『豊年税書』は、江戸中期の農政書にして、戦国遺制と近世秩序の狭間を映す。庄屋の権能と不正、年貢統制の苛烈さ、太閤検地後の社会変革を克明に記す、貴重な歴史の証言。
江戸時代中期に成立したとされる農政書『豊年税書』は、従来、当時の農業技術や農村の様相を伝える一史料として認識されてきた。しかし、本書を単なる農書・地方書(じかたしょ)としてのみ捉えることは、その歴史的価値を十分に汲み尽くしているとは言い難い。本報告書は、『豊年税書』を、戦国時代の動乱を経て近世的な幕藩体制へと移行する、巨大な社会構造の変容を映し出す歴史的ドキュメントとして再評価し、その多層的な意味を解読することを目的とする。
本書の序文には貞享二年(1685年)の年紀があり 1 、これは徳川綱吉の治世下にあたる。この時代は、幕藩体制が盤石の安定期に入りつつも、商品経済の浸透やそれに伴う農村社会の階層分化といった新たな課題が顕在化し始めた時期であった。したがって、『豊年税書』は、徳川幕府草創期の理想を語るものではなく、約80年にわたる統治の経験を経て蓄積された矛盾や問題点に対し、為政者側が如何に対処しようとしたかを示す、極めて実践的な記録である。
本報告書が特に重視するのは、「戦国時代」という視点から本書を読み解くことである。本書に描かれる村落支配のあり方、特に庄屋の強大な権能とそれに伴う不正、そして領主の農民に対する厳格な眼差しは、戦国時代の支配構造が近世的な統治システムへと再編される過程で生じた力学の帰結である、という仮説を提示する。即ち、『豊年税書』を、戦国という「過去」を色濃く内包した近世社会の断面図として分析し、その記述の背後にある歴史的連続性と断絶性を明らかにすることに、本報告書の主眼がある。
『豊年税書』の理解を深める上で、まずその基本的な書誌情報を確定させる必要がある。
本書は刊年不明とされるものの、貞享二年(1685年)の序文の存在が確認されており、その成立時期を17世紀後半と特定することができる 1 。これは、利用者が当初把握されていた「江戸時代初期」という認識を、より具体的に「中期」へと修正する重要な事実である。幕藩体制の草創期が過ぎ、支配体制がある程度の完成を見たこの時期は、同時に制度疲労や新たな社会問題が露呈し始める転換期でもあった。従って、本書は創世記の理念を語る理想論ではなく、現実の統治において発生した具体的な問題、例えば庄屋の腐敗や年貢未進の常態化といった課題への対応策を記した、より実践的なマニュアルとしての性格を帯びていると考えられる。
著者が不明であるという事実 1 は、本書の性格を考察する上で示唆に富む。なぜ著者は名を伏せたのか。幾つかの可能性が考えられる。第一に、内容が特定の藩の内部事情に深く関わるため、部外秘の文書として扱われた可能性。第二に、一個人の著作というよりも、ある代官所や藩の政務担当者たちの間で長年共有されてきた知識や実務上のノウハウを集積した、一種の「申し送り文書」や「業務引継書」のような性格を持っていた可能性。そして第三に、庄屋層の不正を厳しく指摘・告発するという内容上、著者が身の危険を感じて意図的に匿名にした可能性である。これらの点を総合的に勘案すると、本書が普遍的な農業理論を説く学術書というよりは、特定の地域における統治の実務、とりわけ発生した「問題」への具体的な対処法に焦点を当てた、極めて実用的な「地方書」であったと強く推測される。
本書の内容は多岐にわたる。「川除堤之事」において治水・土木技術に言及している点 1 や、当時最新の灌漑用具であった竜骨車について触れている点 2 は、本書が純粋な農書としての側面を持つことを示している。しかし、本書の核心部分は、農業生産技術そのものよりも、むしろ農村の統治と管理に関する記述にある。利用者情報にもある「農民の公事訴訟や諸願を押え置く庄屋」の存在への言及や、後述する年貢未進者への苛烈な措置に関する記述 3 は、その典型である。これは、本書における農業生産性の向上という目的が、最終的には年貢収取の最大化と安定化という、統治者の至上命題に奉仕するものであったことを明確に示している。農業技術論と農民統治論が不可分に結びついている点にこそ、『豊年税書』という文献の本質が凝縮されているのである。
