『義盛百首歌』は、伊勢三郎義盛に仮託された忍術歌集。戦国乱世の実践知を江戸初期の軍学者が体系化。忍びの知恵を百首歌形式で伝え、忍術書に影響を与えた。
『義盛百首歌』は、一般に「源義経の四天王の一人であり、伊賀流忍術の達人であった伊勢三郎義盛が、忍術の極意を百首の和歌に詠み込んだ忍歌集」として知られている 1 。後の忍術秘伝書に多大な影響を与えたとされ、その内容は忍者の心得や戦術を具体的かつ簡潔に示している。しかし、この通説的な理解は、一つの重大な問いを内包している。それは、作者とされる伊勢三郎義盛が活躍した平安時代末期(12世紀後半)と、この百首歌が初めて文献に登場する江戸時代初期(17世紀初頭)との間にある、約400年もの時代的隔たりである。
なぜ平安末期の武人が、江戸時代に成立した忍術歌集の作者として仮託されなければならなかったのか。この謎を解き明かす鍵こそ、本報告書が主題とする「日本の戦国時代という視点」にある。戦国乱世は、謀略や諜報活動が勝敗を左右する時代であり、「忍び」と呼ばれる専門家集団が各地で暗躍した。彼らが実践の中で培った生々しい知見は、戦乱の終焉と共に散逸の危機に瀕した。そうした状況下で、それらの知識を体系化し、後世に伝えようとする動きが江戸初期の軍学者たちの間で活発化したのである。
本報告書は、『義盛百首歌』を、戦国時代に蓄積された実践知を江戸初期の知識人が体系化した成果物であるという仮説に基づき、その多層的な性格を解き明かすことを目的とする。したがって、本書の歴史的価値は、作者や成立時期の「事実関係」そのものにあるのではない。むしろ、平安末期の伝説的英雄、戦国乱世の実践知、そして江戸初期の学問的要請という、異なる時代の価値観や知識が「いかにして接続され、一つの文化遺産として再編成されたか」という、歴史のダイナミズムそのものにこそ見出されるべきである。本書を深く読み解くことは、単に忍術の知識を得るに留まらず、江戸初期の知識人が「戦国」という時代をどのように解釈し、その遺産を後世に伝えようとしたか、その知の営みを追体験することに他ならない。
『義盛百首歌』の作者として名を冠された伊勢三郎義盛。彼が「忍びの祖」として選ばれた背景には、史実の記録に見える彼の特異な才能と、後世の物語文学によって創り上げられた英雄像との絶妙な融合が存在する。本章では、一次史料における実像と、軍記物語における伝説像を比較分析し、彼が忍びの祖として仮託されるに至った論理的必然性を明らかにする。
鎌倉幕府の公式史書である『吾妻鏡』において、伊勢義盛は「伊勢能盛」の名で記録されており、その実在が確認できる 3 。彼は源義経の郎党として、源平合戦の各地で活躍した武士であった。特に注目すべきは、彼の武功が単なる武勇伝に留まらない点である。『平家物語』によれば、屋島の戦いにおける分戦であった志度合戦の際、義盛はわずか16騎の手勢で、3000騎を率いる平家方の阿波水軍を相手にした。ここで彼は力攻めではなく、「言葉巧みに欺き」、敵将である田内左衛門教能を無血で降伏させるという離れ業を演じている 3 。
この逸話は、義盛が腕力だけでなく、高度な交渉術、心理戦、そして謀略の才に長けていたことを雄弁に物語っている。彼は敵の状況を冷静に分析し、その弱点を突いて味方の損害を最小限に抑えつつ目的を達成するという、極めて知的な戦闘スタイルを持つ武将であった。さらに、壇ノ浦の合戦においては平家の総帥である平宗盛・清宗親子を生け捕りにするという大功を立てており 5 、義経軍の中核を担う重要な存在であったことが窺える。これらの記録から浮かび上がるのは、単なる一兵卒ではなく、主君の戦略的意図を汲んで諜報や謀略といった非正規戦闘を遂行する、現代でいうところのインテリジェンス・オフィサー(諜報・謀略担当官)に近い役割を担っていた可能性である。
伊勢義盛の人物像は、南北朝時代から室町時代初期にかけて成立した軍記物語『義経記』によって、劇的な変貌を遂げる 7 。この物語の中で、彼は史実の記録には見られない、より人間味豊かで豪放な英雄として描かれるようになった。
