緋羅紗陣羽織の総合的考察:戦国時代のグローバリズムと武将のアイデンティティ
序論:越後の龍を飾った伝説の緋色
上杉謙信が所有したと伝わる、黒みを帯びた鮮やかな深紅色の陣羽織。この一領の衣服は、単なる戦衣に留まらず、戦国という時代の精神、国際交易のダイナミズム、そして一人の武将の美学と信仰を凝縮した「歴史の証言者」として、長きにわたり人々の想像力を掻き立ててきた。表地は羊毛、裏地は絹で織られたとされるこの陣羽織は、その鮮烈な色彩と異国の素材感によって、持ち主である上杉謙信の並外れた存在感を象徴するアイコンとなっている。
しかし、この伝説的な陣羽織の真の姿とは、一体どのようなものであったのだろうか。その素材である「緋羅紗」はどこから来たのか。なぜその色が選ばれ、武将たちを熱狂させたのか。そして、最も重要な問いとして、「謙信所用」という伝承は史実としてどこまで検証可能なのであろうか。本報告書は、これらの根源的な問いに答えるべく、現存する遺物と国内外の膨大な資料を駆使し、緋羅紗陣羽織をめぐる歴史の深層に迫るものである。伝承の霧を払い、物質文化史、技術史、世界史的視点を統合することで、一領の陣羽織が内包する多層的な物語を解き明かしていく。
第一章:緋羅紗陣羽織の実像 ― 伝承と現存遺物
緋羅紗陣羽織を論じるにあたり、まず「伝承」と「現物」を慎重に区別し、客観的な事実から考察を始める必要がある。本章では、戦国時代の緋羅紗陣羽織として最も著名な作例を基準点として提示し、次いで本題である上杉家伝来の遺物に焦点を当てる。最後に、その遺物がなぜ今日まで驚くべき状態で残されたのか、その背景にある歴史的要因を探る。
第一節:伝承の検証と著名な作例
まず明確にすべきは、戦国時代の「緋羅紗陣羽織」として最も著名で、かつ学術的にも頻繁に参照される遺物は、上杉謙信ではなく、小早川秀秋(1582-1602)が所用したと伝わる一領であるという事実である。この「緋地羅紗違鎌文陣羽織(ひじらしゃたがいかまもんじんばおり)」は、現在、東京国立博物館に所蔵され、国の重要文化財に指定されている
1
。
この陣羽織は、安土桃山時代・16世紀の作とされ、当時の服飾文化の粋を凝縮した傑作として知られる
3
。その特徴は多岐にわたる。まず目を引くのは、背面に大きく大胆に配された家紋の「違鎌文(たがいかまもん)」である。これは、白と黒の羅紗を鎌の形に切り抜き、緋色の地に嵌め込む「切り嵌め(きりばめ)」という高度な技法で表現されている
1
。さらに、裾や袖の形状は、従来の和服に見られる直線的な裁断とは一線を画す、大胆な曲線裁ちが採用されており、これは当時日本にもたらされた西洋服飾の影響を強く感じさせる
2
。
細部にも注目すべき点が多い。前身頃を留める部分には、日本の伝統的な紐ではなく、西洋風の小さな赤いボタンが用いられている
4
。また、裏地は唐花文様が織り出された西欧製の白緞子(しろどんす)で、その背裏中央には、着用者の延命を願ったのであろう「丸に永」の文字が青緑色の絹糸で大きく刺繍されている
2
。これらの特徴は、この陣羽織が単なる装飾品ではなく、異国の最新技術とデザインを取り入れつつ、戦場での武運長久を願う所有者の切実な祈りをも込めた、極めて多機能な衣服であったことを示している。
この小早川秀秋の陣羽織がこれほどまでに著名である背景には、美術的価値の高さに加え、所有者自身の劇的な生涯が大きく影響している。豊臣秀吉の養子でありながら、天下分け目の関ヶ原の戦いで東軍に寝返り、合戦の勝敗を決した彼の行動は、日本の歴史の大きな転換点となった
5
。この派手で大胆な陣羽織は、彼の「かぶき者」としての気質と、歴史の奔流に翻弄された若き武将の悲劇性を象徴するアイコンとして、物語と共に記憶されているのである。
第二節:上杉家伝来の緋羅紗陣羽織
本報告書の主たる分析対象は、山形県米沢市の上杉神社に併設された宝物殿「稽照殿(けいしょうでん)」に現存する、上杉家伝来の緋羅紗陣羽織である
6
。この遺品は、小早川秀秋のものほど一般には知られていないが、上杉謙信およびその後継者である上杉景勝の美意識や実用主義を考察する上で、極めて重要な一次史料である。
この陣羽織に関する最も詳細な記述は、服飾史研究者の神谷栄子氏による論文『伝上杉謙信所用陣羽織八領』に見ることができる。この論文によれば、上杉家に伝わる羅紗製の陣羽織は複数領あり、その中でも特に注目されるのが緋羅紗を用いた一領である
8
。
