源義経の愛馬「竜馬」伝説は、津軽海峡を飛翔して蝦夷地へ渡った物語。史実の悲劇と「判官びいき」が土壌となり発展。戦国時代は「竜馬」誕生の準備期間。
悲劇の英雄、源義経。その生涯は数多の伝説に彩られているが、中でもひときわ神秘的な輝きを放つのが、愛馬「竜馬」にまつわる物語である。兄・源頼朝の追討から逃れ、本州の北端・津軽に辿り着いた義経主従が、荒れ狂う海を前に途方に暮れていたところ、白髪の翁が現れ、翼を持つ三頭の竜馬を授ける。義経らはこの神馬に乗り、津軽海峡を飛翔して蝦夷地へと渡った、というものである 1 。この幻想的な情景は、義経の超人的な資質と、その奇跡的な生還を願う民衆の想いが結晶化した、日本文学史上でも類稀な伝説と言えよう。
しかし、この「竜馬」伝説は、いつ、どのようにして生まれたのであろうか。本報告書は、この問いに対し、単に伝説の概要を解説するに留まらない。利用者様より提示された「戦国時代」という視座に立ち、この伝説が形成されるに至った歴史的背景、文学的土壌、そして文化的・心理的要因を徹底的に分析・解明することを目的とする。すなわち、「戦国時代に竜馬伝説は存在したか」という問いではなく、「なぜ後の時代に竜馬伝説が生まれ得たのか、その源流を戦国時代に探る」というアプローチを取る。
本報告書は三部構成を採る。第一部では、伝説の核となる史実の源義経像と、彼をめぐる「判官びいき」という感情の源流を探る。第二部では、戦国時代に広く受容された『義経記』や御伽草子といった文学作品を分析し、義経生存説がどのように展開していったかを追う。そして第三部では、伝説の舞台となる蝦夷地への認識の変遷を辿りながら、「竜馬」という象徴が誕生し、伝説が完成するまでの過程を明らかにする。史実、文学、そして民衆信仰という三つの層を丹念に読み解くことで、「竜馬」という一つの象徴に、いかにして時代の夢が託されていったのかを立体的に描き出すことを試みたい。
伝説の華やかな装飾を剥がし、その核にあるものを見極めるためには、まず史実の人物としての源義経と、彼が生きた時代の空気を理解する必要がある。義経の類稀なる才能と悲劇的な生涯こそが、後世の人々の想像力を掻き立てる源泉となったからである。
歴史の表舞台に義経が確かな姿を現すのは、治承4年(1180年)、兄・頼朝の挙兵に応じて黄瀬川の陣に馳せ参じてから、文治5年(1189年)に衣川館で自刃するまでの、わずか9年間である 3 。この短い期間に、彼は日本の歴史に類を見ないほどの軍事的成功と、劇的な没落を経験した。
源平合戦における義経は、まさに天才的戦術家であった。寿永3年(1184年)の一ノ谷の戦いでは、断崖絶壁を馬で駆け下りる「鵯越の逆落とし」と呼ばれる奇襲戦法で平家本陣を蹂躙し 4 、翌年の屋島の戦いでは、暴風雨の海をわずかな手勢で強行渡海し、敵の意表を突いて勝利を収めた 5 。そして元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦いでは、巧みな船戦で宿敵・平家を滅亡に追い込み、歴史的な大功を成し遂げた 3 。これらの華々しい活躍は、後世に語り継がれる英雄譚の核となり、彼の神格化の第一歩を築いた。
しかし、その英雄像は一枚岩ではない。史料は、彼の人間的な未熟さや弱さをも伝えている。屋島の戦いの最中、海に落とした自らの弓を、敵の嘲笑を恐れるあまり危険を冒してまで拾おうとした逸話は、彼の負けん気の強さと同時に、大将としての冷静さを欠く一面を示している 5 。また、『吾妻鏡』によれば、鶴岡若宮宝殿の上棟式で、頼朝から馬を引く役目を命じられた際にこれを拒み、「卑しい役だと思って断るのか」と激しく叱責され、恐怖のあまり直ちに従ったという記録もある 3 。こうした完璧ではない人間性が、かえって人々の共感を呼び、「判官びいき」の感情が芽生える素地となったと考えられる。
平家滅亡後、義経の運命は暗転する。後白河法皇から頼朝の許可なく官位を受けたことなどが原因で兄の怒りを買い、鎌倉入りを拒否される 3 。やがて朝敵として追われる身となり、かつて庇護を受けた奥州藤原氏のもとへ逃れるが、三代目当主・藤原秀衡の死後、その子・泰衡に裏切られ、衣川館で妻子を手にかけ自刃した 3 。享年31。これが、鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』などが伝える、義経の「公式の死」である。このあまりにも悲劇的な最期が、後の生存説、復活譚を生み出す直接的な引き金となった。
