最終更新日 2025-06-04

算盤

算盤は戦国時代に中国から伝来し、武将の軍事・統治、商人の経済活動で活用された。算木から算盤への移行期に算術書も登場し、計算技術の普及に貢献した。
算盤

戦国時代の算盤:その伝来、実用、そして社会への影響

1. はじめに

戦国時代の社会経済的背景と計算需要の高まり

戦国時代(15世紀後半~17世紀初頭)は、日本史上未曾有の社会変動期であった。守護大名の権威が失墜し、各地で戦国大名が台頭して実力による領国支配を展開した「下剋上」の時代である。絶え間ない戦乱は、合戦の大規模化と戦術の高度化を促し、兵員の動員・編成、兵糧の調達・輸送・管理、武器弾薬の確保といった兵站業務の重要性を著しく高めた。これらの軍事活動は、必然的に膨大な量の計算処理を伴うものであった。

同時に、戦国大名は自らの領国経営の安定化と富国強兵を目指し、検地による所領の把握、年貢収取体制の整備、鉱山開発、商業の振興(楽市楽座の設置や城下町の建設など)といった諸政策を積極的に推進した。特に、豊臣秀吉による太閤検地は全国規模で実施され、統一された基準に基づく測量と石高算定が行われたことは、計算実務の飛躍的な増大を意味した。さらに、堺、博多、京都などの都市では商工業が発展し、国内外との交易も活発化した。これらの経済活動の拡大は、売買計算、利子計算、為替計算、帳簿記録など、より複雑かつ迅速な計算能力を社会の各層に要求するようになった。

このような軍事的、政治的、経済的な状況の変化は、従来の計算方法や道具の限界を露呈させ、より効率的で実用的な計算技術への需要を急速に高めることになった。この計算需要の増大こそが、本報告書で主題とする算盤という新たな計算道具の導入と普及を促す社会的土壌を形成したと言える。

本報告書の目的と構成

本報告書は、日本の戦国時代という激動の時代において、算盤がいかにして伝来し、どのような形態を有し、武士階級や商人、その他の社会層によってどのように使用され、そして当時の社会技術、特に計算実務にどのような影響を与えたのかを、現存する史料や近年の研究成果に基づいて、詳細かつ徹底的に明らかにすることを目的とする。

具体的には、まず算盤が伝来する以前の日本における主要な計算方法であった算木について概説し、その役割と限界を明らかにする。次いで、戦国時代における算盤の中国からの伝来の経緯と、初期の算盤の構造的特徴について詳述する。続いて、戦国武将たちが軍事および領国統治の場面で算盤をどのように活用したか、また、勃興しつつあった商業活動において算盤が果たした役割の可能性について検討する。さらに、当時の算術教育の実態と、その中での算盤の位置づけを探る。そして、算盤の普及初期段階における関連文献、特に『算用記』などの算術書の内容を分析し、算木から算盤への移行期における両者の関係性にも光を当てる。最後に、これらの分析を踏まえ、戦国時代における算盤の歴史的意義を総括し、それが後の江戸時代の和算の発展や日本社会の計算能力の向上にどのように繋がっていったのかを考察する。

2. 算盤伝来以前の計算方法:算木とその役割

算木の概要(構造、材質、操作法)

算盤が日本に伝来し普及する以前、計算の主役を担っていたのは算木(さんぎ)であった。算木は籌(ちゅう)とも呼ばれ、古代中国で紀元前から使用されていた計算用具であり、日本へも古くから伝来していたことが知られている 1 。その歴史は古く、中国の戦国時代の楚墓からも算木が発掘されており 2 、老子の記述にも「善く数える者は籌策を用いず」とあることから、その存在がうかがえる 2

算木の材質は、主に木製または竹製であり、長さ3cmから14cm程度、太さ0.5cm角ほどの細長い直方体の棒であった 2 。数を表す際には、これらの算木を縦または横に配置し、その本数と配置の組み合わせで数字を表現した。具体的には、1から5まではその数だけ算木を並べ、6以上は異なる向きの1本で5を示すなどの規則があった 2 。位取り記数法が採用されており、アラビア数字のように左を上位として横に数を並べて表示した。桁を明確に区別するため、奇数桁(一、百、万など)は縦式で、偶数桁(十、千など)は横式で示すという工夫がなされていた 2 。『孫子算経』には「一は縦、十は横、百は立ち、千は倒れる」という記述が見られる 2

計算を行う際には、算盤(さんばん)と呼ばれる、碁盤の目のように格子状の線が引かれた布や板の上で算木を操作した 2 。また、算木には赤と黒の二色に着色されたものがあり、赤を正の数、黒を負の数を表すために用いられることもあった 2 。0(ゼロ)の表現は、当初はその場所に算木を置かないことで示されたが、後に碁石を置いて明示するようにもなった 2

算木を用いた計算の種類と限界

算木を用いることで、加減乗除の四則演算はもとより、開平(平方根の計算)や開立(立方根の計算)といった比較的複雑な計算も行うことが可能であった 2 。中国では、算木を用いて多元の代数方程式や高次方程式を解くことまで行われていたが 1 、日本においては、そこまで高度な数学理論としての利用よりも、実務的な計算が中心であったと考えられる。

しかし、算木による計算にはいくつかの限界も存在した。まず、計算手順がやや煩雑であり、特に加算や減算においては、後に登場する算盤に比べて計算速度が劣った可能性が指摘されている。また、多数の算木を盤上に配置して操作するため、ある程度のスペースを必要とし、計算途中で誤って算木を崩してしまうと、最初から計算をやり直さなければならないという扱いにくさもあった 4 。これらの点は、迅速かつ大量の計算処理が求められるようになった戦国時代においては、無視できない欠点となったであろう。

