戸時代前期に近江彦根藩士・神尾織部吉久(かんお おりべ よしひさ)が創始した馬術流派「新当流」は、名称こそ同じだが系譜を異にする別個の流派である 2 。後者は特に、言うことを聞かない「悪馬(あくば)・難馬(なんば)」を矯正する技術に長けていたことから「悪馬新当流」とも呼ばれた 2 。本報告書で探求する『神当流音捨巻』は、あくまで塚原卜伝の思想的文脈に位置づけられるものであり、この峻別は議論の正確性を期す上で不可欠である。
第二に、 名称解読の重要性 である。日本の武芸や芸道において、師から弟子へと伝えられる伝書、特に流派の奥義を記したものは、単なる技術解説書ではなく、その道の哲学や究極の境地を象徴的な言葉で示す「芸道論」としての性格を色濃く帯びる 5 。その名称自体が、流派の思想が集約された「道標」となることは稀ではない 6 。したがって、『音捨巻』という名称は、単なる標題ではなく、その核心に迫るための最も重要な手がかりであると仮定する。本報告書では、この「音」と「捨」という二つの漢字に込められた哲学的・文化的背景を徹底的に掘り下げ、そこから『神当流音捨巻』の思想的本質を再構築していく。
『神当流音捨巻』の思想的背景を理解するためには、まずその祖とされる塚原卜伝という人物の生涯と、彼が確立した武道哲学の特質を深く知る必要がある。卜伝の武芸は、単一の源流から生まれたものではなく、神道的な精神性、体系的な武術理論、そして過酷な実戦経験という三つの要素が弁証法的に統合された結果、形成されたものである。
塚原卜伝(幼名:朝孝)は延徳元年(1489年)、常陸国(現在の茨城県)に生を受けた 9 。その生家である卜部吉川家(うらべよしかわけ)は、武神・武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)を祀る鹿島神宮の神官(祝部)を務める名家であった 10 。鹿島は古来より武道発祥の地とも称され、神道における「禊祓(みそぎはらえ)」の思想、すなわち心身の穢れを祓い清めることで本来の清浄な状態に立ち返るという考え方や 13 、神の剣の威光を体現する「神妙剣(しんみょうけん)」の理念は 12 、卜伝の武術の精神的根幹を形成したと考えられる。
彼は幼少期より実父・吉川覚賢から、神話の時代に国摩真人(くになずのまひと)がタケミカヅチより授かったとされる「鹿島の太刀」の系譜を引く「鹿島中古流(かしまちゅうこりゅう)」の手ほどきを受けた 10 。これが、後に剣聖と謳われる卜伝の武芸の原点となったのである。
卜伝が10歳の時、その剣才を見込まれ、塚原城主・塚原安幹(つかはら やすもと)の養子となる 10 。この塚原家もまた剣術の名家であり、飯篠長威斎家直(いいざさ ちょういさい いえなお)を流祖とする「天真正伝香取神道流(てんしんしょうでんかとりしんとうりゅう)」を修める一族であった 10 。
天真正伝香取神道流は、剣術のみならず、居合、槍、薙刀、柔術などを含む、兵法三大源流の一つに数えられる総合武術である 11 。卜伝はここでも天賦の才を発揮し、十代半ばにして二つの流派を修得した 10 。これにより彼は、関東武術の二大源流である鹿島と香取の教えを一身に体得し、後に独自の流派「鹿島新當流」を創始するための、比類なき強固な基盤を築き上げたのである。
元服後、17歳にして武者修行の旅に出立した卜伝は、約束された小領主としての未来を捨て、自らの腕と運を試す道を選んだ 9 。当時の京都は戦乱の只中にあり、彼は足利将軍家に仕え、数多の実戦を経験する。生涯で戦場に立つこと37回、真剣勝負19回、そのいずれにも敗れることなく、212人の敵を斬り倒したと伝えられる 9 。この経験は、彼の技術を単なる道場の剣術ではない、甲冑を着用した敵を確実に制するための、極めて実戦的なものへと昇華させた 10 。