『義経記』は、義盛の出自を鈴鹿山の山賊の頭領であったとし、彼が義経と運命的な出会いを果たして臣従するまでのドラマティックな物語を創作した 6 。例えば、奥州へ向かう途中の義経一行が義盛の宿に泊まった際、義盛は当初彼らを襲うつもりであったが、義経の人柄に触れるうちに、彼こそが自らの相伝の主君であると悟り、忠誠を誓うという筋書きである 10 。このような「元・山賊」という設定は、彼に体制や権威に縛られない「悪党」的な魅力を付与した。「悪党」とは、中世社会において既存の支配秩序から逸脱した実力者を指す言葉であり、正規の戦法に依らないゲリラ戦や奇襲を得意とする集団でもあった。このイメージは、後の「忍び」の姿と重なる部分が多く、義盛にトリックスターとしての性格を色濃く与える結果となった。
また、『義経記』では、義盛は義経が頼朝と不和になり都を落ちてから、最期の地である平泉の衣川館で討ち死にするまで、終始一貫して義経と運命を共にした忠臣として描かれている 3 。これにより、彼は単なるアウトローではなく、義理人情に厚い理想の主従関係を体現する人物としても昇華された。
伊勢義盛が「忍びの祖」として後世に選ばれたのは、決して偶然ではない。それは、彼の「史実における謀略家としての側面」と、「伝説における悪党的英雄像」という二つの要素が、江戸時代初期の軍学者たちが求めた「忍びの理想像」と奇跡的とも言えるほど合致したからである。
この背景を理解するためには、江戸初期の時代状況を考慮する必要がある。戦国時代が終焉し、泰平の世が訪れると、兵法は実戦の技術から武士の教養としての「学問」へとその性格を変えていった。この過程で、多くの兵法家が自らの流派を創始し、その教えに歴史的な権威と深みを与えることを目指した。そのための最も効果的な手段が、過去の著名な武将や英雄を流派の「祖」として担ぎ上げることだったのである。
忍術という、いわば「裏」の技術体系を学問として確立しようとした人々にとって、その始祖にふさわしい人物を見出すことは急務であった。源義経自身も奇襲戦法で有名だが、源氏の棟梁たる彼を忍びという一分野の祖とするのは、格として釣り合わない。そこで白羽の矢が立ったのが、その腹心であった伊勢義盛であった。
彼が選ばれた理由は、極めて論理的である。第一に、『平家物語』などの比較的信頼性の高い史料において、彼が「謀略」によって戦功を挙げた記録が残っていること 3 。第二に、『義経記』によって「山賊=アウトロー」という、正規の武士の枠に収まらない非凡な出自と能力を持つという、広く知られたパブリックイメージが形成されていたこと 8 。この二点が、忍術の祖としての権威付けにこれ以上ないほど好都合だったのである。つまり、義盛への「仮託」は、単なる名前借りではなく、史実と伝説の双方に根差した彼の人物像を巧みに利用した、極めて戦略的なブランディング行為であったと言える。
以下の表は、主要な文献における伊勢義盛像の変遷をまとめたものである。これにより、史実の武人から伝説の英雄、そして「忍びの祖」へと至る軌跡を明確に理解することができる。
表1:伊勢義盛に関する主要史料の比較
典拠 |
時代 |
義盛の呼称・出自 |
主な事績 |
最期 |
描かれ方の特徴 |
『吾妻鏡』 |
鎌倉時代 |
伊勢能盛 |
志度合戦での謀略、平宗盛捕縛 3 |
文治2年(1186)自害 6 |
事実に基づく記録、有能な郎党 |
『平家物語』 |
鎌倉時代 |
伊勢三郎義盛 |
志度合戦での弁舌による無血降伏 3 |
義経都落ちに同行 |
謀略に長けた知将 |
『義経記』 |
室町時代 |
伊勢三郎義盛(元山賊) 9 |
義経との劇的な出会い、最後まで同行 10 |
文治5年(1189)衣川で討死 3 |
義理人情に厚い豪傑、伝説的英雄 |
『義盛百首歌』は、伊勢義盛という個人の著作ではなく、江戸時代初期という特定の時代背景の中で、軍学と文学の伝統が交差する地点に生まれた文化産物である。本章では、その初出文献を手がかりに、本書がどのような経緯で、どのような形式と思想的背景のもとに生み出されたのかを文献学的に解明する。
