最終更新日 2025-08-10

芝辻砲

芝辻砲は家康が大阪冬の陣で用いた国産大砲。芝辻理右衛門が製造し、天守閣命中弾で和議に導いたとされる。製法や実用性には論争があるが、家康の戦略と技術史の重要性を示す。
芝辻砲

芝辻砲:戦国終焉の象徴か、技術史の論争か ― 国産大砲の神話と実像

序論:戦国終焉を告げた砲声 ― 伝説の始まり

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣。徳川家康率いる大軍勢が、豊臣秀頼の籠る難攻不落の大坂城を包囲した。この戦いにおいて、城内に轟いた徳川軍の砲声は、単なる合戦の音響ではなかった。それは、百年にわたる戦乱の時代、すなわち戦国という時代の終わりと、徳川幕府による二百数十年の泰平の世の始まりを告げる、歴史の転換を象徴する音であった。この決定的な砲撃戦において、徳川の勝利を象徴する戦略兵器として、後世にまでその名を轟かせることとなるのが、徳川家康の特命により製造された国産大砲「芝辻砲」である。一般には、この大砲が放った一弾が大坂城天守閣を直撃し、淀殿を恐怖させ和議締結へと導いたと語り継がれている。しかし、その輝かしい伝説の裏には、技術的な達成と限界、戦略的な意図、そして現代にまで続く激しい学術論争が隠されている。本報告書は、この一門の大砲に秘められた技術、戦略、そして後世にまで続く論争の全てを、あらゆる角度から詳細かつ徹底的に調査し、その神話と実像を解き明かすことを目的とする。

戦国期における火器の進化

日本の合戦様相は、天文12年(1543年)の種子島への鉄砲伝来を境に、不可逆的な変容を遂げた。当初、個人技に依存する狙撃兵器であった火縄銃は、やがて織田信長に代表される先進的な大名によって集団運用戦術が確立され、戦場の主役へと躍り出た。その技術は急速に発展・大型化し、「大筒」と呼ばれる大型の火器が登場する 1 。大筒は、その弾丸重量が30匁(約112.5g)を超えるものを指し、中には1貫目(3,750g)もの巨大な弾丸を撃ち出すものも存在した 1 。これらはもはや対人兵器ではなく、城門や櫓、石垣といった防御施設を破壊するための攻城兵器としての役割を担うようになる。芝辻砲は、こうした火縄銃から大筒へと至る日本の火器技術の進化の系譜、その一つの到達点として位置づけることができる。

大砲の戦略的価値の変容

戦国時代において、大砲そのものは決して目新しい兵器ではなかった。九州の大友宗麟が用いたポルトガル伝来の仏郎機(フランキ)砲、通称「国崩し」は、その代表例である 3 。しかし、これらの初期の大砲は、子砲(薬室)を後部から装填する後装式であったため、発射ガスの漏洩が多く、威力が不安定な上に、暴発の危険性が常に付きまとった 2 。その運用は極めて難しく、戦局を左右するほどの戦略的兵器とはなり得ていなかった。

この状況を一変させたのが、大坂の陣における徳川家康の革新的な兵器運用思想である。家康は、イギリスから購入したカルバリン砲やオランダから入手したカノン砲といった、当時の世界水準の高性能な輸入大砲を戦線に投入した 1 。これらを、国友や堺で製造させた国産大筒と組み合わせ、昼夜を問わず大坂城に撃ち込み続けたのである 5 。家康の狙いは、単なる物理的な城の破壊に留まらなかった。絶え間なく降り注ぐ砲弾によって城内の兵士や非戦闘員の士気を徹底的に削ぎ、豊臣方の継戦意思そのものを打ち砕くという、高度な心理戦を仕掛けたのである 5 。本報告書では、この家康の先進的な砲術戦略の中に芝辻砲を位置づけ、それが担ったとされる特異な役割と、その真の歴史的価値を深く探求していく。

第一章:鉄砲の都・堺と天才鍛冶の系譜

芝辻砲の誕生を語る上で、その揺籃の地となった国際交易都市・堺の存在は不可欠である。堺は、単なる兵器の生産地ではなく、技術、資本、情報、そして政治力が集積する、戦国時代のダイナミズムを象徴する場所であった。その中で、芝辻理右衛門という一人の天才鍛冶が、いかにして歴史の表舞台に登場したのかを明らかにする。

1.1. 日本最大の兵器生産拠点、堺

鉄砲製造技術が日本に伝播すると、近江の国友と並び、和泉国の堺は瞬く間に国内二大生産拠点としての地位を確立した 8 。その背景には、堺が有していた複数の優位性が存在する。第一に、中世から続く「会合衆(えごうしゅう)」による自治都市としての強固な経済基盤である。豊富な資本は、鉄や火薬といった原材料の大量購入と、生産設備の拡充を可能にした。第二に、南蛮貿易の拠点として、海外との直接的な交易ルートを有していたことである。これにより、最新の技術情報や、国内では入手困難な硝石などの物資を安定的に確保することができた。

