信長が謙信に贈った金小札色々威胴丸は、金箔と四色威の豪華甲冑。胴と袖が分蔵され、戦国外交と明治の流転を物語る歴史的逸品。
戦国時代の数多の甲冑の中でも、織田信長から上杉謙信へ贈られたという比類なき伝来を持つ「金小札色々威胴丸(きんこざねいろいろおどしどうまる)」は、戦国史に関心を持つ者にとって特別な響きを持つ存在である。本品は単なる武具ではなく、天下布武を掲げた信長と、越後の龍と謳われた謙信という、二人の英雄が繰り広げた激動の歴史の象徴として認識されている 1 。
しかし、この名高い甲冑は、完全な姿で現存していない。胴体部分は東京都品川区の西光寺に、そして一対であったはずの大袖(おおそで)は、遠く離れた山形県米沢市の上杉神社に、それぞれ別々に所蔵されている 2 。この物理的な断絶は、贈答という華やかな歴史の裏に隠された、もう一つの物語、すなわち流転と散逸の歴史の存在を示唆している。なぜ、一揃いであったはずの名品は引き裂かれ、別々の場所で四世紀以上の時を過ごすことになったのか。
本報告書は、この「金小札色々威胴丸」を、工芸技術、政治外交史、文化財学という三つの視点から複眼的に分析する。そして、この一領の甲冑がなぜ作られ、贈られ、そして最終的になぜ引き裂かれなければならなかったのか、その全貌を徹底的に解明することを目的とする。
この甲冑の胴と大袖は、別々の文化財として指定されており、その公式記録は本品の来歴を紐解く上で重要な出発点となる。
胴(国指定重要文化財): 昭和51年(1976年)6月5日、「金小札色々威胴丸」の名称で国の重要文化財に指定された 4 。所蔵者は東京都品川区大井に所在する西光寺である 3 。文化庁の解説によれば、製作年代は室町時代とされ、金箔押の華麗な製作は戦国武将の趣向をよく示していると高く評価されている 4 。
大袖(山形県指定有形文化財): 胴の指定に先立つこと11年、昭和40年(1965年)4月12日に、「色々威大袖」として山形県の有形文化財に指定されている 2 。所蔵者は上杉謙信を祀る山形県米沢市の上杉神社である 2 。山形県の公式解説では、東京都品川区西光寺に伝わる「金小札色々威胴丸」と一具であったことが明確に記されており、両者が元来一体であったことは公に認められている事実である 2 。
胴と大袖は、直線距離にして約300キロメートルも離れた東京と米沢に分かれて保管されている。この事実は、両者が揃って上杉家から西光寺へ移されたのではないことを強く示唆している。さらに、文化財指定の時期に11年もの開きがある点は、本品が辿った複雑な運命を浮き彫りにする。
大袖が比較的早い段階で県の文化財に指定された背景には、その来歴の明確さがある。上杉家の宝物は、関ヶ原の戦い後の米沢移封以降も同地で大切に管理され続け、その多くが上杉神社の宝物殿「稽照殿」に収蔵された 6 。大袖もその一つとして、上杉家伝来という由緒が疑われることなく、文化財としての価値を認められやすかったと考えられる。
一方で、胴が国の重要文化財に指定されるまでに時間を要した理由は、その来歴に「断絶」の期間があったためと推測される。後述するように、胴は明治時代の混乱期に一度上杉家の手を離れ、古美術市場などを経て、何らかの経緯で西光寺に納められた可能性が高い。そのため、その歴史的・美術的価値が専門家によって再発見され、国による詳細な調査を経て重要文化財に指定されるまでには、より長い時間と手続きが必要であった。この指定時期の差異は、大袖が「家」の歴史を継承したのに対し、胴は一度「市場」の論理に翻弄された後、信仰の対象として新たな安住の地を得たという、異なる歴史を歩んだことの証左と言えるだろう。