諸国での修行を終えて故郷の鹿島に戻った卜伝は、鹿島神宮に千日参籠し、修行に励んだ 20 。そしてついに、「心を新たにして事に當れ」との神託を受け、鹿島の太刀の極意である「一の太刀(ひとつのたち)」を開眼したと伝えられる 12 。この神託こそが、彼の流派を「新當流」と名付ける由来となったのである 12 。この「一の太刀」とは、単なる必殺技ではなく、「自分も相手も存在せず、ただ無心で太刀とひとつになる」という、自己と他者の対立を超克した無心の境地そのものを指していた 10 。
数多の修練と実戦を経て卜伝が到達した武道の究極的な境地は、単に敵を殺傷する「殺人剣(さつじんけん)」ではなく、無益な争いを避け、人や社会を活かす道としての「活人剣(かつじんけん)」であった 21 。血で血を洗う戦国時代にあって、このような平和思想に至ったことは、彼が単なる武芸者ではなく、深い思索を重ねた哲学者でもあったことを示している 22 。
この思想は、有名な「無手勝流(むてかつりゅう)」の逸話に象徴されている。渡し船で血気にはやる武芸者に勝負を挑まれた卜伝は、刀を交えることなく、機転を利かせて相手を島に取り残し、「戦わずして勝つ、これが無手勝流よ」と諭したという 24 。これは、力ではなく知恵や策略によって相手の戦意を削ぎ、争いを未然に防ぐことの重要性を説くものである 26 。この「戦いを捨てる」という高度な境地は、後に詳述する『音捨巻』の「捨」の思想と深く共鳴している 27 。
卜伝が提唱した「活人剣」の理念は、後の時代に柳生新陰流が徳川将軍家の兵法として大成させた「活人剣」の思想的源流の一つと位置づけることが可能である 29 。両者ともに、武術の目的を個人の勝利から、自己の人格完成や社会の安寧といったより高次の次元へと昇華させている点で、時代を超えた共通性が見出せる。
鹿島新當流は、剣術を中核としながらも、戦場のあらゆる状況に対応するための包括的な武術体系、すなわち「兵法」として構築されていた。その中で、馬術は不可欠な要素として位置づけられていたと考えられる。
鹿島新當流は、剣術をその表芸としながらも、槍術、薙刀術、体術(柔術)、そして弓馬術などを含む総合武術であった 11 。これは、戦場の多様な局面、例えば馬上での戦闘、下馬しての白兵戦、甲冑をまとった敵との組討など、あらゆる状況に対応するための必然的な構成であったと言える 10 。その技法は、甲冑の構造的弱点である小手、喉、脇などを的確に突き、あるいは斬ることを想定しており、極めて実戦的であった 12 。この「身は深く与え、太刀は浅くして心はいつも懸りにて在り」という口伝は 12 、自らの身を捨てて敵を制する捨身の覚悟を示すもので、甲冑武術ならではの思想を反映している。
戦国時代の武将にとって、馬術は単なる移動手段に留まらず、戦場で軍を指揮し、自らの威厳を示す上で必須の武芸であった 36 。卜伝自身も、諸国を廻る際に多数の門人や馬を引き連れていたとされ 2 、馬術の重要性を深く認識していたことは疑いようがない。
また、鹿島に伝わる武術の系譜を引く諸流派が、現在でも騎射(流鏑馬)などを神事として伝承している事実は 40 、鹿島の武術体系に元来、馬術が不可分な要素として組み込まれていたことの有力な傍証となる。鹿島神流では、古剣術を基盤として武芸十八般を修練し、その中に騎馬術の併修を続けることで「日本の真理」を探求するとされている 40 。これは、剣術と馬術が別個の技術ではなく、一つの「道」の理合として統合的に捉えられていたことを示唆している。
鹿島新當流が単なる一介の剣術流派に留まらなかったことは、その高弟たちの顔ぶれからも明らかである。伊勢国司であった北畠具教(きたばたけ とものり)は、卜伝を師と仰ぎ、その秘剣「一の太刀」を直伝された剣豪大名として知られる 12 。彼は自らも武芸を奨励し、上泉信綱や柳生宗厳といった名だたる武芸者たちとの交流の橋渡し役も務めた 44 。