戦国時代における算木の使用状況

算盤が伝来する16世紀後半までは、戦国時代の武士や僧侶、一部の商人なども、必要に応じて算木を使用していたと考えられる。例えば、平安時代末期に成立した『今昔物語集』には、伊豆守の目代(国司の代理人)の能力を試すために書算(算木による計算)を課したという逸話が記されており、古くから計算能力が個人の評価の一環とされていたことがうかがえる 5

戦国時代においても、寺院は学問の中心地であり、僧侶の中には算術に長け、算木を扱える者も少なくなかった 6 。彼らは、寺領の管理や記録、あるいは教育の一環として算術知識を保持・伝承していたと考えられる。しかし、戦国時代の社会変動とそれに伴う計算需要の増大は、算木という伝統的な計算用具の限界を浮き彫りにし、より迅速で簡便な新しい計算方法への希求を高める一因となった。算木の操作性や速度に関する課題は、戦国時代の多忙な実務において、新たな計算具である算盤の導入と受容を促す背景の一つとなったのである。一方で、算木によって培われた位取りの概念や、数を記号で表して操作するという数学的思考の素地は、後に算盤という新しい道具が登場した際に、その仕組みの理解と普及を間接的に助けた可能性も考えられる。全くの白紙状態からではなく、既存の数学的知識体系の上に新しい技術が導入されたという点は、技術史における一つのパターンとも言えよう。

3. 戦国時代における算盤の伝来と初期の形態

伝来の時期、経路(中国からの影響)

算盤は、その原型を中国に持つ計算用具である。中国では、ローマの「溝そろばん」がシルクロードを経由して伝わったという説が有力であり 1 、14世紀の元朝末期には既に「算盤」という言葉が文献に登場し、当時ある程度普及していたことがうかがえる 1 。その後、明朝末(17世紀)になると『算法統宗』などの数学書が出版され、そろばん計算が主体となって中国の民衆数学が発展した 1

日本へ算盤が伝来したのは、室町時代の後期から末期にかけて、具体的には1570年代(元亀年間頃)とされている 1 。この時期は、戦国大名の勢力争いが激化し、社会が大きく変動していた時代と重なる。伝来の経路としては、当時活発であった日明貿易を通じて、中国人商人や日本人貿易商人、あるいは禅僧などによって、長崎や堺といった国際貿易港にもたらされたと考えられている 1 。1590年代に日本でイエズス会によって刊行された『日葡辞書』には "Soroban" という項目があり、計算道具として記述されていることから、この頃には既に国内に流通し、ある程度認識されていたことが確認できる 9

初期の算盤の構造(例:天二地五の珠配置)、材質、現存する可能性のある遺物

日本に伝来した当初の算盤の形態は、現代日本で一般的に見られるものとは異なっていた。梁(はり)と呼ばれる横棒を境に、上段の珠(五珠)が2個、下段の珠(一珠)が5個配置された、いわゆる「天二地五」と呼ばれるものであった 7 。これは、当時の中国で使用されていた算盤の形態をそのまま踏襲したものであり 10 、この珠の配置は、後述するように、当時の中国の計算方法、特に割り算における帰除法などに適していた可能性が指摘されている。

算盤の材質については、具体的な史料に乏しいものの、枠や珠は主に木製であったと推測される。現存する日本最古級の算盤として特に名高いのが、加賀藩祖・前田利家が所用したとされるものである 1 。この算盤は、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役、1592年)の際、利家が肥前名護屋の本陣で実際に使用したと伝えられている 1 。その大きさは縦約7cm、横約13cm、厚さ約1cmと非常に小ぶりで、携帯に適したものであった 11 。桁数は9桁で、珠の配置は前述の天二地五であった 11 。この利家の算盤は、中国の算盤を模して日本国内で製作されたものと考えられており 11 、利家はこれを常に具足櫃(武具を入れる箱)に納めていたと伝えられている 11

この「天二地五」の珠配置は、現代の「天一地四」(上珠1個、下珠4個)のそろばんへと変化するのは後の時代であり、明治時代以降、計算方法の変遷(例えば割り算の帰除法から商除法への移行)に伴って珠の数が整理されていった 7 。戦国時代から江戸時代初期にかけては、この「天二地五」の形態が標準的であった。この珠の多さが、当時の計算アルゴリズム、例えば計算途中の数値を一時的に盤面に保持したり、特定の操作を容易にしたりする上で、何らかの利点を持っていた可能性が考えられる。

算盤の日本への伝来は、単に新しい道具が持ち込まれたという事象に留まらない。それは同時に、その道具を操作するための計算知識や技術、すなわちノウハウの移転でもあった。貿易商人や禅僧などが、その知識伝達の媒介者となった可能性があり、初期の受容は、前田利家の例に見られるように、実利的な目的意識を持つ武士階級や、あるいは国際的な活動を行う大商人といった層から始まったと考えられる。新しい技術に対する武将の積極的な関心と、それが実戦という極めて実用的な場面で試されたことは、算盤が持つ潜在的な価値を早期に示した事例と言えよう。

表1:戦国時代初期の算盤と算木の比較

特性

算木 (Sangi)

算盤 (Soroban) - 初期 (天二地五)