本品は、戦国時代末期の美意識と技術の粋を集めた工芸品であり、その細部には時代の精神が色濃く反映されている。
この甲冑の最も大きな特徴は、その名の通り、全面に用いられた「金小札」である。小札とは、鎧を構成する小さな短冊状の板のことで、本品では鉄または革で作られた小札の表面に漆を塗り、その上から金箔を押す「金箔押(きんぱくおし)」という非常に贅沢な技法が用いられている 2 。
金箔の使用は、単なる防錆や補強という実用的な目的を遥かに超え、持ち主の富と権威を視覚的に誇示するための装飾的意図が極めて強い。特に、織田信長や豊臣秀吉が活躍した安土桃山時代は、城郭建築や調度品に至るまで金が多用された、日本史上最も華麗な時代の一つであった 10 。この胴丸は、まさにその時代の気風、すなわち実力でのし上がった戦国武将の豪壮な美意識を体現した作例と言える。
金箔で輝く小札を繋ぎ合わせる威毛(おどしげ)には、紅・萌黄(もえぎ)・白・紫という四色の鮮やかな絹糸が用いられている 2 。通常、三色以上の威糸を用いて段ごとに色を違えて威す(おどす)技法を「色々威」と呼び、単色の威に比べて格段に手間がかかる、非常に装飾性の高い豪華な仕様である 12 。
この色彩の組み合わせは、単なる美観に留まらず、戦場での識別性や、持ち主の趣味・思想を反映する役割も担っていた。興味深いことに、上杉謙信自身も、本品とは別に重要文化財に指定されている「色々威腹巻」を所用していたと伝えられており、当時の武将たちが甲冑の威毛の色やパターンによって自らの個性を表現していたことがわかる 1 。信長は、謙信の好みを把握した上で、最高級の色々威の甲冑を贈ったのかもしれない。
本品の形式は、南北朝時代以降に徒歩戦闘の普及に伴って主流となった「胴丸(どうまる)」である 4 。胴丸は、身体にフィットし動きやすいのが特徴で、戦国時代においても広く用いられた 16 。
しかし、その細部には、旧来の様式から、より実戦的に進化した戦国時代後期の「当世具足(とうせいぐそく)」へと移行する過渡的な特徴が明確に見て取れる 4 。
これらの特徴が混在している点は、単なる様式の変遷として片付けることはできない。むしろ、送り主である織田信長の高度な外交的計算が込められていると解釈すべきである。古式や伝統を重んじることで知られた上杉謙信に対し 13 、敬意の表明として伝統的な胴丸の形式を踏襲する。その一方で、細部には最新の当世具足の要素を大胆に取り入れることで、自らの先進性や技術力、そして時代の変化を主導する者としての自負を暗に示したのである。信長自身、南蛮胴具足のような海外の新しい武具を積極的に取り入れた革新者であった 18 。この甲冑は、伝統と革新を融合させる信長の政治姿勢そのものを体現した、メッセージ性の極めて高い「メディア」として機能したと言えよう。
大袖に残る金具には、鍍金(ときん、金メッキ)が施された菊唐草文様の透彫(すかしぼり)が見られる 2 。菊や唐草は古来より吉祥文様として好まれてきたが、それを極めて精緻な透彫と豪華な鍍金で仕上げる点に、安土桃山時代の爛熟した工芸技術の頂点が見て取れる。一部では、金具に織田家の家紋である「織田木瓜」があしらわれているとの指摘もあるが 20 、公式な文化財情報では確認されておらず、今後の詳細な調査が待たれる点である。これが事実であれば、本品が信長からの贈答品であることを示す決定的な物証となるだろう。
表1:金小札色々威胴丸・大袖 諸元一覧表
項目 |
胴(西光寺蔵) |
大袖(上杉神社蔵) |
文化財指定 |
国指定重要文化財(1976年6月5日) 4 |
山形県指定有形文化財(1965年4月12日) 2 |
時代 |
室町時代(戦国期) 4 |
室町時代 2 |
形式 |
