小早川秀秋所用の「猩々緋羅紗地違鎌模様陣羽織」は、桃山文化の粋を凝縮した重要文化財。舶来素材と大胆な意匠は、秀秋の武威と信仰、そして時代の国際性や美意識を雄弁に物語る。
東京国立博物館に、一領の陣羽織が静かにその存在を伝えている。正式名称を「陣羽織 猩々緋羅紗地違鎌模様(じんばおり しょうじょうひらしゃじちがいかまもよう)」、管理番号I-393として収蔵されるこの一品は、単なる古びた衣服ではない 1 。それは、戦乱の世が終わりを告げ、新たな価値観が胎動した安土桃山という時代の精神を、鮮烈な色彩と大胆な意匠のうちに凝縮した、極めて雄弁な歴史資料である。
この陣羽織は、その卓越した美術的価値と歴史的重要性が認められ、国の重要文化財に指定されている 2 。この指定は、本品が戦国武将・小早川秀秋の所用と伝えられる来歴もさることながら、そのもの自体が持つ芸術性の高さ、そして製作された時代の文化を物語る資料としての価値がいかに高いかを証明している。安土桃山時代は、織田信長、豊臣秀吉といった天下人の下で、豪壮にして華麗、そして異国情緒あふれる「南蛮趣味」を特徴とする、いわゆる桃山文化が花開いた時代であった 4 。下剋上を体現した武将たちは、自らの力と権威を可視化するため、城郭建築から茶道具、そして身にまとう服飾に至るまで、旧来の価値観を打ち破る斬新な美を競い合った。
本報告書で詳述する「猩々緋羅紗地違鎌模様陣羽織」は、まさにその桃山文化の粋を体現する一領である。舶来の最高級素材、伝統にとらわれない西洋的な裁断技術、そして所有者の武威と信仰心を大胆に表現した意匠。これら一つ一つの要素を丹念に読み解くことで、我々は単なる美術工芸品の解説に留まらず、その所有者である小早川秀秋という一人の武将の内面に迫り、さらには彼が生きた時代の国際交流、宗教観、そして美意識といった、より広範で重層的な歴史の様相を浮かび上がらせることができる。本報告書は、この一領の陣羽織を多角的に分析し、それが内包する豊かな歴史的文脈を明らかにすることを目的とする。
この陣羽織を理解する第一歩は、まずそれを構成する物質的要素、すなわち素材、形状、製作技法、そして各所に配された意匠を客観的に把握することから始まる。一見、大胆で奇抜な印象を与えるこの衣服は、細部に至るまで計算され尽くした意匠と、当時の最高技術が投入された、極めて精緻な工芸品なのである。
表1:猩々緋羅紗地違鎌模様陣羽織の物理的仕様
項目 |
詳細 |
出典 |
名称 |
陣羽織 猩々緋羅紗地違鎌模様 |
6 |
時代 |
安土桃山時代・16世紀 |
2 |
文化財指定 |
重要文化財 |
2 |
所蔵 |
東京国立博物館 |
1 |
寸法 |
身丈: 79.5 cm, 裄: 49.8 cm, 肩幅: 99.6 cm, 裾幅: 85.0 cm, 袖つけ丈: 44.6 cm, 袖幅: 33.5 cm, 袖口丈: 50.0 cm, 襟幅: 3.0-5.5 cm |
5 |
形状 |
袷仕立て、裾広がり、大きな背割れ、曲線裁ち、立襟、袖なし |
5 |
素材(表地) |
緋羅紗(ひらしゃ) |
5 |
素材(裏地) |
白緞子(しろどんす、西欧製、唐花文様) |
5 |
素材(襟) |
段替り牡丹唐草文錦(だんがわりぼたんからくさもんにしき) |
5 |
素材(縁) |
縞地菊花文繻珍裂(しまじきっかもんしゅちんぎれ) |
5 |
背紋 |
違鎌文(たがいかまもん) |
5 |
背紋製作技法 |
切嵌(きりはめ)、切付(きりつけ) |
4 |
裏地装飾 |
丸に「永」の字の刺繍(萌葱色・花色) |
5 |