構造・材質

木製・竹製の棒 2 。赤黒で正負を表すことも 2

木製の枠に串で刺した珠。上段2個(五珠)、下段5個(一珠) 7

操作方法

算盤(さんばん)と呼ばれる盤上で配置を動かす 2

珠を指で上下に弾いて操作 9

計算速度

四則演算、特に加減算は算盤に比べ遅い可能性。

四則演算、特に加減算は迅速 9

扱える計算

四則、開平、開立、高次方程式(中国) 1 。和算では代数計算にも 4

主に四則演算。開平・開立も可能であったとされる 14

携帯性

算木自体は小さいが、計算には盤が必要な場合も。

比較的小型で一体型のため携帯性に優れる(例:前田利家の陣中算盤 11 )。

習熟難易度

配置ルールや操作法の習得が必要。

珠の動かし方と計算アルゴリズム(九九、割九九など)の習得が必要 14

主な使用者層

算盤伝来以前は、知識層(僧侶、役人、武士の一部)。算盤普及後も和算家が使用 15

戦国期は武士階級が先駆的に使用 7 。後に商人、庶民へ普及。

備考

算盤(さんばん)という専用の盤上で使用された 4

当時の割り算九九「帰除法」に適した珠配置だった可能性が示唆される 8 。五珠を2つ持つことで、計算途中の処理が容易だったとも考えられる。

この表は、算盤が戦国時代に導入された背景と、それが既存の計算用具に対していかなる利点を持っていたかを理解する上で重要である。算木も位取り記数法に基づく洗練された計算用具であったが、算盤は操作の迅速性、携帯性、そして特定の計算アルゴリズムへの適応性において、新たな可能性を提示したと言える。

4. 戦国武将と算盤:軍事・統治における活用

戦国時代という未曾有の変革期において、武将たちは生き残りをかけて軍事力の強化と領国経営の効率化に邁進した。この過程で、彼らは増大し続ける計算需要に直面し、新たな計算道具である算盤を実用的なツールとして積極的に導入・活用し始めた。

軍事における算盤

戦国時代の合戦は、それ以前の時代と比較して格段に大規模化し、動員される兵員数も増大した。これに伴い、兵站管理の重要性は飛躍的に高まった。兵士の員数把握、禄高に応じた給与計算、膨大な量の兵糧の調達・消費量・残量の管理、さらには武器弾薬(特に鉄砲や大砲といった新兵器の導入に伴う)の数量管理や売買価格の計算など、軍事行動のあらゆる局面で正確かつ迅速な計算が不可欠となった 7

特に注目すべきは、大砲のような新兵器の運用における計算の役割である。大砲を効果的に使用するためには、標的までの距離を正確に測定し、それに基づいて砲の仰角を計算する必要があった。このような弾道計算には高度な和算の能力が求められ、戦場に算盤が持ち込まれることもあったとされている 17 。これは、従来の精神論が支配的であった戦場に、科学的・計数的な思考が本格的に導入され始めたことを示す象徴的な出来事と言えるだろう 17 。まさに、計算能力が戦の勝敗を左右する要素となりつつあったのであり、算盤を最初に使い始めたのは武士階級であったという指摘 7 は、この状況を的確に表している。

統治における算盤

軍事面のみならず、領国統治においても算盤はその能力を発揮する場面が多々あった。戦国大名は、自らの支配領域を正確に把握し、そこから安定的な収入を確保するために、検地を積極的に実施した。特に豊臣秀吉によって全国規模で推進された太閤検地は、その代表例である。太閤検地では、まず1間を6尺3寸、1坪を6尺3寸四方、300歩を1反といった形で度量衡の統一が図られ、測量に用いる枡も京枡に統一された 18 。その上で、個々の田畑の面積が測量され、その土地の肥沃度などに応じて上田・中田・下田といった等級が付けられた。そして、各等級の田畑一段あたりの標準収穫量である石盛(こくもり)が定められ、これに面積を乗じることで、その土地の総生産力を示す石高(こくだか)が算出されたのである 18

このような一連の作業、すなわち測量結果の集計、等級付けに基づく石盛の適用、そして最終的な石高の算出には、膨大かつ煩雑な計算が伴ったことは想像に難くない。特に、広大な領域を対象とする場合、算盤のような効率的な計算道具の存在は不可欠であったと考えられる 4 。例えば、後北条氏が実施した検地に関する研究では、検地帳において田畑の面積が「歩」という細かい単位で記録され、それに反別あたりの基準貫高(貨幣価値に換算した生産力)を乗じて「分銭」と呼ばれる税額の基礎となる数値を算出し、さらにそこから様々な控除(「引方」)を差し引いて最終的な年貢高(「定納高」)を決定するという、極めて詳細な計算が行われていたことが明らかにされている 21 。このような複雑な計算プロセスを効率的に処理するためには、算盤が有効な手段であった可能性が高い。石高に基づいて年貢量が決定され、その徴収管理においても、算盤は有用な道具として活用されたであろう。

さらに、鉱山の経営(産出される金銀の量の把握)、通貨の鋳造量の管理、商業政策の立案といった経済運営に関わる様々な計数管理業務においても、算盤の有用性は高かったと考えられる。例えば、武田信玄は領国内の金山から産出される金を用いて甲州金と呼ばれる通貨を鋳造し、領内経済の活性化を図ったが 22 、このような政策の巧拙が戦国武将の盛衰に影響を与えた事例は少なくない 23