こうした環境下で、堺の鉄砲鍛冶は単なる職人の域を超えた存在へと成長していく。彼らは高度な技術者集団であると同時に、全国の大名と直接取引を行い、時には戦局をも左右するほどの経済的・政治的影響力を持つギルドを形成していた 9 。堺は、まさに日本最大の兵器産業都市であり、その技術力は戦国大名たちの覇権争いにおいて極めて重要な要素となっていたのである 10

1.2. 幕府御用達「五鍛冶」の成立と芝辻家の地位

大坂の陣という天下分け目の決戦を前に、堺の鉄砲鍛冶衆は重大な岐路に立たされた。地元の主である豊臣方に味方するのか、それとも新興勢力である江戸の徳川方に与するのか。この問いに対し、芝辻理右衛門家を含む堺の有力な鉄砲鍛冶たちは、徳川方を選択するという戦略的な政治判断を下した。この時、徳川方に味方した中核的な鍛冶屋が、後に「五鍛冶」と称される芝辻理右衛門家、芝辻長左衛門家、榎並屋勘左衛門家、榎並屋九兵衛家、榎並屋勘七家の五家である 11

彼らのこの選択は、単なる目先の利益追求ではなく、自らのギルドの未来を見据えた、極めて高度な政治的決断であったと解釈できる。旧主である豊臣家ではなく、全国支配の体制を固めつつあった徳川家康に与することで、戦後の新たな秩序の中で自らの優越的地位を確保しようとしたのである。その目論見は見事に成功する。戦後、芝辻理右衛門家は代々「堺鉄砲鍛冶年寄役」という、堺の鉄砲鍛冶全体を統括する指導的地位を世襲することになる 13 。これは、徳川幕府と堺の鍛冶衆との間に、単なる兵器の発注者と製造者というビジネスライクな関係を超えた、強固な政治的・経済的同盟が結ばれたことを明確に示している。芝辻家をはじめとする五鍛冶は、徳川幕府の公的な庇護のもと、江戸時代を通じて鉄砲生産における特権的な地位を享受し続けたのである。

1.3. 芝辻理右衛門の出自とブランド

徳川家康が、国産大砲の製造という国家的な極秘プロジェクトを託す相手として、なぜ数多いる鍛冶の中から芝辻理右衛門を選んだのか。その答えは、芝辻家が持つ圧倒的なブランド価値と技術的権威にあった。

芝辻理右衛門(生年不詳 - 寛永11年(1634年)2月15日没)は、日本で最初に火縄銃の複製に成功したとされる伝説的な鉄砲鍛冶、妙西(みょうさい)入道、またの名を芝辻清右衛門の孫と伝えられている 13 。妙西は、種子島に鉄砲が伝来した直後の天文13年(1544年)、紀州根来寺において津田算長からの依頼を受け、国産第一号の火縄銃を完成させたとされる人物である 14 。この輝かしい系譜は、芝辻家が単なる一介の鍛冶ではなく、日本の鉄砲史の源流に位置する特別な家柄であることを示していた。「堺の鍛冶職人の家柄だった芝辻家では、妙西入道が初めて鉄砲を製作し見事な出来だった。その子孫の理右衛門の代にはその鉄砲はいよいよ精微を極める」と記録されるように、理右衛門の代にはその技術は最高峰に達していた 15

家康にとって、大坂城攻めという天下統一の総仕上げに用いる切り札は、単に性能が良いだけでは不十分であった。その製造には、誰もが納得する「日本一」の権威が必要だったのである。妙西の孫という、これ以上ないほどのブランドを持つ芝辻理右衛門は、この国家プロジェクトを担うに最も相応しい人物であった。家康の選択は、技術力への信頼はもとより、その出自が持つ象徴的な価値をも計算に入れた、極めて戦略的なものであったと言えるだろう。

第二章:徳川家康の特命 ― 天下統一の総仕上げ

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで勝利を収め、征夷大将軍となった徳川家康であったが、その天下はまだ盤石ではなかった。大坂城には、依然として豊臣秀頼が存在し、その権威を慕う大名や浪人が全国に潜在していた。家康にとって、豊臣家の存在は、自らが築き上げつつある新たな秩序に対する最大かつ最後の脅威であった。この脅威を完全に取り除くため、家康は周到かつ冷徹に最終決戦の準備を進めていく。その中核をなしたのが、最新兵器の導入と、芝辻砲の開発という特命であった。

2.1. 大坂城攻略に向けた家康の周到な準備

関ヶ原の戦いから大坂冬の陣までの14年間、家康は来るべき決戦に備え、水面下で着々と軍備を増強していた。特に注力したのが、難攻不落と謳われた大坂城を攻略するための攻城兵器、すなわち大砲の調達であった 16

家康の兵器調達戦略は、二つの柱からなっていた。一つは、海外からの最新兵器の積極的な導入である。彼は、ウィリアム・アダムス(三浦按針)らを介して、イギリスやオランダの商人から、当時のヨーロッパで最新鋭の長射程砲であったカルバリン砲4門と、それよりやや小型のセーカー砲1門などを購入した 1 。さらにオランダからは、弾丸重量が四貫目(約15kg)から五貫目(約19kg)にも達する大型のカノン砲と思われる大砲を12門購入した記録も残っている 2 。これらは、徳川軍の火砲戦力を飛躍的に向上させるものであった。