この陣羽織が放つ圧倒的な存在感の源泉は、まずその素材の選択にある。表地に使われているのは、「猩々緋羅紗(しょうじょうひらしゃ)」と呼ばれる、極めて鮮烈な緋色の毛織物である 5 。猩々とは、中国の伝説に登場する、酒を好み、赤い体毛を持つ霊獣の名であり、その血のように鮮やかな赤色を指して「猩々緋」と称された 8 。この色は、南蛮貿易によってもたらされた染料によるもので、当時の日本では最も高価で入手困難な色の一つであった。そして「羅紗(らしゃ)」は、ポルトガルやスペインから舶載された厚手の毛織物で、その高い保温性と、一説には矢や弾丸に対する一定の防御効果があったことから、武将たちの陣羽織や外套の素材として垂涎の的となっていた 4 。この猩々緋の羅紗を惜しげもなく用いること自体が、所有者である小早川秀秋の莫大な財力と、国際的な流行の最先端にいることを誇示する、強力なステータスシンボルであった。
さらに驚くべきは、裏地にまで贅を尽くしている点である。裏地には、唐花文様や洋風の植物文様が織り出された、ヨーロッパ製の白地の緞子(どんす)が用いられている 5 。緞子は光沢のある絹織物であり、これもまた高級品であるが、特に異国情緒あふれる文様の西欧製裂(きれ)は珍重された。戦場で鎧の上にまとう陣羽織の、通常は人目に触れることのない裏地にまで最高級の舶来品をあしらうという趣向は、桃山武将に共通する、徹底した「伊達心(だてごころ)」の現れに他ならない。
素材の選択に加え、その仕立てにも注目すべき点がある。日本の伝統的な和服が、布を無駄なく使う直線裁ちを基本とするのに対し、この陣羽織は裾や大きな背割れの部分に、大胆な曲線裁ちが取り入れられている 4 。これは明らかに西洋の服飾、特にマントなどの裁断技術の影響を受けたものと考えられる。単に異国の珍しい素材を用いるだけでなく、その製作技術までも貪欲に取り入れようとする姿勢は、桃山時代の武将たちの、旧来の枠組みにとらわれない先進性と国際性を物語っている。
この陣羽織の意匠の核をなし、見る者に最も強い印象を与えるのが、背中の中央に大きく配された「違鎌紋(ちがいかまもん)」である 5 。白と黒の羅紗で表現された二本の巨大な鎌が、斜めに交差する構図は、極めて大胆かつ斬新である。
この複雑な文様は、単なる染色や刺繍で描かれたものではない。鎌の刃の部分は黒と白の羅紗を接ぎ合わせ、地の緋羅紗に嵌め込む「切嵌(きりはめ)」という技法で、そして柄の部分は、地の布の上に別の布を縫い付ける「切付(きりつけ)」、現代でいうアップリケに近い技法で表現されている 4 。これらの技法は非常に高度な技術と手間を要し、それ自体がこの作品の格式の高さを物語っている。
この違鎌紋が持つ意味は、多層的である。まず最も直接的な解釈は、尚武的な意味合いである。鎌は草木を「刈り」「薙ぎ払う」ための道具であり、それを紋様とすることは、戦場において敵兵を薙ぎ倒す、自らの武威や武勇を誇示する意図があったと考えられる 9 。巨大な鎌を背負う姿は、敵に対して強烈な威圧感を与え、味方の士気を鼓舞する効果を狙ったものであろう。しかし、この紋様の意味はそれだけに留まらない。後述するように、鎌は諏訪明神の神器でもあり、そこには深い信仰的な意味が込められていたのである 9 。
この陣羽織の魅力は、大胆な全体構成のみならず、細部にまで施された意匠の豊かさにある。それらは所有者の美意識と、戦場に臨む切実な願いを物語っている。
まず、違鎌紋の柄の部分に注目すると、赤い羅紗でハート形に似た文様が切り嵌めされているのがわかる 7 。これは現代人の目には愛らしく映るが、日本では古来「猪目(いのめ)」と呼ばれる文様である 8 。猪の目をかたどったとされるこの文様は、魔除けや火除けの力があると信じられ、神社の建築装飾や武具などに広く用いられてきた。可愛らしい見た目とは裏腹に、所有者の身を災厄から守るという、呪術的な意味が込められた意匠なのである。
次に、前身頃に目を移すと、合わせの部分の縁取りと、それを留める胸紐が、全体として神社の入り口である「鳥居」の形を象っていることがわかる 5 。戦場という、日常から切り離され、常に死と隣り合わせの空間において、神域への入り口である鳥居を身にまとうことは、神の加護を常に得ていたいという、武将の切実な祈りの表出と解釈できる。
