堺の銘菓「胡桃餅」は、製法「くるむ」と異国情緒「胡」に由来。南蛮貿易で砂糖を得て甘味化し、茶の湯文化と共に発展。戦国堺の国際性と洗練を象徴する菓子。
堺の銘菓、胡桃餅。その概要として伝えられる「金輪際という名の豆を使って作る、季節の菓子。当時は南蛮餅と称して作り方も南蛮風であったという」との言葉は、簡潔ながらも聞く者の知的好奇心を強く刺激する。この魅力的ながらも断片的な情報は、歴史の深淵を覗き込むための、いくつかの重要な問いを我々に投げかける。
第一に、なぜ木の実の胡桃を用いていないにもかかわらず、「胡桃餅」の名で呼ばれるのか 1 。第二に、「金輪際」という特異な名を持つ豆は、果たして実在するのか。その原材料の真実とは何か。第三に、「南蛮餅」という呼称が示唆する、異国との関わりはいかなるものであったのか 4 。そして最後に、そして最も根源的な問いとして、この菓子はなぜ、他のどの時代、どの場所でもなく、戦国時代の堺という都市で生まれなければならなかったのか 6 。
これらの問いは、一見するとそれぞれ独立しているように見える。しかし、その深層において、「胡桃」の「胡」が持つ外来の響き 7 、「金輪際」という究極を意味する言葉が暗示する珍奇さ、そして「南蛮」という直接的な表現は、「異国情緒」という一つの共通主題で結ばれている。これらはすべて、当時の人々がこの菓子に感じていたであろう、鮮烈な「新しさ」と「異邦性」を反映しているのではないだろうか。
本報告書は、この堺の胡桃餅を単なる一介の食品としてではなく、戦国時代の国際都市・堺の経済的繁栄、文化的爛熟、そしてグローバルな交流を映し出す「歴史の証人」として捉え、その多面的な価値を解き明かすことを目的とする。名称の由来、原材料の謎、南蛮文化との接触、茶の湯との密接な関係、そして元祖「かん袋」の物語を、歴史的、文化的、経済的、言語的な視点から多角的に掘り下げ、緑の餡に秘められた重層的な歴史物語を再構築していく。
堺の胡桃餅が内包する最初の謎は、その名にある。堅果のクルミを一切使用しないこの菓子が、なぜ「胡桃餅」と呼ばれるのか。その解を求めていく過程は、単なる語源探求に留まらず、この菓子が生まれた時代の文化や美意識、そして国際感覚を浮き彫りにする。
堺の胡桃餅の名称に関する最も有力かつ広く受け入れられている説は、その製法に由来するというものである。すなわち、つきたての柔らかい餅や白玉を、鮮やかなうぐいす色の餡で「くるむ」ことから、「くるみ餅」と名付けられたとする説である 1 。この解釈は、菓子の物理的な構造を素直に言語化したものであり、その直接的な語源として揺るぎない。
この「くるむ」という行為は、単に覆い隠す以上のニュアンスを持つ。古語において「つつむ(包む)」 9 や「くくむ(含む)」 10 といった言葉が、大切なものを保護し、秘める意味合いで使われてきたように、「くるむ」という動詞にも、中のものを優しく守り、大切に扱うという思想が内包されている 11 。この菓子において、主役である餅の純粋な味わいを、風味豊かな餡が優しく包み込むという構造美そのものが、「くるみ餅」という名に表現されていると解釈できよう。
この菓子の名称は、時に「久留美」という優美な漢字で記されることがある。これには「美味を久しく留める」という、作り手の切なる願いと自負が込められている 1 。これは単なる当て字ではなく、日本の和菓子が持つ独特の文化、「菓銘(かめい)」の世界に連なるものである。
和菓子には、羊羹や饅頭といった菓子の種類を示す分類名とは別に、個々の製品に固有の名称、すなわち菓銘が付けられる。その多くは、和歌や俳句、花鳥風月、あるいはその土地の歴史や名所旧跡に由来し、菓子に文学的・芸術的な奥行きを与える 12 。例えば、秋に作られる柿の形をした練り切りに、加賀千代女の句から「初ちぎり」と名付けるように、菓銘は菓子を単なる食物から一つの作品へと昇華させる役割を担う 12 。この文脈において、「久留美」という表記は、音を借りただけでなく、その菓子が持つ価値を言葉で称揚しようとする、洗練された美意識の表れと理解すべきである。
