袴腰香炉は、中国の青銅器を起源とし、龍泉窯で焼かれた青磁器。戦国時代には権力者の象徴として珍重され、茶の湯文化と共に発展。現在は美術館に所蔵される名品。
本報告書は、「袴腰(はかまごし)」と呼称される一形式の香炉を主題とする。単に香を焚くための道具という機能的な側面を超え、この器がいかにして日本の戦国時代という激動の時代において、政治的権威、文化的素養、そして洗練された美意識を映し出す象徴的器物へとその価値を昇華させたか。その壮大な歴史の軌跡を、多角的な視点から解き明かすことを目的とする。
調査の範囲は、この香炉が誕生した中国の源流に始まり、海を渡って日本へ舶載された鎌倉・室町時代、そして戦国武将たちがその所有を競い、茶の湯の文化の中で新たな価値を付与された戦国・安土桃山時代、さらにはその美意識が後世の日本の工芸に与えた影響にまで及ぶ。第一章では、その特徴的な器形の起源と、中国龍泉窯が生み出した「砧青磁」の技術的美学を詳述する。第二章では、考古学的知見を交え、貿易品として日本に渡来し、武家社会に受容されていく過程を追う。第三章では、本報告書の中核をなす戦国時代に焦点を当て、茶の湯の隆盛と「御茶湯御政道」という特異な政治文化の中で、袴腰香炉がいかにして権力の象徴となったかを論じる。第四章では、「千鳥」や「東福寺」といった固有名を持つ名器を取り上げ、その伝来と逸話から、器物が物語をまとうことで神格化されていく様相を明らかにする。第五章では、その美意識が日本の陶工たちに与えた影響と、「写し」の文化の中で新たな創造へと繋がっていった展開を概観する。最後に終章として、時代を映したこの器の歴史的意義を総括し、現代にまで続くその価値の系譜を確認する。
「袴腰香炉」の持つ独特の風格は、その器形の源流にまで遡ることができる。この三足の器の原型は、中国古代、殷周時代の青銅器である炊器「鬲(れき)」にあると考えられている 1 。古代の祭祀や儀礼に用いられた青銅器の形態を、陶磁器という新たな素材で模倣する行為は、単なるデザインの借用にとどまらない。それは、古代の持つ権威性や儀式性を器に宿らせ、その格を高めようとする意図の表れであった。
しかし、この儀礼的な起源を持つ器が日本に渡来すると、その解釈は大きく変化する。胴部が強く張り出し、そこから三本の足が伸びる姿が、あたかも日本の古式の「袴を腰に着けた姿」を彷彿とさせることから、「袴腰」という日本独自の、身体的で親しみやすい愛称で呼ばれるようになった 1 。中国の古典的・儀礼的な文脈から切り離され、日本の武家社会の生活文化や身体感覚の内に再配置されるこの過程は、外来の文物が日本の文化フィルターを通して新たな意味を付与され、土着化していく「文化の翻訳」作用の好例と言える。この日本的な呼称の誕生こそが、後の戦国武将たちによる熱狂的な受容の素地を形成したのである。
袴腰香炉の多くは、中国浙江省に位置する龍泉窯で、南宋時代末期から元時代、すなわち13世紀頃に集中的に生産された 4 。龍泉窯は中国史上最大の青磁窯として知られ、その製品は日本を含む東アジア、さらには西アジアまで広範な地域へ輸出される国際的な商品であった 6 。
これらの製品の中でも特に美術的評価が高いのが、「砧(きぬた)青磁」と称される様式である。この名は、同様の優美な釉色を持つ青磁の花入が、布を打って柔らかくするための道具「砧」に似ていたことに由来するとされる 8 。その最大の特徴は、薄く成形した緻密な胎土の上に、失透性(半透明)の青磁釉を幾重にも厚く掛けることで生まれる、深く澄んだ「粉青色(ふんせいしょく)」の釉色にある 8 。この神秘的な青緑色は、釉薬や胎土に微量に含まれる酸化第二鉄が、窯内を酸欠状態に保つ「還元焔焼成」という高度な技術によって酸化第一鉄に変化することで発色する 10 。釉薬の成分比によっても発色は微妙に変化し、長石分が多いと青みが強くなり、石灰分が多いとオリーブグリーンに近い色合いを呈する 12 。