もう一つの柱が、国内の優れた鉄砲鍛冶に対する大砲の大量発注である。家康は、日本屈指の鉄砲生産地であった近江の国友と堺の鍛冶衆に対し、大筒・大砲の製造を命じた 6 。特に国友鍛冶には、慶長9年(1604年)に800匁玉用の大筒、慶長14年(1609年)には1貫目玉用の大筒を発注している 3 。これらの国産大砲は、輸入砲とともに、大坂城包囲網の重要な一角を担うことになる。

2.2. なぜ国産大砲が必要だったのか

ここで一つの疑問が生じる。長大な射程と破壊力を誇るヨーロッパ製の最新大砲をすでに入手していたにもかかわらず、なぜ家康は莫大な費用と時間を投じてまで、あえて国産大砲の開発にこだわったのだろうか。諸国の職人たちが「鉄をもって大筒を鋳ることは叶い申さず」と尻込みするほどの難事業であったにもかかわらず、である 15

この問いに対する答えは、家康が輸入砲と国産砲に、それぞれ全く異なる戦略的役割を期待していたという点に見出すことができる。家康の構想は、単一の兵器に依存するのではなく、複数の兵器システムの長所を組み合わせた、複合的な砲撃戦略にあった。輸入されたカルバリン砲の役割は、その長大な射程を活かした、大坂城広範囲への制圧射撃と、昼夜を問わぬ砲撃による心理的威圧であった。その目的は、城内の兵站線を混乱させ、兵士の士気を継続的に削ぐことにあった。

一方で、芝辻理右衛門に特命で製造させた国産大砲、すなわち芝辻砲に求められたのは、射程距離ではなかった。家康が求めたのは、特定の重要目標、すなわち大坂城の中枢である本丸や天守閣を、ある一定の距離から「正確に狙い撃つ」能力であった。これは、いわば「大砲による狙撃」という、極めて高度なコンセプトである。カルバリン砲が広範囲を攻撃する「爆撃機」だとすれば、芝辻砲は重要目標をピンポイントで破壊する「精密誘導弾」としての役割を期待されていた。この特殊な任務を遂行するためには、海外からの輸入品では満たせない、日本の職人ならではの精密な製造技術が必要不可欠であった。家康は、芝辻理右衛門の持つ「日本一」の技術力に、この戦略兵器の実現を賭けたのである。

2.3. 芝辻砲の製造と理右衛門への破格の待遇

家康の特命を受けた芝辻理右衛門は、この前代未聞の挑戦に挑んだ。慶長14年(1609年)に正式に発注された大砲は、2年もの歳月を費やし、慶長16年(1611年)に遂に完成したと伝えられる 1 。この大砲は、砲弾重量1貫500匁(約5.6kg)を誇る、鉄製の巨大な鍛造砲であった 13

そして大坂の陣において、芝辻理右衛門とその一門は、徳川方の勝利に大きく貢献した。その功績は、家康によって破格の待遇で報いられることとなる。戦後、理右衛門は家康から直々に、堺の高須(現在の堺市堺区高須町周辺)の土地を拝領したのである 22 。これは、一介の職人に対しては異例中の異例の恩賞であり、芝辻砲の開発・製造という国家プロジェクトがいかに重要視されていたかを物語っている。理右衛門は、この地に自らの一族と堺の鉄砲鍛冶全体の繁栄を祈願して稲荷明神を勧請し、社を建立した。これが、現在も阪堺電気軌道阪堺線の駅名としてその名を留める「高須神社」の始まりである 22 。この神社は、芝辻理右衛門が成し遂げた偉業と、徳川家康からの絶大な信頼を、今に伝える生きた証人なのである。

第三章:技術の結晶か、壮大な失敗か ― 芝辻砲の構造と製法

芝辻砲は、徳川家康の戦略思想と芝辻理右衛門の卓越した技術が結実した、戦国時代の最高傑作として語り継がれてきた。しかし、その物理的な実態、特に現存するとされる大砲を巡っては、その製法から実用性に至るまで、専門家の間で180度見解が分かれる大論争が繰り広げられている。本章では、この伝説の兵器の構造と製法に深く分け入り、技術史上の謎に迫る。

3.1. 物理的仕様と現存品

現在、芝辻砲の実物と目されている大砲は、東京・九段下の靖国神社に併設された軍事博物館「遊就館」に展示されている 3 。その威容を伝える物理的仕様は、以下の通りである。

  • 全長: 313 cm 3
  • 口径: 約9.2 cmから9.5 cm 3
  • 重量: 約1.7トン(453貫) 3
  • 材質: 鉄(鋼鉄か鋳鉄かで論争あり)
  • 砲弾: 1貫500匁(約5.6 kg)の鉛玉 13