語源が動詞「くるむ」であることはほぼ間違いない。しかし、ここで一つの問いが残る。なぜ人々は、この音に漢字を当てる際、数ある同音異義語の中から、あえて「胡桃」という表記を選んだのか。この選択は、決して偶然ではない。
「胡」という漢字は、古代中国において、北方や西方の異民族を指す言葉として用いられてきた歴史を持つ 7 。そこから転じて、それらの地域から伝来した珍しい事物に冠される接頭辞としての役割を担うようになった。「胡瓜(きゅうり)」、「胡麻(ごま)」、「胡椒(こしょう)」、そして折り畳み椅子である「胡床(あぐら)」 17 など、その例は枚挙にいとまがない。
この歴史的背景を鑑みれば、「胡桃」という表記が選ばれた背景には、この菓子が持つ「異国風」「南蛮渡来」の性格が色濃く反映されていた可能性が浮かび上がる。たとえ直接の語源が「くるむ」という和語であったとしても、その音に「胡」という漢字を当てることで、作り手や享受者たちは、意識的か無意識的かにかかわらず、この菓子が従来の日本の菓子とは一線を画す、新しい時代の到来を告げるエキゾチックな存在であることを表現したのではないだろうか。
結論として、「胡桃餅」という名称は、単一の語源に収斂されるものではない。それは、①餅を「くるむ」という物理的な行為、②「久留美」という美意識の発露、そして③「胡」の字が持つ異国情緒、という三つの意味が重層的に存在する、文化的なハイブリッドなのである。その表記の選択自体が、この菓子が「南蛮餅」とも呼ばれたという伝承と地続きにあることを、雄弁に物語っている。
堺の胡桃餅の誕生を理解するためには、その揺りかごとなった戦国時代の堺という都市の、類い稀な性格を解き明かす必要がある。なぜならこの菓子は、堺の経済的繁栄と文化的成熟が分かちがたく結びついた、必然の産物であったからだ。
戦国時代の日本において、堺は極めて特異な都市であった。周囲を深い濠と高い土塁で囲み、武装した市民による自治組織「会合衆(えごうしゅう)」が市政を運営する、事実上の独立都市国家であった 18 。イエズス会の宣教師ガスパル・ヴィレラが、その自由闊達な雰囲気と繁栄ぶりを驚きをもって本国に報告し、「東洋のヴェニス」と評したことはあまりにも有名である 20 。織田信長や豊臣秀吉といった天下人でさえ、その武力と財力を無視することはできず、時には対立し、時には懐柔しながら向き合わねばならなかった。この自治と自由な気風は、既成概念にとらわれない新しい文化、特に既得権益のしがらみが少ない食文化の革新が生まれるための、格好の温床となった。
堺の自治と独立を支えたのは、圧倒的な経済力であった。室町時代を通じて日明貿易(勘合貿易)の拠点として栄え、戦国時代に入ると、それに加えてポルトガルやスペインとの南蛮貿易の玄関口となり、莫大な富と海外の珍しい文物がこの地に集積した 6 。
輸入品は、生糸、絹織物、陶磁器、書物といった伝統的な品々に加え、南蛮からは鉄砲や火薬、そしてガラス製品や時計、さらには未知の香料や薬品などがもたらされた 21 。後の堺銘菓の源流となる芥子の実 20 や肉桂(シナモン) 4 、そして胡桃餅の味を決定づけることになる砂糖も、この交易ルートを通じて堺にもたらされたのである。堺は単なる貿易港ではなく、当時の日本における最先端の国際情報センターであり、グローバルな文化の交差点であった。
「京の着倒れ、大阪の食い倒れ、堺の建て倒れ」という言葉がある 26 。これは、堺の豪商たちが貿易で得た莫大な富を、競って壮麗な邸宅の建築や庭園の造成に注ぎ込んだ気風を言い表したものである。彼らの関心は、単なる富の蓄積に留まらなかった。その財力と、海外の文物に触れる中で磨かれた洗練された美意識は、高度に様式化された芸術文化への投資へと向かった。
