真田幸村所用と伝わる「鉄地二枚胴具足」は、六紋銭と和製南蛮胴が特徴。製作は幸村没後だが、幸村の英雄化と「真田ブランド」継承の文化的記憶を映す。
大阪城天守閣には、戦国時代の悲劇的英雄として名高い真田幸村(信繁)が所用したと伝わる一領の具足が収蔵されている。通称「鉄地二枚胴具足」として知られるこの甲冑は、籠手の手甲に真田家の家紋である「六紋銭」が明確に打ち出されていることから、幸村との結びつきを強く想起させ、多くの人々の関心を集めてきた 1 。その勇壮な姿は、大坂の陣で徳川家康を追い詰めた「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」の面影を今に伝えるかのように見える。
しかし、この広く知られた伝承とは裏腹に、甲冑史の専門的な見地からこの具足を分析すると、その製作年代は幸村が壮絶な最期を遂げた元和元年(1615年)よりも半世紀以上下った、17世紀後半、すなわち江戸時代前期とするのが定説となっている 2 。この「伝承」と「実像」の間に横たわる約50年以上の時間的隔たりは、単なる誤伝として片付けるべき問題ではない。むしろ、この乖離こそが本具足を歴史的・文化的に読み解く上で最も重要かつ深遠な謎であり、本報告書の探求の中心となる。
なぜ幸村の死後、半世紀も経ってから作られた甲冑が、彼の「遺品」として大切に伝えられてきたのか。この問いは、甲冑を単なる武具としてではなく、人々の記憶や祈りを託す「器」として捉える視点をもたらす。江戸時代に入り、戦国の世が遠くなるにつれて、幸村の武勇伝は講談や軍記物語を通じて語り継がれ、彼は時代を超えた英雄として神格化されていった 3 。平和な時代に生きる人々にとって、失われた戦国の武勇を追憶し、その象徴である幸村を顕彰するためには、その記憶を託す具体的な「モノ」が必要とされたのではないだろうか。本具足の来歴が、大坂の陣の戦没者を弔う寺社が点在する和泉国の尼寺であったという伝承 2 は、この具足が「供養」や「記念碑」としての役割を担っていた可能性を示唆している。
したがって、本報告書ではこの「鉄地二枚胴具足」を、真田幸村という歴史上の人物そのものを直接示す一次史料としてではなく、後世の人々が「幸村をどのように記憶し、語り継いだか」を物語る、より高次の文化史的史料として位置づける。具足そのものの構造や意匠を徹底的に解剖し、それが生み出された歴史的背景と、そこに込められた人々の想いを多角的に分析することで、伝承と実像の狭間に存在するこの類稀なる文化財の真の価値を明らかにすることを目的とする。
本章では、大阪城天守閣所蔵「鉄地二枚胴具足」を構成する各部品を詳細に分析し、その様式と製作技術から、この具足が内包する時代の特徴を明らかにする。
本具足の兜は、頭部を覆う鉢が42枚の鉄板を矧ぎ合わせて(はぎあわせて)作られた「筋兜(すじかぶと)」である 1 。この矧ぎ板の枚数(間数)は、兜の格式や製作に要した手間を示す指標となり、四十二間という数は、実用性と装飾性を兼ね備えた、格式ある兜であることを示している。
兜の様式を決定づける上で特に重要なのが、頸部を防御する𩊱(しころ)の形式である。本具足の𩊱は、全体が緩やかな丸みを帯び、下方がやや内側にすぼまる「饅頭𩊱(まんじゅうじころ)」と呼ばれる形状を呈している。この饅頭𩊱は、江戸時代に入ってから流行した様式であり、戦国期に主流であった、より水平に大きく広がる「笠𩊱(かさじころ)」とは明確に異なる特徴を持つ 4 。この𩊱の形状は、本具足の製作年代を17世紀以降と推定する上で極めて有力な根拠の一つとなる。
兜の顔ともいえる立物(たてもの)には、真田家の象徴である「六紋銭」の前立(まえたて)があしらわれ、この具足と真田家との関連性を強く印象づけている 5 。
顔面を防御する面頬には、口元に植毛による髭が付けられている 1 。これは敵を威嚇する効果を狙ったもので、戦国時代に流行した烈勢頬(れっせいぼお)などにも見られる実戦的な意匠であると同時に、平和な江戸時代においても武威を象徴する装飾的要素として好まれた。
本具足の胴は、その様式を特徴づける最も重要な部分である。これは、16世紀にヨーロッパから伝来した甲冑(プレートアーマー)の影響を受け、日本国内でその形式を模倣して製作された「和製南蛮胴(わせいなんばんどう)」に分類される 1 。