『義盛百首歌』が歴史の表舞台に初めて姿を現すのは、元和四年(1618年)に成立した小笠原昨雲の軍法書『軍法侍用集』巻第七「窃盗(しのび)の巻」の第二十「よしもり百首の事」においてである 12 。この時期は、大坂の陣(1615年)が終結し、徳川幕府による支配体制が盤石となり始めた頃にあたる。長く続いた戦乱の時代が終わりを告げ、社会が安定に向かう中で、一つの大きな課題が生まれた。それは、戦国時代に実戦の中で培われ、個々の武将や家臣団に秘伝として蓄積されてきた膨大な戦闘技術や戦略・戦術の知見を、いかにして保存し、継承していくかという問題であった。
戦国の世では、「すっぱ(透波)」「らっぱ(乱波)」「草」「軒猿」など、地域によって様々な呼称で呼ばれた諜報員たちが、各大名の情報戦を支えていた 14 。彼らの技術は極めて実践的であり、その多くは口伝や徒弟制度のような形で、属人的に伝えられていたと考えられる 16 。しかし、平和な時代が到来し、武士の役割が戦闘員から行政官僚へと変化していく中で、これらの生々しい技術は急速にその実用性を失い、散逸の危機に瀕していた。
このような状況を背景に、戦国の実践知を「学問(軍学)」として体系化し、武士の教養として後世に伝えようとする動きが活発化した 17 。『軍法侍用集』もまさにその流れの中に位置づけられる著作であり、そこに収録された『義盛百首歌』は、戦国時代の名もなき諜報員たちが命がけで得た実践的なノウハウを、江戸時代の知識人が収集・整理し、一つの思想体系として結晶させた成果物であると見なすことができる。
『義盛百首歌』が、教訓を伝えるために「百首歌」という和歌の形式を採用したことは、その成立背景を考える上で極めて重要である。百首歌とは、文字通り百首の和歌を一組とした形式であり、その起源は平安時代中期の歌人、曾禰好忠にまで遡る 18 。当初は四季や恋といった優美な題材を詠む宮廷文学の一形式であったが、時代が下るにつれてその性格は大きく変化していく。
特に室町時代以降になると、専門的な道徳や技術、学問の教えを和歌の形式で詠んだ「道歌」が数多く作られるようになった 18 。武士の間では兵法に関する道歌も盛んに作られ、その集大成として兵法百首歌も出現した。この形式が好まれたのには、明確な理由がある。五七五七七という和歌の定型リズムは、耳に心地よく響き、口ずさみやすいため、内容を記憶するのに非常に適していた。文字の読み書きが一部の階層に限られていた時代において、重要な知識を口伝によって正確に継承するための、極めて優れた教育メディアだったのである。
『義盛百首歌』がこの「道歌」の伝統と「百首歌」の形式を採用したのは、単なる文学的な趣味や装飾のためではない。それは、忍びの心得という複雑で多岐にわたる内容を、実践者たちが容易に暗記し、必要な時に即座に思い出せるようにするための、極めて合理的かつ実践的な選択であった。歌という形式を用いることで、難解な教えが血肉となり、身体的なレベルで体得されることを意図していたのである。
『義盛百首歌』の価値と影響力は、その成立から約60年後、延宝四年(1676年)に藤林保武によって編纂された忍術の集大成『万川集海』に、その一部が引用されていることからも明らかである 19 。『万川集海』は、伊賀流と甲賀流を中心に、様々な流派の忍術を22巻にわたって網羅した、質量ともに最大級の忍術書とされる 20 。この記念碑的な書物の中に、『義盛百首歌』から42首もの歌が収録されているという事実は、極めて重要である 13 。
これは、『義盛百首歌』が、17世紀後半にはすでに忍術を学ぶ者にとっての「古典」であり、「必読の基本文献」としての地位を確立していたことを示している。『万川集海』の編纂目的の一つは、伊賀・甲賀という二大流派をはじめとする諸流の忍術を統合し、一つの学問体系として提示することにあった。その壮大なプロジェクトにおいて、『義盛百首歌』に詠まれた教えが、個別の流派の技術論を超えた、忍術全体の根本哲学として高く評価されたのである。
この一連の流れは、日本の兵法思想史における一つの大きな転換点を象徴している。それは、「実践から理論へ」、そして「口伝からテキストへ」という知のパラダイムシフトである。戦国時代には各武将家で秘匿され、属人的であった忍びの技術が、『義盛百首歌』という形で初めて普遍的な教訓として言語化された。そして、その教えが『万川集海』という巨大な知識体系の中に組み込まれることで、「忍術」は単なる裏世界の技術ではなく、武士が学ぶべき兵法の一分野として、公的な地位を獲得する第一歩を踏み出したのである。『義盛百首歌』は、まさにその歴史的な過渡期に咲いた、知性の花であったと言えよう。
