国宝「竹斎読書図」は、室町禅林文化の精華。戦国時代には権威の象徴、武将の精神的聖域、茶の湯の侘びを体現し、狩野派の源流ともなり、乱世に新たな価値を放った。
国宝「竹斎読書図」は、一見すると静寂に満ちた水墨山水画である。しかし、その一枚の絵画には、二つの全く異なる時代の精神が宿っている。一つは、この作品が生まれた室町時代中期の禅僧たちが夢見た、俗世を離れた隠逸の理想郷としての顔 1 。もう一つは、本報告書が光を当てる、応仁の乱を経て下剋上が常態となった戦国時代の武将たちが、そこに新たな価値を見出し、渇望した至宝としての顔である 2 。
本作が制作された文安4年(1447年)は、8代将軍足利義政のもとで東山文化が花開く直前の、束の間の静けさが漂う時代であった 3 。しかし、そのわずか20年後には応仁の乱が勃発し、京都は焦土と化し、日本は100年以上にわたる戦乱の時代へと突入する 5 。この激動の時代を生きた戦国武将たちは、なぜ、この静寂な隠逸の世界を描いた絵画を求め、そこに至上の価値を見出したのであろうか。本報告書は、この根源的な問いに対し、「権威の象徴」「精神の聖域」「芸術様式の源流」という三つの側面から多角的に分析し、その歴史的意味を解き明かすことを目的とする。
戦国時代における本作の価値を理解するためには、まず、この作品がどのような文化的土壌から生まれ、いかなる芸術的達成を示したのかを徹底的に分析する必要がある。それは、後の時代に新たな意味を付与されることになる価値の「原点」を明確にする作業に他ならない。
「竹斎読書図」は、その緻密に計算された構図と、象徴性に富むモチーフによって、単なる風景画を超えた精神的な世界観を構築している。
本作は、縦長の画面の下方に絵画空間を、そして上部に詩文を記すための広大な余白を配した「詩画軸」の典型的な構成をとる 1 。画家の巧みな空間演出は、画面右手にそびえる険しい岩山から始まる。この岩山は、力強い筆致で描かれ、鑑賞者の視線を一度受け止め、画面に安定感と緊張感をもたらす 1 。そして、その視線を左へと移すと、風景は一変する。遮るもののない広々とした水景が広がり、その向こうには淡い墨で描かれた霞む遠山が連なる 1 。
この対比的な構成、すなわち近景の堅固な描写と遠景の柔らかな表現、そして墨の濃淡を巧みに使い分ける技法は、限られた紙幅の中に無限とも思える奥行きと空間的な広がりを生み出すことに成功している 1 。これは、南宋の画家、夏珪や馬遠らが得意とした「辺角の景」と呼ばれる構図法に倣ったものであるが、単なる模倣ではない。描かれた風景は、現実の特定の場所を写したものではなく、鑑賞者の精神を内省へと誘う、心理的な空間として構築されているのである 10 。
画中に配された各モチーフは、それぞれが室町時代の禅僧たちの価値観を色濃く反映している。
これら全ての要素―南宋院体画に学んだ構成と筆法を基盤としながら、それをより理知的で構築的な画面へと昇華させる画風―こそが、後の日本水墨画壇に絶大な影響を与え、一つの規範となった「周文様式」の真骨頂である 3 。それは、中国絵画の模倣から脱し、日本の美意識に基づいた新たな水墨山水画を確立しようとする、室町時代中期における芸術的達成の記念碑であった 15 。
「竹斎読書図」の価値は、絵画部分のみで完結するものではない。上部の余白を埋め尽くす詩文(賛)と一体となって、初めてその全体像が明らかになる。
詩画軸とは、絵画と漢詩文が相互に作用し合い、一つの高められた芸術世界を現出させる、禅宗寺院、特に京都五山や鎌倉五山と呼ばれる幕府公認の寺院で隆盛した独自の芸術形式である 1 。本作もその例に漏れず、竺雲等連(じくうんとうれん)が記した序文によれば、もともと南禅寺の僧・杲(こう)が所持していた一枚の山水画に、竺雲等連をはじめとする江西龍派(こうさいりゅうは)ら合計六名の高僧が賛を寄せたものであることがわかる 3 。
特筆すべきは、竺雲等連の序文によって、この絵の主題が「竹斎読書」であることが明確に記されている点である 4 。これにより、制作から時を経てもなお、我々はこの作品が当初意図したテーマを知ることができる。これは、数多ある室町時代の水墨画の中でも極めて稀有な例であり、本作の資料的価値を著しく高めている。賛者たちが寄せた漢詩は、いずれも絵に描かれた清らかな隠逸生活を称賛し、自らの精神的な理想をそこに重ね合わせる内容となっている。これは、当時の禅僧たちが共有していた、俗世からの超越を目指すという共通の価値観を雄弁に物語っている。
