『蒙古襲来絵詞』は、鎌倉武士の記録にして、戦国時代の鏡。季長の武勇と恩義、合戦様式の変遷、そして元寇の記憶が、時代を超え武家社会の変容を映し出す多面鏡。
『蒙古襲来絵詞』、またの名を『竹崎季長絵詞』は、鎌倉時代中期の肥後国御家人、竹崎季長が自らの戦功を後世に伝えるべく制作させた、他に類を見ない絵巻物である 1 。文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の二度にわたる元寇、すなわちモンゴル帝国による日本侵攻という未曾有の国難において、一個人の武士が体験した凄惨な戦場の実相と、恩賞を求める執念が、絵と詞書(ことばがき)によって生々しく記録されている 3 。この絵巻は、鎌倉武士の精神性、当時の合戦の様相、そして幕府と御家人の関係性を解き明かす上で、第一級の歴史的視覚史料として揺るぎない価値を持つ。
しかし、この絵巻が持つ真価は、単に鎌倉時代の一記録であるという点に留まるものではない。本報告書では、時代を約300年下った「戦国時代」という、社会構造、価値観、そして戦闘様式が根底から覆された動乱期の「鏡」にこの絵巻を映し出すという、新たな分析的視座を提示する。実力のみがものを言い、下剋上が横行した戦国の世を生きた武将たちは、竹崎季長の個人の武勇を重んじる戦いぶりをどう評価したであろうか。天下統一を目指す戦国大名は、この絵巻からいかなる教訓を学び、あるいは自らの権威付けのためにいかに利用した可能性があるか。これらの問いを探求することこそ、本報告書の核心的課題である。鎌倉時代の遺産を戦国というフィルターを通して再解釈することにより、『蒙古襲来絵詞』が内包する多層的な意味と、時代を超えて武家社会に投げかける問いを浮かび上がらせることを目的とする。
『蒙古襲来絵詞』の深層を理解するためには、まずその発注主である竹崎季長という人物の置かれた状況と、彼が抱いたであろう複雑な動機を解き明かす必要がある。この絵巻は、単なる戦いの記録ではなく、一個人の武士が人生を賭して仕掛けた、極めて戦略的な自己表現の産物であった。
竹崎季長は、寛元4年(1246年)に肥後国竹崎郷(現在の熊本県宇城市)で生を受けた 5 。肥後の名族である菊池氏の一族に連なるものの、同族間の所領争いに敗れて家は没落し、経済的に困窮した御家人であった 6 。彼にとって、モンゴル帝国の襲来という国難は、まさに失地回復と立身出世を成し遂げるための一世一代の好機と映ったのである 7 。
文永の役(1274年)において、季長はわずか主従五騎で博多の息浜に駆けつけた 6 。日本軍の総大将であった少弐景資は、全軍での一斉攻撃を企図していたが、季長は個人の手柄を立てる好機を逃すまいと、景資の許可を得て敵陣への「先駆け」を敢行する 7 。この勇猛な突撃は、鎌倉武士の価値観においては最高の栄誉とされる行為であった。しかし、この戦功は幕府へ正式に報告されず、戦後の論功行賞で季長が恩賞を得ることはなかった 7 。
この結果に納得できない季長は、周囲の反対を押し切り、馬や武具を売却して旅費を捻出し、自ら鎌倉へ赴いて幕府に直訴するという前代未聞の行動に出る 8 。彼の目的は明確であった。自らの武功を幕府中枢に直接訴え、正当な評価と恩賞を勝ち取ることである。この文脈において、『蒙古襲来絵詞』は、季長の主張を裏付けるための「動かぬ証拠」として、極めて重要な役割を担っていた。言葉だけでは伝わらない戦場の活躍を、絵という視覚メディアを用いて具体的に提示することで、自らの功績を客観的な事実として証明しようとしたのである 10 。これは、情報を戦略的に活用し、自己の評価を形成しようとする、メディア戦略の先駆的な試みであったと言えよう。