和製南蛮胴の最大の特徴は、胴の正面中央に一本の鋭い稜線(鎬)が縦に通っている点にある 6 。これは、当時戦場で最大の脅威であった鉄砲の弾丸や、槍の穂先を受け流し、逸らすための極めて実用的な工夫であった。同時に、その力強い造形は、着用者の武威を誇示するデザイン的要素としても機能した。
構造的には、胴を前後の二枚の鉄板で構成し、左脇を蝶番(ちょうつがい)で繋ぎ、右脇の引合(ひきあわせ)で緒を結んで着用する「二枚胴」形式である 7 。これは、戦国後期から江戸時代にかけての「当世具足(とうせいぐそく)」において、着脱の容易さと堅牢さを両立させるための最も標準的な構造であった 8 。
腕部を防御する籠手(こて)の手甲(てっこう)部分には、真田家の家紋である「六紋銭」が、打ち出しという技法によって立体的かつ明瞭に表現されている 1 。これが、本具足が「真田幸村所用」と伝承される最大の視覚的根拠となっている。
胴から吊り下げられ大腿部を防御する草摺(くさずり)には、猪の目をかたどったハート型の透かし彫り(猪の目透かし)が施されているとの情報もある 5 。猪の目は、古来より魔除けや武運長久を祈る意匠として武具に多用された。
具足の各部品を繋ぎ合わせる威毛(おどしげ)や、各部を固定する紐には、丈夫で知られる「真田紐」が用いられていた可能性も考えられる 7 。
以上の分析から、この具足は極めて興味深い様式の混淆を示していることがわかる。南蛮胴という形式や六紋銭の家紋は、鉄砲が普及した戦国の世を戦い抜き、大坂の陣で活躍した幸村のイメージに直結する、まさに「戦国時代のアイコン」である。一方で、兜の饅頭𩊱をはじめとする各部の洗練された造形や様式は、明らかに戦乱が終息した後の、平和な江戸時代前期の流行を反映している。これは、製作者(あるいは注文主)が、戦国武将の勇壮な姿を再現しようと試みつつも、無意識のうちに、あるいは意図的に、自身が生きた17世紀後半の洗練された美意識や定型化した技術を取り入れた結果であろう。この具足は、単なる過去の模倣品(復古調)ではなく、過去(戦国)への憧憬と、製作者が生きた現在(江戸)の美意識が融合した、独創的な「ハイブリッド」の創造物なのである。この様式の混淆こそが、本具足の歴史的価値を一層深めているといえる。
第一章での構造分析を踏まえ、本章では、この「鉄地二枚胴具足」がなぜ真田幸村の生きた時代ではなく、彼の死後50年以上が経過した「17世紀後半」の作とされるのか、その論拠を当世具足の変遷と江戸時代の歴史的文脈の中に位置づけて詳述する。
戦国時代に誕生し、主流となった「当世具足」は、その時々の戦闘様式を色濃く反映している。応仁の乱以降、合戦が大規模な集団戦へと移行し、さらに鉄砲が伝来すると、甲冑には従来の騎馬武者の弓射戦を想定した大鎧とは異なる機能性が求められた。すなわち、歩兵による槍働きや鉄砲の攻撃に対応できる高い防御力と、大量動員に応えるための生産性である 11 。その結果、鉄板を組み合わせて作る桶側胴(おけがわどう)や、本具足に見られる南蛮胴といった、堅牢で比較的製作が容易な形式が広く普及した。
しかし、元和偃武(げんなえんぶ)によって戦乱が終息し、泰平の世が訪れると、甲冑の役割は大きく変化する。実戦の道具から、武家の「家格」や「権威」を象徴する儀礼的な武具へとその性格を変えたのである 8 。大名家は参勤交代や城中での儀礼の際に甲冑を着用し、その豪華さや意匠の独自性によって自家の威光を示した。これにより、甲冑には実用性以上に装飾性が求められるようになり、過去の様式美を現代的に再解釈した「復古調」の甲冑が流行するなど、デザインは多様化の一途をたどった 14 。
この具足が17世紀後半の作とされる最大の理由は、その細部に江戸時代特有の様式が顕著に見られるためである。
第一に、前章で詳述した兜の「饅頭𩊱」である。この丸みを帯びた優美なシルエットは、江戸時代に流行した典型的な形式であり、戦国期の実戦的な兜の、より機能性を重視した直線的な造形とは一線を画す 4 。
第二に、胴の洗練された造形である。戦国末期に作られた和製南蛮胴には、実戦での防御力を追求した結果としての武骨さや荒々しさが残るものが多い。しかし、本具足の胴は、鎬の立て方や全体のフォルムが非常に均整の取れた、洗練された板金技術を反映している。これは、戦乱の時代を経て技術が成熟し、より装飾的・定型的な製作が可能となった江戸時代前期以降の特徴と見なすことができる。