その代表格が「茶の湯」である。堺の豪商たちの邸宅で開かれる茶会は、単にお茶を飲む場ではなく、高価な唐物や高麗物の茶道具を披露し、政治や文化について語り合う、最高の贅沢を尽くした文化サロンであった 27 。この茶の湯文化の爛熟は、茶席にふさわしい、洗練された「茶菓子」への強い需要を生み出した。胡桃餅の誕生は、まさにこの文脈の中に位置づけられる。貿易がもたらした経済基盤、豪商たちが育んだ美意識、そして茶の湯という需要。これらすべての条件が堺という都市に揃っていたからこそ、胡桃餅のような革新的な菓子が創造されたのである。
胡桃餅の歴史は、その味の変遷にこそ、時代の大きな転換点が刻まれている。塩味の軽食「点心」としての誕生から、砂糖を用いた甘い「菓子」への劇的な変化は、日本の食文化史におけるパラダイムシフトを象徴する、ミクロな事例と言えよう。
胡桃餅の元祖とされる老舗「かん袋」の伝承によれば、その原型が生まれたのは室町時代中期、応仁の乱よりも前の1420年頃とされる。創業者の和泉屋徳兵衛から数えて五代目の忠兵衛が、当時、日明貿易で栄える堺にもたらされた明国(中国)の農産物を利用して、新たな茶菓子を考案したのが始まりだという 29 。
特筆すべきは、この原初の胡桃餅が「塩味で挽き合わ」されていたという点である 29 。これは、砂糖がまだ薬用として扱われるほどの希少品で、調味料として一般化していなかった時代の食文化を反映している。当時の「菓子」とは、果物や木の実を指すか、あるいは味噌や塩で味付けされた軽食、すなわち「点心」に近い存在であった。この塩味の胡桃餅は、まさに中世的な点心の系譜に連なるものであり、茶の湯の席で、酒肴に近い役割を担っていた可能性も考えられる。
この塩味の菓子に劇的な変化をもたらしたのが、戦国時代後期に本格化する南蛮貿易であった。ポルトガル商人らによって、ルソン(現在のフィリピン)などから砂糖がもたらされると、胡桃餅の餡は塩味から甘味へとその姿を変え、現在我々が知る味わいが完成した 29 。
この味の変化は、単なるレシピの変更を意味しない。当時の砂糖は、金や銀に匹敵するほどの超高級品であった。永禄12年(1569年)、宣教師ルイス・フロイスが織田信長に謁見する際、切り札として献上したのがガラス瓶入りの金平糖であったという逸話は、砂糖菓子がいかに絶大な価値を持っていたかを物語っている 5 。その価格は、現代の貨幣価値で1キログラムあたり数万円にも達したと推計される 35 。
このような貴重な砂糖をふんだんに使用できること自体が、堺の豪商たちの圧倒的な財力の証であった。信長が畿内を平定し、堺をその支配下に置いたことで、砂糖を比較的入手しやすい立場になったことも、この甘味革命を後押ししたであろう 36 。また、15世紀にはすでに琉球王国が砂糖の生産と交易で重要な役割を果たしており 37 、堺にもたらされた砂糖の流通ルートは、南蛮貿易だけでなく、琉球を経由するルートも存在した可能性が考えられる。
胡桃餅の「甘味化」は、堺という国際都市のダイナミズムなくしてはあり得なかった。それは、南蛮渡来の新しい味覚を積極的に受け入れ、それを日本の伝統的な餅菓子と融合させ、洗練された茶の湯文化へと昇華させるだけの経済力と文化的土壌があったからこそ可能になった、時代の味覚革命だったのである。
胡桃餅を構成するもう一つの重要な要素は、その鮮やかな緑色の餡である。ご依頼者の情報にあった「金輪際」という豆の名を手がかりに、その原材料の正体に迫ることは、この菓子の出自をさらに深く理解する上で不可欠である。
まず、「金輪際」という名の豆について、現存する植物学的な品種リストや、今回調査した歴史資料群の中に、その具体的な記載を見出すことはできなかった 40 。このことから、「金輪際豆」が正式な品種名である可能性は極めて低いと考えられる。