そして、この陣羽織に込められた祈りの極めつけは、普段は決して人目に触れることのない裏地に隠されている。裏地の背中の中央、違鎌紋のちょうど裏側にあたる部分に、萌葱色(もえぎいろ)と花色(はないろ)の美しい絹糸で、丸に囲まれた「永」の一文字が大きく刺繍されているのである 5 。これは言うまでもなく、「命が永らえるように」という、長寿への極めて直接的な祈願である。この刺繍は、桃山時代の能装束などにも見られる「渡し繍(わたしぬい)」という技法で巧みに施されており、技術的な面でも注目される 5 。豪壮な表の意匠とは対照的に、内に秘められたこの一文字は、天下分け目の決戦に臨む若き武将の、偽らざる心境を静かに物語っている。
この一領の陣羽織は、単なる戦闘服や権威の象徴に留まらない。それは、小早川秀秋という一人の武将の、多層的な自己表現の媒体として機能していた。表地の猩々緋羅紗や巨大な違鎌紋、南蛮渡来の先進的な仕立ては、流行の最先端をいく裕福で強力な武将としての「公的なペルソナ」を戦場で誇示するための、視覚的な戦略である 4 。一方で、猪目、鳥居形、そして裏地の「永」の字といった細部の意匠は、死と隣り合わせの極限状況における、神仏への加護や長寿といった、極めて「私的な願い」の吐露に他ならない 8 。この、外的(パブリック)な自己顕示と、内的(プライベート)な祈願という、二つの異なるベクトルが一つの衣服の中に同居している点こそ、この陣羽織の最も興味深い点である。豪壮なデザインの裏に隠された繊細な祈りの数々は、虚勢と不安が入り混じった若き武将の複雑な内面を浮き彫りにする、心理的な記録文書とも言えるのである。
この比類なき陣羽織を所用したとされる人物、小早川秀秋(1582-1602)とは、一体どのような武将だったのか。彼の生涯を辿ることは、この陣羽織に込められた意味をより深く理解する上で不可欠である。
小早川秀秋は、豊臣秀吉の正室・高台院(北政所)の兄、木下家定の五男として生まれた。幼少期に叔父である秀吉の養子となり、「羽柴秀俊」と名乗る 7 。一時は豊臣家の後継者と目されたが、秀吉に実子・秀頼が誕生するとその立場は微妙なものとなり、やがて中国地方の太守であり、毛利元就の三男でもある智将・小早川隆景の養子に出されることになった 7 。これにより彼は「小早川秀秋」と名乗り、豊臣一門でありながら毛利家の分家を継ぐという、複雑な立場に置かれることとなった。
彼の名が歴史上、不朽のものとなったのは、慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いにおいてである。当初、彼は石田三成率いる西軍の有力武将として、松尾山に1万5千の大軍を率いて布陣した 8 。しかし、戦闘が最も激しくなった局面で、彼は突如として東軍の徳川家康に寝返り、眼下で奮戦していた西軍の大谷吉継隊に襲いかかった。この秀秋の裏切りが決定打となり、戦況は一気に東軍有利に傾き、家康に天下分け目の勝利をもたらしたのである。
この決断は、後世において彼に「裏切り者」という不名誉な評価を与えることになった。しかし、その背景には、秀吉存命中の冷遇に対する不満や、家康からの執拗な調略、そして黒田長政や家臣の平岡頼勝、稲葉正成といった側近たちの強い進言など、様々な要因が複雑に絡み合っていたとされる 13 。いずれにせよ、この若干19歳の若武者の決断が、日本の歴史を大きく動かしたことは紛れもない事実である。
ここで一つの大きな疑問が浮かび上がる。なぜ秀秋は、この陣羽織や自身の旗印に「違鎌紋」を用いたのか。彼が継いだ小早川家の本来の家紋は、「左三つ巴」であった 14 。巴紋は、水の渦巻く様や武具の「鞆(とも)」を象ったものとされ、武神である八幡神の神紋としても知られる、武家に広く用いられた由緒正しい紋である。
