馬上筒は戦国時代の騎兵用火縄銃。軽量・短銃身で馬上の取り回しを重視し、複数挺携帯や散弾射撃で運用。伊達政宗の騎馬鉄砲隊で活用され、戦国技術革新の象徴となった。
天文12年(1543年)、種子島に一隻の異国船が漂着したことにより日本にもたらされた鉄砲は、その後の日本の合戦様式を根底から覆す、まさに革命的な兵器であった 1 。従来の合戦における主役は、弓矢や刀槍を駆使する武士であり、特に騎馬武者の突撃は勝敗を決する重要な戦術とされてきた 3 。しかし、鉄砲の登場はこの力学を大きく変容させる。訓練の浅い足軽でも、数を揃えれば熟練の武士を遠距離から殺傷しうるこの新兵器は、急速に全国へと普及し、合戦の主役は個人技から集団による火力へと移行していった。
この戦術的パラダイムシフトの中で、最も大きな影響を受けたのが騎馬武者であった。織田信長が長篠の戦いで用いたとされる鉄砲の三段撃ちと馬防柵の組み合わせは、その象徴である 3 。堅固な防御陣地から放たれる圧倒的な弾幕の前に、戦国最強と謳われた武田の騎馬隊もその突撃力を著しく削がれた。これにより、伝統的な騎馬突撃戦術は相対的にその価値を低下させ、騎馬武者は戦場における自らの存在意義を問い直される事態に直面する。
この大きな時代のうねりの中で、騎馬武者という伝統的エリート階級が、自らの戦場での優位性を維持し、存在意義を再定義しようとする適応と葛藤の象徴として生まれたのが、本報告書の主題である「馬上筒」である。それは単なる新兵器の開発という技術的側面に留まらず、鉄砲足軽という新たな兵科の台頭に対し、騎馬武者がその機動力と火器の破壊力を融合させることで、新たな戦術的価値を能動的に模索した試みであった。本報告書では、この戦国時代の特殊な騎兵火器「馬上筒」について、その定義、構造、運用、戦術的意義、そして文化的側面に至るまで、あらゆる角度から詳細かつ徹底的に分析・考察を行う。
馬上筒とは、その名の通り「馬上で扱うこと」を主目的として開発された火縄銃の一種である。利用者様がご存知の通り、「馬上で弾をこめて撃てるように火縄銃を改造したもの」という基本認識は正しいが、その内実をより正確に捉える必要がある。具体的には、騎兵銃として、不安定な馬上で扱いやすいように、通常の歩兵用火縄銃(中筒など)に比べて銃身を大幅に短縮し、各部品の軽量化を図ったものである 5 。
ここで極めて重要な点は、馬上筒が基本的に 両手で操作する銃 であったという事実である 7 。後代、特に泰平の世となった江戸時代に護身用として普及する、片手で扱う「短筒(たんづつ)」とは、その運用思想と構造において明確に区別される 7 。馬上筒はあくまで騎馬武者が戦場で用いるための「戦闘用騎兵銃(カービン)」であり、短筒はより拳銃(ピストル)に近い性格を持つ。この区別は、馬上筒の戦術的役割を理解する上で不可欠な前提となる。
馬上筒の具体的な姿を理解するため、現存する作例の仕様を分析する。個体差はあるものの、共通する設計思想が見て取れる。
これらのデータから、馬上筒の全長はおおむね40cmから50cm台、口径は1.3cmから1.8cm(三匁玉前後)が一般的であったと推定される。特に注目すべきはその重量であり、通常の火縄銃が2kgから3kg程度であったのに対し 13 、1kgを切る作例が存在することは、馬上での操作性向上という目的のために、徹底した軽量化が図られていたことを物語っている。
馬上筒の仕様に見られる「短銃身化」と「軽量化」は、単なる小型化ではない。これは「命中精度」と「射程距離」という火器の根幹性能をある程度犠牲にしてでも、「馬上での取り回しの容易さ」と「携帯性」を最優先するという、明確な設計思想の表れである。銃は物理的原則として、銃身が長いほど弾道が安定し、命中精度と射程が向上する 7 。馬上筒はこの原則にあえて背を向け、銃身を切り詰めている。その目的は、絶えず揺れ動く馬上で銃を構え、操作する際の身体的負担を極限まで軽減することにあった 9 。この設計思想は、必然的に命中精度の低下という代償を伴うものであり 15 、馬上筒が精密な狙撃を目的とした武器ではなく、近距離における制圧や威嚇を主眼に置いた特殊な兵器であったことを示唆している。この性能上のトレードオフこそが、後に詳述する「塵砲撃ち」のような独特の運用戦術を生み出す直接的な原因となったのである。
