村上吉充の「金白檀鉄腹巻」は、金銅覆輪と鉄製小札、段縅が特徴。水軍の機能性と美意識を兼ね備え、白檀は後世のイメージ。
戦国時代の水軍の将、村上吉充が所用したと伝わる「金白檀鉄腹巻」という一領の甲冑。この呼称は、聞く者に豪奢にして堅牢な武具の姿を想起させる。しかしながら、この「金白檀鉄腹腹巻」という名称は、特定の文化財を指す固有名詞として、現存する史料や文化財台帳上には確認されていない。これは、単なる情報の誤りなのだろうか。
本報告書は、この呼称を単なる誤伝として退けるのではなく、複数の歴史的実体が人々の記憶の中で複合的に結びついた「文化的記憶の産物」として捉え、その謎を解き明かすことを目的とする。ご依頼の名称に含まれる「金」「白檀」「色々威」「腹巻」といった各要素は、いずれも戦国期の高位の武将が用いた甲冑に見られる特徴的な技法や形式である 1 。このことは、この呼称が、具体的な一領の甲冑の記憶を核としながらも、同時代の他の名品のイメージを重ね合わせることで形成された可能性を示唆している。
本調査では、まず伝承の主である村上吉充の人物像と、彼が生きた戦国時代の瀬戸内海の状況を明らかにする。次いで、彼に直接関連するとされる現存甲冑、すなわち広島県指定重要文化財「白紫緋糸段縅腹巻」を、その構造、材質、装飾技法に至るまで徹底的に分析する。さらに、ご依頼の名称の鍵となる「金白檀塗」や、類似した意匠を持つ他の「色々威」の名品(特に毛利元就所用と伝わる甲冑)を比較対象として取り上げ、様式や技術の共通点と相違点を検証する。
これらの多角的な分析を通じて、ご依頼の「金白檀鉄腹巻」という概念の全体像を学術的に再構築し、その甲冑が戦国時代の武具として持つ多層的な意味—すなわち、実用的な防具として、所有者の威信を示す美術工芸品として、そして政治的な象徴としての価値—を総合的に論じるものである。
本報告書で扱う村上吉充は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した、因島村上氏の第六代当主である 6 。同名の人物として15世紀後半に活動した三代当主の吉充も存在するが 8 、本件の甲冑伝承に結びつくのは、父を村上尚吉とし、毛利氏の重臣である乃美宗勝の妹を妻に迎えた、戦国後期の吉充である 6 。この婚姻関係は、因島村上氏が毛利氏の勢力圏において、極めて重要な地位を占めていたことを物語っている。
因島村上氏は、天文二十三年(1554年)頃、毛利元就の三男である小早川隆景から向島の一円支配を認められたことを契機として、毛利氏との関係を急速に強化した 11 。以後、彼らは独立した「海賊衆」から、毛利氏という巨大な戦国大名の軍事組織に組み込まれた、水軍の中核部隊へとその性格を変えていく。村上吉充は、この毛利氏配下の水軍の将として、豊前蓑島の合戦や九州攻め、そして彼の名を後世に知らしめることになった第一次木津川口の戦いなど、数々の重要な合戦に参加し、その卓越した海上戦闘能力を遺憾なく発揮したのである 11 。
村上吉充の武歴の中でも特筆すべきは、天正四年(1576年)七月の第一次木津川口の戦いにおける活躍である 12 。この戦いは、織田信長が石山本願寺に対して行った兵糧攻めを打破するため、本願寺からの救援要請に応じた毛利輝元が、水軍による兵糧搬入を計画したことに端を発する 12 。
この作戦の中核を担ったのが、小早川隆景の指揮下にあった村上水軍であった。村上吉充は、能島村上氏の当主・村上武吉らと共に毛利方として出陣し、大阪湾木津川河口で織田方の水軍と激突した 13 。毛利・村上水軍の動員数は約800艘、対する織田水軍は約300艘であったとされ、数においても毛利方が優位にあった 14 。