『豊年税書』が描く世界は、単なる田園風景ではない。そこは、領主の厳格な管理と、それに抗う、あるいはそれを利用しようとする人々の思惑が渦巻く、権力と支配の場であった。
本書が告発する「公事訴訟や諸願を押え置く庄屋」という記述は、近世村落における権力構造の一端を鋭く抉り出している。この記述から、庄屋が村の内部情報を独占し、領主と一般百姓との間の情報の流れを恣意的に遮断・操作する「ゲートキーパー」として機能していた実態が浮かび上がる。これは、領主による支配が、必ずしも村の末端まで完全に浸透しきっていたわけではなく、庄屋という中間的な権力層の存在に大きく依存せざるを得なかった、近世的支配の構造的特徴を露呈している。
さらに本書は、年貢を滞納した者への対応として、極めて厳しい措置を推奨している。
「常に大酒いたし,作毛に精をも不入,分限に過て子供養ひ置,博奕,振廻,遊山にかゝりて,未進有者」は「田畑をうらせ,其者を追つぶしても,皆済可申付」べし、と記されている 3。
これは、年貢を滞納する農民に対しては、その者の田畑を強制的に売却させ、たとえ破産に追い込んででも完納させるべきである、という苛烈な指示である。
この一見非情とも思える記述は、単なる懲罰や搾取を意味するものではない。これは「村請制」という、江戸時代の基本的な納税システムの論理的帰結なのである。村請制とは、個々の農民が領主に直接納税するのではなく、村が共同体として年貢納入の全責任を負う制度である。この制度下では、一人の未進者の存在が、村全体の存続そのものを脅かすリスクとなる。そのため領主側は、村の秩序を維持させるインセンティブを村自身に与えるため、敢えてこのような厳しい措置を庄屋に命じ、他の百姓の勤労意欲の低下、すなわち「モラル・ハザード」を防ぐための見せしめとしたのである。『豊年税書』は、その冷徹な統治技術を教示する、為政者のための教科書であったと言える。
注目すべきは、年貢未進の原因を「大酒」「博奕」「遊山」といった、農民個人の道徳的欠如に帰する論法である 3 。この記述は、支配者側が自らの統治の正当性を確保し、強化するためのイデオロギー装置として機能した。
為政者の視点からすれば、年貢未進の原因を凶作や過重な年貢率といった構造的な問題に求めることは、自らの政策の失敗を認めることに繋がりかねない。それに対し、原因を農民個人の「怠惰」や「奢侈」に転嫁することによって、厳しい支配や収奪を、道徳的に劣った者を正しき道に導くための「教化」や「指導」として正当化することが可能になる。さらに、村の内部に「真面目な百姓」と「不埒な百姓」という対立軸を作り出すことで、農民たちが団結して領主に反抗する「百姓一揆」のような事態を防ぐ、分断統治の効果も期待されたであろう。
このように、『豊年税書』は、単なる実務的な地方書に留まらず、近世的な身分秩序と支配構造を維持・強化するための、支配のイデオロギーを色濃く反映した文献なのである。
『豊年税書』は、貞享年間という安定期にあった江戸時代の農村が、実際にはどのような論理で運営され、いかなる緊張を内包していたかを具体的に示している。
江戸時代の「村」は、単なる人々の居住区ではなく、領主に対して年貢納入を共同で請け負う、いわば「法人」としての性格を持っていた。この村請制というシステムが、村落の構造と、その頂点に立つ庄屋の権力を規定していた。
庄屋(関東では名主、東北では肝煎とも呼ばれた) 4 は、二つの顔を持っていた。一つは、村の利益を代表し、領主と交渉する村の代表者としての顔。もう一つは、領主の支配の末端を担い、年貢の徴収や法令の伝達を行う行政官としての顔である。この二重性が、彼らの強大な権力の源泉となった。庄屋は、村内の各戸の田畑の状況、家族構成、経済状態といった内部情報を完全に掌握しており、それを背景に領主と渡り合い、また村内の一般百姓を支配した。