造形的には、小さく引き締まった三本の足から、水平方向に強く張り出す腰のラインが緊張感を生み出し、足先までくっきりと走る稜線「堆線(たいせん)」が全体の印象を引き締めている 3 。また、焼成後の冷却過程で素地と釉薬の収縮率の違いから、釉の表面に微細なひび割れ、すなわち「貫入(かんにゅう)」が生じることがある 13 。当初、生産地では欠点と見なされたかもしれないこの偶発的な模様は、後に日本の「わびさび」の美意識と結びつき、器の表情を豊かにする「景色」として積極的に評価されることになる 14 。このように、龍泉窯の高度な技術が生み出した物理的特性が、日本の受容者の美意識と相互作用し、新たな価値を創造したのである。器物の価値は生産者の意図のみで完結せず、受容者の文化の中で共創されるという事実を、袴腰香炉は雄弁に物語っている。
鎌倉時代に入ると、日宋・日元貿易の活発化に伴い、膨大な量の龍泉窯青磁が日本へと舶載された 4 。これらは「唐物(からもの)」として、禅宗寺院における仏具や、武家社会の上層部が用いる茶道具、あるいは高級な調度品として珍重された。当時の人々にとって、これらは単なる輸入品ではなく、大陸の先進文化を象徴する憧れの品であった。
この大規模な海上交易の実態を裏付けるのが、1975年に韓国南西部の新安(シナン)沖で発見された海底沈没船である。1323年に中国の慶元(現在の寧波)から日本の博多を目指す途中で沈没したとみられるこの貿易船からは、袴腰香炉の類品を含む約2万点もの陶磁器が引き揚げられた 1 。その大半を龍泉窯青磁が占めており、この発見は、文献史料だけでは窺い知ることのできない、当時の貿易の具体的な積荷の内容や規模を生々しく伝える第一級の考古学的物証となった 16 。
日本列島内においても、袴腰香炉をはじめとする龍泉窯青磁の受容の様相は、各地の遺跡から出土する考古資料によって明らかになっている。大阪府四條畷市に所在した田原城では、城主一族の墓地から、初代城主夫婦の墓の副葬品として青磁袴腰香炉が出土している 18 。これは、香炉が単なる生前の愛用品であっただけでなく、死者の来世での安寧を願い、その権威と文化的素養を象徴する品として、共に埋葬されるほど重要な所有物であったことを示している。この行為は、故人の富と権力の誇示、仏教的な追善供養、そして茶の湯などを通じた文化的ステータスの表明という、複合的な意味合いを持っていたと考えられる。
同様の事例は各地の城郭遺跡でも確認されており、近江の観音寺城跡など、戦国大名の拠点からは例外なくと言ってよいほど龍泉窯青磁が出土している 19 。これらの出土品は、青磁器が武士階級のステータスを示す必需品として広く流通していたことを物語る。
一方で、流通は武士階級に限定されなかった。中世の国際貿易港であった堺の環濠都市遺跡や博多の遺跡群からも、多種多様な貿易陶磁が大量に出土している 22 。これらの都市では、富裕な商人層が経済力を背景に、武士階級と同様に唐物文化を享受していた。特に堺は、後に千利休などを輩出し、茶の湯文化の一大中心地となる。この地での高級陶磁器の早期の流通は、戦国時代の茶の湯の隆盛を準備する上で重要な意味を持っていた。
