蜂須賀正勝所用とされる「萌葱糸素懸威胴丸」は、萌葱糸の生命力と素懸威の実用性が特徴。伝承の「朱塗日輪紋胴丸」は、秀吉との絆を象徴する文化的記憶。
甲冑は、単なる防具にあらず。それは着用者の地位、美意識、信仰、そして生きた時代の精神までを映し出す、複合的な文化遺産である。本報告書は、豊臣秀吉の腹心として知られる蜂須賀正勝(はちすか まさかつ)が所用したとされる「萌葱糸素懸威胴丸(もえぎいとすがけおどしどうまる)」という一領の甲冑を起点とし、その名称を構成する要素の分析から、戦国・安土桃山時代という激動の時代相と、そこに生きた武将たちの精神世界を深く掘り下げんとするものである。
甲冑の印象を大きく左右する要素の一つに「威(おどし)」がある。これは、無数の小札(こざね)と呼ばれる小さな鉄や革の板を、色鮮やかな組紐や革緒で連結する技法であり、その語源は「緒通し(おどおし)」に由来するとも、威糸の色で敵を威圧する「威し」から来ているとも言われる 1 。威の様式は、甲冑の防御力、重量、そして美観を決定づける重要な要素であった。
本甲冑の名称に含まれる「素懸威(すがけおどし)」とは、威毛(おどしげ)となる糸や革紐の間隔を空け、小札の表面をまばらに綴じ合わせる技法である 2 。これは、小札の表面を威毛で隙間なく覆い尽くす「毛引威(けびきおどし)」と対照的な技法と言える 3 。毛引威が威糸の色彩を前面に押し出し、絢爛豪華な印象を与えるのに対し、素懸威は威糸の使用量が少なく、下地の小札の色(多くは漆で黒く塗られる)が露出するため、より質実で引き締まった外観を呈する。
この相違は、単なるデザインの差に留まらない。素懸威は毛引威に比べて使用する威糸が少ないため、軽量化に繋がり、通気性も向上する。さらに、製作に要する手間と時間も大幅に削減できるという、極めて実用的な利点を持っていた 2 。
平安・鎌倉時代、合戦の主役が一騎討ちを主とする上級騎馬武者であった頃、甲冑は個人の武威や家の格式を示す「晴れ着」としての性格が強かった。そのため、手間を惜しまず製作された装飾性の高い毛引威の大鎧が主流であった 1 。しかし、戦国時代に入り、足軽を含めた大規模な集団戦が合戦の常態となると、武具に対する要求も変化する。個人の華美な装飾よりも、部隊としての機動性、武具の量産性、そして戦場で損傷した際の修理の容易さといった、より実践的な機能が重視されるようになった 4 。素懸威の採用は、まさにこうした時代の要請に応えるものであり、甲冑が個人の威儀を飾る道具から、より効率的な「戦闘装備」へとその本質を移行させていった過程を物語る、技術的な証左なのである。
甲冑を彩る威糸の色は、単なる装飾ではなく、着用者の思想や祈願が込められた、一種の意思表示であった。「萌葱色(もえぎいろ)」とは、春先に萌え出る葱(ねぎ)の若芽のような、生命力に満ちた鮮やかな緑色を指す伝統色である 6 。平安時代から用いられてきた色名で、『萌木』や『萌黄』とも表記されるが、特に『萌葱』と記される場合は、より青みがかった濃い緑色を指すことが多い 6 。
この色は、春の新緑や若木を想起させることから、「若さ」「生命力」「成長」の象徴とされた。特に、源平合戦で活躍した那須与一や平敦盛が萌黄縅の鎧を着用していたと伝えられるように、若武者が初陣に臨む際に好んで用いた色彩であった 10 。その背景には、自らの若々しい武威を誇示するとともに、戦場での武運長久と成長を願う気持ちがあったと考えられる。さらに、獅子舞の幕や夏の蚊帳にもこの色が用いられたことから、厄除けや雷除けといった呪術的な意味合いも持っていたとされ、神仏の加護を願う色でもあった 7 。