所蔵元/名称 |
銘 |
時代 |
全長 (cm) |
銃身長 (cm) |
口径 (cm) |
重量 (kg) |
カラクリ形式 |
備考 |
出典 |
松本城収蔵品 |
無銘 |
- |
51.4 |
27.9 |
1.39 |
0.7 |
- |
赤羽コレクション |
10 |
刀剣ワールド財団所蔵品 |
無銘 |
戦国時代 |
37.7 |
21.3 |
1.8 |
- |
内カラクリ |
実戦向きの稀少な戦国期の作例 |
12 |
- |
巻張出来助右衛門正優作 |
江戸時代 |
51.8 |
33.3 |
1.3 |
- |
- |
紀州筒 |
11 |
千葉県立関宿城博物館所蔵品 |
摂州境住滝田七左衛門作 |
江戸時代 |
- |
- |
- |
- |
- |
金銀象嵌の華麗な装飾 |
16 |
戦国時代に製作された馬上筒は、現存する作例が極めて少なく、非常に希少な存在である 12 。江戸時代に入ってから護身用や儀礼用として多様な「短筒」が作られるようになったのとは対照的に、戦乱の時代であった戦国期にこれほど小型の銃が製作されたこと自体が、特筆に値する 9 。
その希少性の背景には、いくつかの要因が考えられる。第一に、通常の火縄銃に比べて小型化・軽量化を実現するための高度な加工技術が必要であり、製造コストが高かったこと。第二に、後述する運用上の困難さから、その戦術的有効性が限定的であり、一部の先進的な武将や特殊な部隊を除いて、広範な需要が見込めなかったこと。そして第三に、騎馬武者自体が軍全体に占める割合は決して多くなく、その中でも馬上筒を使いこなせる技量を持つ者はさらに限られていたことなどが挙げられる。これらの理由から、馬上筒は戦国時代の戦場において、決して一般的な兵器ではなく、特定の目的のために作られた「特殊兵器」としての地位に留まったと推察される。
馬上筒の特殊な用途は、その内部構造にも色濃く反映されている。特に、撃発機構である「カラクリ」の選択には、馬上での運用を前提とした明確な意図が見られる。
火縄銃の撃発機構、通称「カラクリ」には、大きく分けて二つの形式が存在する。一つは、撃鉄(火ばさみ)を作動させる松葉ばねが機関部の外側に露出している「外カラクリ」。もう一つは、渦巻状のぜんまい(コイルスプリング)が銃床の内部に格納されている「内カラクリ」である 17 。
構造が単純で製造しやすい外カラクリが一般的であったのに対し、馬上筒、特に実戦を想定したモデルでは、より高度な「内カラクリ」が採用されることがあった 19 。内カラクリは、機構の心臓部であるばねが銃床という名のケースに保護されているため、外部からの衝撃や、戦場で遭遇する雨水、泥、埃といった異物の影響を受けにくい。この特性は、常に揺れ動き、汚損のリスクが高い不安定な馬上で銃を扱う際の信頼性を格段に向上させるものであった。
この「内カラクリ」の採用は、戦国時代の兵器開発における「信頼性」という概念の成熟を示す重要な証左である。単に発射できれば良いという初期段階から、いかなる過酷な状況下でも確実に作動するかという、より高度な要求水準へと技術思想が進化していたことが窺える。馬上で銃を扱うという行為は、地上での使用に比べて銃器に予期せぬ衝撃や汚損を与えるリスクが遥かに高い。外カラクリの松葉ばねは外部に露出しているため、木の枝に引っ掛けたり、落馬の際に破損したり、泥が詰まって作動不良を起こす可能性があった 17 。内カラクリは、これらの外的要因から撃発機構を保護する、いわば現代兵器における「防塵・防滴性能」に近い思想の具現化であった。製造に手間とコストがかかる内カラクリをあえて馬上筒に採用したという事実は 19 、制作者と使用者が、過酷な運用環境下での「確実な作動」を最優先事項の一つとして認識していたことを意味する。これは、戦国期の職人たちが、兵器の用途に応じて最適な技術を選択する、高度な設計能力と問題意識を有していたことを示している。