また、卜伝晩年の門人である松岡兵庫助則方(まつおか ひょうごのすけ のりかた)は、後に天下人となる徳川家康に兵法師範として招かれ、「一の太刀」を伝授したとされている 2 。
これらの事実は、鹿島新當流が、北畠具教のような有力大名や、松岡兵庫助を通じて徳川家康という天下人にまで影響を及ぼしたことを示している。これは、この流派が単なる個人の武技ではなく、大名家の軍学や武家社会の根幹を支える重要な「兵法」として高く評価されていたことの証左に他ならない。そして、馬術を含む総合的な武術体系であったからこそ、武家の棟梁たる人物たちの要請に応え、その卓越した地位を確立し得たのである。
『神当流音捨巻』が馬術の伝書である以上、その内容を考察するには、戦国時代における馬と武士の関係、そして馬術の実態を正確に理解する必要がある。
戦国時代の合戦における騎馬武者の役割は、しばしば映画や小説で描かれるイメージとは異なり、その戦略的価値と限界を併せ持っていた。
平安時代から鎌倉時代にかけて、一騎討ちに象徴されるように騎馬武者は合戦の主役であった 46 。しかし、応仁の乱以降、足軽による集団戦が主流となると、その役割は大きく変化する 47 。戦国時代における騎馬武者の主な役割は、指揮官の移動や戦況の把握、部隊への指揮伝達、あるいはその高い機動力を活かした偵察、奇襲、追撃といった局地的な運用が中心となった 38 。
武田信玄の「騎馬隊」は特に有名であるが、近年の研究では、その実態は他の大名家と比べて騎馬武者の割合が突出して高かったわけではなく、ヨーロッパの重装騎兵のような大規模な集団突撃戦術が用いられた可能性は低いと考えられている 46 。その理由の一つとして、当時の日本の馬が木曽馬などの在来種であり、現代のサラブレッドに比べて小柄であったことが挙げられる 38 。数十キログラムにも及ぶ甲冑をまとった武者を乗せての長時間の高速戦闘には物理的な限界があり、多くの場合、本格的な戦闘時には下馬して戦ったとされている 46 。
しかし、これは騎馬での戦闘が全く無かったことを意味しない。「乗り入れ」や「乗り込み」といった記録が示すように、乱戦の中で数騎から十数騎の騎馬武者が小集団で敵陣に突入し、その衝撃力で戦況を打開する場面は十分に想定される 50 。南北朝時代には、弓矢を主装備とする伝統的な騎射騎兵に加え、太刀や長巻、薙刀などで斬り結ぶ「打物騎兵」が登場しており、馬上での白兵戦技術は確かに存在し、発展していた 47 。塚原卜伝の流派における馬術も、こうした個人の戦闘技術を極限まで高めることを目的の一つとしていた可能性が高い。
戦場での役割が変化したとはいえ、馬を所有し、巧みに乗りこなすことは、高い身分と経済力を持つ武士の象徴であり続けた 36 。織田信長や伊達政宗といった名だたる武将たちが名馬をこよなく愛し、壮麗な厩舎を構えた逸話は数多く残っている 53 。馬は単なる移動手段や兵器ではなく、主の威光を示す重要なステータスシンボルだったのである。
また、馬具、特に鞍は、持ち主の権威と富を示すための豪華な装飾が施された美術工芸品でもあった 54 。さらに、馬術の稽古には、高位の人物に対する礼法や、馬上での指揮の執り方といった武家社会の作法が不可分に組み込まれており、統治者としての必須の嗜みとして極めて重要視されていた 36 。
高度な馬術の要諦は、乗り手と馬が一体となる「人馬一体」の境地にある。これは、単なる技術を超えた、精神的な調和の領域にまで踏み込むものである。
人馬一体とは、乗り手の微細な身体操作によって馬を自在に制御すると同時に、馬の「気のおこり」、すなわちその意図や感情の兆候を事前に察知する能力を意味する 40 。これは、馬の筋肉の僅かな緊張や呼吸の変化から、次に馬がどのような行動を取ろうとしているかを読み取る、高度な感受性である。