特筆すべきは、この美しい緑色が、単一の染料では生み出せないという点である。日本の伝統的な染色技術において、緑色はまず藍で青く染め上げた布や糸に、刈安(かりやす)や黄檗(きはだ)といった植物由来の黄色染料を染め重ねる「交染(こうせん)」という複雑な工程を経て初めて得られる 12 。刈安から得られる黄色は赤みを含まないため、藍の青と交わることで、特に鮮やかな緑色を発色させることができた 15 。これは、当時の日本の染織技術が極めて高い水準にあったことを示している。
したがって、甲冑に「萌葱糸」を選ぶという行為は、単なる色彩の好みを超えた、戦略的な自己表現であった。壮年期に達した武将がこの色を纏うとすれば、それは物理的な若さではなく、「戦場にあって常に瑞々しい生命力を失わず、成長を続ける武人である」という精神的な若さのアピールであり、同時に神仏の加護を願う敬虔な祈りの表明でもあった。萌葱糸で威された甲冑は、着用者が「若々しい武威と生命力に満ち、神仏の加護篤き武将」というペルソナを構築するための、視覚的なプロパガンダ装置として機能したのである。
「胴丸(どうまる)」は、甲冑の形式の一つであり、その歴史は日本の合戦形態の変遷と密接に結びついている。もともと胴丸は、平安時代中期に、騎馬武者の正式な装備であった「大鎧(おおよろい)」に対する形で、徒歩(かち)で戦う下級武士のための、より軽量で動きやすい甲冑として誕生した 16 。
その最大の特徴は、胴部が一体で体を包み込み、右脇で引き合わせて着用する構造にある 18 。これにより、介添えなしでも一人で着脱が可能であった。また、腰から大腿部を守るスカート状の「草摺(くさずり)」が、大鎧の4枚(四間)に対し、胴丸では8枚(八間)に細かく分割されている点も重要である 16 。この構造により、歩行や走行時の足さばきが格段に向上し、地上での白兵戦において高い機動性を発揮した。
当初は下級武士の装備と見なされていた胴丸であったが、鎌倉時代後期の元寇(蒙古襲来)を契機に、その評価は一変する。モンゴル軍との戦いでは、従来の騎馬武者による一騎討ちではなく、集団での接近戦が戦闘の主軸となった。このような戦況下では、重厚な大鎧よりも、軽量で動きやすい胴丸の実用性が際立った。落馬してもすぐに立ち上がって戦える胴丸の利点は上級武士にも認識され、室町時代には大鎧に代わって甲冑の主流となっていった 4 。
戦国時代に入ると、さらに実用性を追求した「当世具足(とうせいぐそく)」が登場するが、胴丸の形式はその基本構造として受け継がれ、多くの武将たちに愛用され続けた。したがって、「胴丸」という形式そのものが、合戦の主役が一部の貴族的な騎馬武者から、より広範な階層の武士による集団戦へと移行した、社会構造の変化を物語る「生きた証拠」と言えるのである。蜂須賀正勝のような実力でのし上がった武将が胴丸を所用したとすれば、それは彼の出自や、彼が戦い抜いてきた現場主義的な戦闘スタイルを象ें徴するものとなる。
表1:主要甲冑形式の比較 |
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形式 |
主な時代 |
主な使用者 |
構造的特徴 |
長所 |
短所 |
大鎧 |
平安~鎌倉 |
上級騎馬武者 |
左脇が開く(脇楯) |
格式高い、防御力が高い(対弓矢) |
重い、動きにくい(地上) |
胴丸 |
鎌倉~室町 |
下級~上級徒歩武者 |
右脇で引合せ |
動きやすい(徒歩戦)、着脱が容易 |
格式では大鎧に劣る |
腹巻 |
南北朝~戦国 |
下級武者・足軽~上級武者 |
背中で引合せ(背板) |
軽量、さらに動きやすい |
防御範囲が狭い(背中) |
当世具足 |
戦国(桃山)~江戸 |
全階層の武士 |
蝶番等で開閉する多枚数構成の胴 |
防御力が高い(対鉄砲)、機能的 |