この海戦の勝敗を決したのが、村上水軍が考案したとされる特殊兵器「焙烙火矢(ほうろくひや)」であった 15 。これは、素焼きの土器に火薬や油を詰めた手投げ式の焼夷弾であり、敵船に接近して投げ込むことで、木造の船体を効果的に炎上させた 12 。揺れる船上から弓で火矢を正確に射ることが困難であるのに対し、焙烙火矢は接近戦において絶大な威力を発揮した 17 。この戦術の前に織田水軍は壊滅的な打撃を受け、毛利方は石山本願寺への兵糧搬入という戦略目標を完全に達成した 12 。この輝かしい勝利は、村上吉充が単なる海の領主ではなく、大名の戦略目標を達成しうる高度な専門技能を持つ武将であったことを証明している 18 。
村上吉充と、その主筋にあたる小早川隆景との関係は、戦国時代における大名と有力国人領主の関係性を理解する上で極めて示唆に富む。村上氏は元来、瀬戸内海の交易路を支配する独立性の高い海賊衆であったが、吉充の時代には、毛利氏という「陸の権力」の軍事組織に不可欠な「海の専門部隊」として組み込まれていた。この関係は、単なる主従関係というよりも、瀬戸内海の制海権を共同で維持するための戦略的パートナーシップの側面を色濃く持っていた。
このような政治的関係性は、しばしば武具の贈答という文化的な行為を通じて象徴的に表現された。次章で詳述する、隆景から吉充の子息へ甲冑が贈られたという伝承は、まさにその典型例である。この贈答は、隆景から村上氏への信頼と評価を示すと同時に、村上氏に対して将来にわたる変わらぬ忠誠を期待する、極めて政治的な意図を含んだ儀礼であったと解釈できる。甲冑という「物」を介して、主従の絆が確認され、強化されたのである。
村上吉充にまつわる甲冑として現存し、ご依頼の「金白檀鉄腹巻」の核となったと考えられるのが、広島県指定重要文化財の「白紫緋糸段縅腹巻」である。本章では、この一領を詳細に分析する。
本甲冑の文化財としての正式名称は「白紫緋糸段縅腹巻 附兜眉庇(しろむらさきひいとだんおどしはらまき つきかぶとまびさし)」であり、昭和三十六年(1961年)十一月一日に広島県の重要文化財に指定された 15 。室町時代末期の作とされ、現在は所有者からの寄託を受け、広島県尾道市の因島水軍城にて常設展示されている 7 。
その来歴として最も広く知られているのが、村上吉充の子息・吉亮(よしすけ)が元服を迎えた際に、主君である小早川隆景から祝いとして贈られたという伝承である 15 。史実として、吉充には実子がおらず、弟である村上亮康の子・吉亮を養子として迎えている 6 。武家社会において、跡継ぎの元服は家の存続に関わる極めて重要な儀式であった。その儀式に際して、主君筋の隆景からこのような壮麗な甲冑が贈られたという事実は、この贈答行為が単なる私的な祝いではなく、毛利家が村上家の家督継承を公に承認し、祝福するという、強い政治的メッセージを含んでいたことを示唆している。この甲冑は、単なる防具や美術品である以上に、毛利家と因島村上家との間の「政治的契約」を物的に具現化した、貴重な歴史資料なのである。
本甲冑は、その名の通り「腹巻」と呼ばれる形式で作られている。腹巻は、胴体をぐるりと巻き、背中の中央で引き合わせて緒で結ぶ構造を持つ 3 。右脇で引き合わせる「胴丸」に比べ、より軽量で着脱が容易であったため、集団での徒歩戦闘が主流となった南北朝時代以降、広く普及した 3 。
特に、村上吉充のような水軍の将にとっては、この腹巻の軽快さと運動性の高さは大きな利点であった。揺れ動く船上での戦闘や、敵船へ乗り移る際の敏捷性を確保するためには、陸戦で用いられるような重厚長大な大鎧は不向きであった 20 。さらに、万が一海中に転落した場合、重い甲冑は着用者の命を奪う致命的な錘となる 17 。伝承において、この腹巻が兜や大袖(肩を守る大きな袖)を伴わない軽快な姿で語られることが多いのも 15 、こうした船上での実用性を最大限に考慮した「水軍仕様」であった可能性を示している。