著名な武将による使用事例

戦国武将が実際に算盤を使用していたことを示す具体的な事例もいくつか残されている。

その筆頭として挙げられるのが、加賀百万石の礎を築いた前田利家である。利家は、文禄の役(1592年)の際に陣中に算盤を携行し、兵員の給与計算や金銀米穀の出納計算などに器用に用いたと伝えられている 8。彼は算勘に明るく、常に幅三寸(約9cm)、長さ六寸(約18cm)ほどの小ぶりな算盤を具足櫃に納めていたという逸話は有名である 11。利家は新しい物好きの一面があり、当時伝来したばかりの算盤を操ることにおいても、まさに先駆けであったと評されている 11。

また、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉も、算盤の価値を認識していた武将の一人である。1591年(天正19年)には、家臣であった久野重勝に算盤を拝領したという記録が残っている 8 。これは、当時の最高権力者が算盤という新しい道具を認識し、その有用性を認めていたことを示唆する事例として重要である。

さらに、ある史料によれば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、明智光秀といった戦国時代を代表する武将たちが、算盤を「魔法の計算機」と評し、その計算能力の高さに驚嘆したという逸話も伝えられている 14 。ただし、この逸話に関しては、後世の創作である可能性も考慮に入れる必要があるものの、当時の人々が算盤の計算能力に対して抱いたであろう驚きや期待感を反映しているものと解釈することもできよう。

これらの事例は、戦国時代の武将たちが、単に武勇に優れているだけでなく、領国経営や軍事運営における計数管理の重要性を認識し、そのための新しい技術や道具を積極的に取り入れようとしていたことを示している。戦国という特殊な環境、すなわち大規模化する軍事行動、中央集権的な領国経営への志向、そして鉄砲や大砲といった新兵器の導入といった要素が、算盤という新技術の価値を際立たせ、その導入を加速させたと言える。特に、大砲のような新兵器を効果的に運用するために必要とされた計算は、従来の精神論に偏りがちであった戦場に、より科学的・合理的なアプローチを持ち込む契機となり、算盤はその実践を支える象徴的な道具となったのである。

算盤を使いこなす能力、すなわち計算能力は、単なる事務処理能力を超えて、武将の戦略的思考や統治能力そのものに影響を与える重要なスキルとなり得た。算勘に明るい武将は、より精密な情報に基づいて計画を立案し、資源を効率的に配分することが可能となり、それが結果として戦力や国力の差となって現れた可能性も否定できない。「歴戦の武将も、そろばんには勝てない」 23 という表現は、武力や知略だけでなく、経済力やそれを支える計数的合理性が、戦国武将の成功にとって不可欠な要素となった時代の変化を象徴していると言えよう。算盤の導入と活用は、戦国大名による権力基盤の強化にも、間接的ながら貢献したと考えられるのである。

表2:戦国武将による算盤使用が示唆される事例

武将名

年代・関連事項

使用状況・文脈

算盤の形態 (判明分)

関連史料・出典

前田利家

文禄の役 (1592年)

陣中での兵員給与、金銀米穀等の計算に使用。常に具足櫃に携帯。

天二地五、9桁

8

豊臣秀吉

1591年 (天正19年)

家臣・久野重勝に算盤を拝領。

不明

8

織田信長

戦国時代

14 の逸話)最新鋭の計算機として認識。

不明

14 (参考)

徳川家康

戦国時代

14 の逸話)最新鋭の計算機として認識。

不明

14 (参考)

明智光秀

戦国時代

14 の逸話)最新鋭の計算機として認識。

不明

14 (参考)

(参考) 武士一般

室町時代後期~戦国時代

兵士の分配、兵糧調達、武器売買など、戦に必須の計算に使用。最初に算盤を使い始めた層と目される。

天二地五 (初期)

7

この表は、戦国武将と算盤の関わりを示す具体的な事例を集約したものである。特に前田利家の事例は、算盤が実戦的な道具として早期に武士階級に受け入れられたことを示す好例と言える。

5. 戦国時代の商業活動と算盤

戦国時代は、戦乱が続く一方で、経済活動も新たな展開を見せた時代であった。各地に商業都市が発達し、それに伴い計算需要も増大したが、商人層における算盤の普及については、武士階級とはやや異なる様相を呈していた。

商業都市の発達と計算需要

戦国時代には、堺、博多、京都などが、国内外の交易拠点として、また金融や手工業の中心地として大いに繁栄した 25 。特に堺は、会合衆(えごうしゅう)と呼ばれる有力商人たちによる自治都市として発展し、その繁栄ぶりは「東洋のベニス」と称されるほどであった 25 。これらの都市では、日明貿易や南蛮貿易といった海外との取引、米や銭を扱う金融業(土倉や酒屋など) 25 、多種多様な商品の仕入れ・販売、在庫管理、そしてそれらを記録する帳簿の作成など、日常的に複雑かつ大量の計算処理が必要とされていた。

ある研究では、当時の商売や天文学、土地の測量など、多岐にわたる分野で計算が必要とされ、より効率的な計算道具が求められていたと指摘されている。そして、算盤は従来の計算用具(主に算木)に比べて、一行が一桁を表す合理的な構造を持つことで、計算の速度と正確性を飛躍的に向上させたと評価されている 13 。このような状況を鑑みれば、商業活動の現場においても、算盤が持つ潜在的な有用性は極めて高かったと言えるだろう。