重量がある、伝統的な美観とは異なる |
本章では、この「萌葱糸素懸威胴丸」の所有者とされる蜂須賀正勝の人物像を史料から再構築し、現在彼が所用したと伝わる甲冑との比較を通じて、ご依頼の前提となった「朱塗の胴に金の日輪」という伝承の謎に迫る。
蜂須賀小六正勝と聞くと、講談や小説の影響から、屈強な体躯を持つ野盗の頭目、あるいは木曽川流域で活動した「川並衆」の親分といった、荒々しい人物像を思い浮かべる者も少なくない 22 。しかし、これらのイメージは、後世に創作された物語上の姿である可能性が極めて高い。例えば、若き日の秀吉(日吉丸)が矢作川の橋の上で小六と出会う有名な逸話は、当時、矢作川に橋が架かっておらず渡し船で往来していた事実から、史実とは考え難い 25 。
史料から浮かび上がる正勝の実像は、こうした創作とは大きく異なる。彼は尾張国海東郡蜂須賀村(現在の愛知県あま市)の土豪、すなわち在地領主の家に生まれた 27 。はじめは美濃の斎藤道三、次いで尾張の織田家に仕え、早くから羽柴(豊臣)秀吉の与力(配下の武将)としてその麾下に属した、歴戦の武人であった 26 。
秀吉の天下取りの過程において、正勝が果たした役割は計り知れない。秀吉より11歳年長であった彼は 22 、兄貴分、あるいは後見役のような立場で若き日の秀吉を支えた。墨俣一夜城の築城への協力 27 、織田信長最大の危機であった金ヶ崎の退き口における殿軍(しんがり)の務め 22 、長島一向一揆との戦いでの「一番槍」の武功 22 など、その武勇伝は枚挙に暇がない。
しかし、彼の真価は武勇だけに留まらない。敵方の武将を味方に引き入れる調略 22 、戦後の和睦交渉 22 、秀吉の代官として京都の治安維持を担う行政手腕 22 など、政務・外交の面でも卓越した能力を発揮した。彼は、秀吉の覇業において、常に最も困難で重要な局面を担い続けた、まさに「黒子役」であり、その働きは竹中半兵衛や黒田官兵衛といった名軍師にも決して劣るものではなかった 22 。
四国平定後、秀吉から阿波一国を与えられるという破格の恩賞を受けた際も、正勝はこれを固辞し、病を理由に隠居。嫡男の家政に家督と領国を譲った 22 。この逸話は、自らの功名を誇るよりも、豊臣政権の安泰と蜂須賀家の未来を優先する、彼の思慮深く謙虚な人柄を物語っている。また、故郷の延命地蔵菩薩を篤く信仰し、夜毎参詣して出世を祈願したという伝承も残り、その敬虔な一面を伝えている 35 。
蜂須賀正勝の人物像を再確認した上で、現在、彼が所用したと伝わる甲冑に目を向けたい。それは、井伊美術館が寄託調査品として所蔵する「鯰尾兜付亀甲紋包韋腹巻具足(なまおなりかぶとつききっこうもんつつみかわはらまきぐそく)」である 36 。この甲冑は、付属する鎧櫃の付紙に「壱番 蜂須賀小六正勝様着領/昭和十一年一月四日調」との墨書があり、これが伝来の根拠となっている 36 。
この具足の様式を分析すると、興味深い事実が浮かび上がる。
第一に、兜は「鯰尾形兜(なまおなりかぶと)」である。これは、安土桃山時代に大流行した「変わり兜」の代表的な一形式で、その名の通り鯰の尾のように後方へ長く伸びた特異な形状を持つ 36。下克上の世を実力で生き抜いた武将たちは、合戦の場で自らの存在を誇示し、敵を威圧するために、こうした奇抜な意匠の兜を好んで用いた。この兜は、桃山文化の豪放で華やかな気風を色濃く反映している。
第二に、胴の形式が「腹巻(はらまき)」である点だ。腹巻は、胴丸をさらに簡略化・軽量化した形式で、背中で引き合わせて着用する 4 。胴丸よりもさらに動きやすさを重視した腹巻の選択は、数々の戦場で自ら先陣を切って戦ったであろう、正勝の歴戦の武将らしい実用本位の姿勢をうかがわせる。