『義盛百首歌』は、単なる精神論や抽象的な教訓の羅列ではない。そこには、戦国乱世を生き抜くための、極めて具体的かつ実践的な知恵が凝縮されている。本章では、百首の歌を主題別に分類・分析し、そこに込められた兵法思想と、現代のフィクションにおける忍者像を根底から覆すほどのリアルな哲学を明らかにする。
以下の表は、百首歌の多様な内容を主題ごとに整理し、その思想的骨格を概観できるようにしたものである。
表2:『義盛百首歌』の主題別分類と代表歌
主題 |
代表歌(抜粋) |
要点 |
諜報・偵察 |
「軍には窃盗(しのび)物見をつかはして敵の作法をしりてはからへ」 12 |
行動の前提として、徹底した情報収集が不可欠であること。 |
生存・撤退 |
「敵にもし見つけられなば足はやににげてかへるぞ盗人のかち」 12 |
任務の成功は戦闘ではなく、生きて情報を持ち帰ることにある。 |
倫理・心構え |
「いつはりもなにかくるしき武士(もののふ)は忠ある道をせんとおもひて」 12 |
忍びの欺瞞は私利私欲のためでなく、主君への忠義によって正当化される。 |
資質・能力 |
「窃盗(しのび)には三つのならひのあるぞかし論とふてきと扨(さて)は智略と」 12 |
弁論術、大胆さ、戦略的思考という三つの能力の重要性。 |
環境利用 |
「大風や大雨の降る時をこそ忍び夜討の頼りとはすれ」 2 |
天候や地形など、自然条件を味方につけること。 |
人間心理 |
「はかりごとも敵の心によるぞかししのびを入れて物音をきけ」 12 |
敵の心理を読み、その油断や慢心を突くこと。 |
『義盛百首歌』が繰り返し説くのは、あらゆる軍事行動の根幹に情報収集を置くべきであるという、徹底した情報至上主義である。「ようちにはしのびのものを先立てゝ敵の案内しりて下知せよ」 12 という歌は、夜襲のような奇襲作戦においてさえ、まずは忍びを先行させて敵地の地理や警戒態勢を完全に把握することが、指揮官の第一の務めであると教えている。
さらに、「窃盗者(しゃ)に敵をとひつゝ下知をせよたゞあやうきは推量のさた」 12 の一首は、推測や憶測に基づいて作戦を立てることの危険性を厳しく戒めている。指揮官が抱く希望的観測や根拠のない楽観論こそが、作戦を失敗に導く最大の要因であると断じているのである。勝利を手にするためには、客観的な情報に基づいて敵の実態を正確に把握し、それに応じた計画を立てなければならない。この思想は、情報優位の確立こそが勝利の絶対条件であるとする、極めて近代的で合理的な兵法観を示している。
『義盛百首歌』の思想的核を最も象徴的に示すのが、「敵にもし見つけられなば足はやににげてかへるぞ盗人のかち」 12 という一首であろう。この歌は、忍びの任務の成功を定義する上で、現代の我々が抱きがちなイメージを根底から覆す。忍びの「勝ち」とは、敵を打ち倒すことでも、華麗な武術で危機を脱することでもない。敵に発見されたならば、いかに速やかに、そして確実に戦場から離脱し、生きて帰還するかにある、と断言しているのである。
この思想は、「忍びには行くことよりも退口(のきぐち)を大事にするぞ習いなりける」 1 という歌によって、さらに補強される。潜入する前に、まず脱出経路を確保し、万が一の事態に備えることが、忍びの作法における最優先事項だと説く。なぜなら、忍びの最も重要な任務は、敵地で得た兵糧の備蓄状況や城の構造といった情報を、味方のもとへ確実に持ち帰ることにあるからだ 12 。もし忍びが敵と交戦して命を落とせば、その貴重な情報は永遠に失われ、味方は有効な作戦を立てることができなくなる。したがって、戦闘は徹底して回避すべきものであり、「生きて帰ること」こそが、忍びに課せられた至上の命令であった。これは、戦闘シーンが派手に描かれがちな現代の映画やアニメの忍者像 22 とは全く異なる、史料に基づいた「忍び」のリアルな姿である。