この詩画軸という文化形式は、それを享受するための高度な漢詩の教養と、禅僧たちが集い、詩作や議論を交わす「詩会」のような知的コミュニティの存在を前提としていた 16 。しかし、この文化の爛熟期は長くは続かなかった。詩画軸の制作は、応仁の乱を境として急速にその勢いを失っていくのである 16 。この衰退は、単なる芸術上の流行の変化に起因するものではない。その背景には、より深刻な社会的・文化的基盤の崩壊があった。11年にわたる戦乱は、詩画軸文化の中心地であった京都の寺社を焼き払い、文化の担い手であった禅僧や公家たちを地方への避難へと追いやった 6 。これにより、彼らの知的ネットワークは物理的に寸断され、詩画軸を生み出す土壌そのものが失われてしまったのである。この歴史的文脈に鑑みれば、「竹斎読書図」は、室町禅林文化が到達した一つの頂点であると同時に、その最後の輝きを放つ作品の一つであったと言うことができる。
本作は長らく、室町水墨画の巨匠・周文の筆によるものと伝えられてきた。しかし、その帰属には未だ謎が残されている。
周文は、京都・相国寺の禅僧であり、寺の運営や経理を司る都管(つかん)という要職を務めた、実在の人物である 11 。彼は、寺院経営に腕を振るう一方で、足利将軍家の御用絵師として当代随一の評価を得ていた 19 。後の画聖・雪舟等楊の師としても知られ、応永30年(1423年)には幕府の使節の一員として朝鮮に渡るなど、その活動は多岐にわたる 19 。まさに、室町画壇における中心的指導者であった。
これほどの高名な画家でありながら、驚くべきことに、現存する作品の中で周文の真筆であると学術的に確証が得られているものは一点も存在しない 12 。本作もまた、その様式的な特徴から周文の作風を最もよく示す代表作とされながらも、あくまで「伝周文筆」、すなわち周文本人、あるいは彼が主宰した工房の極めて質の高い作品である、という伝承筆者の域を出ない 3 。
この「作者不詳」という事実は、戦国時代という視点から本作を捉え直す上で、極めて重要な意味を持つ。戦乱の世において、「周文」という名は、もはや特定の画家個人を指す固有名詞以上の役割を担うようになった。それは、足利将軍家がその権威をもって保証した「最高の文化的価値」を象徴する一つのブランドとして機能したのである。周文は将軍家の御用絵師であり、彼の様式は室町幕府の公式な美意識を体現するものであった 11 。下剋上によって旧来の権威を武力で打倒した戦国大名たちにとって、自らの支配を正当化し、権威づけるためには、旧権威が独占していた文化的な権威をも手中に収める必要があった 2 。
その際、「周文」ブランドは、その文化的権威を最も端的に示す記号として機能した。そして、真筆が確定していないという事実が、逆説的にそのブランド価値を神格化させ、流通を促すことになった。様式さえ満たしていれば「伝周文」として受容され得たこの曖昧さは、多くの戦国大名が「周文」の名を冠した作品を手に入れる機会を生んだ可能性がある。彼らにとって、「伝周文」の作品を所有することは、単なる美術鑑賞ではなく、旧秩序の文化的正統性を自らが継承したことの何よりの証明となったのである。
「竹斎読書図」が描かれた15世紀半ばの京都と、戦国大名が覇を競った16世紀の日本とでは、社会のありようも人々の価値観も根本的に異なっていた。その巨大な断絶を生み出したのが、応仁・文明の乱である。
応仁元年(1467年)に始まった応仁・文明の乱は、11年もの長きにわたり、日本の政治・文化の中心地であった京都を主戦場とした 6 。この戦乱によって、壮麗を誇った寺社や公家の邸宅の多くが焼き払われ、北山文化や東山文化を彩った数多の貴重な美術品や典籍が永遠に失われた 6 。これにより、禅林文化を支えてきた貴族的、精神的な文化基盤は大きく揺らぐこととなる。
しかし、この破壊は一方的な喪失だけをもたらしたわけではなかった。戦火を逃れた公家、僧侶、そして優れた技術を持つ職人たちは、地方の有力な守護大名を頼って次々と京都を離れた 6 。周防の大内氏、越前の朝倉氏、駿河の今川氏などは、こうした文化人たちを積極的に保護し、自らの領国に新たな文化の拠点を築いた 26 。結果として、中央で育まれた高度な文化が地方へと移植され、「小京都」と呼ばれるような独自の文化圏が各地に形成されるきっかけとなったのである 2 。