この腹巻の美術的価値を決定づけているのが、その華麗な装飾技法である。ここにご依頼の名称の源泉を見出すことができる。
威毛(おどしげ):
甲冑の小札(こざね)を繋ぎ合わせる組糸を威毛と呼ぶ。本甲冑では、「白・紫・緋(赤)」の三色の色鮮やかな絹糸を用い、一段ごとに色を替えて威す「段縅(だんおどし)」という技法が採用されている 7。複数の色を用いるこの様式は「色々威(いろいろおどし)」の一種と見なすことができ、ご依頼の名称の「色々」の部分と明確に合致する。これらの色彩には、戦国武将の願いが込められている。赤(緋)は生命力や魔除け 26、白は他の色に染まらないことから来る純粋性や強固な意志 27、そして紫は聖徳太子が定めた冠位十二階で最高位を示す高貴な色とされ 27、これらの組み合わせは、武将の威儀を示すと同時に、戦場での加護を願う験担ぎの意味合いも持っていた。
金具(かなぐ):
ご依頼の名称にある「金」の要素は、本甲冑に用いられている金具装飾にその直接的な由来を見出すことができる。胸板や脇板といった鉄板部分の縁取りには、「金銅覆輪(こんどうふくりん)」が施されている 5。これは、銅製の薄い板に金鍍金(金メッキ)を施したもので、甲冑の輪郭をきらびやかに引き締め、格調を高める効果がある。また、胸元や背中に付けられる装飾的な金具である八双金物には、「出八双枝菊透し金物」という精緻な透かし彫りが施されたものが用いられており 5、これもまた本甲冑の豪奢な印象を強めている。
絵韋(えがわ)と鉄地:
胸板、脇盾、押付板といった主要な板状の部分には、文様を染め付けた鹿革である「絵韋」が張られている。本甲冑では「藻獅子(もじし)の絵韋」が用いられ、小さな桜の花をかたどった「小桜鋲」で留められている 5。甲冑の主体となる小札は鉄製で、防錆と装飾を兼ねて漆が塗られており、これはご依頼の「鉄腹巻」という表現とも一致する。
一方で、本甲冑に関する広島県の文化財資料や関連文献を精査する限り、「白檀塗(びゃくだんぬり)」という漆工技法が用いられたという記述は一切確認できない 5 。白檀塗は、金箔などの上に半透明の漆を塗り重ねる、極めて高度で豪華な技法である。このことから、ご依頼の名称に含まれる「金白檀」という部分は、村上吉充所用のこの腹巻本来の特徴ではなく、次章で述べる別の著名な甲冑のイメージが、伝承の過程で混同・付加されたものと結論付けられる。
村上吉充所用の腹巻の全体像をより深く理解するためには、ご依頼の名称の源泉となったであろう他の名品甲冑と比較検討することが不可欠である。特に「金白檀塗」と、同じく「色々威」で知られる毛利元就所用の腹巻は、重要な比較対象となる。
「金白檀塗」とは、漆工芸における最高級の加飾技法の一つである。その工程は、まず器物の表面に漆で金箔や銀箔、あるいは金粉・銀粉を貼り付け、その上から「透き漆」と呼ばれる飴色の半透明な漆を塗り重ねて仕上げる 4 。これにより、漆の層を通して下地の金銀が奥深く、かつ柔らかな輝きを放つという、独特の美的効果が生まれる 4 。さらに、時を経るごとに上塗りの漆の透明度が増し、下地の輝きがより鮮明になるという経年変化も、この技法の大きな魅力である 4 。
この高度な技法を用いた甲冑も現存しており、それらはいずれも比類なき豪奢さを誇る。
これらの作例が持つ、光を受けて輝く黄金色のイメージこそ、ご依頼の「金白檀」というキーワードの源泉であろう。これらは村上吉充所用の腹巻とは異なる系統に属し、安土桃山時代にかけての、より絢爛豪華な美意識を反映した甲冑群である。