この巨大な砲身の上部には、「慶長十六年摂州住 芝辻理右衛門助延 作」という銘が、大きく、そして堂々と刻まれており、これが徳川家康の特命によって製造されたことを示しているとされてきた 3 。その姿は、まさに戦国の終焉を告げるにふさわしい、圧倒的な存在感を放っている。

3.2. 大論争①「鍛造」か「鋳造」か

この大砲の製造方法を巡る論争は、芝辻砲の評価を根本から揺るがす、最も重要な論点の一つである。

鍛造説(通説):

伝統的に、そして多くの文献で語られてきたのは、この大砲が「鍛造」によって作られたという説である 18。鍛造とは、金属を高温に熱し、鎚で叩いて圧力を加え、成形しながら内部の組織を緻密にして強度を高める製法である。芝辻砲の場合、日本の伝統的な火縄銃の製造技術を応用・巨大化させたものと考えられている 2。具体的には、「瓦張り」や「短冊巻き」と呼ばれる技法が用いられたとされる。これは、短冊状に加工した鉄片を熱して芯棒に巻き付け、鍛接(鍛えながら接合すること)を繰り返して円筒を形成し、さらにその外側に鉄片を重ねて鍛接することで砲身の厚みと強度を増していく、極めて手間のかかる製法である 3。この通説を強力に裏付けてきたのが、昭和33年(1958年)に産業考古学会が実施したとされる非破壊検査の結果である。この検査により、芝辻砲は「鋼鉄の鍛造である」と証明されたと、長らく信じられてきた 23。

鋳造説・懐疑論:

しかし、この鍛造説(通説)に対して、近年、強力な懐疑論が提唱されている。その最大の根拠は、現存する大砲の物理的な欠陥にある。最も問題視されているのが、砲腔(砲身内部の空間)が著しく歪んでいるという点である。ある調査によれば、砲口と砲尾で中心軸が45mmもずれており、内部を覗くと砲腔が途中で蛇行しているという 23。懐疑論者は、もしこれが手間のかかる鍛造で作られたのであれば、製造過程で歪みを修正することは十分に可能であり、このような致命的な欠陥が残るはずがないと指摘する。むしろ、この歪みは、溶かした鉄を鋳型に流し込む「鋳造」の際に生じた典型的な失敗、すなわち「湯流れ」の不良や鋳型の変形を示唆しているのではないかと主張するのである 23。

また、通説の根拠とされてきた1958年の非破壊検査の結果についても、決定的な証拠とは言えないとの反論がある。この検査は、内部の一部を削り取って炭素量を測定したものと推測されるが、鋳造品であっても、鋳型と接する表面部分は冷却速度の違いなどから炭素量が変化し、内部とは異なる鋼鉄に近い組成になることがあるため、この検査結果だけをもって鍛造と断定することはできない、というのである 23

この「鍛造か鋳造か」という技術的な論争の背景には、近世初頭の日本の技術的なパラドックスが存在する。当時の日本は、刀剣や火縄銃の製造に見られるように、世界最高水準の鍛造技術を保有していた。一方で、大型の製品を均質に製造する鋳造技術、特に「和銑(わずく)」と呼ばれる伝統的なたたら製鉄で得られた鉄を用いた大型鋳鉄品の製造は、不純物が多く、製品が脆くなり破裂しやすいという根本的な課題を抱えていた 24 。この状況を鑑みれば、芝辻理右衛門が、信頼性の低い鋳造を避け、たとえ困難を極めるとしても、実績と信頼のある鍛造技術を極限までスケールアップさせるという道を選んだ可能性は十分に考えられる。そうだとすれば、芝辻砲は、日本の得意技術をその限界点まで押し上げた、壮大な挑戦の記念碑であったと評価することもできるだろう。

3.3. 大論争② 実用性への根本的疑問

製法の問題に加え、この大砲が実戦兵器として本当に機能したのかという、より根本的な疑問も呈されている。その最大の論点が、「砲耳(ほうじ)」の欠如である 23

砲耳(英語ではトラニオン)とは、砲身の重心付近の左右に設けられた円筒形の突起のことである。これを砲架(砲を載せる台)の軸受けにはめ込むことで、砲は安定し、砲口の上下(仰角)を容易に調整することが可能になる。さらに、発射時に生じる数トンにも及ぶ強烈な後方への反動を、砲耳と砲架全体で受け止める役割も果たす。近代的な大砲において、砲耳は不可欠な基本構造である。

しかし、靖国神社に現存する芝辻砲には、この極めて重要な砲耳が存在しない。砲身は、ほぼ完全な寸胴である 23 。この構造では、1.7トンもの巨大な砲をどのように砲架に固定し、安全に運用したのか、極めて大きな謎が残る。縄などで固縛する方法も考えられるが、発射の衝撃で砲身が後方へすっぽ抜けてしまう危険性が非常に高い。仰角の微調整も困難を極め、精密な照準など望むべくもなかったであろう。こうした物理的な制約から、一部の研究者は、現存する芝辻砲は儀礼用か、あるいは未完成の試作品であり、実戦で有効に運用された可能性は極めて低いと結論付けている。