季長の物語は、単なる恩賞目当ての自己アピールだけでは終わらない。彼の運命を大きく変えたのは、鎌倉での一人の人物との出会いであった。誰もが門前払いする中、季長の訴えに真摯に耳を傾け、彼の功績を認めたのが、幕府の重鎮であり御恩奉行を務めていた安達泰盛であった 12 。泰盛の裁可により、季長は肥後国海東郷の地頭職という破格の恩賞を賜り、没落御家人からの劇的な復活を遂げたのである 15 。
しかし、季長の恩人である泰盛は、弘安8年(1285年)に勃発した幕府内の政争「霜月騒動」において、内管領の平頼綱に急襲され、一族もろとも滅ぼされるという悲劇的な最期を遂げる 13 。この事件は鎌倉幕府の政治体制を大きく揺るがした。
ここで注目すべきは、『蒙古襲来絵詞』の最後を締めくくる詞十五、通称「奥書」の日付である。そこには「永仁元年二月九日」(1293年)と記されている 1 。この年は、霜月騒動から8年後、平頼綱が滅び(平禅門の乱)、安達泰盛派の御家人が復権し、泰盛の名誉が回復された年と一致する 16 。この事実を踏まえると、絵巻の制作動機に新たな側面が浮かび上がる。すなわち、この絵巻は、自らの武功を誇示するためだけではなく、政争に倒れた大恩人・安達泰盛とその一族の鎮魂を捧げ、その公正な政治手腕を後世に伝えるという、深い報恩感謝の意図が込められていた可能性が極めて高いのである 1 。
表面的には「一個人の立身出世物語」という体裁をとりながら、その深層には「非業の死を遂げた恩人への鎮魂歌(レクイエム)」という構造が隠されている。個人の野心と、武士としての恩義という二つの動機が複雑に絡み合ったこの二重構造こそが、『蒙古襲来絵詞』に時代を超えた深みと人間的な魅力を与えているのである。
『蒙古襲来絵詞』の価値は、その制作背景のドラマ性のみならず、絵画として描き出された情報の密度とリアリティにある。そこには、理想化された武士像とは異なる、生々しい戦場の現実が克明に記録されている。
絵巻は、季長の個人的な体験を軸に、物語として展開される。文永の役における出陣から、鳥飼潟での先駆け、負傷、そしてクライマックスである鎌倉での安達泰盛への直訴と恩賞拝領までが、前半の主要な内容をなす 4 。後半では、弘安の役における海戦での奮戦が描かれる。
絵画的には、中世絵巻物の特徴的な技法である「異時同図法」が効果的に用いられている 12 。これは、一つの画面内に異なる時間軸の出来事を描き込む手法であり、物語の連続性と時間の経過を視覚的に表現する。例えば、季長が蒙古兵に勇猛に突撃する場面のすぐ隣に、その結果として敗走する蒙古兵の姿が描き加えられることで、戦闘の因果関係とダイナミズムが一目で理解できるようになっている 12 。
この絵巻が際立っているのは、英雄譚にありがちな理想化を排し、戦場の混乱や武士の人間的な側面をありのままに描いている点である。その象徴が、弘安の役で敵船に乗り込む場面の季長の姿である 12 。詞書によれば、季長は急な出撃で慌てていたため、兜を忘れてしまったという。そこで彼は、なんと自らの脛当(すねあて)を兜代わりに頭に被って出陣した。このユーモラスでさえある描写は、完璧な武人像ではなく、極限状況における機転と、飾らない武士の現実を伝える貴重な記録である。
さらに、絵巻は当時の戦闘の実態を知るための情報の宝庫でもある。敵である蒙古兵の装備、例えば日本古来の和弓とは異なる複合弓(短弓)や独特の形状の鎧、革製の盾などが詳細に描かれている 1 。また、日本軍がほとんど用いない投槍を蒙古兵が使用している様子も確認できる 1 。極めつけは、日本側が用いたとされる奇策、すなわち煮立てた糞尿を敵船に投げ込み、その悪臭と刺激で敵を無力化しようとする戦術まで描かれていることである 12 。こうした描写は、文献史料だけでは窺い知ることのできない、当時の戦闘の生々しい実態を我々に伝えてくれる。