これらの日本への渡来は、より広範なグローバルな文脈の中に位置づけられる。龍泉窯青磁は、遠くオスマン帝国のトプカプ宮殿に世界最大級のコレクションが現存し 24 、東南アジア各地の沈没船からも多数発見されている 25 。袴腰香炉もまた、この壮大な海の道を渡って日本にもたらされた、世界的な高級ブランド品だったのである。このように、特定の家系に伝わる「伝世品」が語る物語と、遺跡から出土する「出土品」が示す消費の実態を組み合わせることで、初めて袴腰香炉の歴史的全体像が立体的に浮かび上がる。それは、広範な流通品の中から特定の個体が選び抜かれ、いかにして唯一無二の「名物」へと昇華していったのか、そのプロセスを追跡する上で不可欠な視点である。
戦国時代の武将たちが熱中した茶の湯において、香は極めて重要な役割を果たした。茶会に先立って香を焚くことは、茶室という非日常的な空間を浄化し、厳粛な雰囲気を作り出すとともに、客人の心を静め、一碗の茶に集中させるための精神的な導入であった 27 。また、釜の湯を沸かすために熾した炭の匂いを和らげるという実用的な目的も兼ね備えていた 28 。
香の扱いは、茶の湯の様式の変化と共に変遷した。室町時代初期の書院造の広間で行われた茶では、床の間に香炉を飾り、室内に香りを満たす「空薫(そらだき)」が主であった 28 。しかし、村田珠光に始まり千利休が大成した「わび茶」が、四畳半などの小規模な空間で展開されるようになると、香の扱いはより凝縮されたものへと変化する。茶事の中心的な所作である「炭点前」の際に、亭主が香合から取り出した香木を、客の前で炉や風炉の中に投じる形式が主流となったのである 28 。この変化により、香炉は香を焚くという直接的な役割から離れ、床の間を荘厳に飾るための「飾道具」としての性格を一層強めていくことになった 30 。
戦国時代、茶の湯を天下統一の道具として巧みに利用したのが織田信長である。彼の政策は「御茶湯御政道」と呼ばれ、茶道具の価値体系を根底から変革した 31 。信長は、服従させた大名や商人から名高い茶道具を献上させ、あるいは強制的に買い上げる「名物狩り」を敢行した 33 。そして、戦で功績を挙げた家臣に対し、領地の代わりにこれらの名物を与えることで、茶道具に「一国一城」にも匹敵する政治的・経済的価値を付与したのである 31 。
茶会の開催自体も許可制とし、自身が蒐集した名物を披露する場とすることで、文化的な優位性と政治的権力を分かちがたく結びつけた 33 。この文脈において、袴腰香炉のような名物香炉もまた、単なる美術品ではなく、所有者の権威を示す「政治的調度品」としての意味を帯びることになった 34 。信長が、天皇の勅許を得て東大寺正倉院の秘宝である香木「蘭奢待」を切り取り、それを堺の茶人である千利休や今井宗久に惜しげもなく分け与えた逸話は、香そのものと、それを受け止める器である香炉がいかに権力と密接に結びついていたかを示す象徴的な出来事である 35 。
この結果、戦国時代の香炉は、香を焚く「実用具」、床の間を飾る「観賞具」、そして所有者の権威を示す「政治的象徴」という三重の役割を担うに至った。この役割の重層化が、互いの価値を増幅させ、袴腰香炉のような名物を、武将たちが命を懸けてでも欲する「至宝」へと押し上げたのである。
信長の華やかな茶の湯と並行して、茶の湯の世界ではもう一つの大きな潮流が生まれていた。村田珠光によって創始され、武野紹鴎を経て千利休が大成した「わび茶」である 36 。珠光は、高価で華美な中国渡来の「唐物」のみを尊ぶ風潮に疑問を呈し、ありふれた国産の器物(和物)の中にも美を見出すことを説いた 37 。彼が弟子に語ったとされる「月も雲間のなきは嫌にて候」という言葉は、完璧なものよりも、むしろ不完全さや不足の中にこそ深い趣があるとする、新たな価値観の表明であった 38 。