第三に、胴は亀甲文様を打ち出した革で包まれており(包韋)、これもまた実用性と装飾性を兼ね備えた、桃山時代らしい仕立てと言える。
この現存する甲冑は、後世に創作された「野盗の親分」というイメージとは全く異なり、安土桃山という絢爛さと実用主義が混在する時代を生きた、史実の「桃山武将」としての蜂須賀正勝の姿を見事に体現している。変わり兜で自らの個性を主張しつつも、その基本構造は戦働きを第一に考えた腹巻を選ぶ。このバランス感覚こそ、武勇と政略の両面に長けた正勝の人物像と、極めて高い整合性を示すものと言えよう。
ここで、本報告書の核心的な謎が立ち現れる。ご依頼の前提となった「朱塗の胴に金の日輪が大きく描かれた、萌葱糸素懸威の胴丸」という甲冑は、前節で確認した現存する正勝所用の「鯰尾兜付亀甲紋包韋腹巻具足」とは、形式(胴丸 vs 腹巻)、威しの様式、胴の色彩と文様、その全てにおいて全く一致しない。では、この「日輪の胴丸」の伝承は、一体どこから来たのであろうか。
この謎を解明するために、いくつかの可能性を検討する必要がある。
第一に、「失われた第二の甲冑説」である。正勝ほどの高名な武将であれば、複数の甲冑を所有していても不思議はない。彼が戦況や儀礼に応じて使い分けるため、「日輪の胴丸」を所有していたが、何らかの理由で失われ、現在は腹巻具足のみが伝わっているという可能性である。
第二に、「伝承の混同・合成説」である。阿波徳島藩の藩祖として敬愛された正勝の武勇を後世に語り継ぐ過程で、様々な情報が混ざり合った可能性が考えられる。例えば、他の著名な武将が用いた日輪紋の甲冑のイメージ 39 や、蜂須賀家に後代伝わった甲冑の特徴(徳島藩には実際に「萌葱糸威二枚胴具足」が伝来している 40 )が、時代を超えて藩祖・正勝の物語に吸収・統合され、「蜂須賀正勝の象徴的な甲冑」として再構築されたのではないか。
第三に、最も示唆に富むのが「象徴性の具現化説」である。正勝が仕えた豊臣秀吉は、その出自の低さから、自らを天皇の落胤であると称し、またその政策から「日輪の子」とも呼ばれた。その秀吉が最も信頼した宿老の一人である正勝を、主君の象徴である「日輪」と結びつける物語が後世に創作され、その物語にふさわしい、英雄的な甲冑像―すなわち、最も武威を示す「朱塗」の胴に、主君との絆と神聖な権威を示す「金の日輪」を配した甲冑―が、人々の心の中に「実在」するようになったという可能性である。
この「日輪の胴丸」の伝承は、史実そのものではなく、「歴史がどのように記憶され、語り継がれるか」というプロセスが生み出した「文化的記憶」の産物である可能性が高い。藩祖の物語は、しばしば英雄的に、また象徴的に語られる 41 。「日輪」と、精鋭部隊を象徴する「朱塗」 38 という、最も強力で分かりやすいシンボルを組み合わせ、それを藩祖・正勝の甲冑として語ることは、蜂須賀家の権威と、その始祖が天下人の下で果たした重要な役割を、より劇的に後世に伝えるための「物語装置」として、極めて効果的であったと考えられる。したがって、この伝承は、物理的な物体の記録というよりも、徳島藩のアイデンティティを形成するための一つの「神話」として機能したのではないか。この謎を追うことは、歴史的事実そのものだけでなく、人々が歴史をどう解釈し、意味づけてきたかを探る旅となるのである。
前章では、「朱塗日輪紋の胴丸」が史実ではなく、後世に形成された文化的記憶である可能性を指摘した。しかし、仮にそのような甲冑が存在したとすれば、その意匠にはどのような思想が込められていたのだろうか。本章では、この架空の甲冑を「テクスト」として捉え、その各要素を戦国・桃山時代の価値観から深層分析することで、武将たちの精神世界を読み解く。