にもかかわらず、秀秋は小早川家の伝統的な家紋ではなく、個人的な紋として「違い鎌」を大々的に使用した 11 。この行為は、単なるデザインの好みに留まらない、彼の心理状態を反映した重要な選択であったと考えられる。養子として継いだ家の伝統よりも、自身の武威や個人的な信条を優先させるという姿勢は、強い自己主張の表れに他ならない。
鮮烈な猩々緋の地に、巨大な鎌を背負うという出で立ちは、当時の美意識の中でも特に派手で奇抜なものであった。このような装いは、既成の秩序や常識にとらわれず、自身の才気や力量を派手な振る舞いや服装で表現する「傾奇者(かぶきもの)」の精神に通じるものがある 11 。秀吉の養子、そして毛利一門の名家の当主という重圧の中で、彼が自らの存在を確立しようともがいていた様が、この異様なまでの自己主張に満ちた陣羽織から窺えるのである。
秀秋が小早川家の伝統的な「三つ巴紋」ではなく、個人的な「違鎌紋」を公的な場で使用したという事実は、彼の複雑な立場とアイデンティティの模索を象徴している。「羽柴家の養子」「小早川家の後継者」という立場は、彼自身が選び取ったものではなく、周囲の政治的都合によって与えられた役割であった。「三つ巴紋」は、この「与えられたアイデンティティ」の象徴と見なすことができる。それに対し、「違鎌紋」は彼自身が選び、積極的に用いた紋であり、他者から規定された役割から脱却し、「小早川秀秋」という一人の独立した武将としての自己を定義しようとする、強い意志の表れと解釈できるのである。
この紋の選択は、彼の生涯最大の決断である関ヶ原での寝返りと、驚くほど軌を一にしている。西軍(豊臣方)に属するという、秀吉との関係性から規定された「与えられた立場」を捨て、東軍(徳川方)につくという「自ら選択した道」へと進んだ彼の行動。陣羽織における紋の選択は、この人生の岐路における政治的決断の、いわば精神的な表明、あるいは予行演習であったのかもしれない。
小早川秀秋が「違鎌紋」を選んだ理由は、単なる武勇の誇示やアイデンティティの表明に留まらない。その根底には、当時の武士階級に深く浸透していた「諏訪信仰」という、より深遠な宗教的背景が存在する。
長野県の諏訪湖周辺に鎮座する諏訪大社を中心とする諏訪信仰は、日本で最も古い信仰の一つである。元来は風や水、狩猟などを司る自然神であったが、鎌倉時代に入ると、坂東武者たちの間で特に軍神・武神としての性格が強調され、篤い信仰を集めるようになった 18 。源氏をはじめとする多くの武家が守護神として崇敬し、その信仰は鎌倉幕府の御家人などを通じて全国へと伝播していった 18 。戦国時代においても、武田信玄が諏訪明神を篤く信仰したことは有名であり、多くの武将が戦勝祈願や武運長久を願って諏訪明神に帰依していた。秀秋が個人的な守護神として諏訪明神を崇敬し、その加護を求めたとしても、何ら不思議なことではない。
諏訪信仰と鎌との結びつきは、極めて強固である。諏訪大社において、鎌、特に「薙鎌(なぎかま)」と呼ばれる独特の形状をした鎌は、単なる祭具ではなく、諏訪明神の御神体そのもの、あるいは神の力が宿る神器として神聖視されてきた 12 。
この薙鎌は、様々な呪術的・信仰的な意味合いを持っている。例えば、7年に一度の御柱祭では、山から切り出す神木に薙鎌を打ち込むことで、その木が神の依り代であることを示す 21 。また、その名が「薙ぐ」ことから、風を鎮める(「薙ぐ」が「凪ぐ」に通じる)、あるいは諸々の災厄や悪霊を薙ぎ祓う魔除けの力があると信じられてきた 22 。さらに、諏訪信仰が古代の製鉄技術を持つ集団の信仰と深く結びついているという説もあり、鉄製品である鎌は、単なる農具や武器を超えた、神聖な力を宿す霊的な器物と見なされていたのである 22 。
したがって、鎌の紋様を身にまとうことは、これらの諏訪明神の強力な神威を借り受け、その加護を一身に集めようとする行為に他ならない。秀秋が背負った「違鎌紋」は、敵を薙ぎ倒すという尚武的な意味と、諏訪明神への信仰という二重の意味が込められた、極めて強力なシンボルであった 9 。