「金輪際(こんりんざい)」とは、もともと仏教の世界観において、大地の最下層にある金輪の果てを意味する言葉であり、そこから転じて「究極」「これ以上ない限界」を指す副詞として用いられる。この語源を考慮すると、「金輪際豆」とは、特定の品種を指す固有名詞ではなく、「これ以上ないほど上等で、素晴らしい豆」という意味で使われた雅称、あるいは元祖「かん袋」の一族内のみで受け継がれた秘伝の呼称であった可能性が考えられる。あるいは、伝承の過程で、本来の品種名が失われ、その豆の質の高さを表す形容句だけが、あたかも名詞であるかのように後世に伝わった可能性も否定できない。
では、その「究極の豆」の正体は何だったのか。複数の資料が一致して指摘するのは、餡の主材料が青大豆、あるいはその未成熟な状態である枝豆であるという事実である 1 。大豆は、その原種であるツルマメが日本にも自生し、弥生時代にはすでに栽培が始まっていた、日本人にとって極めて馴染みの深い作物である 43 。
その中でも、特に青大豆(または枝豆)が持つ、鮮やかな緑色と上品な甘み、そして豊かな風味が、茶の湯の洗練された美意識と見事に合致したことは想像に難くない。また、胡桃餅が「畦餅(あぜもち)」と呼ばれることがあるという伝承は興味深い 6 。これは、かつて水田の畦(あぜ)に大豆を植え、その根で土手を固める農法があったことに由来するもので、胡桃餅の原材料が、堺の都市生活を支える周辺農村の、具体的な農業景観と密接に結びついていたことを示唆している。
戦国時代において、餡の材料となり得た豆は他にもあったはずだ。一般的な小豆、あるいはそら豆などである。なぜ胡桃餅の作り手たちは、それらではなく青大豆を選択したのか。当時の主要な豆類と比較検討することで、その理由がより鮮明になる。
表1:近世以前の日本における主要豆類と胡桃餅の餡原料としての適性比較
豆の種類 |
伝来時期/歴史 |
特徴(色・味) |
餡としての利用 |
胡桃餅の餡としての適性評価 |
典拠 |
大豆(黄・青) |
弥生時代 |
黄色または緑色。豊かな風味と甘み。 |
きな粉、味噌、豆腐。青大豆はひたし豆など。 |
◎:鮮やかな緑色が茶席に映え、風味も良い。畦豆として栽培され入手しやすかった可能性。 |
6 |
小豆 |
縄文時代? |
赤褐色。独特の風味があり、餡の主役。 |
赤飯、一般的な餡。 |
△:色は赤系となり、胡桃餅の特徴である緑色にならない。武家社会では「腹が割れる」を嫌う風潮も 44 。 |
44 |
ささげ |
平安時代 |
褐色など。煮崩れしにくい。 |
関東の赤飯など。 |
△:小豆同様、緑色にはならない。風味も小豆とは異なる。 |
43 |
そら豆 |
奈良時代 |
緑色。独特の強い風味。 |
しょうゆ豆など。 |
○:緑色になる点は良いが、風味が強く、繊細な茶菓子の餡としては個性が強すぎる可能性。 |
43 |
いんげん豆 |
江戸時代 |
様々(白、赤など)。 |
煮豆、甘納豆。白餡の原料。 |
×:本格的な伝来が江戸時代以降であり、戦国時代の胡桃餅の原料とは考えにくい。 |
43 |
この比較から明らかなように、胡桃餅の命である鮮やかな緑色を出すことができ、かつ茶席にふさわしい上品な風味を持つ豆は、実質的に青大豆(枝豆)以外に選択肢はなかったと言える。
この分析を踏まえると、「金輪際豆」の正体に関する一つの説得力ある仮説が導き出される。すなわち、「金輪際」とは、特定の品種名ではなく、当時としては非常に貴重で、その美しい緑と風味で茶人たちを魅了した「青大豆」そのものを指す、堺の豪商や文化人たちの間だけで通用した符牒(隠語)、あるいは美称だったのではないか。彼らは、ありふれた黄大豆などと区別するために、その至高の豆を「金輪際(これ以上のものはない)の豆」と呼び、賞賛した。この美称が、時を経て、あたかも固有名詞であるかのように誤って伝わった。この仮説は、ご依頼者の持つ情報と、史料から導かれる事実とを、矛盾なく統合する一つの解釈と言えるだろう。