さて、このような史実の義経が乗った馬はどうであったか。伝説の「竜馬」とは異なり、それらはあくまで現実の名馬であった。奥州を発つ際に藤原秀衡から贈られたという「太夫黒(たゆうぐろ)」は、一ノ谷の逆落としで活躍したと伝えられる 7 。また、宇治川の先陣争いで知られる「生食(いけづき)」と「磨墨(するすみ)」は、頼朝が特に優れた家臣に与えた名馬である 8 。これらの馬は、武将の武威と力を象徴する重要な存在ではあったが、空を飛ぶような超自然的な能力を持つものではない。この史実との明確な対比こそ、「竜馬」という存在がいかに特異であり、義経という人物を現実の武将の枠を超えた「伝説的英雄」へと昇華させるための、後世の創作であったかを物語っている。
表1:源義経の史実と伝説の比較年表
年代(西暦) |
史実(『吾妻鏡』等に基づく) |
伝説(『義経記』や後世の伝承に基づく) |
1159年 |
平治の乱の最中に誕生 6 。 |
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1165年頃 |
7歳で鞍馬寺に預けられ、遮那王と名乗る 6 。 |
鞍馬山で天狗から武術を学ぶ 9 。 |
1174年頃 |
鞍馬寺を出奔し、金売吉次に伴われ奥州平泉の藤原秀衡のもとへ身を寄せる 4 。 |
京都五条大橋で武蔵坊弁慶と出会い、主従の誓いを交わす 4 。 |
1180年 |
兄・頼朝の挙兵を知り、平泉から駆けつけ黄瀬川で対面 3 。 |
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1184年 |
一ノ谷の戦いで勝利 3 。 |
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1185年 |
屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させる。頼朝と対立し、都を落ちる 3 。 |
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1187年頃 |
再び奥州藤原氏を頼る 3 。 |
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1189年 |
藤原泰衡に襲撃され、衣川館にて自刃。首は鎌倉へ送られ、腰越で首実検が行われる 3 。 |
衣川館で死なず、身代わりを立てて北へ逃れる 11 。津軽半島から「竜馬」に乗り蝦夷地へ渡る 1 。 |
1189年以降 |
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蝦夷地でアイヌの神「オキクルミ」となる 13 。さらに大陸へ渡り、チンギス・カンになったという説も生まれる 15 。 |
義経の死は、一つの物語の終わりであると同時に、より壮大な伝説の始まりであった。彼の悲劇的な生涯は、人々の心に深い同情と愛惜の念を刻み込み、やがて「判官びいき」という日本人の心性を象徴する言葉を生み出すに至る 3 。判官とは、義経が任官した検非違使尉の唐名であり、この言葉は、権力によって不当に貶められた弱者や敗者に対して人々が寄せる、理屈を超えた共感の情を表している 17 。
この感情は、義経の死後すぐに芽生え始めた。衣川の戦いからわずか7ヶ月後には、早くも「義経」を名乗る人物が伊予国に現れたという記録が残っている 14 。また、平泉から鎌倉まで43日かけて運ばれた義経の首は、夏の気候で損傷が激しく、本当に本人であったか判別不能だったのではないか、という噂も囁かれた 11 。これらの事実は、義経は死んでおらず、どこかで生き延びているのではないかという「生脱説」が、ごく早い段階から民衆の間に根強く存在したことを示唆している。