この境地は、丹田(へその下あたり)を意識して重心を安定させ、上半身の余計な力を抜き、乗り手と馬の中心軸(正中線)を一致させることで達成されると説かれる 40 。これは、剣術における身体操作の極意とも完全に共通する原理であり、武術の根底に流れる普遍的な理合を示している。馬を意のままに操ることは、単なる技術の習熟ではなく、自然の理法と一体になることであり、武士道の精神的な修養にも繋がると考えられていた 40 。
本報告書で扱う塚原卜伝の「鹿島新當流」と、歴史的に混同されがちな神尾織部の「新当流馬術」の差異を明確にするため、以下にその特徴を比較する。これにより、以降で展開される『音捨巻』の哲学的考察が、あくまで塚原卜伝の思想的文脈に根差したものであることを明確に示したい。
項目 |
鹿島新當流(塚原卜伝) |
新当流馬術(神尾織部) |
典拠 |
創始者 |
塚原卜伝高幹 |
神尾織部吉久 |
2 |
時代 |
戦国時代(16世紀) |
江戸時代前期(17世紀) |
2 |
本拠地 |
常陸国 鹿島(茨城県) |
近江国 彦根(滋賀県) |
2 |
主たる武術 |
剣術(兵法)を中心とする総合武術 |
馬術 |
2 |
特徴 |
活人剣、一の太刀、甲冑武術 |
悪馬・難馬の矯正 |
2 |
別称 |
卜伝流、神当流 |
悪馬新当流 |
2 |
思想的背景 |
鹿島神宮の神託、「心を新たにして事に當れ」 |
(詳細不明だが)実用的な調教術 |
2 |
この比較から明らかなように、神尾織部の流派が「悪馬を御す」という具体的な課題解決に特化した、いわば実利的な「技術論」としての性格が強いのに対し、塚原卜伝の武術体系における馬術は、より包括的な「兵法」の一部であり、精神的な側面を強く含む「思想論」としての性格を併せ持っていたと推察される。『音捨巻』のような哲学的で深遠な名称は、実利を主眼とする神尾の流派よりも、精神性を重んじる卜伝の流派にこそ相応しいと言えるだろう。
『神当流音捨巻』の直接的な内容は不明であるが、その名称「音を捨てる巻」は、流派の極意を解き明かすための最大の鍵となる。ここでは、「捨」と「音」という二つの概念を、日本の伝統的な思想的文脈から深く掘り下げることで、その核心に迫る試みを行う。
「捨」という行為は、日本の精神文化において、単なる放棄や廃棄を意味しない。それは、本質に到達するための、能動的で積極的な方法論であった。
禅の教えの中に、「放下着(ほうげじゃく)」という言葉がある。これは、一切の思慮分別、執着、こだわりを捨て去れ、という究極の教えである 56 。所有している物だけでなく、地位や名誉、過去の成功体験、さらには「自分はこれだけのものを捨てた」という自負心すらも捨て去る、徹底した無の境地を目指す 57 。
我々は、様々なものを身にまとい、それらを自分自身と同一視することで苦しむ。しかし、禅は、それらが本来の自分ではない「外来底」のものであると説き、それらを「捨てる」こと、「放つ」ことこそが、真の自己に目覚める道であると教える 58 。この思想は、苦しみの根源である「我」や執着から自らを解放し、本来の清浄な心に立ち返ることを目的とする 56 。
この「捨」の思想は、武道の世界にも深く浸透している。鹿島新當流の口伝に「身は深く与え、太刀は浅く残して、心はいつも懸りにて在り」とあるのは 12 、まさに「肉を切らせて骨を断つ」という「捨身(しゃしん)」の覚悟を示している。これは、鎧で守られた自らの身体の一部を、敢えて相手に打たせるというリスクを受け入れることで、より確実な一撃を相手の急所に加えるという、自己の損傷を「捨てる」覚悟に基づいた高度な戦術思想である。
さらに、塚原卜伝の「無手勝流」は、刀を交えるという行為そのものを「捨てる」境地と言える。争いの種を未然に摘み、あるいは機転によって戦いを回避することは 24 、物理的な勝利を超えた、真の「活人」の実践に他ならない。それは、目先の勝ち負けという執着を「捨てる」ことで、より大きな調和を得るという、高度な精神性を示している。