この美意識の背景には、禅宗の思想が深く影響している 39 。華美を嫌い、質素で静寂な状態を尊ぶ「侘び」、そして古びたものの内面から滲み出るような枯れた美しさを見出す「寂び」の精神は、茶道具の選び方、使い方、そして鑑賞の仕方に革命をもたらした 37 。
この価値観の転換は、逆説的に、袴腰香炉のような唐物名物の価値を再定義することになった。わび茶は唐物を全否定したわけではない。むしろ、珠光が目指したのは「和漢この境を紛らわす」こと、すなわち、唐物と和物という出自による固定的な序列を解体し、亭主自身の審美眼によって道具を「取り合わせ」、新たな調和の世界を創造することであった 36 。豪華絢爛な袴腰香炉を、あえて素朴で粗末な和物の花入や茶碗と取り合わせる。そうすることで、唐物の持つ圧倒的な「格」が一層際立ち、同時に、それを見事に調和させてみせた亭主の高度な審美眼が示される。こうして袴腰香炉は、わび茶の精神が浸透した茶の湯の世界においても、より洗練された形でその中心に君臨し続けることになったのである。
戦国時代、数多の武将が渇望した名物香炉は、単なる器物であることを超え、所有者の名と共に語り継がれる「物語」をまとっていく。その来歴や付随する逸話こそが、器の価値を不動のものとした。
数ある名物香炉の中でも、特に名高いのが青磁香炉 銘「千鳥」である。この種の香炉は、円筒形の胴から三本の足が伸びる形状を持ち、その足が地面からわずかに浮いている様子が、水辺に佇む千鳥の姿に似ていることから「千鳥形」と総称される 40 。
中でも「大名物」として茶の湯の世界に君臨するのが、現在、徳川美術館が所蔵する尾張徳川家伝来の一口である 14 。この香炉の伝来は、まさに戦国茶の湯史そのものである。『古今名物類聚』などの名物記によれば、もとは茶人・武野紹鴎が所持し、その後、駿河の今川氏真の手に渡る 40 。そして天正3年(1575年)、氏真から織田信長へと献上された 40 。信長はこの香炉を愛蔵し、本能寺の変の前夜に催した茶会のために持ち込んだ道具のリストにもその名が見える 44 。信長の死後は天下人となった豊臣秀吉の所有となり、さらに徳川家康へと受け継がれ、家康の死後、遺産として尾張徳川家に分与されたと伝えられる 40 。
この香炉には、その名声を高める有名な伝説が付随する。秀吉が伏見城で所持していた際、天下の大泥棒・石川五右衛門が秀吉の寝所に忍び込んだ。しかし、この香炉の蓋についた千鳥の飾りが鳴き声を上げたため、五右衛門は捕らえられたというものである 14 。この逸話は、名物が持つ神秘性と、天下人の権威を守る超自然的な力を物語るものとして、歌舞伎の演目になるなど広く流布した 45 。
しかし、「千鳥」の物語は一本の線では語れない。「千鳥」という名称が特定の形状を指すため、同名の香炉が複数存在し、その伝来は複雑に錯綜している。史料を繙くと、尾張徳川家のものとは別に、堀家、仙石家、高松松平家などに伝わったとされる「千鳥香炉」の記録が散見される 40 。例えば、仙石秀久が秀吉から伏見城での働きを賞されて拝領したと伝わる香炉は、現在、宮内庁三の丸尚蔵館に蔵されている 40 。このように、複数の有力大名家が「我こそが名物・千鳥の所有者である」と主張し、それぞれに由来を語る状況は、単なる記録の混乱ではない。それは、この香炉が当時いかに絶大な名声と価値を持っていたかを逆説的に証明している。複数の伝承が生まれること自体が、その器物が時代のアイコンであったことの証左なのである。
系統/所蔵 |
主要な伝来経路 (所有者) |
関連する逸話・史料 |
現状 |
尾張徳川家 (大名物) |
武野紹鴎 → 今川氏真 → 織田信長 → 豊臣秀吉 → 徳川家康 → 尾張徳川家 |
『信長公記』『天王寺屋会記』、石川五右衛門伝説 40 |