この民衆の想いを決定的な形にまとめ上げ、全国に広めたのが、琵琶法師らによって語り継がれた軍記物語『平家物語』であった 19 。『平家物語』は、義経の華々しい武功を生き生きと描き出す一方で、兄との確執から没落していく悲劇を劇的に物語る。この鮮やかな栄光と深い闇のコントラストが、聴衆の心を強く打ち、義経を単なる歴史上の人物から、感情移入の対象となる「物語の主人公」へと変貌させた。鎌倉時代を通じて、語り物文芸によって義経像が各地に流布・定着する中で、彼への思慕の情は国民的な感情へと醸成されていったのである 19 。こうして、後のあらゆる義経伝説が花開くための、豊穣な文化的土壌が整えられていった。
鎌倉時代に萌芽した義経伝説は、室町時代、とりわけ戦乱が日常と化した戦国時代において、新たな段階へと進化する。人々はもはや、単に英雄の死を悼むだけでは満足しなくなり、彼の「生存」を前提とした、より具体的で fantastical な物語を求め始めた。この時代の空気が、後の「竜馬」伝説へと繋がる重要なステップを準備したのである。
室町時代前期に成立したとされる軍記物語『義経記』は、義経伝説の展開における一大転換点であった 17 。『平家物語』が源平の興亡という大きな歴史叙事の中に義経を位置づけたのに対し、『義経記』は徹頭徹尾、義経という一個人の数奇な運命を描くことに特化した伝奇物語である 17 。
その最大の特徴は、義経の英雄像の根本的な変容にある。『義経記』は、一ノ谷や屋島といった義経の最も華々しい合戦の場面を意図的に省略、あるいは簡潔に触れるのみで、物語の大部分を、不遇な幼少期(牛若丸時代)と、平家滅亡後に兄・頼朝に追われて没落していく悲劇的な後半生に費やしている 17 。ここでの義経は、もはや自ら先陣を切って戦う猛々しい武将ではない。むしろ、武蔵坊弁慶をはじめとする豪傑な家臣たちの活躍に守られ、ただ運命に翻弄される、か弱く美しい貴公子として描かれる傾向が強い 17 。この「弱き英雄」という新たなキャラクター像は、民衆の保護欲や同情をより一層強く掻き立て、義経への「判官びいき」を決定的なものにした 19 。
ではなぜ、このような英雄像の転換が、室町・戦国の世に受け入れられたのか。それは、この時代が下剋上を是とし、昨日の勝者が今日の敗者となる無常観に覆われていたことと無関係ではない。理不尽な権力によって輝かしい功績を無にされ、没落していく義経の姿に、戦乱の世を生きる人々は自らの不安定な運命を重ね合わせ、深い共感を覚えたのであろう。皇族の日記である『看聞御記』には、室町時代中期に「九朗判官奥州下向の躰」と題された仮装行列が民衆の大喝采を浴びたことや、清水寺で牛若丸と弁慶の対決を模した催しが行われたことなどが記されており、この時代、義経物語がいかに熱狂的に支持されていたかが窺える 20 。
しかし、ここで極めて重要な事実を指摘せねばならない。『義経記』が描く物語は、義経一行が奥州平泉に辿り着き、藤原泰衡の裏切りによって衣川館で自害するところで幕を閉じる 17 。つまり、戦国時代に広く人々に愛読され、義経像のスタンダードを形成したこの物語の中に、「蝦夷渡り」や、ましてや「竜馬」に関する記述は一切存在しないのである。これは、この段階の伝説では、義経の生存はあくまで願望として暗示されるに留まり、その後の具体的な逃避行の物語、特に北方への旅という発想は、まだ一般的ではなかったことを示す動かぬ証拠と言える。
『義経記』が義経の悲劇性を深化させた一方で、同じく室町時代に成立した「御伽草子」の一編である『御曹司島渡(おんぞうししまわたり)』は、義経伝説に全く新しい地平を切り開いた 21 。この物語は、『義経記』とは系統を異にする、奇想天外な冒険譚である 23 。
物語のあらすじはこうだ。奥州に身を寄せていた若き日の義経(御曹司)は、藤原秀衡から、北の果てにある蝦夷の千島喜見城に「かねひら大王」という鬼が住み、天下を取るための秘術『大日の法』という兵法書を所有していることを聞かされる 21 。平家打倒の力を得るため、義経は鬼の島へ渡ることを決意する。彼は四国の土佐の港(津軽の十三湊の説もある 25 )から「早風」という名の
船 を買い求めると、神仏に祈りを捧げ、未知の海へと漕ぎ出す 26 。