甲冑に「日輪紋(にちりんもん)」、すなわち太陽の文様を掲げるという行為は、単なる装飾を超えた、極めて重い意味を持つ。
その根源には、日本の古層に根ざす太陽信仰がある。太陽は、皇室の祖神とされる天照大神(あまてらすおおみかみ)の象徴であり、古来、最も神聖で根源的な力を持つと信じられてきた 44 。日月(じつげつ)の紋は天皇の権威を象徴する徽章(きしょう)として用いられ、一般の武家がこれを家紋として用いることは畏れ多いとされたほどである 44 。
一方で、武士たちの間では、太陽や月の光線、あるいは実体のない陽炎(かげろう)を神格化した「摩利支天(まりしてん)」への信仰が篤かった 47 。摩利支天は、実体がないゆえに捉えることも傷つけることもできないとされ、その絶大な神通力から、武士たちは戦場での勝利と護身を祈願する守護神として崇敬した 48 。南北朝時代の楠木正成は兜の中に摩利支天の小像を忍ばせ、戦国時代の上杉謙信が用いた有名な「日輪三日月」の前立(まえだて)も、この摩利支天信仰の表れであるとされている 47 。
甲冑に日輪紋を掲げることは、こうした複数の権威を同時に借用する、高度な政治的・宗教的パフォーマンスであった。それは第一に、天照大神に連なる皇室の神聖な権威に自らを接続し、自らの戦いや支配の正当性を主張する行為である。これは、天下統一を目指した織田信長や豊臣秀吉が「天下布武」や「公儀」といった概念を掲げた思想と軌を一にする。第二に、摩利支天の加護を願うという、極めて実利的な信仰の表明でもある。
したがって、日輪紋は「公的な権威(皇室)」と「私的な祈願(武運長久)」、そして「超自然的な力(神性)」という三つの要素を一つのシンボルに凝縮した、極めて強力な意匠であった。これを纏うことは、敵に対して物理的な脅威だけでなく、自らが神仏に選ばれた存在であるという、抗いがたい精神的な威圧感を与える効果を狙っていたに違いない。
「日輪の胴丸」の伝承が「朱塗の胴に金の日輪」と語る点も、象徴的な意味に満ちている。
まず「朱(しゅ)」である。朱色は、神社の鳥居や社殿にも多用されるように、古くから権威の象徴であり、魔除けの力を持つと信じられてきた 52 。また、朱の原料である辰砂(しんしゃ)には、木材や革の腐食を防ぐ防腐剤としての実用的な効果もあった。戦場において朱色は極めて目立つため、敵から格好の標的とされる危険な色である。しかし、戦国の武将たちは、その危険をあえて冒すことで、自らの比類なき武勇と、死を恐れない覚悟を内外に示した 38 。武田信玄の重臣・飯富虎昌(おぶ とらまさ)に始まり、武田軍の最強部隊の代名詞となった「赤備え(あかぞなえ)」は、その象徴である。この赤備えは後に井伊直政や真田信繁(幸村)にも受け継がれ、戦場で誰もが恐れる精鋭部隊のしるしとなった 38 。
次に「金(きん)」である。金色は、富と権力の絶対的な象徴に他ならない。黄金の茶室を造り、大坂城の瓦を金箔で葺かせた豊臣秀吉がそうであったように、金色をふんだんに用いることは、自らの絶大な経済力と、天下人としての地位を誇示する最も直接的な手段であった 53 。秀吉自身や、その重臣であった前田利家も金箔で覆われた甲冑を所用しており、それは彼らの政治的地位を視覚的に宣言するものであった 53 。
この「朱」と「金」を組み合わせることは、戦場における「武の頂点(朱)」と、それを支える「富と権力の頂点(金)」を同時に主張する、究極の自己顕示と言える。この甲冑を纏った武将は、言葉を発することなくして、「私は戦場で誰よりも強く、そしてこの国を支配するに足る富と権力を持っている」という、天下人、あるいはそれに準ずる者としての宣言を行っているに等しい。これは、個人の美意識を超えた、高度に計算された政治的・軍事的ステートメントなのである。