この信仰の側面を考慮すると、秀秋が違鎌紋を選んだ最も深い理由は、個人的な武勇の誇示という次元を超えた、神への切実な祈願であった可能性が浮かび上がってくる。関ヶ原の戦いは、秀秋にとってまさに人生最大の賭けであった。松尾山に布陣した彼が対峙したのは、西軍最強と謳われた猛将・大谷吉継の精鋭部隊である。もし寝返りが成功しなければ、西軍からは裏切り者として、東軍からは敵として討伐されるという、絶体絶命の窮地に立たされていた。
このような極限状況において、人間的な知略や兵力だけでなく、人知を超えた神の力にすがりたいと願うのは、ごく自然な心理であろう。武神として絶大な威名を誇る諏訪明神の象徴である「鎌」を、陣羽織という最も目立つ形で背負うこと。それは、神そのものを自らの背後に降ろし、その圧倒的な神威をもって眼下の敵を薙ぎ払ってもらおうという、究極の「願掛け」であったと考えられる。この陣羽織は、秀秋にとって単なる衣服ではなく、神を背負って戦場に臨むための「動く祭壇」のような役割を果たしていたのかもしれない。背中に大きく描かれた違鎌紋は、彼の信仰心の深さと、彼が置かれていた状況のあまりの過酷さを、何よりも雄弁に物語る証拠と言えるだろう。
この一領の陣羽織を、小早川秀秋個人の所有物という視点から、より広い戦国・安土桃山時代という大きな文脈の中に位置づけてみよう。他の武将たちの陣羽織と比較し、その後の伝来の謎に迫ることで、その歴史的意義はさらに深まる。
陣羽織は、室町時代末期に登場した、甲冑の上からまとう上着である 10 。当初は「具足羽織(ぐそくばおり)」や「陣胴服(じんどうぶく)」などと呼ばれ、甲冑を雨風や寒さから守るという実用的な目的が主であった 10 。しかし、戦乱が激化し、大名たちが大軍を率いるようになると、陣羽織は単なる実用品に留まらず、戦場で自らの存在を際立たせ、軍団の統率者としての権威と財力を誇示するための、重要な表象装置としての側面を強めていった 10 。
その形態も時代と共に変化し、当初は袖があったものが、より軽快で動きやすい袖無しの形が主流となっていった 10 。また、騎乗や抜刀の邪魔にならないよう、背中の中央にスリットを入れた「背割羽織(せわればおり)」も登場した 27 。秀秋の陣羽織は、この袖無し・背割れのある、機能性と装飾性が両立した、安土桃山時代における陣羽織の一つの完成形を示している。
秀秋の陣羽織に見られる、羅紗という舶来素材の使用、大胆な意匠、そして鮮烈な色彩は、彼一人の特異な趣味ではなく、安土桃山時代の武将たちに共通する美意識の現れであった 10 。
革新の象徴であった織田信長は、西洋のマントを思わせる陣羽織や、黒い鳥の羽毛を一枚一枚貼り付けて自身の家紋である揚羽蝶を描き出した「黒鳥毛揚羽蝶紋陣羽織」など、既成概念にとらわれない異国趣味の強いものを好んだと伝えられる 26 。
信長の後を継いだ豊臣秀吉は、その出自の低さもあってか、より一層、富と権力を誇示する豪華絢爛なものを求めた。富士山が噴火する様をダイナミックに描いた陣羽織や、インドやペルシャから舶載されたであろう、ライオンと豹が戦う文様の壁掛(タペストリー)を贅沢に仕立て直した「鳥獣文様綴織陣羽織」などが現存しており、天下人としての圧倒的な権勢を物語っている 27 。
これらの信長や秀吉の陣羽織と比較することで、秀秋の陣羽織の位置づけがより明確になる。舶来の高級素材である羅紗を用い、巨大な紋様を配すという大胆なデザインは、信長や秀吉とも共通する、この時代の流行の最先端を行くものであった。しかし、信長が合理性と革新性を、秀吉が富と権力を象徴する意匠を選んだのに対し、秀秋の陣羽織の意匠の根幹には、違鎌紋に象徴される極めて個人的な信仰が置かれている。この点に、他の天下人たちとは異なる、秀秋独自の性格と、彼が置かれた切実な状況が浮き彫りになっていると言えよう。