徳川美術館 蔵 14 |
堀家 |
(秀吉?) → 徳川秀忠より堀親良へ下賜 |
『三冊名物集』『徳川実紀』に記載 40 |
所在不明 |
仙石家 |
豊臣秀吉より仙石秀久へ下賜 |
伏見城での宿直の褒美としての拝領伝承 40 |
三の丸尚蔵館 蔵 40 |
高松松平家 |
(仙石秀久?) → 尾藤知宣 → 佐々成政 → 生駒家 → 高松松平家 |
複雑な伝承を持つが信憑性は低いとされる。明治期に献上 40 |
明治期に皇室へ献上 |
千利休所持 |
(宗祇法師?) → 千利休 |
妻宗恩が足の高さを指摘した逸話、蒲生氏郷との逸話 40 |
不明 |
天下人の香炉としてもう一つ特筆すべきは、現在、藤田美術館が所蔵する「七官青磁袴三足香炉 銘 東福寺」である 30 。この香炉は、かつて京都の大寺院・東福寺に伝来したことにその名が由来し、すらりと伸びた優美な三足が特徴的な袴腰香炉である 30 。
この名器は、やがて「独眼竜」として知られる奥州の覇者、伊達政宗の手に渡る。千利休にも師事した一流の文化人でもあった政宗は、この香炉を至上の名品として愛蔵した 30 。その誇りを天下に示す絶好の機会が、寛永七年(1630年)に訪れる。二代将軍・徳川秀忠と三代将軍・家光が、政宗の江戸屋敷を公式に訪問(御成)したのである。この晴れの日に、政宗は「東福寺」の香炉を最も格式の高い「鎖之間」に飾り、天下の主君二人を迎えたという記録が残っている 30 。これは、自身の武威だけでなく、文化的な素養とコレクションの質の高さを将軍家に見せつける、高度に計算された政治的パフォーマンスであった。
このように、器物に「銘」という固有名を与え、所有者の来歴や「伝説」を付与すること。それは、数ある同類の器の中から特定の一個体を唯一無二の存在へと昇華させ、その所有に特別な意味を持たせる文化的なメカニズムであった。戦国武将にとって、名物香炉をめぐる物語は、自らの権威を飾り、後世に名を残すための重要な戦略だったのである。
茶会記には、戦国武将たちが実際に茶席で用いた様々な香炉の名が記録されている。『天王寺屋会記』や奈良の『松屋会記』といった一次史料は、当時の道具組を具体的に知る上で欠かせない 46 。そこには、信長が「千鳥」と共に今川氏真から得たという「宗祇香炉」 40 や、千利休が若き日に愛用したという三足の「善好(ぜんこう)香炉」 48 など、数々の名物の名が記されている。
また、袴腰香炉と並んで珍重されたのが、獅子をかたどった香炉である。武野紹鴎が所用したと伝わる「紫銅向獅子香炉」 50 や、千利休が所持し、後に大名茶人・小堀遠州が箱書を認めたという瀬戸焼の獅子香炉 51 などが存在する。これらの多様な名物香炉の存在は、戦国から江戸初期にかけての茶人たちが、中国渡来の青磁だけでなく、様々な素材や意匠の道具を審美眼によって選び、茶の湯の世界を豊かにしていたことを示している。
戦国時代に頂点を極めた唐物への憧憬は、やがて日本国内の陶工たちを刺激し、新たな創造の源泉となった。「写し」という、日本独自の文化様式を通じて、袴腰香炉の美意識は新たな段階へと進んでいく。
室町時代末期頃から、日本の古窯である瀬戸・美濃(現在の愛知県・岐阜県)では、中国から舶載された龍泉窯青磁を意識した陶器の生産が始まった 52 。これらの窯では、袴腰の器形を模した香炉も作られている。15世紀前葉に焼かれた古瀬戸様式の灰釉袴腰形香炉は、まさしくその一例である 52 。もちろん、本歌である龍泉窯の青磁とは異なり、素朴な灰釉を用いたこれらの「写し」は、技術的には及ばないながらも、どこか温かみのある独自の味わいを持っていた。安土桃山時代になると、美濃の窯では龍泉窯青磁の器形を参考にしつつも、淡い黄色の釉調が特徴的な「黄瀬戸」の獅子香炉なども作られ、日本独自の展開を見せ始める 53 。