応仁の乱は、室町幕府の権威を決定的に失墜させた 5 。将軍の権威が地に落ちる一方で、各地では守護代や国人といった実力者たちが主君を凌駕する「下剋上」の風潮が蔓延し、日本は実力のみがものをいう戦国時代へと突入していく 6 。
この権力構造の転換は、美術品のあり方にも大きな影響を及ぼした。8代将軍足利義政が情熱を傾けて収集した、中国渡来の絵画や工芸品を中心とする至高のコレクション「東山御物」は、その象徴であった 27 。周文の作品もまた、この東山御物の一翼を担っていたと考えられている 29 。しかし、幕府の財政が破綻し、政治的混乱が深まる中で、この比類なきコレクションは維持できなくなり、借金の担保として質入れされたり、有力大名への政治的な贈り物として下賜されたりして、次第に散逸していった 30 。
この「東山御物」の散逸は、単に美術品が移動したという現象に留まらない。それは、これまで足利将軍家が独占してきた「最高の文化的権威の市場開放」とも言うべき、歴史的な出来事であった。鑑賞することすら限られた層にしか許されていなかった至宝が、市場に流通し始めたのである 28 。これにより、武力と財力さえあれば、出自に関わらず誰もが最高の文化的価値を手にできる可能性が生まれた。この状況こそが、後の織田信長や豊臣秀吉による「名物狩り」の素地を形成し、戦国大名による美術品収集が、単なる個人的な趣味を超えた、極めて政治的な意味合いを帯びる時代の幕開けを告げるものであった。
応仁の乱という巨大な地殻変動を経て、戦国時代という新たな舞台に登場した「竹斎読書図」。この静謐な山水画は、乱世を生きる武将たちの目を通して、かつてとは全く異なる三重の意味を帯びることになる。
戦国時代、天下統一を目指す武将たちにとって、書画や茶道具といった美術品は、領地や金銀と同じく、自らの権力を誇示し、支配体制を盤石にするための重要なツールであった。
織田信長や豊臣秀吉に代表されるように、戦国時代の覇者たちは、茶入や掛軸などの「名物」と呼ばれる第一級の美術品を執拗なまでに収集した 30 。彼らは、敵対勢力を滅ぼした際にはその所蔵する名物を戦利品として没収し、一方で戦功のあった家臣には、領地の代わりに名物を下賜することもあった 30 。これは「道具政治」とも呼ばれ、文化的な価値が武力や経済力と同等の、あるいはそれ以上の政治的価値を持つことを示している。
本作は、京都・嵯峨にある天龍寺の塔頭、妙智院に伝来したと記録されている 10 。この妙智院は、本作に賛を寄せた禅僧の一人、竺雲等連が開山した寺院であり、その由緒は極めて正しく、権威あるものであった。このような由緒を持つ「伝周文」の詩画軸は、散逸した東山御物と同等の価値を持つ「文化資本」として、戦国大名たちの垂涎の的となったことは想像に難くない。彼らにとって、この一枚の絵を所有することは、単に美を鑑賞する行為に留まらず、自らの文化的洗練度と、足利将軍家が築いた旧体制の文化的正統性を継承する者であることを、天下に宣言する行為だったのである。
戦国時代は、茶の湯が武士階級の必須教養として、また重要な政治・社交の場として爆発的に普及した時代でもあった 31 。この茶の湯の空間において、「竹斎読書図」は新たな輝きを放つことになる。
茶室の床の間を飾る掛物、すなわち「茶掛け」は、その茶会を主催する亭主の美意識や思想を最も凝縮された形で示す、極めて重要な道具であった 33 。千利休が大成させた「侘び茶」の精神は、華美な装飾を排し、簡素で静寂なものの中にこそ深い美を見出すというものであった 33 。
この価値観において、「竹斎読書図」はまさに理想的な茶掛けであった。金碧豪華な城郭の障壁画とは対極にある、墨の濃淡のみで描かれた幽玄な世界観、そして俗世を離れた隠者の姿が醸し出す静謐な画趣は、「侘び」の精神性と深く共鳴する 34 。武将たちは、狭く、質素に設えられた茶室の床にこの絵を掛け、一碗の茶と向き合うことで、戦場の喧騒からしばし心を解き放ったのである。