第四章:大坂冬の陣 ― 砲撃戦の神話と現実

芝辻砲を巡る伝説が最も劇的に語られる舞台が、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣である。徳川家康が、この国産大砲を用いて難攻不落の大坂城を屈服させたとされる物語は、江戸時代の泰平の世の始まりを象徴するエピソードとして広く知られている。しかし、この輝かしい神話の裏側には、史実としての砲撃戦の現実と、後世に形成された物語との間の複雑な関係性が存在する。

4.1. 徳川軍の砲撃作戦

慶長19年11月、大坂冬の陣の火蓋が切られると、徳川家康は全国から動員した20万とも30万ともいわれる圧倒的な兵力で大坂城を完全包囲した 5 。家康自身は、大坂城の南に位置する茶臼山(現在の大阪市天王寺区)に本陣を構えた 4

家康の攻城作戦の核となったのは、前例のない大規模な砲撃戦であった。彼は、城を包囲する各所に、イギリス製のカルバリン砲、オランダ製のカノン砲、そして国友や堺で製造させた国産大筒など、総数約300門(一説には1000門とも)と推定される膨大な数の大砲を配置した 3 。これらの大砲は、昼夜を問わず大坂城に向けて火を噴き続けた 5

中でも、砲撃の拠点として特に重要視されたのが、大坂城の北側を流れる淀川(旧大和川)に浮かんでいた中洲・備前島であった 7 。この島は、宇喜多秀家の屋敷があったことからその名がついたとされ、大坂城の本丸に最も近い位置にあった。ここからの砲撃は、城の中枢を直接狙う上で極めて効果的であったと考えられている 7 。徳川軍は、井上流砲術の祖である井上正継や、稲富流の稲富重次といった当代一流の砲術家を動員し、この備前島をはじめとする各拠点から、組織的かつ徹底的な砲撃を敢行したのである 7

4.2. 天守閣への着弾 ― 伝説の形成

この砲撃戦のクライマックスとして、そして芝辻砲の伝説が生まれる瞬間として語り継がれているのが、大坂城天守閣への着弾の逸話である。この出来事は、豊臣方の家臣が記したとされる『豊内記』や、徳川幕府の公式史書である『台徳院殿御実紀(徳川実紀)』に、劇的な筆致で記録されている 7

それらの記録によれば、慶長19年12月16日、徳川軍の放った一弾が、ついに大坂城の天守閣に命中した。砲弾は淀殿の居室のすぐ近くに着弾し、その衝撃と破片によって側に仕えていた侍女数名(7、8人とも)が即死したという 7 。『台徳院殿御実紀』には、「その響き百千の雷の落ちたるが如く」「常日頃は勇猛な淀殿も大変怖がり弱り果てて」と記されており、この一撃が淀殿に与えた精神的衝撃がいかに大きかったかが強調されている 7 。これまで強硬に和議を拒否していた淀殿が、この事件を境に恐怖に駆られ、一転して和議の受け入れを秀頼に勧めた。これが、豊臣方が戦意を喪失し、和議交渉へと向かう直接的なきっかけとなった、というのが広く知られた物語である 5

4.3. 神話への懐疑と多角的な解釈

この「淀殿を恐怖させた運命の一弾」という物語は、徳川の勝利を運命づけた象徴的なエピソードとして、非常に魅力的である。しかし、近年の歴史研究では、この神話に対して多角的な視点から懐疑的な目が向けられている。

第一に、「芝辻砲は本当にこの砲撃戦で使用されたのか」という根本的な問いである。多くの二次資料や通俗史では、この決定的な一撃を放ったのが芝辻砲であるかのように語られるが、それを直接的に証明する同時代の一次史料は、実は極めて限定的である。一部の慎重な研究では、芝辻砲が実戦投入されたかについては「確かではない」とされており、その実用性を疑問視する声も根強い 1

第二に、和議締結の真の理由についての再検討である。『駿府記』や『当代記』といった史料を分析すると、豊臣方が和議に応じた理由は、淀殿の恐怖心といった心理的な要因よりも、むしろ物理的な要因、すなわち城内の弾薬不足にあった可能性が浮かび上がってくる 27 。『当代記』には、12月に入る頃には城中の火薬が欠乏し始めていたことが記されており、『駿府記』に至っては、豊臣方が木製の銃を使用するほど武器が不足していたとさえ伝えている 27 。もしこれが事実であれば、豊臣方は継戦能力そのものを失いかけており、徳川方の砲撃は、その状況を決定的にした最後の一押しに過ぎなかったということになる。

これらの点を踏まえると、「芝辻砲の一撃が戦局を決した」という物語は、後の徳川の世において、家康の神がかり的な智謀と、その圧倒的な軍事力を喧伝するために創られ、増幅されていった「勝者の神話」であった可能性が考えられる。それは、複雑な政治的・軍事的経緯を、一つの劇的なエピソードに集約させることで、徳川支配の正当性を分かりやすく人々に示す、巧みなプロパガンダとして機能したのである。芝辻砲の伝説そのものが、その物理的な戦果以上に、歴史的な意味を持つに至ったと言えるかもしれない。