胴丸 4 |
大袖 2 |
小札 |
金箔押小札 4 |
金箔押小札 2 |
威毛 |
紅・萌黄・白・紫の四色による色々威 2 |
胴に同じ 2 |
構造 |
前立挙二段、後立挙四段、草摺十一間五段下り 4 |
笄・金物は鍍金菊唐草の透彫 2 |
特記事項 |
草摺十一間は極めて珍しい形式 17 |
胴と一揃いであったことが明白 2 |
この甲冑が贈られた天正二年(1574年)は、戦国史における大きな転換点であった。前年の天正元年に、信長包囲網の最大の担い手であった武田信玄が西上作戦の途上で病没。これにより信長は窮地を脱したが、武田家の脅威が完全に消え去ったわけではなかった。信長は次なる天下統一の布石として、北陸に強大な勢力を誇る上杉謙信との関係を安定させることが急務であった 22 。
この時期、信長と謙信は、武田家という共通の脅威に対抗するため、元亀三年(1572年)頃から間接的な同盟関係にあったとされ、これは「濃越同盟」と呼ばれる 22 。この「金小札色々威胴丸」の贈答は、この同盟関係をより強固なものにするための、信長側からの積極的な働きかけであった 1 。
信長は、この胴丸と時を同じくして、当代最高の絵師・狩野永徳が描いたとされる「洛中洛外図屏風」なども謙信に贈っている 1 。これらの贈答品は、単なる友好の証という次元を遥かに超えた、高度な外交戦略の道具であった。
そこには、多層的なメッセージが込められていた。まず、「金小札色々威胴丸」という、最高の贅と最新の技術を尽くした武具を贈ることで、信長の圧倒的な軍事力と経済力を誇示する。次に、「洛中洛外図屏風」という、京の都の繁栄を描いた芸術品を贈ることで、自らが京を掌握し、天皇を擁する「天下人」に最も近い存在であることを視覚的にアピールする。
これらを組み合わせて贈ることは、謙信に対し「私と手を組むならば、これほどの富と権威、そして最新の軍事技術を分かち合うことができる」という、極めて強力なメッセージを発信することに他ならない。それは、武力のみならず、文化や経済力をも駆使して天下統一を進める、信長ならではの革新的な外交戦略の現れであった。
しかし、この華やかな贈答によって結ばれた友好関係は、長くは続かなかった。信長の勢力が西日本から北陸へと急速に拡大するにつれ、謙信は信長を自らの最大の脅威と見なすようになる。やがて謙信は、信長と敵対する石山本願寺などと手を結び、濃越同盟は事実上消滅する 25 。
そして天正五年(1577年)、両軍はついに手取川で直接激突し、上杉軍が織田軍に圧勝するという結果に終わる 1 。かつて友好の証として贈られた「金小札色々威胴丸」は、わずか三年後には、敵対する両雄の歴史を刻む、皮肉な運命を辿る遺物となったのである。
謙信の死後、家督を継いだ養子の上杉景勝は、豊臣政権下で会津120万石の大大名となる。しかし、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与したため、戦後、徳川家康によって出羽米沢30万石へと大幅に減移封された 26 。
この際、上杉家は財政的に極度の困窮に陥りながらも、謙信以来の膨大な数の刀剣や甲冑、そして国宝に指定されている「上杉家文書」などの貴重な文化財を米沢へと持ち込み、江戸時代を通じて代々守り伝えた 6 。この「金小札色々威胴丸」も、この時点では当然、胴と大袖が一体のまま、上杉家の蔵に収められていたと考えるのが自然である。
本報告書の核心的な問いである「なぜ胴と大袖は分離したのか」という謎を解く鍵は、明治維新後の動乱期にある。明治四年(1871年)の廃藩置県により、大名は領地と支配者としての地位を失った。上杉家も華族に列せられたものの 31 、多くの旧大名家がそうであったように、急激な社会変革と収入の激減の中で、経済的に困窮したことは想像に難くない 32 。