商人による算盤利用の可能性と史料的検討

算盤が持つ迅速な計算能力と、前田利家の陣中そろばんの例にも見られるような携帯性の高さは、日々変動する相場や煩雑な取引を扱う商人にとって、大きな魅力であったはずである 9 。しかしながら、戦国時代における商人が算盤を広範に使用していたことを直接的に示す同時代の史料は、武士階級による使用事例と比較すると、現時点では限定的であると言わざるを得ない。多くの研究では、商人層への算盤の本格的な普及は、江戸時代に入り、吉田光由の著した『塵劫記』という優れた算術入門書が登場し、版を重ねて広く読まれるようになってからであるとされている 7

実際に、ある史料は、教育が一般に普及し商業が本格的に発達するのは戦乱の収まった平和な時代になってからであり、その際に「読み書きそろばん」が立身出世のための必須の技能となったと述べているが、これは主に江戸時代以降の状況を指していると考えられる 7

ただし、このことは戦国時代の商人が全く算盤を使用しなかったことを意味するものではない。16世紀後半に算盤が日本に伝来し、その利便性が徐々に認識され始めると、特に先進的な考えを持つ商人層や、海外との交易に携わるような大商人たちが、これをいち早く取り入れた可能性は十分に考えられる。彼らにとって、計算の効率化は経営の合理化に直結し、競争力を高める上で死活問題であったからだ。会計史の観点から見ると、日本では和紙で作られた長帳や袋帳といった帳簿に筆で取引を記録し、そろばんを用いて集計を行う「帳合」という会計実務が行われていた 28 。この帳合が戦国時代にどの程度実践されていたかについては更なる史料的検討を要するが、算盤の登場が帳簿記録の精度向上や効率化に何らかの影響を与えた可能性は否定できない。江戸時代の商家における資産と負債を記録する単式簿記の事例も報告されている 29

算盤の導入と普及には、社会階層や職業によって時間的なずれ(タイムラグ)や浸透の度合いに差が存在した可能性がある。武士階級が軍事・統治という国家的あるいは組織的な喫緊の必要性から比較的早期に算盤を導入したのに対し、商人層への普及は、個々の商人の経済合理性に基づく判断や、算盤の操作方法を学ぶ教育機会の拡大といった要因と関連し、より漸進的であったのかもしれない。

また、史料の偏在という問題も考慮に入れる必要がある。武士の活動に関する記録、特に武功や統治に関わる公的な文書は比較的残りやすいのに対し、個々の商人の日常的な計算実務に関する私的な記録は散逸しやすく、現存するものが少ない傾向にある。そのため、商人による算盤使用に関する史料が少ないからといって、直ちに「使用されなかった」と結論づけるのは早計である。特に、堺や博多のような国際貿易港を拠点としていた商人たちは、中国の商人との直接的な接触を通じて、算盤の知識や実物を比較的早い段階で入手し、実務の中で限定的に使用していた可能性は十分に考えられる。彼らが実利的な観点からこの新しい計算道具を試用したとしても何ら不思議はなく、ただそれが広範な記録として残らなかっただけなのかもしれない。

6. 戦国時代の算術教育と算盤

戦国時代における算術の知識と技能は、特定の階層にとっては実務遂行上、不可欠なものであった。しかし、その教育機会は限られており、算盤という新しい計算道具の登場は、教育のあり方にも新たな課題を提示した。

武士階級における算術の重要性

戦国時代の武将は、単に武勇に秀でているだけでなく、領国を統治し、家臣団を率いるための幅広い教養と実務能力を身につける必要があった。その教育内容には、兵法、法律、文学、歴史などと共に、算術も重要な科目として含まれていた 6 。算術の知識は、検地の実施とそれに基づく石高の算定、年貢の徴収、兵糧や武器弾薬の管理といった兵站業務、さらには城郭の設計や普請といった土木事業など、武士が担うべき多岐にわたる実務に直結するものであった。

例えば、豊臣政権下で五奉行の一人として活躍した石田三成は、幼少期に寺院で多くの学問を修めた結果、政治手腕のみならず、算術や文芸においても優れた才能を発揮したと伝えられている 6 。三成が検地や太閤蔵入地の管理といった財政・行政面で重用された背景には、このような算術能力があったと考えられる。この事例は、算術が武将の統治能力を形成する上で重要な要素であったことを示している。

寺院や僧侶が果たした教育的役割

戦国時代において、庶民を対象とした公的な教育機関はまだ存在せず、教育は主に寺院とその僧侶によって担われていた 6 。僧侶は当時の知識階級であり、経典の研究を通じて漢籍や仏教哲学はもとより、時には天文学や医学、そして算術といった実用的な学問にも通じていた。そのため、多くの戦国武将が幼少期に寺院に預けられて教育を受けたり、あるいは学識ある僧侶を教育係として城に招いたりした。

上杉謙信が幼少期を林泉寺で過ごし、今川義元が僧侶としての教育を受けた後に還俗して家督を継いだ例などはよく知られている 6 。寺院で施される教育の内容は多岐にわたり、仏教哲学(『般若心経』や『観音経』など)、一般常識の教科書とされた『庭訓往来』、法律書である『貞永式目』、儒教の経書である『四書五経』、中国の兵法書である『六韜三略』、さらには『源氏物語』や『万葉集』といった古典文学などが含まれていた 6 。これらの学問と並んで、算術もまた、寺院における教育内容の一つであったと考えられる。

庶民への算術教育の萌芽

一方で、戦国時代の庶民を対象とした組織的な算術教育は、まだ一般的ではなかったと言える。「読み書きそろばん」という言葉に象徴されるように、算盤を含む初等教育が寺子屋などを通じて広く庶民に普及するのは、戦乱が収まり、商業が飛躍的に発展する江戸時代に入ってからのことである 7