第五章:戦場の芝辻砲 ― 性能評価の再検討

芝辻砲が実際に大坂の陣でどのような役割を果たしたかについては論争があるものの、徳川家康がこの大砲に込めた戦略的意図と、その設計思想を分析することは、戦国末期の軍事技術を理解する上で極めて重要である。本章では、同時代の他の大砲との比較を通じて、芝辻砲の特異な性能と、その背景にある日本的なものづくりの思想を再検討する。

5.1. 精度 vs 射程 ― 日本的ものづくりの思想

芝辻砲の性能を評価する上で最も重要な視点は、輸入されたカルバリン砲との比較である。イギリス製のカルバリン砲は、14kgもの砲弾を最大で6.3kmも飛ばしたとされ、その長大な射程距離が最大の特徴であった 1 。これは、広範囲を制圧し、敵に継続的なプレッシャーを与えるのに適した性能である。

これに対し、芝辻砲に求められた性能は全く異なっていた。複数の資料が示唆するように、芝辻砲は「600メートル先の目標に命中させられた」という、卓越した命中精度を追求した兵器であった 18 。家康が陣取った場所から大坂城天守閣までの距離が約500メートルであったことを考えると、この性能はまさに特定の重要目標を狙い撃つために最適化されたものであったことがわかる 22 。カルバリン砲の有効射程が2kmあっても、精密な狙撃が可能なのは300メートル程度であったのに対し、芝辻砲はその倍近い距離からでも正確な照準が可能であったと推測されている 18

この「射程よりも精度を重視する」という設計思想は、日本の伝統的な兵器開発の文脈の中に位置づけることができる。日本の火縄銃は、伝来後、独自の改良が重ねられ、世界的に見ても極めて高い命中精度を誇るに至っていた 18 。芝辻砲は、まさにこの技術的伝統の延長線上にあり、西洋的な「より遠くへ」という発想とは一線を画す、「狙った場所に確実に当てる」という日本的なものづくりの思想を体現した、「巨大な火縄銃」であったと捉えることができるのである 22

5.2. コスト度外視の「絶対兵器」

芝辻砲のもう一つの際立った特徴は、その破格の製造コストである。ある研究によれば、その価格は慶長当時の一門あたり1000両以上に相当したと推定されている 18 。これは、当時イギリスで主力となっていた鋳鉄製大砲の価格が約60両であったことを考えると、実に20倍近くにも達する、常軌を逸した値段であった 18

この莫大なコストは、芝辻砲が費用対効果を度外視してでも製造する価値のある、特別な兵器であったことを物語っている。家康は「淀君を脅かすためにはコストなど問題ではなかった」のであり、この大砲に、戦局そのものを決定づける政治的・心理的な役割を期待していたのである 18 。芝辻砲は、量産を前提とした汎用兵器ではない。特定の政治目的を達成するためだけに、最高の技術と莫大な費用を投じて作られた、唯一無二の「絶対兵器」としての性格を帯びていた。その一発は、単なる物理的な破壊力だけでなく、徳川の圧倒的な財力と技術力、そして豊臣家を滅ぼすという断固たる意志を、天下に示すためのものであった。

5.3. 比較分析表:同時代の主要大砲との位置づけ

芝辻砲の持つ特異性をより明確にするため、大坂の陣の当時に存在した主要な大砲との性能を比較し、以下の表にまとめる。この表は、各兵器がどのような戦略的ニッチを占めていたかを示しており、その中で芝辻砲がいかに特殊なコンセプトの兵器であったかを浮き彫りにする。

兵器名

口径 (約)

砲弾重量 (約)

材質

製法

有効射程 (推定)

特徴・役割

出典

芝辻砲

9.5cm

5.6kg

鉄(鋼)

鍛造(論争あり)

500-600m

高価格、高精度。特定目標(城郭中枢)への精密・心理攻撃用。

18

カルバリン砲

12-13cm

8-14kg

青銅 or 鋳鉄

鋳造

2km (最大6.3km)

長射程。広範囲への制圧射撃、心理的威圧。

1

セーカー砲

8-9cm

2.5kg

青銅 or 鋳鉄

鋳造

中距離

カルバリン砲より小型で扱いやすい中量級火砲。

2

国友製大筒

-

1貫目 (3.75kg) 等

鍛造

-

芝辻砲と同様、火縄銃の技術を応用した国産大筒。家康は多数発注。

3

仏郎機砲 (国崩し)

大口径

-

青銅

鋳造

短距離

後装式(子砲)。装填は速いがガス漏れが多く、暴発の危険性も高かった。

2

この比較から明らかなように、芝辻砲は射程や破壊力といった単純なスペックで他を圧倒する兵器ではない。その価値は、他のどの兵器も持ち得なかった「長距離精密狙撃能力」という一点に集約される。家康の砲術戦略において、それはまさに外科手術のメスのような、精密かつ決定的な役割を担うべくして生み出された存在だったのである。