第三に、具足全体に見られる金物(かなもの)の意匠や仕上げである。桃山文化の気風を反映した戦国末期の金物が、大胆で豪壮な意匠を特徴とするのに対し、江戸時代の金物はより繊細で定型化された意匠が多くなる 17 。本具足の各部にあしらわれた金物の製作技法や意匠が、江戸時代的な特徴を示している場合、それは年代を特定する強力な補強材料となる。
17世紀後半という時代は、大坂の陣の直接的な記憶を持つ世代が姿を消し、戦国時代の武勇伝が歴史から「物語」へと昇華し始めた時期であった。徳川幕府の治世が安定する中で、人々はかつての動乱の時代に思いを馳せ、特に徳川家康を最後まで苦しめた真田幸村のような武将を英雄として語り継いだ。こうした時代背景の中、大名家では自家の武威や由緒を誇示するために、先祖や著名な武将にちなんだ、趣向を凝らした甲冑を新たに製作する例が見られた。例えば、徳川家康の九男で尾張徳川家の祖である徳川義直が所用したとされる「白糸威二枚胴具足」も、大坂の陣の後に製作された、泰平の世の甲冑である 18 。
この「鉄地二枚胴具足」もまた、そうした時代の潮流の中で生み出されたものと考えられる。特定の人物、あるいは団体が、伝説的英雄となった真田幸村を顕彰し、その武勇を後世に伝えるという明確な意図をもって、当代最高の技術と美意識を結集して製作した、あるいは既存の具足に六紋銭の紋などを加えて改造した可能性が極めて高い。それは、戦場で血に塗れるための道具ではなく、平和な時代に「武」の記憶を祀るための記念碑だったのである。
本具足の物理的な分析がその製作年代を17世紀後半と示す一方で、それにまつわる伝承は一貫して「真田幸村の遺品」として語り継がれてきた。本章では、この伝承の核心である来歴に焦点を当て、なぜ、そしてどのようにしてこの物語が形成されたのかを探る。
本具足が大阪城天守閣に収蔵される以前の来歴として、一貫して語られているのが「真田幸村の遺品として和泉国南部の尼寺に伝来していた」というものである 2 。この伝承こそが、製作年代との矛盾を抱えながらも、この具足を幸村と結びつける強力な物語的装置として機能してきた。
この伝承の信憑性を支える土壌として、まず地理的文脈が挙げられる。和泉国は、大坂夏の陣の主戦場であった天王寺・岡山(現在の大阪市南部)に隣接する地域である。激戦の末に多くの将兵が命を落としたこの地には、戦没者を弔うための寺社が数多く存在し、敗れた豊臣方の武将にまつわる遺品や伝説が、地元の人々によって密かに語り継がれていても何ら不思議ではない 19 。この地理的背景が、「幸村の遺品が近くの寺に残されている」という物語に、一定のリアリティを与えたことは想像に難くない。
大坂の陣の後、徳川の治世が確立する中で、幕府の創業者である家康を最後まで苦しめた真田幸村の存在は、体制側にとって脅威であると同時に、民衆にとっては判官贔屓の対象となった。彼の武勇は「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」として伝説化し、江戸時代を通じて講談や軍記物語の題材として絶大な人気を博した 3 。鹿児島に豊臣秀頼と共に落ち延びたという壮大な生存伝説 21 をはじめ、幸村には数多くの伝説が付随する。
本具足の伝承もまた、こうした幸村の英雄化という大きな文化的潮流の中で形成されたものと考えるのが自然であろう。「尼寺」という場所は、物語に悲劇性と神聖さを付与する上で極めて効果的な舞台装置である。戦に敗れ、非業の死を遂げた英雄の魂を、俗世から離れた尼僧たちが静かに弔い、その遺品を密かに守り伝えてきたという物語は、人々の心を強く惹きつける。こうして、17世紀後半に作られた一領の甲冑は、幸村の英雄譚と結びつくことで、単なる武具を超えた「聖遺物」としての価値を帯びるに至ったのである。
幸村が後世に残した「遺産」は、この具足にまつわる伝説だけではない。彼の娘・阿梅(おうめ)が、大坂の陣で敵方であった伊達政宗の重臣・片倉重長の継室となり、その血脈が仙台藩士「仙台真田家」として幕末まで続いたという、動かしがたい史実が存在する 3 。
ここに、二つの対照的な「記憶の継承」の形を見出すことができる。
この二つの継承の形を比較することで、歴史上の人物の記憶が、いかに多様な形で後世に受け継がれていくかが浮き彫りになる。仙台真田家が伝える歴史が、特定の家系に属する「閉じた記憶」であるとすれば、大阪城の具足がまとう伝説は、その出自の曖昧さゆえに、より多くの人々が共有し、想像力を自由に羽ばたかせることができる「開かれた物語」となった。この具足の伝承が持つある種の不確かさこそが、時代を超えて人々を魅了する物語性を豊かにし、幸村伝説の重要な一翼を担う源泉となったのである。