胡桃餅の歴史を語る上で、その最大の享受者であり、発展の原動力となった茶の湯文化との関係を抜きにすることはできない。この菓子は、戦国時代の堺を舞台に花開いた、豪商たちの喫茶文化の中で生まれ、磨かれていったのである。
わび茶を大成させ、日本の美意識に計り知れない影響を与えた千利休は、堺の魚問屋に生まれた商人であった 1 。利休のみならず、天王寺屋の津田宗及、武野紹鷗、今井宗久といった堺の豪商たちは、当代随一の茶人としても名を馳せ、その文化的権威は、時に政治的な影響力をも伴った 27 。彼らの存在によって、堺は名実ともに茶の湯文化の中心地となり、その美意識はあらゆる文化領域に浸透していった。
当時の茶会でどのような菓子が供されていたかを知る上で、津田宗及が残した茶会記『天王寺屋会記』は、第一級の史料である。その記述を分析すると、当時の菓子の多様な姿が浮かび上がってくる。
記録には、「きんとん」「いりもち」「うすかわまんじゅう」といった加工菓子の名が見える 47 。味付けは、溜(たまり醤油)や味噌を用いた素朴なものから、貴重な砂糖を使った甘いものまで様々であった。また、天正11年(1583年)の茶会では、「むき栗」が供されたという記録もあり 48 、素材そのものの味を活かした、いわば「木の実・果物」系の菓子も重要な位置を占めていたことがわかる。1603年刊行の『日葡辞書』にも、「砂糖餅」「草餅」「栗粉の餅」など、多種多様な餅菓子が収録されており 49 、餅を基本とした菓子が茶席で広く愛好されていた様子が窺える。
このような戦国時代の茶菓子の中で、胡桃餅はどのような存在だったのだろうか。南蛮渡来の砂糖を使い、従来の日本の菓子には見られなかった鮮やかな緑色をまとったその姿は、溜や味噌で味付けされた素朴な餅菓子や、ありのままの栗とは一線を画していたはずである。それは、新しい時代の到来を告げる、極めてモダンで洗練された菓子として、茶人たちに大きな驚きと喜びをもって迎えられたに違いない。
千利休が好んだ菓子としては、小麦粉を薄く焼いて味噌などを塗って巻いた「ふの焼」が有名である 50 。これは、利休が追求した「わび」の精神を体現する、質実で素朴な菓子と言える。一方で、利休は南蛮渡来の芥子の実をまぶした「芥子餅」も愛したと伝えられている 18 。この事実は、利休や堺の茶人たちが、単に簡素なものだけを良しとしていたわけではないことを示している。
彼らは、「わび・さび」を追求する求道者であると同時に、唐物や南蛮渡来の貴重な茶道具を蒐集し 46 、国際交易の最前線で新しい文化に触れる、好奇心旺盛な国際人でもあった。この二面性こそが、堺の茶人たちの本質であった。
したがって、胡桃餅は、彼らの「わび」の精神に応える菓子というよりは、むしろ新しいものを好み、珍しいものを愛でる「数寄(すき)」の心を満たす菓子として、茶席で重要な役割を担ったと考えられる。それは、堺の茶人たちが持つ革新性や国際性を象徴する、緑の宝石だったのである。
ご依頼者の情報にあった「当時は南蛮餅と称して作り方も南蛮風であった」という伝承は、胡桃餅の本質を理解する上で極めて重要な示唆を与える。この菓子が、異文化接触の証として「南蛮」の名を冠されていた可能性を検証する。
1543年の鉄砲伝来以降、ポルトガルやスペインとの南蛮貿易によって、日本には様々なヨーロッパ文化が流入した。その中でも、食文化に与えた影響は大きい。カステラ、金平糖、有平糖、ボーロといった、いわゆる「南蛮菓子」は、日本の菓子史に革命的な変化をもたらした 5 。
これらの菓子の特徴は、卵と砂糖をふんだんに使用する点にあった。それまでの日本の菓子作りではほとんど用いられなかったこれらの材料が、全く新しい味覚の世界を切り開いたのである 5 。特に砂糖の甘味は、当時の人々にとって衝撃的であり、南蛮菓子は権力者への献上品や、富裕層の贅沢品として、瞬く間に広まっていった。