しかし、戦国時代においても、商人や職人といった実務に計算を必要とする人々の中には、徒弟制度や家業の継承といった形を通じて、限定的ながらも計算知識が口伝や実地訓練によって伝えられていた可能性は否定できない。平安時代末期の『今昔物語集』には、官吏の計算能力に関する逸話が見られるほか 5 、当時の官吏が租税、建築、土木、天文暦といった実務のために、ある程度の数学を学ばねばならなかったことが指摘されており 5 、計算能力を持つ層が限定的ながらも存在していたことがうかがえる。

算盤が日本に伝来した当初は、その操作方法や計算アルゴリズム、特に「天二地五」の珠を用いた帰除法といったやや複雑な技法を教えることができる専門的な指導者は、極めて限られていたであろう。初期の算盤使用者は、中国の知識を持つ者からの断片的な情報や、現物を見よう見まねで操作する中で、独学に近い形でその使用法を習得していった可能性も考えられる。ある史料では、算盤の使いこなしは「特殊技能」に属していたと述べられている 14 。前田利家が「新しい物好き」で「そろばんを操ることにおいても、正に先陣を切っていた」 11 と評されるのも、彼が自らその価値を見出し、おそらくは困難を伴いながらもその技術を習得したことを示唆している。組織的な教育体制が整い、算盤がより広範な人々に普及するのは、江戸時代に入り、『塵劫記』のような優れた教科書が登場してからのことである。武士階級への算術教育が実用的な目的と強く結びついていたことは、算盤という新しい道具が、まずその実用性を最も切実に求める層によって採用されたことを示している。

7. 算盤普及の初期段階と関連文献

算盤が日本社会に浸透していく初期の段階において、その知識や使用方法を伝え、体系化する上で重要な役割を果たしたのが、当時出版され始めた算術書であった。これらの文献は、算盤登場以前の計算実務を反映しつつ、徐々に算盤による新しい計算法を取り込んでいった。

『算用記』など、戦国期から江戸初期にかけての算術書における算盤の位置づけ

  • 『算用記』
    日本で刊行された数学書としては最古の部類に属し、その成立は1600年前後、あるいは16世紀末から17世紀初頭にかけてと推定されている 30。現存するものは極めて少なく、一冊のみとも言われる 30。この時期は、まさに算盤が日本に伝来し、その存在が認識され始めた頃と重なる。
    『算用記』の内容は、当時の日常生活や経済活動に密接に関連した実用的な計算が中心であった。具体的には、掛算や割算といった基本的な四則演算のほか、商品の売買計算、銭と銀の両替計算、面積計算、簡単な測量などが含まれていたとみられる 32。ある研究によれば、『算用記』は、それまで個々の人々が必要に応じて書き留めていた計算方法や知識が、次第に集積・整理されて成立したものであり、その後も多くの人々によって手が加えられていったとされる 30。
    算盤との関連については、直接的な記述の有無やその詳細について、現存史料の制約から不明な点も多い。しかし、30 は「室町時代の中頃に伝わってきた計算道具の『ソロバン』は便利なものだったから、この練習のテキストとしても『算用記』が使われた」という趣旨の記述をしており、算盤の練習書として用いられた可能性を示唆している。毛利重能の『割算書』よりも古い数学書として、『算用記』は和算史において重要な位置を占めている 4。近年では、これまで翻刻されていなかった「皕畦本『算用記』」の全文翻刻が進められるなど、その内容解明に向けた研究が続けられている 33。
  • 毛利重能『割算書』(1622年、元和8年)
    『割算書』は、珠算、すなわちそろばんによる計算方法を本格的に解説した、日本初期の重要な文献である 4。その内容は、八算(はっさん)と呼ばれるそろばんを用いた割り算の九九やその唱え方、糸割(生糸の輸入割当に関する計算か)、金割算(金貨に関する計算)、借銀借米(金銭や米の貸借計算)、米の売買計算といった、日常生活や商業活動に不可欠な計算問題が中心であった。また、長方形や三角形の面積計算など、簡単な図形問題も含まれていた 32。
    著者の毛利重能は、京都で「天下一割算指南」の看板を掲げて塾を開き、そろばんの指導を行ったとされ、その門下からは後に『塵劫記』を著す吉田光由や、関孝和の師とされる高原吉種といった著名な和算家を輩出した 4。1592年(文禄元年)には、割り算の九九である「帰除法」が日本で広まったとされており 8、『割算書』は、この帰除法を含む、当時のそろばん(天二地五の珠配置)による具体的な計算技術を体系的に示した初期の文献として、歴史的価値が高い。
  • 吉田光由『塵劫記』(1627年、寛永4年)
    厳密には戦国時代の著作ではないが、算盤の普及に決定的かつ広範な影響を与えた数学入門書として、『塵劫記』は欠かすことができない 1。この書物は、そろばんの基本的な使い方、珠の動かし方から始まり、加減乗除の四則演算、日用計算(売買、利息、測量、面積計算など)、さらには継子立て、ねずみ算、油分け算といった数学遊戯に至るまで、多岐にわたる内容を扱った。特筆すべきは、それらが豊富な挿絵と共に、極めて分かりやすい言葉で解説されていた点である 4。
    『塵劫記』の登場は、それまで一部の専門家や知識層に限られていた算術の知識やそろばんの操作技術を、武士階級はもとより、商人や一般庶民にまで広める上で、画期的な役割を果たした 7。江戸時代を通じて版を重ね、多くの人々に読まれた『塵劫記』は、日本の民衆の計算能力向上に大きく貢献した。