その航海は、まさに異界巡りであった。上半身が馬で下半身が人間という人々が住む「馬人島」、住民がみな裸の「はだか島」、女性しかいない「女護の島」など、様々な不思議な島々を経由し、数ヶ月の苦難の末、ついに目的地の千島喜見城に到着する 26 。そこで義経は、大王の娘(実は江の島の弁財天の化身)の助けを借りて兵法書を書き写し、追っ手から逃れて日本へ帰還。この兵法書の力によって、源氏は平家を滅ぼすことができた、という筋書きである 21 。
この『御曹司島渡』が伝説の進化において果たした役割は、極めて大きい。第一に、義経の物語に初めて「北方への旅」「異界への渡航」という明確な要素を導入した点である。これは、後の「義経北行伝説」や「蝦夷渡り伝説」の直接的な原型、あるいは発想の源泉となった可能性が非常に高い。第二に、義経を悲劇の主人公から、超人的な力で困難を乗り越える冒険英雄へと変貌させた点である。
しかし、ここでも渡航手段の分析が重要となる。義経が海を渡るために用いたのは、あくまで「船」であった 26 。空飛ぶ馬ではない。この事実は、『義経記』の分析と合わせることで、伝説の発展段階をより鮮明に描き出すことを可能にする。『義経記』が「なぜ義経は生き延びねばならないか」という
動機 (判官びいき)を確立し、『御曹司島渡』が「どこへ逃げるのか」という 舞台設定 (北方の異界)の雛形を提供した。戦国時代とは、後の「竜馬」という奇跡的な 解決手段 が登場するための、動機と舞台という二つの重要な文化的素地が醸成された「準備期間」であったと位置づけることができるのである。
表2:義経伝説の主要文献と「竜馬」に関する記述の有無
文献名 |
成立時代 |
生存説の示唆 |
蝦夷(北方)渡航の記述 |
「竜馬」の記述 |
『平家物語』 |
鎌倉時代 |
悲劇的な死を描き、同情(判官びいき)を誘う |
なし |
なし |
『義経記』 |
室町時代前期 |
悲劇性を強調し、生存への願望を強く喚起する |
なし(奥州での自害で終わる) |
なし |
『御曹司島渡』 |
室町時代 |
冒険の前提として生存している |
あり(兵法書を求め、 船 で千島へ渡る) 21 |
なし |
津軽の口承伝説 |
江戸時代中期 |
生存し、蝦夷地へ渡る |
あり(津軽海峡を 竜馬 で飛翔して渡る) 1 |
あり |
この表が示すように、義経伝説は、①悲劇への同情から生存への願望が生まれ(『平家物語』『義経記』)、②その生存の物語として北方の異界へ船で渡るという筋書きが生まれ(『御曹司島渡』)、③最終的にその渡航手段がより奇跡的で神聖な「竜馬」へと進化する、という段階的な発展を遂げたことが明らかである。戦国時代は、このプロセスの②の段階に位置し、③への飛躍を準備した時代であった。
戦国時代に準備された文化的土壌の上で、義経伝説は江戸時代に入り、ついに「竜馬」という究極の象徴を得て完成の域に達する。その背景には、伝説の最終目的地となった「蝦夷地」に対する人々の認識の変化と、そこに住まう人々との関係が深く関わっていた。
戦国時代から江戸時代初期にかけて、和人にとって「蝦夷地」(現在の北海道)は、どのような場所として認識されていたのだろうか。それは、交易を通じて昆布や毛皮などがもたらされる現実的な経済圏であると同時に、依然として未知と神秘に満ちた領域であった。14世紀の『諏訪大明神絵詞』では大陸に連なる土地として描かれ 28 、17世紀初頭のイエズス会宣教師の報告でも、蝦夷地が島か大陸か判然としないと記されている 28 。江戸時代初期の『三国通覧図説』では、蝦夷地は朝鮮や琉球と並ぶ「外国」として扱われており 29 、日本のようで日本でない、境界領域としての性格が強かった。この「既知でありながら未知」という曖昧な性質こそが、常識の通用しない奇跡が起こる場所、すなわち英雄の逃避行の舞台として、格好のロケーションを提供したのである。