その物理的特徴は、小早川のものとは異なる独自の個性を示している。
-
素材:
表地は、小早川のものと同じく緋色の羅紗である。しかし、裏地には白緞子ではなく、「浅葱鍛子(あさぎどんす)」、すなわち水色(浅葱色)の光沢ある絹織物が用いられている
8
。燃えるような緋色と、冷静さを感じさせる淡い水色の対比は、着用者のみが知る密やかな美意識であり、外に見せる威厳と内に秘めたる洗練という二面性を示唆している。
-
形状:
最も注目すべき特徴は、着用に際して胸紐を必要としない仕立てになっている点である
8
。神谷氏が指摘するように、これは頻繁な着脱を考慮した、極めて実用的な設計思想を反映している可能性がある。甲冑の上から着用し、戦況や儀礼に応じて素早く着脱する必要があったのかもしれない。この点は、華美な装飾性よりも戦場での機能性を優先した、謙信あるいは景勝の武人としての合理主義を物語る重要な証拠と言える。
このように、上杉家伝来の緋羅紗陣羽織は、小早川のものと比較して装飾は抑制的でありながら、素材の対比と実用的な形状において、独自の思想と美学を明確に示しているのである。
第三節:驚異的な保存状態の背景
上杉家伝来の服飾類、とりわけ羅紗のような脆弱な素材が、数百年を経てもなお新品同様の感触を保っているという事実は、専門家をも驚嘆させるものである
8
。この奇跡的な保存状態は単なる偶然の産物ではない。それは、藩祖・上杉謙信への敬意と、自らの歴史と文化を後世に伝えようとする米沢上杉藩の強固な意志が、数世紀にわたって継続した結果なのである。
この背景には、米沢藩の歴史が深く関わっている。
第一に、上杉家には古くから文書や宝物を体系的に管理・保存する文化があった。江戸時代を通じて、膨大な量の上杉家文書が内容別に紙袋に入れられ、箪笥に厳重に収納されてきたように、服飾品もまた専用の蔵などで適切な管理下に置かれていたと推測される 9。
第二に、藩財政を再建した名君として知られる9代藩主・上杉鷹山(1751-1822)の存在が大きい。鷹山は徹底した倹約令で知られる一方、藩校「興譲館」を設立するなど教育や文化を極めて重視した
10
。彼の有名な「伝国の辞」に示されるように、国(藩)は君主の私物ではなく、次世代へ継承していくべき公のものであるという思想は、物質的な文化遺産の保護にも向けられた
11
。鷹山の治世下で確立された、文化財を藩の精神的支柱として保護し、後世に継承していくという思想が、今日の良好な保存状態に繋がっているのである
12
。
多くの大名家が戦乱や明治維新の混乱の中で貴重な遺品を散逸させた中で、上杉家の遺品群がこれほどまとまって、かつ良好な状態で現存することは特筆に値する。一領の緋羅紗陣羽織は、米沢藩の優れた文化政策と、自らの歴史に対する深い敬意の結晶体とも言えるのである。
第二章:素材の解読 ― 羅紗と緋色、その価値の源泉
緋羅紗陣羽織の価値を理解するためには、それを構成する「羅紗」という布地と「緋色」という色彩、それぞれの歴史的価値を解き明かす必要がある。これらは単なる素材ではなく、16世紀の世界的な技術と交易の粋を集めた、時代の最先端を示す記号であった。
第一節:羅紗 ― 南蛮渡来の高級毛織物
羅紗(ラシャ)とは、羊毛を原料とし、製織後に縮絨(しゅくじゅう)・起毛といった加工を施すことで、織り目を意図的に見えなくした厚手の毛織物の総称である
14
。その名は、ポルトガル語で毛織物を意味する "raxa" に漢字を当てたものとされる
16
。羊毛の繊維を圧縮してシート状にする不織布のフェルトとは異なり、羅紗はあくまで一度織られた「織物」である点が特徴である
18
。
この羅紗が日本にもたらされたのは、16世紀後半、ポルトガルやスペインとの間で行われた南蛮貿易を通じてであった
18
。当時の日本には羊毛を生産する基盤がなく、羅紗は完全に舶来の希少品であった。そのため、その価格は極めて高価であり、所有すること自体が、大名の経済力と国際的な交易網へのアクセスを誇示する、絶好のステータスシンボルとなった
1
。織田信長や豊臣秀吉をはじめとする戦国武将たちは、この異国の珍しい布地を競って求め、陣羽織や合羽(かっぱ)に仕立ててその身を飾った
20
。
しかし、羅紗の価値は、その希少性だけに由来するものではなかった。それは同時に、極めて優れた実用性を備えた、当時のハイテク素材でもあった。
-
保温性:
密に織られ、縮絨された羊毛は多くの空気を含むため、非常に高い保温性・防寒性を発揮する