第六章:現代に続く大論争 ― 芝辻砲を再検証する

芝辻砲を巡る物語は、大坂の陣と共に終わるわけではない。むしろ、その物理的な存在そのものが、現代に至るまで歴史家や技術史研究者の間で白熱した論争の火種となり続けている。本章では、通説を根底から覆すラディカルな見解から、最新の史料研究がもたらす新たな光まで、芝辻砲を巡る現代の議論を多角的に検証する。

6.1. 究極の懐疑論「幕末製造説」

芝辻砲に関する数ある論争の中でも、最も根源的かつ衝撃的なのが、一部の研究者によって提唱されている「幕末製造説」である 23 。この説は、現在靖国神社に存在する芝辻砲は、慶長年間に作られたものではなく、時代を250年以上も下った幕末から明治初期にかけて製造された「偽作」であると主張する。

この大胆な仮説の根拠は、主に二つある。

根拠① 物理的欠陥の不自然さ:

第一の根拠は、第三章で詳述した、実戦兵器としては致命的すぎる物理的欠陥の存在である。砲腔が著しく歪曲している点や、巨大な砲の運用に不可欠な砲耳が完全に欠如している点は、実際に戦闘で使用することを前提とした兵器とは考えにくい 23。幕末製造説の論者は、これらの欠陥は慶長年間の技術的限界によるものではなく、そもそも実用を目的とせずに作られた装飾品、あるいはモニュメントであった証拠だと解釈する。

根拠② 製造の動機と時代背景:

第二の根拠は、なぜ幕末という時代に、わざわざ慶長年間の大砲を「偽作」する必要があったのか、という動機に関する推論である。この説によれば、黒船来航以降、西洋列強の圧倒的な軍事技術を目の当たりにした日本は、一種の国家的劣等感に苛まれていた。その中で、「我が国は、西洋に先駆けること250年も前の17世紀初頭に、これほど偉大で巨大な鉄製大砲を独力で開発していたのだ」という輝かしい歴史を「創造」し、国民の士気を鼓舞する必要があったのではないか、と推論するのである 23。つまり、この大砲は、近代国家形成期のナショナリズム高揚のためのプロパガンダとして製造されたというわけである。砲身に不自然なほど大きく、見栄え良く刻まれた銘も、その歴史的価値を誇示するための演出であり、この説を補強する証拠の一つとされている。

6.2. 論争への反論と最新研究の光

この「幕末製造説」は、現存する大砲の物理的証拠に基づいた、論理的で説得力のある仮説である。しかし、この説が全てを説明できるわけではない。反論として、現存する大砲は偽作ではなく、慶長当時に作られた「不完全な本物」であるという可能性も十分に考えられる。すなわち、芝辻理右衛門が家康の特命を受けて開発に挑んだものの、製造過程で砲腔が歪むなどの欠陥が生じ、実戦投入には至らなかった「失敗した試作品」が、その歴史的価値の高さゆえに破棄されることなく後世に伝えられた、という解釈である。

こうした中、この長年の論争に新たな光を当てる可能性を秘めているのが、近年研究が進む一次史料の存在である。特に注目されるのが、令和5年(2023年)に堺市の指定有形文化財として新たに指定された「芝辻理右衛門家文書」である 12 。この一括の古文書は、これまで謎に包まれていた芝辻家の活動実態を具体的に明らかにする、第一級の史料である。

文書の内容によれば、芝辻理右衛門家は、徳川家康・秀忠・家光の三代にわたって幕府の御用を務め、幕府からの注文に応じて鉄砲を生産していたことが具体的に記されている 28 。さらに、当代随一の砲術師として名高い稲富(いなとみ)家からも、技術的な指示を受けていたことまで判明している 28 。これらの記録は、芝辻理右衛門が徳川幕府初期の兵器開発において、極めて重要な役割を担っていた紛れもない事実を証明するものである。

この状況は、芝辻砲を巡る研究が、非常に興味深い局面にあることを示している。一方には、物理的な欠陥から「偽作」の可能性を示唆する「物証(アーティファクト)」。もう一方には、芝辻理右衛門が家康の重要なプロジェクトに関与していたことを示す「文書証拠」。この二つの、一見矛盾するかに見える証拠をいかにして整合的に説明するかが、今後の研究における最大の課題となる。芝辻砲の謎は、物証と文献証拠の対話の中から、新たな解釈が生まれるのを待っているのである。

結論:泰平の世の礎となった技術の記念碑

芝辻砲を巡る詳細な調査と分析を通じて明らかになるのは、この一門の大砲が、単一の定義では到底語り尽くせない、極めて複合的で多層的な歴史的遺産であるという事実である。その評価は、軍事史、技術史、政治史、そして文化史といった、光を当てる角度によって様々にその姿を変える。