より直接的な比較対象となるのが、村上吉充の主家である毛利家の当主、毛利元就が所用したと伝えられる「色々威腹巻」である。この甲冑は山口県の毛利博物館が所蔵する国指定重要文化財であり、戦国時代の甲冑を代表する名品の一つである 3 。
共通点:
この二領の甲冑には、驚くべき共通点が存在する。最も顕著なのが、甲冑の印象を決定づける威毛の色彩である。元就所用の腹巻もまた、胴の威糸に「紅・白・紫」の三色を用いている 1。これは、村上吉充所用の腹巻と極めて類似した色彩感覚であり、単なる偶然とは考えにくい。この色彩の共通性は、16世紀後半の安芸国を中心とした毛利氏の勢力圏において、支配者層が共有した「地域的な美意識のシグネチャー(特徴)」であった可能性を示唆している。支配者である元就が好んだ色彩様式が、一種のブランドのように、毛利家中の有力武将であった村上氏にも共有されたと考えることは、極めて自然な推論である。甲冑の色が、政治的な同盟関係や文化的影響力を視覚的に表現していたのかもしれない。
相違点:
一方で、両者には明確な相違点も見られる。第一に、格式と完全性である。元就所用のものは、兜、大袖、喉輪(のどわ、喉を守る防具)までが揃った一領であり、より重厚で完全な姿を留めている 34。これは、中国地方一円を支配した覇者である元就と、その配下にある有力な海の領主である吉充という、両者の身分の差を明確に反映していると考えられる。第二に、文化財としての評価も、元就のものが国指定重要文化財であるのに対し、吉充のものは県指定であり、一段上の評価を受けている 20。第三に、細部の技法においても、元就のものは小札に「盛上黒漆塗」を施し、金具廻りに「青鮫皮包」を用いるなど、より手間のかかる豪華な仕様となっている 34。
これらの比較から、村上吉充の腹巻は、毛利家の美意識の系譜に連なりつつも、その身分や役割に応じた独自の姿をしていたことがわかる。
特徴 |
伝・村上吉充所用「白紫緋糸段縅腹巻」 |
伝・毛利元就所用「色々威腹巻」 |
「金白檀塗色々威」甲冑(諸例) |
正式名称 |
白紫緋糸段縅腹巻 |
色々威腹巻 |
金白檀塗色々威腹巻、同壺袖など |
文化財指定 |
広島県指定重要文化財 20 |
国指定重要文化財 34 |
国指定重要文化財など 1 |
所蔵場所 |
因島水軍城(個人蔵・寄託) 7 |
毛利博物館 34 |
柏原美術館、柳川古文書館など 1 |
主な伝承者 |
村上吉充(子・吉亮) 20 |
毛利元就 34 |
不詳、大友氏関連など 33 |
時代 |
室町時代末期 7 |
室町時代末期 34 |
室町時代末期~桃山時代 1 |
威毛 |
白・紫・緋の三色による段縅 20 |
紅・白・紫などによる色々威 34 |
紫・紅・白などによる毛引威 2 |
塗・地鉄 |
鉄地(漆塗) 5 |
盛上黒漆塗本小札 34 |
金箔・銀箔の上に白檀塗 4 |
主な金具装飾 |
金銅覆輪、出八双枝菊透し金物 5 |
鍍金八双金物、青鮫皮包 34 |
鍍金魚々子地唐草文覆輪など 33 |
構造的特徴 |
軽快な腹巻形式。兜・大袖は付属しない伝承 15 。 |
兜・大袖・喉輪を完備した重厚な仕立て 34 。 |
腹巻、壺袖など様々な形式で現存 1 。 |
村上吉充の甲冑を正しく位置づけるためには、戦国時代における「腹巻」という形式そのものが持つ、機能的、社会的な意味を理解する必要がある。
腹巻は、もともと胴の前面と側面のみを守る簡素な「腹当(はらあて)」から発展した形式の甲冑である 3 。当初は、徒歩で戦う下級武士が用いる軽武装であり、騎馬武者の正式な武装であった「大鎧」に比べると、格の低いものと見なされていた 23 。