欺瞞や窃盗を手段とする忍びの活動は、一見すると武士の道徳に反するように思える。しかし、『義盛百首歌』は、忍びが決して単なる盗人や卑劣な破壊工作員ではないことを強く主張する。その倫理的な根拠を示すのが、「しのびとて道にそむきしぬすみせば神や仏のいかでまぼらん」 12 という歌である。この歌は、もし忍びの活動が私利私欲や道義に反する目的で行われるならば、それは神仏の加護も得られない単なる犯罪行為に過ぎないと戒めている。
では、何が忍びの行為を正当化するのか。その答えは、「いつはりもなにかくるしき武士(もののふ)は忠ある道をせんとおもひて」 12 という一首に明確に示されている。忍びが用いる「いつはり(偽り)」は、主君への「忠」という、武士にとって最高の徳目を実現するために行われる限りにおいて、何ら恥じるべきことではない、と宣言するのである。彼らの行動原理は、あくまで主君と自らが属する共同体の利益を守るという大義にあり、その目的を達成するためであれば、欺瞞という非正規の手段も許容される。ここに、「汚い仕事」と「武士としての名誉」という、一見矛盾した二つの要素を統合する、独自の倫理観を見出すことができる。
『義盛百首歌』の教えは、狭い意味での忍術の技術論に留まらない。その内容は、孫子の兵法にも通じるような、より普遍的な戦略・戦術論の領域にまで及んでいる。「大風や大雨の降る時をこそ忍び夜討の頼りとはすれ」 2 という歌は、敵の警戒が緩みやすい悪天候を好機として利用する「天の時」の重要性を説く。また、「二人行く忍びは一人先立ちて跡なる人に道を示せよ」 25 といった歌は、複数人で任務を遂行する際の連携、すなわち「人の和」の重要性を具体的に示している。
これらの歌は、『義盛百首歌』が、特定の状況下でのみ有効な特殊技能のマニュアルではなく、自然条件、地理的環境、そして人間心理といった普遍的な要素をいかにして味方につけるかという、高度な戦略思想を含んだテキストであることを示している。それは、戦国という極限状況下で磨き上げられた、あらゆる組織や個人が応用可能な生存と勝利のための知恵の結晶であった。
『義盛百首歌』はしばしば「忍歌(しのびうた)」と総称されるが、この言葉が指す意味を正確に理解しておく必要がある。ここでいう「忍歌」とは、本報告書で繰り返し述べてきたように、武芸や専門的な心得を後進に伝えるための「道歌」の一種である。その目的は教育と知識の伝承にあり、内容は極めて実践的かつ教訓的である。
これは、現代のポップカルチャーの中で消費される、いわゆる「忍者ソング」とは全く概念が異なる 22 。後者は、忍者をテーマにした娯楽作品の主題歌や、子供向けの遊戯歌であり、その目的はあくまでエンターテインメントにある。両者を混同することなく、前者が武士の学問体系の中で育まれた知的遺産であることを明確に認識することが、『義盛百首歌』の歴史的価値を正当に評価するための前提となる。
本報告書を通じて行ってきた多角的な分析の結果、『義盛百首歌』を「平安末期の武人・伊勢三郎義盛が著した忍術の秘伝書」とする通説的な理解は、その成立に関わる複雑な歴史的文脈を捨象した、あまりにも単純化された見方であると結論付けられる。
本書の真の姿は、より精緻に、次のように再定義されるべきである。すなわち、『義盛百首歌』とは、「戦国時代の諜報・謀略活動から得られた実践的な知見を、江戸初期の軍学者が、伊勢義盛という伝説的英雄の権威を借り、道歌という教育的効果の高い文学形式を用いて体系化した、実践的兵法教訓歌集」である。
この再定義は、本書の価値を何ら損なうものではない。むしろ、その価値をより一層高めるものである。なぜなら、この理解に立つとき、『義盛百首歌』は、単なる一人の英雄の著作という枠を超え、より壮大な歴史の物語を我々に語り始めるからである。それは、史実と伝説、実践と理論、そして武と文という、異なる次元の要素が交差し、一つのテキストとして結晶する、日本思想史のダイナミックな転換点を映し出す、比類なき歴史資料としての姿である。戦国の知恵がいかにして江戸の学問へと昇華され、後世に詠み継がれていったのか。その壮大な知のリレーを、『義盛百首歌』は今なお静かに、しかし力強く物語っているのである。