『豊年税書』が告発する庄屋の不正は、彼らの個人的な資質の問題だけに起因するものではない。それは、この村落構造そのものに内包された、構造的な問題であった。庄屋という役職に絶大な権限が集中する一方で、領主の直接的な監視は日常的には及びにくい。この権力の非対称性が、私腹を肥やす、縁者を不当に優遇する、あるいは対立する者を陥れるといった、権力濫用の温床となったのである。事実、幕府直轄領(天領)では、正徳年間(1711-16年)に大庄屋が不正の多発を理由に廃止されており 5 、この問題が一部の地域に留まらない、普遍的な課題であったことを示唆している。
近世の領主は、しばしば儒教的な「仁政」(仁徳による民の統治)を為政の理想として掲げた。しかし、『豊年税書』が示す現実は、年貢という経済的目標を達成するためには非情な手段も厭わない、極めて現実主義的な統治の姿である。
領主にとって、百姓は年貢という富を生み出すための最も重要な「資源」であった。それゆえ、彼らの労働意欲をいかにして維持・向上させるかが、統治上の最重要課題となる。『豊年税書』が、農民の飲酒や遊興といった私生活の領域にまで介入しようとするのは、それらの行為が直接的に生産力を低下させ、ひいては年貢高に悪影響を及ぼすと認識されていたからに他ならない。
本書の記述を裏側から読み解けば、支配者が望んだ「理想の農民像」が浮かび上がってくる。それは、「大酒・博奕に耽ることなく、分相応の質素な生活を守り、領主への不平不満を口にせず、ただ黙々と農作業に精を出す、従順な農民」であった。本書は、現実の多様で時に抵抗的な農民たちを、この支配者にとって都合の良い理想像へと近づけるための、一種の矯正マニュアルとしての性格を色濃く帯びていたのである。
『豊年税書』が描く近世中期の農村社会は、戦国時代という巨大な地殻変動の末に誕生した。その構造を理解するためには、戦国期からの連続性と断絶性の双方を的確に把握する必要がある。
戦国時代の村落は、しばしば「惣村(そうそん)」に代表されるような、強い自治能力と自衛のための武装組織を持っていた。彼らは独自の掟(惣掟)を定め、領主の介入を排して村内の紛争を自ら裁く「自検断」の権利すら有していた。戦国大名や在地領主(国衆・土豪)による支配は一元的ではなく、こうした半自立的な村落との間の、ある種の緊張をはらんだ協力・対立関係の上に成り立っていた。
これに対し、江戸幕府が構築した支配体制 6 は、こうした村落が有していた自治権や武装を徹底的に解体し、領主への一元的な支配・納税システムへと社会を再編成する壮大なプロジェクトであった。刀狩令に象徴される兵農分離政策は、村から武力を奪い、その自立性を削ぐための決定的な一歩だったのである。
『豊年税書』が描く村落構造と支配の論理を理解する上で、豊臣秀吉による太閤検地 8 の歴史的意義は決定的に重要である。太閤検地は、単なる土地調査に留まらず、日本の社会構造そのものを根底から作り変えた革命であった。
第一に、検地はそれまで複雑に絡み合っていた重層的な土地の権利関係(荘園領主、地頭、名主、作人など)を整理・否定し、「土地の直接耕作者=検地帳登録者=年貢負担者」という、近世社会の基本原則を確立した。これにより、土地を巡る中世的な中間搾取の構造が一掃された。
第二に、検地は村の境界(村切)と、村全体の生産力(石高)を公的に確定させた。これにより、行政単位としての近世的な「村」が創出された。そして、検地帳に登録された百姓は、領主によって直接その存在と耕作地を把握される客体となったのである。
『豊年税書』が当然の前提としている、村を単位とする年貢収取(村請制)や、個々の百姓の生産力を問題にする視点は、すべてこの太閤検地によって社会の基本構造が作り変えられたからこそ可能になったものである。つまり、『豊年税書』は、戦国時代と地続きの人間社会を描きながらも、その社会が準拠するシステムは、太閤検地という革命によって決定的に断絶した、新たな地平の上に立っているのである。
では、近世の村落において絶大な権力を振るった庄屋とは、一体何者だったのか。その起源を遡ると、戦国時代に行き着く。