前述の通り、馬上筒の最も顕著な特徴は短い銃身にある。これは取り回しの良さを追求した結果であるが 6 、同時に弾丸の初速と安定性が低下し、命中精度と射程距離が犠牲になるという二律背反の関係にあった 15 。
銃を支える銃床(台木)の形状もまた、馬上での運用を考慮したものであった。片手で手綱を操りながら、もう一方の手(あるいは両手)で銃を保持し、照準を行うという複雑な動作が求められる。そのため、後代の欧州製ピストルのように手首で保持しやすい急角度の握り(グリップ)ではなく、日本の火縄銃の伝統に則った、比較的直線的で、両手での保持を前提とした形状が主流であった 18 。これにより、射撃時の反動を体全体で受け止め、安定性を確保することが意図されていたと考えられる。
火縄銃を日本で初めて国産化するにあたり、当時の刀鍛冶たちが最も苦心した技術的障壁は、銃身の末端を密閉する「尾栓(びせん)」の製造、すなわち「ネジ」の技術であった 20 。発射時の強烈な爆発圧力に耐え、かつ清掃のために着脱可能でなければならないこの部品は、当時の日本には存在しない未知の技術であった。八板金兵衛をはじめとする初期の職人たちは、見よう見まねと創意工夫の末にこのネジ切り技術を再現し、国産化への道を切り拓いた 2 。
この高度な金属加工技術は、馬上筒のような特殊な銃の製造においても不可欠な基盤であった。銃身を定期的に分解し、内部の火薬残渣を清掃するためには、尾栓を正確に着脱する必要があった 23 。馬上筒の短く、時に肉厚な銃身に、寸分の狂いなく尾栓を適合させる技術は、国友や堺といった一大生産地の職人たちの高い技術水準を物語っている。
馬上筒は、その名の通り騎馬での使用を前提としていたが、その運用は想像を絶する困難を伴った。特に火縄銃の構造的特徴である、煩雑な装填作業が最大の障壁であった。
現代において、専門家や愛好家によって行われた復元実験や検証によれば、 馬が走行している状態での火縄銃の装填は、事実上不可能に近い という結論が出ている 8 。
その具体的な困難点は多岐にわたる。
数少ない絵図史料の中には、騎馬武者が鐙(あぶみ)に銃床の尻を当て、鐙を地面に見立てて装填する様子を描いたものも存在する 8 。しかし、これも馬が完全に静止していることが大前提であり、敵が目前に迫る緊迫した戦場での実現性は著しく低いと言わざるを得ない。
戦国の武将たちは、この乗り越えがたいハードウェア(武器)の制約に対し、ソフトウェア(戦術)の革新で対応しようと試みた。馬上筒の運用法は、まさに「武器の限界」に「人間の工夫」がどう挑んだかを示す好例である。
以上の運用上の困難とそれを克服するための工夫を総合的に勘案すると、馬上筒の最も現実的かつ効果的な運用法は、**「馬の機動力を最大限に活かして敵に接近あるいは離脱し、射撃を行う瞬間だけは馬を停止させ、安定した姿勢で撃つ」**というものであったと考えられる 24 。
これは、馬を純粋な「戦術的移動手段(プラットフォーム)」として割り切り、射撃行為そのものは、可能な限り「安定した足場」を確保して行うという、いわば乗馬歩兵(竜騎兵)に近い運用思想である。馬で駆けながら華麗に撃ち合うという後世の創作物に見られるイメージとは異なり、戦国時代の騎馬鉄砲兵の現実は、より地道で計算されたものであった。この「停止射撃」という原則こそが、馬上筒という兵器が、単体で完結したものではなく、特定の運用思想とセットになって初めて機能する「兵器システム」であったことを示している。