「捨」の美学は、武道のみならず、日本の伝統的な芸道にも共通して見られる。例えば、鎌倉時代の時宗の開祖・一遍上人は、和歌の中で次のように詠んだ。
捨ててこそ 見るべかりけれ 世の中を すつるも捨てぬ ならひ有とは 63
これは、世の中の執着を捨ててこそ本質が見えるが、その「捨てる」という行為自体へのこだわりすらも捨て去るべき境地がある、という究極の「捨」の思想を示している。また、俳諧の世界でも、余分な言葉を削ぎ落とし、捨てることで、より深い情景や余韻を生み出す美学が追求された 64 。
このように、「捨」という概念は、禅、武道、芸道といった日本の精神文化に共通して流れる、核心的な思想であると分析できる。それは、 不要なものを削ぎ落とし、本質を露わにするための能動的な方法論 なのである。『音捨巻』の「捨」もこの文脈にあり、馬術における余計な力み、恐怖心、技術への固執といったあらゆる「執着」を捨て去ることの重要性を説いていたと強く推測される。
『音捨巻』のもう一つのキーワードは「音」である。しかし、武芸の極意における「音」とは、単に耳で聞こえる物理的な音響(サウンド)を指すのではない。それは、心の耳で聴くべき「気配(けはい)」や「兆候」といった、より深遠な概念と結びついている。
武術の極意は、相手が動き出す前の兆候、すなわち「気のおこり」を察知することにある 40 。これは、耳に聞こえる物理的な音ではなく、心で感じる「音」、すなわち相手の殺気や意図の萌芽を捉える感覚である。柳生新陰流の伝書『兵法家伝書』にも「敵の機を見るを一刀と秘するなり」とあるように、この目に見えない「機」を見抜くことが勝敗を分ける 7 。
逆に、自らの意図を相手に悟らせないためには、殺気や予備動作といった、こちら側の「気配(音)」を消す技術が求められる 65 。『兵法家伝書』では、水鳥が水面下で必死に足を動かしながらも水上では静かに浮かんでいる様に例え、内なる陽(動)を外なる陰(静)で包み、気配を外に漏らさないことの重要性を説いている 67 。剣術の稽古において、すり足が用いられるのも、地面の下にうごめく大地の霊的な力との交感を意識し、むやみに神気を発動させないための気遣いであったという解釈もある 68 。
この「音を捨てる」思想は、能を大成させた世阿弥(ぜあみ)の芸道論『風姿花伝(ふうしかでん)』と通底する部分がある。世阿弥は、芸の核心は観客から見えない部分、秘することにあると説いた。「秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず」 69 。手の内をすべて明かしてしまえば、観客の心に咲く感動(花)は生まれない、というのである。これは、技(音)を安易に顕在化させず、内に秘めることによって、より深い価値や効果を生み出すという思想である。この観点から、『音捨巻』の思想は、技を誇示せず、気配を消し、静寂の中から一撃を繰り出す、あるいは戦いを未然に防ぐという、
「見せないこと」「聞かせないこと」の強さ を説いているのではないか、という仮説が成り立つ。
そもそも日本文化は伝統的に、音に対して独特の感性を育んできた。西洋文化が音楽を楽音と騒音に二分し、旋律や和声の構築性を重視するのに対し、日本文化は自然界の音(虫の音、風の音、鹿威しなど)に深い情緒や意味を見出し、それを愛でる感性を持つ 70 。これは、音を単なる物理現象としてではなく、精神的な気配や情景と結びつけて捉える文化の現れである 71 。
一方で、明確な旋律や和声よりも、「間(ま)」や静寂を重視する傾向がある 73 。現代音楽家ジョン・ケージの有名な作品『4分33秒』は、演奏者が一切音を出さないことで、その場に存在する環境音そのものを音楽として提示する試みであったが、これは日本の禅の思想に深く影響を受けていると言われている 74 。