算木から算盤への移行期における両者の併用状況

算盤が日本に伝来して普及し始めたからといって、それまで主要な計算用具であった算木が直ちに姿を消したわけではなかった。両者が併用された期間が相当程度存在したと考えられている。

ある研究では、そろばんは会計処理や日常的な計算といった実用的な場面で広く用いられるようになったのに対し、算木は主に和算家と呼ばれる数学の専門家たちによって、天元術(中国由来の代数方程式の理論)などのより高度な数学的計算や理論的研究の際に用いられ続けたと指摘されている 4。また、当時の和算家の中には、算木を用いて高次方程式の近似解を求める一方で、日常的な計算にはそろばんを用いるというように、両者を使い分けていた可能性も示唆されている 16。映画『天地明察』において、主人公が算木とそろばんを共に用いて暦の計算に取り組む場面が描かれているのは、このような併用の状況を反映したものかもしれない 16。

そろばんは、算木に比べて手の上で珠を弾いて計算できるため操作が迅速であり、特に貿易の現場や野外での測量、土木工事といった実用性が重視される場面でその威力を発揮したとされる 9 。一方で、算木は特定の数学的操作(例えば、方程式の係数を盤上に配置して視覚的に操作するなど)において、独自の利点を持っていた可能性もある。日本では17世紀以降、日常生活においてはそろばんが計算の中心となり、算木は主に和算家の間で継承されていくという形で、両者の役割分担が進んでいったと考えられる 15

これらの算術書の登場と、算木・算盤の併用状況は、戦国末期から江戸初期にかけての日本社会が、新しい計算技術を徐々に受容し、体系化し、そして普及させていく過渡期の様相を示している。『算用記』のような初期の試みから、『割算書』によるそろばん専門書の出現、そして『塵劫記』による大衆化へと至る流れは、実用的な計算知識が社会に定着していくプロセスを如実に物語っている。この時期は、算盤という新しいツールとその使用法が、まず専門家や先進的な実務家(初期の和算家や一部の武士)の間で確立され、やがて一般の人々へと広まっていくための準備段階であったと言えるだろう。

特に『割算書』や、それ以前に口伝で教えられていたであろうそろばんの計算法は、当時の標準であった「天二地五」のそろばんを前提としていた。割り算の技法である「帰除法」 8 などは、この珠配置と密接に関連していたはずである。例えば、『塵劫記』にも見られる割り算九九(帰除法の一部)の「二一天作五(にいちてんさくのご)」という言葉は、「10を2で割れば商が5になる」という意味であるが、これはそろばんの操作として、十の位の一珠を払い、上の五珠の一つを降ろして5と置くことを表していると解釈できる 35 。この操作は、天二地五のそろばんにおける五珠の活用を示唆している。これらの初期のそろばん関連文献は、天二地五そろばん特有の操作法や、当時の主要な計算アルゴリズムを記録し、伝達するという重要な役割を担っていたのである。

表3:戦国期~江戸初期の主要算術書と算盤関連記述

書名

著者(推定含む)

成立年代 (推定)

算盤に関する記述内容・特徴

関連史料・出典

『算用記』

不詳

16世紀末~17世紀初頭

日常生活の計算(売買、両替、面積等)。そろばん伝来初期の計算実務を反映、またはそろばん練習のテキストとして使用された可能性 30 。図解の有無は現存史料からは不明瞭な点が多い。

4

『割算書』

毛利重能

1622年 (元和8年)

珠算(そろばん)を解説。八算(割算)、日常生活の計算。帰除法など、天二地五そろばんによる計算方法を記述した初期の文献。

4

『塵劫記』

吉田光由

1627年 (寛永4年)

そろばんの基本操作、四則演算、日用計算、数学遊戯などを図入りで平易に解説。天二地五そろばんの使用法が前提。その後のそろばん普及に絶大な影響。割り算九九(帰除法の一部)の記述あり 35

1

(参考) 『日葡辞書』

1590年代

"Soroban" の項目があり、計算道具として記述。当時すでに日本で認識・使用されていたことを示す史料の一つ。

9

この表は、算盤という新しい計算道具が、どのようにして書物を通じて知識として体系化され、社会に広まっていったのか、その初期の過程を概観するものである。

8. 結論:戦国時代における算盤の意義と後世への影響

戦国時代の社会変革(軍事、経済、統治)における算盤の役割の総括

戦国時代という未曾有の社会変動期に日本に伝来した算盤は、その卓越した計算能力によって、当時の喫緊の課題に対応するための実用的な道具として、まず武士階級に注目された。彼らは、大規模化・複雑化する軍事行動における兵站管理や、新兵器(特に大砲)の効果的な運用に必要な弾道計算といった軍事目的、さらには検地による領国支配の強化や年貢収取の効率化といった統治目的のために、算盤を積極的に導入し活用した。その迅速性と効率性は、それまで主流であった算木による計算に比べて格段に優れており、戦国時代のダイナミックな社会変動の中で急増する高度な計算需要に応えるものであった。

商業活動の分野においても、特に大規模な取引や金融業を営む商人たちにとって、算盤が持つ潜在的な有用性は極めて高かったと考えられるが、その広範な普及と社会への定着は、戦乱が収まり経済が安定成長期に入る江戸時代を待つことになった。