近世における庄屋の多くは、中世・戦国期において村落内で指導的立場にあった「名主(みょうしゅ)」や「乙名(おとな)」、あるいは小規模な武士であった「地侍(じざむらい)」といった、地域の有力者たちであった。彼らは、戦乱の時代を生き抜き、地域社会に深く根を張った実力者であり、単なる農民とは一線を画す存在であった。
天下統一を進める豊臣氏や、その後に覇権を握った徳川氏は、これらの在地有力者を完全に排除するのではなく、むしろ彼らが地域に持つ影響力と実務能力を巧みに利用し、新たな支配体制の末端機構として組み込む道を選んだ。彼らに庄屋・名主といった役職を与え、領主の支配を円滑に進めるための手足としたのである。中には、武士身分に準じる待遇を受ける者もいた 9 。
この点にこそ、『豊年税書』を戦国時代の視点から読み解く最大の鍵がある。本書が告発する庄屋の「権力の濫用」や「不正」は、彼らが単なる領主から任命された雇われ役人ではなく、 戦国時代以来の在地における権力と権威を背景に持つ「地域の顔役」であった ことの裏返しなのである。彼らは、領主の命令を村に伝える一方で、村の利益(そして時には自己の利益)を守るために、領主の命令を骨抜きにしたり、情報を操作したりするだけの力と知恵を持っていた。この、領主が打ち立てようとする近世的・官僚的な権力と、庄屋が体現する戦国以来の在地的・伝統的な権力との間のせめぎ合いと緊張関係こそが、『豊年税書』という稀有な文献を生み出した、根源的な力学であると結論付けられる。
以下の表は、戦国期と近世初期における郷村支配の構造的変化をまとめたものである。
表1:戦国期と近世初期における郷村支配の比較
項目 |
戦国時代(惣村など) |
近世初期(『豊年税書』の時代) |
典拠・備考 |
支配主体 |
大名、国衆、地侍など多元的 |
幕府・藩(領主)による一元的支配 |
6 |
土地制度 |
職(しき)の重層的構造、複雑な権利関係 |
検地帳に基づく一地一作人、石高制 |
8 |
年貢収取単位 |
荘・郷・保など多様。個人や名田単位も。 |
村(村高に基づく村請制) |
|
村落の自律性 |
強い自治・自衛権(惣掟、自検断など) |
自治権は制限され、武装解除(刀狩) |
|
在地有力者の位置づけ |
名主、乙名、地侍として半自立的権力者 |
庄屋・名主として領主支配の末端機構に編入 |
4 |
領主と百姓の関係 |
間接的・重層的 |
検地帳を通じた直接的把握(建前上) |
8 |
この比較から、日本の村落社会が、太閤検地と兵農分離を画期として、いかに劇的に、そして構造的に変化したかが明らかとなる。それは、『豊年税書』が描く世界が、戦国時代の混沌を克服し、新たな秩序を構築する過程で生まれたシステムと、その内部に宿る軋轢の産物であることを雄弁に物語っている。
本報告書で明らかにしてきたように、『豊年税書』は、貞享二年(1685年)という時点で、確立された近世的村落支配システムが内包していた諸問題を克明に記録した、第一級の歴史史料である。その記述は、村請制という制度が農民に与えた過度な圧力、支配の末端を担う庄屋層への権力集中とそれに伴う腐敗の構造、そしてそれらの危機的状況に対する領主側の統制努力を生々しく伝えている。
本書を戦国時代からの連続性と断絶性という視座から分析することで、その歴史的価値はさらに明確になる。本書が描く庄屋の姿には、戦国時代の在地領主の権威と影響力の残滓が見え隠れする(連続性)。しかし、彼らが活動する舞台である「村」そのものの定義や、彼らが直面する統治上の課題(村請制下での年貢皆済)は、太閤検地という社会革命によって根本的に作り変えられた、全く新しいものである(断絶性)。
最終的に、『豊年税書』は、戦国という巨大な地殻変動の末に誕生した「近世」という新たな社会システムが、その安定期においていかに機能し、そしていかなる内部的緊張を抱えていたかを、支配者の視点から赤裸々に伝えてくれる。それは、一見すると平和な時代の農政書という穏やかな仮面の下に、戦国以来の権力と支配を巡る力学が、形を変えながらも脈々と生き続けていたことを我々に教えてくれる、極めて貴重な歴史の証言なのである。