馬上筒は、その特殊な性能と運用上の制約から、戦国時代の合戦において独自の戦術的役割を担うことになった。特に、奥州の雄・伊達政宗による先進的な運用は、その可能性を最大限に引き出した事例として注目される。
伊達政宗は、戦国末期から江戸初期にかけて、当代随一の軍事革新家として知られる。特に慶長19年(1614年)からの大坂の陣において、政宗が率いた伊達軍は、一説には7割近くに達するという、当時の常識を覆す極めて高い鉄砲装備率を誇った 28 。
この鉄砲を重視した軍編成の中核をなしたのが、騎馬隊に火縄銃を持たせた**「騎馬鉄砲隊」**であったと伝わる 30 。その戦術は、「まず騎馬鉄砲隊が敵陣の前に進み出て一斉に射撃を加え、敵がその火力にひるみ、隊列が乱れたところに、後続の槍働きを中心とする主力騎馬隊が突進する」という、組織的な連携を前提としたものであった 30 。これは、前章で考察した「停止しての射撃」を個人技のレベルではなく、部隊単位で組織的に実践する、極めて先進的な戦術であった可能性が高い。
この伊達の騎馬鉄砲隊は、従来の騎兵が担ってきた「突撃による敵陣の粉砕」という役割(衝撃力)とは一線を画す。彼らの任務は、馬の持つ優れた機動力を活かして敵の側面や手薄な箇所に迅速に展開し、予期せぬ方向から火力を投射して敵を撹乱・牽制する**「遊撃部隊(ヒット・アンド・アウェイ部隊)」**としての性格が強かったと考えられる。この運用思想は、日本における「竜騎兵(ドラグーン)」概念の先駆けと評価できる。竜騎兵とは、本来、馬で戦場を迅速に移動し、目的地で下馬して歩兵として戦闘を行う兵科を指す。伊達の部隊が「停止射撃」を基本としていたならば、その本質はまさに竜騎兵そのものである。これは、単に騎兵に鉄砲を持たせたという単純な発想ではなく、「機動力」と「火力」という近代戦術の二大要素をいかに有機的に結合させるかという、高度な戦術的問いに対する、戦国武将なりの一つの回答であった。政宗の試みは、戦国末期における戦術思想の高度化と、近代戦への萌芽を示す重要な事例として位置づけることができる。
馬上筒の登場が騎馬武者の戦術に与えた影響を理解するためには、それ以前の騎馬戦術の変遷を振り返る必要がある。
馬上筒は、この「近接戦闘」が主体となった騎馬戦術の流れの中に、新たな選択肢をもたらした。敵との白兵戦に突入する前の段階で、**「先制攻撃」 や 「牽制射撃」**を行うための有効な手段となったのである。弓に比べて習熟が比較的容易でありながら、その轟音と煙は敵兵だけでなく敵の馬をも威嚇し、混乱させる効果があった。近距離での破壊力と心理的効果において、馬上筒は弓矢にない利点を提供した。
映画や小説といった創作の世界では、両手に持った馬上筒を拳銃のように操り、馬上で華麗な銃撃戦を繰り広げる騎馬武者の姿が描かれることがある。しかし、本報告書で繰り返し分析してきた通り、このようなイメージは、火縄銃の機構的な制約と運用上の物理的な困難さを考慮すると、 戦国時代においては非現実的 であったと断言せざるを得ない。
馬が火縄銃の発砲音に驚きパニックに陥るという説については、訓練によって音に慣れさせることは可能であったとする見解もあり、決定的な障害ではなかったかもしれない 32 。真の問題は、音響効果よりも、装填と照準という物理的な操作の困難さにこそあった。
したがって、「騎馬鉄砲」の実態とは、ダイナミックな騎兵同士の銃撃戦ではなく、馬という移動手段を用いて戦術的優位を確保し、計算された地点で停止して射撃を行う、より静的で合理的な「乗馬歩兵」の戦術に極めて近いものであったと理解することが、歴史的実像に迫る上で不可欠である。
馬上筒のような特殊な兵器は、どのような場所で、どのような人々によって作られ、その技術はどのように伝承されたのであろうか。生産地と技術流派の観点から、その背景を探る。