この陣羽織が辿った歴史を考える上で、避けて通れないのがその伝来の経緯である。各資料は本品を「伝小早川秀秋所用」と記しているが 2 、秀秋の死後、どのようなルートを経て今日の東京国立博物館に収蔵されるに至ったのかを直接的に示す一次史料は、現在のところ確認されていない。
関ヶ原の戦功により、備前・美作にまたがる岡山藩51万石の大名となった秀秋であったが、その栄華は長くは続かなかった。慶長7年(1602年)、彼はわずか21歳(満年齢)で急死する。嗣子がいなかったため、名門小早川家はここに改易、すなわち断絶となった 32 。
主を失った岡山城に残された膨大な武具や美術品、財産は、幕府の管理下に置かれた後、散逸したと考えられる。特に刀剣類は価値が高く、秀秋が所持していた名刀「波遊ぎ兼光」や「岡山藤四郎」などが、徳川家や他の大名家に渡った記録が残っている 34 。この陣羽織もまた、そうした遺品の一つとして、歴史の波間を漂うことになった。
ここで、一つの蓋然性の高い伝来ルートを推論することができる。秀秋の死後、その旧領である備前岡山には、関ヶ原の戦功により池田輝政の次男・忠継が入封した。近世大名家において、前領主の象徴的な武具や美術品が、城の明け渡しと共に後継の大名家へ引き継がれることは、決して珍しいことではなかった。特に、このような美術的・歴史的価値の高い品であれば、なおさらである。姫路、鳥取、岡山を領した大大名である池田家は、文化財の収集と保存に熱心であったことでも知られており、東京国立博物館には、国宝「太刀 銘 長光(池田家伝来)」をはじめとする、池田家伝来の名品が数多く収蔵されている 36 。
これらの状況証拠を積み上げると、一つの合理的な推論が成り立つ。すなわち、岡山城にあったこの陣羽織は、小早川家の改易後、後継領主となった池田家に引き継がれ、同家で幕末まで大切に保管された。そして近代に入り、旧大名家が所蔵品を整理する過程で、池田家から東京国立博物館、あるいはその前身組織へと収蔵されたのではないか。この「小早川家 → 池田家 → 東京国立博物館」というルートは、直接的な証拠こそないものの、現存する断片的な情報と歴史的慣習から導き出される、最も蓋然性の高い伝来経路である。この推論は、単に「伝来不明」という事実の壁の前で思考を停止させるのではなく、歴史の空白を論理的に埋め、この類稀なる陣羽織が辿ったであろう数奇な運命に思いを馳せることを可能にするのである。
本報告書で詳述してきた「猩々緋羅紗地違鎌模様陣羽織」は、その分析を通じて、それが単なる一人の武将の美しい衣服ではないことを明らかにした。この一領は、安土桃山という激動の時代を映し出す、多層的な意味を内包した歴史の結晶体である。
そこにはまず、南蛮貿易によってもたらされた羅紗や西欧の裁断技術に象徴される、当時の日本の「国際性」が織り込まれている。同時に、信長や秀吉とも共通する、旧来の美意識を打ち破る豪壮で華麗な「桃山文化の精神」が色濃く反映されている。
さらに深く探れば、違鎌紋という意匠の背後には、武士階級に深く根差した「諏訪信仰」という宗教的世界が広がっていた。それは、この陣羽織が単なる自己顕示の道具ではなく、神の加護を願う切実な祈りの器であったことを示している。
そして何よりも、この陣羽織は、その所有者であった小早川秀秋という、歴史の大きな転換点に翻弄された若き武将の、野心と不安、虚勢と信仰が入り混じった「複雑な内面」を映し出している。
政治、経済、文化、宗教、そして個人の心理。この一領の陣羽織は、これらすべてが交差する「歴史の交差点」そのものである。文字記録だけでは窺い知ることのできない、戦国という時代の熱気、美意識、そして人々の息遣いまでもを現代に伝える、極めて雄弁な歴史資料として、今後も我々に多くのことを語りかけてくれるに違いない。