この地で勢力を拡大したのが、戦国大名・蠣崎(かきざき)氏、後の松前藩である。若狭国出身とされる武田信広が15世紀半ばに蝦夷地へ渡り、アイヌとの戦いを経て地位を固め、蠣崎氏を継いだとされる 30 。蠣崎氏は、和人とアイヌの交易を掌握することで力をつけ、文禄2年(1593年)には豊臣秀吉から、慶長9年(1604年)には徳川家康から、蝦夷地の支配権と交易独占権を公認されるに至る 30 。彼らの活動によって、蝦夷地の情報が中央にもたらされる一方、和人の支配地(和人地)とアイヌの居住地(蝦夷地)という境界線が引かれ、この地が持つ特別な地位はさらに強化された。
もちろん、松前藩の公式な歴史書である『新羅之記録』 15 や、豊臣・徳川政権が発給した朱印状・黒印状 31 といった公的文書に、源義経に関する記述は一切見られない。これらは交易の利益や支配の正当性といった、極めて現実的な事柄を記録したものであり、民衆の夢が生んだ伝説が入り込む余地はなかった。しかし、皮肉なことに、蠣崎氏による蝦夷地支配の確立こそが、この地を「義経が逃れ、王となるにふさわしい、日本から独立した別世界」として人々に認識させ、伝説のリアリティを高める一助となった可能性は否定できない。
こうして準備された舞台の上で、ついに「竜馬」が登場する。その伝説は、青森県の津軽半島、特に龍飛崎のある外ヶ浜町三厩(みんまや)に色濃く残されている。
伝説の具体的な内容はこうだ。奥州から逃れてきた義経主従は、荒れ狂う津軽海峡を前に進むことも退くこともできず、岩場にあった観音像に三日三晩、一心に祈りを捧げた。すると、満願の暁、白髪の翁(あるいは観音菩薩の化身)が現れ、「これに乗って渡るがよい」と、翼の生えた三頭の神馬を授けた。これが「竜馬」である。義経、弁慶、亀井六郎(伝承により供の人数や名は異なる)は竜馬にまたがり、穏やかになった海を飛ぶように渡り、無事に蝦夷地へ到着することができた。そして、この三頭の馬が繋がれていた「厩(うまや)」があったことから、この地が「三厩(みんまや)」と呼ばれるようになった、というものである 1 。
では、この具体的な伝説はいつ頃成立したのか。その鍵を握るのが、伝説の中心地である竜馬山義経寺の縁起である。諸記録によれば、この寺の直接的な起源は、江戸時代中期の廻国僧・円空上人が寛文7年(1667年)にこの地を訪れ、義経の守り本尊であるという伝承を持つ観音像を発見し、これを祀るために庵を結んだことに始まるとされる 34 。また、津軽藩の公式記録にこの種の伝説が言及されるのも、1680年代の文献が古い例とされる 2 。これらの史料から、「竜馬」に乗って海峡を渡るという、今日我々が知る形の伝説が具体的に定着したのは、戦国時代から一世紀以上下った、江戸時代中期(17世紀後半)であるとほぼ断定できる。
なぜ、室町時代の『御曹司島渡』では「船」であった渡航手段が、江戸時代には「竜馬」へと置き換わったのか。これは単なる乗り物の変更ではなく、伝説の飛躍的な進化を意味する。
第一に、超自然性の付与による物語的説得力の獲得である。現実の津軽海峡は、時に船の航行を阻む激しい潮流で知られる。この地理的な難所を、追われる身の義経がいかにして越えたのか、という物語上の課題に対し、「飛翔能力を持つ神馬」という超自然的な解決策は、素朴なリアリティと奇跡の感覚を同時に与える優れた装置であった。
第二に、義経の神格化の完成である。「竜」は、古来より水を司り、天に昇る神聖な力を持つ霊獣として崇められてきた。その名を冠し、その能力を体現する馬に乗ることで、義経はもはや単なる人間ではなく、神仏の加護を受け、奇跡を起こす特別な存在へと昇華する。これは、義経が神として祀られていくプロセスの、象徴的な最終段階と見なすことができる。
第三に、他の武将との差別化による英雄性の強調である。武田信玄の「黒雲」や前田慶次の「松風」など、戦国武将の名馬伝説は数多いが、それらはあくまで現実の馬の勇猛さや俊足を誇張したものである 7。対して「竜馬」は、そのカテゴリーを完全に逸脱した幻想の産物であり、義経を他のあらゆる武将とは隔絶された、唯一無二の「伝説的英雄」として位置づける機能を果たしている。
蝦夷地へ渡った義経の物語は、そこで終わりではなかった。伝説は現地の文化と融合し、さらに複雑で重層的な様相を呈していく。和人によって持ち込まれた義経伝説は、アイヌの人々の間で、彼らの創造神であり文化英雄である「オキクルミ」または「サマイクル」の伝説と結びついていったのである 13 。