16世紀半ば以降、日本の鉄砲生産は、特定の地域に集約されていく。中でも、 近江国友 、 和泉堺 、そして 紀伊根来 は、三大生産地としてその名を馳せた 33 。
馬上筒のような、標準品とは異なる特殊な注文品は、これら三大生産地の中でも、特に高度な技術力と顧客の要求に応える柔軟性を持った、堺などの工房で製作された可能性が高い。現存する作例に見られる銘(例:「摂州境住滝田七左衛門作」 16 、「紀州(根来)巻張出来助右衛門正優作」 11 )は、その生産背景を具体的に示している。
鉄砲の普及は、単なる兵器の拡散に留まらず、その射撃技術や運用法を体系化した「砲術」という新たな武術分野を生み出した。稲富流、田宮流、荻野流、中島流など、数多くの流派が勃興し、それぞれが独自の射撃姿勢、照準法、装填術などを伝書や口伝によって伝承した 41 。
では、これらの砲術流派の中に、「騎馬鉄砲術」を専門とするものは存在したのであろうか。史料を検証すると、浅山一伝流のように砲術と槍術を併伝する流派 43 や、武芸諸般を総合的に扱う目録の中に砲術と馬術が並記されている例 42 は散見される。しかし、馬上で鉄砲を扱うことに特化した、独立した専門流派が確立されていたという明確な証拠は、現在のところ乏しい。
この事実は、馬上筒の運用が、武術として体系化され、広く伝授されるほどの一般性や普遍性を持たなかったことを物語っている。武術の「流派」とは、その技術に再現性があり、多くの門人に伝授する価値が見出されたときに初めて成立する。馬上筒の運用は、あまりにも属人的な技量(卓越した馬術と砲術の両立)と、限定的な戦術状況に依存しすぎていた。そのため、一部の武将による「戦場での工夫」や「特定部隊の秘伝」の域を出ず、剣術や槍術のように、誰もが学べる普遍的な「武芸」の階梯にまで昇華されることはなかったと考えられる。それは、馬上筒という兵器の有効性が、極めて特殊な条件下においてのみ発揮される、限定的なものであったことの裏返しでもあった。
馬上筒の歴史的意義と技術的特質をより深く理解するためには、同時代に存在した他の火器と比較し、その性能と役割を相対的に位置づけることが不可欠である。
戦国時代の日本には、用途に応じて様々な種類の火縄銃が存在した。馬上筒は、この多様な火器体系の中で、特異な位置を占めている。
これらの火器と比較すると、馬上筒は「通常の火縄銃」の火力を持ち運びやすくし、「短筒」よりも実戦的な射程と威力を確保するという、両者の中間に位置する「騎兵用カービン銃」としての性格が鮮明になる。
同時代のヨーロッパでは、日本の馬上筒と同じく、騎兵が馬上で扱うための拳銃が開発されていた。その代表格が ホイールロック(歯輪式)ピストル である 45 。両者を比較することで、日本の技術選択の背景にある合理性が浮かび上がる。
火器種別 |
点火方式 |
全長(目安) |
重量(目安) |
有効射程(推定) |
信頼性(天候等) |
コスト(相対) |
主な用途 |
馬上筒 |
火縄式 |
40-55 cm |
0.7-1.5 kg |
30-50 m |
低 (雨に弱い) |
中 |
騎兵による牽制・近接支援 |
通常火縄銃 |
火縄式 |
100-130 cm |
2.5-4.0 kg |
50-100 m |
低 (雨に弱い) |
低 |
歩兵による集団射撃 |
短筒 |
火縄式 |
30-40 cm |
0.5-1.0 kg |
10-20 m |
低 (雨に弱い) |
中~高 |
護身、奇襲 (江戸期) |
ホイールロック式ピストル |
歯輪式 |
40-60 cm |
1.0-2.0 kg |
20-40 m |
中 (火縄より優れる) |
高 |
騎兵による突撃・近接戦闘 |