『蒙古襲来絵詞』は、鎌倉時代の一次史料として絶大な価値を持つ一方で、その後の時代、特に江戸時代において加筆や改竄が行われたことが近年の研究で明らかになっている。この変容の過程は、史料そのものが持つ意味が時代と共にどう変化していくかを示す興味深い事例である。
まず、この絵巻が鎌倉時代の武家社会を研究する上で比類なき価値を持つことは論を俟たない。描かれた武具、甲冑(特に騎射戦用の大鎧)、馬具、そして日本軍と蒙古軍の軍船の様式は極めて写実的であり、文献史料を補完する第一級の視覚史料である 3 。また、季長が直訴に訪れた安達泰盛の邸宅の様子は、門や塀、庭の植生、建物内部の様子まで詳細に描かれており、鎌倉時代の有力御家人の武家屋敷の構造を知る上で極めて貴重な図像情報を提供している 12 。
しかし、この絵巻は制作当初の姿を完全に留めているわけではない。赤外線写真などを用いた科学的分析により、後世、特に江戸時代に加えられた修正や描き込みの存在が指摘されている 16 。
代表的な例が二つある。一つは、季長が単騎で突撃する場面の左方に描かれた、目に矢が刺さるなどして狼狽しながら逃げ惑う三人の蒙古兵である 12 。この印象的な部分は、元々の絵には存在せず、後から描き加えられたものであることが判明している。もう一つは、同じ場面で季長の頭上で炸裂する火薬兵器「てつはう」の描写である 16 。この火の玉が爆発する劇的な表現は、江戸時代の国学者、松平定信らが進めた元寇研究によって「てつはう」の存在が広く知られるようになった後に、そのイメージを反映して加筆された可能性が高い 19 。当時の火薬技術では、絵に描かれたような大規模な爆発は考えにくく、むしろその轟音と煙で敵を威嚇する効果が主であったとされる 20 。
これらの加筆は、単なる史料の「汚染」として片付けるべきではない。むしろ、この絵巻が時代を経て、単なる「竹崎季長の個人的な記録」から、国民的事件である「元寇」全体を象徴する「物語」へと、その社会的役割を変質させていった証左と捉えるべきである。江戸時代の人々がこの絵巻に求めたのは、より英雄的で、より劇的なストーリーであった。季長の孤独な奮戦を際立たせるために「恐怖に慄く敵兵」という要素が加えられ、未知の兵器の脅威を視覚的に強調するために「てつはうの爆発」という演出が施されたのである。
つまり、『蒙古襲来絵詞』は、鎌倉時代の「記録」であると同時に、江戸時代の人々が「元寇」という歴史的事件をどのように解釈し、受容したかを示す「記憶の記録」でもある。この史料の変容のプロセス自体が、歴史認識の変遷を研究する上で極めて重要な対象となるのである。
『蒙古襲来絵詞』を、約300年後の戦国時代という全く異なる社会・軍事常識を持つ人々の視点から再評価することで、鎌倉と戦国の間にある価値観の断絶と連続性が浮かび上がる。個人の武勇が組織の論理に取って代わられ、下剋上が日常となった時代、季長の行動と彼が残した絵巻はどのように映ったであろうか。
戦国時代の合戦は、鎌倉時代のそれとは様相を全く異にする。この軍事革命ともいえる変化の観点から『蒙古襲来絵詞』を分析すると、竹崎季長の武勇伝は、称賛の対象から戦術的批判の対象へと、その評価が逆転する可能性さえ見えてくる。
『蒙古襲来絵詞』に描かれるのは、竹崎季長の「先駆け」に象徴されるように、個人の武勇と名誉を重んじる騎馬武者中心の戦いである 1 。一騎討ちが理想とされ、個々の武士が「手柄」を立てることが最大の目的であった 22 。これに対し、戦国時代の合戦は、槍や鉄砲で武装した足軽による大規模な集団戦法が主流となる 23 。個人の武勇よりも、兵科(槍、弓、鉄砲)を組み合わせた組織としての統率力、兵站の維持、そして敵を内から切り崩す調略が勝敗を決定づけた 25 。