しかし、南北朝時代以降、合戦の主役が騎馬による一騎討ちから、集団での徒歩戦闘へと移行するにつれて、状況は一変する。大鎧の重厚さよりも、腹巻の軽快さと動きやすさが戦場で重視されるようになり、次第に上級武士、さらには総大将クラスの武将までもが腹巻を着用するようになった 3 。この地位の向上に伴い、腹巻もまた重武装化し、兜や大袖が付属するようになり、威毛も「色々威」に代表されるような、武将の権威を示す華やかなものが流行した 3 。村上吉充や毛利元就の腹巻は、まさにこのようにして格式を高めた、室町時代末期の腹巻の典型例なのである。
戦国時代の武家社会において、甲冑は単なる防具ではなかった。それは、着用者の身分や権威を象徴する、極めて重要な意味を持つ道具であった 37 。特に、主君から家臣へ、あるいは烏帽子親から元服する若者へ甲冑が贈られるという行為は、深い社会的・政治的意味を帯びた儀礼であった。
村上吉充の子・吉亮が小早川隆景から腹巻を拝領したという伝承は、この文脈で理解されるべきである 15 。これは、武家の後継者が一人前と認められる元服の儀式に際し、主君がその前途を祝し、将来の忠勤を期待して名誉の品を贈るという、武家社会の伝統に則った行為である。また、戦功に対する恩賞として、領地や金銀と共に、名誉の象徴である刀剣や甲冑が下賜されることも一般的であった 39 。このように、甲冑の贈答は、主従関係を確認し、家臣団の秩序を維持するための重要な政治的ツールとして機能していたのである。
水軍の将が用いる甲冑は、陸戦を主とする武将のそれとは異なる、特有の機能性が求められた。陸上の合戦とは異なり、海上では常に船が揺れ、足場は狭く不安定である。また、敵船に乗り移る際の白兵戦や、焙烙火矢を投擲するような俊敏な動作も要求される。
このような環境下では、防御力のみを追求した重厚な甲冑は、かえって動きを妨げる足枷となる。村上吉充の腹巻が、格式の高い装飾を施されながらも、軽量で動きやすい腹巻形式を基本としているのは、こうした水軍の戦術的な要求に応えるためであった 20 。その軽快な作りは、瀬戸内海という特殊な戦場で生き抜くための、究極の機能美の表れであったと言えるだろう。
本報告書における多角的な調査の結果、ご依頼の「金白檀鉄腹巻」は、特定の単一の文化財を指す固有名詞ではなく、複数の歴史的事実と美術様式が、人々の記憶の中で複合的に結びついて形成された、極めて興味深い文化的概念であることが明らかになった。その核となるのは、まぎれもなく村上吉充が所用したと伝わる**広島県指定重要文化財「白紫緋糸段縅腹巻」**である。そして、その記憶に、**国指定重要文化財「金白檀塗色々威腹巻」**に代表される豪奢な「金白檀塗」のイメージと、 国指定重要文化財「色々威腹巻」 (伝・毛利元就所用)が持つ「色々威」の華麗さが重ね合わされている。
ご依頼の呼称「金白檀鉄腹巻」を、本調査の結果に基づいて再定義するならば、以下のようになる。
結論として、村上吉充にまつわる一領の甲冑は、瀬戸内海を舞台に「海賊」から大名の専門的水上戦力へと変貌を遂げた武将の生涯と、彼を庇護した戦国大名・毛利氏との政治的力学を雄弁に物語る、第一級の歴史資料である。その甲冑は、船上で戦うための機能性を追求しつつ、主君から下賜されるにふさわしい、当代一流の美意識(精緻な金工、色鮮やかな威毛)を見事に体現している。ご依頼の「金白檀鉄腹巻」という呼称は、その複雑で豊かな歴史的・美術的価値を、一つの言葉で捉えようとした結果、無意識のうちに生み出された、意味深い文化的現象として理解することができるのである。