大阪城天守閣所蔵の「鉄地二枚胴具足」が持つ特異性をより明確にするため、本章では、真田昌幸、信之、信政など、他の真田一門が所用したとされる代表的な甲冑と比較分析を行う。これにより、真田家の甲冑に共通する意匠と、時代や個性を反映した相違点を浮き彫りにする。
比較の対象として、以下の著名な具足を取り上げる。これらは主に長野市の真田宝物館に収蔵されており、真田家の歴史を物語る上で欠かせない一級の資料である。
これらの具足と大阪城の具足の情報を一覧化することで、その様式、時代、意匠の変遷を視覚的に把握することができる。
具足名称 |
伝来(所用者) |
製作推定年代 |
兜の特徴 |
胴の特徴 |
家紋等の意匠 |
現所蔵場所 |
鉄地二枚胴具足 |
真田幸村(伝) |
17世紀後半 |
42間筋兜、饅頭𩊱 |
和製南蛮胴、中央に鎬 |
六紋銭(前立、籠手) |
大阪城天守閣 |
韋包二枚仏胴具足 |
真田昌幸 |
16世紀末 |
突盔形兜、大天衝前立 |
黒漆塗、銀粉で昇梯子を描く |
昇梯子 |
真田宝物館 |
黒糸毛引縅二枚胴具足 |
真田信政 |
17世紀前半 |
唐冠形兜(銀漆塗) |
黒糸毛引威二枚胴 |
唐草文透彫の脇立 |
真田宝物館 |
黒漆塗本小札萌黄糸縅二枚胴具足 |
真田信之 |
17世紀初頭 |
筋兜 |
本小札二枚胴 |
結び雁金、六紋銭 |
真田宝物館 |
この比較分析から浮かび上がるのは、「六紋銭」や「結び雁金」といった家紋が、真田一門のアイデンティティを示す共通の「ブランド・アイコン」として、時代を超えて機能しているという事実である 30 。しかし、そのアイコンをまとう甲冑全体のデザインは、所用者の個性や生きた時代の流行を反映して、著しく多様化している。
昌幸の「昇梯子」は、知略を駆使して戦国の世を渡り歩いた彼の気概を象徴する。信之の正統的な具足は、徳川の世で大名として生きる道を選んだ彼の立場を示す。信政の「唐冠形兜」は、泰平の世における新たな価値観と異国趣味を反映している。そして、大阪城の具足は、そのいずれとも異なり、英雄「真田幸村」の伝説そのものを体現するために生み出された。
このことから、大阪城の具足は、松代藩主家という「本流」で継承された甲冑群とは異なる文脈で、「真田ブランド」を借用し、再構築した特殊な一例であると結論づけられる。それは、血縁による直接的な継承ではなく、物語と記憶によって継承された、もう一つの「真田の甲冑」なのである。
本報告書を通じて、大阪城天守閣が所蔵する「鉄地二枚胴具足」について、多角的な分析を行ってきた。その結果、以下の点が明らかになった。
第一に、本具足は、兜の𩊱の形式(饅頭𩊱)をはじめとする各部の様式論的見地から、真田幸村が没した1615年よりも後、17世紀後半に製作された江戸時代前期の甲冑であると結論づけられる。
第二に、それにもかかわらず、本具足が「幸村所用」として広く伝承されてきた背景には、籠手の六紋銭や鉄砲戦に対応した南蛮胴という形式が、幸村の英雄的なイメージと極めて強く結びついていたことがある。
第三に、この伝承は、江戸時代を通じて幸村が「日本一の兵」として英雄化されていった大きな文化的潮流と、大坂の陣の戦場に隣接する和泉国という地理的背景の中で育まれ、人々の心に深く根付いていったと考えられる。
第四に、真田昌幸や信政といった他の真田一門の甲冑と比較分析した結果、本具足は松代藩主家という本流の甲冑とは一線を画し、「幸村伝説」という特定の物語を体現するために作られた、極めて象徴的な性格を持つ文化財であることが浮き彫りになった。
以上の分析を総合すると、この「鉄地二枚胴具足」は、戦国時代の合戦で実際に使用された「一次史料」ではない。むしろ、戦国という時代が終わり、その記憶が伝説へと昇華していく歴史の転換点において生み出された、「二次的」ではあるが、それゆえに極めて価値の高い文化財である。
それは、一つの甲冑が、製作された時代の技術や美意識を記録するだけでなく、後世の人々が過去に寄せた憧憬、祈り、そして物語といった無形の記憶をもその内に宿すことを示している。この具足は、我々に歴史を「物語る文化財」の存在を教えてくれる。その真の価値は、幸村が実際に着用したか否かという真贋の問題を超え、歴史と記憶が交差する、その深遠な地点にこそ存在するのだ。