この行為は、単なる現実逃避の夢想ではなかった。それは、明日をも知れぬ命のやり取りを日常とする彼らにとって、死と隣り合わせの現実を生き抜くための、極めて実用的な精神的「装置」であった。戦国武将の多くは、精神的な支柱として禅宗に深く帰依していた 32 。禅の教えは、過去や未来にとらわれず、「いま、ここ、自分」に精神を集中させることを説く 37 。鑑賞者を画中の静寂な世界へと誘い、俗世の雑念から精神を切り離す効果を持つ「竹斎読書図」は、まさに禅の修行における瞑想と同様の精神作用をもたらした。武将がこの絵を茶室に掛ける行為は、精神的な平静を取り戻し、次なる戦いのための戦略を練るための、内省の時間を提供したのである。それは彼らにとっての「心の安らぎ」であると同時に、極めて実践的な精神鍛錬の手段でもあったのだ。
「竹斎読書図」が戦国時代に果たした役割は、権威の象徴や精神的な支えに留まらない。その芸術様式そのものが、次代の美術を切り開くための重要な源泉となったのである。
周文様式は、その理知的な画面構成と完成度の高さから、後世の画家たちにとって乗り越えるべき古典的な手本(粉本)となった 38 。特に、室町幕府の御用絵師の地位を周文の後継者たちから引き継ぎ、織田信長や豊臣秀吉といった天下人の庇護のもとで巨大な絵師集団へと成長した狩野派にとって、周文様式は彼らの画風の根幹をなす重要な学習基盤であった 39 。
狩野派の始祖である狩野正信は、周文やその影響下にある小栗宗湛の画風を深く学んだことが知られている 39 。狩野派の絵師たちは、周文様式の構築的な空間表現や力強い筆法といった技術的な側面を継承しつつ、それを安土城や大坂城といった巨大な城郭建築の広大な空間を飾るにふさわしい、より装飾的で力強く、明快な様式(大画様式)へと発展させていった 41 。
ここに、「竹斎読書図」に代表される周文様式が、戦国時代に二つの異なる芸術的潮流を生み出したという興味深い事実が浮かび上がる。一つは、茶の湯の世界で珍重された、内省的で静謐な「静」の美意識(侘び茶の掛物)の流れである。そしてもう一つは、天下人の権威を可視化するための、壮大で華麗な「動」の美意識(狩野派の障壁画)の源流である。この一見すると矛盾する二つの流れの源に、本作のような作品が位置しているという事実こそ、その芸術様式が内包していたポテンシャルの広大さと、後世の多様な文脈の中で多角的にその価値が引き出されていった歴史のダイナミズムを物語っている。
表:室町時代と戦国時代における「竹斎読書図」の文脈的価値の変容
項目 |
室町時代中期(制作当時)の文脈 |
戦国時代の文脈における潜在的価値 |
所有者/鑑賞者 |
南禅寺の禅僧(杲)、五山の禅僧たち 3 |
戦国大名、有力武将、豪商、茶人 6 |
主な鑑賞空間 |
禅院の書斎、詩会の場 9 |
城郭の書院、茶室 31 |
作品に求められる価値 |
禅的な精神性、隠逸への憧れ、詩文との一体性 1 |
①文化的権威 (東山御物との連続性)、 ②精神的安らぎ (禅と武士道)、 ③茶の湯における「侘び」の体現 30 |
芸術様式としての役割 |
日本水墨画様式の確立(周文様式) 11 |
後世の絵師(特に狩野派)の古典的範例、粉本 38 |
国宝「竹斎読書図」は、その制作された室町中期においては、禅僧たちの隠逸への憧れと、高度な知的交流の結晶であった。それは、静謐な理想郷を描き出し、詩文と一体となって深い精神性を湛える、室町禅林文化の精華であった。
しかし、応仁の乱という巨大な歴史の断絶を経て、この一枚の絵画は、戦国時代という全く異なる文脈の中で、その意味を大きく変容させる。それは、足利将軍家が独占していた文化的権威を継承したことを示す「至宝」となり、武将たちが死と隣り合わせの日常の中で束の間の安らぎを得るための「精神的聖域」となり、そして桃山時代の豪壮華麗な芸術を準備するための「様式的源泉」となったのである。
「竹斎読書図」の流転の物語は、一つの芸術作品が、決して固定された不変の価値を持つのではなく、鑑賞される時代の価値観や社会状況によって、いかに多様な意味を付与され、生き続けるかということを雄弁に物語っている。静かな竹林の書斎で始まったこの絵画の旅は、戦国の動乱を駆け抜け、後世の日本美術に計り知れない影響を与え続けた。それは、芸術と歴史が織りなす、ダイナミックな関係性の見事な証左と言えるだろう。