では、堺の胡桃餅は、この「南蛮菓子」の系譜に連なるものと言えるのだろうか。カステラや金平糖のように、ヨーロッパのレシピを直接導入した菓子(直接的南蛮菓子)とは、その製法が明らかに異なる。胡桃餅は、あくまでも日本の伝統的な「餅」と「餡」という形式を基礎としている。
しかし、その誕生と発展に決定的な役割を果たした「砂糖」が、まぎれもなく南蛮貿易の産物であったことを考えれば、当時の人々がこの菓子を「南蛮の要素を取り入れて作られた新しい餅」、すなわち広義の「南蛮餅」と認識していた可能性は非常に高い。
この仮説は、堺で生まれた他の銘菓と比較することで、より説得力を増す。例えば、南蛮渡来の香料である肉桂(シナモン)を用いた「肉桂餅」 4 や、同じくインドから南蛮貿易ルートで伝わった芥子の実を用いた「芥子餅」 24 も、胡桃餅と同様の構造を持つ。これらは皆、日本の伝統的な餅菓子の形式に、南蛮渡来の「素材」という新しい要素を組み合わせて創造された、「和魂洋才」の菓子である。胡桃餅は、これらの菓子群と共に、堺が生んだ革新的な菓子として、一括りに「南蛮餅」と呼ばれていたとしても何ら不思議はない。
このことは、「南蛮菓子」というカテゴリーが、単にヨーロッパのレシピを模倣したものだけを指すのではなく、南蛮渡来の「素材」や「技術(甘味付け)」を用いて日本の伝統菓子を革新したもの(間接的・応用的南蛮菓子)までをも含む、より広い概念であった可能性を示唆している。胡桃餅の事例は、外国の文化をそのまま受け入れるのではなく、自国の文化の枠組みの中に巧みに取り込み、新たな価値を創造するという、日本的な文化受容のあり方を体現した、優れた一例なのである。
胡桃餅の歴史を遡る時、その元祖とされる老舗「かん袋」の存在は欠かすことができない。その驚くべき歴史と、天下人・豊臣秀吉との邂逅の物語は、この菓子が単なる美味に留まらない、深い物語性を秘めていることを教えてくれる。
「かん袋」の創業は、鎌倉時代末期の元徳元年(1329年)にまで遡る。初代・和泉屋徳兵衛が「和泉屋」の商号で餅屋を開いたのがその始まりであり、以来、約700年にわたってその暖簾を守り続けている 33 。1329年といえば、後醍醐天皇が倒幕を志し、足利尊氏や楠木正成といった武将たちが歴史の表舞台に登場し始めた時代である。南北朝の動乱、応仁の乱、戦国の群雄割拠、そして江戸の泰平とめまぐるしく時代が移り変わる中、一軒の餅屋がその味を守り抜いてきたという事実は、驚嘆に値する。胡桃餅という菓子が、いかに長い時間の中で育まれ、人々に愛され続けてきたかの証左と言えよう。
「和泉屋」が、現在の「かん袋」という屋号を名乗るようになったのは、安土桃山時代のことである。その名付け親は、天下人・豊臣秀吉その人であった 54 。
秀吉が大坂城の築城に着手した際、その莫大な費用を賄うため、経済都市・堺の商人たちに多額の寄付を求めた 33 。当時の和泉屋の主人であった徳左衛門もこれに応じ、その返礼として、普請中の大坂城に招待された。そこで彼が目にしたのは、天守閣の屋根に、職人たちが一枚一枚、蟻が餌を運ぶように瓦を運び上げている光景であった 29 。
「これではいつ完成するかわからない」と思った徳左衛門は、自ら作業に加わることを申し出た。そして、長年の餅作りで鍛え上げた強靭な腕力を使い、地上から次々と瓦を屋根の上へと軽々と放り投げ始めた。春風にあおられた瓦が、まるで紙の袋がひらひらと舞うかのように天守に上がっていく。その常人離れした光景に、居合わせた人々は度肝を抜かれたという 29 。
この様子を伝え聞いた秀吉も大いに感嘆し、「その腕の強さ、まるでかん袋(紙袋)が舞うがごとし。以後、かん袋と名乗るべし」と命じた。これが、「かん袋」という屋号の由来である 40 。
この逸話は、単に面白い店名の由来譚として片付けるべきではない。それは、身分制度が厳然と存在しながらも、卓越した個人の「技」や「力」が、出自を問わず最高権力者に直接認められ、評価される余地があった、戦国から安土桃山という時代のダイナミズムを象徴している。秀吉自身が低い身分から天下人へと駆け上がった人物であり、能力を重視する気風があったことも、この逸話を裏付ける。一介の餅屋の主人が持つ専門技能(職人技)が、国家的な事業の場で価値を認められ、天下人から直々に名を賜る。胡桃餅の背景には、こうした職人たちの技への矜持と、それを正当に評価する社会の気風があったのである。