この戦術の変化は、武士の装備にも顕著に表れている。鎌倉武士が着用した「大鎧」は、馬上で弓を射る騎射戦に特化した重厚な甲冑であった 26 。一方、戦国武士が用いた「当世具足」は、徒歩での密集戦に対応するため、軽量化と機能性が追求され、全身を隙なく覆う構造へと進化した 27 。携行する刀剣も同様で、馬上での斬撃に適した、腰に吊るす(佩く)反りの深い「太刀」から、徒歩での素早い抜刀と斬撃に適した、腰帯に差す反りの浅い「打刀」へと主流が移っていった 29 。
新兵器の導入も、両時代の断絶を象徴する。『蒙古襲来絵詞』にも描かれた元軍の火薬兵器「てつはう(震天雷)」は、その轟音と煙で日本軍の馬を混乱させたが、殺傷能力は限定的だったとされる 20 。しかし、1543年の鉄砲伝来は、日本の合戦を根底から覆す軍事革命を引き起こした 33 。織田信長が長篠の戦いで見せた鉄砲の集団運用は、旧来の騎馬武者戦術を時代遅れのものとし、日本の鉄砲生産量は一時期、世界有数のレベルにまで達したのである 35 。
こうした戦国時代の合理的な軍事思想の観点から、竹崎季長の行動を再評価してみよう。鎌倉武士の価値観では最高の「武功」とされた「先駆け」は、織田信長や武田信玄のような戦国の将帥の目には、どのように映っただろうか。彼らは、組織全体の統率を第一に考え、『孫子』などの兵法書を学び、緻密な戦略を練ることを常としていた 37 。その視点から見れば、季長の単独での突撃は、全体の作戦行動を無視し、組織の統率を乱すだけの「無謀な猪武者」の行動と評価されても不思議ではない。個人の名誉よりも組織としての勝利を絶対視する戦国時代において、季長の行動は戦術的には極めて稚拙で、無駄に兵力を損なう危険な行為と見なされた可能性が高い。
もちろん、その行動力や逆境に屈しない野心そのものは、戦国武将にも通じるものとして一定の共感を呼んだかもしれない。しかし、純粋に軍事行動として分析した場合、その評価は時代背景によって「最高の栄誉」から「戦術的愚行」へと180度転換しうるのである。このことは、『蒙古襲来絵詞』が、鎌倉と戦国の間にある武士の戦闘思想の巨大な断絶を浮き彫りにする、格好の試金石であることを示している。
比較項目 |
鎌倉時代(『蒙古襲来絵詞』に見る) |
戦国時代 |
主たる戦闘形態 |
騎馬武者による個人的武勇の発揮(一騎討ち、先駆け) 21 |
足軽隊による組織的集団戦(長槍衾、鉄砲三段撃ち) 23 |
主力武器 |
弓矢(騎射)、太刀 1 |
長槍、鉄砲、打刀 24 |
甲冑 |
大鎧(騎射戦に特化、重厚、防御範囲に隙) 26 |
当世具足(徒歩戦に対応、軽量・機能的・全身防御) 27 |
戦術思想 |
個人の名誉と手柄(恩賞)の追求 9 |
組織としての勝利、兵站と調略の重視、『孫子』等の兵法研究 37 |
海戦 |
小型船による接近戦、敵船への移乗攻撃 11 |
安宅船など大型軍船による制海権の確保、鉄甲船の登場 39 |
象徴的兵器 |
てつはう(音響・威嚇効果主体) 20 |
鉄砲(高い殺傷能力、戦術の根幹) 35 |
戦国時代は、旧来の権威が失墜し、実力主義が社会を支配した時代である。この観点から季長の行動を分析すると、彼の姿は、見る者の立場によって全く異なる解釈を生む多義的な存在として浮かび上がる。
鎌倉時代は、将軍を頂点とし、御家人が「御恩と奉公」という契約関係で結ばれる、比較的安定した封建秩序の上に成り立っていた 15 。竹崎季長が恩賞を求めて鎌倉へ向かった行動も、この秩序の枠組みの中で、自らの「奉公」に対する正当な「御恩」を要求するものであり、秩序そのものを破壊しようとするものではなかった。
対照的に、戦国時代は「下剋上」が横行する、極めて流動的な社会であった 40 。守護大名は家臣にその地位を奪われ、農民一揆が領主を追放することも珍しくなかった。「力こそすべて」という価値観が社会を覆い、出自に関係なく、実力のある者が武力で成り上がることが可能であった 42 。