これまでに分析した各要素―萌葱糸、素懸威、胴丸、日輪紋、朱塗、金色―を統合すると、この(架空の)甲冑が発する総合的なメッセージが浮かび上がってくる。
これらの要素が一つに統合された甲冑は、着用者が「 私は、若々しい生命力と神々の加護をその身に宿し、現実的な戦術眼を持ちながら、最高の武威と天下を治めるに足る権力を持つ、新時代の支配者である 」という、極めて重層的かつ強力な自己宣言の表明となる。
この甲冑の意匠は、戦国・桃山時代という時代の精神そのものを凝縮した「テクスト(読み解かれるべき文書)」である。この時代は、足利幕府や守護大名といった旧来の権威が崩壊し、新たな秩序が実力によって構築される激動の過渡期であった。この甲冑の各要素は、その過渡期の価値観を見事に反映している。「素懸威」や「胴丸」は旧弊を打破する実力主義を、「日輪」や「金」は新たに構築すべき権威の象徴を、「萌葱」は未来へ向かう生命力を、そして「朱」はそれを実現するための圧倒的な武力を、それぞれ示している。
これらの要素が一つの甲冑に統合されていることは、戦国武将が、単に戦に強いだけの存在ではなく、自らの行動を正当化し、新しい時代のビジョンを示す「思想家」でもなければならなかったことを示唆している。そして甲冑は、その思想を纏い、戦場という舞台で雄弁に語るための、最も重要なメディアだったのである。
本章では、視点をさらに広げ、この甲冑が生まれたであろう安土桃山時代における、甲冑文化全体の潮流と、その背景にある戦術や社会の変化を考察する。
安土桃山時代の甲冑のあり方を決定づけた最大の要因は、1543年の種子島への漂着に始まる「鉄砲」の伝来と、その後の急速な普及であった 54 。
鉄砲が放つ鉛の弾丸は、従来の弓矢とは比較にならない高い運動エネルギーを持ち、至近距離であれば既存の甲冑を貫通するほどの威力を持っていた 5 。この新たな脅威の出現は、合戦の様相を一変させるとともに、甲冑の進化を劇的に促した。防御の思想は、小札(こざね)を糸で綴り合わせる伝統的な構造から、より堅牢な鉄板(板札)で胴を覆う方向へとシフトしていく 55 。
この変化に対応して生まれたのが、「当世具足(とうせいぐそく)」と呼ばれる新形式の甲冑である 38 。「当世」とは「現代風」を意味し、その名の通り、鉄砲戦という新たな戦術に適応した、機能的な甲冑であった。当世具足の胴は、一枚の鉄板を打ち出して成形したり、複数の鉄板を蝶番(ちょうつがい)で繋ぎ合わせたりして作られ、高い防弾性能を実現した 38 。また、ポルトガルなどから輸入された西洋甲冑を模した「南蛮胴具足」も、その頑丈さから多くの武将に好まれた 38 。
同時に、防御の範囲も拡大した。それまでは比較的無防備であった顔面を守る「面頬(めんぽお)」、大腿部を覆う「佩楯(はいだて)」などが標準装備となり、全身を隙間なく防御する思想が一般化した 55 。
このような技術史の大きな転換点において、「萌葱糸素懸威胴丸」のような甲冑は、過渡期ならではのハイブリッドな存在として位置づけることができる。鉄砲の脅威に対抗するためには、鉄の使用量を増やし、甲冑は重くなる傾向にあった。その中で、軽量化に貢献する「素懸威」や、機動性に優れた「胴丸」形式の要素を残すことは、重量増を相殺し、実用性を維持するための合理的な選択であった可能性がある。それは、伝統的な「威し」の美学と、新しい時代の「防弾性能」という要請がせめぎ合う中で生まれた、一つの最適解であったのかもしれない。伝統と革新が混じり合った桃山文化そのものの縮図が、そこには見て取れる。
戦国乱世が終息に向かい、豊臣秀吉による天下統一が成ると、甲冑の役割は再び変化する。実戦の機会が減る一方で、甲冑は武将の個性や家の威光、そして美意識を表現するための「表道具(おもてどうぐ)」としての性格を強めていった 1 。