しかし、算盤の導入は、単に計算道具が新しいものに置き換わったという技術的な変化に留まるものではなかった。それは、より合理的かつ計数的な思考法や問題解決へのアプローチを、徐々にではあるが社会の各層に浸透させる契機となった可能性を秘めていた。戦場における科学的思考の導入 17 や、精密なデータに基づく領国経営の試みは、その萌芽と言えるかもしれない。

江戸時代の和算発展への繋がり

戦国時代に導入され、その実用性が一部の先進的な層によって確認された算盤は、江戸時代に入ると、吉田光由の『塵劫記』という画期的な入門書の登場によって、武士階級だけでなく、商人や一般庶民にまで広く普及する道が開かれた。寺子屋における教育では、「読み書きそろばん」が基本的な学習項目の一つとして重視され、日本の民衆の計算能力(リテラシー)の向上に大きく貢献した 7

この庶民レベルでの計算能力の向上と、算術に対する関心の高まりは、関孝和などに代表される江戸時代における高度で独創的な数学、すなわち和算が発展するための重要な基盤の一つとなった。実用的な計算道具としてのそろばんの普及が、より抽象的で理論的な数学への関心を喚起し、それを支える人的資源を育成した側面は否定できない。

このように、戦国時代における算盤の導入と初期の活用は、決して華々しいものではなかったかもしれないが、その後の日本の数学文化の発展と、社会全体の計算実務能力の向上という観点から見れば、極めて重要な第一歩であったと評価することができる。戦国時代の算盤の導入・普及過程は、(1)海外からの新技術の伝来、(2)社会の特定層(この場合は武士階級)による実利的・応用的な目的での採用、(3)その有用性の証明と関連知識の蓄積(『算用記』や『割算書』といった初期の算術書の登場)、そして(4)教育システムとの連携を通じた大衆化(江戸時代の寺子屋教育と『塵劫記』の普及)という、技術が社会に実装され、文化として定着していく一つの典型的なプロセスを示していると言えるだろう。

さらに言えば、算盤の普及は、それまで一部の専門家や知識層の特権であった高度な計算能力を、より広範な人々が習得することを可能にした。これは一種の「計算の民主化」とも捉えることができ、商取引の透明性の向上、行政実務の効率化、さらには個人の立身出世の手段(「読み書きそろばん」 7 )として、江戸時代の社会構造や経済活動のあり方にも少なからぬ影響を与えたと考えられる。戦国時代は、まさにその大きな流れが始まる萌芽期だったのである。

引用文献

  1. “4つ玉そろばん”の可能性、世界・未来に。|トモエ算盤株式会社 https://www.soroban.com/museum/
  2. 算木 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%97%E6%9C%A8
  3. 算木(サンギ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%AE%97%E6%9C%A8-70494
  4. 和算 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%AE%97
  5. 日本数学史(その一) http://bud.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=5162
  6. 戦国武将を育てた寺の教育/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/69036/
  7. そろばんの歴史について – いしど式まとめ - 石戸珠算学園 https://www.ishido-soroban.com/matome/57/
  8. そろばんの歴史 | 公益社団法人全国珠算教育連盟 https://www.soroban.or.jp/museum/history/
  9. 第1章 江戸時代初期 | 江戸の数学 - 国立国会図書館 https://www.ndl.go.jp/math/s1/1.html
  10. そろばん - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9D%E3%82%8D%E3%81%B0%E3%82%93
  11. 加賀百万石を築いた武将・前田利家はそろばんを愛用していた https://soroban-museum.note.jp/n/n43808660ed25
  12. そろばん珠の数の移り変わりを紹介:天1地5そろばん https://soroban-museum.note.jp/n/n5b7190cb3672
  13. そろばんの歴史 - mapamo(マパモ)チャイルドアカデミー https://www.childacademy.jp/soroban-history/
  14. 興味深い記事 - 新そろばん楽習塾 https://www.shin-soroban.com/2017-5-29/
  15. uec.repo.nii.ac.jp https://uec.repo.nii.ac.jp/record/2000128/files/360102.pdf
  16. 算木(さんぎ)と算盤(さんばん)(1/1) - FC2 http://takasakiwasan.web.fc2.com/sanngi_1.html
  17. 『戦国日本の軍事革命』/藤田達生インタビュー|web中公新書 https://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/119977.html
  18. 秀吉株式会社の研究(1)太閤検地で基準を統一|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-052.html
  19. 太閤検地(タイコウケンチ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A4%AA%E9%96%A4%E6%A4%9C%E5%9C%B0-91096
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  23. 「お金の流れで見る戦国時代 歴戦の武将も、そろばんには勝てない」感想文 - note https://note.com/kashiwa1969/n/n0a362e7873a7
  24. お金の流れで見る戦国時代 歴戦の武将も、そろばんには勝てない | 大村 大次郎 |本 | 通販 https://www.amazon.co.jp/%E3%81%8A%E9%87%91%E3%81%AE%E6%B5%81%E3%82%8C%E3%81%A7%E8%A6%8B%E3%82%8B%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3-%E6%AD%B4%E6%88%A6%E3%81%AE%E6%AD%A6%E5%B0%86%E3%82%82%E3%80%81%E3%81%9D%E3%82%8D%E3%81%B0%E3%82%93%E3%81%AB%E3%81%AF%E5%8B%9D%E3%81%A6%E3%81%AA%E3%81%84-%E5%A4%A7%E6%9D%91-%E5%A4%A7%E6%AC%A1%E9%83%8E/dp/4046017112
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