21
。これは、雪深く厳しい冬を迎える越後を本拠地とする上杉謙信にとって、極めて実用的な価値があった。
-
防炎・防水性:
羊毛は、その繊維構造から比較的燃えにくく、水を弾く性質を持つ。これは、火縄銃が普及し、戦場で火気や水濡れのリスクが高まった当時、甲冑の上に着るものとして理想的な特性であった
20
。この優れた特性は後世にも評価され、江戸時代には大名や武士が火事の際に着用する「火事羽織」の素材として広く用いられることとなる
24
。
このように、羅紗の価値は「希少性(ステータス)」と「実用性(機能)」という二重構造によって成り立っていた。戦場という極限状況において、自らの威厳を最大限に演出しつつ、身を守る機能も併せ持つ羅紗は、戦国の武将たちにとってまさに理想的な素材だったのである。
第二節:猩々緋 ― 世界を旅した奇跡の赤
緋羅紗陣羽織のもう一つの価値の源泉は、その鮮烈な「緋色」にある。この色は、単に美しいだけでなく、その入手経路自体が16世紀の世界史を物語る、極めて希少で高価なものであった。
この色は、日本では伝説上の生き物にちなんで「猩々緋(しょうじょうひ)」と呼ばれ、武将たち垂涎の的となった
19
。その染料の正体は、中南米のウチワサボテンに寄生する「コチニールカイガラムシ」という昆虫から抽出される、カルミン酸という動物性の色素である
28
。
この「赤」が日本の武将の元に届くまでには、地球を半周する壮大な価値の連鎖(グローバル・サプライチェーン)が存在した。
-
原産地と古代文明:
元来、コチニールは古代アステカ帝国やインカ帝国で神聖な染料として養殖され、王族や神官の衣服を染めるために珍重されていた
29
。
-
スペインによる独占とヨーロッパへの伝播:
16世紀、エルナン・コルテス率いるスペインがアステカ帝国を征服した後、彼らはこの「奇跡の赤」の価値に気づく。コチニールは、新大陸から得られる銀に次ぐほど重要な輸出品となり、スペインに莫大な富をもたらした
31
。その製法は国家機密とされ、当時のヨーロッパで主流であった他の赤色染料を凌駕する鮮やかさで、ルネサンス・バロック期の絵画や、カトリック教会の枢機卿がまとう法衣など、最高級の用途に用いられた
31
。
-
日本への到達:
この世界的な高級品が、南蛮貿易を通じて、すでに猩々緋に染め上げられた羅紗などの織物製品として、はるばる日本にもたらされたのである。
その希少性は日本においても絶対的なものであった。江戸時代中期、8代将軍・徳川吉宗は、この貴重な染料の国産化を試み、出島のオランダ商館を通じてカイガラムシの輸入を打診した。しかし、交易の独占権を失うことを恐れたオランダ側の思惑や、日本の多湿な気候がカイガラムシの育成に適さなかったことなどから、この試みはことごとく失敗に終わる
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。この事実は、戦国時代から江戸時代にかけて、猩々緋がいかに手の届かない、貴重な輸入品であったかを雄弁に物語っている。
緋羅紗陣羽織の「赤」は、単なる色ではない。それは、16世紀の大航海時代における世界の富と権力の流れそのものを象徴している。アステカの民が育て、スペインのコンキスタドールが奪い、ヨーロッパの王侯貴族がその身を飾り、そして日本の戦国武将が戦場で纏った。この一色に、帝国の興亡、グローバルな交易網、文化の衝突と融合の壮大な歴史が凝縮されている。上杉謙信がこの陣羽織を羽織ることは、世界の最先端の富と技術をその身に纏うことを意味したのである。
第三章:戦国武将の装い ― 陣羽織の機能と意匠
最高級の素材を用いて作られた「陣羽織」は、戦国時代という特殊な状況下で、武将のアイデンティティを表現するための重要なメディアであった。本章では、その多面的な機能と、当時の武将たちの美意識を反映した意匠の変遷を考察する。
第一節:戦場の晴れ着 ― 陣羽織の多機能性
陣羽織は、単なる防寒・防護のための衣服ではなかった。それは甲冑の上に着用することで、戦場という極限状況において複数の重要な役割を果たした。
-
識別機能:
混沌とした戦場で、大将の所在を敵味方に明確に示すための視覚的標識としての役割。特に、緋羅紗のような鮮やかで目立つ陣羽織は、遠方からでも総大将の位置を識別させ、軍の統制を維持するために不可欠であった
34
。
-
儀礼的・心理的機能:
派手な陣羽織は、自軍の士気を鼓舞し、兵士たちの結束を高める役割も担った。大将が威風堂々たる姿を示すことは、味方に安心感と勝利への確信を与え、敵には畏怖の念を抱かせる心理的な効果があった
34
。
-
装飾的・象徴的機能:
羅紗やビロードといった高価な舶来生地を用いた陣羽織は、それを着用する武将の経済力と権勢を視覚的に誇示する象徴であった
20
。陣羽織は、武将の「武威」を可視化するための、戦場の晴れ着だったのである。
その形態も、時代と共に変化した。当初は袖のある形式も見られたが、次第に甲冑の上から羽織りやすく、腕の動きを妨げない袖なしの形式が主流となった。特に、織田信長などが好んだとされるマント風の陣羽織は、南蛮文化の影響を色濃く反映している
20
。
第二節:桃山文化の粋 ― 南蛮趣味と技術革新
安土桃山時代の陣羽織には、南蛮文化の影響を受けた、従来の日本の服飾には見られない斬新な技術と意匠が数多く取り入れられた。
-
技術革新(裁断法):
日本の伝統的な衣服(和服)は、反物を無駄なく使用するために、布を直線的に裁断することを基本としてきた
37
。しかし、小早川秀秋の陣羽織に見られるように、羅紗のような厚手の生地を扱う中で、身体のラインに合わせて布を裁断するヨーロッパ服飾の
曲線裁断
が取り入れられた
1
。これは、日本の服飾史において画期的な出来事であり、より立体的でダイナミックなフォルムを生み出すことを可能にした。
-
意匠の流行:
異なる色の羅紗を文様の形に切り抜き、パズルのように嵌め込む「切り嵌め」や、文様を布地に縫い付けるアップリケといった技法が流行した
1
。これにより、染めや織りでは表現が難しかった、大胆で明快なデザインが可能となった。これらの奇抜ともいえるデザインは、下剋上の世を生きる武将たちの、旧来の権威や形式にとらわれない自由闊達な精神(かぶき精神)の現れと解釈できる。
素材(羅紗)、染料(コチニール)、そして仕立て技術(曲線裁断)の三点において、陣羽織は「南蛮」という巨大な文化的インパクトを一身に体現した衣服であった。戦国武将たちは、海外からもたらされた新しいモノや技術を貪欲に吸収し、それを自らのアイデンティティを表現するツールとして昇華させた。陣羽織は、まさに戦国時代の国際性と創造性の象徴なのである。
第三節:同時代の陣羽織との比較分析
上杉家伝来の緋羅紗陣羽織の個性をより明確にするため、同時代の他の著名な武将が所用した陣羽織と比較分析を行う。これにより、桃山文化における多様な美意識の中での、上杉謙信(あるいは上杉家)の位置づけを客観的に評価することができる。
表1:主要な戦国武将の著名な陣羽織の比較分析表
|
武将名
|
上杉謙信(伝)
|
織田信長
|
豊臣秀吉
|
小早川秀秋
|
この比較表から、各武将の鮮やかな個性が浮かび上がってくる。
-
織田信長
の「黒鳥毛揚羽蝶模様陣羽織」は、羅紗や絹といった織物ではなく、鳥の羽毛という異色の素材を用いることで、常識にとらわれない彼の革新性と独自の美意識を象徴している
23
。
-
豊臣秀吉
の「鳥獣文様綴織陣羽織」は、ペルシャの宮廷工房で制作された最高級の絨毯を惜しげもなく裁断して作られたものであり、天下人としての圧倒的な財力と、異国の権威さえも自らのものとして取り込もうとする野心を誇示している
5
。
-
小早川秀秋
の陣羽織は、鮮烈な色彩と大胆な構図で、若々しいエネルギーと自己顕示欲を示す一方で、裏地には個人的な祈りを込めるという繊細さも併せ持つ。
これらに対し、
上杉家伝来の緋羅紗陣羽織
は、過度な装飾や奇抜な意匠を排し、素材そのものの力強さと色彩の美しさを前面に押し出している。そのスタイルは、他の武将たちのものと比較して、ある種の「質実剛健さ」を感じさせる。この美意識は、次の章で考察する所有者・上杉謙信の人物像と深く結びついていると考えられる。
第四章:所有者、上杉謙信 ― 武将の美意識と信仰
緋羅紗陣羽織の最終的な意味は、それを纏ったとされる人物、上杉謙信(1530-1578)の精神性と切り離して考えることはできない。本章では、謙信の国際感覚、宗教的背景、そして彼独自の美学を考察し、なぜ彼がこの緋羅紗陣羽織を選んだのか、その深層心理に迫る。
第一節:謙信と舶来品 ― 越後の国際感覚
上杉謙信は、越後(現在の新潟県)という、当時の日本の中心であった京から見れば地理的に離れた地を本拠としながらも、決して文化的に孤立した存在ではなかった。