一部の伝承では、義経はアイヌの人々に農業(栗や稗の栽培)や狩猟の技術を教え、悪鬼を退治した文化の恩人として語られる 13 。新井白石が『蝦夷志』で記したように、アイヌの人々が敬う神は義経(判官)のことであり、彼らの英雄神オキクルミと同一視されていた、という認識が和人の間にも広まっていた 14 。江戸時代に描かれた「アイヌ風俗絵馬」には、アイヌの人々が甲冑姿の武士(義経)にひざまずき、供物を捧げる様子が描かれており、この認識が視覚化されている 14 。
しかし、アイヌの伝承における義経像は、決して肯定的なものばかりではない。英雄神として敬われる一方で、アイヌの首長の娘を騙して宝物の巻物を盗み出す狡猾な和人、あるいは単なる盗人として、否定的に描かれる側面も色濃く存在する 13 。この英雄と詐欺師という二面性は、単なる物語のバリエーションではなく、和人とアイヌという二つの民族の、非対称な権力関係と複雑な交流の歴史を反映している。
和人、特に蝦夷地を支配する松前藩の側から見れば、自分たちの祖先ともいえる英雄・義経が、アイヌにとっても神であったという物語は、自らの支配を文化的に正当化し、優位性を示すための好都合なイデオロギーとして機能したであろう。それは、現地の神話を自らの英雄譚に「上書き」する行為とも言える。
一方、アイヌの側からすれば、和人との交易や接触の中で経験したであろう裏切りや搾取の記憶が、「義経=狡猾な和人」という否定的な物語として語り継がれた可能性がある。肯定的な伝説が和人による「支配の物語」であるとすれば、否定的な伝説はアイヌによる「抵抗の記憶」として読み解くことができるかもしれない。
このように、蝦夷地における義経伝説は、単なる英雄譚の伝播に留まらず、二つの民族の出会い、交流、そして対立の歴史が刻み込まれた、極めて重要な文化的接触領域(コンタクト・ゾーン)そのものなのである。
本報告書を通じて解明してきた通り、源義経と伝説の「竜馬」をめぐる物語は、単一の作者や時代が生んだ創作物ではない。それは、史実の悲劇、文学的想像力、民衆の信仰、そして各時代の社会情勢や政治的要請が、数百年の歳月をかけて複雑に絡み合い、積み重なって形成された、壮大な文化的創造物である。
ご依頼の核心であった「戦国時代の視点」からこの伝説を改めて俯瞰すると、その結論は明確である。「竜馬」に乗って津軽海峡を渡るという具体的な物語は、戦国時代には存在しなかった。その成立は、円空の来訪や藩の記録から、江戸時代中期(17世紀後半)と推定される。
しかし、戦国時代がこの伝説の歴史において無意味であったかと言えば、断じてそうではない。むしろ、戦国時代こそが、この奇跡の飛翔体が後に誕生するための、全ての文化的・心理的要素を準備した、決定的に重要な「揺籃の時代」であった。
第一に、 英雄待望の土壌を耕した時代 であった。『義経記』が広く流布し、民衆がその悲劇に熱狂したことで、「判官びいき」は単なる同情を超え、国民的情緒として社会に深く根付いた。これにより、「義経は無念の死を遂げたのではなく、生きているべきだ、生き延びて再起すべきだ」という、復活への強い動機が社会全体に満ち溢れたのである。
第二に、 伝説の舞台装置を発見した時代 であった。応仁の乱以降の混乱の中で、北方との交易は断続的ながらも続き、人々の地理的認識は徐々に北へと拡大した。その中で「蝦夷地」は、日本のようで日本でない、未知と可能性に満ちた異界として、人々の想像力の中に確固たる地位を築いた。それは、理不尽な権力から逃れた英雄が、新たな王国を築くにふさわしい、格好の舞台として立ち現れたのである。
最終的な結論として、次のように総括できる。「竜馬」は、戦国時代までに醸成された「義経は生きているべきだ」という強い**願望(動機) と、「北の果てに逃れたらしい」という物語の 方向性(舞台)**を、津軽海峡という越えがたい地理的難所で結合させるため、江戸時代という比較的安定した時代に、奇跡の飛翔体として「発明」されたのである。それは、戦国乱世の無秩序と無常観の中で人々が夢見た、悲劇の英雄の救済という願いが、数世紀の時を経て到達した、一つの究極的な物語的解決の姿であったと言えるだろう。