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣をもって、戦国の世は事実上の終焉を迎える。徳川幕府による泰平の世が訪れると、かつて戦場の主役であった火縄銃、そして馬上筒の運命もまた、大きく変容していくこととなる。
江戸幕府の成立により国内の大規模な戦乱が途絶えると、火縄銃は実戦の道具としての本来の役割を急速に失っていった 49 。武士の戦いは、戦場での殺し合いから、城内での儀礼や警備、あるいは個人の武芸鍛錬へとその姿を変えた。
この時代の流れの中で、馬上筒もまたその性格を大きく変えた。もはや実用的な兵器としてではなく、大名や高位の武士がその権威や家柄の格式を示すための 儀礼的な道具、あるいは美術工芸品 としての価値を強く帯びるようになる。その変化は、現存する江戸時代の馬上筒に顕著に見て取れる。銃身には金や銀を用いた豪華な象嵌で精緻な文様が施され、銃床には漆塗りが施されるなど、職人の技術は性能向上ではなく、もっぱら装飾に向けられるようになった 16 。徳川家の男子の立身出世を記念して製作されたと推測される、三つ葉葵の紋と縁起の良い鯉の滝登りの図様が施された作例などは 50 、馬上筒がもはや武器ではなく、権威と美の象徴へと変容したことを如実に物語っている。
この「過剰な装飾性」は、それが実用兵器ではないことの証であると同時に、戦場で輝く機会を永遠に失った武士階級が、失われた「武」の記憶をその道具に投影し、留めようとした意識の表れとも解釈できる。実戦の機会を奪われた武士たちは、かつての武威の象徴であった武器に美的な価値を付与することで、自らのアイデンティティを泰平の世において維持しようとした。馬上筒は、物理的な武器から、持ち主の社会的地位や文化的教養を示す「記号」へと、その本質を変えていったのである。
戦国の記憶と江戸の美意識をその身に宿した馬上筒は、今日、文化財として各地の博物館や資料館に大切に収蔵・展示されている。これらの貴重な実物資料は、我々にその時代の技術と文化を雄弁に語りかけてくれる。
これらの文化財は、銃刀法とは別の「古式銃砲登録」という制度の下で文化財として保護されており、その歴史的・美術的価値が後世に伝えられている 52 。
本報告書における多角的な分析の結果、戦国時代の特殊兵器「馬上筒」は、決して合戦の主力となる兵器ではなかったものの、特定の戦術的需要に応えるために生み出された、明確な存在意義を持つ**「特殊騎兵火器」**であったと結論付けられる。
その運用には、火縄式という点火機構に起因する、乗り越えがたいほどの困難が伴った。しかし、戦国の武将たちはその限界を前に思考を停止させることなく、「複数挺携帯」や「塵砲撃ち」、「停止射撃」といった戦術的工夫を編み出すことで、ハードウェアの欠点をソフトウェアの革新で補おうとした。その試行錯誤の過程には、旧来の戦術に固執しない、彼らの柔軟かつ合理的な思考様式が見て取れる。
伊達政宗の騎馬鉄砲隊に見られるように、馬上筒は騎兵の役割を「衝撃力」から「機動力と火力の融合」へと転換させる、近代戦術への萌芽を内包していた。それは、火縄式という技術的制約の中で、騎兵の新たな可能性を追求した、 当時の技術水準における一つの極致 であったと言える。
後世の視点から見れば、その役割は限定的であり、一見すると時代の徒花(あだばな)のように映るかもしれない。しかし、鉄砲伝来という未曾有の軍事革命に直面した日本の武士たちが、自らの伝統である騎馬戦術をいかにして新時代に適応させようとしたか、その格闘の歴史を体現した存在として捉えるならば、馬上筒は決して徒花ではない。それは、日本の軍事史において、避けては通れない課題に対する、 必然の産物 であったと再評価すべきである。馬上筒の存在は、戦国という時代が、単なる破壊と混乱の時代ではなく、絶え間ない技術革新と戦術的探求が行われた、創造性に満ちた時代であったことを、今に力強く物語っている。