彼は、宿敵であった武田信玄と敵対する一方で、織田信長とは友好関係を築いていた時期があり、その際に信長から数々の貴重な品を贈られている。その代表例が、国宝に指定されている狩野永徳筆の「上杉本洛中洛外図屏風」である 6。この屏風は、当時の京都の繁栄を細密に描いた傑作であり、謙信が中央の最高級の文物に触れる機会を持っていたことを示している。史料によっては、信長が他にもマントや、輪奈ビロードのような高級織物を謙信に贈ったという記録もあり、謙信が南蛮文化の粋に触れていたことは確実である 43。
また、謙信の領国越後は、日本海交易の拠点であり、青苧(あおそ、麻の原料となる植物)などの特産品交易によって莫大な富を生み出していた。この経済力が、緋羅紗のような高価な舶来品を自ら入手する基盤となっていたことは想像に難くない。
これらの事実から、謙信は地理的には「辺境」にいながら、政治的・文化的には「中心」と深く結びついた、鋭い国際感覚を持つ武将であったと評価できる。彼が緋羅紗陣羽織を所有することは、彼の政治的地位と経済力、そして文化的水準の高さを示すものであり、決して不思議なことではない。
第二節:緋色選択の精神的背景 ― 「法衣」としての陣羽織
謙信がなぜ数ある色の中から、特に鮮烈な「緋色」を選んだのか。この問いに答える鍵は、彼の精神性の中核をなす、毘沙門天への篤い信仰にある。謙信は自らを軍神・毘沙門天の化身と信じ、その旗印にも「毘」の文字を掲げた。
この信仰と緋色の関係を考える上で、仏教における赤色の象徴性が重要となる。仏教、特に五色で仏の教えを表す思想において、赤(赤色)は極めて重要な意味を持つ。それは、仏が衆生を救おうとする情熱的な慈悲の心、そしてそのための絶え間ない努力を意味する「精進(しょうじん)」を象徴する色とされる
45
。また、生命力や力の象徴ともされる
49
。さらに、毘沙門天の図像においては、その背後に燃え盛る炎(宝輪から放つ炎)が描かれることがあり、そのイメージカラーとして赤が用いられることもある
50
。
これらの象徴性を踏まえると、謙信にとって緋色の陣羽織を纏うことは、単に武威を示す行為や、富を誇示するファッションに留まらなかった可能性が極めて高い。それは、自らが信奉する
毘沙門天の神威
と、仏が示す**慈悲(精進)
の心をその身に体現する、深く宗教的・儀礼的な行為であったと推察される。私利私欲のためではなく、信義と秩序(「義」)のために戦うと公言した謙信にとって、戦場でこの陣羽織を纏うことは、彼の「義戦」の正当性を内外に示すための、強力な宣言であった。その意味で、この陣羽織は彼の「軍服」であると同時に、信仰を表明する一種の
「法衣」**としての役割を担っていたのではないだろうか。
第三節:「義」の武将の多面的な美学
緋羅紗陣羽織が示す質実剛健な美学は、謙信の一つの側面ではあるが、全てではない。彼が残した遺品群は、彼が単一のイメージに収まらない、多面的で複雑な美意識の持ち主であったことを物語っている。
その最も対照的な例が、同じく上杉神社に伝わる重要文化財「はぐま毛陣羽織」である
52
。これは、チベットやヒマラヤに生息するヤクの尾の毛(しかも専門家の研究によれば、極めて希少なアルビノ個体のもの)をびっしりと縫い付けた、純白の陣羽織である
52
。緋羅紗陣羽織が「色」と「素材」の力強さで「動」の威厳を示すのに対し、はぐま毛陣羽織は「素材の珍奇さ」と「純白の神聖さ」で「静」の非凡さを表現する。前者が燃え盛る炎ならば、後者は降り積もる雪のようである。
これらの全く異なるスタイルの最高級品が共に伝わっているという事実は、謙信が一つの固定化された趣味に固執していたのではなく、戦況や儀礼の目的に応じて、自らを演出する様々な「モード」を使い分けていたことを示唆している。彼は、高度なセルフプロデュース能力を持つ武将だったのかもしれない。その数あるモードの中で、緋羅紗陣羽織は、彼のアイデンティティの中核である「戦神・毘沙門天の化身」としての姿を、最も純粋かつ力強い形で表現した一領であったと考えられる。
結論:物が生語る戦国時代
上杉謙信所用と伝わる緋羅紗陣羽織は、単なる一領の古着ではない。それは、16世紀の世界的な交易網の東端に位置した日本の武将が、いかにして世界の富と技術を手に入れ、自らの権威とアイデンティティの表明に利用したかを示す、生きた物証である。