『音捨巻』は、こうした日本の「音」に対する独特の文化的・思想的背景から生まれた伝書である可能性が極めて高い。その目指すところは、西洋的な意味での完全な「無音(silence)」ではなく、**気配や予兆に満ちた、生きた「静寂(stillness)」**の境地であったと推察される。
以上の多角的な考察から、『神当流音捨巻』の核心に迫る。それは、単なる技術論ではなく、精神と技術が一体となった「道」の教えであったと考えられる。
『神当流音捨巻』の核心は、**「乗り手と馬との間、そして自身と敵との間に存在する、物理的・精神的な一切の『雑音(ノイズ)』を捨て去り、完全なる調和と一体化を達成する境地」**を説くものであったと結論づける。これは、塚原卜伝の「活人剣」思想を馬術という特定の武芸において具現化するための、最高位の心法であり、同時にそれを実現するための技術論であった。具体的には、以下の四つの側面から解釈することができる。
乗り手が馬に与える指示(扶助)から、荒々しい「音」を捨てること。具体的には、手綱を乱暴に引く、脚で強く圧迫する、大声で叱咤するといった、直接的で大きな操作を排する。その代わりに、呼吸、気の流れ、微細な重心移動といった、**外部からはほとんど感知できない「無音の扶助」**によって馬と対話し、意のままに操る至高の技術を指していたと考えられる。これは、馬に恐怖や反発を与えることなく、自発的な協力を引き出すための、極めて高度なコミュニケーション術である。
乗り手自身の心の中から生じる「音」を捨てること。戦場における恐怖、勝利への焦り、敵への怒り、功名心といった感情の乱れは、必ずや馬に伝わり、人馬の関係を損なう最大の雑音となる。禅の「放下着」のように、これらの内なる雑音を捨て去り、 「明鏡止水(めいきょうしすい)」の心境 を保つこと。これにより初めて、乗り手は馬の微細な気配を感じ取り、真の人馬一体が可能となる。刀を握る手が己の心を映す鏡であるように、手綱を握る手もまた、乗り手の精神状態を馬に伝える媒体なのである。
馬が発する恐怖や抵抗の「音」(嘶き、暴れる動きなど)を、力で抑えつけるのではない。その兆候を事前に察知し、馬が安心するよう導くことで、そうした「音」が発せられること自体を未然に防ぐこと。これは馬を力で支配するのではなく、 馬と対話し、深い信頼関係を築く という思想である。まさに「活人剣」ならぬ「活馬の術」とでも言うべき、生命への敬意に基づいた哲学がそこにはある。
敵に対して、自らの存在や意図を知らせる一切の「音(気配)」を捨てること。馬の足音、武具の擦れる音、そして何よりも乗り手の殺気。これらを極限まで抑制し、静寂の中から必殺の一撃を放つ、あるいは敵に気づかれることなく戦場を離脱する。これは、卜伝の「無手勝流」を実戦で可能にするための、究極の隠密行動術とも解釈できる。音を捨て、気配を断つことで、敵の意表を突き、戦わずして勝利する、あるいは最小限の力で目的を達成する道が開かれるのである。
本報告書における徹底的な調査と多角的な考察の結果、『神当流音捨巻』は、単なる馬術の技術書ではなく、剣聖・塚原卜伝がその生涯を通じて到達した「活人剣」および「無手勝流」という武道哲学を、馬術という特定の武芸において具現化するための、最高位の伝書であったと結論づける。それは、技術と精神が不可分に結びついた、まさに「道」の書であったと言えるだろう。
その名称に込められた思想は、以下のように集約される。
『神当流音捨巻』という伝書の存在は、たとえそれが後世に生まれた伝説であったとしても、その概念が形成されたこと自体が極めて重要である。それは、血腥いイメージで語られがちな戦国時代の武芸が、単なる殺傷技術の応酬に終始するものではなかったことを力強く物語っている。武士たちは、死と隣り合わせの極限状況の中で、自己の内面を深く見つめ、自然や他者との調和を目指す、深い精神的・哲学的探求を行っていた。
この伝書は、その「音捨」という二文字を通じて、戦国武士が到達しようとした精神世界の深淵を、現代に生きる我々に伝える、貴重な「言葉の遺産」なのである。