両時代の論功行賞のあり方も大きく異なる。鎌倉幕府における恩賞の基本は、土地の給与(新恩給与)または所有権の承認(所領安堵)であった。元寇のような防衛戦争では、敵から新たに獲得した土地が存在しないため、御家人に与える恩賞が絶対的に不足した。これが御家人の不満を増大させ、結果的に幕府の権威を揺るがし、衰退の一因となったことは広く知られている 10 。
一方、戦国大名は、家臣団を統制するためのより洗練された論功行賞システムを構築した。土地の加増はもちろんのこと、戦功を称える感状、幕府や朝廷への推薦による官位、さらには「一国に値する」とまで言われた茶器や名物といった文化的な価値を持つ品々まで、多様な恩賞が戦略的に用いられた 42 。論功行賞は、家臣の忠誠心を確保し、組織を維持するための重要な政治的手段だったのである。
このような戦国時代の価値観から、竹崎季長の行動を再評価すると、二つの相反する解釈が可能となる。
斎藤道三や豊臣秀吉のように、低い身分から実力で成り上がった下剋上の体現者たちは、季長の行動に自らの姿を重ね合わせたかもしれない。彼らは、季長が総大将の命令を半ば無視してまで個人の武功にこだわり 7 、既存の手続きを飛び越えて幕府中枢に直訴したという一点に 9 、旧来の権威に屈せず自らの行動で道を切り開く「下剋上」の精神の萌芽を見出したであろう。
一方で、徳川家康のように、戦乱の世を終結させ、新たな秩序の構築を目指した大名にとっては、季長の行動は異なる意味を持ったはずである。彼の幕府への忠義心や恩賞を求める熱意は「忠臣の鑑」として評価しつつも、組織の規律を乱し、上官の指揮系統を無視するその行動は、統制された軍団を維持する上で極めて危険な前例として映ったに違いない。
このように、竹崎季長の行動は、見る者の立場や価値観によって、「野心的な挑戦者」とも「忠義の士だが扱いにくい部下」とも解釈されうる。彼の物語は、戦国時代の多様なリーダーシップ論や組織論を投影する、格好のテクストとなり得たのである。
戦国時代は、単なる武力闘争の時代ではなく、武将たちが文化的教養を身につけ、それを政治的・軍事的に活用した時代でもあった。『蒙古襲来絵詞』のような歴史的遺産は、もし広く知られていれば、戦国の知識人や武将たちにとって多岐にわたる価値を持つ情報源となったであろう。
戦国武将の中には、『吾妻鏡』や『太平記』といった軍記物語を熱心に読み、過去の合戦から戦略・戦術上の教訓を学んでいた者が少なくない 49 。特に、南北朝時代の武将・楠木正成が駆使したゲリラ戦術や籠城戦は、後世の武将たちに多大な影響を与え、研究の対象となった 51 。
『蒙古襲来絵詞』は、異国との戦いという、日本の歴史上極めて稀有な事例を視覚的に記録したものである。もし戦国時代の武将たちがこの絵巻を手に取ることができたなら、それは貴重な軍事教本となったに違いない。元軍が用いた集団戦法、特異な兵装、そして未知の兵器「てつはう」といった要素は、対外戦争を想定する上で重要な研究対象となったであろう 1 。
戦国大名は、自らの権威を高め、領民や敵対勢力に対する影響力を行使するために、様々なメディアを駆使した。織田信長が京都で行った大規模な軍事パレード「御馬揃え」や、安土城をライトアップしてその威容を誇示した逸話 54 、豊臣秀吉が催した北野大茶会などは、大衆の心をつかむための巧みな広報戦略(プロパガンダ)であった 54 。
この観点から見れば、竹崎季長が自らの武功を絵巻という形で「可視化」し、後世に伝えようとした行為は、まさに戦国大名が行った自己顕示と権威付けのプロパガンダの原型と見なすことができる。彼は、自らの物語をメディアに乗せて発信することで、自己の評価をコントロールし、歴史における自身の存在を確立しようとしたのである。