その生地「羅紗」はヨーロッパの織物技術を、その「緋色」は新大陸の自然とスペイン帝国の野望を、その「仕立て」は日本の伝統と南蛮文化の革新的な交錯を、そしてそれを選んだ武将の姿は、戦国の動乱期における信仰と美学を、現代の我々に雄弁に物語っている。
一つの遺物を深く、多角的に掘り下げることは、文字史料だけでは見えてこない、生きた人間の息遣いを伴った歴史像を再構築する営みである。この緋羅紗陣羽織は、その鮮やかな色彩と豊かな物質性をもって、我々を戦国というダイナミックな時代へといざなう、極めて貴重な「歴史の証言者」なのである。本報告が、その声に耳を傾ける一助となれば幸いである。
引用文献
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陣羽織 猩々緋羅紗地違鎌模様 - 文化遺産オンライン
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/468169
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緋地羅紗違鎌文陣羽織 - 文化遺産オンライン
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/135657
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陣羽織 猩々緋羅紗地違鎌模様 (じんばおり しょうじょうひらしゃじちがいかまもよう) - 東京国立博物館
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陣羽織がかっこいい!おしゃれな戦国武将/ホームメイト - 刀剣広場
https://www.touken-hiroba.jp/blog/3840526-2/
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上杉家の足跡をたどって米沢へ。「信長」と呼ばれた娘との歴史旅 - びゅうたび
https://www.viewtabi.jp/articles/18050901
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上杉神社 稽照殿「秋の優品展 上杉神社稽照殿所蔵資料 工芸品の美 米沢市有形文化財指定記念 特別展示 毛氈鞍覆」7/12~11/25開催 | 米沢観光ナビ
https://travelyonezawa.com/info/551349/
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杉 謙 信 所 用 陣 羽 織
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米沢市上杉博物館・市立米沢図書館[収蔵文化財総合データベース]
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上杉鷹山関連の史跡 - 米沢観光ナビ
https://www.yonezawa-kankou-navi.com/person/yozan_02.html
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米沢藩を変革した名君 - 江戸散策 - クリナップ
https://cleanup.jp/life/edo/103.shtml
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加藤国雄さんと上杉鷹山公・朝日新聞天声人語より | 米沢興譲館同窓会・令和版
https://yonezawakojokan.info/2022/02/26/s39kato/
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上杉鷹山の藩政改革と金主たち ~米沢藩の借金・再生史
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羅紗とフェルトの違いって? 生地選びが楽しくなる基礎知識 - Oggi
https://oggi.jp/7402622
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ラシャとフェルトの特徴の違いは? ラシャ生地の帽子ってどんな ...