「失われた技術」の象徴として

軍事技術史の観点から見れば、芝辻砲は一つの時代の頂点であると同時に、その終わりを告げる存在であった。大坂の陣の終結は、大規模な内戦の時代の終わりを意味した。これにより、徳川幕府は国内の安定を最優先し、大名間の軍事力競争を厳しく制限する政策へと舵を切る。結果として、芝辻砲に代表されるような、最先端の大型火砲を開発・製造する技術的インセンティブは急速に失われていった 3 。日本の高度な大砲製造技術は、その後の二百数十年、いわば「封印」された状態となり、再びその必要性が叫ばれるのは、遥か後の幕末に黒船が来航し、西洋との圧倒的な技術格差を突きつけられた時であった 1 。芝辻砲は、日本の近世における軍事技術の一つの到達点を示す輝かしい記念碑であると同時に、その後の長い停滞の始まりを象徴する、皮肉なモニュメントでもあるのだ。

複合的な歴史的価値の総括

結論として、芝辻砲の歴史的価値は、以下の四つの側面に集約することができる。

  • **軍事史的には、**徳川家康の巧みな戦略思想を体現した特殊兵器のコンセプトである。それは、物理的な破壊力以上に、敵の心理を突くことを目的とした「狙撃砲」という、当時としては極めて先進的な兵器運用の試みであった。
  • **技術史的には、**日本の伝統的な鍛造技術の栄光と、その限界点の両方を示す試金石である。世界最高水準の刀剣・鉄砲製造技術を、前代未聞のスケールにまで拡張しようとした壮大な挑戦であり、その過程で露呈した欠陥も含めて、近世日本の技術史における重要なケーススタディとなっている。
  • **政治史的には、**徳川の覇権を確立し、その正当性を後世に伝えるための強力なプロパガンダの道具であった。「芝辻砲の一撃が天下を決した」という物語は、徳川政権の創生神話として機能し、その支配を象徴するアイコンとなった。
  • **文化史的には、**その真贋と実用性を巡る現代の論争そのものが、歴史をいかに解釈し、語り継いでいくかを我々に問い続ける、魅力的なテーマを提供している。物証と文献証拠の間の緊張関係は、歴史研究の醍醐味と奥深さを示している。

結び

靖国神社の遊就館に静かに佇む一門の大砲は、もはや単なる過去の遺物ではない。それは、戦国から江戸、そして近代に至る日本の歴史の複雑な断層をその身に内包し、私たちに絶え間ない問いを投げかけ続ける、生きた史料なのである。その黒々とした砲口は、もはや豊臣の城ではなく、歴史の真実を希求する私たちの探究心そのものに向けられていると言えるだろう。芝辻砲を巡る旅は、一つの答えにたどり着くことではなく、その問いの豊かさを味わうことの中にこそ、その本質があるのかもしれない。

引用文献

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  3. 不惑会・喜田邦彦・信長・秀吉・家康の大砲政策く http://fuwakukai12.a.la9.jp/Kita/kita-taihou.html
  4. 玉手山と大坂夏の陣 | 大阪府柏原市 https://www.city.kashiwara.lg.jp/docs/2014041800015/
  5. 重要ポストを与えても給料は上げない…大名の力を削いで巧みにコントロールした家康の"ずるい政権運営" 軍事政権である江戸幕府が260年も続いた理由 (3ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/74539?page=3
  6. 三英傑と国友鉄砲鍛冶/ホームメイト - 名古屋刀剣ワールド https://www.meihaku.jp/arquebus-basic/kunitomo-gun-blacksmith/
  7. 砲撃により大坂城天守を打ち崩し、淀殿の戦意喪失させる。(「どうする家康」200) https://wheatbaku.exblog.jp/33176799/
  8. 鉄砲鍛冶とは‐歴史と技術‐/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/116905/
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  10. 日本本土に初めて鉄砲をもたらした砲術家・津田監物算長(岩出市、和歌山市) https://oishikogennofumotokara.hatenablog.com/entry/2023/03/11/000000
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  12. 正覚山 福成寺 | ニュース | 『芝辻理右衛門家文書と堺の鉄炮鍛冶展』が堺市博物館にて催されています。福成寺に芝辻理右衛門氏のお墓が境内に建立されています。 - 大阪府堺市 福成寺 合同納骨墓「御縁墓」 https://www.fukujyouji.org/news/2024/03/26/%E3%80%8E%E8%8A%9D%E8%BE%BB%E7%90%86%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80%E5%AE%B6%E6%96%87%E6%9B%B8%E3%81%A8%E5%A0%BA%E3%81%AE%E9%89%84%E7%82%AE%E9%8D%9B%E5%86%B6%E5%B1%95%E3%80%8F%E3%81%8C%E5%A0%BA%E5%B8%82/
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  16. 徳川家康が大坂の陣で配備した大筒とは/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/114558/
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  23. 6 、戦国期日本の大砲開発と製造・・・その実態 - 日本の武器兵器 http://www.xn--u9j370humdba539qcybpym.jp/part1/archives/303
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  26. 歴史に残る鉄砲戦:大坂の陣|検索詳細 - 国土交通省 https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/R4-00134,html
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  28. 企画展「芝辻理右衛門家文書と堺の鉄炮鍛冶」<令和6年3月 ... - 堺市 https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/hakubutsukan/exhibition/kikaku_tokubetsu/shibatsujiteppo.html