胡桃餅をより深く理解するために、文化的比較の視点を取り入れることは有効である。特に、同じく枝豆(青大豆)を主材料とし、見た目も酷似している東北地方の郷土菓子「ずんだ餅」との比較は、堺の胡桃餅が持つ独自の文化的DNAを鮮明に浮かび上がらせる。
東北地方、特に仙台藩(現在の宮城県)を中心とする地域で親しまれている「ずんだ餅」は、茹でた枝豆をすり潰して砂糖と混ぜた「ずんだ餡」で餅を絡めた菓子である 2 。その語源には諸説あり、仙台藩祖・伊達政宗が陣中で太刀の柄(じんたち)で豆を潰して作ったことから「陣太(じんだ)餅」と呼ばれたという説や、豆を打つ音「豆打(ずだ)」が訛ったとする説などが伝えられている 56 。
胡桃餅とずんだ餅は、同じ原材料を用いながら、その文化的背景は対照的である。この二つの菓子は、食文化における「収斂進化」(異なる系統のものが、似た環境下で似た形質を持つように進化する現象)の好例と言えるが、その根底に流れる物語は全く異なる。
日本各地で、夏に旬を迎える枝豆を潰して餅に絡めるという発想が生まれること自体は、自然なことであっただろう。しかし、その食べ方がどのように文化として定着し、どのような物語をまとっていくかは、その土地の歴史や社会構造に大きく左右される。
堺では、その発想が「茶の湯」と「南蛮貿易」という二つの強力なフィルターを通して、洗練された都市文化の産物「胡桃餅」へと結晶した。一方、東北では、その発想が「武家の権威」と「農村の年中行事」というフィルターを通して、力強く素朴な郷土の味「ずんだ餅」へと結実した。この比較を通じて、堺の胡桃餅が持つ「都市性」「国際性」「文化性」といった特性が、より一層際立って見えてくる。それは、日本の食文化の豊かさと地域性を理解する上で、極めて示唆に富む事例である。
本報告書は、堺の銘菓「胡桃餅」をめぐる複数の問いから出発し、その深層に隠された歴史的文脈の解明を試みた。
まず、その名称が、単に餅を「くるむ」という製法に由来するだけでなく、「久留美」という美意識や、「胡」の字が持つ異国情緒を内包した、重層的な意味を持つことを明らかにした。
次に、その味の変遷を追う中で、室町時代の塩味の「点心」から、南蛮貿易がもたらした砂糖によって甘い「菓子」へと変貌を遂げた過程が、日本の食文化史における大きな転換点を象徴するものであることを論じた。
また、原材料の謎であった「金輪際豆」とは、特定の品種名ではなく、その鮮やかな緑と風味で茶人たちを魅了した「青大豆」に対する、堺の文化人たちによる最高の賛辞、すなわち美称であった可能性が高いという結論に至った。
そして何よりも、この菓子が、戦国時代の自由都市・堺の経済的繁栄、会合衆と呼ばれた豪商たちの財力と美意識、千利休に代表される茶の湯文化の爛熟、そして天下人に認められた職人の技と誇りといった、類い稀な社会経済・文化状況が奇跡的に交差した一点において誕生した、必然の産物であったことを論証した。
結論として、堺の胡桃餅は、単なる一地方の銘菓ではない。それは、戦国の動乱期に咲いた国際都市の文化、豪商たちの洗練、茶人たちの求道と数寄の精神、そして名もなき職人の技が、緑色の餡の中に凝縮された「食べる歴史遺産」なのである。
一椀の菓子から、これほどまでに豊かな歴史の物語を読み解くことができる。歴史を探求する営みとは、過去の事実を無味乾燥に暗記することではない。現代に伝わるモノやコトを深く見つめ、その背後にある人々の営み、喜び、そして想いに心を馳せる、創造的な旅なのである。胡桃餅を一口味わうとき、我々は戦国時代の堺の喧騒と、茶室の静寂を、舌の上で追体験することができるのかもしれない。