https://www.tokiyado.com/blog/2024/01/08/post-8295/
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羅紗(らしゃ) - ソファスタイル
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陣羽織 黒鳥毛揚羽蝶模様 - 文化遺産オンライン
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火事羽織(カジバオリ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
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火事羽織 黄へるへとわん無地矢羽橘紋付 - 文化遺産オンライン
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/504756
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火事羽織 - 金沢ミュージアムプラス
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第22回 武士の火事装束 - ホームメイト
https://www.meihaku.jp/curator-tweet/curator-tweet-fire-costume/
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原始古代の技に学ぶ第4回「草木染め体験~コチニール染め~」 - 山梨県
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コチニールカイガラムシ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%81%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%82%B7
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食品にも使われる! 昆虫から作られる鮮やかな赤色「カーマイン」の歴史 - logmi Business
https://logmi.jp/knowledge_culture/culture/173247
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色の歴史|「臙脂色」はサボテンに住む小さな虫が原料!?
https://mimorning.com/color-cochinealred
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赤の意味と歴史③ 西洋の赤の天然染料は西洋茜・ケルメス・コチニール・アクキガイ。赤は高価で上流階級の色。 | 着物ファッションと買い物のアルバム日記 part2
http://arimatunarumi.blog.fc2.com/blog-entry-1083.html
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結晶美術館 - コチニールとカイガラムシの赤 - Google Sites
https://sites.google.com/site/fluordoublet/%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%9D%E7%B5%90%E6%99%B6%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8%E3%81%B8/%E8%89%B2%E5%BD%A9%E3%81%AE%E5%8D%9A%E7%89%A9%E8%AA%8C/%E3%82%B3%E3%83%81%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%A8%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%82%B7%E3%81%AE%E8%B5%A4
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緋羅紗地陣羽織/ホームメイト - 刀剣ワールド
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陣羽織とは/ホームメイト - 刀剣ワールド
https://www.touken-world.jp/tips/40365/
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戦国武将に影響を与えた南蛮の衣装/ホームメイト - 刀剣ワールド
https://www.touken-world.jp/tips/94856/
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昔の日本人はなぜボタンを使わなかったのか|mitimasu - note
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「戦国武将はみな洒落者だった」 日本の美を堪能できる「きもの展」
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陣羽織 黒鳥毛揚羽蝶模様 じんばおり くろとりげあげはちょうもよう - ColBase
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高台寺・圓徳院推奨品|商品紹介 - 京都洛齊
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秀吉の陣羽織、修復終え公開へ/重文、京都の高台寺が美術館で | 全国ニュース - 四国新聞
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[伝国の杜]米沢市上杉博物館・置賜文化ホール
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信長が上杉謙信に贈った「輪奈(わな)ビロードVol.4」 - テキスタイル・ツリー
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お館様 - 織田信長の贈り物
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No191「仏旗」 | 和尚のひとりごと - 玉圓寺
https://blog.gyokuenji.or.jp/blog/2020/04/12/%EF%BD%8E%EF%BD%8F191%E3%80%8C%E4%BB%8F%E6%97%97%E3%80%8D/
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【仏青通信】仏教の色 - 郡家興正寺別院
https://gunge-betsuin.or.jp/bussei008/
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仏教の掲げられている旗の赤・白・青など五色ある内の紫色の意味について知りたい | レファレンス協同データベース
https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000194332
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仏教における五色(ごしき)とは? | 浄土真宗 慈徳山 得蔵寺
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PILOT 百周年記念インク 毘沙門天 - Black 'n' Red
https://bnrsuprem.blogspot.com/2019/03/pilot.html
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上杉謙信 はぐま毛陣羽織
https://kensin.tokyo.jp/2020/09/02/report-001/
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Research Report - 株式会社 謙信
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