江戸時代に入り世の中が安定すると、日本の工芸技術は飛躍的に成熟し、京都では「京焼」が隆盛を迎える。この時代、日本の陶芸史に燦然と輝く名工たちが、香炉の世界に新たな地平を切り開いた。
その筆頭が、野々村仁清である。仁清は、中国陶磁の単なる模倣から完全に脱却し、日本的な感性に基づいた華麗で優美な世界を創造した。国宝に指定されている「色絵雉香炉」は、写実的でありながら装飾性に富んだ造形と、金彩を駆使した絢爛豪華な色絵が特徴で、仁清の美意識の頂点を示す傑作である 54 。仁清は鳥や動物をかたどった造形的な香炉を数多く制作し 56 、その作風は「仁清写し」として後世の陶工に絶大な影響を与えた。
また、仁清と並び称される大名茶人・小堀遠州は、千利休の「わびさび」に、公家文化的な洗練と明るさ、秩序ある構成美を加えた「きれいさび」という独自の美学を確立した 57 。彼が好んだとされる香炉は、端正な造形の中にどこか優美な雰囲気を漂わせるもので 58 、その美意識は後の日本の工芸デザイン全般の基調となった。
この流れは江戸時代後期から明治にかけて活躍した京焼の名跡・高橋道八にも受け継がれる。道八は青磁や染付を得意とし、格調高い香炉などを制作した 59 。さらに明治以降も、京焼の諏訪蘇山は伝統的な青磁袴腰香炉を代々作り続けており 61 、この器形が日本の陶芸文化の中にいかに深く根付いているかを示している。
日本における「写し」の文化は、単なる模倣ではない。それは、憧れの対象である「本歌」への敬意を払いつつ、そのエッセンスを抽出し、自らの美意識によって再創造する、極めて創造的な受容のプロセスである。袴腰香炉とその「写し」の歴史は、日本の文化における価値の中心が、戦国時代の「舶来の権威」から、泰平の世における「国内の創造性」へと移行していく大きな潮流を象徴している。唐物名物をめぐる争奪の時代から、和物の名物を創造する時代へ。袴腰香炉は、その転換点に立ち会った証人でもあった。
本報告書は、「袴腰香炉」という一つの器物が、時代と文化の奔流の中でいかにその意味を変容させ、価値を高めていったかを追跡してきた。その軌跡は、中国の儀礼的な青銅器「鬲」に源流を発し、龍泉窯の高度な技術によって青磁の至宝として誕生した。やがて海を渡り、鎌倉・室町時代の日本において憧れの「唐物」として受容され、武家社会に浸透していった。
そして戦国時代、この香炉は歴史のクライマックスを迎える。織田信長や豊臣秀吉といった天下人たちの「御茶湯御政道」のもと、一国一城にも値する権威の象徴となり、茶の湯という精神文化の舞台で、その美が競われた。伊達政宗が将軍親子に披露した「東福寺」や、数多の伝説をまとう「千鳥」のように、名物香炉は所有者の物語と一体化し、単なる美術品を超えた存在へと神格化されたのである。
泰平の江戸時代が訪れると、その価値の源泉は国内へと移る。仁清や遠州といった名工たちの手によって、袴腰香炉に込められた美意識は「写し」の文化の中で創造的に再解釈され、日本独自の華麗、あるいは優美な工芸品として花開いた。
今日、徳川美術館や藤田美術館、根津美術館などに現存する名品の数々は、静かにその美しい姿を我々の前に見せている 14 。それらは単なる過去の遺物ではない。戦国という激動の時代を生きた人々の権力への渇望、研ぎ澄まされた美意識、そして一時の静謐を求めた精神性を、その深く澄んだ釉色の奥に秘めている。一つの香炉の来歴を辿ることは、時代そのものの息遣いを感じることであり、我々はそこに、歴史のダイナミズムと文化の豊かさを映し出す、生きた証人を見出すのである。