特に、着用者の顔となる兜は、その個性を爆発させる舞台となった 59 。蜂須賀正勝の「鯰尾形兜」 36 や藤堂高虎の「唐冠形兜」 60 のように、既存の形式を大胆にデフォルメしたものから、伊達政宗の三日月や本多忠勝の鹿角のように、信仰や思想を象徴する立物(たてもの)を配したものまで、多種多様な「変わり兜」が作られた 55 。これらは、戦場において遠くからでも着用者を識別させるという実用的な目的と同時に、自らの存在を強烈にアピールするためのものであった。
また、この時代の大名たちは、自らの権勢を示すため、費用を惜しまず一流の工人を召し抱え、甲冑を製作させた。その結果、高台寺蒔絵に代表される漆芸 63 や精緻な金工技術など、当代最高の工芸技術が甲冑の上に結集した。甲冑は単なる武具の域を超え、総合芸術品としての価値を高めていったのである 38 。
この文脈において、桃山時代の甲冑は、武将が自らを「演じる」ための舞台衣装であったと見なすことができる。戦場という究極の舞台で、自らがどのような「役柄」―勇猛果敢な武将か、知略に長けた将か、常識にとらわれない傾奇者(かぶきもの)か、あるいは敬虔な信者か―であるかを、視覚的に、そして雄弁に訴えかけるための最も重要なツールが甲冑だったのである。本多忠勝が鹿角の兜を纏うことで、彼が崇拝する神の使いの力を借りていることを示し 66 、伊達政宗が金の三日月を掲げることで、闇を照らす先導者としての自負を示したように、甲冑の意匠は着用者のアイデンティティそのものであった。
本報告書は、蜂須賀正勝が所用したとされる「萌葱糸素懸威胴丸」を巡る伝承を起点に、その甲冑が持つであろう意味と、それが生まれた時代の精神を探求してきた。
結論として、ご依頼の前提となった「朱塗の胴に金の日輪」を配した胴丸は、物理的に実在した可能性は低く、むしろ阿波徳島藩の藩祖である蜂須賀正勝の功績と、彼が仕えた天下人・豊臣秀吉との強い結びつきを象徴的に表現するために、後世に創出された「文化的記憶」であると結論づける。一方で、現存する「鯰尾兜付亀甲紋包韋腹巻具足」は、桃山文化の気風の中で実力でのし上がった、史実の武将としての正勝の姿を雄弁に物語っている。この二つの甲冑像は、それぞれが異なる側面から「蜂須賀正勝」という歴史上の人物を照らし出しており、どちらか一方のみが真実というよりも、両者を併せ見ることで、彼の人物像はより立体的に浮かび上がる。
一つの甲冑の名称、構造、色彩、意匠を深く分析することで、我々はその背後にある、その時代の戦術、技術、経済、宗教観、美意識、そして社会構造までを多角的に読み解くことができる。甲冑は、まさにその時代を映す鏡なのである。
最後に、現代における文化財としての甲冑のあり方について触れておきたい。甲冑は、鉄、革、漆、組紐、布といった、性質の異なる脆弱な素材の集合体である。そのため、経年による劣化は避けられず、その保存と修復は極めて困難な課題を伴う 20 。本格的な修理には、甲冑師だけでなく、金工、漆工、染織といった多分野の専門技術者の協力が不可欠であり、多額の費用を要する 20 。さらに、それらの伝統技術を継承する職人の不足も深刻化しており、多くの貴重な甲冑が、適切な修理を受けられないまま傷みを増しているのが現状である 68 。
これらの甲冑は、単なる古美術品ではない。それは、日本の歴史と文化の激動期を生きた人々の精神と技術が結晶した、かけがえのない「時代の証言者」である。この貴重な遺産を未来へと確実に継承していくためには、所有者個人の努力に頼るだけでなく、社会全体での深い理解と、それを支えるための継続的な支援体制の構築が急務であることを提言し、本報告書の結びとしたい。