戦国時代において、情報は死活問題であった 55 。そして、絵巻物のような古典籍は、単なる美術品や娯楽の対象ではなかった。それは第一に、貴重な「情報」の集積体であった。元軍の装備、日本の武士の姿、海戦の様子。これらは、戦国の世においては実践的な軍事情報としての価値を持っていた。
第二に、古い時代の由緒ある絵巻物を所有すること自体が、所有者の文化的な「権威」の象徴となった。戦国大名は、一つの茶器を手に入れるために城を一つ攻め落とすほど、文化的な価値を政治的な価値へと転換させることに長けていた 42 。『蒙古襲来絵詞』のような、国家的大事件を描いた鎌倉時代の絵巻は、それを所有する大名の文化的教養の深さと、由緒ある家柄であることを内外に示す、絶好の象徴物(ステータスシンボル)となり得たのである。
したがって、戦国時代の価値観において、『蒙古襲来絵詞』は「軍事教本」「プロパガンダの見本」「権威の象徴」という三重の価値を持ち得た。それは単なる過去の記録ではなく、現在(戦国時代)を生き抜き、勝ち抜くための実践的なツールとして再利用されるポテンシャルを秘めていたと言えるだろう。
『蒙古襲来絵詞』は、鎌倉時代に制作された後、歴史の波に翻弄されながらも、特定の家系によって大切に守り伝えられてきた。その伝来の過程と、絵巻が主題とする「元寇」の記憶が戦国時代に与えた影響を考察することは、鎌倉と戦国という二つの時代を繋ぐ精神史的な連続性を探る上で不可欠である。
この絵巻が今日まで伝存する上で、肥後国の国人領主であった大矢野氏の役割は極めて大きい。彼らがこの絵巻を守り抜いた背景には、戦国の世を生きる国人領主の切実な事情があった。
『蒙古襲来絵詞』は、竹崎季長家から流出した後、いくつかの家を経て、同じく肥後の国人であった大矢野家の所有となった 16 。そして、明治23年(1890年)に皇室へ献上されるまで、長きにわたり同家に秘蔵されることとなる 3 。
大矢野氏は、元寇において竹崎季長と共に戦った一族であり、絵詞の中にも「大矢野兄弟」としてその奮戦する姿が描かれている 16 。彼らは戦国時代に入ると、天草の有力国人衆である「天草五人衆」の一角として、九州の覇権を争う龍造寺氏、島津氏、そして天下人である豊臣氏といった巨大勢力の狭間で、一族の存亡を賭けた激動の時代を生き抜いた 60 。キリスト教に改宗し、洗礼名を持つ者もいた 63 。豊臣秀吉による九州平定後は、キリシタン大名として知られる小西行長に仕え、その配下として朝鮮出兵にも従軍している 63 。
なぜ大矢野氏は、この絵巻を戦乱の世を通して大切に守り伝えたのであろうか。戦国時代の国人領主にとって、自らの領地支配の正当性を担保する「由緒」は、武力と同様に重要な意味を持っていた。大矢野氏にとって、この絵巻は単なる美術品や古文書ではなかった。それは、自らの祖先が「元寇」という未曾有の国難に際して、国家のために命を懸けて戦ったことを証明する、何物にも代えがたい「家宝」であり、一族の武門としての誇りとアイデンティティの根源そのものであった。
島津氏のような強大な戦国大名から服属を迫られ、あるいは豊臣政権下で新たな支配者の配下に組み込まれる中で、この絵巻は「我々は、昨日今日成り上がった土豪ではない。鎌倉の御家人の時代から、この地で国のために戦ってきた由緒正しい一族なのだ」という自負を支える、精神的な拠り所として機能したはずである。つまり、『蒙古襲来絵詞』の伝来史は、絵巻物が持つ「記録」としての価値が、特定の家門の「記憶」と「アイデンティティ」を形成し、激動の時代を生き抜くための精神的支柱として機能したことを示す、またとない好例なのである。
元寇という事件は、日本の歴史、特に人々の対外意識に大きな影響を与えた。その記憶は、戦国時代においても形を変えながら生き続け、天下人たちの世界観や政策にまで影響を及ぼした可能性がある。