この時代、財政難を乗り切るために、先祖伝来の刀剣や美術品といった家宝を手放す旧大名家は後を絶たなかった。旧大名家から出品された宝物の売立(オークション)が盛んに行われ、多くの貴重な文化財が古美術市場を通じて国内外に流出していった 33 。
この歴史的背景を踏まえると、「金小札色々威胴丸」の胴と大袖の分離は、明治期の経済的困窮を背景とした、上杉家による家宝の売却プロセスの中で発生したと考えるのが最も蓋然性が高い。その具体的な経緯については、決定的な史料は残されていないものの、いくつかのシナリオが想定できる。
一つは、甲冑の中で最も価値が高く、買い手がつきやすい胴体部分のみを優先的に売却し、付属的な大袖は売却対象から外したという「分割売却説」。もう一つは、上杉家の広大な宝物蔵の中で胴と大袖が別々に保管されており、売却のための目録作成時に胴のみがリストアップされ、大袖は見落とされたか、あるいは意図的に手元に残されたという「保管場所差異説」。あるいは、売却の混乱の中で一揃いであったものが意図せず分離し、胴のみが古美術商などの手に渡り、大袖は奇跡的に上杉家(後の上杉神社)に留まったという「一部散逸説」である。いずれの説が真実に近いかは断定できないが、この甲冑が辿った数奇な運命を合理的に説明するものである。
一方、現在、胴を所蔵する品川の西光寺は、慶長年間(1596-1615)に中興された浄土宗の寺院である 3 。その創建以来の歴史の中に、上杉家や謙信、信長と直接的な関わりを示す記録は見当たらない 3 。これは、胴丸が上杉家から直接西光寺へ譲られたものではないことを示している。
最も自然な流れとして考えられるのは、上杉家から流出した胴丸が、古美術市場を経て複数の所有者の手を渡り、最終的に信仰心の篤い人物、例えば明治以降に財を成した実業家や名士などによって入手され、その人物の菩提寺であった西光寺に寺宝として寄進されたという経緯である。徳川家康が戦勝祈願の御礼として品川神社に宝物を奉納した例に見られるように 38 、有力者が自らの信仰の証として寺社に宝物を寄進することは、古くから続く日本の文化的な慣習である。西光寺は、こうして納められた胴丸を寺宝として大切に保管し続け、昭和の時代にその比類なき文化的価値が再評価され、国の重要文化財指定へと至ったのであろう。
「金小札色々威胴丸」は、その製作において、安土桃山時代の絢爛たる美意識と、戦国末期の機能主義が見事に融合した、甲冑史上の傑作である。金箔と四色の威糸が織りなす華麗な外観は、天下統一を目指す武将の権威を象徴し、一方で十一間草摺などの革新的な構造は、実戦を勝ち抜くための知恵の結晶である。
しかし、本品の価値は、単なる美術工芸品としてのそれに留まらない。本品は、信長と謙信という二人の英雄の間で交わされた高度な外交戦略の道具として贈られ、やがて両者の決裂を物語る遺物となった。その来歴は、戦国時代のダイナミズムそのものを映し出す、極めて重要な「歴史の証人」である。
さらに、その物語は戦国時代で終わらなかった。明治維新という近代日本の大転換期において、旧支配階級であった大名家が直面した苦難の歴史をも、その身に刻んでいる。胴と大袖が、東京と米沢という遠く離れた地に別々に保管されているという現状こそが、この甲冑が辿った四百数十年にわたる数奇な運命を、何よりも雄弁に物語っている。
一領の甲冑は、もはや単なる鉄と革と糸の集合体ではない。それは、時代の精神、英雄たちの駆け引き、そして歴史の大きなうねりの中で翻弄された人々の記憶を内包した、かけがえのない歴史の証人なのである。