元寇における二度の「神風」は、日本が神々に守護された特別な国であるという「神国思想」を、支配層から庶民に至るまで広く定着させる決定的な契機となった 66 。鎌倉時代から南北朝時代にかけての神国思想は、主として「異国の侵略を神が防いでくれる」という、受動的かつ防衛的な性格が強かった。
しかし、戦国時代末期に天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、この思想を全く異なる文脈で利用する。国内の統一戦争で膨れ上がった武士たちのエネルギーを国外へ向けるため、彼は明の征服を視野に入れた朝鮮出兵を計画した 69 。その際、秀吉は侵略を正当化する大義名分として、「神国」日本の威光を海外に示すという論理を用いたのである 71 。ここにきて、神国思想は防衛的なイデオロギーから、対外侵略を正当化する攻撃的なイデオロギーへと、その意味合いを大きく変質・転用された。
秀吉が元寇の歴史をどの程度具体的に意識していたかは定かではない。しかし、大陸から大規模な侵攻を受けた唯一の歴史的体験である元寇の記憶は、良くも悪くも、戦国末期の日本の対外政策の深層に影響を与えていたと考えられる。
中央の天下人である秀吉にとって、元寇の記憶は、かつて日本が強大な帝国を撃退したという「成功体験」として、自らの大陸侵攻計画に自信を与える物語として機能したかもしれない。神国日本は、守るだけでなく、外へ打って出る力も持っているのだ、と。
一方で、元寇の最前線となった九州の大名たち、特に博多周辺の在地領主にとっては、秀吉の大陸政策は、かつての戦乱の悪夢の再来として映った可能性もある。彼らにとって元寇の記憶は、外国との戦争に再び巻き込まれることへの強い警戒心の源泉となったであろう。
このように、元寇の記憶は、戦国時代において二つの異なるベクトルで機能した。中央の天下人にとっては「対外侵略を正当化するための歴史的物語」として、そして辺境の在地領主にとっては「再び戦乱に巻き込まれることへの恐怖と警戒心」の源泉として。この認識のねじれは、織田信長以来の南蛮貿易やキリスト教の伝来によって、日本が再び世界史のダイナミズムの中に組み込まれていった戦国末期の、複雑な対外意識を象徴している。
『蒙古襲来絵詞』は、竹崎季長という一人の鎌倉武士の、立身出世への野心と恩人への祈りが結晶化した、比類なき歴史的記録である。その詳細な描写は、鎌倉時代の武士社会の実像を今日に伝える貴重な「窓」としての役割を果たしている。しかし、本報告書で試みたように、この絵巻の価値はそこに留まるものではない。
この絵巻を、約300年後の戦国時代という「鏡」に映し出すとき、そこには鎌倉から戦国に至る武家社会のダイナミックな変容が、鮮やかに映し出される。個人の武勇を至上とした戦闘様式は、組織的な集団戦術へと取って代わられ、安定した封建秩序は、実力主義の下剋上社会へと変貌を遂げた。そして、国家防衛の記憶は、対外侵略を正当化するイデオロギーへと転用された。竹崎季長の勇猛果敢な「先駆け」は、時代が変われば組織を乱す「無謀な愚行」と断じられ、彼のなりふり構わぬ自己顕示の姿勢は、下剋上の精神と共鳴し、あるいは秩序を重んじる者からの警戒を招く。
このように、『蒙古襲来絵詞』は、描かれた時代の真実を伝えるだけでなく、それを見る後世の人々の価値観、社会状況、そして時代精神をも映し出す「多面鏡」なのである。この絵巻を戦国時代の視点から読み解く作業は、単に過去の遺物を分析する行為ではない。それは、歴史的遺産が未来の文脈の中でいかにして新たな意味を獲得し、生き続けるかという、歴史そのものの本質に光を当てる試みなのである。鎌倉武士の記憶は、戦国の鏡の中で新たな生命を吹き込まれ、我々に時代の変遷とは何かを雄弁に物語り続けている。